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2021年03月11日

「何故自分が撮ってしまったのか」津波を生中継した元NHKカメラマンは 今も葛藤の中で生きる【東日本大震災 #あれから私は 】



 「何故自分が撮ってしまったのか」 津波を生中継した元NHKカメラマンは 
 
 今も葛藤の中で生きる【東日本大震災 #あれから私は 】
 


 【東日本大震災 #あれから私は 】


 ハフポスト日本版 3/10(水) 6:07 配信


 3-11-1.jpg

                鉾井喬さん

 「撮ら無いで済むなら、撮りたく無かった」

 彼は、10年間胸の奥に仕舞っていた思いを打ち明けた。2011年3月11日、津波が街を呑み込む衝撃的な映像が中継されて居た。NHKのヘリコプターからそれを撮影していたのは、当時、NHK福島放送局の報道カメラマンだった鉾井喬(ほこい・たかし)さん。入社1年目、その日が未だ5回目のフライトだった。

 当時、鉾井さんが撮影した津波の映像は世界中を駆巡った。その凄惨な映像を“歴史的な映像”と称える声もあった。今も消化出来ない思いがある。「自分は一番安全な場所に居て、撮影して居た・・・」
 現在は、NHKを離れ、現代アーティストとして福島にもアトリエを構え生きて居る。 「何故自分が撮ってしまったのか」心に葛藤を抱えながら。

 整備のタイミングだった

 地震が発生した午後2時46分。鉾井さんは、ヘリコプターで取材を担当する当番勤務で、宮城県南部に在る仙台空港に居た。格納庫で、未だ不慣れだったヘリのカメラ操作を練習して居た時、ドーンと下から突き上げられる揺れに襲われた。余りの揺れに体が座席から放り出されそうに為る。
「危ない下りて」近くに居た整備士が腕を掴んで引っ張り出して呉れた。目の前のヘリは、上下左右に揺れ続けて居た。 普段なら機体は格納庫内に停めて居たが、その時間は、偶々点検があり、機体の半分を外に出して居た。 それが運命を分ける事に為る。
 建物内に停めていた他社のヘリの中には、揺れで機体同士がブツカリ、壊れて居るものもあった。 被害を免れたNHKのヘリに乗り込んだ鉾井さん。混乱の中、離陸した。

 家と車を呑み込んで行く黒い津波と、生きている自分

 離陸直後、仙台駅へと向かった。窓ガラスが割れている等の被害はあったが、上空から見る仙台の街は何時もと変わら無い様子に見えた。「意外と大丈夫だな」少し安堵した。 細かい雪が降り始めていた。ヘリは、雲の合間をスリ抜けて沿岸部を目指した。
 名取川に沿って進んで居た時、川を遡上する波を見付ける。兎に角、目の前の景色を撮ら無ければ、そう思った。

 その時、ヘッドフォンから機長と整備士の声が聞こえる「もっと左!もっと左!」言われるがママにレンズを海側向ける。目に飛び込んで来たのは、平野を這う様に進む黒い津波だった。黒い塊は、容赦無く家や車を呑み込んで居た。津波の渦に別の角度から来た津波が重なり、更に大きな塊と為って襲いかかる。
 木材、船、瓦礫、あらゆるものが簡単に押し流されて行く。 理解が追いつか無かった。これは中継されている・・・生きている自分の足の下で、街や人や車が、次々と津波に呑み込まれて行く。「(映像を)アップにしてはいけない・・・」手が小刻みに震えていた。

 「生と死」自分が置かれていた状況を要約整理出来たのは、撮影を終えて着陸し、数時間経ってからだった。 出発した仙台空港にも3メートルを超える津波が押し寄せた。離陸してからおよそ50分後、上空で撮影して居た時だ。 「その場に留まって居たら、自分の命も無かったかも知れない」鉾井さんは振り返る。

 一番安全な場所に居て撮った「スクープ」 今も消えない葛藤

 あの日、報道機関で津波の映像を空から中継して居たのは、鉾井さんだけだった。映像は「スクープ」として世界中を駆け巡った。鉾井さんにはあの日、もう一つ忘れられ無い光景があった。
 仙台空港には戻れ無く為った為、福島空港に着陸。別のカメラマンと交代し、NHK福島放送局に車で戻って居た時のことだ。 国道4号線は渋滞して居て、途中から進め無く為った。フト横を見ると、並走する東北自動車道にボンヤリと浮かぶ赤いランプの列があった。
 夜が明け、要約福島市内に入った時、交差点で、消防車の集団とスレ違う。ソコで初めて、赤いランプが全国各地から沿岸部へと向かう消防隊なのだと知った。
 「一刻も早く助け出して欲しい」
 上空と云う安全圏に居た自分が「見下ろして居た」人々。その人達の無事を、願うことしか出来なかった。大切な人を失くした人、命を賭けて救助に向かう人、そして生き延びた自分・・・

 「沢山の人が亡くなって居る中で、自分は、一番安全な場所に居て、撮影をしただけだ」

 映像が数々の賞を受賞する旅、葛藤は大きく為って行った。又、被災地と東京を行ったり来たりするうち「安全圏」に居る自分に、違和感が芽生えて行った。

 「原発事故」が生んだ新たな葛藤 そしてアーティストに転身した

 NHK福島放送局に赴任して居た事で、原発事故からも目を逸らさずにはいられ無かった。10年〜20年では到底答えが出せ無い課題。その中で鉾井さんは”正しさ”とは一体何なのか判ら無く為って行った。

