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2021年05月18日

性欲の強さと関係無く発症する "セックス依存症" の怖さ



 
 仕事やお金を失っても辞められ無い・・・危険な性行為は破綻するまで続く


 性欲の強さと関係無く発症する "セックス依存症" の怖さ


 PRESIDENT Online  2021・5・ 18 発信

 
            5-18-13.jpg
 
           斉藤 章佳 精神保健福祉士・社会福祉士

 大船・榎本クリニック・精神保健福祉部長 1979年生まれ 大学卒業後 アジア最大規模といわれる依存症施設である榎本クリニックにソーシャルワーカーとして約20年にわたってアルコール依存症を中心にギャンブル・薬物・摂食障害・性犯罪・虐待・DV・クレプトマニアなどさまざまアディクション問題に携わる
 その後 2020年から現職 専門は加害者臨床で「性犯罪者の地域トリートメント」に関する実践・研究・啓発活動を行っている 著書に『男が痴漢になる理由』『万引き依存症』(共にイースト・プレス)『小児性愛という病 それは、愛ではない』(ブックマン社)『しくじらない飲み方 酒に逃げずに生きるには』(集英社)最新刊に『セックス依存症』(幻冬舎)がある



 仕事やお金を失っても危険な性行為を辞められ無い人達が居る。長年、依存症問題に関わって来た精神保健福祉士・社会福祉士の斉藤章佳氏「2,000人以上の性依存症の治療に立ち会ったが、性欲が強過ぎてセックス依存症に為った人は殆ど居なかった」と云う。

 本稿は、斉藤章佳『セックス依存症』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。


 「セックス依存症」と云う病名は存在しない

 現時点で臨床現場において「セックス依存症」と云う診断名は存在しません。病院の診察室で医師が「貴女(男)はセックス依存症ですね」と告げる事はあってもそれは正確な診断名ではありません。
 類似の診断名として「性嗜好障害・せいしこうしょうがい」と云う病名があります。これは、性的満足を得る為の手段が偏って居て、一般的な社会通念を逸脱した反復的・強迫的な性行動や衝動を指しています。

 必ずしも犯罪に至る訳では無く、性的ファンタジーや強迫的なマスターベーションに囚(とら)われるケースもあります。そして、その事で生活が破綻する人も多く居ます。性行為に耽溺(たんでき)するケースで云うと、兎に角セックスをしないと落ち着か無い・生活に支障を来したり不利益を被ったりしても尚、危険な性行為を繰り返してしまう事を指します。
 2017年に佐々木希さんがドラマ『雨が降ると君は優しい』(Hulu)で演じた女性はセックス依存症でしたが作中での診断名は「性嗜好障害・せいしこうしょうがい」でした。そして近年、この分野では、チョットした大きな動きがありました。

 新たに設けられた6つの診断基準

 2018年、WHO・世界保健機関が定めた様々な精神疾患の分類であるICD・国際疾病(こくさいしっぺい)分類が約30年振りに改訂されたのですが、そのICD-11・第11回改訂版では所謂セックス依存症を「強迫的(きょうはくてき)性行動症(せいこうどうしょう)・Compulsive sexual behaviour disorder」と云う精神疾患であると認定したのです。
 翻訳されて日本で適用されるには未だ少し時間が掛かりそうですが、それによって新たに「強迫的性行動症」と云う病名が加わる事に為ります。強迫的性行動症の診断基準には、次の様な6つの項目があります。

(1)強烈かつ反復的な性的衝動又は渇望(かつぼう)の抑制の失敗
(2)反復的な性行動が生活の中心と為り、他の関心・活動・責任が疎かに為る
(3)性行動の反復を減らす努力が度々失敗に終わって居る
(4)望ましく無い結果が生じて居るにも関らず、又そこから満足が得られて居ないにも関らず、性行動を継続して居る
(5)この状態が、少なくとも6カ月以上の期間に渉って継続して居る
(6)重大な苦悩、及び個人・家族・社会・教育・職業・及び他の重要な領域での機能に重大な問題が生じている

 過剰なセックス・マスターベーション・ポルノ視聴・性風俗店の利用等・・・日常生活に大きな支障が出てもその行為を辞められ無い人は、この強迫的性行動症に該当すると考えられています。しかし現時点では、WHOは強迫的性行動症そのものを「依存症」と云うカテゴリーに分類して居ません。未だ研究の歴史が浅く、データ不足や議論が尽くされて居ないのが現状です。

 「性欲が強いから発症する」と云うのは間違い

 性依存症は「犯罪性の有るものと無いもの」「非合法タイプと合法タイプ」に分けられます。犯罪性の有る「非合法タイプ」は更に痴漢や小児性愛障害・ペドフィリア・強制性交等の「接触型」と、盗撮や覗(のぞ)き・露出等・直接他人には触れ無い「非接触型」に分類されます。
 犯罪性の無い「合法タイプ」には、不倫や風俗通いが辞められ無い・自慰行為が辞められ無い・サイバーセックス(インターネットを介して性的興奮を得る行為)に耽溺する・服装倒錯(下着窃盗等を伴わないもの)等、倫理的には問題があるとしても犯罪性の無い行為が挙げられます。セックス依存症は、基本的にこの犯罪に為ら無い合法タイプの性依存症を指します

 本書では、セックス依存症を広義での「性依存症」の一部と捉えて解説して行きます。セックス依存症と聞くと、どんな時でもセックスの事を考えて居て、セックスをしたくて堪ら無・性欲が人一倍強い人が為る病気・・・そんなイメージを抱く人も多いかも知れません。
 しかし、実はセックス依存症の本質は「性欲の問題」ではありません。実際はもっと複雑で様々な複合的要因が絡み合った問題なのです。

 どれだけ傷ついてもセックスを辞められ無い

 何よりセックス依存症は、様々な損失を繰り返しても尚、この行為が辞められ無く為ります。スキャンダルによって仕事や家庭、世間体や信頼関係を失う「社会的損失」や、不特定多数との性行為による性感染症やHIVのリスク、女性ならば望ま無い妊娠や人工妊娠中絶等の「身体的損失」があります。又、風俗通いが辞められず借金を重ねてしまう様な「経済的損失」も考えられるでしょう。

 社会生活を送る上で多くの損失が発生して居るのに、脳の報酬系と呼ばれる神経回路に機能不全が生じると「辞めたいと思って居るのに辞められ無い」状態に陥ります。そこではアルコールや薬物等、物質依存と似たメカニズムが働いて居ると云われて居ますが、未だ科学的には明らかに為っていません。
 又、近年の京都大学の研究グループの報告では、行為・プロセス依存の背景にこの報酬系が形成する「条件付け」が関係して居り、それを抑制する前頭前皮質の活動が弱まって居る所為で行動の制御が出来無く為ると云う仮説が発表されました。

 この仮説の研究結果から「行為・プロセス依存では、前頭前皮質の活動に依存する確率判断の障害が関連して居り、社会的リスクの高い問題行動がどの様な結果に繋がるかを認識出来ず、その結果、行動の抑制が出来無く為ると考えられる」と結論付けられました。
 更に、数々の損失と苦痛に加えて、強迫性や衝動性も依存症の大きな特徴です。「セックスをしないと落ち着か無い」「一度自慰をしたいと思うと、せずには居られ無い」等、自分の中で「スイッチ」が入ったら、その行為を達成しない限り落ち着か無くて仕方無いと云う状態です。
 これだけでも、世間一般の人が抱く「セックス依存症」のイメージと実態には、可成りの乖離がある事が判ります。

 本人を庇(かば)う事で症状を悪化させる場合も

 また、社会的・身体的・経済的な損失に対して当事者が病気であると云う意識を持てず、無自覚な状態に陥るケースもあります。特に男性の場合、本人が強い権限や経済力を持って居ると、周囲の人間が口止めや「尻拭い」をしてしまう為、本人が本来感じるべき痛みに無自覚のママ、問題行動を繰り返してしまうパターンが見受けられます。
 依存症の世界では、問題の有る人の症状を支えてしまう行動の事をイネーブリング・Enabling、その支え手と為る人をイネーブラー・Enablerと呼びます。

 典型的な例では、アルコール依存症の夫が泥酔して何等かのトラブルを起こした際に、妻が本人に代わって頭を下げて問題を無かった事にする事で、益々夫が自身のアルコール問題に気付く事が出来ずに否認を強化すると云うケースがあります。
 そして妻は妻で「この人はヤッパリ私が居ないとダメなんだ」と云う救世主的役割を担う事で、アルコール依存症の夫と共依存関係に陥って行きます。又ギャンブル依存症の家族では、当事者の借金を親が「私が払って挙げ無いと息子が可哀想、世間体も有るし・・・」と肩代わりして、子供は性懲りも無く再びギャンブルを続ける・・・と云うケースも数多く見られます。

