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2021年05月10日

731部隊の元少年兵が激白 「残虐な人体実験が我々の日常だった」



 731部隊の元少年兵が激白 「残虐な人体実験が我々の日常だった」

 2つの「日常」が重なった 少年兵の記憶


 現代ビジネス編集部

 731部隊に居た10代の少年兵たち

 「任務が終わった夜に同期の友人と会うと、お互いの業務内容を話して居ました。『今日は人体解剖をした』『軍用犬に細菌兵器を運ばせる訓練をしている』ナンて人も居ましたね。未だ10代でしたけど、当然施設内で生物兵器を作って居る事も知ってましたよ」

 足った14歳で731部隊に入隊した元少年兵の須永鬼久太氏(92)はこう語る。関東軍防疫給水部本部・通称「731部隊」満州のハルビン市近郊に拠点を構え、表向きには兵士の感染症予防や安全な給水システムに関する研究を行って居た。しかし秘密裏に非人道的な人体実験を繰り返し、実戦での使用を目指して生物兵器を開発して居たとされる。


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    中国ハルビン市に残る、731部隊が使っていた施設[Photo by gettyimages]4-17-10

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    中国ハルビン市に残る、731部隊が使っていた施設[Photo by gettyimages]4-17-11

 14歳から17歳と云う多感な青春時代を、須永は「日本陸軍史上もっとも残虐」とされる部隊で過ごした。戦後75年が経ち、731部隊の実情を証言出来る元隊員は少ない。満州の地で、彼は一体何を見たのだろうか。節目の年に改めて話を聞いた。

 惨(むご)たらしい人体実験の実情

 731部隊の任務の一つが、敵兵を重篤(じゅうとく)な伝染病に感染させる「細菌爆弾」を製造することだった。部隊内で開発されていた「ペスト菌爆弾」は、病原菌を媒介するノミを爆発によってバラ撒き相手をペストに感染させる。
 長野県の高等小学校を卒業して731部隊へと入隊し、1年間の教育期間を終えた須永は、1943年頃からそのプロジェクト内の「焼成班」に所属して居た。

 「私の仕事は、ペスト菌爆弾の容器を焼き上げる事でした。少量の火薬でペスト爆弾が爆発した後、粉々に飛び散って中身の細菌が生きたままバラ撒かれる様に、陶器製の容器が使用されていました。細菌兵器を作って居る事に付いても説明を受けて居ましたよ」

 彼等が製造した爆弾の威力は、残虐な人体実験によって検証された。実験台として惨たらしく殺害されたのが、中国人やロシア人の捕虜達であった。彼等は「丸太」に等しい存在とされて居た為「マルタ」と呼ばれ、文字通りの非人道的な扱いを受けたとされる。

 「実験施設から屋外の実験場にマルタを連行して、抵抗出来無い様杭に括り付け、数メートル間隔で並べるんですよ。彼等の直ぐ近くで細菌爆弾を炸裂させ、強制的にペストに感染させた上で、身体がどの様に変化するのか経過を記録するんですね」

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     731部隊の人体実験で使われた器具[Photo by gettyimages]4-17-12

 このペスト菌爆弾の検証実験では、一度に10人以上の捕虜が実験台にされた。爆弾の感染力と効果範囲を測定する為、捕虜と爆発地点間の距離や火薬の量などを変化させて何度も何度も実験が行われ、その度に罪の無い捕虜達がペストに感染させられた。
 実験終了後、感染した捕虜が治療される筈も無く、全員が数週間以内に死亡した。しかし彼等は死んでも尚「実験台」として扱われて居る。爆弾の性能向上に繋げる為、死亡した感染者の遺体は解剖されて、臓器へのダメージを徹底的に調べられた。驚くべきことに、須永の様な10代の隊員達も、この事実を知りながら平然と軍隊生活を送っていた。

 2つの「日常」が重なり合う

 「部隊内で人体実験が行われて居る事は、焼成班に配属された頃から知って居ました。本部施設3階の窓から、中庭に居るマルタを見た事があります。何処の国の女性かは分かりませんが、遠目に女性のマルタを見たこともありました」

 初めて実験台である「マルタ」を見た時の記憶を、彼はこの様に振り返って居る。残虐な実験が基地内で行われ、しかも捕虜が実験台にされる事に対して、特段の驚きは無かったと云う。当時の心境を須永はこう話す。

 「人体実験に使われるマルタは捕らえられたスパイで、死刑囚だと教育されて居ました。だから良心の呵責みたいな感情もありませんでしたね。14歳で入隊した当時の我々は、本心からお国の為だと思い、滅私奉公の積りで任務に当たって居ました。『この細菌爆弾が完成すれば戦局を変える事が出来る』と上官から言われて居ましたから」

 須永以外の少年兵たちも同様だ。前述の証言の通り「人体解剖を行った」「軍用犬に細菌爆弾を運ばせた」と云った会話は、部隊の少年兵達にとって有触れた世間話だった。基地内で非人道的な生物兵器が製造されて居る事は周知の事実であり、10代の少年兵達はその環境に慣れ切って居たのだ。その一方で彼等は普通の青年と同じ様な生活も楽しんでいた。

 「私たちの班はハルビン市街地に近い建物で生活して居た事もあり、他班に比べると自由度が高かったんじゃないですかね。休日は外出許可を得て、基地から市街地へ繰り出すこともありました。
 そうそう、ハルビンの市街地で生まれて初めて水餃子を食べたんです。餃子自体、当時の日本にはありませんでしたからね。『アソコの店の水餃子は美味いよな』なんて、仲間と言い合ったものです。映画館に行ったりもしましたね」


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       1943年ごろのハルビンの街並み[Photo by gettyimages]4-17-13

 しかし帰りに通る基地の入り口には「何人たりとも関東軍司令官の許可なくして構内に入った者は銃殺に処す」と書かれた警告文が張られている。「初めて見た時は、ものものしい場所に来てしまったと思った」と須永は話す。
 残虐な人体実験が当たり前の様に行われて居た基地の中と、美味しい水餃子や映画館がある外の世界。どちらも少年兵達に取っての「日常」だった。

 彼等少年兵の経験を学ぶ意味

 ソ連が国境を越えて満州に侵攻して来た1945年8月8日、須永が所属する少年隊は、機密保持の為施設内の研究室を破壊する様命じられた。その後工兵隊が本部の建物を爆破し証拠を隠滅した上で撤退した。
 須永が後で聞いた処によると、一部の少年兵は不必要に為った捕虜を直接「処分」させられたらしい。須永らが研究室を破壊している間、施設の一角からズッと黒い煙が上がって居た。少年兵達が捕虜を殺害し、死体にガソリンを掛けて燃やして居たのだった。

 その後、須永らは朝鮮を経て日本へと戻った。帰国直後に感じた恐怖についてこう振り返っている。

 「何とか内地に戻ったものの、我々の部隊に所属して居た者は『そのうちGHQに捕まって殺されるんじゃないか』と云う不安が強かったですね。731部隊で非人道的な人体実験を繰り返し細菌爆弾を開発して居た訳ですから。
 でもそのうち、石井四郎部隊長が、実験データと引き換えに隊員を免責する様アメリカと取引したと聞いて、安心しました。率直に、上手く遣って呉れたなと思いましたね」


 戦後暫く沈黙を貫いた須永は「部隊内で見聞きしたことは話しては為らぬと徹底的に教育されて居たから、終戦後も731部隊のことは家族にすら話さ無かった」と語る。しかし7〜8年前から取材に応じる様に為った。

 「731部隊のことが報道でこれだけ世に知られたので『もう全てオープンにしてしまった方が好いだろう』と生きて居る隊員達で話し合い、数年前からメディアに出る様に為ったのです。
 非人道的な実験によって細菌兵器を研究して居たのですから、今考えれば間違ったことだったと思いますよ。でも、当時はそれが当たり前でした」


 軍上層部からの教育や環境への適応の結果、彼等少年兵に取って非人道的な人体実験は「美味しい水餃子」と同じ「日常生活」と為った。異常な環境も戦時には「日常」と為り得る。戦後75年を迎えても尚、我々は須永の証言から引き出されたこの事実を見詰続けなければ為ら無い。

                     以上





















731部隊の「細菌兵器」が原因で 日本軍でも感染症が大流行していた…!




 731部隊の「細菌兵器」が原因で

 日本軍でも 感染症が大流行していた…!


