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2020年01月17日

日本近代史 日米戦争とは何だったか 久保有政著 −2




 日本近代史 −2

 大東亜戦争の意味 久保有政著


             1-18-13.jpg

 アメリカは真の敵が誰かを見誤った「本当に勝ったのは日本だ」と云うドラッカーの言葉は何故生まれたか

 日本への最後通牒ハル・ノートを書いたハリー・ホワイト、彼はソ連のスパイだった。前項「日米戦争はなぜ起きたか」では、真珠湾以前からアメリカが行なって来た日本に対する執拗な嫌がらせに付いて観ました。その嫌がらせの総まとめとも言えるものが、開戦直前にアメリカが日本に提出して来た最後通牒「ハル・ノート」です。

 最初の一発を日本に打たせる為のハル・ノート

 アメリカが提出して来た「ハル・ノート」は、日本に取っては寝耳に水、予想もし無いものでした。そして日本政府には、目が眩む程の絶望感が走ったのです。その対日要求は、中国大陸や仏領インドシナから日本の軍隊を引き上げる等が要求の主なものでした。この様な要求は予想出来ないでもありませんでした。
 では、何故これが寝耳に水だったかと云うと、アメリカの言い分は、日本がこれ等の要求を全て呑めばABCD包囲網を解く、と云うものでは無かったのです。日本がこれ等の要求を呑んだら、ABCD包囲網をどうするかと云う話し合いに応じると云うものに過ぎませんでした。
 
 しかしビジネスの世界でもそうですが、人と交渉して相手に妥協を求める際には、自分の方でもそれ為りの妥協を用意し無ければ為らないものです。国際政治の舞台でも同様の筈です。処がアメリカの要求は、自らは一点の妥協もせず聊かの犠牲も払わず、只日本が要求を呑んで丸裸に為れと居う無茶苦茶なものでした。こんな高飛車で理不尽な要求は、到底呑めるものではありません。
 呑めば、こちらは丸裸に為って、交渉する際の取引カードが無く為ってしまいます。詰まり、要求を呑んで丸裸に為った後に「矢張りABCD包囲網は解きません」と言われても、もうどうする事も出来ないのです。

 ハル・ノートを受け取る以前の日本政府は、アメリカとの関係を何とか修復したいと、必死の努力を続けて居ました。しかしこの要求を受け取った時、今や全ての努力が挫折したと知ったのです。この時日本国内に「事態此処に至る。座して死を待つより戦って死すべし」と云う気運が生まれました。そして開戦を決意、真珠湾攻撃へと向かって行ったのです。
 戦後、東京裁判で只一人、日本の無罪を主張したインドのパール判事は「ハル・ノートの様なものを突きつけられたら、モナコやルクセンブルクの様な小国でも、矛を取ってアメリカに立ち向かうだろう」と述べたことは有名です。

         1-18-9.jpg インドのパール判事

 何故アメリカは、ハル・ノートと云う様な無茶苦茶な要求をして来たのでしょうか。アメリカは「オレンジ計画」に観られる様に、何れ日本を叩き潰そう屈服させ様と思って居ました。真珠湾以前から、アメリカが日本との戦争を決意して居たことは、今日では良く知られて居ます。
 けれども当時、アメリカ国民の大半は参戦に反対でした。アメリカ人の多くは、過つての大恐慌の悪夢から要約立ち直り安定した生活を手に入れる様に為ったばかりでした。出来ることなら、他国との戦争等に関わりたくありません。
 
 そうした中、ルーズベルト大統領は、何とか日本と戦争をし、日本を屈服させたいと願って居ました。又当時ヨーロッパでは、既にドイツ軍の勢力がイギリスにも迫って居ました。それでルーズベルトは、盟友チャーチル首相のイギリスを救う為にも、アメリカの参戦を何とか果たしたいと思って居たのです。
 もしアメリカが日本と開戦すれば、日本とドイツの同盟関係により(日独伊三国同盟)アメリカは自動的にドイツとも開戦する事に為ります。そうすればアメリカがドイツを打ち負かす機会が生まる訳です。その為ルーズベルトは、何とか参戦を果たしたいと願っていました。

 けれども、アメリカ政府が勝手に戦争を始めても、アメリカ世論が付いて来る訳がありません。どうしたら、世論は日本との戦争を好しとするだろうか。そうです。もし日本が最初の一発を打てば、アメリカ国民は怒り、戦争止む無しと思うに違いありません。
 アメリカは、西部劇にも見られる様に決闘の国であり、先に相手に銃を抜かせてコソ、大義名分が立つと云うものなのです。その為にアメリカが用意したのが「ハル・ノート」と云う日本への要求書でした。これを突き付けるなら、日本は牙を剥いて刃向かって来るに違い無い・・・そう踏んだ訳です。

 勿論、こうした国運を賭けた重要な外交文書が出されるには、当然、アメリカ議会の承認が必要の筈です。処がハル・ノートは、アメリカ議会もアメリカ国民も全く知ら無い処で、密かに日本に突き付けられました。れが日本に出された事は、ルーズベルト大統領と、幾人かの側近だけが知って居たことだったのです。
 真珠湾が攻撃された時、殆どのアメリカ国民は、ハル・ノートの存在すら知りませんでした。アメリカ国民は、アメリカに対する日本の横暴な侵略が突如始まったとしか思わ無かったのです。

     1-18-10.jpg英国チャーチル首相

 戦争責任は双方にある

 当時、ハワイの真珠湾にはアメリカ軍の一大基地があって、アメリカによるアジア侵出の拠点と為っていました。1941年12月8日、日本軍はこの真珠湾の基地を攻撃・破壊しました。真珠湾攻撃のニュースが飛び込んだ時、喜んだのはルーズベルト大統領でした。これでアメリカ世論は一気に傾き、日本との戦争を始められるからです。
 当時の大統領側近の話によれば、真珠湾のニュースを聞いた時、大統領は「安堵した」と言います。それは彼の念願が適った瞬間でした。

 ルーズベルト大統領は、戦争には参加しないと公言して当選したが、心ではアメリカの参戦を強く願っていた。彼は日本を挑発して日本に「最初の一発」を打たせることに成功し、米国民を一気に戦争へ向かわせて行った
 
 その後、大統領は米国民の前に出ると、急に顔を強張らせて怒りを露わにし、これを日本の「卑怯な騙し討ち」と非難して、国民の怒りを駆り立てました。皿に「リメンバー・パールハーバー・真珠湾を忘れるな」の合い言葉を繰り返し、一気に日本との戦争に向かわせて行ったのです。
 後に、イギリス・チャーチル内閣のオリバー・リットルトン生産相は、1944年の演説の中で、日本の真珠湾攻撃に付いて触れています。当時の『ザ・タイムズ』誌は、記事の中で次の様に記しました。
 
 「リットルトン氏は日本人が真珠湾でアメリカ人を攻撃せざるを得無い』程、アメリカは日本を挑発した、と言明し『アメリカが戦争に巻き込まれたと云うのは、歴史を戯画化したものである』と付言した」
 
 アメリカは、戦争に巻き込まれたのでは無く戦争を自ら引き起こしたのだ、と云うことです。イギリスの海軍軍人ラッセル・グレンフェル大佐も、その著『主力艦隊シンガポール』の中でこう述べました。

 「今日、卑しくも合理的な知性のある人で、日本が合衆国に対して悪辣な不意討ちを行なったと信ずる者は居ない。攻撃は充分予期されて居たのみ為らず、実際に希望されて居たのである。ルーズベルト大統領が、自国を戦争に巻き込みたいと考えて居たことは疑問の余地は無い。しかし政治的理由から、最初の敵対行動が相手側から始められる様にする事を、熱望して居たのである。
 その様な理由から彼は・・・武力に訴え無ければ耐える事が出来ない点まで、日本人に圧力を加えたのである。日本は、アメリカ大統領によって合衆国を攻撃する様に仕組まれたのである」


 この様に、日米戦争は、決して日本が一方的に始めたものではありませんでした。寧ろ、アメリカは日本を、戦争以外に選択肢の無い処に追い遣ったのです。もし戦争責任と云う事を言うなら、それはアメリカにも日本にも有ったことです。
 戦争は有っては為らないものです。しかし日米は戦争をしました。その責任は双方に有ります。日本は中国大陸に戦線を拡大する過ちを犯しました。アメリカは、日本を戦争へと挑発しました。双方がそう云う過ちを犯したと云うことを、認識し無ければなりません。
 
 しかし、人間は結果から物事を見てしまい勝ちです。戦争に負けた方の日本が全て悪く、勝った方のアメリカは全て正しかったと考え勝ちです。特に日本にはその傾向が強く存在します。けれども、それではいけ無いのです。戦争の教訓を生かすことに為りません。
 これは、戦争を讃えて居るのでも肯定して居るのでもありません。今の日本は、自虐的な歴史観に陥って居ます。日本が全て悪かったのだと。又、アノ当時の政治家や軍人達は皆狂って居たのだと。しかしそうではありません。当時の日本人は、熟慮に熟慮を重ねた末、やむを得ず戦争に突入して行ったのです。そこには、真剣に国の未来を考えた人々の姿がありました。

 勿論、失政や失策もありました。後から「アアすれば好かった」「コウすれば好かった」と云うこともありました。しかし問題は、アノ状況まで追い込まれた時、それ以外には選択肢はあったかと云うことです。








 特攻隊員等、彼等を初め全ての日本兵は、日本とアジアの未来を思い、命を捧げた。その犠牲の上に今日の日本とアジアがあることを、私達は忘れては為ら無い。
 

 もし貴方が、アノ残酷極まりない弱肉強食の時代に生きて居たとしたら、貴方は戦争を止められたでしょうか。1941年9月6日の御前会議では「帝国は、自存自衛を全うする為、対米・英・蘭戦争を辞せざる決意の下に、概ね10月下旬を目処とし戦争準備を完遂す」との決定が下されています。日本は戦わずして屈服するより、戦う事を選びました。それは日本の存亡を賭けた戦いだったのです。
 昭和天皇は戦後「この前の戦いは、結局は人種問題と石油問題であった」と言われています。日米戦争の原因は、大局的に観れば、アメリカの人種差別政策が遠因と為り、石油全面禁輸が近因と為って起きました。昭和天皇は、その大局を好く見通して居られたのです。