 回復を妨(さまた)げる「共依存」と云う落とし穴

 此処で、当事者の家族や援助者が陥り易い「共依存」のパターンを3つ紹介して置きたいと思います。

(1)否定的エンメッシュ(否定的コントロール)他人の世話を焼き他人に頼られる事で自分の存在を認めさせ様、それによって自分の安全も得ようとする態度の事を言います。
(2)救世主願望(メサイアコンプレックス)「困って居る人を自分が助けたい」「人の役に立ちたい」と云う考え自体は否定されるものではありませんが、その背景に劣等感や自己肯定感の低さがあると「満たされ無い自分を満たす為に人を利用する」と云う関係性に為ります。詰り、自分の自己肯定感を高める道具として他者を利用すると云う事に為ります。
(3)治療中断に対する恐怖心 当事者が自分(援助者)を見捨てて離れて行ってしまう事への恐怖心から、伝えるべき事が伝えられず間延びした関係性を続けてしまう事を云います。本来、当事者が援助者から離れて自立して行く事は「自分の力で何とか遣って行ける目途が着いた」と云うサインでもある為、援助者自身の「見捨てられ不安」に付いても自覚的に為る必要があります。共依存のバリエーションは豊富で、援助者も気付か無い内にその関係性に酔ってしまうことがあります。

 支援者も自分自身と向き合わ無ければいけ無い

 知ら無い間に当事者と共依存関係に陥り「本人の為」と思ってした事が実は自分自身の不安をケアする為で、本質的には当事者の自立のサポートに繋がら無い行為を繰り返して居る援助者の事を「プロフェッショナル・イネーブラー」と云います。
 こう云う名刺は持ちたく無いですが、案外気付いたらこの様な膠着(こうちゃく)した二者関係に陥って居る援助者は多く、だからコソ援助者自身の健康性や対人関係のパターンをチェックして置く必要があると思います。

 依存症者が、自身の問題と向き合い適切な治療と回復に繋がるには、その問題や失ったものをキチンとオープンにして、勇気を持ってイネーブラーが支えて居る手を離し、関係者が足並みを揃える事が不可欠です。セックス依存症も他の依存症と同様、単に本人の問題行動だけに注目するのでは無く、周囲に潜在するイネーブラーの存在も視野に入れて治療戦略を立てて行く必要があるでしょう。
 ヤガテ、イネーブラーは家族会や自助グループに参加し、そこで仲間と繋がって自身の回復に取り組む事で、当事者への対応や距離の取り方を学び、当事者の回復の伴走者と為るキーパーソンに成長して行くのです。

 「男は性欲をコントロール出来ない生き物だ」と云う偏見

 男性と女性では、セックス依存症の原因や傾向に違いがあります。現在の日本において、男性に対しては未だに「沢山の女性と肉体関係を持って居る方が男らしい」と云う社会的バイアスが存在します。
 特に男同士の絆や結び付きを重視するホモソーシャルな世界では、女性蔑視・ミソジニーを介して絆を深める事が起こり易い為、女性をモノとして扱い、ナンパした数や経験人数の多さを競う事で同性の仲間から認めて貰うと云う風潮もあります。

 詰り、自身の歪んだ承認欲求を満たす為の道具として女性を使って居るのです。また「男は性欲をコントロール出来ない生き物だ」と云う歪んだ価値観が未だ信じられて居る事にも違和感を覚えます。これは、被害者が存在する性犯罪の場面でも屡々見られます。
 例えば或る男性が痴漢で逮捕された時に「妻とはセックスレスだった為、性欲を持て余して痴漢行為に及んだのだ」と、性欲解消の為に痴漢行為に至ったと考える人が居ます。当然ながら、セックスレスと痴漢の間には何等相関関係は無いものの「抑え切れ無い性欲が暴走して、性犯罪を犯してしまった」と云うステレオタイプが未だ根強く社会に蔓延(はびこ)っている事実は明らかです。

 犯罪化し無ければ治療に結び着か無い現状

 私はこれ迄2,000人以上の性依存症者の治療に関わって来ましたが「性欲が強く、それが抑え切れ無くて性犯罪に走った」と云う人は極僅かです。そもそも多くの男性は、性欲をチャンとコントロール出来ます。「男は性欲をコントロール出来ない」と云う価値観は、冷静に考えると男性を侮辱するものです。


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          斉藤章佳『セックス依存症』(幻冬舎新書)5-18-14

 性依存症の治療が必要な当事者であっても交番の前では痴漢はしませんし、友人との会話中に急に自慰行為をしたりはしません。それなのに、未だその価値観が根強く残って居ると云う事は、それによって都合の悪い事実を隠蔽出来、周囲を思考停止に陥れられると学習している男性が多く居るからです。
 著書『男が痴漢になる理由』(イースト・プレス)にも書きましたが、反復的な性的逸脱行動を性欲の問題にのみ矮小化して捉えてしまうと問題の本質を見誤ります。同調圧力とも云えるような「男らしさ」を強いる価値観が社会に蔓延(はびこ)って居る為、犯罪化しない限り男性の性依存症の問題は臨床の場に出て来ないのが現実です。

 アルコール依存症の場合は、問題飲酒を続けて居ると身体がボロボロに為ると云った健康被害や、仕事の無断欠勤・離婚・飲酒運転・ケンカからの傷害事件等の社会的影響が表面化する可能性が高いのに対して、性の問題はデリケートな性質が在る為に「自分には何かしらの問題がある」と判って居ながらも当人がナカナカオープンし難く、治療に結び着か無い現状があります。
















清原果耶主演「おかえりモネ」初回19・2% 前作「おちょやん」超え好発進!!



 清原果耶主演「おかえりモネ」初回19・2% 

 朝ドラ2作連続大台割れも 前作「おちょやん」超え好発進



 YAHOO NEWS  5/18(火) 9:10配信



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     連続テレビ小説「おかえりモネ」のヒロインを務める清原果耶(C)NHK 5-18-8


 女優の清原果耶(19)がヒロインを務めるNHK連続テレビ小説「おかえりモネ」(月〜土曜前8・00 土曜は1週間振り返り)が17日にスタートし、初回の平均世帯視聴率は19・2%(ビデオリサーチ調べ・関東地区)だったことが18日分かった。
 朝ドラ初回の大台20%割れは前作「おちょやん」(18・8%)に続き2作連続と為ったが「おちょやん」の番組最高18・9%(第65話、3月5日)を早くも上回る好発進。「おちょやん」の期間平均(全115話)17・4%からは1・8ポイント増となり視聴者の期待が窺(うかが)える。



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        【写真】かわいい!バトンタッチする清原果耶と杉咲花
 
 朝ドラ初回の2作連続大台割れは2012年前期「梅ちゃん先生」(18・5%) 同年後期「純と愛」(19・8%)以来約9年 振り。「おちょやん」最終回(14日)の18・4%からは0・8ポイント増。ドラマの舞台と為って居る地元・仙台地区の初回は前作「おちょやん」の初回14・2%から大幅8・1ポイント増の好発進と為った。  
 朝ドラ通算104作目。清原とタッグを組んだNHK「透明なゆりかご」等やテレビ東京「きのう何食べた?」等で知られる安達奈緒子氏が手掛けるオリジナル作品。朝ドラ脚本初挑戦と為った。

 タイトルにある「モネ」は主人公・永浦百音(ももね)の愛称。1995年に宮城県気仙沼市に生まれ、森の町・登米(とめ)で青春を送るヒロイン・百音が気象予報士の資格を取得し上京。積み重ねた経験や身に突けた技術を生かし、故郷の役に立ちたいと奮闘する姿を描く。  
 初回は、2014年春、宮城県気仙沼市の離島・亀島で育った永浦百音(清原)は高校卒業を機に、内陸の登米市の大山主・新田サヤカ(夏木マリ)の家に下宿。森林組合の見習い職員として働き始める。

 サヤカは百音の祖父・龍己(藤竜也)と旧知の仲で、百音は彼女の元で山や木について学んで居た。父・耕治(内野聖陽)は家を離れた娘を心配して頻繁に電話を寄越すが、百音は忙しくナカナカ連絡が取れ無い・・・と云う展開だった。  
 18日に放送された第2話は、俳優の西島秀俊(50)演じる気象キャスター・朝岡覚が突如、森林組合に出現し、百音は早くも“運命の出会い”、今後の展開が注目される。




 「おかえりモネ」 大吉、西島秀俊の気象予報役に困惑「潜入捜査中?」

 ネット上「#おかえりMOZU」も出現



 YAHOO NEWS 2021年5月18日 08:25



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    お笑いコンビ「博多華丸・大吉」の博多大吉 Photo By スポニチ 5-18-10

 女優の清原果耶(19)がヒロインを務めるNHK連続テレビ小説「おかえりモネ」(月〜土曜前8・00、土曜は1週間振り返り)は18日、第2話が放送され、俳優の西島秀俊(50)演じる気象キャスター・朝岡覚が初めてテレビの中から飛び出した。
 朝ドラ通算104作目。清原とタッグを組んだNHK「透明なゆりかご」などやテレビ東京「きのう何食べた?」などで知られる安達奈緒子氏氏が手掛けるオリジナル作品。朝ドラ脚本初挑戦と為った。タイトルにある「モネ」は主人公・永浦百音(ももね)の愛称。

