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2021年05月11日

無敵だった元の大軍が 何故日本に敗れたのか? 歴史作家 関裕二

 

 無敵だった元の大軍が 何故日本に敗れたのか?

 歴史作家 関裕二


 VOICE 5/10(月) 11:54配信


5-10-5.jpg

           対馬の中央に広がる浅茅(あそう)湾 5-10-5



 当時、世界的に無敵・最強と謳(うた)われた元の大軍を、日本は退ける事が出来た。その理由は「日本の地理的特徴」にあると歴史作家・関裕二氏は語る。
 日本は大海に浮かぶ孤島だから、独自の文化が花開いている。過つては、日本の文化の殆どが大陸や朝鮮半島から齎(もたら)されたものと信じられて来た。古代日本は、渡来人に征服される事は無かったし、海の古代史を探って行けば「渡来人征服説」には大きな疑念が浮かび上がって來るのである。

 本稿は、関裕二著『海洋の日本古代史』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。

 「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記された驚きの対馬

 対馬に初めて旅した時、日本史の根幹が判った気がした。対馬が在ったから、日本は日本のママで居られたのではないかとさえ思った。対馬は日本列島よりも朝鮮半島に近い。北側の展望台から対岸の釜山(プサン)が見える。今でも、韓国から多くの人達が遣って來る。近年では、日本人よりも韓国人観光客の方が圧倒的に多い。(新型コロナ禍の時期は別だが)

 だから当然、対馬は朝鮮半島の文化圏と思われ勝ちだ。しかし、ここは縄文時代から既に縄文的で日本的だったのだ。(考古学的にハッキリと判って居る)例えば弥生時代の稲作は、朝鮮半島からでは無く九州から伝わって居る。
 何故、近い方の朝鮮半島の文化に染まら無かったのだろう。この謎は、対馬だけの問題では無く、日本列島にも当て嵌ると思う。

 大陸や半島側から日本地図を見なければ、日本の本当の歴史は判ら無いと云う話は好く聞く。為らばそうしてみよう。対馬は、渡来人が最初に訪れる日本列島だ。陸続きで何処までも行ける大陸の人間に取って、大海原に漕ぎ出し対馬に行く事自体が大きな冒険だっただろう。
 そして、辿り着いた小さな島が、意外にも急峻(きゅうしゅん)で海岸から仰ぎ見る様な崖や山に覆(おお)われ、平地が無く「これが倭(日本)なのか」と、茫然(ぼうぜん)としただろう。 既に触れた様に「魏志倭人伝」には、対馬の様子が「驚き」と共に描かれている。

 「絶島(ぜっとう)」と云い良田は無いと云う。良田が無いのでは無く、正確には「平地が無い」「山ばかり」なのだ。 大陸の人間の「農地も無い孤島で、どう遣って暮らして居るのだろう」と云う、感想が聞こえて来そうだ。
 対馬の次に壱岐(いき)がある。此処の記事も面白い。 「竹林と叢林(そうりん)が多く、三千ばかりの家がある。やや田地はある。只、田を耕しても十分な食料を得る事が出来ず、矢張り南北に市糴(しかい)して居る」 此処でも、田畑の少なさに驚いている。壱岐は平坦だが、恐らく「水の供給」の問題で農業は振るわ無かったのだろう。

 「アア、だから、止む無く船を漕ぎ出して交易して居るのか」 と大陸の人達は勘違いをしたに違い無い。ヤッとの思いで九州島の末盧国(すえこく)に辿り着いても、遣わされた使者は獣道(けものみち)よりも酷い道を歩かされて居る。
 「前を行く人の背中も見え無かった」と、帰国後皆に吹聴したのだろう。何処までも続く広い道を日々往来している大陸の人々に取って、日本列島は「未開の地」であるだけでは無く「土地を奪った処で山しか無い。人が住め無い、村と村を往き来出来ない」訳で、侵略する意欲を削(そい)だ事だろう。増して、騎馬民族なら騎馬の優位性は激減する。