 現代ビジネス 4/17(土) 8:01配信


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               写真 現代ビジネス 4-17-6

 残虐な人体実験を繰り返した事で知られる、日本軍の関東軍防疫給水部本部「731部隊」として有名なこの部隊は、国際法に違反する「細菌兵器」の研究開発を目的として居た。その一部は日中戦争の戦場で実際に使用されたが、実は敵軍だけで無く日本兵にも被害が及んだと云う・・・知られざる中国大陸の実情を、新刊『後期日中戦争』から一部編集の上紹介する。

 兵士を苦しめたコレラ菌


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                Photo by iStock 4-17-7

 酷暑に苦しめられて居た第三師団通信隊では、新たな事態が起きて居た。休息中、歌の上手な近藤君が陽気に「誰か故郷を想わざる」を美声で唱う。突然、近藤君の顔色が変わり、皆が心配して聞くと「下痢また下痢でズボンを履く暇も無い」と云う。
 早速、軍医に診せるとコレラと診断、直ぐ入院させる事に為った。私達は、近藤君がそんな恐ろしい病気に罹って居るとも知らず一緒に食事をして居たのだ。私が近くの民家へ馬糧を探しに行った時、下半身糞だらけの住民がアチコチに寝て居たが、ヤッパリこれが感染したらしい。(「コレラ騒ぎ」『第三師団通信隊誌』所収)  

 コレラとは、コレラ菌に汚染された水や食物を摂取する事で起きる経口感染症のひとつである。1日以内の潜伏期間を経て、下痢を主症状に発症する。重度の場合、大量の排泄による脱水症状・意識の消失・低カリウム血症による痙攣等を起こし、最悪死に至る。 (「コレラとは」「NIID 国立感染症研究所」)
 同隊の前野高広によると「浙贛作戦(せちかんさくせん)に出発前、三種混合の予防接種と種痘を受けた。今度の作戦地は悪疫(あくえき)の流行地とか、厳に注意すべしと云う事だった。注射馴れのした私達兵隊も、この時は未だ一度も経験したことの無い極めて強烈なもので半日の練兵休が与えられた。私は少し発熱した。(三種混合は、コレラ・ペスト・パラチフスだったと思う)」(「雨と兵隊」『第三師団通信隊誌』所収)
 
 コレラの被害は、予防接種を受けられる日本兵は未だしも、戦火により予防接種処か罹患後の治療も真面に受けられ無い現地住民にも容赦無く及んだ。例えば、在杭州日本領事館の田中繁三領事によると、浙贛作戦(せちかんさくせん)期間中の7月26日、杭州北東の浙江省嘉興県(現嘉興市)でコレラを発症した住民が死亡。  
 その後、直ぐ様感染者が400人に達し、その内四分の一の100人が命を落とす。調査の結果、原因は汚染されたクリークの水を飲んだ為であった。(「コレラ発生状況ニ関スル件」「伝染病報告雑纂 中国ノ部(満蒙ヲ除ク)第八巻」)

 日本軍機がペスト菌をばら撒いた


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          Photo by iStock 画像はイメージです 4-17-8

 コレラ以外に、浙江省ではペストも蔓延して居た。ペストはペスト菌によって発症する感染症で、主に保菌主である齧歯類(げっしるい)動物(どうぶつ)の血を吸った蚤によって伝播する。人がペストを発症すると、リンパ節の腫脹・発熱・頭痛・悪寒・倦怠感等全身性の症状が起こる。
 酷い場合は、敗血症や重篤な肺炎を引き起こす(「ペストとは」「NIID 国立感染症研究所」)浙江省では、浙贛作戦が始まる以前の1941年12月に、顧第三戦区司令長官の命を受けて、浙江省政府が各県にペスト拡大防止の対策を緊急に講じるよう通達を発して居た。(浙江省衛生処代電 衛三方字四二九号『中国側史料 中国侵略と七三一部隊の細菌戦』)

 何故、浙江省ではこの時伝染病が流行して居たのか。1941年3月5日、国民政府行政院衛生署は浙江省衛生処長に電文を送り「本署は数回に渉って、敵機が浙江省に襲来し顆粒状物体を散布し、その物体を検査に出しました処ペスト桿菌であったと云う事に関しての報告を受けとりました」(衛生署快郵代電 衛字三〇三〇七号、同右) と、日本軍機によって、ペスト菌が上空から浙江省にバラ撒かれた事を報告している。

 七三一部隊と細菌戦の関係に付いては、経済学者の松村高夫の研究(「731部隊と細菌戦」『三田学会雑誌』第91巻第2号)に詳しい。それによると、1940年、哈爾(ハルピン)郊外の平房(現哈爾濱市平房区)に細菌培養と製造の為の施設が完成。その施設では、各課に分かれて、チフス・コレラ・赤痢・ペスト・結核・炭疽・天然痘など細菌の研究が行われた。
 
 この時、日本軍は中国軍との激しい戦いで、兵器の消耗が深刻化して居り、比較的安価に生産出来、かつ、投下しても容易に隠蔽出来る細菌兵器に着目して居た。そして、中国本土で細菌戦を実施する時の実行部隊として、支那派遣軍に所属する北京の北支那方面軍・南京の中支那派遣軍・広州の南支那方面軍に夫々防疫給水部が設立される。

 ペスト菌弾の恐ろしい「威力」


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    中国ハルビン市に残る、731部隊が使っていた施設[Photo by gettyimages]4-17-9

 七三一部隊が最も実戦に有効であると見做(みな)した細菌兵器がペスト菌弾である。当時世界の生物学界では、ペスト菌を空中から投下しても地上に届く前に死滅してしまう事が常識とされて居た。しかし七三一部隊はこの常識を打ち破り、ペスト菌に感染させた蚤を穀物に混ぜて飛行機から投下する事で、ペスト菌を地上にばら撒くと云う方法を考案したのだ。

 何故、蚤と穀物を混ぜたのか。それは、ペスト菌を保有した蚤が、地上に落ちた穀物を食べに群がったネズミに寄生し、更に、そのネズミを媒介に蚤が人間に伝わり、ペスト菌に感染させるからだ。(『日本陸軍のアジア空襲』) 細菌製造能力は、1ヶ月の間に最大 ペスト菌300キログラム・チフス菌800〜900キログラム・炭疽菌500〜700キログラム・コレラ菌1トンであった。  

 七三一部隊は、1939年5月に満蒙国境で起きたノモンハン事件で、事件発生現場付近の川に腸チフス菌を投入する事に成功すると、1940年以降、中国本土で本格的に細菌戦を実行したのだ。
 細菌がバラ撒かれた場所の中には、浙贛作戦の主戦場であった浙江省も含まれた。尚、1907年10月、第2回万国平和会議で改正成立した「陸戦の法規慣例に関する条約」通称ハーグ陸戦条約では、毒又は毒を施した兵器・不必要な苦痛を与える兵器や投射物・その他物質の使用を禁じている。  

 又、1925年に成立したジュネーヴ議定書では、窒息性ガスと毒性ガス・並びにこれに類する細菌学的手段の戦争での使用を禁止して居た。日本は前者を署名・批准(後者は署名のみ)して居り、これに照らした場合、戦場への細菌散布は条約違反でありかつ戦争犯罪でもあった。  
 
 細菌がバラ撒かれた戦場はどう為ったのか。日本軍の戦争犯罪について数多く研究した森正孝(「七三一部隊と細菌戦」『日本軍の細菌戦・毒ガス戦』所収) によると、1940年8月5日、哈爾濱から派遣された細菌戦専門の奈良部隊(部隊名は七三一部隊の飯田奈良一庶務課主任の名前が由来)が、中支那派遣軍の防疫給水部・通称栄一六四四部隊と合流し翌6日杭州へ到着した。
 そして、攻撃目標を浙江省の寧波・衢州・金華・玉山・温州・台州・麗水とし、10月7日迄に計6回の細菌戦を行ったと云う。この攻撃で使用された細菌は、コレラ・チフス・ペストで、特にペストは衢州で翌1941年迄流行し、274人の死者を出している。

 この他、寧波や金華・義烏等でもペストの感染が広がった。即ち、浙贛作戦で日本軍を苦しめた細菌は、ソモソモ日本軍が撒いたものであり、予防接種を受け無ければ戦場で細菌に感染する恐れがあると云う「日本兵のこの“苦しみ”は自業自得であった」(同上)  