 1995年に宮城県気仙沼市に生まれ、森の町・登米(とめ)で青春を送るヒロイン・百音が気象予報士の資格を取得し、上京。積み重ねた経験や身につけた技術を生かし、故郷の役に立ちたいと奮闘する姿を描く。
 第2話は百音(清原)は新田サヤカ(夏木マリ)の山に聳える樹齢300年のヒバの木の存在を知り、心を揺さぶられる。米麻(よねま)町森林組合の課長・佐々木翔洋(浜野謙太)は週末に登米伝統の能の定例会を控えソワソワして居た。

 百音は能舞台を見学に行き、サヤカと森林組合の古参職員・川久保博史(でんでん)がヒバの伐採に付いて話し合っているのを目撃。その夜、水産高校に通う妹・未知(蒔田彩珠)の取り組みがニュースで流れるのを目にし、百音は妹を眩しく感じる・・・と云う展開。
 そして、森林組合内にある「よねま診療所」の医師・菅波光太朗(坂口健太郎)に昼食を運び会話をして居ると外が騒がしい。ソコには何故か、住民の女性達に囲まれる人気気象キャスター・朝岡(西島)の姿があった。

 百音も「アッ、テレビで見てた人?」と興奮。これが“運命の出会い”に為るとは、未だ知ら無い。朝倉は何故、登米を訪れたのか?
 直後の同局「あさイチ」(月〜金曜前8・15)の“朝ドラ受け”。博多大吉(50)は「西島さんが気象予報士と云うのは、まだ受け止められて居ません。映る度に『ウソだ』と。『潜入捜査中かしら?』と。徐々に慣れて行きたいと思います」博多華丸(50)も「屈強なイメージがありますから」と笑いを誘った。
 SNS上にも同感の視聴者が続出。西島が警視庁公安部の倉木警部を演じたTBS「MOZU」に準(なぞら)え、ハッシュタグ「#おかえりMOZU」も出現した。




 「おかえりモネ」初回 本放送前からトレンド1位 

 竹下景子カキ転生も話題 華丸「朝ドラにスマホ初?」


 YAHOO NEWS 2021年5月17日 08:30


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 連続テレビ小説「おかえりモネ」第1話 青空に向かって両手を広げる百音(清原果耶)(C)NHK Photo By 提供写真 5-18-11
 

 女優の清原果耶(19)がヒロインを務めるNHK連続テレビ小説「おかえりモネ」(月〜土曜前8・00、土曜は1週間振り返り)が17日にスタート。行き成り本放送開始前(午前7時59分)からハッシュタグ「#おかえりモネ」がツイッターの国内トレンド1位に為るなど好発進した。
 
 「なないろ」を書き下ろしたロックバンド「BUMP OF CHICKEN」も国内トレンド3位(午前8時48分)語りを務める女優・竹下景子(67)演じるヒロインの祖母役が亡く為った後、カキに“転生”した設定も話題と為った。

 第1話は2014年春、宮城県気仙沼市の離島・亀島で育った永浦百音(清原)は高校卒業を機に、内陸の登米市の大山主・新田サヤカ(夏木マリ)の家に下宿。森林組合の見習い職員として働き始める。サヤカは百音の祖父・龍己(藤竜也)と旧知の仲で、百音は彼女の元で山や木について学んでいた・・・と云う展開。
 直後の同局「あさイチ」(月〜金曜前8・15)の“朝ドラ受け”。博多華丸(50)は「私の記憶が正しいか分から無いですが、朝ドラにスマホが出て來るのは初めてなんじゃないかな」 鈴木奈穂子アナウンサー(39)も「ガラッと雰囲気が変わりましたね。亡く為ったお祖母ちゃんがカキの生まれ変わりと云う設定も(笑)」等と語り、話は尽き無い様子だった。





 「おかえりモネ」清原果耶 初体験の気象の勉強「頭真っ白」

 気象予報士は「励まされる存在」実際に受験は?



 YAHOO NEWS  2021年5月10日 00:00

 女優の清原果耶(19)がヒロインを務める次期NHK連続テレビ小説「おかえりモネ」(17日スタート、月〜土曜前8・00、土曜は1週間振り返り)は放送開始まで1週間。清原がインタビューに応じ、現在の心境を明かした。
 演じる気象予報士は合格率は5%前後の難関。役作りの為人生初となる気象の勉強に取り組んだが「頭が真っ白になるぐらい難しくて。これを勉強して気象予報士になったモネは本当に凄いなと思いました」と苦笑い。それでも「ワクワクする部分もあって、もうちょっと学びたいと思いました」と魅了されたようだ。
 
 朝ドラ通算104作目、清原とタッグを組んだNHK「透明なゆりかご」などやテレビ東京「きのう何食べた?」などで知られる安達奈緒子氏が手掛けるオリジナル作品。朝ドラ脚本初挑戦となった。
 タイトルにある「モネ」は主人公・永浦百音(ももね)の愛称。1995年に宮城県気仙沼市に生まれ、森の町・登米(とめ)で青春を送るヒロイン・百音が気象予報士の資格を取得し、上京。積み重ねた経験や身につけた技術を生かし、故郷の役に立ちたいと奮闘する姿を描く。

 第1週(17〜21日)は「天気予報って未来がわかる?」。宮城県気仙沼市の離島・亀島で育った永浦百音(清原)は2014年春、高校卒業を機に、内陸の登米市の大山主・新田サヤカ(夏木マリ)の家に下宿。森林組合の見習い職員として働き始める。ある日、人気気象キャスター・朝岡覚(西島秀俊)が東京から登米を訪れ、町は大騒ぎに・・・と云う展開。
 朝ドラヒロインが気象予報士に為るのは、02年後期「まんてん」の日高満天(宮地真緒)以来(その後、宇宙飛行士に)天気は、あらゆる人の暮らしに密接に関係。農林水産業などは勿論、ビジネスやスポーツも天気に左右される。昨年5月の制作発表時、制作統括の吉永証チーフプロデューサーは、

 「天気は誰にでも関係がある事柄ですが、天気(予報)に携わる人がどんな事を日々して居るかは、実は余り知られて居ません。ヒョッとして、そう云う人達の日常や仕事振りを追う事で、現代の人々の生活や生き方・考え方を鮮やかに描けるのでは、と云う思いから今回の企画はスタートしました」

 制作統括の須崎岳チーフプロデューサーは「コロナは、私達に色んなものを突き付けました。例えば命に付いて或いは希望に付いて。ヒロインが目指す気象予報士は『命を守る仕事』であると同時に『明るい未来を届ける仕事』です」と気象予報士を描く意図を説明した。
 脚本の安達氏は「朝ですし、優しくて温かい物語を作りたいと思って居ます。けれど舞台と為る土地は、やさしさだけではどうする事も出来ない痛みを抱えて居て、訪問者である私がそれを真に理解する事は出来ません。
 他者の痛みは肉親でも友人でも恋人同士でも共有する事は出来ない・・・そんな現実を突き付けられた時『判ら無いから怖い』と云う言葉を聞きました。自分の理解を超える現象、数秒後に変わってしまう未来、怖いです。ですが、人間は不器用ながら『判ら無いもの』とズッと向き合って来て、その最たるものが『自然』だろうと考えた時、描くべき物語が見えた様に思いました」
と胸中を吐露。

 「気象予報はこの『自然』と云う完全掌握が不可能なものと向き合う仕事です。コツコツと観測を続けデータを蓄積し・考え・最後は自分の身体でも感じる事で、不確実な自然との共存の道を探ります。誰かの痛みもそう云うものでは無いかと考えました。判ら無い事は怖い、けれど『貴方を判りたい』と思い、努力し続けてさえ居れば、私達は笑顔を交わし、共に生きて行けるのではないか。若い主人公と、その存在に芯の強さと階(しな)やかさを感じる清原果耶さんに、願いを託します」と今作に込める思いを明かした。

 気象キャスターに付いて、清原は「今朝もニュースの気象コーナーを拝見して、明確に必要な情報を届けて下さるし、且つ視聴者の皆さんの1日を前向きにスタートを呉れる様な佇(たたず)まいで、改めてカッコ好い、励まされる存在だと思いました」と好印象。
 気象予報士は国家資格の1つ。学科試験は一般知識(大気の構造・降水過程など)と専門知識(観測の成果の利用・予想の精度の評価など)の2科目がありマークシート形式。実技試験(局地的な気象の予報・台風などの緊急時における対応)は記述形式。年2回実施され、合格率は5%前後と狭き門として知られる。

 清原も演じるに当たり、気象の勉強に取り組んだが「入門編を読みしましたが、ヤッパリ頭が真っ白に為る位難しくて。これを勉強して気象予報士に為ったモネは本当に凄いなと思いました。専門用語もありますし、今まで生きて来て初めて触れる分野の学問だったので、全部難しかったです」と苦笑い。
 只「撮影現場に指導にいらして下さった実際の気象予報士の方のお話を伺うと、細かいことは分かりませんが、ワクワクする部分もあって、もうチョット学びたいと思いました」と関心は深まったようだ。