 騎馬民族日本征服説の証拠は見付かって居ない

 時代は下り、弘安の役(1281年の元寇)で元は敗れるが『元史』には、10万の軍勢のうち生還したのは3人だけで、この時江南(華南)の唐人は生け捕りにされたと記録されている。
 「南船北馬」と云う様に、中国の北側は平原が広がって居たから馬が重宝されたが、南側は大河川と森に囲まれて水運が発達して居た。更に、大海原に船を漕ぎ出し、東南アジアに商圏を確立して居たのだ。その江南の人々だけは助けられたのだ。

 日本側は強(したた)かで、江南の唐人から、造船・航海の技術・潮の流れ等の知識を得て、ここから先、倭寇(わこう)が出現し各地で暴れ始める。問題は、何故無敵だった元の大軍が敗れたのかである。勿論、台風に遣られたと云う直接的な原因は在ったが、戦略的に見て大軍の長期逗留(とうりゅう)には無理があった。大体、兵站が維持出来ない。
 壱岐の住民はホボ全滅したが、対馬は完全に滅んだ訳では無い。人々は山に逃れている。10万もの大軍の食料を朝鮮半島から運ぶとすれば、対馬の民のゲリラ戦にも対処する必要がある。輸送船団を水軍が襲えば、10万の兵は干上がる。 それは古代も同じだ。

 一時、江上波夫の騎馬民族日本征服説が一世を風靡したが、冷静に考えれば無理がある。考古学的に「騎馬民族がヤマトを席巻した証拠」は見付かって居ない。 神話に云う葦原中国(あしはらのなかつくに)は「湿地帯や水田が多い土地」でもある。
 馬は脚を取られるし、船に馬を乗せ瀬戸内海を東に進めば複雑な潮の流れに翻弄され、水軍の格好の餌食(えじき)に為るだけだった。 内陸部を進軍すれば、隘路(あいろ)・・・獣道に毛の生えた程度の狭い道だっただろう。で、周囲の林から弓を射掛けられてゲリラ戦に苦しめられ疲弊して行くだけだ。騎馬民族も領土欲が失せただろう。

 大陸の人間は、無暗矢鱈(むやみやたら)に、大海原に飛び出そうとは思わ無かった筈なのだ。漁も航海も、素人には真似出来ない特殊技術だからだ。それでも、どうしても海を渡りたいと云うのは「敵に攻められて、モウ持ち応えられ無い」「独裁者の横暴に耐えられ無い」と考えた時だろう。渡来人は征服者では無い多くは亡命者である。

         5-10-3.jpg 5-10-3

 関裕二(せきゆうじ) 歴史作家 1959(昭和34)年 千葉県生まれ 歴史作家 武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー 仏教美術に魅せられ日本古代史を研究 著書に『藤原氏の正体』(新潮文庫)『神武天皇vs.卑弥呼 ヤマト建国を推理する』(新潮新書)など多数




 海の倭人は 何処から遣って来たのか?

 関裕二 歴史作家 2021年05月10日 公開

  5-11-6.jpg


 鹿児島から見付かった古い遺跡は、縄文時代に対する見方を変えて居る。旧石器人は獲物を求めて移動生活をして居たと信じられて居たが、縄文早期前葉に既に南部九州では安定した定住生活が始まって居た事を示して居た。一体彼等は何処から遣って来たのか? そのカギを握るのが、幻の大陸スンダランドの存在である。

 本稿は、関裕二著『海洋の日本古代史』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。

 鹿児島は縄文の海人の発祥地?