 大本営は、自らが広めた細菌で作戦部隊に被害が及んだ事を憂慮し、これ迄の細菌戦の方法を見直す事を決める。そして、議論の結果、作戦部隊が占領地から退く時に、無住地帯と為った場所に細菌を散布し、そこに戻って来た現地住民や中国兵に感染させる作戦に変更した。

 広中 一成 近現代史研究者



 〜管理人のひとこと〜

 戦争とは、普通に人間を狂気にさせる。それは「我が国の為、戦争に勝利する為」との美名のもとに、全ての行為が正しい事として認められてしまうからだ。ナチスのユダヤ人虐殺にしても、偉大なドイツ民族に汚れたユダヤの血を混ぜては為らない、世界に蔓延する共産思想を培養するユダヤ民族を抹殺しなければ為らない・・・と、真剣に考えたからに他ならない・・・全てが己の正義の為なのだ。
 国家主義・全体主義・絶対主義・・・と色々な云われ方をするが、全ては我が民族・我が国家・自分自身と周りの全ての為の利益を最優先し、それに反する全てを攻撃し反発されると暴力を加える・・・それが、戦争の正義なのだ。幾ら多くの人間を殺傷したか・・・それが最大に評価される・・・前アメリカ大統領トランプ氏の行動と全く同じだろう。
 全ての戦争は、我が国・我が民族を守る・自衛の考えから出発する。初めから他国を侵略する考えを以て戦争を始める国は皆無だ。前提として敵国が存在し、彼らが何やら怪しげな言動を発することで「自衛」の基に直接的暴力が開始されるのだ。
 この問題に飽きては為らない、何度も何度もシツコイ位に反復し思い返しては考えることを習慣としなければ直ぐに第二第三のトランプ氏が登場し国民から大喝采で迎えられてしまうのだ。細菌部隊・731部隊の話も忘れた頃に思い出さなければ為らない。

                   以上














 
 

食い違う歴戦搭乗員2人の証言から見えて來る 日本海軍「失敗の本質」




 食い違う歴戦 搭乗員2人の証言から見えて來る 日本海軍「失敗の本質」

 現代ビジネス 5/9(日) 11:31配信



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              写真 現代ビジネス 5-9-3

 今から79年前の昭和17(1942)年5月7日から8日に掛けて、世界史上初と為る空母対空母の戦いが繰り広げられた。連合軍の拠点・東部ニューギニアのポートモレスビーを攻略しようとした日本海軍と、それを阻止せんとする米海軍機動部隊が激突。
 「珊瑚海・さんごかい海戦」と名付けられたこの戦いで、日本側は米空母「レキシントン」を撃沈したが、小型空母「祥鳳」を失い、肝心のポートモレスビー攻略作戦は断念を余儀無くされた。  

 筆者は、この海戦に参加した空母「翔鶴」の零戦搭乗員・佐々木原正夫二飛曹(のち少尉)と小町定三飛曹(のち飛曹長)に生前、インタビューを重ねたが、同じ空母で同じ戦いに参加した二人の回想がどうしても一致しない場面があるのが気に為った。それは「零戦で無線が使えたか、否か」と云う事である。

 無線機は搭載されていたが・・・


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                写真 現代ビジネス 5-9-4

 太平洋戦争当時、日本軍の飛行機上での無線の使い方は連合軍に比べて遅れて居た。一般に、音声での無線通信を「電話」モールス信号での通信を「電信」と呼ぶが、欧米の空戦映画で屡々(しばしば)目にする「〇〇方向に敵機!」と云う様な空戦中、味方機に危険を知らせたりカバーする形での戦闘機同士の無線電話は最後迄使われ無かった。  
 だが、基地や空母と戦闘機・偵察機から戦闘機・・・と云う通信は電信・電話を問わず、昭和15(1940)年、零戦が実戦に投入される遥か以前から行われていた。  

 零戦に搭載された九六式空一号無線電話機の単体での性能は、欧米の無線機と比べて遜色無かったと云うし、ソモソモ空母に搭載された零戦には、クルシーと呼ばれる無線帰投装置が装備されて居た。
 母艦から出す電波を操縦席後方のループアンテナでキャッチして、その角度を計器板の航路計に示す・・・航路計の針が真上に來る様に飛び続ければ母艦に還れると云う優れた無線装置である。  

 それなのに何故、太平洋戦争中零戦を駆って戦った当事者間で、無線が「使えた」「使え無かった」と回想が分かれるのか。それを突き詰めると海軍の教育制度の欠陥に行き着くのだが、本論に入る前に、先ずは珊瑚海海戦の概要を振り返ってみよう。

 母艦を飛び立てば、もう連絡はとれ無い



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   第五航空戦隊の空母「翔鶴・しょうかく」(上)と「瑞鶴・ずいかく」(下) 5-9-5

 昭和16(1941)年12月8日、ハワイ・真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を壊滅させた日本海軍機動部隊は、更に南太平洋の要衝・ラバウルやオーストラリアのダーウィン、更にインド洋に進出してセイロン島(現スリランカ)の英海軍拠点を攻撃する等・・・開戦から数ヵ月の間は、向かう処敵無しの快進撃を続けていた。  
 処が、昭和17(1942)年4月18日、密かに日本本土に接近していた米空母「ホーネット」を発艦した16機のノースアメリカンB-25爆撃機による本土空襲を許してしまったのを一つの切っ掛けとして、その勢いに翳りが見え始める。  

 日本海軍は、日本本土とハワイの中間に位置するミッドウェー島を攻略する作戦を決め、それに先立って、陸軍と協力する形で東部ニューギニアの要衝・ポートモレスビーを攻略することを決めた。  
 ポートモレスビーを占領する事が出来れば、アメリカとオーストラリアとの輸送路を遮断出来、連合軍がオーストラリアを足掛かりに南から反攻して來るのを封じる事が出来る。逆の立場で言えば、それだけに、連合軍に取っては何としても死守し無ければ為ら無い場所であった。  

 日本海軍は、ポートモレスビー攻略作戦を支援する為、第五航空戦隊(五航戦)の空母「翔鶴・しょうかく」「瑞鶴・ずいかく」を主力とする機動部隊をオーストラリア北東の珊瑚海に派遣。米海軍は、日本側の上陸作戦を阻止しようと、空母「レキシントン」「ヨークタウン」を主力とする機動部隊を差し向けた。  
 5月7日、上陸船団護衛の為ポートモレスビーを目指していた小型空母「祥鳳」が、米空母艦上機の集中攻撃を受けて沈没、此処に日米機動部隊の戦いの火蓋が切られた。

 この日「翔鶴・しょうかく」「瑞鶴・ずいかく」を発進した合計78機の第一次攻撃隊は、米給油艦「ネオショー」と駆逐艦「シムス」を撃沈したが敵空母を発見出来なかった。更に第二次攻撃隊として30機を発進させるも、攻撃隊は敵戦闘機グラマンF4Fの襲撃を受け、更に日没で攻撃を断念。
 爆弾・魚雷を投棄した処で、眼下に見えた空母が着艦誘導灯を灯したので「翔鶴」の九九艦爆3機が着艦しようとした処、飛行甲板の右側に、日本の空母とは明らかに異なる巨大な艦橋と煙突が見えた。

 この空母は、探し求めていた米空母「ヨークタウン」だったのだ。敵も味方も、この瞬間迄誤認に気が付いて居なかった。日本の搭乗員が慌てて着艦を取り辞め、航空灯を消灯して上昇すると同時に、漸く気付いた敵艦からも対空砲火を撃ち挙げて来た。詰りこの時、日米機動部隊は直ぐ近くに居ながら、互いの存在に気付いていなかったのだ。

 佐々木原二飛曹の日記には、この時米空母に着艦しそうに為った艦上爆撃機の搭乗員が、先に爆弾を投棄した事を悔しがって居た様子が書かれて居る。本格的な戦闘に為ったのは、翌5月8日の事だった。  
 この日、小町三飛曹は、夜明けと共に母艦上空直衛の為発艦した。1時間も経った頃、敵艦隊発見の報を受けて攻撃隊が続々と発艦するのが見えた。見事な大編隊である。小町は、高度3000メートルの上空で、小さく為って行く攻撃隊を見送りながら、聞こえる筈も無いのに大きな声で「がんばれよ!」 と声を掛けた。  

 上空直衛は緊張の連続であった。と云うのも小町によれば、当時の零戦では無線電話(音声)は雑音が多く殆ど通じ無かったので、一旦飛び上がってしまえば母艦と全く連絡が取れず、自分の眼だけが頼りであったからである。
 