           1-18-11.jpg ソ連 スターリン

 コミンテルンの謀略
 
 サテ、今まで私達は日米戦争の原因として、主に日本側とアメリカ側の要因だけを観てきました。しかし、単に両者の要因だけで日米戦争が起きた訳ではありません。実は当時、日米間に戦争が起こって欲しいと熱望していた、第三者の存在があったのです。そして結局それが日米戦争に火を点けました。
 その第三者とは、ソ連のモスクワに本部を置く「コミンテルン・国際共産主義組織」です。コミンテルンは「世界中を共産主義化する」と云う野望を抱いて行動して居た人々です。
 
 共産主義は、目的の為には手段を問いません。彼等は世界の列強同士を戦わせ、それ等の国々が戦争で弱体化した処を狙って、その国に共産主義革命を起こし共産主義化する戦略を立てて居ました。詰まり「夷(い・ 外国)を以て夷を制す」の考えです。20世紀に起きた多くの騒乱や局地戦争、又大東亜戦争を含む第二次世界大戦等、世界中の大半の戦争に共産主義者の謀略が関与して居ます。コミンテルンは、世界中に戦争の種をバラ撒いたのです。
 
 私達は、人間は平和主義者ばかりでは無いことを知る必要があります。コミンテルンは、日米間に戦争を起こしたいと欲しました。それによって両者を弱体化させ、ソコに共産革命を起こし、両者とも共産主義化しようとした謀略です。
 この目的の為には、アメリカ人の日本に対する怒りを積もらせる必要があります。その目的の下に共産主義者が作ったのが、先程も述べた偽書「田中上奏文」です。それは日本を悪者に仕立て上げたものでした。更に、日本にアメリカとの戦争を決意させたものは「ハル・ノート」であるとも述べました。このハル・ノートですが、実は元々ハル国務長官自身が最初に用意した原案は、もっと穏やかなものでした。
 それは日本側が呑める内容でした。それがもし実際に出されていたら日本側は呑んだでしょう。そして日米戦争は起こら無かったに違いありません。

 しかし、その後実際に日本に突き付けられたハル・ノートは、強硬で無茶苦茶な要求と為っていました。その原稿を書いたのはハル長官自身ではありません。財務省補佐官のハリー・ホワイトなる人物でした。それをルーズベルト大統領が気に入り、これで行けと云うことに為って、ハル長官から野村大使に手渡されたので、以後「ハル・ノート」と呼ばれる様に為りました。
 ハル・ノートを書いたこのハリー・ホワイトは、共産党員でありソ連のスパイであった事が、戦後明らかに為りました。

 と云うのは、別にエリザベス・ベントレイと云うソ連のスパイが逮捕されたのですが、彼女は、ハリー・ホワイトは共産党エリートだと喋ったのです。又、ウイタカー・チェンバースと云う元共産党員の男も、ホワイトはソ連のスパイだと告発しました。
 こうしたスパイ疑惑の中、ホワイトは審問期間中に突然、不審な死を遂げます。その死に方は事故死か自殺の様にも見せ掛けられて居ましたが、コミンテルンに消されたと云うのが大方の見方です。この様に、ハル・ノートが対日強硬要求と為った背景には、日米間に戦争を起こそうとするコミンテルンの謀略があったのです。  
 
 根底にあった人種差別

 この様に日米戦争は、元々ブロック経済に始まった世界経済の窮迫を背景に、欧・米・日の東アジアへの進出、ソ連の脅威、石油問題等を原因とし、そこにコミンテルンの謀略も加わって起きました。
 
 しかし根本的には、アメリカがブロック経済と排日主義によりアメリカへの門戸を日本に対して閉ざした一方、中国の門戸開放を執拗に求め、日本を締め出しに掛かったと云うアンフェアーな行動が大きな原因としてあったのです。
 更に、もっと根底に、アメリカ人の人種偏見が存在しました。開戦後、アメリカのトマス・ブレーミー将軍はこう演説しています。「諸君等が戦って居るのは、奇妙な人種である。人間と猿の中間にあると言って好い」
 又4943年の米軍の調査では、アメリカ兵の半数が日本民族を根絶すべきと考えて居ました。その狂気はそのママ戦場に持ち込まれ、日本兵捕虜は容赦無く撃ち殺され、未だ息の有る者も他の死体と共に穴に投げ入れられたと、従軍記者エドガー・L・ジョーンズは記して居ます。

 アメリカは、自らの打算的な目的の為に、日本人を殊更に敵視したのです。何故アメリカはナチス・ドイツでは無く、日本に原爆を落としたのか。それはドイツ人は白人であり、日本人は黄色人種だったからでしょう。著名な飛行家リンドバーグは「ドイツ人はユダヤ人の扱いで人間性を汚したと主張する我々アメリカ人が、日本人の扱いで同じ様な事を仕出かしたのである」と書いています。

 ドイツ人がユダヤ人に対し、酷い人種偏見を抱いて居たのと全く同じ様に、アメリカ人は日本人に対し、酷い人種偏見を抱いて居ました。もしこの人種偏見が無かったら、歴史は全く違った方向へ進んだことでしょう。しかし、当時は人種偏見の時代だったのです。
 大航海時代以降の四世紀に渉る白人支配・白人全能の歴史に、日本は只一国で立ち向かいました。白人は、この生意気な有色人種をどうしても許せませんでした。そして彼等は「オレンジ計画」を作成し、日本の都市を悉く空襲で焼き払い、原爆を二発落とす迄収まりませんでした。
 
 一方、日本は、当初から日本対白人の戦争をしようと思って居た訳ではありません。日本は最後の最後まで、欧米を相手とする国際協調に賭けていました。それは忍耐に忍耐を重ねたものです。しかしそれが破綻した時、日本は自存自衛の為に、白人相手に戦う事を辞さ無かったのです。








 東京裁判の偽善

 日米戦争は四年間続きました。前半は、日本の方が優勢でした。破竹の快進撃を続けたのです。しかし後半は、物量にものを云わせたアメリカが反撃の期を掴み、アメリカの優勢に転じました。やがて日本軍の各地での玉砕、特攻隊、広島・長崎への原爆投下等悲惨な事が続き、遂に日本が降伏。マッカーサー元帥と占領軍が日本の厚木基地に降り立ちました。
 マッカーサーは、日本の戦犯を裁く為に東京で軍事法廷を開きました。所謂「東京裁判」極東軍事裁判です。それは裁判とは云っても、実際は勝者が敗者を一方的に裁いた一種のリンチに過ぎませんでした。

 東京裁判は一種のリンチであり、負けた日本が一方的な悪である事を世界に印象付ける為のショーだった

 それは、勝ったアメリカが一方的な正義であり、負けた日本が一方的な悪である事を世界に印象付ける為の演出だったのです。一種のショーと言っても好いでしょう。このショーを通して、日本の戦時指導者は「戦犯」とされて処刑されました。
 この東京裁判、又それによって形成された「東京裁判史観」は、今も日本人に暗い影を落として居ます。この裁判は一体何だったのか、少しみてみましょう。

 過つてヨーロッパでは多くの戦争がありました。昔はヨーロッパでも、勝者が敗者に無茶苦茶な要求をしたり、敗者を容赦無く裁いて処刑したりする事が多くありました。しかし、ヤガテ啓蒙思想の時代に為ると、ヨーロッパの人々はそれを反省し、そう云うことは良く無いと云って余りしなく為ったのです。
 詰まりウェストファリア条約以降「勝敗はあっても、敵を悪いものとは決めつけ無い」と云う伝統が生まれました。その為第一次世界大戦が終わった時も、負けたドイツ皇帝ヴィルヘルム一世をどう裁くかと云う案は、ヨーロッパからは出ませんでした。

 当時アメリカは厳しく裁く事を求めましたが、ヨーロッパの人達は、勝者が敗者を裁く事は好くないと云って、結局その意見を通しました。事実、ヴィルヘルム一世は裁かれ無いまま、自分の親類の居るオランダで平和に余生を過ごす事が出来たのです。
 処が第二次世界大戦後に為ると、状況が一変しました。何しろアメリカが圧倒的に強かったので、全てにアメリカの意見が通る事と為ったのです。東京裁判に観られる様に、勝者が敗者を裁くと云うことが当然の様に行なわれました。

 アメリカは新しい国で、言わばヨーロッパの伝統を飛び越して出来た国です。ヨーロッパでは既に「勝者が敗者を裁くのは好くない」と云う観念に為っていたのに、アメリカはそのプロセスを経て居ないので、敵を悪魔同然に扱いました。
 東京裁判においても、その様な認識の下に日本人を裁いたのです。そして東京裁判が行なわれて居る間中、占領軍が作った「真相はこうだ」「真相箱」と云うラジオ番組が毎日、引切り無しに日本国民に向かって流され続けました。
 
 それはアメリカのして来たことは一方的な正義であり、日本のして来たことは一方的な悪だったとする内容です。アメリカ人の歴史観を日本人に吹き込み、巧みに日本人を洗脳する番組でした。日本の国民が悪いのでは無い。軍部が悪かったのだ。アメリカは日本を救って呉れた、アメリカが自由と民主主義を呉れた、といったぷロパガンダ(政治宣伝)です。
 この番組は、NHKが作った様に偽装されて居ましたが、作ったのは占領軍でした。それが三年間も、毎日ゴールデンタイムに流され続けたのです。当時の日本人は敗戦で何もかも失い呆然とした状況でしたし、厳しい情報統制下にありましたから多くの者が「そうだったのか」と思みました。

 これは占領軍の「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム・戦争犯罪意識を植えつける洗脳計画」に基づいて作られたものなのです。又このプログラムにより占領軍は、日本人に与える情報や、出版物、教育等を厳しく制限し統制しました。こうして、今日の日本に観られる様な「明治以降の日本の歴史は侵略の歴史だった」と云う、日本を悪者とする歴史観が形成されて行きました。これが、今日の日本人の自虐史観の源なのです。

 私達は洗脳されて居た

 この様に、それは押し着けられた歴史観でした。私達は洗脳されて居たのです。しかし戦後50年、或は60年経って、要約日本の真実の歴史が語られる様に為りました。私達は今コソ東京裁判史観の呪縛から解き放たれ、父母や祖父母の時代の歴史を、もう一度学び直す必要があります。
 
 日米戦争に付いて観るなら、アメリカが一方的に正義だったと云うのは全く有り得無いことです。何故なら、国際法に乗っ取って裁くなら、民間人を殺した罪が一番重いからです。アメリカは日本の各都市への無差別爆撃で、民間人計約60万人を殺しました
 その遣り方は、先ず直径5〜6キロの周辺を焼夷弾で焼き払い、人々の逃げ道を断って、それから内側に無数の爆弾を雨霰と落とすものでした。それは始めから民間人の虐殺を目的としたものだったのです。史上空前のホロコーストでした。
 又アメリカは、原爆で、民間人計約30万人を殺しました。原爆は一発はウラン型爆弾、一発はプルトニウム型爆弾でした。アメリカは持った以上、使ってみたかった。それで日本人を相手に人体実験を行なったのです。

