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2020年01月20日

カジノ業者が警告! 「日本にカジノは要らない」客を外に出さ無い様に作るカジノで、街が儲かる訳が無い




 カジノ業者が警告! 「日本にカジノは要ら無い」

 客を外に出さ無い様に作るカジノで 街が儲かる訳が無い


           〜HARBOR BUSINESS Online 1/20(月) 8:34配信〜


        1-20-12.jpg

             ZARost  PIXTA(ピクスタ)


 日本国民を米カジノ業者に売り渡した安倍総理

 2016年11月、アメリカ大統領就任を控えて居た当時のドナルド・トランプ氏と安倍晋三総理は初会談を行った。その直後、政府はカジノ実現に向けた動きを一気に加速させ、翌12月には「カジノ解禁法」(正式名称 特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律)を成立・施行してしまった。

 その背景には、それ迄クリントン勝利と踏んで居てトランプ側との接点が無かった安倍政権が、大統領当選を受けて何とかパイプを繋ごうとし、頼った先がアメリカのカジノ大手「ラスベガス・サンズ」のシェルドン・アデルソン会長だったからだと言われて居る。
 しかし、ギャンブル依存症の問題が既に深刻化して居る日本で、カジノは本当に必要なのか? 安倍政権は、トランプに媚び諂う為に日本国民を米国カジノ業者に売り渡したのではないか。

 21日発売の『月刊日本 2020年2月号』では、第3特集として「カジノが国を滅ぼす」と題した特集を打ち、真正保守の立場から断固としたカジノ反対の主張をして居る。今回はその中から、同誌編集部による、カジノ建築を手掛けて来た日本人建築デザイナー・村尾武洋氏への取材記事を紹介したい。


        1-20-13.jpg 日本人建築デザイナー・村尾武洋氏


 客が破産する迄カネを貸すカジノ

 2019年12月26日、横浜市内で「カジノ・ニューヨークからの警告」と題する講演会が開かれた(主催「カジノを考える市民フォーラム」)講師はニューヨーク在住の建築デザイナーの村尾武洋氏。村尾氏は2004年から米国でカジノのデザインに携わり、これ迄数十件もの仕事を手掛けて来たプロだ。カジノの内幕を知る人物は、何故「日本にカジノは要ら無い」と警告するのか。

 「私は2004年からカジノのデザインを請け負って来た。最初の仕事は4億円でニューヨークに在るカジノの内装デザインだった。その店がオープンしてから6週間後、事業主から『好く遣った。モトは取った』と言われた。次は12億円の内装デザインで、オープン8週間後に同じ事を言われた。こうしてカジノの内装を毎年2〜3件ずつ請け負う様に為り、カジノからカジノへ全米を回る様に為った」

 だが、段々とカジノの正体に気付いたと云う。

 「カジノが儲かると云う事は、誰かが損をして居ると云う事だ。カジノの収益は誰かの負け金だ。忘れられ無い光景がある。ネバダ州リノに在るカジノタウンの近くで、紳士然とした男性が高級なオープンカーを手で押して居た。
 彼は私に『5ドル貸して呉れ』と頼んだ。話を聞くと、週末に新婚の妻とカジノに来て、全財産をスッたと云う。クレジットカード・普通預金や当座預金も使い果たした。家も抵当に入れた。妻には別れられ、結婚指輪も失った。手元に残ったのは腕時計と愛車だけで、ガソリン代も無い。彼は普通の人だったのだと思うが、2〜3日のカジノで全て失ってしまった」
 

 カジノでは驚く様な大金が動く。

 「例えば、バカラ・・・インディアンポーカーとホボ同じゲームで、1勝負5秒で終わる。レートは色々だが、最高レートだと1勝負に1000万円を賭ける。負ければ5秒で1000万が無く為る。パチンコで1000万を無くそうとしたら何十日も掛かるが、カジノでは数秒、1億も1時間在れば無く為る」

 構造そのものが客からカネを搾り取る「罠」

 しかも、カジノには破産する迄賭けさせる仕掛けがある。

 「カジノには必ずクレジットルームがある。そこで客は職業や給与を示してカネを借りる。クレジットカードの上限一杯迄借りる事も出来れば、家を抵当に入れて借りる事も出来る。カジノは客が限界迄負けられる様にカネを貸し出すのだ」

 更に、カジノには客を逃がさ無い仕掛けもあると云う。

 「客はカジノに居れば居る程カネを使う。だから我々は客をカジノから出さ無い様にする。先ず時間が分から無い様に時計は置か無い、窓も作ら無い。屋内照明は夕方5〜7時位の落ち着いた明るさに調整する。光の調子、音の反響具合、カーペットの厚さ、肘掛けの高さ、クッションの柔らかさ、全て計算して居る。非常出口は在るが、出口も見え無い様に複雑に作る」
 
 カジノの外側も客を逃がさ無い様に作られて居る。

 「先ずカジノを中心に置いて、その周囲に関連施設を作る。駐車場からホテル、レストラン、コンサートホール、何処へ行くにもカジノを通る様に設計して居る」
 
 カジノは構造そのものがなのだ。

 ターゲットは日本人

 そのカジノが何故今日本で開かれ様として居るのか。

 「リーマンショック後、カジノ業界はベガスやマカオも含めて全体的に苦しい。その中で日本は数少ないフロンティアの一つだ。日本にカジノを作るのは、日本人のタンス預金を獲りたいからだ。日本のカジノは外国人が対象だと言われるが、実際のターゲットは日本人だ。
 アメリカでは2004年から都心にカジノを作り始めた。ニューオーリンズを皮切りに、ボルチモア、セントルイスと続いたが、都心にカジノを作る狙いは地元住民のカネを獲る事だ」

 
 横浜市等カジノ誘致に名乗りを上げた自治体は、街の活性化等のメリットを挙げている。

 「我々は客がカジノから出無い様に、街に出無い様に作って居る。だから、カジノの恩恵が街に還元される何て事は在り得ない。在れば、我々の負けだ。シカゴやインディアナのカジノは、周辺にガソリンスタンドが数軒在るだけ。客はカジノの中だけでギャンブル、宿泊、食事、買い物を済ませるから周りはスッカラカンだ」
 
 実は、自治体が強調して居るメリットは、カジノ業界のプロパガンダなのだと云う。

 「カジノ業界が自治体に進出する際は新聞、テレビ、ラジオ、インターネットを利用しながら、2年程掛けて少しずつカジノ誘致の素晴らしさを広告する。税収増や雇用増の具体的数字を予想グラフにしてプレゼンも行う。そして市長や地元有志を抱き込み、住民の賛成が51%以上に為れば勝ちだ。そう為れば、49%以下の反対派の住民が何を言おうがカジノはオープン出来る」

 実際にカジノで国や自治体は儲かるのか。政府の方針では、カジノ収益の分配率は国15%、自治体15%、事業者70%だと云うが。

 「カジノは産業の一つとしてネイティブの居住地区に作られる事が多いが、その場合、収益の配分は自治体70%事業者30%位。日本では数字が逆転して居るから驚いた」

 予想通りに収益が上がら無かったらどう為るのか。今の処、IRのカジノは1店舗、IR全体のうち3%の面積とされて居るが。

 「蓋を開けて収益が上がら無かった場合はカジノの面積を5%⇒10%と拡大して行く、それでも収益が上がら無ければ、カジノを増やして競争原理を働かせると云う方向に行くのではないか。しかしカジノが成功したら、それだけ損をする人が増える。カジノの成功は良い事では無い」

 カジノに付きものな「売春システム」も必ず出来る

 ギャンブルで負ける以外に、どんなデメリットがあるのか。

 「一番怖いのは売春。カジノでは『飲む・打つ・買う』がセットだ。ラスベガスやマカオで遊んでいる客を呼ぶのに、日本だけ『女性が居ない』と云う訳にはいかない。裏でそう云うシステムは必ず出来る。言い方が悪いが、日本人女性は世界的に人気がある。横浜にカジノが出来れば、地元の女のコに声が掛かるだろう」

 女性だけで無く子供にも影響が有ると云う。

 「カジノの近くにはレストランやビュッフェ、ブティック等家族が足を運ぶ場所を作る。カジノの隣に保育所すら作る。子供達はカジノを目で見て耳で聞いて楽しみ『何時か自分も遊びに行ける』と思う。こうして次世代の顧客を育てる。カジノはソコに存在するだけで身体の一部になる。
 『日本にカジノを作る必要は無い』唯々それを伝えたかった。横浜はカジノが無くても人が来る。粋な街だ。このママで良い」

 カジノが国民を不幸にする事は火を見るよりも明らかだ。


      取材・文 月刊日本編集部 ハーバー・ビジネス・オンライン 

 【月刊日本】げっかんにっぽん●Twitter ID=@GekkanNippon。「日本の自立と再生を目指す、闘う言論誌」を標榜する保守系オピニオン誌。「左右」と云う偏狭な枠組みに囚われ無い硬派な論調とスタンスで知られる。


                    以上









 【関連報道1】カジノ誘致を巡る「利権」と云う幻想 甘い汁を吸えるのは誰なのか?