 「今時、タクシーでも無線で客の居る処へ急行出来るのに、我々にはそれが無かった。世界一の戦艦『大和』『武蔵』『零戦』を作る力のある日本で、どうして新兵器でも何でも無い無線電話が使い物に為ら無かったのか、今でも無性に腹が立ちます。
 電話さえあれば、もっと有効な使い方が出来たのに。 母艦には、司令官も参謀も艦長も皆居るのに、上空を飛んでる戦闘機の指揮も出来無いんですから。敵機の進入方向さえ判れば、何十浬(カイリ)か手前で捕捉する事も出来るんですが、飛んでしまえばそのママ音信不通。
 搭乗員は無言のママ飛び続け、母艦はダンマリのママ戦闘の結果を待って居るのみで、こんな戦争があるかと思いましたよ」
 

 程無く、母艦の前方数浬先を航行中の駆逐艦より、敵機来襲を知らせる黒煙が上がり、発砲が始まるのが見えた。  

 「敵機の大編隊を発見し、そこへ突っ込んで行って一撃を掛けた時には、既に敵機は母艦の直ぐ近くに迄来ていました。二撃目にはもう真上。グラマンF4F戦闘機は艦爆を守ろうと挑んで來るし、しかも、下方からは味方の艦隊が、飛んでる飛行機は全部敵だと思って対空砲火をバンバン撃って來る。  
 兎に角敵機を1機も近づけてはいけない、そう思って必死の思いで戦い続けました。こっちは10数機で、敵の大編隊(84機)を相手にするんだから、皆必死でしたよ」
 

 小町機も可成りの敵弾を受けて居た。戦闘が一段落してフト下を見ると「翔鶴」が敵弾を受け飛行甲板から煙がモウモウと上がって居た。  

 「悔しくて涙が出ました。それで、無傷だった『瑞鶴』に着艦したら、私の機の被弾がアンマリ多いので使用不能と判断されて『その飛行機レッコー(投棄すること)』と声が聞こえたと思った途端、大勢の手でアッと云う間に海中に投棄されてしまいました。
 真珠湾以来、ズッと大切に乗って来た零戦なのに、ショックでしたよ。『瑞鶴』の搭乗員室も、戦死者が多くて皆ションボリしていました」
 

 ・・・小町三飛曹の回想だけ見れば、無線が使え無くて大変だったのだろうと誰もが思う。だが、同じ「翔鶴」佐々木原二飛曹「無線は使えた」と回想して居る。

 無線で「敵艦発見」の報告を受けた


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 空母「翔鶴」零戦隊の一員として珊瑚海海戦に参加した佐々木原正夫二飛曹(右写真撮影 神立尚紀)5-9-6

 「5月7日は敵空母を取り逃がしたので、翌8日は早暁に攻撃隊を出す事に為った。私も第一次攻撃隊の制空隊として出撃することが決まりました。私は此処迄実戦の機会に恵まれ無かったから、今度こそ遣れると欣喜雀躍でしたね」  

 佐々木原によると、攻撃隊の九九式艦上爆撃機九七式艦上攻撃機を護衛して飛ぶ途中、敵艦隊に触接を続ける味方索敵機から、無線電信(モールス信号)で逐一敵情報告が入って居たと云う。
 
 〈敵二〇〇度方位、二三五浬(435キロ) 味方艦攻触接戦艦一・母艦二・重巡二・軽巡・駆逐艦合して九隻。その報告整然として見事なり〉
 
 と、佐々木原は日記に記している。敵艦隊に向かう途中、索敵機(さくてきき)が戻って來るのが見えた。索敵機は帰りの燃料ギリギリ迄敵艦隊に触接を続け、12通もの適切な報告を打電した後、帰途に就く処だった。「ご苦労さま、ありがとう」と、佐々木原は心の中で感謝した。処が、母艦に帰ると思われた索敵機は、スレ違いざまにバンク(機体を左右に傾ける)を振って反転すると、攻撃隊の先頭に立った。万が一にも敵を取り逃がす事の無い様、帰投出来無く為るのを承知で、身を捨てて誘導を始めたのだ。  

 午前9時、攻撃隊は敵機動部隊を水平線上に発見した。空母2隻を中心に、護衛艦艇が周囲を取り囲むように航行するのが望見される。敵空母は「レキシントン」「ヨークタウン」の2隻だった。  
 9時22分、先頭を飛ぶ飛行隊長・高橋赫一少佐が搭乗する九九艦爆より信号弾が発射される「突撃セヨ」の合図である。
 艦爆隊と艦攻隊は敵空母に対し同時に攻撃を開始。制空隊は、邀撃(ようげき)して來るグラマンF4Fから攻撃隊を守る為空戦を挑んだ。  

 「敵空母からは、次々と戦闘機が発艦するのが見えた。予(あらかじ)め邀撃(ようげき)態勢(たいせい)を整えて居たと云うより、慌てて飛び上がって來る感じでしたね。こちらの高度は3,500メートル。上昇して來る約40機の敵戦闘機に対し零戦9機で優位(高度が高い)から突入しました。
 私は側方から急上昇して來るグラマンに機首を向け、正面から反航して、相手が私の機を避けようと急反転した処へ機銃弾を叩き込んだ。するとソイツは火を噴いて墜ちて行きました。続いて、味方機に撃たれて白煙を噴きながら上昇して來るグラマンを狙い、距離500メートルから撃ってこれも撃墜。
 その時、機首の7.7ミリ機銃が発射出来無く為ったので、一旦高度を取って空戦場を離脱し、上昇しながら操縦席の両前にある装填レバーをガチャン・ガチャンと操作して詰まった薬莢を弾き出しました。連続発射していると、銃身が焼けて薬莢(やっきょう)が詰まっちゃうんです。
 弾丸が出ることを確認して再び突入すると、味方の艦攻がグラマンに追われて居るのが見えたので、急降下して、距離200メートルから射撃、これを海面に激突させました。機銃弾が命中したら手応えを感じますよ。弾丸が敵機に食い込むのが手に取る様に見えるんですから」
 

 佐々木原が回想する様に、零戦は圧倒的多数のグラマンF4Fを相手に極めて有利な空戦を行なった。  

 「空戦しながら下を見ると、敵空母の上を味方の艦攻がスーッと飛び抜ける。ア、魚雷を発射したなと思う間も無く、命中すると高さ何10メートルもあろうかと云う巨大な水柱が上がる。日露戦争の、日本海海戦の絵を見て居る様でした」  

 攻撃を終え、母艦に帰投する途中、佐々木原は更に1機の米雷撃機を発見、これを撃墜している。  

 「初陣としては上々の戦果でした。処が、母艦に還ってみると『翔鶴』の飛行甲板が被弾してメクレ揚がっている。そこで、無傷の『瑞鶴』に着艦したんですが・・・」  

 佐々木原の日記には、着艦した「瑞鶴」飛行甲板上の情景が生々しく綴られている。

 〈甲板上に南(義美)兵曹をり、一ノ瀬兵曹戦死せりと告げらる。暫(しば)し茫然とす。聞けば我が第一次攻撃隊発艦後約三十分して敵も我を攻撃せんとして発艦せりとの報あり。直衛機は全機直衛に上がれり。  
 一ノ瀬君南一飛曹の二番機として飛行中、優位にある敵戦闘機六機の攻撃を被り、彼は瞬時に火達磨となり戦死せりと。同期生一ノ瀬君の戦死を悼む。艦攻の新野兵曹長機上戦死、両眼を「カツ」と見開いたまま血だらけで我が眼前を運ばれたり〉


 この海戦で、日本側は米大型空母「レキシントン」を撃沈「ヨークタウン」にも損傷を与え、米軍の飛行機69機を失わせたが、日本側も小型空母「祥鳳」が撃沈され「翔鶴・しょうかく」が被弾、飛行機約100機と多くの搭乗員を失った。
 戦果の上では互角の戦いだったが、この海戦の為、肝心のポートモレスビー攻略が中止に追い込まれ、作戦そのものは失敗に終わっている。これは日本に取って開戦以来初めての大きな躓きだった。  