 「これを機に、実際に気象予報士の試験を受けてみたい?」と水を向けられると「それは、周りのスタッフさんからも言われたりしました。だとしたら勉強が足り無さ過ぎるので、今の処は考えて居ないですけど、そう云う事も面白いとは思います」と語った。




 清原果耶 17日「おかえりモネ」スタート

 気持ちは「曇り時々、晴れ」緊張もあり始まるうれしさも


 YAHOO NEWS 2021年5月10日 05:31


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「おかえりモネ」で主演を務める清原果耶(撮影・小海途 良幹)Photo By スポニチ 5-18-12 

 17日からスタートするNHK連続テレビ小説「おかえりモネ」(月〜土曜前8・00)でヒロインを務める女優の清原果耶(19) 自然豊かな東北で生まれ育ち、やがて気象予報士に 主人公・永浦百音(ももね)を演じる。
 放送開始まで1週間 「今の気持ちは“曇り時々、晴れ”です」と不安と期待が入り交じる現在の心境を明かした。(吉澤 塁)
 
 クランクインから約7カ月。朝ドラのヒロインらしい純白の衣装に身を包み「アッと云う間に終わりそう。月日が流れるのが早いです」と初々しい笑みを浮かべた。週5回の撮影を繰り返す日々「今はスケジュールが完全にOL仕様です」とはにかんだ。
 連続テレビ小説への思い入れは深い。15年後期「あさが来た」で女優デビューし、19年には「なつぞら」に出演。予(かね)てヒロイン役への憧れが在ったと云い、今回の抜てきに「ご縁を感じます。切っ掛けとチャンスを呉れた朝ドラ。モネを確り作る事で、今迄お世話に為った人に恩返ししたい」と心境を明かした。

 作中では、気象予報士を目指して上京し、ヤガテその能力を生かして地域に貢献する姿が描かれる。役作りの為に清原自身も気象予報士の勉強に取り組んだ。

 「(勉強の)全部が難しい。改めて気象予報士さんの凄さを知りました」毎朝テレビで流れる天気情報のコーナーへの見方も変化したと云い「難しい専門用語もありながら、毎朝明るく天気を紹介して呉れる。励まされるし、前向きに一日をスタート出来る。キャスターさんの佇まいが格好良いです」と語った。
 インタビュー当日は、多くの媒体から次々に取材を受ける過密なスケジュール。そんな朝ドラヒロインの“洗礼”を受けながらも常に笑顔は絶やさ無い。開口一番、元気に「宜しくお願いします!」と挨拶する姿は、既に気象予報士の佇まいだった。

 「初回が始まるまでは緊張で一杯です。でも遂にスタートする嬉しさもあります。だから今の気持ちは“曇り時々晴れ”ですね」 これから約半年間、毎日お茶の間に元気を届ける大役を担う。「毎朝見て頂いて、前に進む力を持って貰えたら」ヒロインとしての使命感を胸に長丁場を駆け抜ける。



 清原 果耶(きよはら・かや) 2002年(平14)1月30日生まれ 大阪府出身の19歳 14年のアミューズ・オーディションフェスでグランプリを受賞 15年から芸能活動スタート 18年のNHK総合「透明なゆりかご」でドラマ初主演 20年の「宇宙でいちばんあかるい屋根」で映画初主演を務めた 身長1メートル62












下町三業地紀行 (作家 三浦 展) 特殊慰安施設の実態




 乱暴なプレイで失神 娘の血で襖(ふすま)に「very good」と落書き

 東京各地に点在した “特殊慰安施設” の実態とは



 文春オンライン  5/17(月) 11:12配信


 
       5-18-6.jpg 作家 三浦展(みうらあつし)氏

 プロフィール 新潟県糸魚川市生まれ 1982年に一橋大学社会学部を卒業 佐藤毅ゼミ出身でサブゼミとして岩崎允胤ゼミにも参加 卒業後はパルコに入社 同社のマーケティング雑誌アクロス編集室で勤務 入社4年目の1986年に「アクロス」編集長に就任 1990年にパルコを退社し三菱総合研究所主任研究員に就任 環境デザイン部主任研究員 社会デザイン室長代理・主任研究員等としてマーケティングや労働行政等の調査・研究に 1999年には三菱総合研究所を退社し独立 マーケティング会社・株式会社カルチャースタディーズ研究所を設立し同社の代表取締役に就任 現在はマーケティング調査・商品企画などを行うほか、家族・都市問題を独自の視点で捉え『下流社会』(光文社新書)(80万部のベストセラー)や『ファスト風土化する日本』『下流大学が日本を滅ぼす!』出版 この他に以下のような役職を務める
 立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科兼任講師・信州大学大学院非常勤講師・京都造形芸術大学非常勤講師・都留文科大学講師・国際日本文化研究センター共同研究員・内閣官房内政審議室少子化問題有識者会議委員・経済企画庁生活ビジョン研究会委員・労働省職業情報検討会委員・東京都青少年問題協議会委員・神奈川県住宅供給公社集合住宅開発研究会委員・財団法人セゾン現代美術館評議員



 〜三業地・遊郭・岡場所・赤線・青線・カフェー街と云った夜の歓楽街は、江戸・東京の発展に強く関連する。しかし、様々な理由から当時の名残を留めた建物は年々減少の一途を辿っている。  
 日本社会を独自の視点で研究する三浦展氏は、過つて東京の至る所に存在した花街の歴史を留めようと実際に43の街を歩き、著書『 花街の引力 』(清談社Publico)を執筆した。ここでは同書の一部を抜粋。大井・大森・品川の歴史を振り返り、東京各地に点在した“特殊慰安施設”の実態を紹介する〜



 海岸に出来た花街


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   「東京湾」初の海水浴場が大森に(出所「おおた区報Web版」平成29年1月1日号)5-17-6

 過つての大井海岸町(現・品川区南大井二・三丁目)は、東は遠く房総の山々・南は多摩川の清流を隔てて富士山・北は筑波山まで見え水も綺麗で、渚には小魚や小海老・蟹が生息し、潮干狩りは何時でも出来たので、味噌汁を作る時は海に行けば間に合うと云う程だったと云う。  
 1891年頃、古くから潮干狩りの場所として知られた八幡海岸に八幡海水浴場が出来た。これは大森の丘の上に「八景園」を創設した久我邦太郎が作ったものである。  

 それが切っ掛けと為り、又今の京急本線が1901年に開通すると、交通の便が好く為り磐井神社(いわいじんじゃ)の鳥居前に古くから在った茶屋が維新後に料亭と為って、大井海岸および隣接する大森海岸の花街としての歴史が始まった。  
 又、品川三業地は大井三業地の芸者屋が1932年に東品川三丁目(現・一丁目)の埋立地に集団で移転したものだと云う。大井では料亭「楽楽」「やなぎ」「小町園」「見晴し」等が出来、1929年には芸者置屋が42軒、芸者数は200人は居たと云う。  

 現在はマンションが並ぶ風景に為ってしまったが、京急本線の西側の大井海岸町には、そこも可成りマンション等に変わってしまったとは云え、何とか花街の雰囲気が残って居る。大井海岸町にある「松乃鮨」は1910年に芝神明で屋台の寿司店としてスタート。
 幼少の頃から寿司店を手伝っていた2代目は料亭が立ち並ぶ神楽坂に修業に出て1936年、2代目は大森海岸に出店。当時の大森海岸は海の苔りの名産地と共にコハダ・赤貝・ハマグリ・羽田沖の穴子など素晴らしい寿司ネタが目の前の海で獲れる、まさに江戸前寿司の本場だった。  
 2代目は成功し、数寄屋造2階建ての店を建て3代目が引き継いだ後、1989年に大火で全焼。現在の店は3代目が自身の実家を改装し、燃え残った看板を掲げて店を再スタートさせたものだと云う。(松乃鮨ホームページより)

 大森新地・・・蒲田や横浜から労働者や映画関係者が集まった

 大森新地は都土地(みやことち)と云う会社が旧東海道の美原商店街の東側に広がる浅瀬1万坪を埋め立てて1926年に完成させたもので、会社の名前を取って「都新地(みやこしんち)」と名付けた。当時の地図だと周りは海である。  
 関東大震災後、芝浦等都心部から芸者置屋が移転して來ると、1930年には置屋が31軒に急増し、同年に大森新地三業組合が設立された。大森新地の最盛期は1933年から1940年当たりだそうで、蒲田や横浜方面から労働者や映画関係者が客として集まった様である。(「大森海岸 芸妓置屋 由よしの家や 」「大井海岸 芸妓置屋 まつ乃の家や」各ホームページ『東京 花街・粋な街』)

