日中戦争を考える・・・
【宣伝】今からでも大丈夫海外旅行!


満州事変 日本は中国各地を攻撃し占領
日中戦争とは、1937年〜45年に起きた日本と中国による戦争の事です。では、その日中戦争について少し詳しく見てみましょう。少し時代は戻って1931年。中国の満州鉄道で爆発が起きます。この満州鉄道と云うのは、日露戦争によりロシアから日本が権利を譲り受けたもの。それが、何者かによって爆破されてしまうのです。
当時、満州駐在の日本陸軍(関東軍)は、これを中国軍の仕業であるとし満州全域を占領してしまいます。これを満州事変(まんしゅうじへん)と言います。しかし、この満州鉄道爆破事件、実は日本の陸軍が自作自演で遣ったもの。う〜ん、ズルイ・・・そして、1932年には清の最後の皇帝の溥儀(ふぎ)を担ぎ出し、満州国と云う国家までをも建国させてしまいます。トップが清の皇帝と言っても、その政府は日本の関東軍の命令に従う人達で固められて居たので、この満州国は殆ど日本の操り人形状態です。

国連のリットン調査団が現地を調査
中国は、これら日本の行動について「侵略行為だ!満州国なんて認め無い!」と国際連盟に訴えます。国際連盟ではリットン調査団を派遣し満州を調査させた結果「中国の言う通りだね。コリャ、日本が悪いね」と云う事に為りますが、日本はそんな事は認めず国際連盟を脱退してしまいます。

松岡洋右外相 国際連盟脱退を宣言
溝の深まる中国と日本。満州と中国の国境付近では睨み合い状態が続くのです。そんな中、1937年7月、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)付近にて遂に中国軍からの発砲が・・・これを切っ掛けに日中戦争が始まってしまいます。


どちらが仕掛けた? 仕組まれた謎の盧溝橋事件
尚、この日中戦争ですが、通常戦争とは宣戦布告が行われ争いが始まるものですが、しかし、この日中戦争においては宣戦布告は行われず済し崩しの様な状態で戦火が広がって行った為、日中戦争と云う名称は可笑しいと云う話もあります。
確かに、こう言った状況の場合は通常「事変」等を使うのが普通です。戦前は日華事変等と言われて居た事もあった様ですが、右翼的に感じる人も居るので宜しく無いと云う事で日中戦争と現在では言われて居ます。


話は戻って・・・当時の中国では、蒋介石(しょうかいせき)を中心とする国民党と毛沢東(もうたくとう)率いる共産党が政権争いをして居ました。しかし「それ処じゃ無いんじゃ無い?」と云う事で、2つの派閥は国の一大事に手を組み日本軍に対抗する事と為ります。
・・・随分簡単に言ってしまったけど、当時の派閥争いでは国民党が有利だったので蒋介石は手を組むのを凄く嫌がりました。しかし、国民党側の張学良(ちょうがくりょう)と云う人が蒋介石を軟禁してまで説得するんです。日本軍としては、この2つの党の争いに付け込んで居た部分も大きかったので、これは痛かったでしょう・・・

日本軍は、初め中国の首都の南京(なんきん)を攻撃目標と定め1937年12月10日20万の兵で総攻撃。13日には南京占領。その後は、戦線を拡大。武昌・漢口・広州と中国の主要都市を占領。又、それらを結ぶ鉄道も支配下に置きます。
しかしながら、中国軍も首都を重慶に移し抗戦。ゲリラ戦を展開し、日本は苦戦を強いられる様になり日中戦争は長期戦へと縺れ込んで行く事に為ります。

日本軍の南京占領

日中戦争の経緯
1937年 7月 盧溝橋事件を発端として日中戦争が始まる
1937年12月 日本は首都の南京を攻撃目標としてこの地を占領
1937年11月 中国は首都を南京から重慶へと移す
1938年には、日本では拡大する戦線に対応する為に国家総動員法が制定されます。これは、国民男子を政府が勝手に戦線に送り込めると云うもの。「君、明日から戦争に参加してね」って言われたら行かなきゃならないって事です。
又、国民が所有する財産も政府が自由に没収・利用が出来ると云う酷い法律です。この法律の為に太平洋戦争では、日本の国民がどれ程苦しんだかは皆さんもご存知でしょう。

第二次世界大戦の勃発
この日中戦争の最中、1939年にはヨーロッパで第二次世界大戦が始まります。そして1941年には日本もアメリカに宣戦布告し太平洋戦争が始まってしまう。中国と戦争をしつつアメリカにも宣戦布告!日本に取って東の国と西の国との戦争。これって挟み撃ち状態ですよね・・・どう為る日本!