 アメリカは既に日本が降伏する意志を持って居ることを知りながら「戦争を終わらせる為」と称して原爆を落とし、民間人の大量虐殺を行なった

 実は当時既に、日本は降伏する事を決めて居ました。和平の仲介を既にソ連に願い出ていたりです。アメリカ側も、その情報を掴んでいました。処がアメリカは「これ以上アメリカ人兵士の死者を出さ無い為」と言い訳を付けて、日本で原爆による殺戮を行なったのです。
 詰まり、原爆を落とさ無くても日本はもう降伏すると知っていながら「それを落とさ無いと戦争は終割らない」と米国民に説明して、原爆を落としたのです。

 又、原爆を使った背景には、戦後の体制を見据えて「アメリカにはこんな凄い武器があるぞ」と云うことを、ソ連に見せ着けて置く狙いもあったのです。近代戦において、これ程多くの民間人を組織的に、且つ、躊躇いも無く殺した国があったでしょうか。国際法から云えば、アメリカは最も裁かれるべき存在である筈です。しかし、裁かれて居ません。
 
 勝者が敗者を裁いた東京裁判がいかに茶番であるか、それを考えただけでも判ると云うものです。アメリカは中国への野望を抱き、その為に、黄色人種の大国に成長して居た日本を何時かは叩か無ければ為らないと思って居ました。
 ヤガテ排日移民法による日本人移民の締め出し、中国での排日運動の扇動、蒋介石へのアカラサマナ軍事援助、ABCD包囲網、石油輸出禁止等を行ない、最後にはハル・ノートで挑発して、日本を戦争へと向かわせました。アノ戦争でアメリカの何処に「正義」があったのでしょうか。

 一方、日本が戦ったのは自衛の為でした。そして欧米列強によるアジアの全植民地化を防ぎ、アジア諸国を独立させると云う「正義」がありました。単に日本を悪者とするだけの歴史観は、歴史への冒涜と云うものです。そして日本人を骨抜きにしてしまうものです。私達は、日本人としてのアイデンティティ(自分は何者か)を回復する必要があります。それには公平で真実な歴史観に立つ必要があるのです。








 朝鮮戦争を通してマッカーサーが知ったこと
 
 サテ、戦争直後の7年間、日本はアメリカ占領軍の支配下に置かれ独立を奪われました。7年間、日本に主権は無かったのです。主権が無かったと云うことは、日本と云う独立国家が無かったことでもあります。
 占領軍は当初、日本を二度と戦争に向かわせ無いようにする為、日本の産業を農業と軽工業位に限る政策を執りました。重工業を遣らせず農業国家にする積りだったのです。戦車や戦艦、武器を作られたら困るからです。
 
 処が、ヤガテ1950年、朝鮮戦争が勃発しました。北朝鮮軍が韓国を侵略したのです。その北朝鮮軍を援助して居たのがソ連と中国でした。

 朝鮮戦争でマッカーサーは、日本から見た共産軍の脅威と云うものを初めて肌で感じた

 この時、マッカーサー元帥は初めて、日本から観た共産軍の脅威と云うものがどんなものかを肌で感じる様に為ります。朝鮮半島が共産化してしまったら次は日本です。朝鮮半島は、丁度日本列島の脇腹にナイフを突き刺す様な形で存在して居ます。そこにソ連や中共が居座ってしまったら、日本も共産化されてしまうのは、最早時間の問題です。
 マッカーサーは、アメリカ軍を組織し直し、直ぐ朝鮮半島に飛んで、韓国から共産軍を追い出しに掛かります。彼はソコで必死に戦いますが、結局、日米戦争時以上のアメリカ人死傷者を出してしまいます。戦闘は一進一退を繰り返し、要約三年後に共産軍を北緯三八度線迄追い返した処で休戦と為りました。

 この戦争が始まった時、アメリカは日本に対する政策を改めたのです。アメリカは急いでサンフランシスコ講和条約を結び日本を独立させました。そして日本の重工業をも許し、朝鮮戦争に必要な様々な物資の供給基地として、日本の産業を援助・育成しました。これが朝鮮戦争特需と云われるものです。これによって日本の産業と経済は、復興の契機を掴みました。
 何故マッカーサーは、朝鮮戦争で、あれ程の苦労をし無ければ為らなかったのでしょうか。それは敵の北朝鮮軍と共にソ連軍や中共軍が居たからです。
 
 マッカーサーは、この朝鮮戦争を戦った時、過つて日本が何故あれ程朝鮮半島や満州に拘ったか、と云う理由をハッキリ理解しました。朝鮮と満州は、日本に取って共産軍から身を守る為の最後の防波堤だったのです。マッカーサーは日本を統治し、その後朝鮮戦争を戦って共産軍の脅威に直面して初めて、日本の立場というものをハッキリ理解しました。
 それで、マッカーサーは朝鮮戦争中の1951年、演説の中で日本の自衛権を強調して居ます。彼は日本を独立させ、その独立した日本が再武装する必要性を説きました。又、共産軍の圧倒的な力に直面した彼は、共産軍を叩く為に満州に原爆攻撃を加える許可をアメリカ大統領に求めて居ます。

 しかし、再び世界戦争に拡大する事を恐れたアメリカ大統領トルーマンは、この要求を拒否しマッカーサーを解任しました。帰国したマッカーサーは、アメリカ上院議会で、日本に付いての証言を求められました。過つての日本の戦争に付いてどう思うかと聞かれた彼は、日本が中国大陸に進出したのは侵略戦争では無かった、自衛の為の戦争だったと言いました。
 これは、朝鮮戦争を通して北からの脅威が骨身に沁みたマッカーサーの、実感から出た言葉だったのです。マッカーサーは過つて、日本を侵略戦争を行なった悪者と決め着け、東京裁判を開き「平和に対する罪」で日本を断罪した人物です。しかし、ヤガテ日本統治を通して日本の立場に立ち、又朝鮮戦争を経験した時、過つての日本の戦争は自衛戦争だった事をハッキリと理解したのです。

 アメリカの見込み違い

 アメリカは中国に市場を求め、中国を自分側に着けたいと思って、日本と戦争をしました。アメリカは当時、中国は「第二の西部」だと云う強い思い入れを持って居たのです。中国は西欧諸国や日本の進出により滅茶苦茶に為っているけれども、本来は成熟した国であり、良いパートナーに為れると思って居たのがアメリカでした。
 この思い込に従い、アメリカは国民党の蒋介石をズッと助けて来ました。蒋介石はキリスト教徒を演じていましたし、アメリカ世論への訴え方の上手い人でした。しかし結局、アメリカは蒋介石を助けた事により、大きく国益を損じたのです。

 客観的に観るなら、日本の方が歴史的にもキチンと選挙をして議会も運営して居ました。処がアメリカは、権力欲の塊に過ぎない蒋介石を、民主的な指導者と思い込んでしまったのです。これがアメリカの大きな見込み違いでした。
 アメリカは蒋介石に、金でも武器でも食糧でも大量に注ぎ込んで助けました。しかしそれ等は、全て蒋介石の軍隊に食い物にされて居たことは有名です。その挙句、日本が退却した後、蒋介石は毛沢東と戦って直ぐに負け台湾に逃げてしまいました。

 以後、共産党に支配された中国は、皮肉な事にソ連と組んでアメリカに敵対する様に為ったのです。更に、その後アメリカは、朝鮮戦争の時に中国と戦う事に為ってしまいました。これはアメリカに取ってみれば、非常なショックだったでしょう。中国が敵と為って立ちハダカッタのですから。
 アメリカは、過つて日本さえ遣っ付ければ中国を好きな様に出来ると思って、莫大な金と軍隊を注ぎ込み、日米戦争迄遣ったのです。処が、騙された当てが外れた、と云う気持ちだったでしょう。アメリカは日米戦争を戦って、何の得もして居ないのです。

 その後、要約これに気付いたアメリカは、日本を大切な同盟国と考える様に為りました。アジアで責任と信頼をもって付き合えるのは誰かと、ふと考えたら、それは日本ではないか、と云うことに為ったのです。迷惑な話です。もう少し早く気付いて呉れれば良かったのにと思います。明治以来、日本側にはその用意はあったのですから。アメリカが蒋介石を助けたりし無ければ、日本側も、アメリカを敵視する事は無かったのです。
 又アメリカに取って、ソ連を友としたことも、大きな見込み違いでした。アメリカは日本を敵視し、日本を潰す為の戦いにソ連を仲間として引き入れました。アメリカは当初、共産主義に対して極めて寛容で、その為に後でそのツケを払う嵌めになったのです。

 アメリカは、真の敵が誰かを見誤ったのです。本当はアメリカにとって、日本よりもソ連のほうが脅威だったはずです。大東亜戦争後の朝鮮戦争にも、ベトナム戦争にも、背後にはソ連がいました。そしてアメリカは、そのソ連の存在に長く苦しめられることになったのです。





 

 「本当に勝ったのは日本」

 日本は過つて大東亜戦争で、アメリカを初めとする連合国と戦い、負け、結局、何もかも失いました。戦争なんてバカなことをしたからだと思う人も居るでしょう。しかし、アノ弱肉強食の植民地時代、残酷極まりない西欧列強が犇めく時代にあって、果たして本当に戦争が回避出来たでしょうか。
 幾つか歴史の大きな分かれ目はありました。けれども結局、歴史は戦争へと向かって行きました。それが「歴史の必然」だったと云うべきでしょう。但し、日本の戦争は悪いことばかりだったのではありません。
 P・F・ドラッカーと云う思想家が、日本は物理的には負けたが、本当に勝ったのは日本であると云った意味のことを言って居ます。

           1-18-12.jpg  P・F・ドラッカー 

 本当に勝ったのは日本である・・・どう云うことでしょうか。それは、この戦争で日本が戦ったことによって、それ迄西欧諸国が築き挙げて来た人種差別世界が打ち砕かれたからです。
 アノ戦争以前、アジアで近代的な独立国家として歩んで居たのは日本だけでした。後は観な、西欧諸国の植民地と化して居たのです。それは戦争前の地図をみたら一目瞭然です。アジアは何処も彼処も西欧の植民地で、白人が黄色人種を支配し搾取していました。
 