 「トラックに寄港した時『瑞鶴・ずいかく』から『翔鶴・しょうかく』に戻ったんですが『翔鶴』は、搭乗員室の横にある高角砲に直撃弾を受けて9名がソコで戦死したらしい。搭乗員室も天井に穴が開いていて夜は星が見えました。
 そこで寝てたら時々スコールが降って、水浸しに為ると凄い屍臭が鼻を突くんですよ。これは溜らんと、ベッドを担いで整備員の部屋で寝たりしながら内地に帰りました」
 

 と、佐々木原は回想する。

 証言の矛盾は搭乗員養成制度の不備の所為


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 海軍屈指の名パイロットと呼ばれた羽切松雄中尉も、モールス信号は苦手としていた(右写真撮影 神立尚紀)5-9-10

 さて、先程の小町佐々木原の回想を好く見ると「無線が使えた、使え無かった」に関して、チョットした違いがあることにお気付きだろうか。
 小町は「当時の零戦では無線電話(音声)は雑音が多く、殆ど通じ無かった」と回想して居るのに対し、佐々木原は「味方索敵機から、逐一無線電信(モールス信号)で敵情報告が入っていた」と言っている。詰り、音声での無線電話は使え無かったがモールス信号の無線電信は使えたと云う事である。
 では何故、この様に回想に差が出たかと言えば、そこには日本海軍の、搭乗員養成制度の不備があった。日本海軍の搭乗員養成制度は、

  海軍兵学校出身士官をパイロットに養成する「飛行学生」
  各兵種からの内部選抜で選ばれた者に搭乗員としての訓練を施す「操縦練習生」「偵察練習生」
  そして後から出来た、全国から選ばれた少年に基礎教育を施し、その上で飛行機搭乗員として訓練する「予科練習生」(応募者の学歴により甲種・乙種があった) 
  更に大学・専門学校卒業者を予備士官に任用する「予備学生」
  愛媛・長崎乗員養成所を卒業した者を訓練して充員召集する「予備練習生」
  大学予科・高等学校在学中の者を予備海軍少尉候補生に任用する「予備生徒」

 ・・・と様々なコースが在った。だが、珊瑚海海戦当時、空母に乗っていた搭乗員は「飛行学生」「操縦練習生(操練)」「甲種飛行予科練習生(甲飛)」と「乙種飛行予科練習生(乙飛)」の出身者のみである。  
 小町操練四十九期の出身で、佐々木原甲飛四期を卒業している。この、出身コースの違いが鍵なのだ。
 
 操縦練習生は、大正の昔・海軍航空草創期からの歴史ある制度である。水兵・機関兵・主計兵等海軍のアラユル兵種の下士官兵の中から搭乗員志願者を募り、数十倍の倍率の中から粒よりの優秀な者だけを採用し操縦訓練を施した。
 だから、古参の名パイロットと呼ばれる人の多くはこの操練出身者である。だが、この制度には弱点があった。既に一人前に為って居た下士官兵の中から採用した為、イキナリ操縦訓練に入ってしまい座学の部分が弱かったのだ。航空機の無線の重要性が高まって来ても、それを基礎から教え込む様なカリキュラムは無かった。  

 それと、兵種も階級もマチマチの者の寄せ集め所帯だった為に、飛行場では同じ練習生でも宿舎に戻れば階級の下の者は上の者の洗濯から靴磨きまで遣らされ、ジックリ勉強する暇が無い。どんな兵種でも、新兵の時に手旗信号とモールス信号の初歩は教わるが、通信兵にでも為らない限りは、普段モールス信号を使う様な機会は無い。
 それをそのママにして、飛行機の操縦だけを教えるものだから「飛行機の操縦に関しては名人だが、モールス信号が取れ無い」搭乗員が、海軍航空隊の主力に為ってしまった。  

 それに対して、飛行学生出身の士官搭乗員は海軍兵学校で、甲種・乙種の飛行予科練習生は飛行練習生に進む前の課程で、誰もがモールス信号の特訓を受け、1分間に最低85字は捕れる様に訓練されて居る。この差は極めて大きかった。海軍屈指の名パイロットと言われた、操練二十八期出身の羽切松雄中尉は、筆者のインタビューに、

 「昭和15(1940)年 横須賀海軍航空隊で、基地からの無線誘導で敵機を邀撃する訓練を何度もしましたが、一緒に飛んだ乙飛二期の東山市郎空曹長は無線のモールスを瞬時に読んでパッと行動に移せるのに、僕はどうしてもそこで遅れを取ってしまう。空戦に為れば負け無い自信はあるのに、アレは悔しいと云うより情け無かった。東山さんにも好く冷やかされましたよ」  

 と回想している。また、珊瑚海海戦に続いて昭和17(1942)年6月5日、日米機動部隊が激突・・・日本が空母四隻を失い大敗したミッドウェー海戦でも、空母「蒼龍」から母艦上空直衛に飛んだ藤田恰與藏(いよぞう)大尉(のち少佐 海軍兵学校六十六期、飛行学生三十三期)は、  

 「母艦から敵機来襲の報を聞き・・・モールス信号の無線電信ですよ・・・指示された方角に向かうと、低空を飛んで來る双発のマーチンB-26を発見しました」  

 と回想する。だが、 同じ「蒼龍」から、矢張り上空直衛に飛んだ原田要一飛曹(後中尉 操練三十五期首席卒業)は、  

 「無線が使え無いから敵機が何処から来るか判ら無い。目に入る敵機を次々と攻撃するばかりでした」  

 と語っている。この辺りの弱点を海軍も自覚したのであろう。操縦練習生制度は昭和16年に廃止され、内部から選抜した者も予科練で基礎教育を施した上で飛行練習生に進ませる「丙種飛行予科練習生(丙飛)」に切り替わった。
 しかし、丙飛出身の搭乗員が第一線に出るのは概ねミッドウェー海戦以降の事である。以上の例から明らかな様に、零戦の「無線が使え無かった」と回想するのは操練出身者が多い

 「撃墜王」として知られる坂井三郎中尉(操練三十八期首席卒業)も、台南海軍航空隊でラバウルやニューギニアのラエ基地を拠点に戦っていた頃のことを、  

 「無線は使え無いから、全部手信号です。どうせ使え無いならチョットでも機体を軽くしようと無線機も降ろし、操縦席の後ろにある木製のアンテナ支柱も、空気抵抗に為るからとノコギリで切ってしまいました」  

 と筆者に語っている。

 モールス信号訓練の有無が生死を分けた


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 昭和18年4月にラバウル東飛行場で撮影された二〇四空の零戦 操縦席の後ろにあるべき無線のアンテナ支柱を撤去しているのがわかる 5-9-11

 実際、昭和17年から18年に掛け、南方戦線の基地航空隊では殆どの場合、搭乗員の出身コースに関らず無線は使い物に為ら無かった。台南空に続いてラバウルに投入された第二航空隊(後 第五八二海軍航空隊と改称)も、第六航空隊(後 第二〇四海軍航空隊)も、無線は使い物に為らず、無線機とアンテナ支柱を撤去した例が多々あったことは写真からも確認出来る。
 空中での飛行機間の意思疎通は手信号で、例えば燃料関係のトラブルなら自分の口を指さす。上空から真ん丸に見えるコロンバンガラ島へ不時着せよ、の場合は指で丸く輪を描いて、続いて下を指さす。ベララベラ島は、口を開けてベロを出すと云った具合である。戦闘隊形に入る場合は、大きくバンクを振ると小隊毎に散開、片方にだけバンクを振ればソチラ側に梯形陣(ていけいじん)を執れと云う意味である。

 毎日、一緒に飛んで居ればこれでも十分に意思が伝わったが、搭乗員の戦死が相次ぎ入れ替わりが激しく為るとそうも言っていられ無く為る。ガダルカナル島の敵飛行場を陸軍が占領したと云う知らせに、早速進駐させるべくラバウルから零戦隊を差し向けた事がある。
 数時間後「飛行場占領は誤り」との報告が入ったが、無線が使え無いので呼び戻すことも出来無いママ、着陸しようとした零戦が敵戦闘機の奇襲を受け壊滅すると云う悲劇も起きた。  

 基地航空隊の零戦で無線が使え無かったのは「高温多湿の環境が精密電子機器である無線機に悪影響を及ぼした」「部品供給の不足」「整備員の無線機への無理解」等、色んな説があるが、使え無いなりに手信号など現場の工夫で何とか凌いでしまったことも、寧ろマイナスに働いたのではないか。  
 一方、同じ時期でも、空母に搭載された零戦は無線を使い熟している。例えば、昭和17(1942)年10月26日、又も日米機動部隊が激突した「南太平洋海戦」「翔鶴」零戦隊佐々木原二飛曹の日記には、敵機動部隊攻撃からの帰途、単機で母艦に帰投した時のことが次のように記されている。  