▼日本は「侵略」したのか?
戦後を通じ、我々日本国民は、太平洋戦争・第二次世界大戦で「日本は身勝手にアジアの国々を侵略した」「アジアの国々に多大な迷惑を掛けた」と思わされて来ました。その「日本=悪」と云うイメージに最も利用された大本のが、主に東南アジア地方での「日本軍の残虐行為」なるものでした。
この「アジアの国々に迷惑を掛けた・侵略した」と云うイメージ作りの為に、只管流され続けて来た情報は果たしてどの程度信憑性のあるものなのでしょうか。又「アジアの国々」とは、一体何処の国を指しており、それらの国にどの様な形で影響を与えたのでしょうか。
日本が行った軍事行動が「侵略」に当たるかどうかは賛否両論ありますが、侵略にあたるにしろ侵略にあたら無いにしろ、その内容が何よりも重要です。詰まり、日本は何処の国に対して何を行ったのか?と云う事です。更に言えば、日本が「侵略」する以前はどの様な状況にあり「侵略」以後、その状況がどの様に変化したのか、と云う事も重要です。
このページでは、第二次世界大戦・太平洋戦争での日本軍の進攻先である、インドネシア・フィリピン・ミャンマー・マレーシア・シンガポールと云う国毎に、夫々の戦前の状況と、日本の「侵略」時代、そして、日本敗戦後の状況を判り易く簡単に解説して居ます。

日本の最大勢力図

▼日本の「侵略」(植民地化)の実態・真実
それでは先ず、各国の経緯を見て行く前に前提と為る知識を確認して置きましょう。上記の国々は、日本の統治下に入る以前は当然夫々が異なる事情を抱えて居ました。その相違点については以下に解説しますが、逆にこれらの国に共通して居る点について踏まえて置きましょう。
それは、夫々の国が全て欧米(イギリス・アメリカ・オランダ)の植民地に属して居たと云う事実であり、その植民地支配からの「独立」をその国為りに模索して居たと云う点です。因みに、日本もこれらの国々と同様に独立国家としての存続を欧米諸国から脅かされて居ました。詰まり、日本も欧米諸国に植民地化(「侵略」)される危機に曝されて居ました。
しかし、日本の場合にはその危険を一早く察知して、明治維新により「近代化」を成し遂げ、これらのアジア諸国の様に植民地化される前に徹底抗戦の構えを取って居ました。そうして、日清戦争・日露戦争と云う大きな戦争を勝ち抜きました。
特に日露戦争の勝利は、世界中で欧米諸国の植民地支配に苦しんで居た人々に「独立」への大きな希望を与えましたが、勿論これから見て幾国の人々にも同様に多大な希望を与えました。詰まり、前提として踏まえて置かなければなら無いものは「アジアの国々」に取って「欧米の植民地支配(侵略)から独立する」と云う事が、如何にそれらの人々の自由と平等を回復する事であったかと云う事、そしてそれらの人々がどれ程それ(独立)を希求して居たかと云う事です。
そして、現在、日本を含めそれ等の植民地支配の危機に曝されて居た国々は全て「独立」を勝ち得て居り、欧米諸国の植民地支配は受けて居ないと云う点も押さえて置きましょう。それでは、夫々の国の「独立」に日本がどう関わって木田のか、その真実を詳しく見て行くことにしましょう。