 その為、アジアは益々貧しく為り、西欧諸国は益々富んで行きました。アジア人は白人にペコペコして、召使いの様に為って仕えて居ました。アジア人は自分の国に居ながら、権利を制限され苛酷な人種差別の下で暮らしていました。
 しかしその時日本が、それ等の植民地に居る西欧諸国の軍隊を次々に追い出して行ったのです。そして、日本がアジア諸国に育んだ独立への意志は、その後日本が敗戦を迎えた後も、確実に育って行きました。日本の敗戦後、西欧諸国は再びアジアに来て、植民地化しようとしました。処がアジア人はもう、彼等の言い為りには為りませんでした。彼等は戦後、次々に独立して行ったのです。

 結局、大東亜戦争によって、西欧諸国は植民地を全て失なっただけで終わったのです。一方、日本は戦闘には負けましたが、アジア諸国を西欧から独立させると云う目的を果たしました。
 戦争に勝ったか負けたかは、戦争目的を達成したかどうかで決まる、とはクラウゼヴィッツの戦争論です。日本の戦争は、人種差別世界を叩き潰すと云う目的、又自存自衛の目的を果たしました。その意味で、日本こそ勝ったのです。
 
 これは私達が誇りにして好い事です。タイの元・首相ククリッド・プラモードは、新聞にこんな一文を載せています。
 
 「日本のお陰で、アジアの諸国は全て独立した。日本と云うお母さんは難産して母体を損なったが、生まれた子供はスクスクと育って居る。今日、東南アジアの諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話が出来るのは、一体誰のお陰であるか。それは身を殺して仁を為した日本と云うお母さんがあった為である」

 日本の捨て身の一撃が、人種差別世界を叩き潰したのです。大東亜戦争は、大航海時代以来の欧米諸国によるアジア・アフリカ収奪の歴史に終止符を打ちました。これは、幾ら評価しても評価し切れないほど、大きな事柄です。人類史上、画期的な出来事といって好いのです。歴史学者H・G・ウェルズも述べて居ます。
 
 「この戦争は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石を置いた」
 
 その主役を果たしたのが日本でした。アノ空前のスケールの戦争だった大東亜戦争の意義が、此処にあります。戦争は、無いに越したことはありません。しかし、もしアノ戦争が無かったなら、今もってアジア諸国は西欧の植民地であり続けたでしょう。黄色人種は白人の召使いの様に、ペコペコして居なければ為らなかったでしょう。
 西欧はアジアからの搾取によって益々富み、アジアは益々貧しく放置されて居たに違いありません。しかし日本の戦争が、その歴史の流れを変えたのです。これは神の配剤でしょう。


              久保有政著   以上









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日本近代史 日米戦争は何故起きたか 久保有政著 −1

 

 日本近代史 久保有政著 −1


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                著者 久保有政氏

 
 日米戦争は何故起きたか 


 1 大東亜戦争への道

 〜アメリカは、自分の真の敵が誰かを見誤った 日本が自衛戦争に出ざるを得なかった理由とは〜

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 ダグラス・マッカーサー元帥、彼は戦後、日本の戦争は「自衛戦争だった」と証言した。1941年の日本による真珠湾攻撃から、1945年の終戦に至るまで、日本とアメリカは戦争を交えました。それ以前の日本とアメリカは、一時は兄弟の様に良好な関係を持って居た時期もあります。にも関わらず両者は戦争を交えました。これに付いて「この戦争は日本の侵略的態度に対し、アメリカが懲罰に出たもの」とする、所謂自虐史観が広く語られて来ました。日本を一方的な悪として、アメリカを一方的な正義とする歴史観です。

 しかし、これはアメリカが戦後、自分の戦争を正当化する為に唱えた歴史観であり、客観的に観れば決してその様なものでは無かったのです。日米戦争の責任は、アメリカと日本の双方にありました。両者は、中国で利害が対立したのです。
 アメリカは、自国の経済圏から日本を閉め出す一方で、中国においてアメリカの割り込みを執拗に求めました。その為に中国に進出して居た日本とブツカリ合ったのです。日米は何故戦争をし無ければ為らなかったのか。その本当の歴史を観てみましょう。

 日本の戦争は自衛戦争だったと証言したマッカーサー

 日米戦争においてアメリカ軍を率いて日本と戦ったのは、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥でした。マッカーサーは日米戦争終結から6年後の1951年5月3日、アメリカ上院の委員会で、過つての日本の戦争に付いてこう証言しました。
 
 「日本が戦争に飛び込んで行ったのは、主に自衛・security=安全保障の必要に駆られての事だったのです」

 マッカーサーは、過つての日本の戦争に付いて振り返り、日本は戦いたくて戦った訳では無い。またそれは侵略戦争でも無く、寧ろ「自衛の為だった」と証言したのです。今日も、左翼や「反日的日本人」が「過つての日本の戦争は侵略戦争であった」と言って居ます。しかし、過つて日本と戦った当のマッカーサー本人が「日本の戦争は自衛戦争であった」と言って居るのですから、これは大変注目に値します。

 或る日本の地方議会で、議員のひとりが「過つての日本の戦争は自衛戦争だった」と言いました。すると他の議員達から「何をバカなことを言って居るのか、侵略戦争だろう」と野次が飛びました。その時彼は、マッカーサーの証言を正確に英語で引用し、黒板に書いて説明を加えて言いました。
 「日本と戦った当のマッカーサー自身が、日本の戦争は自衛戦争だったと言って居るのです」 こう言うと、議会はシーンと静まり帰り、最早野次は消え失せたそうです。日本は何故この「自衛戦争」に出無ければ為らなかったのでしょうか。それには次に観る様に、幾つかの要因がありました。

 西へ、西へと進んだアメリカ
 
 アメリカは、西部開拓史に観られる様に「西へ、西へ」の開拓によって大きく為って行った国です。アメリカは、初めはあの様に大きな国ではありませんでした。テキサス州等も、元はメキシコの領土でした。しかし「リメンバー・アラモ砦!」を合い言葉にメキシコと戦争をし、テキサスを初め西部の広大な土地を手に入れたのです。
 彼等は又土着民のインディアン達を殺しながら開拓を続け、そのインディアン達との戦争は25年間続きました。合衆国の司令官たちは「インディアンを絶滅すべし」と発言、容赦無い絶滅作戦が展開されました。
 女・子供も虐殺、生活環境を破壊し尽くし、インディアンの数が激減した処で、インディアンの組織的反抗は1890年に終結しました。

 しかし、アメリカ人の「西へ、西へ」の侵出欲は収まらず、遂に海を越えたのです。1898年、アメリカの戦艦メイン号が撃沈された事件が起きました。アメリカはそれを契機に、スペインとの戦争を始めました。合い言葉は「リメンバー・メイン号!」アメリカはこの戦争に勝利し、短期間でキューバ、フィリピン、プエルトリコ、グアムを手に入れました。
 メイン号爆破は、スペインの仕業と宣伝されました。しかし、その真相は100年経った今も不明です。当時、スペインは事件の調査を約束し、戦争を避け様と極限迄譲歩を重ねて居ました。けれどもアメリカは、有無を言わせず開戦に踏み切ったのです。

 「リメンバー・アラモ砦!」「リメンバー・メイン号!」「リメンバー・パールハーバー!」アメリカの戦争は何時も「リメンバー!」でした。アメリカは不思議な国で、戦争の際には、何時も都合好く敵国からの攻撃があり「リメンバー!」の合い言葉で国民世論がマトマって開戦に至るのです。

 日本軍による真珠湾攻撃 1941年

 「リメンバー・アラモ砦!」「リメンバー・メイン号!」「リメンバー・パールハーバー!」ア メリカの戦争は何時も「リメンバー!」だった。戦争はスペイン領だったフィリピンでも行なわれました。アメリカは現地の独立運動を利用して戦いながら「独立」の約束を破り領有化しました。フィリピン人はアメリカに対し独立運動を起こします。しかし弾圧され、推定二万人が殺害され、又破壊に伴う飢餓と病気で20万人が死にました。
 
 フィリピンを手に入れたアメリカは、フィリピン人に対し英語を公用語とし徹底的な洗脳政策を開始。知的な者程率先してフィリピン古来の文化を捨て、積極的にアメリカ化して行きました。同じ年、アメリカはハワイも武力で脅迫して併合しアメリカ領としました。こうしてアメリカは、日本の目と鼻の先迄遣って来たのです。

 当時のアメリカ人は、自らが非白人劣等民族の領土を植民地化する事によって文明をもたらす事を、神から与えられた「明白なる天意」(マニフェスト・デスティニィ)と称して居ました。メキシコ、ハワイ、グアム、フィリピンと領土拡張を進めたアメリカの西進は、この「明白なる天意」のスローガンの下に行なわれました。それは、傲(ごう)れる白人の支配欲と欲得を正当化する為のスローガンだったのです。








 「門戸開放」の利己的目的

 此処まで来ると、中国大陸は直ぐそこでした。アメリカは遂に中国大陸を目指しますが、当時既に中国大陸ではヨーロッパ諸国の分捕り合戦が進んでいました。突け入る隙が無い。それでアメリカは1899年に「中国の門戸開放、機会均等」を主張します。要するに「私も入れて呉れ」と云うことです。一見、理想主義的で、ご尤もな意見ですが、その裏には利己的な欲望が隠されて居ました。
 
 アメリカは自分の勢力圏であるプエルトリコ、フィリピン等の「門戸開放」は絶対に主張しません。更に、1929年以降の大恐慌以後は、アメリカは自由貿易を捨ててブロック経済に入り、自分の経済圏から他国を閉め出しました。
 即ち、自分の経済圏からは他国を閉め出して閉鎖主義を執る一方、中国には門戸開放を求めると云う、完全なダブル・スタンダードだったのです。それは自分の利益にだけ為ることを求めたものでした。又、当時の中国は酷い内戦状態にありました。ヨーロッパ各国は租界の治安を守り、貿易を続ける為に、既に莫大な労力と資金を費やして居ました。日本も中国に合法的な特殊権益を持って居ました。

 当時、内戦と匪賊(ひぞく)の横行する中国では「門戸開放」等非現実的なことであり「門戸開放」で得をするのはアメリカだけだったのです。アメリカは労せずに権益を手に入れようと躍起に為っていました。処が厄介なことに、アメリカ人はこれを利己的な戦略では無く「公平で理想的な行為」と信じ込んで居ました。又、自分達は欧州人の様な覇権主義者では無いとすら思っていました。
 アメリカは過去に、メキシコやスペインとの戦争を通して領土を拡大して来たのに、そう云う自国の歴史を都合良く忘れて居たのです。