 クルシーを入れてみると、味方の母艦群より連続信号を發信して來るのが受信された。然し未だ母艦は見えず、又その位置も判ら無ければ測定も出来ぬ。クルシーが破壊されてゐるのだ。  
 諦めて電話に切り換えたが感度無く、電信にダイヤルを切り換えると間も無く感度あり、総戦闘機(サクラ)及び制空隊(ツバメ)に呼び掛けてゐるのが聞こえた。シメタ!と受信に掛る。右手の操縦桿を左手に持ちレシーバーを完全に装着して、ダイヤルを調節して聞こえるのを右膝の上の記録板に書き留める。  
 『サクラサクラ我の位置、出発点よりの方位二十八度九十五浬速力三十ノツト、針路三十三度。一三三五』  次いでサクラサクラと連送して来る。直ちに母艦の位置を計算、会合点時間を計測する」


 クルシーは優れた無線帰投装置だったが、衝撃に弱く空戦によるG(重力)で故障してしまうのが難点だった。無線電話(音声)は電波の到達距離が短く、海上ではどうしてもモールス信号による無線電信に頼る事に為る。こんな時、予科練で叩き込まれたモールス信号の訓練は、生死を分ける程重要なものであった。
 南太平洋海戦で敵機動部隊攻撃に参加した零戦搭乗員のうち、空母「瑞鳳」分隊長・日高盛康大尉は、矢張り空戦の際のGが原因でクルシーが故障、母艦を探して飛ぶうちに幸運にも無線電話が通じ帰還出来たと云うし、空母「隼鷹」飛行隊長・志賀淑雄大尉は、クルシーが使えて母艦からの無線誘導で帰還出来たと回想している。「翔鶴」の佐々木原が無線電信で帰還出来たのと合わせ、無線がフルに使われた戦いだった。

 改善された時は既に時遅く


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    横空戦闘機隊の先任搭乗員だった大原亮治上飛曹(右写真撮影 神立尚紀) 5-9-12

 そんな、時と場所と人によって使えたり使え無かったりした戦闘機の無線事情が劇的に改善したのは、昭和19(1944)年も後半の頃だった。最前線で米軍の新型戦闘機・グラマンF6Fとの戦いで辛酸を舐め、内地に還って来た横須賀海軍航空隊(横空)の塚本祐造大尉(のち少佐)が機上無線の実用化について改めて研究・テストを重ね、無線電話の雑音の原因がエンジンプラグのスパークの火花にあることを突き止めたのだ。
 そこで機器に適切なシールドを施した処、劇的に雑音が解消され通信距離も伸びた。横空の先任搭乗員だった大原亮治上飛曹(のち飛曹長)は、  

 「塚本大尉の無線テストを、横空の無線室で皆固唾を飲んで見守りました。『ワレ名古屋上空』好く聴こえる。『ワレ大阪上空』未だ聴こえる。岡山・広島と、段々感度は下がりましたが、岩国上空まで音声が聴き取れた。電波はその日によって到達距離が変わって来ますが、横空から岩国まで約800キロ、これだけ届けば空戰には十分です。早速横空が各航空隊に無線の講習をしました」  

 大戦末期の沖縄航空戦や本土上空の空戦では、横空を初め、新鋭機「紫電改」で編成された第三四三海軍航空隊や、零戦の第二〇三海軍航空隊などが「混信を避ける為戦闘中に発信するのは一番機のみ」等と制限着きではあるものの無線電話を実戦に活用している。

 だが、時既に遅く昭和20(1945)年8月15日、日本は敗れた・・・戦後76年、通信機器の進歩は目覚ましく、今や誰もがスマートフォンを持ち、何時でも何処でもインターネットに接続したり、人と通話出来るのが当たり前の時代に為った。  
 「戦争中にこれが在れば、もっと楽に戦えただろうなあ」とは、遂先頃、スマホでリモート会議デビューを果たした97歳の元零戦搭乗員の述懐である。


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           神立 尚紀 カメラマン・ノンフィクション作家


















「IZ*ONE」とは一体何だったのか?  松谷 創一郎




 「IZ*ONE」とは一体何だったのか? 

  2年半で見えた 日韓アイドルの「決定的な差」


 現代ビジネス 5/8(土) 8:01配信


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               写真 現代ビジネス 5-8-5


 日韓混成のガールズグループ・IZ*ONEが、4月28日に活動を終了した。2018年にMnetのオーディション番組『PRODUCE 48』を経て結成されたこの12人組は、デビュー当初から大ヒットした。
 K-POPのガールズグループでは、BLACKPINKTWICEに次ぐ人気を維持して来た。惜しまれる解散は、結成時から予定されていた2年半の活動期間に達したからだ。

 IZ*ONEで特筆すべきは、AKB48グループの日本人メンバー3人が加わって居た事だ。宮脇咲良(HKT48) 矢吹奈子(同) 本田仁美(AKB48) の3人がそうだ。日本のトップグループのメンバーが、言わば“期限付きレンタル移籍”の形でK-POPグループに加わったのは極めて異例のことだ。  
 様々なプロダクションから集まった12人は、今後夫々の会社に戻って新たな活動を始めると見られる。48グループの3人も一旦帰国した。人気グループだけあって、彼女達の動向は今後の日韓の音楽状況に可成りの影響を与えると予想される。今後のK-POPとJ-POPにおいて、大きなメルクマールと為ると見られるIZ*ONEの2年半を振り返る。 

 メルクマールとは、目標を達成する迄の道のり・中間目標・ゴールなどと云った意味で使われるドイツ語です。 目標を達成するプロセスの指標のなかで、特に重要なものを指すことが多いです。2019/11/29

 IZ*ONEが誕生するまで
 
 『PRODUCE 48』が放送されていた2018年、筆者はその模様をこの『現代ビジネス』で4回に渡って逐次レポートした。IZ*ONEが誕生するまでのプロセスを入念に追っていた。

  AKBが開いたパンドラの箱『PRODUCE 48』の代償と可能性(2018年8月3日) https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56778
 『PRODUCE 48』で露呈した、日韓アイドルの決定的な違い(2018年8月17日) https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57011
 『PRODUCE 48』が保守的な日本のアイドル像を破壊する可能性(2018年8月31日) https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57301
 『PRODUCE 48』は“JK-POP”の生みの親になるかもしれない(2018年9月20日) https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57573 ----------  

 当時、日本では『PRODUCE〜』シリーズは広く知られていなかった。だが、2016年にI.O.I・2017年にWanna Oneが生まれて大ヒットした実績を踏まえれば、新シリーズから誕生するグループの成功は十分に予想出来た。
 それ以上に興味深かったのは、Mnet秋元康と組みAKB48グループのメンバー39人を参加させたことだ。それは参加者(練習生)の4割に相当し、当初から日韓混成のグローバルグループが目的とされていた。

 それ迄にも、少数の外国人が参加したり、中国へ番組パッケージを輸出してグループを創ったりはしていたが、これ以後にもここまで多くの外国勢が参加した事は無い。結果として、日韓の文化的な差異が様々に明らかに為った興味深い企画となった。  
 当時は、BTSがドーム公演を成功させ、日本出身者3人を含むTWICEが日本でも大ブレイクしてから1年程経った頃。既に定着して居たK-POPは、最大の海外マーケットで拡大期に入っていた。そこで、現地(日本)の人気アイドルグループと全面的に手を結んだ誕生したのがIZ*ONEだった。

 一時は活動がストップしたが・・・

 IZ*ONEの2年半は、決して順風満帆だった訳では無い。予期せぬ不運な出来事にふたつ見舞われたからだ。  
 ひとつが、デビューから1年が経過した2019年11月に生じた『PRODUCE〜』シリーズの投票操作問題だ。この番組のデビューメンバーは「国民プロデューサー」と呼ばれる視聴者からの投票で決められた筈だったが、実際は投票結果を番組サイドが意図的に操作して居た事が明るみに為った。

 この時IZ*ONEは難しい立場に置かれた。メンバーの幾人かが、本来は脱落していた事を意味したからだ。(後に判明するのは、意図的に脱落させられた2人の名前のみだった)
 既に活動から1年が経過し、十分な人気を得ていたIZ*ONEは、突然スティグマを負わされてしまった。タイミングも悪かった。問題の発覚は、1srアルバム『BLOOM*IZ』の発売と、ドキュメンタリー映画『EYES ON ME : THE MOVIE』公開の数日前だった。