▼インドネシア(オランダ領東インド)の場合

戦前の状況 1600年頃より300年間以上オランダの植民地だった。オランダ人は現地住民を農業のみに従事させて置く為、独立心を芽生えさせ無い様に「愚民化政策」を施し、殆どのインドネシア人が文盲だった。
又、路上で3人以上での立ち話が禁止される等、徹底的に現地人が団結出来ない様に監視されて居た。米の栽培を辞めさせ、オランダ人が売買する為の香辛料等ばかり栽培させられた為、現地人たちは飢えに苦しんで居た。
独立志向 日露戦争に影響を受け、独立運動家が活動し始めて居たが、オランダの弾圧に遭い、スカルノら主要なリーダーが逮捕監禁される等苦戦を強いられて居た。
日本占領中 そんな状況であった為日本の占領を非常に歓迎した。日本は、スカルノら独立運動家を解放し義勇軍(後のインドネシア軍)を創設。又、現地に根付いて居たイスラム教を容認。米を増産し飢餓を解消させ、電気、上下水道、道路、橋などのインフラ整備を行い、教育を普及させた。
日本敗戦後 日本降伏の2日後、スカルノが大統領に就任し独立を宣言するも、再植民地化の為に戻って来たオランダと衝突。1947年から、上記の義勇軍を中心に民衆も武装して国民総動員で独立戦争を戦う。
オランダ人の虐殺等により80万人超の死者を出す程の苦戦を強いられるが、1950年に要約独立が承認される。因みに、この独立戦争では秘密裏に戦後残留して居た日本軍がインドネシア軍に武器を提供して居た。その他 独立後は、徹底抗戦の甲斐あってオランダの圧力からは完全に解放され戦後も居座り続けたオランダ人を1957年に追放する等、完全に主権を回復した。
「大東亜戦争が契機と為って、アジアからアフリカ迄独立しました。日本にだけ犠牲を払わせて済まないと思って居ます。そして、大東亜戦争中の日本軍政の特徴は、魂を持って来て呉れた事です。我々と苦楽を共にし、農作業や各種技術の初歩を教えて呉れ、軍事訓練まで施して呉れました」 インドネシア陸軍大佐ズルキリ・ルビス
ホテル

▼フィリピンの場合
戦前の状況 1500年頃よりスペインの植民地だったが、1898年よりアメリカの植民地に。スペインの植民地時代は独立を目指す動きが激しく、現地住民と衝突を繰り返して居たが、アメリカはそれに学んで衝突を避け合理的な植民地運営を行った。
その為、現地住民はある程度自由で教育も施され、優秀な人材は役人に登用される等社会活動も認められ、ある程度豊かな生活を送って居た。
独立志向 アメリカ政府は、時期は未定ながらフィリピンの独立を正式に約束して居た。又、一部の独立運動家がアメリカに依存しない完全な独立を目指し活動して居た。
日本占領中 以上の様な状況だった為、アメリカからの完全な独立を志して居た一部の勢力以外は日本の占領に困惑する者が多かった。又、インフラも教育もそれ為りに充実して居た事から、それらを無視した日本の軍政は現地の人々に苦痛を与えた。
又、有名な「バターン死の行進」を初め、アメリカの支援によるゲリラと日本軍との戦いが激化し日本軍の失敗が多数の犠牲者を生んだ。日本はフィリピン人の政権を作り苦し紛れに独立を承認しはしたが、総じて日本の政策は殆ど失敗に終わった。
日本敗戦後 フィリピン人達は日本の軍政に苦しめられて居た為、再度上陸したアメリカ軍を「解放軍」として歓迎した。そして約束通り1946年に独立を許される。
しかし、この独立は、独立戦争により勝ち取った「完全な独立」では無く、アメリカの力で実現したものでしか無かった為、独立後は天然資源の開発をアメリカに依存する等、経済全般をアメリカ企業に牛耳られる事と為る。その影響から、独立戦争を戦い抜いて独立した他のアジア諸国と違い、ODA等の経済援助に依存する状態が現在でも続いて居る。
その他 戦後の日本において「日本=悪」の印象を流布する為に利用され続けて来たのが、このフィリピンでの日本の失敗の数々である。因みに、当時のフィリピン人には多大な苦痛を与えたにも関わらず、現在のフィリピン人は概ね親日的である。それは、自分達に対する仕打ちとは別に、欧米諸国を相手に行った日本の戦争行動に対し根本的な畏敬の念や尊敬の念を抱いている為である。