 日本列島と朝鮮半島の間を、自在に往き来して来た倭(わ)の海人(あまと)は、何時・何処から遣って来たのだろう。ヒントを握って居たのは南部九州だ。南部九州から、常識外れの古い遺跡が次々と見付かっている。
 例えば、水迫遺跡(みずさこいせき)(鹿児島県指宿市)からは、後期旧石器時代終末・・・縄文時代に入る直前の約1万5,000年前、この時代は獲物を追い掛けて移動する生活が続いて居たと信じられて居た・・・の竪穴住居跡や道路状遺構・石器製作所・杭列(くいれつ)等が出土している。「定住化へ向かう集落」ではないかと疑われて居る。

 旧石器人は、獲物を求めて移動生活をして居たと信じられて居たから、これは大発見だった。縄文時代に対する考え方を変えたのも鹿児島県の遺跡だった。縄文人が海に出て沿岸部の貝を採取し、漁撈(ぎょろう)を始めたのは縄文時代早期前半とされて居たが、この常識も鹿児島県の遺跡が覆(くつがえ)してしまった。
 縄文時代草創期から早期に掛けて、鹿児島県霧島市周辺に突発的に先進の文化が花開いて居た事が判って来た。それが、上野原(うえのはら)遺跡(いせき)(鹿児島県霧島市国分)の発見で、縄文早期前葉に、既に南部九州では安定した定住生活が始まって居た事を示して居た。

 日本列島で、いち早く平底の土器(円筒形土器)が使われて居た事も判って来た。縄文時代早期の縄文土器は底が尖って居た(地面に突き刺した)のである。上野原遺跡から計52棟の竪穴住居も出土して居た。同時代に存在したのは10棟と見られて居る。日本最古最大のムラが九州に在ったのだ。そして燻製(くんせい)を作る炉穴も作って居た。

 幻の大陸スンダランドから遣って来た海人たち

 では、南部九州に何故、最先端の文化が花開いて居たのだろう。東南アジアの幻の大陸・スンダランドから遣って来たのではないかとする説がある。スンダランドはマレー半島東岸からインドシナ半島に掛けて、寒冷期に実在した沖積(ちゅうせき)平野で、地球規模の温暖化によって海水面が上昇して住める土地が減少して行った。
 すると住民の一部が5万〜4万年前に北上し、東アジアや日本列島に辿り着いて居る。彼等が日本列島の旧石器人にも為った。更に、ヴュルム氷期(最終氷期)が終わって海面が更に上昇するとスンダランドは水没を始めた。

 小田静夫は、この時、スンダランドを脱出した人間の中に、黒潮に乗って直接日本列島に遣って来て、南部九州に定住した人々が居たのではないかと推理して居る。『遥かなる海上の道』青春出版社
 証拠に為るのが、拵(こしら)ノ原遺跡(鹿児島県南さつま市)から出土した鋭利な磨製ノミ・拵ノ原型石斧だと云う。磨製ノミが有れば、外海を航海出来る丸木舟を外洋航海用に作る事が可能に為る。それが1万2,000年前頃の薩摩灰地層の下から見付かっている。石を磨いて丸ノミ状にしたもので、丸木舟を作る為の海人の貴重な道具だった。

 海人の分布域でもある宮崎県・長崎県・沖縄県でも好く似た石斧が見付かって居る。しかし、前述した上野原遺跡は突然消滅してしまう。約6,400年前に鬼界(きかい)カルデラの大爆発が起き、アカホヤ火山灰が降り注いだ。この火山爆発は巨大で、西日本の縄文社会に多大な影響を及ぼした。
 また、南部九州の縄文人達は南方に逃れ、一部は日本列島に散らばって行った様だ。倭の海人の原型はこの時生まれたのだろう。スンダランド沈没時、遥々(はるばる)黒潮に乗って日本列島に辿り着いた南島の海の民は、折角安住の地を見付けたのに火山の大爆発によって逃げ惑い、日本列島各地に広がって行ったのだろう。

 九州西岸から北西部や北部・壱岐・対馬・朝鮮半島最南端に拠点を構えて行ったに違いない。こうして、縄文の海人のネットワークは1万年の年月を掛けて、形成されて行ったのである。
 九州北西部の人々は縄文的と指摘されて居るし『風土記』は五島列島の人々の話す言葉は異質で隼人と似て居ると記録して居た。倭の海人は縄文的だったのだ。旧石器時代の終わりから縄文時代の始まる頃、スンダランドから日本列島に辿り着いた海の民が、縄文と倭の海人の先祖だった事に為る。

  以上















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