 アメリカは「門戸開放」「公平な権利」の主張を自画自賛、現実には何の意味も無いその主張を各国に執拗に求めました。このアメリカの態度に、ヨーロッパ各国は内心苦笑しつつ「ええ賛成ですよ」と言いながら実行はしないと云う対応を取るばかりでした。
 アメリカはこの「門戸開放」を、その後実に40年間に渉って繰り返し唱え続けます。そしてこれが、中国大陸における日米の対立の火種と為って行ったのです。  

 ロシアの脅威と日露戦争
 
 サテ、この東アジアを我がものにしようと虎視眈々と機会を狙っている、もう一つの国がありました。ロシアです。ロシアは、既に広大なユーラシア大陸に次々と領土を広げ、更に東アジアも狙っていました。ロシアは欧米諸国以上に侵略欲の強い国でした。
 日清戦争・1894年後、清国に勝利した日本は、清国との条約により遼東半島と台湾を譲り受けました。処がロシアは、その時ドイツ、フランスを引き連れた「三国干渉」により日本に圧力を掛けて来て「遼東(りょうとう)半島を清国に返せ」と脅して来ます。

 日本には当時、その圧力を跳ね返すだけの力はありませんでした。それで日本は苦渋を飲み、遼東半島を清国に返還します。「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん)と云う言葉が生まれたのもこの頃です。
 ロシアは清国に「サア遼東半島を返して挙げた。その報酬を呉れ」と云って、清国から次々に権益を貰います。更にロシアは、何と清国に返還させたその遼東半島に自分が居座ってしまったのです!ロシアはそんな酷いことを公然と行なう国でした。

 ロシアは南下政策を推し進め、満州地域を占領し、更に朝鮮へ干渉し始めました。「これでは次は日本が危ない」と、日本は危機感を募らせます。こうして日本とロシアの間に「日露戦争」一九〇四年が勃発したのです。日本は日露戦争に勝利しました。それはギリギリの勝利・辛勝でしたが、初めて有色人種が白人に勝ったという世界史上の大事件でした。
 日露戦争後、日本はロシアとの講和条約により、樺太の南半分や遼東(リャントン)半島、又南満州鉄道を譲り受けました。南満州鉄道とは、ロシアが満州を支配する為に敷いた東清鉄道の南半分です。日本はこの鉄道を経営する事に為りました。

 当時の世界では、強い国が他国の経済的な特権を持つ事が認められていました。日本もこの権利を持つことに為ったのです。鉄道は経済発展の重要な基礎ですから、日本はこの権利を得た事を喜びます。しかし、日露戦争で膨大な戦費を使い果たしてしまった日本には、この鉄道を経営する資金の見通しが立ちません。そうした中、アメリカの大実業家ハリマンが来日し、日本政府に「資金を提供するので、南満州鉄道をアメリカと日本で共同経営しよう」と持ちかけました。
 ハリマンは「鉄道王」と呼ばれた人で、大きな鉄道会社を経営し世界的に有名でした。この提案に対し、桂太郎首相や、元老・井上馨、その他政財界の多くの人々は賛成し、近く協定を結ぶと仮約束しました。

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 鉄道王エドワード・ハリマン

 井上馨等は、それは日本の防衛の為にも良いと考えて居ました。と云うのは、日本は侵略的なロシアの進出を阻止の為に日露戦争を戦ったのですが、日本一国では満州を守ることは出来ないでしょう。そこにアメリカが入って来れば防衛は強固なものと為ると考えたからです。
 しかし、この時外務大臣の小村寿太郎(じゅたろう)は、講話会談の為、未だアメリカに居たので日本に居ませんでした。彼は帰国してこの話を聞くと「飛んでも無い事だ」と言って猛反対したのです。理由は「莫大な戦費を使い、数十万の兵士の血を流して手に入れた権利を、外国に売り渡す真似は出来ないし、講和条約の趣旨にも反する」と云うものです。

 確かに、満州における権利は日本人の多大な犠牲を払って獲得したものであり、一方、アメリカはそれを労せずして手に入れる事になります。結局、小村の意見が通り、日本はハリマン提案を拒否しました。南満州鉄道は日本だけで経営する事に為ったのです。
 しかし、以来アメリカ人の多くは「日本は満州を独り占めしようとしている」と不快感を持つ様に為りました。アメリカには、鉄道は領土獲得の基礎と云う考えが強くあったのです。鉄道が敷かれる処、自分達の領土が広がると云う考えです。この為ハリマン提案の挫折は、アメリカ人に深い失望をもたらしました。

 この出来事も又、歴史の大きな分かれ目でした。この時から36年後、日本とアメリカは戦争をしますが、もしこの時満州の鉄道を日本とアメリカが共同経営して居れば、日米は協調路線を取り、日米戦争は無かっただろうと云う見方もあります。









 日米戦争は避けられたか

 確かに、満州の鉄道を共同経営して居れば、その後の歴史は全く違った方向へ向かったことは間違いありません。日米は同じ利害を持ったからです。もし日米の政治家が道を誤らず、上手く協調路線を歩んだ為らば、日米戦争は無かったかも知れません。
 けれども、本当に日米戦争が無かったかどうかは、結局、想像の域を出ない事です。と云うのは、当時のアメリカは今のアメリカでは無かったからです。当時のアメリカは、今日の様な様々な人種の融合した社会では無く、人種差別的観念の極めて強い国家でした。

 アメリカは元々、インディアンに対する虐殺で始まった国です。又その後も、近代に至る迄大規模な黒人奴隷制が存在しました。黒人奴隷はリンカーンの時代に解放されたものの、人種差別は国内に根強く残って居たのです。
 当時のアメリカ国内の人種差別は酷い状態でした。レストランも、トイレも、バスも、学校も、公共施設は皆「白人用」と「有色人種用」に分けられて居ました。アジア人種に対する迫害も、既に1800年代から始まって居ました。アメリカ西海岸では、ヒステリックな中国人移民排斥運動が起き虐殺事件も発生しました。その後、矛先は日本人に対して向けられたのです。

 日本人移民に対する迫害も、既に1800年代に始まって居ました。勤勉な日本人移民が成功を収めるのを見て、アメリカ人の中には嫉妬と憎悪に燃える者も多く居ました。同時に、白人のロシアを破った民族として、恐怖心をも持ったのです。
 当時の多くのアメリカ人に取って、日本人とは得体の知れ無いエイリアンの様な存在に映りました。そして「日本人は油断なら無い」「日本を潰すべきだ」と云う観念が、アメリカで広まって行ったのです。所謂「黄禍論」です。特に日本人移民の多かったカリフォルニアでは、駅やトイレ・街角には「ジャップは消えろ」「ジャップを焼き殺せ」の殴り書きが見られました。散髪屋に入ると「動物の散髪はしない」と断られ、不動産屋に入ると「日本人が住んだら地価が下がる」と断られる。

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 黄禍論の台頭により、1886年、英国商船の海難事故で乗船して居た日本人が救助されずに死亡した。ノルマン トン号船長曰く「助けて貰いたいなら、何ドル出す? 早く言え、時は金なり」日本人は、B級映画、小説、漫画の格好のネタと為りました。そして、ドギツイ邪悪なイメージばかりが大衆に強烈に植え着けられて行ったのです。
 又「新聞王ハースト」と呼ばれる男は、連日、何の根拠も無い日本脅威論を書き立てました。ハーストは「新聞の売上げを増やす為なら、国を戦争に追い込む事も辞さ無い」と言われた人物で、総人口の0.1%しか居ない日本人が恰もアメリカを征服するかの様に書き、世論を煽りました。

 更に、日露戦争直後の1906年、サンフランシスコで大地震が起きたのですが、その時排日暴動が起き、日本人移民が暴行・略奪を受けました。日本からは、震災の復興の為にと、50万円(現在の十数億円相当)もの見舞金がアメリカに送られました。処が感謝の言葉も無いばかりか、日本人移民の子はその資金で再建された校舎には入れず、ボロ小屋の様な校舎に隔離教育されたのです。
 更にその後アメリカは、感情的で差別心剥き出しの「排日移民法」を成立させてしまいます。日本人移民の総数は、一ヶ月当たりのヨーロッパ系移民よりも少なかったにも関わらず、日本人移民は土地所有も帰化も認められず、権利を剥奪され新たな移民も完全にストップしました。  
 この排日移民法は、日本国民の感情を痛く傷着けました。この様な人種偏見の強かった当時のアメリカと、日本が、本当に満州で仲良く対等に遣って行けただろうかと云うと、可成りの疑問が残る訳です。

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 日本を敵視したオレンジ計画

 この様にアメリカが、日本人を国内から締め出しても、日本はアメリカとの戦争は全く考えて居ませんでした。アメリカとは仲良く遣って行きたかったのです。日本が最も脅威と感じていたのはロシアでした。アメリカではありませんでした。しかしアメリカの方は、ロシアの脅威を全く気にせず、只日本と云うライバル国家を潰したいと思って居ました。
 アメリカは日露戦争直後の1906年に「オレンジ計画」為る作戦を立案して居ます。色々な国を色別して、日本はオレンジだったのですが、これは長期的な日本制圧プランでした。日本を第一の仮想敵国と見做し、戦争準備に着手した計画だったのです。

 オレンジ計画は年々改訂され、最終的にはナンと、日本の本土を無差別に焼き払って占領する事迄盛り込まれて居ました。これは日本人の大量虐殺を意味します。アメリカはその様な計画を、ヒトラーのナチス・ドイツに対しても、共産主義のソ連に対しても立てた事はありません。白人国家に対しては決して立て無かった。只黄色人種の日本に対してだけ立てたのです。
 この計画は「何れ日本を叩き潰すぞ」と云う計画でした。1945年の大東亜戦争終結に至る迄のアメリカの行動は全て、このオレンジ計画に基づいて遂行されたものでした。

 大東亜戦争末期に、アメリカ軍は日本の本土爆撃を為し、各都市を焼け野原として民間人約60万人を虐殺しました。兵士では無い民間人を殺す事は明確な国際法違反です。しかし、それさえも全て、元はと云えばオレンジ計画に盛り込まれて居たことなのです。
 何故アメリカが、日露戦争直後と云う非常に早い段階に、日本に対してこれ程強硬な姿勢を持ったのか。当時は未だ日中戦争さえも始まって居ない時代です。その根底に見えるのは矢張り「アジアに白人が進出するのはOKだが、黄色人種の日本が出シャバルのは許せ無い」と云う、アメリカの人種差別意識なのです。アジアに対するイギリスの進出はOK、ドイツも、フランスも、ロシアもOK、しかし日本はダメと云う対抗意識です。