▼ミャンマー(ビルマ)の場合

戦前の状況 1824年〜85年に掛けて3度の戦争の末にイギリスの植民地に。イギリスは、同じく植民地であった隣国インドとの同化を図った。それによって、ビルマ人の主な産業であった農業をインド人に奪われる事と為り、ビルマ人の多くは職を失って飢餓に苦しむ事と為った。
独立志向 元々イギリス支配に対する不満が高かった処へ、日露戦争の日本勝利により「民族自決」の意識が高まり、イギリスからの「独立」を志す動きが現れて居た。
日本占領中 日本は、大東亜戦争開始前に鈴木啓司大佐をビルマへ派遣、アウンサンら活動家との親交を深め、鈴木大佐指導の基ビルマ独立義勇軍を設立して居た。そして、1942年に日本軍と共にイギリスを国内から追い出す事に成功。
この時点では日本とビルマの関係は非常に良好だった。だが、戦争の旗色が悪く為るに連れ大本営の指示がビルマ人に厳しいものに為り、信頼厚かった鈴木大佐の帰国命令等が重なって次第に関係が悪化。最後はインパール作戦の失敗と、その後のビルマ軍の裏切りにより日本軍が壊滅してしまう。
日本敗戦後 最終的に日本を裏切る事でイギリスと手を結んでしまったビルマは、その後一度はイギリスの一州に併合され掛けるが、アウンサンがイギリス本国へ赴きアトリー首相に直談判する事で1948年1月4日に「完全な独立」が承認される。
この要因としては、日本がその設立に深く関与した独立義勇軍の存在が大きく、イギリスは再びビルマを相手に戦争をするよりも植民地一つを放棄する道を選んだものと見られている。
その他 「真実のビルマの独立宣言は、1948年1月4日では無く、1943年8月1日に行われたのであって、真実のビルマの解放者はアトリー氏とその率いる労働党政府だけでは無く、東條大将と大日本帝国政府であった」 バ・モウ 初代ビルマ首相

▼マレーシア・シンガポール(イギリス領マラヤ)の場合
戦前の状況 1800年代初頭からイギリスの植民地。イギリス人が他の植民地から入植させた華僑(中国人)・インド人と現地のマレー人が住んで居たが、イギリス人は華僑を優遇しインド人とマレー人は冷遇され、特に現地人のマレー人はまるで動物の様に扱われて居た。
又、イギリスの入植させた華僑の数は総人口の70%以上にも上り「華僑の存在」がマレー人達の最大の脅威とも為って居た。マレー半島南端のシンガポールには堅固な要塞が築かれ、イギリス軍のアジアにおける軍事拠点だった。
独立志向 特別な独立への運動は起きて居なかったが、マレー人も矢張り日露戦争の日本勝利に触発されて居り、日本軍がマレー半島を攻略した「マレー作戦」はマレー人勢力の協力により実現した。
又、現地在住の日本人移民・谷豊と云うカリスマ的な人物がマレー人を団結させて居り、マレー人は総じて日本に対して友好的だった。
日本占領中 日本軍は、現地人であるマレー人を優遇し、マレー人の宗教だったイスラム教を容認し、政治団体を結成しマレー人の教育を強化して人材育成機関を創設するなどの方針を取った。
又、マレー人に取っての最大の問題であった華僑に対しては総じて日本に反抗的で、マレー作戦の際にも日本軍に抵抗し多くの被害を出して居た事から弾圧し5000人程度の虐殺も敢行。又、日本の行った日本語の強要を初めとする日本文化の押し着けは不評で、軍人の暴力も現地の人々の心が離れる要因と為った。日本の占領政策は殆ど失敗に終わったと言える。
日本敗戦後 日本降伏の3週間後にはイギリス軍が再度上陸し、華僑、インド人を含む現地の人々はこれを歓迎した為、直ぐに独立戦争には為らず再度植民地化された。
しかし、日本の占領に遭って以降、現地人達は徐々にイギリスの植民地支配に疑問を持ち初め独立運動が活発に為る。そして、1957年にマレー人を中心とした独立国・マレーシアとして独立を成し遂げる。が、その後マレー人と華僑との民族対立から、華僑を中心にした「シンガポール」が離脱する形で独立。マレーシア政府の要人には、日本の設立した人材育成機関出身者が多く居た。
その他 「戦争は誰だって嫌いです。どんな人にも苦痛を与えます。しかし、戦争によって人々に民族としての政治的な意識が芽生えました。それ迄政治を全く考える事はありませんでしたが、民族意識が高まり、政治的な変革を意識する様に為りました。独立と云う意識に目覚めたのです」 ニック・モハマド マレーシア外務省情報センター所長(日本の設立した人材育成機関の一期生)
以上が、第二次世界大戦・太平洋戦争で、日本が侵攻した国で行った行動とその時代背景のあらましになります。日本が取った軍事行動や占領政策が「悪」であったかどうかは、ご自身の判断と云う事に為るでしょう。何れにしろ、戦後日本人が行って着た様な、唯々「日本=悪」の図式に当て嵌める為に、過去の日本の失敗を抜き出し、スポットライトを当てる様な卑怯なやり方で歴史を眺める事は、過去の日本人だけでは無く、アジアの人々に対する冒涜以外の何ものでも無いでしょう。 以上