 「アメリカの兵隊と親善の為に交際をするのです」
 
 大正・昭和の華やいだ、或いはノンビリした歴史とは異なり、戦後の大井海岸は米軍の進駐に備えて日本政府がRAAを設置した町として記憶され無ければ為ら無い。RAAは日本語では「特殊慰安施設協会」と云ったが、特殊と云う事は特殊浴場と同じで只の慰安では無い。米兵に性を売ったのだ。
 日本は江戸時代以来、吉原を公的な売春施設として来たが、敗戦直後も国が一般女性の貞操を米兵から守ると云う理由で、政府が三業地等の役員を集めてRAAを作らせたのである。

 米兵が日本の女性に暴行をすると思ったのは、日本兵が侵略先で暴行をして居たからだと推測するのが自然だろう。RAAは広告を打った「新日本女性に告ぐ! 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む! 女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳迄。宿舎・被服・食糧当方支給」 敗戦後間も無い8月28日の事である。  

 女性達が集まったのは銀座・「幸楽」と云う中華料理店を警察が接収し「福助」と云う食堂を買収してRAA本部の事務所と為った。 米軍が上陸する8月28日迄に、RAAは1,370人の女性を集めた。焼け跡で仕事も食べ物も無い女性達がドンドン集まった。その9割は裸足で遣って来たと云う。殆どが素人娘だった。
 集まった女性達には、先ず飯を食わせた。食えるだけで大変な事だった。食後、女性達は、国家の大事業とは売春であると知らされて仰天した。
 
 或る女性は「ダンサーか事務員と思って来たのですが」と質問すると「お国の為に為る仕事なのです、誰に恥じる事もありません。慰安婦と云っても、戦争中と違ってアメリカの兵隊と親善の為に交際をするのです。お互いに仲好く遣る仕事です」と回答された。
 だが、食って行く為には仕方無かった。給料は高かった。女性達の内、先ず50人がRAAの1号店である大井の「小町園」に送り込まれた。

 吉原・新宿・千住は白人兵用 亀戸・新小岩・玉の井は黒人兵用
 
 女性達はトラックに乗せられて大井に向かった。焼け残った料亭は全て買収されて居た。「小町園」の前には朝から既に米兵のジープが行列を為して居た。女性達は到着すると、先ず世話役の女性が「未だ男を知ら無い人は居ますか」と聞いた。「応募された方には処女の方が多いのです。日本の女性を守る為に一身を犠牲にする覚悟で、清い体で応募して下さった方も在るのです。どうぞ経験者は好く指導して挙げて下さい」手を挙げた女性は30人程居た。「ハイ、その方達は、後で私の部屋に来てください。お教えしますから」と世話役の女性は言った。

 それから女性達は風呂に入れられ、消毒器や手洗いの設備を見て回った。着物は三越・白木屋で焼け残ったものを全て差し押さえて在ったのでそれを着た。化粧品は資生堂から押さえて在った。月島の内閣統計局の倉庫に差し押さえた物資を入れて居たと云う。
 ソモソモ最初に慰安施設として接収しようとしたのが日本橋の三越だった! だが、そんな目立つ所に米兵が集まると周辺の婦女子も暴行されるから、施設は分散立地させよと警視庁が云うので、大森の他、立川・福生・三鷹等の多摩地域も含めて東京都内各地、又箱根 ・強羅の常盤館、熱海の観光閣にも施設が出来た。
 
 向島の大倉喜八郎(1837〜1928年)別邸(編集部注 贅を尽くした邸宅で海外の賓客を招いていた)も市川の料亭も接収されて慰安施設と為った。大倉別邸や向島・人形町・白山の花街は高官用の慰安施設にされた。吉原・新宿・千住は白人兵隊用、亀戸・新小岩・玉の井は黒人兵用とされたと云う。

 米兵は日本の男たちよりズッと優しかった

 翌朝からが仕事だった。料亭は畳の上にベッドを置き、床の間の柱にペンキを塗って洋式に見せたと云う。開店すると列を為して居た米兵達が土足のママ障子や襖を蹴破ってドッと上がり込んで来た。ベッドだけでは足りず広間に布団を敷いた。広間で仕切りも無しに抱き合って居る者も居た。
 それでも女性が足りずアブレた米兵が暴れた。女郎屋・芸者屋の主人達は大金を持って田舎に行き、疎開して居る女性達をドンドン買い集めて来た。

 米兵の巨体に驚いた女性も多かった。恐怖に怯(おび)えながら女性達は無我夢中で米兵の相手をした。午後の閉店迄に或る女性は23人の相手をした。何日かすると1日60人の相手をする女性まで居た。 時間外に遣って来て帳場女性をネジ伏せると云う事は日常茶飯事だった。
 「小町園」の或る娘は膣を破られて失神した。布団は血の海で、米兵は娘の血で襖に「very good」と落書きした。余りの事に逃げ出す女性や発狂する女性、逃げ出して電車に飛び込み自殺をする女性も居た。

 経験の無い処女では効率が悪いと云う事で、そう云う女性は向島の妓楼に回し、交換でベテランの女性を連れて来たりもした。だが、一方で、米兵の中には日本の男達よりズッと優しく親切だった者も多かった。米兵は鬼畜で日本の婦女子を暴行すると思ってRAAを作った側としては拍子抜けする程だった。
 男が女にアンナに親切にし無ければ為ら無いのか、戦争に勝った国の男なのにと、日本の男達はビックリしたと云う。


 (東京焼け跡ヤミ市を記録する会著、猪野健治編『東京闇市興亡史』草風社、鏑木清一『秘録 昭和のお吉たち 進駐軍慰安作戦』番町書房、小沢昭一・永六輔『色の道 商売往来 平身傾聴 裏街道戦後史』ちくま文庫)




 昔の“白山”は「ヤバい」街だった? ドレスを着た芸者がストリップ・ダンスを踊り 閑静な住宅街の知られざる歴史


 三浦 展 『花街の引力』より #2


 〜海水浴・温泉などの新しい娯楽が生まれると共に新たな花街が出来て居た戦前。そして、戦後は米軍が花街に大きな影響を及ぼした。詰り、花街に付いて考える事は、近代日本の工業化・軍国主義・戦後の占領・闇市・貧困・女性の性の歴史を考える事とも関連する。
 此処では、膨大な資料を基に43の街を実際に歩き「街の記憶」に眼を差しを向けた三浦展氏の著書『花街の引力』(清談社Publico)の一部を抜粋。「花街」をキーワードに、閑静な住宅地として知られる白山エリアの知られざる街の歴史を紐解く〜



 マジで「ヤバい」街だった白山
 
 白山と云うと、都営地下鉄の三田線の駅であり水道橋から2駅目と云う事もあって、都心とは云え住んでいる人・通勤通学で通う人以外は余り行かない駅かも知れない。だが、戦前は花街として栄えた所なのだ。地理的には東側を西片・向丘・本駒込と云った丘の上の高級住宅地から下って来た低地である。低地なのに白山と云う地名なのは白山神社があるからだ。
 白山三丁目は小石川植物園が在るが、植物園の西側が小石川と云う川の暗渠(あんきょ)だ。豊島区の長崎方面を源流とする谷端川(たにはたがわ)が池袋当たりを蛇行して大塚の三業地を経て南下すると、小石川と名を変える。

 そして、小石川後楽園や東京ドーム辺りを流れて神田川に合流する。江戸時代の初期には、この小石川迄入江だったと云う。この小石川沿いは工場地帯であり印刷工場等が多かった。徳永直の『太陽のない街』(岩波文庫)も、この辺りの印刷工場が舞台である。
 尚東京ドームは、30年程前迄は後楽園球場、戦後は隣に遊園地としての後楽園が追加されて居たが、1937年に球場が出来る前は陸軍砲兵工廠であり、その前は水戸藩の上屋敷だった。
 
 サテ、この白山一丁目・本郷から下った辺りに、過つて可成り名を馳せた三業地が在ったと云う。明治時代この辺りに次第に商店が建ち始め、日清戦争(1894年)の頃に為ると、前述した砲兵工廠の工員達が沢山行き来する様に為り、住宅も増え夜には露店が現れ新開地として栄えて行った。又、百軒長屋と呼ばれる様な貧乏長屋も沢山在ったと云う。
 更に、日露戦争(1904年)の頃から銘酒屋(めいしゅや)や楊弓場(あげゆみば)が沢山出来た。銘酒屋とは酒を飲ませる店でありながら酌婦が居て、そのママ店に上に上がって性的サービスをする店である。楊弓場とは弓矢で的に当てて遊ぶ場所だが、これも店に女性が居て矢張りサービスをするのである。楊弓場は矢場(やば)とも云い「ヤバい」と云う言葉はこの矢場から生まれた。

 アメリカ人や亡命したロシア人がモダン芸者に為った
 
 こうして、白山は夜の歓楽街に為って行った。樋口一葉の『にごりえ』は、この白山の銘酒屋をモデルにして居る。一葉も一時期、白山に住んで居たのである。だが、街が発展するのは好いが、余りに性的なサービスの街に為って行くのも困る。そこで当時は警察に届けて正式に三業地として認めて貰うのがお決まりの方策だった。
 警察が管理するのだから私娼は排除される。料亭があり置屋があり芸妓が居て、チャンと芸妓を揚げて遊ぶ。最後にする事は同じでも、これなら天下公認だからである。