 「報道は”正しいこと”を伝えなければいけない。でも、時にその“正しさ“が、今の福島に取って受け止めきれる“正しさ“なのかめめめ誰に取っての”正しい”なのか…」

 取材で顔馴染みに為った福島の人達が、国や報道機関等が出す“正しいこと“に幾度も振り回される様子を目の当たりにした。
 そして、勤務組織の制度上、何時か転勤をして福島を去る。今は目の前にある問題も、何時か他人事に出来てしまう。 津波を撮影した日と同じ様に、守られた場所に居る様な気がした。
 「もう少し自分の目で福島を見て、考えながら生きて行きたい」 震災発生から2年後、NHKを辞めた。

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 元々、大学時代にはアートを学んでいた鉾井さん。研究テーマは「風」だった。 人力飛行機を制作して距離を競う競技「鳥人間コンテスト」に出場し、パイロットとして飛んだ経験が研究に繋がった。
 感じることも見えることも無い、僅かな風によって「鳥人間」の人力飛行機は翻弄される。記録は289.55m。鉾井さんの中でその経験が「“見え無いもの”によって自分他ちが生きて居る事を可視化したい」と云う思いに昇華されて行く。

 NHKに就職し、一度はアートから離れた鉾井さんだが、再び“見え無いもの”に翻弄されている自分を感じたのが、原発事故だった。

 「アートは、作品を受け取った人夫々が、色んな事を考えれば好い。今の福島に必要なのは、“正しさ”を押し付けるよりも、考える切っ掛けを投げかけ続けることだ」

 福島に寄り添い 作品を作り続ける

 アートの世界に戻った鉾井さんは2016年、震災後の福島をテーマにした短編映画を発表する。 「福島桜紀行」沿岸部から内陸へと進む桜前線を追い掛け、桜とそこに集う人々を見詰たドキュメンタリーだ。

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                 「福島桜紀行」

 桜は、福島の人に取って特別な存在だ。 震災と原発事故により、当たり前が失われた中で、毎年当たり前に咲き誇る姿。春と云う“見え無いもの”が桜によって形に為り、人々の喜びに変わる。
 撮影の切っ掛けは、当時、全域が避難区域と為っていた浪江町の一人の男性と出会ったことだ。男性は、未だ帰ることが出来無い故郷で仲間達と共に、川沿いの桜並木を手入れしていた。男性はカメラに向かってこう話す・・・
 「色んな条件が揃った上で無いと帰ろうとは言え無いんだけど、皆で浪江町に帰って来た時に、震災前から町に咲いて居た桜が又咲いて居たら、気持ちは違うと思うんですよね」

 消化出来ない思いを抱えながらも生きる福島の人達の姿に、鉾井さんの心は動かされて行く。 2019年には、群馬県の中之条町で作品を発表した。

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                「存在と痕跡」

 町内の至る所にそびえ立つ多くの鉄塔と鉄塔同士を結ぶ電線。張り巡らされた電力網は、福島原発や柏崎刈羽原発で作られた電力を首都圏へ送り続けて来たものだ。原発と電気を使い続ける“都会の人々”が、中之条町を通じて一本の線で結ばれる。その鉄塔を軸に、風と電力の動きを可視化する仕掛けを作った。
 風が吹くと、吹く風の強さによって針が動き、風の痕跡が土台の丸太に刻まれて行く。更に、電気の力で土台の丸太自体も動かすことで、風の力と電気の力の双方が組み合わさった新たな痕跡を生み出す。

 その仕掛けの奥では、電力を送り続けて来た鉄塔が静かに佇む。どちらかが正しい、どちらかが悪いと云うことでは無く、人は、自然の力とエネルギーによって生きて行く...それを今だからこそ考えて欲しかった。

 10年前の経験 良かったのか 悪かったのか

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                  鉾井喬さん

 震災から10年。福島と福島以外の地域での温度差も少しずつ感じている。廃炉作業が終わる迄、日本が避けて通れ無い問題な筈なのに、矢張り福島以外の人に取っては、自分の問題として捉え辛い面もある。
 “見え無いもの”によって、自分他ちが生きて居る事を可視化したい」
 と云う思いで作品作りをして来た自分なりの方法で、記憶の風化に抗いたい。鉾井さんはそう話す。鉾井さんは、10年前のあの日、あの場所に居合わせてしまった事を今どう考えているのか。

 「どうしても『10年』と云う時間軸に注目が集まるが、只の通過点。10年と云う時間が、心の中の何かを消化して呉れたことは無い」

 しかし、10年経ったからこそ要約分かったこともある。

 「一人のアーティストとして、自分は、過去の体験や気持ちを作品に込めて行く。その創作の過程で、葛藤を整理出来ることで作品が生まれたり、作品が生まれる事で葛藤に整理が出来たりすることもあるかも知れない」

 鉾井さんは、今日も葛藤を抱え生きている。

 ※鉾井さんの新作が3月26日から〜4月18日東京ミッドタウン日比谷6階パークビューガーデンに展示される。詳細は「HIBIYA BLOSSOM 2021」から。

 松原一裕 ハフポスト日本版


                    以上




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