           〜ハーバー・ビジネス・オンライン 2019.11.10〜


 カジノ誘致を巡る2つの「利権争い」

 カジノ誘致に付いては、現在水面下の利権争いが段々激しさを増して居る。今回は、余り表に出て居ない「飛んでも無い話」も含めて解説する。  
 現状はカジノを含むIR(統合型リゾート)を何処に誘致するのかと、夫々においてどのカジノ運営会社に運営を委託するのかの2つの大きな「利権争い」がある。ドチラにも桁違いの利権が想定されて居り、各自治体を含めた各社各様の思惑が複雑に絡み合い、段々その激しさを増して居る様子がハッキリと見える。  

 カジノを含むIRの誘致は、取り敢えず2020年夏の東京オリンピック後に3か所に絞る様で、現状では大阪府・市と横浜市が先行して居る。残る1枠を長崎県と和歌山県が追って居る。更にその前段階の「検討中」には北海道、東京都、千葉市、名古屋市辺りが続く。  
 IRの誘致は2025年の万博も招致した大阪府・市(どちらも会場は大阪湾の人工島である夢洲)が日本維新の会主導で先行して居た。此処に来て官邸主導で横浜市(横浜港の荷揚げドッグを撤去して会場とする)と、検討中である筈の北海道(苫小牧市)が「当確」かの様に報じられて居るが、マダマダ流動的な処がある。

 カジノ利権に食い込む「港湾局」の陰

 振り返ると、日本において「カジノ」が最初に話題と為ったのは、1999年に東京都知事と為った石原慎太郎氏が都知事選挙中から「お台場カジノ構想」を提唱した辺りからである。
 しかし今から考えてみると、この発言は「カジノ」よりも「お台場」の方に力点が置かれて居り、バブル真っ盛りの1989年に着工した臨海副都心計画(お台場)、2001年に決定されたとされる築地魚市場の豊洲移転計画と全く同じ構造であり、最初から東京湾岸に全ての利権を集中させる方策の1つだった筈である。

 「お台場カジノ構想」も「築地魚市場の豊洲移転計画」も石原都知事や2000年に就任した浜渦武生副知事の影響力ばかりが大きく伝えられて居るが、臨海副都心計画も含めて一貫して「目立た無い様に」取り仕切って居たのが東京都港湾局であり、そこに膨大な利権が隠されて居たことは余り知られて居ない。  
 バブルが弾けて臨海副都心計画の見直しが議論された時、強行継続させたプロジェクトリーダーの高橋俊龍・副知事や、後にお台場の魚市場用地を東京都に売却する東京ガスに天下って居た今沢時雄・取締役等は東京都港湾局の出身である。(今沢氏は港湾局長だった)
 詰まり当時も現在も、カジノ(東京に限らず各自治体の)港湾局が深く関わって居ることは覚えて置か無ければ為ら無い。

 2000年代から加速した議員とカジノの関係

 しかし、石原都知事のカジノ構想で、カジノ=利権と安直に結び着ける国会議員が続出し、2002年12月には早くも「カジノと国際観光産業を考える議員連盟(野田聖子会長)」が超党派で発足して居る。この議員連盟には「我も我も」と多数の議員の参加希望があり、その後も同じ様な議連には必ず参加者が200人近く犇めく状態が続く。  
 そして2006年1月には自民党政務調査会・観光特別委員会に「カジノ・エンターテインメント検討小委員会(岩屋毅委員長)」が発足し、自民党内で正式に議論が始まる。又この頃から、海外のカジノ運営会社が色んなツテを頼って委員会に接近し、勉強会だけで無く海外カジノ視察と称してアゴアシ付きの海外旅行に委員会メンバーを頻繁に「ご招待」する様に為った。

 当時よく名前を聞いたカジノ運営会社は、MGMとWynn(ウィン)である。MGMはセガサミーと、Wynnはアルゼ(現ユニバーサルエンターテインメント)と、親密だったからである。  
 2009年8月に民主党に政権が移ってもこの流れは止まら無い。2010年4月にはこれも超党派で「国際観光産業振興議員連盟(IR連盟=古賀一成会長)」が発足し、この頃からカジノ法制化(合法化)の動きが出始める。当時の与党・民主党の方が積極的で、複数のワーキンググループを立ち上げてIR推進法案の準備を進めるも、2012年12月の総選挙で下野して頓挫してしまう。  

 政権交代を受けて自民党がIR議連を改組し、細田博之・元内閣官房長官が会長に就任。2013年6月に日本維新の会が単独でIR推進法案を衆議院に提出すると、自民党と生活の党が相乗りする形で「カジノを中心とした統合型リゾート(IR)を推進する法案」として同年12月に衆議院に議員立法で提出する。しかし、ロクに議論され無いうちに、2014年12月の衆議院解散で廃案と為る。  
 2015年4月に再び「統合型リゾート(IR)整備推進法案」として自民党、日本維新の会等が衆議院に議員立法で提出するも、自民党の連立相手である公明党が積極的で無い等の理由で審議される事は無かった。

 工事需要は在れどその後の損益は誰も考えて居ない愚

 法案は飽く迄も統合型リゾートの一環としてカジノを全国に何か所か解禁すると云う建て付けであるが、日本の各議員や主要企業等は全て「兎に角何でも大掛かりなハコモノ(統合型リゾート施設)を建てて、そこでカジノを開設させしてしまえば明日からでも外国人を含む観光客が押し寄せてカネを落として呉れる」と非常に楽観的に考えて居た。  
 そしてこの認識は現在でも殆ど変わって居ない。だから、カジノを含む統合型リゾート(IR)を誘致すること自体が「利権」だと考えられて居る訳である。確かに公共事業と同じで一度は工事需要がある為「利権」ではある。だが、その後の損益計算等は誰も考えて居ない。   

 「甘い汁」は全て海外のカジノ運営会社が吸う

 サテ統合型リゾートに含まれるカジノであるが、日本人には当然にその運営ノウハウが無い為、海外のカジノ運営会社に「丸投げ」するしか無い。そしてこの統合型リゾートで唯一大儲け出来る処が、このカジノ運営である。
 先ず統合型リゾート(IR)の運営主体は各自治体であるが、本来はテナントであり家賃を徴収し無ければ為らないカジノ運営会社から家賃も取らず、逆に高額の成功報酬等を支払う契約と為る筈である。又カジノ運営会社がこれ等ハコモノ建設の為の資金を出す事等絶対に無い。  

 確かにカジノ運営とは簡単では無い。世界中から大手客(大金を賭けても平気な大金持ち)を呼び寄せて適度に巻き上げ、同時に世界中から集まって来るイカサマ師を排除し無ければ為らない。日本人には絶対に無理である。  
 もし日本人がカジノを運営するなら、アッと云う間に世界中から腕利きのイカサマ師が押し寄せ、多分1日で数百億円位は持って帰られてしまう。消えた仮想通貨の様な問題が毎日起こる訳である。

 一筋縄ではいか無い「カジノ運営」のノウハウ

 余談であるが、イカサマ師で無くても偶々大勝ちしてしまう大手客も居る。その大手客をアノ手コノ手で帰さずカジノに留め、スッカリ取り戻すのも運営会社のノウハウである。実際にラスベガスでは自家用機で来た大手客が大勝ちすると、空港の管制官を買収して離陸許可を出させず、ホテル代も食事もサービスするからと誘われて帰って来た大手客からスッカリ取り戻してしまう事等お手の物。幾らでも裏技がある。
 又大負けした大手客には賭け金を信用貸しする事もある。こう為るとモッと負けてしまうもので、その回収もカジノ運営会社の重要な仕事と為る。  

 更に余談を加えると、コンな大手客の1人に日本人の柏木昭男氏が居た。世界のカジノで大勝ちを続け、映画のモデル(1995年公開の映画「カジノ」にK.K.イチカワとして登場)にも為っていたが、1992年に自宅で何者かに暗殺されて居り、事件は迷宮入りしている。
 この柏木氏が訪れたカジノの中にはトランプ大統領が経営して居たアトランティック・シティのトランプ・プラザ(2014年に倒産)も含まれる。実際に2人は面識があり、トランプが自分のカジノに誘った様で、結果は1勝1敗だった筈である。

 カジノ無しでも訪日外国人が増える中、効果は有りや?

 話を戻すと、カジノはパチンコと同じで運営会社の儲け=客の損失であり、運営会社は、顧客の損益(即ち自分の損益)を自由に調節する事が出来る。詰まり、客が日本人なら、日本人トータルの損益がプラスに為る事は「絶対に」無い。  

 トランプが大統領選に当選した2016年11月8日から僅か9日後の11月17日、安倍晋三首相は当選したばかりのトランプをNYの自宅(トランプタワー)に訪問して居る。しかし、安倍首相は(官邸も外務省も)次期大統領はヒラリーと「決め打ち」して居た為、トランプとのルートが全く無かった。
 両者を繋いだのは、トランプの大スポンサーであるカジノ王のシェルドン・アゼルソン。この時、安倍首相は「日本も間も無くカジノを法制化(合法化)する」と口を滑らせてしまった筈である。  

 帰国した安倍首相は早速3年以上もホコリを被ったママに為っていた「統合型リゾート(IR)整備推進法案」を引っ張り出し、会期末の12月14日迄に衆参両院で決議する様に厳命。衆参両院とも僅か数時間の審議で強引に成立させてしまった。かくして日本でもカジノが法制化(合法化)されてしまった訳である。  
 当初のIR推進の目的は「外国人観光客の誘致」だったに違い無い。カジノ構想が出て来た2000年代の訪日外国人観光客は年間5〜600万人であり、カジノは外国人観光客誘致の1つの目玉と為って居たかも知れない。  

 処が日本を訪れる外国人観光客は2013年に1000万人を超え、2018年には3100万人にも為り、今後更に増えそうな勢いである。その日本を訪れる目的は多様化。日本は「親切で安全で文化的な国」との評価が固まりつつある。そこで「カジノが出来ましたよ」と言った処で、どれだけの効果があるのか?  次回は、日本のカジノ運営を何処が握るのかに付いて考えたい。