 白山で酒屋と居酒屋を兼業して居た秋本鉄五郎と云う人物が居た。彼が白山に三業地を作る中心人物であり、白山だけで無く東京の各地の三業地の創設にも助力した人物である。1924年に没するが、その後は養子の秋本平十郎が街を発展させた。
 平十郎は戦後、RAA(編集部注 特殊慰安施設協会)の常務理事にも為り、その功績を称えた胸像が白山三業地跡地に今もある。

 秋本は居酒屋を改修して料理屋「かね万」を1904年頃に開業した。料理があれば酌婦が欲しいと云う事で、近所の芸事の師匠に頼んで居たが、拡大する需要に応えるには不足であった。そこで、神楽坂・四谷・下谷・湯島(かぐらざか・よつや・しもや・ゆしま)の花柳界から芸妓を呼んで居たが、これでは能率が悪い。そこで、白山独自に花柳界・三業地の創設を急いだのである。
 こうして、1912年に白山三業組合が設立され、1915年には白山三業株式会社と為った、社長は秋本である。株式会社と為った三業地は東京として唯一であった。1918〜1920年頃には全盛期を迎え、1922年に為ると「モダン芸妓」と云うものが白山に現れた。

 モダン芸妓とは、一つは外国人の芸妓であり、最初はアメリカ人。着物では無くモダンな服装で登場した。亡命したロシア人も居たと云う。更に、1923年4月には上野公園で開催された東京大正博覧会に白山の芸妓衆55人が出演して踊りや常磐津で喝采を浴びた。
 それ迄、未だ世間的に認められて居無かった白山芸妓達は、この博覧会を契機としてその存在を知られる様に為った。1925年には白山芸妓の常磐津がラジオで放送された事もある。芸妓がラジオ出演したのは、これが最初だと言われて居る。

 ストリップ・ダンスの登場
 
 こうして発展した白山三業地であるが、昭和に入るとモダンな文化が隆盛し、映画女優・バスガール(車掌)・ダンサー・カフェーの女給・果ては映画館で切符を売るチケットガール迄もが女性の新職業として持て囃(はや)される様に為り、芸妓の地位が下がり始めると云う時代に為って行った。
 だから、余り芸の無い芸妓はカフェーの女給に転職すると云う事も多かったらしく、永井荷風を読んでもそんなことが書いてある。


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           参考 昭和初期 浅草ロック座の踊り子

 
 その為芸妓にも三味線・踊り・常磐津など以外の新しい芸を身に着ける必要が出て来た。その為、歌謡曲を歌ったりバイオリンを弾いたりする芸妓が現れた。究極が白山に1930年に誕生した「ダンス芸妓」である。10人以上で、蓄音機で流す流行歌に合わせて振り袖姿で踊ったり、ワンピースを着て西洋の楽曲で踊ったりしたのである。又、芸妓がマンドリンやギターを弾く事もあった。

 ダンス芸妓が人気を集めると、他の三業地にも波及した。処が、五反田では1934年頃にストリップ・ダンスをする芸妓が登場し警視庁が捜査に乗り出すことに。新聞は「ダンス芸妓弾圧は罷り為らぬ」と論陣を張った為、益々白山のダンス芸妓の知名度が上がり、一躍マスコミの寵児と為ったと云うが、結局、ダンス芸妓は終焉する事に為ってしまったのである。
 この様に、今はチョット地味な感じの白山と云う街にも華やかな歴史がある。それが東京の面白さ奥深さである。


                   以上
















徳川慶喜の素顔に迫る短期連載 やたら敵作る「徳川慶喜」



 徳川慶喜の素顔に迫る短期連載 その4


 やたら敵作る「徳川慶喜」期待を何度も裏切る真意



 東洋経済オンライン 5/16(日) 7:01配信


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        徳川慶喜の素顔に迫る(写真:近現代PL アフロ)5-16-5


 「名君」か「暗君」か、評価が大きく分かれるのが、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜である。慶喜の行動は真意を推し図る事が難しく性格も一筋縄ではいかない。それが、評価を難しくする要因の1つであり、人間「徳川慶喜」の魅力と云っても好いだろう。その素顔に迫る短期連載の第4回は、幕府を離れて朝廷に近付く慶喜による大胆な言動についてお届けする。

 <第3回までのあらすじ>

 〜江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜は、徳川家と朝廷の両方の血筋を受け、その聡明さから皆の期待を一身に背負って育った。何しろ幕政は混乱の中にある。この局面を打開出来る優秀なリーダーが今こそ必要であり、それが慶喜だと周囲は盛り上がった。
 そんな中、何とか貧乏クジを引かずに済む様に立ち回る慶喜(第1回) だが、若き将軍、家茂(いえもち)の後見職の座に就く事に為り「文久の改革」と呼ばれる幕政改革に着手。徐々に政権の中枢に据えられて行く(第2回)
 優れた開国論を心に秘めていた慶喜は、攘夷など非現実的だと思いながらも、朝廷と幕府の板挟みに苦しむ。京に上った慶喜を待ち受けて居たのは激しい攘夷の催促だった(第3回)〜



 本音は「どうせ攘夷ナンか出来ない」  

 その場凌ぎで幕府が朝廷と交わした、攘夷の約束に付いて説明する為、慶喜は文久3(1863)年1月5日、将軍の徳川家茂に先立って京に入る。そこで、慶喜は朝廷や尊王志士達のプレッシャーに耐え切れず、攘夷の期限を約束してしまった。  
 だが、慶喜を責めるのは酷だろう。何しろ、公卿達が旅館に迄乗り込んで来て、脅されたのだから穏やかでは無い。慶喜は、将軍の家茂が未だ京に来て居ない段階で「将軍が江戸に帰ってから20日後」と攘夷の期日を決めさせられている。

 家茂が京に来るのは3月10日。10日間程京に滞在するとすれば、江戸には3月20日以降に戻る事に為り、ソコから20日後だから、攘夷は「4月中旬位」と答えたに等しい。結局、家茂が京に長く留め置かれた為、攘夷の期限は「5月10日」に定められた。
 勿論、4月だろうが5月だろうが攘夷など簡単に出来る訳が無い。煩(うるさ)い尊王攘夷派の公卿共や長州藩を黙らせる為に、取り敢えずの期限を決めたに過ぎ無い。慶喜はコンな身も蓋も無い事を言っている。  

 「到底行うべからざる攘夷なれば、又行われざる程の期日に定むべし」  

 どうせ攘夷ナンて出来無いんだから、出来もし無い期日に決めてしまえ・・・要は適当に決めたのである。この辺りの慶喜の「話の判ら無い人間は相手にしない」と云う割り切りは、幼少期から複雑な人間関係の渦中に在ったが故だろう。  
 そして、このアバウトさが意外な効果を発揮する事に為る。と云うのも、政事総裁職を務めた松平慶永(よしなが・春嶽・しゅんがく)が帰ってしまったので、京に残された家茂と慶喜は、尊王攘夷派のサンドバッグ状態である。好き放題言われながら慶喜と家茂は京から出られず人質の様に為ってしまった。

 実際に、将軍が江戸に帰るのを朝廷から何度も止められて居る。行列が出発してから、御所に呼び着けられる事すらあった。為るべく長く京に留めて将軍の失墜を世に知らしめようとしたのだろう。処が、攘夷の期限に付いて、慶喜が「将軍が江戸に帰ってから20日後」とした為に、帰して貰え無ければ攘夷は出来ないと云う理屈に為る。その点では、攘夷の期日を延ばす事に成功したと云え様。
 朝廷からすれば、攘夷が実行され無ければ困る。その為、4月21日には家茂が、22日には慶喜が江戸に無事に帰還出来た。人を食った慶喜らしい切り抜け方である。勿論、攘夷など遣る積りは毛頭無く、約束の5月10日に攘夷を決行したのは、下関の海峡を通る外国船を砲撃した長州藩だけだった。

 要約戻ったら老中達から批判  

 江戸に戻った慶喜を待って居たのは、自分ばかりを批判する老中達である。慶喜が京都でドレ程の目に遭ったのかは知ろうともしない。我慢の限界とばかりに、慶喜が将軍後見職の辞職願を出すのも無理からぬ事だろう。  
 だが、文久3(1863)年11月26日、慶喜は再び上洛を果たす。横浜鎖港問題の対応を決める為である。この問題に付いては後述するが、これから国をどうして行くのか。その事を議論するには、結局、慶喜の存在が必要不可欠なのである。

 「ヤレヤレ」と云う慶喜のウンザリ顔が思い浮かぶ様だが、満更(まんざら)でも無かったかも知れない。何時だって、慶喜は遣る気が無い訳では無い。只、利用される事に慎重で、飽く迄も自分の遣りたい様に出来る体制を目指したのである。お飾りに為る事だけは耐えられ無かったのだ。  
 慶喜が京に上ると、東本願寺に有力な藩の代表者達が集まり連日話し合いが行われる様に為った。例の如く、何時の間にか中心人物として扱われる慶喜。一方で、薩摩藩の発言力も高まっていた。
 