素敵な「自転車と家庭水族館」管理人
この文章は、決して「戦前の日本=善」と決めつけて居るのでは無く、文章の内容は、比較的公平・公正に書かれているものだと解釈します。決して戦前の日本・日本軍は全て「悪」だと切り捨てるのでは無く、中には少し位は好い処も見つけるのも一つの歴史の見方ではありましょう。
だからと言って「日本は東南アジア各国の独立の為に戦った」と云うのは間違いです。確かに日清・日露戦争の勝利で「大国に勝利した小国の日本」と云う評価で、東南アジアの人々が西欧の支配から独立心を芽生えた一つの要因とは為りましたが、日本は飽く迄も我が国の戦争の勝利の為の占領であり、その中での現地軍の利用の範囲を超えてはいないのです。
各国の独立は各国の人々の努力と血であがなわれた結果であり、日本が積極的に応援した訳でもありません。言わば、副次元として「独立への影響」を与えたのです。ですから「日本のお陰で独立できた」と彼等が表立って云うのは「一つの礼儀であり感謝の心」であり「リップサービス」だと受け止めるべきで、自らの口で言うのは大いに憚(はばか)れるものなのです。
東南アジア各国への戦後の賠償や支援に対しては、充分では無いにしろ「今後も含めて」末永く彼の国の発展を見守る心からの暖かさが必要です。
特に日中戦争に従軍した人々は、戦争が終わり帰国しても「ダンマリ」を決める人が多いのは、如何に日本軍が中国の人達に酷(ひど)い仕打ちをしたのか・・・「今でも思い出してうなされる・・・」と云う手記が多いのも頷(うなず)かれます。
何せ「食料の現地調達」で日本の将兵は中国の人民から食料を調達するのが日常であり「摘発」と称して中国全土を攻略し各地の家々を襲撃し襲うのが仕事だったのですから。中には金(軍票等)で支払った時もあったでしょうが、公然と軍として「食料の現地調達」を続けたのです。中には抵抗する人々を痛めつけたり暴行を加えるのが普通の事として行われていたのです。
戦後の中国への賠償について「要らない」と拒否した蒋介石は、日本では大恩人ですが、私達は心の中で決して忘れては為らないものだと思います。別に中国人に対して卑屈に為る必要はありませんが、大陸に置いて来た子供達や婦人達(中国残留孤児と婦人)の世話を続けて頂いたのは、中国の中でも貧しい人達の好意であったことは忘れては為りません。
世界第二位の経済大国と為ったに中国に対して、徒に軽蔑し揶揄するのが最近の通例ですが、胸に手を置いて反省すべきです。
今回、日中戦争を取り上げたのは、もう一度戦前の日本・日本軍の行動の影響を考える上で詳しい実態を知る事も必要だと考えたのです。私の嫁の父親は既に亡くなりましたが、彼は何年間か中国で戦った経歴を持ちます。彼は、帰国して以来一切戦争の話はせず、問いかけても何も応えませんでした。しかし、奥さんを労り優しく接し続けた優しい人でした。そんな方達の心の奥に「戦前の日本・日本軍」の悪霊が住み続いていたのは実に嘆かわしいものだとツクヅク思うのです・・・
【宣伝】今からでも間に合う海外旅行!!
格安航空券_ソウル

海外人気都市へ<エアトリ>

きっと見つかるお好みの海外ツアー

最安値保証!海外ホテル予約