 文 闇株新聞 2010年創刊 大手証券でトレーディングや私募ファイナンスの斡旋、企業再生などに携わった後、独立。証券時代の経験を生かして記事を執筆し、金融関係者・経済記者などから注目を集めることに。2018年7月に休刊するが、今年7月に突如復刊(闇株新聞) 有料メルマガ配信のほか、日々、新たな視点で記事を配信し続けている。現在、オリンパス事件や東芝の不正会計事件、日産ゴーン・ショックなどの経済事件の裏側を描いた新著を執筆中



 【関連報道2】安倍首相 汚職発覚もカジノ推進 

 「桜」前夜祭 ホテル明細出さず 代表質問始まる


              〜時事通信 1/22(水) 15:34配信〜


 安倍晋三首相の施政方針演説等に対する各党代表質問が22日、衆院本会議でスタートした。首相は、汚職事件が発覚したカジノを含む統合型リゾート(IR)整備に付いて「高い独立性を有するカジノ管理委員会や国会での議論も十分に踏まえ、丁寧に進めて行きたい」と述べ、推進の方針を変え無い考えを強調した。立憲民主党の枝野幸男代表が「到底容認出来ない」と中止を要求したのに対して答えた。

 内閣府のIR担当副大臣だった衆院議員秋元司容疑者(自民党離党)の逮捕に付いては「誠に遺憾だ。副大臣に任命した者として事態を重く受け止めて居る」と語った。
 首相主催の「桜を見る会」を巡り、枝野氏は首相の地元支援者が多数参加して居た事を「公職選挙法違反の買収と実質的に何が違うのか」と追及。昨年4月に東京都内のホテルで開かれた会費5000円の「前夜祭」明細書を開示しない理由を質した。

 首相は、自身の事務所がホテル側に問い合わせた処「営業の秘密に関わる事から、公開を前提としての資料提供には応じ兼ねる」との回答があったと説明した。招待者名簿が残って居ないか枝野氏が再調査を求めたのに対し、首相は「既に廃棄されて居ることを確認した」と拒否。電子データ消去時の端末記録の開示も「不正侵入等を助長する恐れがある」と拒んだ。

 枝野氏は「政治とカネ」の問題を巡る菅原一秀前経済産業相と河井克行前法相の辞任に付いて「首相にも責任がある」と批判。首相は「一人ひとりが自ら襟を正すべきで、可能な限り説明を尽くして行くと考えている」と述べるに留めた。
 自民党の二階俊博幹事長は憲法改正論議の在り方を聞いた。首相は「改憲に対する国民意識の高まりを確り受け止め、憲法審査会で与野党の枠を超えた活発な議論が展開されることを期待している」と語った。国民民主党の玉木雄一郎代表は、自民党改憲案の柱と為る自衛隊の9条明記に付いて「論理的整合性が取れていない」として取り下げを要求。首相は「問題があるなら憲法審で(対案を)提示頂きたい」と反論した。


                  以上









【管理人のひとこと】

 安倍晋三氏も滔々(とうとう)落ちるべき処まで落ちてしまったのか・・・国内産業が軒並み疲弊し、これ以上落ち無い処迄弱り切ってしまった。遣る事為す事全て失敗し、日本は先進国最低の経済に陥って居る。辺りを見回すと、殆どの利権を漁り食い潰した。残るは最後に残された「公営博打」所謂、法律で禁じられた御法度の「ギャンブル」だけだ。
 今までは、国や地方公共団体の税収の補完にのみ認められた「ギャンブル」を、利権獲得の為に「国に許可権の有る民間の事業会社に委託して利益を上げ様」とする「利権の塊」を作ろうとした。飽く迄国に指導権があり、尚且つ「民間業者が事業者」と為る、事業者・ギャンブル産業と国との間に発生する利権を漁ろうとする魂胆しか無い。案の定、この構想による政治家と事業者間での利権を巡る暗躍が始まってしまったのは、鼻から判って居た事だ。

 それで無くともパチンコを初め、私達の周りには競輪・競馬・ボート・オート・・・数限り無い「ギャンブル」が揃い、無制限に門戸を開いて我々を待って居る。公営ギャンブルで収益を上げるのは、その対面に「ギャンブルで負けた」無数の国民が存在する。
 誰かが負けたのを前提とする「公営ギャンブル」での収入を、今度は「民間事業者の利益」に献上する制度を作った。国民の負けた分を吸い上げる事業者から、今度は、国が吸い上げ様とする・・・鬼畜な振る舞い以外の何物でも無い。日本人の入場を制限し、飽く迄海外からのギャンブラーから収益を上げる目的だそうだが、誰が鴨にネギを背負わせて海外から遣って来るものか。甘い身勝手な構想で儲ける算段をするのは、時代遅れの博徒でも発想だにしない暗愚な政策だ。
 ギャンブル場はIRの中の限られた面積であり、周囲には国際会議場やホテル・観劇・その他アラユル人を呼ぶイベント会場が主と為る・・・とするが、その様なものは民間や公共団体には既に無数に存在して居る。そこの中には維持費もママ為らぬものも在り、そんな状況も考えず、新たな土地で大掛かりな土建の利権を発生させ様とする・・・全てが利権より始まり利権で終わる・・・暗愚で醜い政策としか考えられ無い。span>










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徳川幕府は何故、260年も続いたのか〜家康の巧妙な分断政策



 徳川幕府は何故、260年も続いたのか〜家康の巧妙な分断政策

           〜童門冬二(作家) 2019年07月22日 公開〜

              1-20-7.jpg 徳川家康

 二分化された大名の役割

 徳川家康は所謂「御三家」を創った。九男・義直、十男・頼宣、十一男・頼房の三人の息子を、夫々尾張、紀州、水戸の三藩に配し、徳川家を名乗らせた。しかしこれは必ずしも自分の息子達を完全に信頼した上での行為では無い。徳川家康の幕府創設とその運営方針は「分断支配」である。
 詰まり組織を細分化し、夫々に責任者を置き、責任者同士の競争によって組織全体を活性化し、これを保とうと云う考え方である。

 その大きなものが、大名を先ず譜代大名と外様大名に分けた事だ。譜代大名は三河国以来、徳川家が未だ松平家と云って居た当時から忠節を尽くして来た武士が大名に為ったグループである。外様大名と云うのは、過つては織田信長や豊臣秀吉の部下だった者が、関ヶ原の合戦や大坂の陣以降徳川家に忠節を尽くす様に為った連中だ。家康はこう云う転向者を信用しなかった。
 だから、260年間、明治維新迄、徳川政権の政策担当者は全て譜代大名である。外様大名は絶対に幕政に参画する事は出来なかった。常に政権のカヤの外に置かれた。言ってみれば譜代大名は万年与党であり、外様大名は万年野党であった。

 しかし、家康の分断政策は、この大名の二分化だけでは無い。モッと皮肉な扱いをした。それは政権を担当出来る譜代大名の給与は低く抑え、逆に政権担当者に為れ無い外様大名の給与を莫大なものにしたのである。加賀前田100万石、薩摩島津77万石、仙台伊達62万石、肥後細川55万石、筑前黒田52万石等がその例だ。
 しかしそれは只高い給与を与えっ放しにしたのでは無く、参勤交代やお手伝い等によって、これ等の大名の財政が常に逼迫する様に仕向けたものだった。これも分断政策の一つだ。

 ポストを複数制にした効果

 又徳川幕府の管理職ポストを、全て複数制にした。一人の人間に限定しなかった。老中、若年寄、大目付、諸奉行アラユル役職ポストに二人以上の人間を配置する。そして「月番」と云って、一か月交代で仕事をさせた。周りから観れば夫々の仕事の評価が比較出来る。
 言ってみれば、これ等のポストに就いた人物は、衆人環視の下で競争させられたのである。ドッグレースをさせられたのと同じだ。勢い能力をフルに発揮し無ければ為ら無い。ここにも家康の叡知があった。御三家も同じである。

        1-20-8.jpg 童門冬二氏(作家)

 御三家を創った時、家康は「徳川本家に相続人が絶えた時は、三家が好く相談をして相続人を決める様に」
と言ったと云う。その限りにおいては、
 ●家康は別に、御三家の中から相続人を出せとは言って居ない
 ●例え御三家の中から候補者を出すにしても、その順位は決めて居ない
 
 と云う曖昧なものだった。この辺は家康の分断支配の巧妙な処で、彼は何時もこう云う不透明で曖昧な部分を残した。そして当事者が、アアでも無い、コウでも無いと考え尽くすのを期待する。意地が悪い。

 しかし御三家側では、ヤガテ「徳川本家に相続人が絶えた時は、御三家の中から候補者を出す」と云う事に申し合わせた。が、順位に付いては別段の定めは無かった。その為に、何回か争いが起こった。
 特に、第8代将軍を決める時に、尾張か紀州かの争いは切実なものと為り、その後にシコリを残した。しかしこの御三家の制度は、現在でも好く問題に為る後継者決定の時に「血か能力か」と云う問題を「飽く迄も血統を重んずる」と云うことに確定したと言って好いだろう。

 この血統重視の方針は、その後何回か徳川本家に相続人が絶えた時の危機に対応する有力な論理として通用した。5代将軍から6代将軍への移行の時、7代将軍から8代将軍への移行の時、そして10代将軍から11代将軍への移行の時、更に13代将軍から14代将軍への移行の時に遺憾なく発揮される。