 その意識が「オレンジ計画」と為ってマトマりました。当時のアメリカには「日本人の大脳は、欧米人の灰白色より白い。原始的なママで、思考力は劣る」と言って退ける人類学者も居た程です。この様に「何故日本なのか」と云うことを考える時、矢張りその根底に人種偏見があったと言わざるを得ません。日米戦争の根深い原因が、ソコにあったのです。

 オレンジ計画が作成された時から、アメリカの日本に対する執拗な嫌がらせと、挑発が始まりました。アメリカは先ず満洲と中国への介入の為に、中国の抗日運動を煽り立てます。それは日本を深く悩ませるものでした。日本政府は1923年の国防方針書に「米国は・・・経済的侵略政策を遂行し、特に支那(中国)に対するその経営施設は、悪辣な排日宣伝と共に、日本が国運を掛け幾多の犠牲を払って獲得した地位を脅かして居る」(現代語訳)と記し、中国におけるアメリカの「悪辣な排日活動」を憂えて居ます。後に日中戦争が泥沼化した背景には、アメリカによる中国の抗日運動の扇動があったのです。

 アメリカは日本叩きの為に、中国の混乱を利用して居ました。又日中戦争が始まった時、アメリカは中立を捨て、蒋介石の軍隊へのアカラサマナ支援もして行きました。やがてアメリカは日英同盟を解消させ、日本への石油禁輸、ABCD包囲網等、日本への挑発を続けました。更に、最終的に日本に「ハル・ノート」を付き付け、遂に直接的な武力衝突へと誘い込んで行ったのです。








 アメリカは領土を広げる度に、星条旗の星の数を増やして来た。その領土獲得欲は更にアジアに向けられ、次のターゲットは中国だった。しかしそこに立ちハダカッタのが日本だった。
 
 大東亜戦争は人種戦争だった

 日米戦争・大東亜戦争とは何か。それは根本的に「人種間闘争」「人種戦争」でした。又、傲れる白人支配に終焉をもたらす為の戦争でもあったのです。アメリカと日本の行動をもう少し詳しく観てみましょう。

 日本は第一次世界大戦後、国際連盟に「人種差別撤廃法案」を提出します。それは白人の黄色人種に対する差別に苦しんで居た日本に取って、極めて重要な意味を持って居ました。当時の日本は世界の五大国の一つであり、唯一の黄色人種の国家でした。
 日本の非常な努力の結果、この画期的な法案には、多くの国々が賛成しました。処が、議長であったアメリカ大統領ウィルソンが発した鶴の一声「この提案は全会一致で無ければ可決すべきで無い」で結局、否決されてしまったのです。国内で人種差別をして居たアメリカは、人種差別撤廃法案を断じて認める訳にはいか無かったのです。

 この様に世界で初めて「人種平等」を国際舞台の場で提唱したのが日本であり、それを力づくで潰したのが、アメリカやイギリスでした。ウィルソンは、「民族自決」を唱えた大統領として知られて居ます。しかしそれは飽く迄欧州の民族に関してだけで、アジアやアフリカの民族等眼中に無かったのです。全ては白人支配の存続と、自国の利益を狙ったものでした。
 アメリカとしては、黄色人種と対等に付き合って行く積りは毛頭無かったのです。日本は、この様に人種偏見の渦巻く欧米諸国を相手に渡り合って行か無ければ為らなかったのです。それがどれ程大変な事だったか。
 
 日本は第一次世界大戦に参加した結果、ドイツ領だった南洋諸島(マリアナ諸島、マーシャル諸島、パラオ諸島、カロリン諸島など)を統治する事に為りました。
 そこには日本統治により、やがて学校や病院が立てられ、ミクロネシア人の半数以上が初めて実用的な読み書きが出来る様に為りました。住民全員に予防接種も実施され、漁業、農業、鉱業、商業が振興され、製糖業も目覚ましく発展して、住民の生活水準は著しく向上しました。
 
 人々の多くは今も親日的で、パラオでは八割の人が名前の一部に日本名を着けて居ます。又パラオの国旗が日の丸に似て居るのも親日感情の表れです。第二次世界大戦後、この地域はアメリカの統治下に移されました。しかしアメリカは、この地域を水爆の実験場程度にしか扱いませんでした。
 又アメリカ人が、二宮金次郎像を引きずり下ろし、南洋神社を取り壊した事は、現地の人々に取って耐え難い行為だったと云います。この南洋諸島は、グアム島の東隣りに位置します。グアムはアメリカ領、一方の南洋諸島は日本領の直ぐ隣り合わせでした。しかもグアムとアメリカ本土の間に、日本領が入った形です。アメリカは密かに、この邪魔者・日本への敵意を燃やしました。

 共産主義に無頓着だったアメリカ
 
 アメリカはこの様に日本に対してライバル意識を持つ一方、共産主義の拡大には全く無頓着でした。1923年〜1924年に掛けて、既に共産化して居たソ連は、外蒙及び烏梁海(ウリヤンハイ・蒙古西方辺境)の地域を、卑怯な手を使って侵略しそこを共産化してしまいました。
 この時アメリカはどうしたかと云うと、その恐るべき意味を理解せず、一言の批判も加え無かったのです。又アメリカは、共産主義の侵略・拡大に対し何の措置も取りませんでした。アメリカに取っては、それは白人同胞のした事であって、所詮は対岸の火事にしか思え無かったからです。

 当時、共産主義の拡大の脅威を本当に認識していたのは、アジアで只一人日本だけでした。共産主義の拡大がヤガテ世界とアジアを危機に陥れる事を、日本は充分認識しその拡大に対抗して居たのです。処が、アメリカはその日本を、殊更に敵視し叩こうとしました。そこには、日本はアメリカの中国進出の障害だと見る利己的理由があったからです。
 世界情勢をもっと大局的に観れば、本当に障害なのは日本では無く、寧ろ、既に始まって居た共産主義のアジア侵略でした。ソ連の共産主義者は外蒙への侵出後、甘い言葉をもって更に中国に近付き、中国を共産化しようと狙っていたのです。

 こうした共産主義者の侵略、又アメリカの態度に付いて、後にダグラス・マッカーサー元帥は「太平洋において米国が過去百年に犯した最大の政治的過ちは、共産主義者を中国において強大にさせたことだ」(1951年5月上院軍事外交委員会)と述べて居ます。アメリカは世界情勢を見誤って居たのです。

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 中国の内戦に巻き込まれた日本

 そうこうする内に、中国の共産主義者の謀略により、日本は中国の内戦に巻き込まれてしまいます。当時、中国の共産軍は、蒋介石の国民党軍に追い詰められ、風前の灯火と為っていました。それで共産軍は、中国内戦に日本軍を引き込み、日本軍と国民党軍を戦わせてその間に共産軍の建て直しを計ろうとしたのです。
 日本には、元々中国内部に入って行く積りなど全くありませんでした。満州国が成長して呉れれば、充分だったのです。それはソ連の脅威を防ぐ防波堤と為ったでしょう。
 
 日本は実際の処、広大な中国の内戦に迄構っている余裕等ありませんでした。増してや侵略の意志もありません。しかし度重なる中国側からの挑発、又中国側の謀略により、日本は満州国を守る為、万里の長城の内側に足を踏み入れて行きました。日中戦争(当時は支那事変と呼ばれた)の勃発です(1937年)
 日本は蒋介石の軍と戦いました。しかし、日本は何度も和平に持ち込もうと努力しました。処が和平が成立しそうに為ると、必ずと云って好い程それを邪魔する事件が起き和平は破綻したのです。それ等の事件の背後には、ソ連又はアメリカの手引きがありました。彼等は日中が戦う事を望みそれを誘発したのです。
 
 ソ連の目的は、日中戦争によって日中両国が弱体化した処を狙って、両国を共産化する事にありました。一方のアメリカは、日中戦争によって日本を弱体化させ、それによって中国の巨大市場を我がものとしようと狙っていたのです。
 詰まり、この日中戦争を単に「日本の軍部の暴走」だとか「明治憲法の欠陥」「参謀本部の無能さ」等で説明する事は、単なる一面の説明に過ぎません。戦争の原因を日本国内の事だけで説明しようとするのは、自虐史観に陥れるものです。
 
 戦争の原因は、寧ろ外に有りました。外から迫り来る悪意は、日本に否応無く決断を迫り、日本を巻き込んで行ったのです。この時アメリカは、日本を叩く為、蒋介石の国民党軍に対し莫大な援助をして行きました。何故なら、蒋介石が戦って呉れるなら、アメリカは自分の血や汗を流さずに中国から日本を追い出し、中国に自分の権益を築けるからです。
 しかし、蒋介石への援助が日本叩きに効果が無い事が判ると、アメリカはヤガテ直接対決に日本を誘い込んで行きます。

 中国に幻想を抱き続けたアメリカ

 日中戦争開始は、日本に取って歴史の大きな分かれ目でした。満州国建国迄は、未だ良かったのです。それは後に、殆どの国が承認する処と為りましたから。けれども、日本が万里の長城を越え、中国内部に迄足を踏み入れた事は、アメリカの怒りを買う事と為りました。
 アメリカとの戦争を避けると云う観点からするなら、日本は満州迄に留めて置き、中国内部へは絶対に足を踏み入れるべきでは無かったとの意見があります。日本は満州国を一人立ちさせる事だけに力を使うべきであり、日中戦争は何としても阻止すべきであったと。確かに、もしそれが出来たなら、確かにアメリカとの戦争も避けられたかも知れません。

 しかし当時のアメリカは、日中戦争を望みそれを利用したのです。全く理解し難い話ですが、アメリカ人は自国に来た中国人は徹底的に差別し排斥していながら、遠い中国大陸には、ロマンチックな幻想を抱いて居ました。その幻想は、1630年代には、パール・バックのノーベル賞受賞作『大地』に描かれた中国人の姿への感動によって強められました。
 又当時の大流行作家ジェームズ・ヒルトンは、中国奥地に神秘的な理想郷「シャングリラ」が有ると云う荒唐無稽(こうとうむけい)な小説『失われた地平線』を書き、これが映画化されて空前の大ヒットと為りました。