 長州藩の宮中支配にウンザリしていた中川宮(朝彦親王)が薩摩藩と手を組んで、孝明天皇にも同意を取り付けた上で、長州藩を京から追い出した為である。(八月十八日の政変) 話し合いの場には、政事総裁職を辞めた慶永(よしなが)の姿もあった。
 慶喜と一度は決裂したが、再び京に入った慶喜を最初に訪問したのが慶永である。慶永が聞きたかったのは、慶喜が薩摩藩に付いてどう思っているかだった。  

 「薩摩の事をお疑いに為って居るのか」薩摩が政治的野心を持って居ると警戒して居るのか・・・と云う事だ。慶喜はこう答えた「幕府は大いに疑っていたし私も同様だったが、疑った処で何も好い事は無いので、もう疑う事の無い様にしている」  
 慶永からすれば、長州が居なくなり過激な尊王攘夷派が京から立ち去った今コソ、有力大名がまとまるべき時。その為には、慶喜が薩摩藩と敵対しては困ると考えたに違い無い。慶喜の冷静な見解には、ホッと胸を撫で下ろした事だろう。

 自分の方針は「中興」ではなく「創業」  

 その後も話し合いは薩摩藩の島津久光が主導して進んで行く。或る時は、久光からコンな提案がなされた。  
 「優柔不断な公卿達では何も決められ無い。この際、諸侯達も入れて、議奏に加えてはどうだろうか」  
 勿論、集まって居るメンバーには異議は無い。松平容保(まつだひら・かたもり) 松平慶永(まつだいら・よしなが) 伊達宗城(だて・むねき) 山内豊信(やまのうち・とよのぶ)そして、徳川慶喜と島津久光(しまづ・ひさみつ)が朝議参与に任じられた。朝廷だけでは無く幕府の意思決定にも関与する事に為ったのだ。

 遂に新しい世の中が始まる・・・幾度と無く、慶喜に期待を裏切られた慶永(よしなが)も興奮したのだろう。朝議参与の仕組みを作る為に薩摩藩が朝廷と交渉して居る最中、慶永は慶喜にこんなことを聞いている。「今の時勢に合うのは、中興の精神かそれとも創業の精神か」  
 これに対して慶喜は「自分の方針は、中興では無く、創業の方にある」と断言。又その理由についてこんな風にも語っている「中興為らば、今迄した事は採らねば為らぬ。だが、創業ならば、規則も無ければ慣例も無いのだから善いと思ったことは直ぐ遣れる」
 
 これで要約足並みが揃った、今度コソ慶喜が覚醒した。新しい世に為ると慶永は確信した事だろう。だが、その思いは無残にも打ち砕かれる事に為る。そう、又もや慶喜によって、である。  
 「この3人は天下の大愚物なのに、宮さまは何故ご信用あそばすのですか?」  
 ・・・呆気に取られた事だろう。中川宮邸で宴席を開いた時の事である。酔っパラった慶喜が突然、慶永・宗城、そして久光のことを「大愚物」と罵倒したのである。一体何があったのか。意見が分かれて居たのは「横浜鎖港問題(よこはまさこうもんだい)」である。

 これは、日米修好通商条約に基づいて開いた横浜港を閉じて欲しいと云う朝廷から幕府への要求で、問題点は何時もと同じ。外国と結ばされた条約に従って開国の状態を続けるか、それとも、条約を破棄して鎖国に踏みきるかと云う議論である。
 元々開国論者である久光・宗城は勿論、一時期は攘夷派と為ったが開国派に転じた慶永は、一旦開けた横浜港を再び閉じるのは不可能だと云う立場を執る。慶喜も本音は開国論者で、攘夷の思想には散々な目に遭わされて来た。勿論、3人に同調する・・・かと思いきや、何と慶喜は反対。朝廷と同じく攘夷の立場に立ったのだ。そして止めを刺すかの様なこの暴言である。慌てた慶永は泥酔して居る慶喜を摘まみ出している。

 慶喜の立場を完全に理解出来て居なかった慶永  

 「慶喜の乱」と云えば大袈裟だろうか。この暴挙の理由には様々な説がある。@国内を安定させるべく攘夷派に配慮をしたのではと云う考えもあれば A攘夷を希望する朝廷に遠慮したのではないかと云う考えもある。恐らく何れも正しいが、一番の理由は B薩摩藩が政治を主導するのが気に食わ無かったのだろう。

 慶永も気を付けて居た処だが、慶喜の立場を完全に理解出来ては居なかった。と云うのも、諸藩の有力者達は夫々の勢力基盤がある。だが、慶喜の後ろ盾は徳川家である。参与会議が力を持つ事は、自身の影響力を失う事でもある。取り分け薩摩藩が急速に権勢を奮い始めて居る。
 これ以上、久光が天皇に近づく事の無い様に、ワザと暴言を吐いて参与会議をブッ壊したと云うのが真相に近いのだろう。慶喜は邸に帰ると、侍臣達にこんな風に語った。  

 「今日は愉快、愉快。大技計(おおわざけい)をブチ壊したのは痛快の至り」  

 技計(わざけい)とは、薩摩藩がイニシアチブを握ろうとして居た事を指す。家来も「烈公(父の徳川斉昭)の神霊が乗り移られたのか」と皆感服。酒を飲み直して盛り上がったと云うから、余程薩摩への鬱憤が溜って居た様だ。
 只、そうかと云って慶喜のこの大胆な行動が、幕府内部で支持された訳では無い。元々、参与会議に加わった時点で、幕府内での慶喜の求心力は低下して居る。慶喜は何時も周りを敵ばかりにする。それでも、暫くすれば皆が寄って來る。それも判って居たのだろう。
 
 慶喜が目指したのは、飽く迄も自分が中心と為ったこれ迄に無い枠組みだ。そう云う意味では、慶永に「創業」と語った言葉には嘘が無かった。慶喜は、前から辞表を出して居た後見職を正式に辞任。元治元(1864)年3月に禁裏御守衛総督(きんりおしゅえいそうとく)に就任する。これは朝廷を守る役割であり大胆な転身を図ったと云え様。

 立場が変わっても目指すものは同じ  

 目まぐるしく変わる慶喜の立場。それでも目指すのは何時も同じで、自分が中心と為った「創業」である。
 同年7月に長州藩が過つての勢いを取り戻すべく京に出兵して來ると、薩摩藩の強兵がこれを撃退。(禁門の変) 負けじと慶喜も禁裏御守衛総督として活躍して存在感を発揮している。  
 そう、慶喜からすれば、参与会議での大暴れは薩摩藩との第1ラウンドに過ぎ無い。ここから正念場だ。御所で戦闘をした長州に対して孝明天皇が激怒。長州が「朝敵」と為ると、遂に長州を征伐するべく、慶喜は第1次長州征伐へと出向く事に為る。

 これで長州を制圧出来れば、その後も、徳川家が変わらず政権を掌握しながら、日本の政治は慶喜を中心に回り始めた事だろう。既にその兆しは在った。 だが、慶喜の前に、強大な壁が立ちはだかる。それは薩長同盟である。
 (第5回につづく)  



 【参考文献】 徳川慶喜『昔夢会筆記―徳川慶喜公回想談』(東洋文庫) 渋沢栄一『徳川慶喜公伝全4巻』(東洋文庫) 家近良樹『徳川慶喜』(吉川弘文館) 家近良樹『幕末維新の個性@徳川慶喜』(吉川弘文館)
松浦玲『徳川慶喜将軍家の明治維新増補版』(中公新書) 野口武彦『慶喜のカリスマ』(講談社)















視聴率は奮わず・・・朝ドラ「おちょやん」が陥った“暗さ志向”の落とし穴



 
 視聴率は奮わず・・・朝ドラ「おちょやん」が陥った“暗さ志向”の落とし穴


  5-18-1.png 5/17(月) 11:00配信



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      「おちょやん」のヒロイン・杉咲花(C)朝日新聞社 5-18-2


 NHKの連続テレビ小説「おちょやん」が幕を閉じた。5月14日放送の最終回では、ヒロインが離婚した夫と共に鶴亀新喜劇の舞台に立ち喝采を浴びる。実人生と芝居を巧みに絡めて来たこの作品らしい締め括りだ。
 杉咲花が演じたヒロインのモデルは喜劇女優・浪花千栄子で、鶴亀新喜劇のモデルは松竹新喜劇。それ故、全編を通して劇中劇が好いアクセントに為って居た。又、ラスト2週は苦労続きだったヒロインが公私共に幸せに為る姿が描かれたので、安らかな満足を感じた人も多いだろう。

 重苦しく暗い展開も目立った作品の最後に、ヒロインが晴れた空を見上げ「今日もええお天気や」と呟(つぶや)く場面には、多くのファンが感動した筈である。 只、この作品、数字的には振るわ無かった。
 全115回の平均視聴率は17%台の前半。20%超えが珍しく無い朝ドラとしては物足り無い数字で「失敗作」とも云われる「純と愛」(2012年後期)と同レベルだ。 勿論、数字が全てでは無いし記録より記憶に残る傑作と云うものもある。