 世界に例を見無い有効な管理システム

 この御三家制で確立された「血の尊重」を、最も有効な論理として振り翳(かざ)したのが、幕末の井伊直弼である。この時も、列強の開国要求に迫られて、日本国内は騒然として居た。有能な将軍が出現し無ければ、この混乱は収まら無いと観られた。その為今までに無かった、将軍に対する期待条件として「年長・英明・人望」の3条件が世論として湧き起こった。この世論を京都朝廷も支持した。危機を感じた井伊直弼は、
 「将軍を誰にするかと云うことは、徳川家内部の問題だ。例え年少の将軍が出現したとしても、その為に老中以下補佐役が控えて居る。徳川家に関わりの無い人物が、無責任に誰が好い等と云うことを言うべきでは無い」
 と言って、当時「年長・英明・人望」の3条件を満たして居た一橋慶喜を擁立した連中を全部罰してしまった。安政の大獄である。従って徳川家康が創始した御三家制度は、

 「徳川幕府を指揮する征夷大将軍は、全て徳川家の血を引く者の世襲制とする」

 と云うことを260年間守り抜いたのである。井伊直弼が主張したのも、この御三家制度に根拠を置く論理である。その意味では、御三家だけでは無く御三家を取り囲む形で、アラユル役職、或は大名達に対し分断支配の網の目を隙間無く張りめぐらした徳川家康の叡知は、世界のどの国にも例を見無いシステムを創造したと言って好いだろう。

 そして更にこれ等の武士の論理を貫く為に、士・農・工・商の四階級に日本人を分断してしまった身分制度は、色々な問題を生む。この事は目に見え無いソフトの面だけでは無い。目に見えるハードの面においても、例えば諸都市における「木戸(市内の要所に設けた警戒の為の門)」等によって、夜に為ればそこに住む住民が全く檻の中に住まわされて居る様なシステムが考案された。
 従って、徳川幕府の管理は人的にも物的にも、現代で言われる「高密度管理社会」を、既に実現して居たと云うことが言える。


 ※本稿は、童門冬二著『信長・秀吉・家康の研究』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。


 




 【関連記事】徳川光圀は、何故『大日本史』を編纂したのか

             〜童門冬ニ(作家)2019年02月21日 公開〜

        1-20-9.jpg 徳川光圀

 ※本稿は、童門冬二著『歴史人物に学ぶ 男の「行き方」 男の「磨き方」』より、一部を抜粋編集したものです。


 徳川光圀の若き日々

 不良少年

 徳川光圀の出生は、必ずしも幸福なものでは無かった。父の徳川頼房が歓迎しなかったからだ。頼房は、初代の水戸藩主だった。徳川家康は、九男、十男、十一男を夫々尾張、紀伊、水戸に封じて、所謂「御三家」を創った。もし、徳川本家に相続人が欠けた時は、この御三家の中から候補者を出すと云うことだ。

 母は谷久子と云った。水戸藩に仕える武士の娘で、水戸城の奥勤めをして居た侍女である。頼房に愛されて光圀を身籠った。しかし頼房は、三木仁兵衛と云う信頼する家臣に久子を預け「生まれて来る子は水にせよ」と命じた。「水にする」と云うのは、当時の言葉で「間引き」といって、赤ん坊が生まれると直ぐその命を絶ってしまう慣わしである。
 しかし三木仁兵衛は、非常に心の温かい人物で「この世で人の命程大切なものは無い」と信じて居た。三木は妻と相談して、主人の頼房には内緒で光圀を育てる事にした。母の久子は感謝した。

 父の頼房が「水にせよ」と云ったのは、光圀が初めてでは無かった。久子は七年前にも、頼房の子を身籠った。その時も頼房は「水にせよ」と云った。その子も、三木仁兵衛夫妻はソッと育てた。これが、後の四国高松藩主に為る松平頼重で、この兄の存在が、ヤガテ光圀に大きな心の転機をもたらす。

 光圀は幼名を長丸と云い、後に千代松と改めた。ヤガテ父に認知されて、世子(相続人)に指名されると、時の将軍・徳川家光から名前を一字貰って「光国」とした。「圀」と改めるのは50代に為ってからである。光圀は頼房の三男に為るが、2人の兄を差し置いて相続人に指名された。光圀は少しも喜ば無かった。
 彼には子供の時から心に受けた深い傷があった。それを、三木夫妻は必死に為って隠したが、何時しか少年光圀の耳にも「千代松様は、本当は水にされるお子様だったのだ」と云う噂が入った。(父は、私を殺す積りだったのか?)と云う思いは、身体を骨の底からガタガタにする様なショックだった。

 この頃は未だ戦国の余風が残って居て、武士らしさが求められたが、光圀は逆な生き方をした。三味線を弾いたりサイケな服装をした。自分でデザインを考えた衣類を、色取り取りに染めさせ、これを着て江戸の町を歩き廻った。
 世間の人々は「水戸様の若様はマルでかぶき者だ」と云って指をさした。かぶき者と云うのは、元々は「傾く」から来て居る。只歌舞伎役者の真似をすると云うことよりも、拗ねて世の中に対し斜に構える生き方を云った。

 事実、少年時代の光圀は斜に構えて居た。それは、胸の底にある父への不信感と怒りであり、同時に悲しみでもあった。彼は、その事を思い詰めると、真っ当に生きる事が出来なく為った。だから、斜に構えてかぶき者を気取り、江戸の町をサイケな格好で歩き廻るパフォーマンス活動を自ら許して居た。
 詰まり「自分は、この世に生まれた時から不幸な星の下に育ったので、この位のことはしても好かろう」と云う気持ちであった。

 云ってみれば、自分の個人的な不幸を社会への対抗要件として居た。斜に構える事は、自分の出生を喜ば無かった父を初め、世の中に対する報復でもあった。遊廓である吉原にも好く出入りした。此処で喧嘩もした。こうして、少年時代の徳川光圀は、世間から後ろ指を指されっ放しの、鼻持ち為らない不良少年であった。
 しかし、頭は鋭く、大人が理屈に合わ無い話をすると直ぐ「そんな馬鹿な事は在り得ない」と矛盾点を指摘した。話し手は得意の鼻を折られて白ける。この「常に真実を追求する」と云う態度は、光圀が成人してからの邪教の追放や『大日本史』の作成等でも見受けられる。

 『史記』で人生を悟る

 父の徳川頼房は、光圀を跡目相続人と決めた時に、傅役として、伊藤玄蕃、小野角右衛門、内藤儀左衛門と云う3人の武士を着けた。伊藤と内藤は、役目の範囲内で光圀を育てた為、光圀がいかにかぶき者振りを発揮しても、余り意見を云わなかった。云っても聞か無かったからだ。
 一人小野角右衛門だけがズケズケ意見した。口で云っても判らないので、小野は「諫草」と云うメモにして、シツコク光圀に読ませた。

 初めのうち光圀は「うるさい」と云って「諫草」を跳ね飛ばして居たが、ヤガテ書かれて居ることに関心を持ち、目を留める様に為った。と云うのは、小野の書いた「諫草」の中には、中国の文献からの引用が多かったからだ。
 孔子や孟子等の中国古代の聖人の言葉を引くと「貴方のこう云う行ないは、正に孔子や孟子の云う、人間としてやっては為ら無いことに当て嵌まります」等と書いてあった。光圀は小野の博識振りに感心し、次第に中国の人物と歴史に関心を持つ様に為った。

 彼は『史記』と云う本を読み始めた。ズバリ説教調の孔子や孟子の本よりも面白かった。中国古代の人間の生き方が、活き活きと描かれて居たからである。偶々その中の「伯夷伝」と云う文章を読んで、光圀は大きな衝撃を受けた。

 「伯夷伝」と云うのは伯夷と云う兄と叔斉と云う弟の物語だ。彼等の父は孤竹の国君だったが、死んだ時跡目を継ぐ者の指名をして居なかった。伯夷は、弟の叔斉に「父に愛されて居たお前が相続人に為れ」と云った。叔斉は「兄さんを差し置いて、私が家を継ぐ事は出来ません」と辞退した。何時迄話し合ってもまとまら無い。そこで兄弟は相談して「イッソの事、この国を捨てて、2人何処かで自然と親しみながら暮らそう」と決めた。

 偶々、周と云う国に行った。ここの王である武王が、自分の仕える紂王を武力で退ける企てをして居た。これを知った伯夷と叔斉は、周の武王の馬の手綱に縋って止めた。「いかに悪王と云っても、主人を武力で追放する事は不忠に当たります。好くありません」
 しかし武王は「紂王は悪王であって、既に王では無い。只の人間だ。私は只の人間を征伐しに行くのだ」と云って、言葉通り紂王を追放してしまった。

 光圀はこの話を知って居た。そして、小野が頻りに引用した孟子は「周の武王の行為は正しい。紂王は悪王であって徳を失って居た。徳を失った王は王では無く匹夫である。周の武王が退治したのは匹夫であって、王では無い」
 と武王を支持した。そして、孟子はこれを「放伐」と名付けた。孟子の放伐の理論は、下克上の論理として、戦国時代には日本でも活用された。処が、光圀が衝撃を受けたのは、孟子が肯定する周の武王の行為を、伯夷と叔斉は最後まで「間違った事だ」と否定した勇気に対してである。

 もう一つ事情があった。それは、この頃の光圀は既に自分に頼重と云う兄が居て、四国高松の藩主に為ったことを知って居た。同時に、その兄も罷り間違えば水にされて、生まれて直ぐアノ世に送られて居たかも知れ無いことも知って居た。
 同じ生まれ方をしたのにも関わらず、兄を差し置いて自分が水戸徳川家の当主に為った。その事が、光圀にはズッと引っ掛かっていた。彼の非行の一因にはこの兄の存在もあった。「伯夷伝」を読んで感動した光圀は、水戸徳川家の今後の相続に付いて、途轍もない方法を考え出した。