 又『タイム』『ライフ』誌を創刊、ラジオ、映画、ニュースにも大きな影響力を持ったヘンリー・ルースは、宣教師を父とし中国で育ったと云う個人的な思い入れから、親中・反日の報道に徹して居たのです。彼は、蒋介石夫妻を「自由中国」の象徴と絶賛しました。中国に居るアメリカ人外交官が、幾ら「現実の中国はそうで無い」と説明しても、アメリカ本国の政府や国民の反応は全く違う方向を向いていました。

 毛沢東と組んで日本軍と戦った蒋介石 アメリカ人の多くは蒋介石の正体を見誤って居た
 
 一方の蒋介石も、アメリカ人のこの奇妙な幻想を巧みに利用しました。蒋介石は、自分の軍が為した中国民間人虐殺を日本軍の仕業に見せ掛け、その捏造写真をアメリカ国内にばら撒いて、反日宣伝を繰り広げました。「日本の暴虐」を証拠付けるとされた有名な捏造写真の数々は、この時期に、蒋介石の国民党によって作られたものです。
 また蒋介石夫人の宗美齢は、アメリカで開かれた講演会で「日本の暴虐」を訴えて泣いて見せました。英語はペラペラしかも美人、又キリスト教徒を演じる蒋介石夫人の語る言葉によって、異教徒の日本人と戦う敬虔なキリスト教徒夫妻と云うイメージが作られ、アメリカ世論はマンマと蒋介石の国民党支持に廻って行ったのです。
 
 アメリカの著名人や、マスコミ、政治家はスッカリ騙されました。例えばオーウェン・ラティモアは、自分に逆らう者を機関車のボイラーで焼き殺す様な遣り方をして居た蒋介石を「真に民主的なリーダー」と迄呼んだ程です。
 蒋介石は民主的なリーダー、日本軍は暴虐な人々と云う観念がアメリカ人に作り上げられて行ったのです。一方、その頃一般のアメリカ人の60%は、世界地図の何処が中国か指し示せ無い程何も知りませんでした。
 又大東亜戦争開戦後のイギリスで「蒋介石は、中国内外における巧みな宣伝に支えられては居るが、その実は、腐敗した政治家達に囲まれて居るファシストに過ぎない」と評される様に為っても、アメリカは騙され続けました。イギリス外務省極東部長アシュレー・クラークは、アメリカを訪れた際「現実の中国に付いての限り無い無知」に驚愕したと云います。





 

 偽書『田中上奏文』

 その頃、中国の共産主義者が作った偽書『田中上奏文』田中メモリアルが出回る様に為りました。これは「日本は世界征服の陰謀を企てて居る」と云う内容の反日文書で、アメリカ議会でも回し読みされました。
 これが偽書であることは、当時の日本の正式な上奏文形式に合致して居ないこと等からも明らかです。しかし、アメリカ人の反日感情を燃え上がらせるのに大きな効果を発揮しました。日本を「美しき民主中国」を脅かす強暴な侵略者として非難する声が上がったのです。

 田中上奏文は、その後延々と反日宣伝に使われました。結局、こうして作られたアメリカの幻想により、中国の内戦は泥沼化し、日本は抜け出せ無く為ってしまったのです。しかし、日本は中国に足を踏み入れた以上、中国の内戦を終結させ中国を再建する為に活動して行きました。それは自力で内戦を終結出来ない中国を平定し、アジアに新秩序を建設すると云う道義的介入でもあったのです。

 日中戦争が始まって約一年半後には、日本は中国の約半分を占領しました。そして中国の民衆を保護し、そこに近代的な農業や、産業、法制、教育などを持ち込み中国再建に取り組みました。しかしアメリカは、本国に巨大な国土を持ちながら、本土から遥かに離れた地球の裏側の中国に経済市場を求め、日本に対して「お前は引っ込め」とばかりに干渉し続けて来ました。
 アメリカは、中国の蒋介石の軍隊への援助を強めました。アメリカそしてイギリスは蒋介石に対し、幾つかのルートを通し、多大な軍事物資や、武器、その他経済的な供給を為していました。もしこのアメリカ等からの莫大な援助が無かったら、重慶の山奥に逃げて居た蒋介石の軍は、日本の前に降参し講和に持ち込んで居たことでしょう。しかし莫大な援助を受けて居たことにより、彼の軍は持ち応えて行きます。

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 ルーズベルトの幻想
 
 それにしても、蒋介石は何故日本と戦い続けたのでしょうか。蒋介石に取って本当は日本は敵ではありませんでした。彼の本当の敵は共産軍でした。にも関わらず日本と戦い続けた一つの理由は、もし日本と和解すれば「弱腰!」と大宣伝され失脚させられてしまうからでした。彼は自らの保身の為に戦い続けたのです。
 もう一つの理由は、彼は日本と戦う事によって、アメリカの援助を更に引き出し、その援助を対共産党戦の為に温存する事を計って居ました。彼は「日本と手を握るぞ」と脅しを掛けながら、更なる援助を引き出して居ました。

 そう遣って、アメリカからの援助を対共産党戦の為に温存して居たのです。要するに蒋介石に取って、日本との戦争は「金づる」でした。彼は権力を握るために、アメリカと日本を利用したのです。最もその蒋介石の夢は実現しませんでした。彼は結局、共産軍に負け台湾に逃げてしまう嵌めに為るからです。
 しかし蒋介石の野望によって迷惑を受けたのは、アメリカと日本でした。何故なら、両者はその後大戦争を交え無ければ為らない嵌めに為ったのですから。サテ、この蒋介石を不幸にも信用して居たのが、アメリカで大統領に為ったルーズベルトでした。ルーズベルトの特殊なアジア人観は、その後の日米関係に決定的な影響を与えています。

 フランクリン・ルーズベルト大統領。彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイが蠢いていた

 ルーズベルトは「何時も中国人には親しみを感じて居る」と言って居ました。何故なら、彼の祖先が中国とのアヘン貿易で儲けたからでした。彼は又、蒋介石を偉大な指導者と讃美し援助を惜しみませんでした。
 その一方でルーズベルトは、日本は世界征服の陰謀を企てて居る悪の帝国と信じて居ました。彼は「田中上奏文」とホボ同じ内容の話を学生時代に聞き、それを信じ続けて居たのです。更にルーズベルトは、スミソニアン博物館教授アレス・ハードリシュカに「日本は何故邪悪なのか」を内々に研究させ、その結果「日本人が邪悪なのは、我々よりも頭蓋骨の発達が2000年遅れて居るからだ」と云う様な事を本気で信じて居ました。その為に彼は、日本人を病原菌に例え「日本人の根絶」を理想として抱いて居たのです。

 ルーズベルトは又、中国に対しては甘い幻想を抱き、更に共産主義のソ連に対しても甘い幻想を抱いて居ました。ルーズベルトには共産主義への警戒感が殆ど無かったのです。そして第二次大戦中は、ソ連と同盟を組み、アノ大虐殺者スターリンと仲良くしました。
 ルーズベルトは、スターリンの望むものを挙げていれば、彼は侵略やアメリカの邪魔をし無いだろう等と言っていました。その為ルーズベルト政権の中枢には、ソ連のスパイ網が広がり、暗躍を続けて居ました。アメリカはその後、その為に悩まされる事に為ります。

 さて、アメリカやイギリスが蒋介石の国民党軍を支援した為、日中戦争は、日本対白人の代理戦争の様相を呈しました。蒋介石は、白人の傀儡となり戦争は泥沼化しました。

 日本の息の根を止め様としたアメリカ

 このアメリカやイギリスが蒋介石に援助物資を送って居たルートを「援蒋(えんしょう)ルート」と云います。「援蒋ルート」の全輸送量の半分以上を占めて居たのは、仏領インドシナから中国へのルートでした。
 日本は止む無く、そのルートを遮断する為、ベトナム北部に軍隊を進駐させます.(1940年9月)この進駐は、当時のイギリスやアメリカ、ソ連がして居た軍の外国への進駐に比べ非常に紳士的なものでした。特にソ連のバルト三国への進駐は、侵略に他為りませんでした。アメリカ、イギリスも不戦条約違反を犯して居ました。

 一方、日本のベトナム北部への進駐は、2ヶ月に及ぶ辛抱強い外交交渉の末、その地域を支配して居たフランス政府からOKを貰ってのことだったのです。処が、この時アメリカは、自国やイギリス、ロシア等のしたことには何も触れず、只日本を非難して、日本を封鎖する為の「ABCD包囲網」と云うものを作りました。
 ABCDとは、アメリカ(America、イギリスBritain、中国 China、オランダDutchの頭文字です。これはアメリカ主導に行なわれた日本に対する厳しい経済制裁でした。ABCD包囲網により、日本には石油や鉄を初め、生活必需品等が入ら無く為ってしまいました。

 しかし、こうしたことも全て、先に述べた「オレンジ計画」の一環だったのです。今日も、アメリカはシバシバ他国に対して「経済制裁」と云う手法を執ります。最近では、イラクや北朝鮮に対する経済制裁等です。しかし、最近のアメリカは同じ経済制裁をするにしても、大抵は行き過ぎ無い賢い遣り方をする様に為っています。
 余り遣り過ぎると、向こうが牙を剥き戦争を起こして来るからです。けれども、ABCD包囲網と云う経済制裁は、正に日本に「死ね」と言う程のキツイものでした。

 ですからこの経済制裁は、戦争を誘発するものだとして、ルーズベルト大統領の前のフーバー大統領は決して行なわ無かったのです。しかしルーズベルトはこの経済制裁に踏み切りました。貿易に依存するしか生きて行く方法の無い日本は、正に窮地に立たされました。更に、1941年にアメリカは日本人の在米資産を凍結し、又日本に対する石油の全面禁輸を実施しました。
 石油が入ら無ければ、車も走らず飛行機も飛ばず工場も動きません。日本の産業は停止してしまいます。石油の備蓄を僅かしか持た無い日本に取ってこれは死活問題でした。これ程キツイ事をすれば、日本は戦争を決意するだろうと云うことは、もちろんアメリカにも判っていました。しかしアメリカは、それを望んでいたのです。

 以前私は、イスラエルに住むユダヤ人歴史家のアビグドール・シャハン博士が来日した時、彼を連れて日本の神社を案内した事があります。その時彼はシミジミトこう言いました。「多くの人は、日米戦争は日本軍の真珠湾攻撃によって突然始まったと思って居るがそうでは無い。その前に、アメリカが日本に対してして来た悪辣な事柄の数々を知ら無ければ、何故日米戦争が始まったか理解出来ない」
 正にそうなのです。日米戦争は、真珠湾以前から始まって居ました。それでも、日本はこの時も未だ、米国との関係修復の為に最後の努力を積んで居ました。日本は、野村駐米大使と来栖(くるす)臨時大使を派遣し、交渉に当たらせたのです。彼等は、日米首脳会談を強く申し入れました。