 実際、SNS等での反響を見る限り「純と愛」の時の様な不満の声は余り目立た無かった。 それでも矢張り、朝ドラとしてこれで大丈夫なのかと云う気持ちには為る。朝ドラ及び大河ドラマは「国民的」と云う形容もされるドラマ枠であり、或る程度の数字は維持していないと枠の存続に関わって來るからだ。  
 一昨年の大河「いだてん〜東京オリムピック噺〜」が一部で熱狂的な支持を集めながらも、ひとケタ台と云う歴史的低視聴率に終わった時がそうだった。翌年の「麒麟がくる」が数字的にも盛り返した事でホッとさせられたものだ。  

 朝ドラに付いても、2003年後期から8年半、10%台の作品が続き、不要論が囁かれた冬の時代がある。その再来を危惧してしまうのである。 ちなみに、吉本興業の創業者を描いた事で「おちょやん」と似て居たのが「わろてんか」
 笑いがテーマで大阪制作と云うのも同じだ。この作品の平均視聴率が20.1%なので「おちょやん」も工夫次第でそれ位まで行けたのではないか。

 では、どんな工夫が有効だったかと云えば・・・先ず、画面の暗さを何とかして欲しかった。全編を通して、都会の屋内でのシーンが多く、自然の美しさ、特に明るい緑が足り無かったのだ。100作記念の朝ドラ「なつぞら」でも北海道パートが人気で、東京編は今ひとつ盛り上がら無かった様に、画面の暗さが数字にも響いた気がする。 その分、物語が明るければ好いが寧ろ逆だった。

 朝ドラ史上最悪と評された父親による虐待、再会したかと思えばヤクザ者に為って居た弟による妨害、挙句は公私に渉るパートナーだった夫が若い後輩女優を孕ませた為、離婚して家を出るハメに。
 その都度、救いと為る展開も用意されて居たものの、そこに到達する迄に暗さに耐え切れず離脱した人も居るだろう。 秦基博の歌う主題歌のタイトルは「泣き笑いのエピソード」それはまさに、この作品のテーマでもあったが「泣き」「笑い」のバランスが前者に偏り勝ちだった。

 しかも、泣かせようとする気合が強過ぎて、返って泣け無かったりもしたのである。実はこの背景には、或る先行作品が影響して居る。同じく大阪制作の「カーネーション」(2011年後期)だ。熱烈なファンも生んだが、古くからの朝ドラファンには不評で、視聴率も20%には届か無かった。 その原因は矢張り画面と物語の暗さだ。

 前年の大河「龍馬伝」で注目されたプログレッシブカメラによる映画風の映像は、朝ドラにはヤヤそぐわ無いもので違和感をもたらした。又、ヒロイン達の荒っぽい言葉遣い、柄の悪いキャラクターも、朝から余り爽やかな気持ちにさせて呉れ無かった。
 ドラマとしての出来自体はマズマズだったから、夜の枠なら好かったのにと思ったものだ。 最も、今や朝ドラは朝に見るものとは限ら無いと言いたい人も居るだろう。実際、昼や夜、或いは土曜の一挙放送でとか、録画したものを好きなタイミングでと云う見方も増えて来て居る筈だ。

 それでも矢張り、朝に見る人は多い。出掛ける前の「時計替わり」に見て居る人も居れば、家事をしながらと云う人も居て、ボーっと見て居ても面白いとか、橋田壽賀子が生前好く口にして居た様に、耳で聞くだけで判ると云う処も大事なのだ。  
 その点「おちょやん」はチョット不親切だったかも知れない。深い世界を描こうとする余り、役者の表情等をジックリ見ていないと入って来ないのではと感じる時が多々あった。

 ちなみに「カーネーション」に付いて、従来の朝ドラには無かった深さを評価する声が上がったが、そう云う深さを求め過ぎて、暗さや重苦しさと云ったものに走るのは朝ドラとしては寧ろ後退することだろう。  
 例えば、前作の「エール」でも、矢鱈(やたら)と暗く重苦しい戦争描写が話題に為った。そう云うものを遣ってみたい気持ちも判ら無いでも無いが、朝からゲンナリした視聴者も多かった筈だ。  

 朝からゲンナリと云えば「おちょやん」では別の意味で引っ掛かるシーンがあった。もう芝居は遣ら無いと云うヒロインを口説き落とす為、塚地武雅扮する芸人が自分の失敗談で和ませ様とするのだが、それが「ウンの悪い話」と云う「おもらし」ネタだったのだ。
 朝食をとりながら見て居る人も居るだろうにと、これは流石に笑え無かった。 また、ヒロインの父が死んだ後、皆で忍ぶ場面では「アノ人、堪らん臭さやったナァ」と云う冗談が飛び出した。ホームレス同然と為って居たのでそれはそうだが、これも朝食時には聊かそぐわ無かったのではないか。  

 筆者が朝ドラ有数の傑作と考える「純情きらり」等はその辺りも行き届いて居た。原案の小説ではヒロインが腸結核で早世する為、下痢の描写が出て來るが、只の結核と云う事にしてボカス等した。朝ドラにはこう云うエチケットが必要だ。  
 そして、朝ドラに何より大切なものを感じさせて呉れるのが、現在アーカイブ枠で再放送中の「あぐり」である。「おちょやん」ファンからはお気楽過ぎると云う声も上がる程、ヒロインも周囲の人々も明るく、不幸な事が起きてもアッと云う間に立ち直り前向きな展開に切り替わる。

 かと云って、感情の機微の描き方が疎かな訳でも無い。喜怒哀楽を確り見せつつ、せりふだけ聞いていても為る程と判らせる面白さがあるのだ。
 朝ドラには、こう云う突き抜けた明るさや長閑(のどか)さ・緩(ゆる)さが似合う。その点「カーネーション」的な重苦しい暗さが目立った「おちょやん」を救って居たのが劇中劇だ。フィクション性が強調される事で、物語の本筋の生々しさが緩和されて居た。

 離婚した夫婦が共演してお互い前に進もうとすると云う最終回の劇中劇はまさに、そんな「おちょやん」ならではの見事なフィナーレと云える。 こう云う工夫も出来るのだから、他にもひと工夫ふた工夫することで、後数%上げることは可能だっただろう。
 朝ドラに携わる人達にはその辺りも頭の隅に置いて貰って、記憶は元ョ記録にも残る作品作りを期待したいものだ。  

 尚「おちょやん」「カーネーション」コソが最高の朝ドラだと云う人には、この記事はストレスの貯まるものだったかも知れない。筆者に取っても「おちょやん」には9割方満足したが、ここでは残り1割の不満を書いてみた。  
 只、もうひとつ付け加えて置くと、世の中にはSNSにもネットニュースにも興味の無い人がマダマダ居る。「おちょやん」が取り逃がした数%は、そう云う視聴者層と可成り重なる様に思えて為ら無い。

 朝ドラを大ヒットさせたいなら、そんな声なき視聴者層こそ重視すべきなのである。 新たに始まる「おかえりモネ」は予告編などを見る限り、画面上も緑が明るく物語も明るく為りそうだ。
 ヒロインが気象予報士を目指すと云う話でもあるし「おちょやん」最終週のタイトル「今日もええ天気や」はその辺りも意識したものだろう。冬の時代がまた来たらどうしようと云う一抹の不安の雲を吹き飛ばす様な、晴れやかな朝ドラを楽しみにしたい。




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 宝泉薫(ほうせん・かおる)1964年生まれ 早稲田大学第一文学部除籍後 ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』『宝島30』『テレビブロス』などに執筆する著書に『平成の死 追悼は生きる糧』『平成「一発屋」見聞録』『文春ムック あのアイドルがなぜヌードに』など



 〜管理人のひとこと〜

 管理人は朝ドラを視聴してないのでトヤカク云う資格は無いのだが、本文でも指摘している様に、何故何度も似た様な主人公設定で企画するのだろうか。前作は吉本新喜劇の吉本はな氏、今度は松竹新喜劇の浪花千栄子氏・・・無論、興行会社の創業者と喜劇役者との違いもあるのだが、大阪のお笑い芸人・役者を中心とした物語なのだ。大阪の元気な源は無論「お笑い」なのは承知しているがそれだけでも無い筈だ。
 前首相・安倍氏が吉本を溺愛し、破格な待遇で予算を付けて人気保持の為に色々と吉本を利用した。その名残で最近は吉本を中心とした芸人が東京のTV局を席巻している。確かに軽快で話も面白く座が賑やかに為るのだが、吉本一色では飽きてしまわないか。それも、民放もNHKも含めてなのだから遣る瀬無い。大阪の笑いも必要なのだが、全てが吉本では適わない・・・これがマンネリとなるのだ。余りに出過ぎると直ぐに飽きてしまう。余りに早く賞味期限が過ぎてし舞わないか。考えてセーブすべきだろう。消耗品の様な下手なタレントの使い方だろう。


                 以上













 




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