 同時に、それ迄の非行をピタリと辞めた。真面目な相続人に為り、民を治める知識や技術を学び始めた。そして、根底に為る「愛民」の思想を学んだ。光圀は生まれ変わったのである。『史記』と云う一冊の本が、光圀に根源的な自己変革を促したのだ。

 大義を正す日々

 寛文元年(1661)7月に、父の頼房が死んだ。59歳だった。8月19日、光圀は跡を継いで水戸徳川家の第2代藩主に為った。

 藩主に為って直ぐ光圀が出したのは「殉死禁止」の令である。殉死の禁止は、既に徳川本家でも触れて居たが、全く守られて居なかった。将軍が亡く為る度に、多くの武士が殉死した。
 10年程前、3代将軍・徳川家光が死んだ時も多くの大名や旗本が後を追って腹を切った。人命尊重の気持ちを募らせて居た光圀は、父の死に対して藩の武士が腹を切る事を禁止した。この厳命は守られて、水戸家では父・頼房の死に対する殉死者は1人も出なかった。

 光圀は、自分の政策を発表した。

 ● 民政を重視し、農民の暮らしを豊かにする
 ● 『大日本史』の編纂を続行する
 ● 領内に水道を建設する
 ● よこしまな宗教を禁止する
 ● 農民の負担を軽減する為に、雑税の幾つかを廃止する


 等であった。そして、最も藩内を驚かせたのは、相続人を定める方法である。光圀は「今後、水戸徳川家の相続は、四国高松の松平家と交代で行なう」と宣言した。皆目を見張った。光圀は実行した。即ち、兄・頼重の息子である綱条(つなえだ)を養子に迎えた。頼重には「私の息子を、高松の世子にして貰う」と告げた。頼重は「そこ迄遣らなくても好いのではないか」と云ったが、光圀は承知しなかった。
 18歳の時に読んだ『史記』の「伯夷伝」の衝撃が、ズッと胸の中に残って居た。三男の自分が、兄の頼重を差し置いて水戸の当主に為ったことに、何とも云えない後ろめたさをかんじて居たのである。

 水戸領内の民政を重視して、民の暮らしを豊かにしたいと云うのも、そう云う後ろめたさの裏返しであった。同時に『大日本史』の編纂を続行すると宣言したのも、その為であった。『史記』の「伯夷伝」に感動した光圀は(日本にも、探ってみればこう云う事例が沢山あるのではないか。それを掘り起こして整理し、後世に伝えよう)と思いたったのである。

 『大日本史』編纂の企ては、彼が当主に為る前の明暦3年(1657)から行なわれて居た。彼が30歳の時である。江戸駒込の中屋敷に史局を設け、編纂に従事する専門の学者達を集めた。特別な予算も用意した。この事業は相当な金食い虫であったので批判も多かった。
 しかし光圀は、藩主に為ってもこの編纂は続けると宣言したのである。実を云えば、この『大日本史』の編纂は明治39年(1906)迄掛かる。250年に渉る大規模な修史作業であった。彼は『史記』によって学んだ「人倫の道」即ち「大義を正す」と云うことを、水戸藩内だけで無く、日本全体のコンセンサスにしたかったのである。

 『大日本史』と云う本は、南北両朝に分かれて居た頃の皇統問題に言及し「南朝が正統である」とした。その為、楠木正成や新田義貞達が忠臣と為り、足利尊氏達は逆賊と呼ばれた。しかし、足利3代将軍・義満の時に、南朝の後亀山天皇は、北朝の後小松天皇に「三種の神器」を渡し両朝は合一した。そして以後は、後小松天皇系の天皇が続いて今日に至って居る。

 光圀の意図は何処にあったのだろうか。『大日本史』の思想は、後に「水戸学」と呼ばれ、幕末の尊皇運動の理論的根拠に為る。南朝を正統とし北朝を偽朝とすれば、徳川政権は足利政権と違って正当な武士政権として存立出来る。天下の副将軍・徳川光圀の真意はこんな処にあったのでは無かろうか。
 しかしその後、水戸思想は独り歩きをし、幕末の志士を奮起させた。もし、光圀に初めから倒幕思想があったとすれば、そう云う危険思想の持ち主を、幕府が副将軍として扱う筈は無い。この辺は謎だ。もっと追究されるべきテーマだ。

 愛される「ご隠居」に

 光圀は、元禄3年(1690)10月14日に藩主の座を退いた。63歳だった。後は、約定に従って四国高松藩主・松平頼重の子綱条を指名した。徳川将軍は、家光の後4代目は家綱が継いだが、家綱が死んで5代目に綱吉が就任して居た。処が、綱吉は有名な悪法である「生類憐みの令」を出した。これが拡大解釈されて民衆が酷い目に遭った。

 光圀は、この綱吉の悪政を諫める為に、藩主の座を退いたのだとも云われる。隠居の身なら思い切って意見が出来るからだ。それ迄の彼は副将軍として江戸城で政務に励んで居た。が、綱吉には柳沢吉保と云う側近が居て、殆どこの2人で政治が行なわれて居た。ナカナカ光圀には口を出す機会が無かった。又、綱吉も光圀を煙たがって居た。

           1-20-11.jpg 西山荘

 隠居した光圀は、常陸(茨城県)の太田と云うところに引っこんで「西山荘」と名付けた隠居所に籠った。『大日本史』の編纂は、駒込から小石川の本邸に移された彰考館で行なわれて居たが、これも水戸に移した。西山荘に移った光圀は、付近に梅の木が多かったので自分の号を「梅里」と名付けた。

 身近に『大日本史』を編纂する有名な2人の学者が居た。佐々宗淳(さっさむねきよ)と安積澹泊(あさかたんぱく)である。2人は『大日本史』の記事を正確にする為に好く諸国を探索して歩いた。
 宗淳の通称は介三郎、澹泊の通称は覚だったので、これが後の「助さん・格さん」に発展したのだと思う。『水戸黄門漫遊記』そのものは、全くのフィクションである。光圀が歩き廻ったのは、常陸国内か、精々近隣の地域に過ぎない。恐らく、佐々と安積が歩き廻ったことが漫遊記に発展したのだろう。

 『大日本史』の編纂は相当な金食い虫であり、又この編纂に携わる職員を優遇したので、藩内でも不平の声が多かった。光圀がこの頃寵愛して居た家臣に、藤井紋太夫と云う男が居た。才覚があるので光圀は重宝して居たが、この藤井が将軍・綱吉の側近・柳沢吉保に接近した。
 2人の動きを見て居ると、どうも光圀を力の無い立場に追い込む様な企てをして居る。藤井にすれば『大日本史』が余りにも金を食うので、この編纂を辞めさせようとしたのかも知れない。これを知った光圀は、或る日突然、藤井を刺殺した。天下は驚いた。

 光圀は同じ頃、江戸城に出掛けて行っては将軍・綱吉に『大学』等、中国の古典の講義を行なった。暗に「生類憐みの令」の様な悪法を、早く廃止すべきだと云う意見である。しかし、綱吉は聞か無かった。綱吉も又「生き物の命を大事にしたいと云うのは私も同じだ。だから、小動物の命を大事にする事が、即人間の命を大事にする事に繋がるのだ」と云って聞か無い。光圀は「そんな馬鹿な事は無い」と云ったが、綱吉とは見解の相違があった。

 『大日本史』の編纂だけで無く、この頃の光圀は頻りに領内を歩き廻った。藩主に為った時に約束した上水道も笠原水道として完成して居た。怪し気な宗教も全部無く為っていた。善政を行なったので、領民は光圀を「黄門様」と呼んで敬愛した。
 元禄13年(1700)12月6日、光圀は死んだ。生前の行ないを偲んで「義公」と贈名された。73歳だった。黄門と云うのは官位で中納言の事を云う。従って、中納言であれば誰もが黄門で、光圀の専売特許では無い。しかし、黄門と云えば直ぐ徳川光圀を思い出すのは、矢張り彼の人徳だろう。

 子供の頃、危うく「水」にされそうに為った彼は「人間の傷の痛み」を知って居た。自分の傷の痛みを知るからコソ、他人の傷の痛みが判った。それが弱い人間への優しさや思い遣りに為った。黄門漫遊記は、そう云う彼の気持ちをシンボライズしたドラマだ。明治22年(1889)の憲法発布の直後から流行し始めたと云う。明治天皇の積極的な地方巡幸と、果たして関わりは無かったのだろうか。


                以上

          1-20-10.jpg 童門冬二氏(作家)










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危機的な少子化問題 新しい発想で対策を考える




 危機的な少子化問題 新しい発想で対策を考える

              〜現代ビジネス 1/19(日) 11:01配信〜


 〜少子化が急速に進んで居る。急激な少子化が数々の深刻な社会問題を引き起こす事は、徐々に常識に為りつつある。少子化を何とか押し留め様と、政府は様々な手を打って来た。にも関わらず、少子化の勢いは鈍って居ない。少子化のスピードを遅らせる為には「何故人は子を持つのか?」と云う根本的な問題を考えてみる必要がある。動機付けの問題である。そこからは、これ迄とは全く違った少子化対策が浮かび上がって来る〜

 少子化対策の限界

 これ迄、様々な少子化対策が実施されて来た。が、その最大の問題は、どの対策も充分な効果を上げて居ないことである。児童手当の支給・保育園への助成等、施策は多岐に渡るが何れも少子化にブレーキを掛けるには至って居ない。
 もうひとつの大きな問題は、対策の多くが予算措置を必要とする事である。少子化対策に「成功」した例として、好くフランスが挙げられるが、そのフランス並みの対策を講じ様とすると、7兆円近い追加予算が必要に為ると試算されて居る。(1)