 スティグマとは、差別・偏見と訳されるが、特定の事象や属性を持った個人や集団に対する、間違った認識や根拠のない認識のことを言う。 スティグマは、その結果として対象となる人物や集団に対する不利益や不平等、排除等のネガティブな行動の原因として社会的に問題となることが多い。

 年末年始に日韓の音楽番組やイベントを控えて、万全の体制で臨もうとしていた矢先だ。恐らく『NHK 紅白歌合戦』への出場も内定して居たと見られるが、それも実現しなかった。  
 結局、2019年11月中旬から2020年2月中旬までの3ヵ月間、IZ*ONEの活動は完全にストップした。ファンクラブの受付を止める等一時は解散に傾いたかと見られたが、結果的には活動を再開した。多くのファンから声が上がり、同時にメンバーたちに同情する向きも拡がったからだ。何も知らされずに順位操作でデビューしたメンバーたちも結局は被害者だったからだ。

 新型コロナは大きな痛手だった

 2020年2月に活動を再開したIZ*ONEだったが、その直後に生じた不運は新型コロナウイルスのパンデミックだった。日韓での活動を前提とするIZ*ONEは、コンサートを開催出来ない処か韓国から出国出来ない状態に置かれた。  
 この状況は、結局最後まで続いた。新型コロナの影響を受けたのはIZ*ONEだけでは無いが、2年半のリミットが最初から決まっていた12人に取っては矢張り大きな痛手だった。終わってみれば、2年半の活動期間のうち通常の活動を出来たのは最初の1年だけだった。

 活動期間の満了が迫る中、IZ*ONEの継続を求めるファンは多かった。クラウドファンディングのサイトでは、現在まで目標の10億ウォン(約1億円)を大きく超える約32億ウォン(3億2,000万円)が集まって居るほどだ (「IZ*ONE活動再開の為の小さな一歩、平行宇宙プロジェクト」 ) その額の大きさからもIZ*ONEの人気は窺(うかが)えるが、こうしたファンの動きが今後どのような影響を見せるかは未だ判らない。

 最大の特長と魅力


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            〔PHOTO〕gettyimages 5-8-6

 不運に見舞われながらもIZ*ONEは大ヒットを続けた。それは判官贔屓的な支持が拡がった訳では無く、手堅い人気を維持するだけのパフォーマンスがあったからだ。 彼女たちの最大の特長は12人の編成にある。これはK-POPグループの中でも可成り多い部類に入る。
 人数の多さはプラスに働くばかりでは無い。ひとつの曲の中でもメンバー個々のパートが減る為、埋没する可能性もあるからだ。

 だが、IZ*ONEは大人数であることを確りとアドバンテージとした。その最大の魅力は極めて精緻に練られたダンスにある。メンバーは目まぐるしくフォーメーションを変えてダンスをハーモナイズして行く。
 これまでK-POPは、例えば少女時代が見せた様に一糸乱れずシンクロナイズしたダンス(韓国語で「カル群舞」と呼ばれる)で注目されて来た。IZ*ONEはこうした技術的な側面は勿論のこと、大人数を活かしたダンス構成が極めて秀逸だった。  

 それが判るのは、例えば「幻想童話 Secret Story of the Swan」のダンス動画だろうか。センターのヴォーカルパートは次々と入れ替わり、4人ずつ3グループで左右に分かれたり、或いは前方7人の後ろから残る5人が段階的に加わったり、12人が縦横無尽に動いてフォーメーションを変え続ける。サビ部分で全員の“カル群舞”=ユニゾンが映えるのも、それ迄の複雑な展開があるからこそだ。  

 IZ*ONEのダンス傾向は、この5年程K-POPを席巻して来たガールクラッシュ(女性が憧れる女性像)の力強さとは異なる。デビュー曲「La Vie en Rose」の時から、IZ*ONE嫋(たお)やかな腕の動きや細かい指使いを多用して優雅さを魅せて来た。
 ヒップホップやR&B、最近ではディスコファンクが目立つK-POPの中で、その上品なダンスはモダンバレエを思い起こさせる類のものだ。  

 中でも独特だったのは、MV曲では無い「Highlight」だ。ミドルテンポのこの曲は、最大の見せ場がダンスそのものだ。しかもそれは決して複雑では無い。メンバー全員が両腕を広げ、身体全体をユックリと捻(ね)じるだけ。シンプルなその動きは極めて小さくユックリとしており、それまで続いていた動の時間が急に止まる。言わば “動かないダンス” だ。  
 ダンスと言うと、一般的には前述した様な“カル群舞”や激しい動きばかりが注目されるが、曲全体で緩急をつけるこうしたアイディアは秀逸だ。

 非常に小さい動きではあるが、12人が横に並んで見せる事でこのダンスは威力を発揮する。(同じ『PRODUCE〜』シリーズの日本版からデビューしたJO1も、デビュー曲の「無限大・INFINITY」で似たアプローチをしている)
 日本発のアイドルグループでは、こうした工夫は余り見られ無い。例えばAKB48や坂道グループなど日本のアイドルは、シンプルなフォーメーションでメンバー全員が最初から最後まで※ユニゾンで踊り続けるものが多い。それはパフォーマンスにコストを掛け無いビジネスモデルの結果でもあるが、“一致団結”ばかりを目指すヨサコイソーランの悪癖にも見える。

 ※ユニゾン 音楽においてテクスチュア・音構成原理を形成する方式の一つ。同一の音高を同時に響かせることをいう。その厚みを感じさせる効果が特徴で、労働歌・国歌・寮歌ばかりでなく、歌曲や管弦楽曲でも他の多声的なテクスチュアとの対比を強調するときに用いられる。
 オクターブ関係にある音を重ねて進行すれば純粋のユニゾンではないが、オクターブ平行の意識が働かず、男女が同一旋律を斉唱するときなどはユニゾンとみなすこともできる。[山口 修]

 K-POPJ-POPは融合したのか
 
 2年半前、筆者はIZ*ONEの誕生を受けて「『PRODUCE 48』は“JK-POP”の生みの親に為るかも知れない」と記した。(連載第4回) K-POPJ-POPの境界がより取り払われ、両者の特長が融合する化学反応を予想したのである。勿論、それは希望的観測でもあった。

 閉鎖的かつ保守的な日本の音楽とアイドル状況に、IZ*ONEが大きな風穴を開ける存在に為って欲しいと云う願望を“JK-POP”と表現した。 だが、現実的にはそう為ら無かった。日韓で完全に別々のプロデュースと為ったからだ。
 これは恐らく番組開始時からの契約だったのだろう。韓国はMnetを運営するCJ ENM傘下のプロダクション、日本はAKB48グループを運営するAKSと秋元康だった。(後にAKSはAKB48の運営を分社化し、社名をヴァーナロッサムに変更)

 韓国語曲は韓国チームが、日本語曲は日本チームが創る体制は最後まで貫徹された。しかし、逆にそれはプロデュースにおける日韓の姿勢と力量の違いを鮮明にさせた。メンバーは同じ12人でも、楽曲やダンスなどに明らかな差異があったからだ。  
 結論から言ってしまえば、そこでは日本語曲の水準の低さが浮き彫りと為った。日韓で求められるアイドル像やビジネスモデルが異なるとは言え、素材が同じゆえに比較を免れる事は出来ない。ファンからは日本語曲への不満が噴出した。  

 より具体的に言えば、日本語曲はサビに為ったら全員で合唱し、ラップは(活動後期まで)ホボ無く、歌詞は日本デビュー曲の「好きと言わせたい」の様に思春期的な恋愛模様ばかり。そのコンセプトは従来のAKB48グループと大差無く、メンバー達の個性も全く活かすことが出来ていない。
 「IZ*ONEの無駄使い」と酷評するファンも少なくなかった。実際、全体の活動の30〜40%を日本語曲に費やした事を考えれば、限定的な時間を有意義に使えたとは言い難い。

 視聴・再生回数を見れば一目瞭然

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                写真 現代ビジネス 5-8-7