 一方、国の財政にはユトリが無い。「赤字国債」の残高は883兆円に上り、国民1人当たり700万円もの借金をして居ることに為る。(2)「先進工業国」の中では、突出した額の借金である。GDP(国内総生産)に対する比率でみると、フランスの場合、国債の残高はGDPとホボ同程度(96.3%)だが、日本の場合は、2倍半近く(236%)にも為る。(3)フランス並みの対策を講じる事は、極めて困難なのである。

 生物学的な動機付け

 これ迄の少子化対策は、何れも「誰もが『子を持ちたい』と望んで居る」と云うことを前提にして居る。子を持ちたくても、シバシバ「経済的に余裕が無い」「仕事と子育ての両立が難しい」と云った障害があり、その障害を取り除く事が、少子化対策の主眼に為って来たのである。
 確かに、多くの人は「子を持ちたい」と望んで居る。この望みは、自分の遺伝子を残そうとする生物の基本的な欲求に根ざして居る。しかし、こうした生物学的な動機付けだけで充分なのであれば、ソモソモ少子化問題が生じる筈は無い。

 遺伝子を残す為の生物学的な仕組みは、身体的には受精に繋がる行為が脳内の快中枢を刺戟する事であり、心理的には恋愛感情が生じる事である。処が、避妊や中絶の技術が発達した結果、こうした生物学的な仕組みは、出産には繋がら無く為って来た。生物学的な動機付けは、少子化対策の基盤としては、効力が弱まって来て居るのである。

 子育てのコスト

 一方、子育てには大きなコストが伴う。子を1人育てる為には、1千万円掛かるとも、2千万円掛かるとも言われる。夫婦と子供2人の世帯では、第2子が大学に進学すると子育てのコストは可処分所得の70%にも達すると云う。(4)
 更に、子育ては多大の時間と労力を要する。子育てと並行して仕事を続け様とすると、重い負担に喘が無ければ為ら無い。かと云って、子育てに専心すると、キャリアが中断して出世や昇給の上で不利に為ることが多い。一人親家庭の場合は、ソモソモ「子育てに専心する」と云う選択肢は無い。子が非行等の問題を起こす危険もあり、自分が子を虐待してしまう危険もある。

 子を持つ事を促す生物学的な動機付けの効力が弱まる一方で、子を持た無いことを促す社会的な動機付けは強まって来て居るのである。生物学的な動機付けの中には「子を持ちたい」と望む心理的な欲求も含まれているが、これには個人差があり、子供を「うるさい」とは感じても、特に「可愛い」とは感じ無い人も居る。
 価値観にも個人差があり、子を持つ事よりもキャリアを重視する人も少無く無い。子育てに何千万円もの金額を費やすより、その金額を自分の為に使いたいと考える人も居る。そうした人々は「子を持た無い」と云う選択肢を選び、少子化が進行する事に為る。
 
 経済的な動機付け

 しかし、過去を振り返ってみると、子を持つ事には、生物学的な動機付けの他に、経済的な動機付けも働いて居たことが分かる。年金制度が整備される前は、年老いて働け無く為った時、充分な資産が無い限り、老後の生活は自分の子に支えて貰う必要があった。
 年少児の死亡率が高かった時代には、子が居なく為ってしまうと云う危険を避ける為に、多くの子を設けて居た。子に恵まれ無ければ養子を取ることもあった。しかし、年金制度が整備された現在、老後の生活を支える為には、子を持つ必要は無い。年金が支えて呉れる。詰まり、現在は経済的な動機付けも働か無く為っているのである。

 年金制度の落とし穴

 その年金の仕組みを見ると「現役世代が支払って居る保険料を原資にして、高齢者に年金を支給する」と云う形に為っている。その「現役世代」は、子を持た無い人に取っては他人の子である。即ち、子を持たずに年金を受給して居る人は、他人が育てた子供達に老後を養って貰って居ることに為る。
 子を育てる為には何千万円かの費用が掛かるが、子を持た無い人はそれを自分の為だけに使う事が出来る。老後は、他人が何千万円かの費用を賭けて育てた子供達に生活を支えて貰う事が出来る。言い換えると、子を持つ人から子を持た無い人への所得移転が生じて居る事に為る。

 子を持た無い人は子を持つ人に「只乗り」して居る訳で、経済学で言う「フリーライダー問題」が生じて居ることに為る。これは道義的な問題として捉える事も出来る。何れにしても、経済的な動機付けは、現在では、子を持つ事を妨げる方向に作用して居るのである。

 ストレートな対策

 少子化のスピードを緩める為には、子を持つ事への動機付けを高める必要がある。生物学的な動機付けの効力が低下して来て居る現在、経済的な動機付け迄が子を持た無いことを促進して居る様では、少子化は進むばかりである。経済的な動機付けが子を持つ事を促進する様に、社会制度を設計し直す必要がある。
 ここ迄の考察から自然に出て来る少子化対策は「子を持た無い人には年金を支給し無い」と云う年金制度の改革であろう。この改革が実施されれば、経済的には、子を持た無いことは有利では無く為る。子を持つ人から子を持た無い人への所得移転も無く為る。

 キリギリス問題

 しかし、このストレートな対策には問題もある。「キリギリス問題」である。イソップの寓話「アリとキリギリス」を想起しよう。現役の時には退職後のこと等考えずに、貯蓄もせず子も持たずに裕福な暮らしをしてしまう「キリギリス」が出て来る可能性がある。こうした「キリギリス」は、退職後、年金が支給され無ければ忽ち困窮することに為る。
 「キリギリス」の数が少なければ「自業自得」と突き放すことも出来るだろう。しかし、数が多く為れば、社会不安の源に為りかねないので、放置する事は出来ない。

 また、将来、自分が年金を受給出来ないと云うことに為れば、保険料を支払おうと云う動機付けは消える。その結果、子を持た無い人が保険料を支払わ無く為れば、年金制度を維持する事は困難に為る。従って「年金を減額する」事位は可能かも知れないが「年金を支給しない」と云う対策は現実的では無い。

 現実的な対策

 それより現実的で、しかも効果が期待出来る対策は「子を持た無い人には、社会保障(年金と健康保険)の保険料を増額する」と云う措置である。どれだけ増額するかは、子育ての費用を基準にして考えることになる。
 現在は、子を持た無いことが経済的に有利に為っている。しかし、子を持た無い人の保険料が高く為り、子育ての費用と変わら無くなれば、子を持た無いことの経済的な利点は消える。経済的な動機付けが子を持た無いことを促進する事は無くなる。一歩進んで、子を持た無いことが経済的に不利に為る様に増額幅を設定することもできる。

 「子を持た無い人には年金を支給しない」と云うストレートな対策の場合は、現役世代には年金の受給が遠い将来の事に感じられて「キリギリス問題」が生じる恐れがある。しかし「子を持た無い人の保険料を高くする」と云う対策の場合は、毎月、高い保険料を実感する事に為るので、経済的な動機付けが働き易くなる。子を持つ事が経済的に不利で無くなれば、或は有利に為れば、子を持つ人が増えると期待する事ができる。

 年金改革の利点

 この対策の最大の利点は、予算措置を必要とし無いことである。国が膨大な借金を背負って居る現在の財政事情の下でも実施が可能である。
 仮に「出生数を増やす」と云う効果が充分に大きく為らなかったとしても、保険料の増額によって生じた財源は、子育て支援など他の少子化対策に振り向ける事ができる。フランスで効果を上げた少子化対策が実施できるかも知れない。

 近年は、非正規雇用の増加などに伴って、低所得層の割合が拡大して来ており、特に年収が300万円に満たない層では「そもそも結婚すること自体が難しい」と云う問題も出て来た。財源が増えれば、こうした層の税額控除を拡充する等、結婚を支援する対策も実施出来る。又、保険料の増額に、所得に応じた累進制を導入すると云う措置も考えられる。

 出生率が低下する原因の一つは、晩婚化だと言われている。また、結婚はしても、出産を遅らせる結果、子を持とうとした時には高齢になっていて、出産が出来なくなっている、或は出産が1回しかできなくなっている、という問題も指摘されている。
 子を持たない人の保険料が高くなれば、高い保険料を支払い続ける事を避け様する心理が働いて、こうした晩婚化や出産年齢の高齢化に歯止めが掛かる可能性もある。

 大義名分

 この対策には道義的な大義名分がある。現在は、子を持たない人は、他人が育てた子どもたちに老後を支えて貰っている。しかし、子を持たない人の保険料を増額すれば「国の将来を担う新しい世代を育てる為に、国民全員が公平な経済的負担をする」と云うことに為る。子を持つ人から子を持た無い人への所得移転は無くなり、先の「フリーライダー問題」も解消する。

 少子化対策の財源を増やす為には「西欧諸国並みに税金を引き上げる」と云う方策が提唱されて居り、何れ、れが必要に為るかも知れない。しかし、この方策を取った場合は、子を持た無いことが経済的に有利になると云う現状は変わら無いことに為る。
 従って、この方策には経済的な動機付けの効果を期待する事が出来ない上に、年金制度の公平性と云う点に限っては大義名分も無い。

 目前の危機

 日本の人口は10年程前から減少に転じた。この先、人口は、崖から突き落とされる様な勢いで減って行くと予想されている。50年後には8千万人近くに迄落ち込むと云う予測もある。(5)人口がピークだった2008年頃と比べると、4千万人以上減る事に為る。これは、東京を中心とする首都圏(1都7県)の現在の人口がソックリ消えてしまうことに相当する。

 今後50年の間、少子化は人口の高齢化と同時進行することに為る。生産年齢人口が減り続ける一方で、年金を受給する高齢者の人口は増え続けて行くのである。何れ、現役世代は高齢者を支え切れなくなり、年金制度は崩壊する恐れがある。

 年金改革は不利益か?
 