 こうした楽曲の力は、YouTubeやSpotifyの視聴/再生回数にもハッキリと表れている。CD売上が人気を測る指標として過去のものと為った現在、視聴回数をオープンにしているインターネット配信は曲の広がりを見る基準として機能する。  
 韓国語曲は、デビュー曲「La Vie en Rose」がYouTubeで約1億5000万回視聴されているのを筆頭に、昨年12月発表の「Panorama」まで全て5,000万回を超える。K-POPではMVが2,000〜3,000万回視聴されてやっとヒットとして認識され、BLACKPINKTWICEでは億を超えるのが当然の世界だ。  

 しかし日本語曲は、最高が「好きと言わせたい」の約2,600万回に留まる。他の3曲は2,000万回に達しても居ない。曲単位では「好きと言わせたい」以外はヒットと言い切れ無い水準だ。  
 Spotifyでは、YouTube以上に人気の差が出ている。日本語曲で1,000万回再生に達したものは無い。音楽だけではMVよりも訴求しないと云う事だ。  

 こうした結果を踏まえると、日韓のYouTubeチャンネル(韓国は音楽レーベル、日本はIZ*ONEのみ)等による差とは考え難い。コンテンツ(音楽)でハッキリと評価が分かれたと見る方が妥当だ。  
 これは極めて興味深い事例だ。何度も音楽(MV)を聴きたい(観たい)と思う魅力のグローバルな伝播が再生回数に反映するとすれば、日本語曲は韓国語曲の足元にも及ば無かったことを意味する。  

 結局、日韓で別々にプロデュースされたIZ*ONEは、“JK-POP”などに為ること無く二つの顔を並行させたママ終わった。3月13・14日に行われた「IZ*ONE ONLINE CONCERT [ONE, THE STORY] 」でも、過去の日本語曲はひとつも披露され無かった。
 この日の為に創られた秋元康作詞による日本語のバラード「Lesson」は歌われたが、作曲は韓国人なので恐らく韓国サイドで制作されたものだ。
 コンサートは夫々コンセプトがあるので過去の人気曲でも披露され無い事はある。だが、集大成と為る最後に日本語の代表曲が全て外されたのは象徴的な事態だった。しかも、ファンの多くはそれに不満を表さ無い処か当然の事と受け止めていた。

 同じ曲なのに“立体感”が違う?

 IZ*ONEの日韓における活動では奇妙な現象も見られた。K-POPで既に発表された曲の日本語版が創られる事は、ローカライズの為のコンテンツ運用として珍しく無い。IZ*ONEも、例えば韓国語の代表曲である「La Vie en Rose」「Violeta」等はその日本語版が創られ、2020年10月に発表された日本アルバム『Twelve』に収録されている。  
 その逆に、活動前半には日本語曲の韓国語版も二つ創られた。2019年2月に日本デビューシングル「好きと言わせたい」のカップリングとして発表された「ご機嫌サヨナラ」「猫になりたい」だ。2ヵ月後の4月、この2曲は韓国での2ndミニアルバム『HEART*IZ』に韓国語詞で収録された。  

 奇妙な現象はここで見られた。その2つは、歌詞のみが異なる同じ曲であるにも関らず、音楽の“立体感”が異なって居たからだ。中でもアップテンポの「ご機嫌サヨナラ」ではその違いが明白だった。  
  日本語版「ご機嫌サヨナラ」  
  韓国語版「GOKIGEN SAYONARA - Korean Version」  
 簡潔に言えば、韓国語版はヴォーカルと伴奏(トラック)が調和し、曲全体のメリハリが感じられるのに対し、日本語版はヴォーカルだけ浮き上がり、曲全体も平板な印象だ。この違いが前述した“立体感”であり「奇妙な現象」の正体だ。しかし、何故こうしたことが起こっているのか? 

 なぜ違いが生まれたのか?
 
 この2曲で明確に異なるのは低音部だ。韓国語版は低音が強いのに対し日本語版は控えめだ。ヴォーカルも韓国語版は伴奏に溶け込んでいるが、日本語版は一語一語がクッキリ聴こえる。これは、日本語版ヴォーカルのリヴァーブ(反響)が弱い為でもある(「猫になりたい」も概ね同様だ)。恐らくミキシングにおける違いだと考えられる。  
 詰り、楽曲そのものでは無くレコーディング後のポストプロダクションにおいて日韓で違いがある。では、なぜこうした差異が生じたのか?   

 幾つかの仮説が考えられる。ひとつが「好み」説だ。低音を中心にビートを軸とする韓国語版に対し、日本語版はヴォーカル(歌)を軸に調整されている可能性がある。カラオケ文化が韓国以上に浸透している日本では、確かにJ-POPで歌や詞が重視される傾向はある。
 音楽ジャンルでも、欧米と同じくダンスミュージックやヒップホップが中心の韓国に対し、日本では未だにロックバンドのサウンドが好まれる傾向が強い。  

 もうひとつが「能力」説だ。端的に言って、IZ*ONEの日本語曲の制作スタッフに能力的な問題がある可能性だ。ベテランのエンジニアに訊いた処、IZ*ONEの日本語曲は「音圧を稼ぎ過ぎる余り、ダイナミックレンジを狭くして立体感を失っている」と分析した。

 世界中のファンが指摘する問題
 
 その違いを生じさせた本当の原因は、日韓の当事者から証言が得られ無い以上は判らない。只、IZ*ONE前半期の日本語曲は、未だ制作に力を入れて居た気配があった。しかし、ファンの期待を裏切ったのはそれ以降の日本語曲だ。
 中でも2019年9月に発表された3rdシングル「Vampire」は、多くの不評を買った。楽曲そのものの質もあるが、前述した様なミキシングの問題がそこには見られた。この曲は、クグモったアナログ音の様なイントロから、ヴォーカルの入るAメロから通常の音圧にする趣向だ。こうした演出自体は珍しく無いが、Aメロの音の抜けが極めて悪い為にイントロ部分が上手く機能していない。

 実際、筆者がYouTubeで初めてこの曲に接した時、PCに繋いで居たスピーカーの問題だと勘違いし、接続や故障の確認をした程だった。ミキシングで完全に失敗している。
 勿論それは「Vampire」の“仕様”だった訳だが、筆者が自然体で発見してしまったこのミキシングの問題は、世界中のファンから指摘されて居る。その一部はYouTubeのMVにおけるコメント欄で確認出来るが、その殆どは英語によるものだ。

 しかもそれに対し「ヴォーカルのミキシングが失敗」「これは典型的なJ-POPのサウンド」と云ったやり取りが交わされている。「ご機嫌サヨナラ」からも窺われた制作スタッフの「能力」説は、後に発表されたこの「Vampire」からも推測できるのだった。

 「能力」問題が重大視される理由


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                〔PHOTO〕gettyimages 

 こうした「能力」問題が、重大視されるのもグローバル化した音楽状況があるからだ。2010年代とは、既にデジタル化していたエンタテインメント(音楽や映像)が、スマートフォンとSNSにより一層のグローバル化をした※ディケイドだ。
 経済学で言う処の情報財に相当するエンタテインメントは、デジタル化によって複製コストが限り無く下がる為に単価は安く為った。  

 ※ディケイド 英 decade デカッド 英 decadとは、英語で10個組の物や10の長さの期間を指す言葉 一般的には10年間すなわち十年紀のことを指す

 その一方で、インターネットによる流通コストも下がった為に、マーケットはグローバルに拡大した。YouTubeやSpotify・Netflix等は、その激変するメディア環境の中で飛躍的に業績を伸ばして居るサービスだ。  
K-POPを初め、韓国ドラマや韓国映画もそうした状況を見越して、トライ&エラーを繰り返しながら20年間賭けてグローバル展開を成功させた。「グローバルアイドル」を目的としたIZ*ONEも、その流れに乗ることを前提とした存在だった。  

 しかしその中では「Vampire」の一件の様に、閉鎖的なJ-POPでは顕在化し無かった事象が、YouTubeを通じて世界の人々から問題化される様に為ってしまう。しかもそれは、IZ*ONEの日本プロデュースを担当して来た秋元康が、能動的にグローバルな世界に足を踏み出した結果だ。半ば自爆といって好い。  
 この問題は深追いしないが、IZ*ONEを通して見えて来たこれらの音楽的な事象は問題提起して置きたい。当事者が何気無く過ごして居るうちに、可成り深刻な事態が生じているのではないか・・・そう危惧している。  

 (後編「IZ*ONE解散・・・宮脇咲良が世界で活躍するには「韓国に戻る」しかない」はこちらは、別途アクセスください・・・管理人)


 松谷 創一郎 ジャーナリスト














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