 これまでの少子化対策は、助成金、無料化など、何れも経済的な利益を供与する形を取っていた。一方、「子を持た無い人の保険料を増額する」と云う措置は、子を持た無い人に経済的な負担を課す事に為る。その為この対策の実施には大きな困難が予想される。子を持た無い人は、保険料の増額と云う政策には好意的に為れないに違い無い。
 しかし、保険料の増額に反対して居ると、自分が高齢者に為った時には、年金制度が崩壊して居て、年金が受け取れ無く為っているかも知れない。人口の急減に伴って国内需要も急減し、自分の仕事が無くなってしまうかも知れない。

 今後、現役世代の割合は減少して行くが、保険料の増額と云う対策は、現役世代が減り過ぎると現実的では無く為る。現役世代の人口が未だ60%近い割合を占めて居る今が、最後のチャンスかも知れないのである。


 【出典】

 1. 「子どもと家族を応援する日本」重点戦略検討会議 2007年4月 (金子隆一 (2019) 「人口減少社会の歴史的位置づけ ― 2つの人口転換」)。
 2. 平成30年度現在。財務省「財政に関する資料」2019年5月30日
 3. 平成30年4月現在。財務省「財政に関する資料」2019年5月30日
 4. 厚生労働省「今後の子育て支援のための施策の基本的方向について」 1994年12月16日
 5. 国立社会保障・人口問題研究所 「日本の将来推計人口(平成29年推計)」


           近未来ビジョン  以上








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秀吉か森蘭丸か 明智光秀「信長殺し」8人の真犯人




 秀吉か森蘭丸か 明智光秀「信長殺し」8人の真犯人

              〜SmartFLASH 1/19(日) 6:31配信〜

 今日から放送されるNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公は明智光秀。ドラマのクライマックスとなるのが、アノ「本能寺の変」だ。1582年6月2日、天下統一を目前にして居た織田信長が、家臣の明智光秀の謀反により本能寺で自害。

 だが光秀は「中国大返し」で戻った豊臣秀吉に敗れ、その天下は僅か11日で終わった。「戦国時代、最後にして最大の下剋上」と云われる。主君・信長にパワハラを受け続けた結果の謀反・・・詰まり「光秀の 私怨 が原因」というのが、人々が持つ本能寺の変のイメージだろう。だが近年、これを覆す「新説」が次々と発表されて居る。
 今回、紹介するのは、黒幕や共謀者と囁かれる8人の真犯人 。荒唐無稽な説もあるが、思わず膝を打つ説も。歴史上の大事件にも関わらず、未だ「信長殺し」の謎が解明され無いのは何故か。

 「信頼性の高い1次史料が、限られて居る為です。学者や作家は、自説の補完材料として、2次史料・3次史料を恣意的に利用する為、基本的な事実すら定まらず論旨が噛み合わ無いのです」

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 歴史アナリストで『明智光秀の生涯』(三笠書房)の著者 外川淳氏(56)はそう語る。

 「黒幕が居ると云う説を提起する人は、真実を解明したい訳では無く、歴史エンタテインメントとして支持を得られれば好いのでしょう。歴史学での研究成果を論拠としながら、ソコにフィクションを追加することで、真実を解明した幻想 を与え続けて居るだけとも云えます。
 私自身は『光秀は、黒幕に操られて謀反へ追い込まれたのでは無く、自らの意思で天下簒奪(さんだつ)を決めた』と考えて居ます。『共謀者も居た』と考えますが、山崎合戦で光秀が秀吉に敗北した事で、共謀者自身が証拠を消し去った筈です」(外川氏、以下同)


 大河ドラマでは、光秀の「謎めいた前半生」に光が当たる。

  「光秀は謀反人と見做され、秀吉の時代には、血縁者や関係者は、その事実を隠さざるを得無かった。その為、光秀に関して信頼に足る史料の殆どが失われ、生年月日や生まれた場所、父の名前さえ不明なのです。
 しかし生涯を辿ると、知性と行動力で逆境を克服した優れた武将だった事が判ります。精神状態が不安定で、突発的に謀反した様に語られますが、それは類まれなる名将に対する名誉毀損。天下人と為ることを夢見て、チャンスを逃さ無かった。僅かでも天下を奪い獲った成功者だったと思います」


 以下では、8人の “真犯人” についての新説を、外川氏に解説してもらう。あなたの知らない光秀がくる。

 真犯人(1)豊臣秀吉

 天下統一を目前にして居た信長に取って代わり、自らが覇者と為る為に、秀吉が光秀を謀反へと導いた・・・と云う説。最終的に、本能寺の変で最大の利益を受けたのが秀吉だった事や「中国大返し」の不自然な迄の動きの早さ等が根拠とされる。
 「黒幕と迄は云えませんが『光秀との共謀があった』とする事は否定し切れ無い有力な仮説。信長に対する不信感・警戒心は、光秀も秀吉も持って居た筈です。共謀の証拠は、勝者・秀吉により抹消されたとも考えられます」(外川氏の見解・以下同)

 真犯人(2)徳川家康

 「家康は『信長が自身(家康)の殺害を光秀に命じた』と察知し、光秀と共謀して返り討ちにした」と云う説。信長と徳川家康は同盟関係にあった。しかし、家康は嫡男と妻を信長の命により死に追い遣られて居た。「本能寺の変」直前、家康が光秀から持て成しを受けて居たことも根拠だ。
 「光秀と家康の接点は、それ程無かった筈ですが、この両者に仕えた武将が存在します。『この武将が、両者の間を繋ぐスパイ、或は連絡役の様な役割を演じ、謀議を交わした・・・』と想像する事も可能でしょう」

 真犯人(3)濃姫

 斎藤道三の娘で、後に信長に嫁いだ濃姫を『本能寺の変』の中心人物だと疑う説。『光秀と濃姫は、従妹であり幼馴染み、更に恋仲でもあった』と云う見解を前提として居る。信長を含めたこの3人の三角関係が変を引き起こしたとする筋立てだ。
 「ドラマとしては面白いのですが、光秀の出自自体が謎であり濃姫と血縁関係の可能性は低い。とは云え、血縁関係が事実なら、光秀は主君・信長と、濃姫は出世街道を走るエリート・光秀と縁戚に為り・・・互いに好都合です」

 真犯人(4)足利義昭

 「信長の後ろ盾で将軍と為りながら、後に京を追放された足利義昭が光秀を決起させた」とする説。義昭は京を追放後、毛利氏等の庇護を受けながら、反織田の有力武将と連絡を取り、打倒信長の策謀を続けて居たことは、幾つもの書状等から確認されて居る。
 「光秀は、義昭に仕えて居た時期が有り、彼の軽薄な人間性を知り尽くして居た。義昭は『本能寺の変』の頃には既にその価値に見切りを着けられて居り、仮に関与して居たとしても黒幕程の影響力は無かったとみる」

 真犯人(5)長宗我部元親

 「目前に迫った四国征伐を回避する為、長宗我部元親が光秀と共謀した」とする説。光秀と元親は、近年再検証された「石谷家文書」により、密接に関係して居たことが裏付けられている。光秀は信長を倒した後、元親の協力を得られる事を期待して居た。
 「『石谷家文書』からは、光秀と元親の深い関係を知る事が出来る上に、この文書が、光秀に謀反を決意させた可能性迄もある。とは云え『共謀の証拠』と迄は言い切れません」

 真犯人(6)正親町(おおぎまち)天皇

 「朝廷が信長を京へ誘き寄せ、光秀に襲撃させた」とする説。「本能寺の変」が起きる直前の5月、朝廷(当時は正親町天皇)は、信長に「関白」「太政大臣」「征夷大将軍」の何れかへの就任を打診した。根底には、光秀が朝廷と築いて居た密接な人脈の存在がある。
 「『本能寺の変』前後の状況から、光秀と朝廷で謀議する事は可能。仮にその様な事実があっても、光秀が秀吉に敗れた時点で、証拠は抹消されたでしょう。否定は出来ませんが、実証する事も不可能」

 真犯人(7)森蘭丸  

 石原慎太郎の著書『信長記』で示された説。信長に対する森蘭丸の愛を主軸に描いた戯曲作品で、最終的には「信長の愛情を独占し心中する為に、蘭丸が光秀を唆(そそのか)し『本能寺の変』を起こさせた」とする。所謂、BL・ボーイッシュラブ的なストーリー。
  「『本能寺の変』を大胆に推理する為に、提起されたひとつ。史実としては齟齬(そご)が生じます。但し、蘭丸の小姓(秘書)としての役割を再評価すると、謎解明の為の新しい方向性と為る可能性も秘められて居る」

 真犯人(8)イエズス会

 信長は、海外の勢力とも密接な関係を築いて居たが・・・「自らを神格化して、余りに大きな野望を持つ信長を、イエズス会が危険視し光秀を唆し謀反に導いた」とする説だ。だが論拠には、資料の誤読や論理の破綻があり否定的な意見が多い。
 

 「戦国時代の日本は、スペインやポルトガル等、南蛮国からの侵略の危機に脅える様な、不安定な国家ではありません。その為、外国人宣教師の政治的影響力は皆無に等しく黒幕等には、為り様がありません」

         週刊FLASH 2020年1月28日号   以上 









 「関連記事」文章で紐解く 明智光秀が信長討った真の狙い

          〜東洋経済オンライン 加来 耕三 1/19(日) 5:20配信〜


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     織田家一の出世頭、明智光秀は何故「本能寺の変」を起こしたのでしょうか?

 日本史の大い為る謎と称されるものの中に、明智光秀が織田信長を弑逆(しいぎゃく)した「本能寺の変」が挙げられます。
 次に挙げたのは、その光秀が謀叛(むほん)に及ぶ1年前に、自らの家臣団に宛てて述べた「家中軍法」の一節を現代語訳したものです。内容自体は、明智の兵としての心構えや軍編成に付いての記述なので、詳細は省略しますが、最後の締めの部分は興味深い文章です。

 「家中軍法」のポイントは? 

 「右の通り軍法を定め置く上は、実戦経験者は尚精進を怠らず未熟の者は好く理解せよ。私は瓦礫沈淪(がれきちんりん・瓦や小石の如く沈んで居た境遇)の様な低い身分から、信長様に取り立てられて、この様な莫大な軍勢を任される迄に為った。
 軍律も好く弁(わきま)えず、武勇も功績も挙げ無い者は、国家(織田家)の穀潰しで、公のものを掠〈かす〉め取るにも等しい。日々精進して居る者からは軽蔑・嘲笑の対象にもされるであろう。奮起して抜群の功績を挙げた為らば、必ず信長様に報告し、重く取り立てるであろうから、この家中軍法を好く守って欲しい。 
 天正九年六月二日 日向守光秀


 この時、光秀は主君である信長に、我が身の出世を感謝して居ます。これは「本能寺の変」の1年前。光秀本人が「瓦礫」(価値の無い者)と表現して居る様に、彼の前半生は、21世紀の令和の時代に居たっても尚、悉くが謎に包まれたママです。
 「本能寺の変」の動機も、光秀その人も全て不詳・・・好く美濃源氏の土岐氏の系譜に連なって居たとか、明智城の城主の息子であったとの話を耳にしますが、これ等は悉く、江戸時代中期に編纂された『明智軍記』の記す処であり、この書籍は「史料的価値には乏しいが類書も少無いので便宜使用されて居る」(国史大辞典)に過ぎ無い「軍記物」であり、全体が「物語」で、内容に史実では無い記述も多い、根拠の確認出来ないものでしかありません。

 只、明らかな事は、この人物が歴史の表舞台に登場してから「本能寺の変」迄、足った14年しか無かったことです。永禄12年(1569年)正月、光秀は確かな記録『信長公記』(太田牛一著)の中で、信長が京を留守にした機会を捉えて、三好三人衆が信長の後押しをする15代将軍・足利義昭を京の六条・本圀寺(ほんこくじ)に攻めた折、立て籠って奮戦した多くの人数の一人に数えられて居ました。
 それが僅か2年後、元亀2年(1571年)9月には、織田家筆頭家老の柴田勝家・信長のお気に入りの羽柴(後の豊臣)秀吉等を差し置いて、織田家中で最初の「城持ち」(城将では無く領地着き城主)の身分と為りました。

 拙著『心をつかむ文章は日本史に学べ』でも詳しく解説して居ますが、何故光秀は「中途採用」でありながら、織田家においてこの様な異例のスピード出世を遂げる事が出来たのでしょうか。

 言葉の問題が大きかった

 取っ掛かりは、意外にも「コミュニケーション能力」でした。この時代には、我々が考える以上に「言葉の問題」がありました。室町時代の後期から戦国時代には、ソモソモ明治に創られた標準語が存在しませんでした。信長は丸出しの尾張弁を話し、光秀が仮に美濃出身者為らば、彼はどうにか隣国の信長の言葉が理解出来た筈です。
 九州の人と関東・東北の人が京の都で出会ったとしても、恐らく会話は成立し無かったでしょう。江戸時代に入っても、コミュニケーションの基本であるこの言葉の問題は、ナカナカ解決しませんでした。筆談「文章」にして相手にそれを見せ、相手も「文章」で応ずるか、さも無ければ謡(うたい・能の声楽部分)の節を着け、言葉を発して理解を乞うかで、他に方法はありませんでした。

 江戸時代「火事と喧嘩は江戸の華」と云われましたが、何故、喧嘩が頻繁に起きたのか? 筆者は「言葉が互いに通じ無かったから」だと考えて来ました。これでは諸事に困ると云うことで、武士の世界では、諸藩は藩士を代々江戸に住まわせて「江戸っ子」を作り、標準語に近い共通の言語を要約持つ事に成功しました。

 戦国時代は大変です。こうした方言に加えて「男言葉」「女言葉」が分かれて居たのです。平安中期に書かれた随筆『枕草子』には、聞いて違った感じを受けるものとして、清少納言は、法師の言葉と男の言葉・女の言葉・下衆(げす・身分の低い人)の言葉を挙げています。
 例えば、味の好い事を男性は「うまい」と云い、女性は「いしい」と云いました。これに接頭語が付いて、今日の「おいしい」が誕生したのです。

 戦国時代の日本では、この様に男性言葉と女性言葉が峻別されて居り、更には身分上の独特の言い回しがこれに重なり、その上での地方の乱雑な言葉が入り乱れた時勢でもありました。到底、何れも同じ日本語とは思え無いし聞こえません。
 言葉すらがこの調子です。礼儀・仕来(しきたり)の煩雑さは相当なものであり、室町風の武家が操る礼式言語「外交」には、専門職が成立して居ました。

 室町幕府が成立した折、殿中作法が定まって居らず、諸大名は雑然と屯(たむろ)し喧騒するだけで、何れが上位者か下位の者かそれすら明確化されて居ませんでした。貴人をそれなりに迎え、応ずる作法が無ければ、将軍と云えども尊重される筈がありません。
 慌てた幕府は、行儀作法に弓馬術・・・詰まり武芸の作法に、禅の「清規」(修行上の約束事)を加えた礼法を小笠原貞宗に創らせました。これが小笠原流礼法です。これを当時の流行語では別に「行儀」と云いました。狭くは振る舞い・仕業(しわざ)の事であり、広くは立ち居振る舞いの全てを指しました。

 筆者は、明智光秀が織田信長に最初に認められたのは、この「外交」の専門職としてでは無かったかと推察して来ました。加えて、行政官も出来れば、合戦の采配を振らせても光秀は抜群の才を発揮しました。信長の「天下布武」を助け、王手迄持って行った最大の功労者は光秀であった・・・と筆者は考えて居ます。
 その織田家一の出世頭、ナンバーツーとも云うべき彼が、では何故「本能寺の変」を起こしたのでしょうか? 

 光秀を「本能寺の変」に向かわせた理由

 筆者は、信長とのコミュニケーション不足・・・本来、筆も文章も得意の筈の光秀が、心身の疲労から、敢えてコミュケーションを自ら断つ方向へ向かった事が、何よりも大きかった様に思います。
 光秀は諸文献上、信長より6歳以上〜18歳以下の年上と為ります。その光秀が、天正4年(1576年)11月に、糟糠(そうこう)の妻を病で亡くし、自らも病床に伏してしまいます。同じ頃、光秀の同僚であり織田家の最高幹部・方面軍司令官の一人であった佐久間信盛が、大坂本願寺攻めの長期化・不首尾を理由にクビに為り、高野山へ追い遣られる事件が起きました。

 同様に、信長の幼少期から仕えた老臣・林秀貞や美濃併合に活躍した安藤守就(もりなり)等が、それコソ取るに足ら無い様な理由でクビに為る事件もありました。光秀は心身共に疲れ切った頭で、自分の行く末を考えた事でしょう。
 九州縁の「惟任(これとう)」の姓と「日向守」の官名を、彼は信長から授けられて居ます。好敵手である羽柴秀吉の中国方面軍の次は、自らが九州征伐に臨まねば為りません。この時、光秀は、自らの未来を悲観したのではないでしょうか。既に、何でも相談出来る唯一の妻もこの世には在りません。疲労した頭でフト魔が指した様に「今なら信長を亡き者に出来る」と。

 光秀は「空白地帯」の京の都へ、信長が少数の供だけを連れて入って来る事を、誰よりも詳しく知って居ました。信長の盟友・徳川家康も上洛中で、堺に居る事も、光秀は当然熟知して居ます。

 天生10年6月2日・・・

 天正10年(1582年)6月2日、光秀は本能寺を急襲して、信長を滅ぼしました。6月5日には秀吉の属城・長浜城と丹羽長秀の居城・佐和山城を陥落させて居ます。しかし、最も頼みとする親戚である細川藤孝・忠興父子への相談は後回しにしてしまい、その為「三日天下」は決定的と為りました。

 結局、光秀は「中国大返し」で畿内へ駆け着けた秀吉の軍勢と山崎に戦い、一敗地に塗(まみ)れて、最後は落武者狩りの農民の手に掛かってその生涯を閉じました。
 光秀が何故、得意の文章力・コミュニケーション能力を駆使して「三日天下」を「不朽の天下」にする努力をし無かったのか。云え、それ以前に、主君・信長との溝をどうして埋め様とし無かったのか。それを筆者も理解出来ずにいるのが正直な処です。

 妻を失った時、病後の体調の優れ無かった段階で、光秀が得意の文章力・コミュニケーション能力を発揮して、自らの隠退を信長に認めさせて居れば、日本の歴史は大きく方向を変えた様にも思われるのですが。光秀の悲劇は、現代でも形を変えて起こり得るものです。我々は、先人の知恵・言動に学ぶべきかも知れません。


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            加来 耕三 歴史家・作家    以上







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