 日本側は、ABCD包囲網を解いて呉れるなら、中国大陸からの撤兵も考慮するとの案を用意して居ました。そして中国でのアメリカに対する門戸開放・機会均等も約束すると。これはチャンと記録にもあることです。日本側は大きな妥協の条件も用意して居たのです。しかし、当時のルーズベルト大統領は、話し合いの場に出て来ませんでした。
 もし両者が誠心誠意、交渉のテーブルに着いて話し合ったなら、日米戦争は回避されたに違いありません。処が、アメリカ側はこの時、ノラリクラリするばかりで、交渉の要求にも条件にも返答し無かったのです。
 
 そしてやがて1941年11月26日、アメリカのハル国務長官は野村大使と来栖大使を呼び出し、突如、アノ悪名高い「ハル・ノート」と云う一方的な対日要求を通告して来ました。これが、日本に真珠湾攻撃を決意させるものと為ったのです。


            −2につづく






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日米開戦の「真の原因」を作ったのは誰か




 日米開戦の 「真の原因」を作ったのは誰か

           〜PHP Online 衆知 歴史街道 1/17(金) 11:52配信〜


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         日本海軍攻撃隊の爆撃で炎上する真珠湾のアメリカ戦艦


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 日米戦争は、第二次世界大戦の一側面であった。ヨーロッパの戦いから派生した局地戦であったと言い換える事も出来る。米国のフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領(以下 ルーズベルト)も英国のウィンストン・チャーチル首相も真の敵はナチスドイツで在ると考えて居た。

 戦後教育で育った世代は、日本の支那大陸への「侵略的」外交政策が、アノ戦争の原因であると考える。仮に日本の満洲事変以降の外交が侵略の連続であると云う解釈を是とするとしても、筆者はこの様な解釈はして居ないが・・・それは日米開戦の原因では無かった。

 ※本稿は歴史街道編集部編『太平洋戦争の新常識』(PHP新書)から一部抜粋・編集したものです。

 日米開戦と日中戦争は全く関係が無い

 英国がドイツの空爆(The Blitz)に苦しみ、米国にどれ程救援を求めてもルーズベルトは動け無かった。米国に取って、英国は言葉を同じくする最も親しみのある国である。その国が敗北寸前まで追い込まれて居た。それでもアメリカ世論は動かず、ルーズベルトは身動きが取れ無かった。
 世論の80パーセント以上が頑として、ヨーロッパのゴタゴタに巻き込まれる事を拒否し続けた。そのアメリカ国民が、中国の為に自国の若者の命を犠牲にしても構わ無いと思う筈も無い。

 日米開戦と日中戦争は全く関係が無い。それにも関わらず、日中のゴタゴタが日米の戦いの原因であったかのごとく語られるのは、戦後の日本国民にその様に思わせたい歴史家や外国勢力が存在するからだ。
 日米開戦の真の原因は、ルーズベルトとチャーチルが、飽く迄もナチスドイツとの戦いを望んだからである。ルーズベルトがドイツとの戦いを望んで居たことはハーバート・フーバー元大統領、ハミルトン・フィッシュ下院議員等、彼と同時代を生きた政治家が既に多くを語って居る。

 ルーズベルトが、

  ワシントン議会の承認無く、ドイツ海軍(Uボート)への攻撃命令を発して居たこと
  国民に対してその事実を隠し、米艦船がUボートから一方的に攻撃を受けて居ると説明して居たこと
  有り得無いナチスドイツによる米本土攻撃の恐怖を煽った事


 一方でアドルフ・ヒトラーは、
 
  ルーズベルトの挑発に乗るナ と海軍に厳命して居たこと

 ・・・等は、既に好く知られて居る。

 ルーズベルトは密使の報告を無視した

 もしルーズベルトが、ヨーロッパの戦いに巻き込まれる事を怖れ、そうした事態を真に避け様として居たのであれば、ドイツに宣戦布告した英仏と独の間に立って仲介に入る外交的オプションがあった。アメリカの強大な国力を背景にした外交を展開すれば、少なくとも暫定休戦協定を締結させられる可能性があった。米国には戦争当事国に痛み分けを強制出来る力があったのである。
 実際、当時のルーズベルト支援者の中にも、彼がその様な外交を展開して呉れるだろうと期待する者が少なく無かった。その一人がウィリアム・ローズ・デイヴィスであった。

 デイヴィスは独立系石油王であり、ルーズベルトの有力支援者だった。ルーズベルトが再選を目指した選挙戦(1936年)では、30万ドルを拠出している。彼は、民主党の有力支持団体であるアメリカ鉱山労働者連盟会長ジョン・L・ルイスの友人でもあり、ホワイトハウス幹部とは太い人脈があった。
 1939年9月15日正午少し前、彼はホワイトハウスでルーズベルトと会っている。このことはルーズベルトの公式スケジュールの控えから確認が出来る。自身が密使と為り、ドイツ指導者に休戦交渉に応じる様説得したいと語り、ルーズベルトの了解を得た。コーデル・ハル国務長官、スティーブン・アーリー報道官、ジョン・ルイス会長も同席した。

 ベルリンに入ったデイヴィスは、ヘルマン・ゲーリング元帥と複数回に渉る交渉に臨んだ。ルーズベルトに仲介の意思があると聞かされたゲーリングは驚いた様であったが、米国の仲介努力を感謝し次の様に語った。

 「貴殿の言葉には驚かされた。ルーズベルト氏は我が国に対しては悪意を持ち、英仏への同情心が強いと思って居た。和平の維持に付いてドイツは常にそれを望んで来た。只対等の関係で無くては為ら無い。今貴方が披瀝した考えは、ヒトラー総統及び我が政府のこれ迄の主張に合致する。
 ワールドコンフェランス・世界規模の会議を開く事。それだけが、和平を再構築出来る手段であろう。我が国は当然に、ルーズベルト氏がその様な会議を主宰するのであれば歓迎である。会議の目的は、恒久的和平の構築である」


 ゲーリングは「世界会議は何処で開催されても構わ無い。ワシントンであっても自身が代表として参加する」とまで述べた。ナチス政権の講和(休戦)を望む態度を確認したデイヴィスは、直ちにワシントンに戻った。しかしルーズベルトは、自身が遣(や)った密使であるにも関わらず、彼と会おうとし無かった。理由は「会議中で忙しい」であった。
 業を煮やしたデイヴィスは、ドイツが講和の意思を持って居ることを手紙で伝えたが、ルーズベルトから返答はな勝った。

 チャーチルから仲介への反発があった可能性も否定出来ないが、ルーズベルトにはナチスドイツと外交交渉するつもりは、鼻から無かったと推論しても間違い無かろう。その後、デイヴィスがホワイトハウスに招かれる事は無かった。

 ヒトラーは副総統ヘスをイギリスに送り込んだが・・・

 ナチスドイツは開戦後、暫くはその戦火を西側に広げ無かった。1939年9月1日のポーランド侵攻から翌1940年5月の間は、独と英仏との地上戦は殆ど無い。この時期を欧米の歴史家は「Phony War・偽りの戦争」と呼んで居る。

 筆者は、ヒトラーが英仏とは戦いたく無い姿勢を見せる事で、暫定休戦協定に入る機会を窺って居た時期ではないかと考えている。独ソ戦の緒戦(バルバロッサ作戦)の少し前の時期(1941年5月から6月)には、英国の敗北は濃厚であり、ドイツとの和解を探る事の是非が、英国内では真剣に議論された。
 既に中立の立場をかなぐり捨てて対英軍事支援を強化して居たルーズベルト政権内部からも、軍事支援を中止すべきだとする声が高まって居た。こうした状況の中にあってヒトラーは、対英戦争の休戦を求めて最後の賭けを打った。勝勢にある時期だからコソ出来る博打であった。

 1941年5月10日、アウクスブルクの町(ミュンヘン北西およそ70キロメートル)は晴れ上がり、絶好の飛行日和であった。この日の夕刻(5時45分)、一機の双発機(メッサーシュミットBf110)が、北に機首を向けてこの町を飛び立った。
 操縦するのは、ナチスドイツのナンバーツーであるルドルフ・ヘスナチス副総統だった。ヘスは、ミュンヘン一揆(1923年)の失敗でヒトラーと共に収監されて以来、苦難を共にした同志であった。

 北海を北上した同機は北緯55度40分付近に達すると、進路を西に取りスコットランドの町グラスゴーを目指した。ヘスがグラスゴーの南およそ15キロメートルの農村イーグルシャムにパラシュート降下したのは、その日の夜11時を少し回った時のことである。
 ヘスがスコットランドを目指したのには理由があった。何とかしてハミルトン公(英国空軍准将、スコットランド防空担当)に会い、彼を通じて英国王ジョージ6世との謁見を実現させたかったのである。

 国王を説得し頑迷なチャーチルの対独外交を変更させ、暫定休戦に持ち込みたかった。ヘスは、着地の際に足を挫き身動きが取れ無く為って居る処を、イーグルシャムに住む農夫に発見された。 知らせを受けたハミルトン公は、メリーヒル仮設病院に運ばれて居たヘスに会った(翌朝10時)。公の報告書には次の様に書かれて居る。

 「彼は、『(ヒトラー)総統は英国を敗北させようとは考えて居らず、戦いを止めたいと願って居る。今回の飛行は4度目であり、以前の試みは悪天候で失敗した』と語った」

 ハミルトン公は対独宥和派の有力者であり、国王にも近い立場だった。ヘスは公にヒトラーの思いを伝える事は出来たが、そこ迄であった。国王に会うことは叶わ無かった。グラスゴー郊外の古城(ブキャナンキャッスル)に幽閉され、その後ウェールズの病院(Maindiff Court Hospital)に移送された。
 チャーチルは、ヘスを厳重な監視下に置いただけで、決して会おうとし無かった。英国存亡の危機にあって、ナチスドイツのナンバーツーが自身の生命をも顧み無い決死行で、スコットランドにパラシュート降下したのである。

 筆者には何故チャーチルがヘスに会おうとし無かったのか理解出来ない。リアリストの政治家であったなら少なくとも直接ヘスの話を聞き、ドイツの真意を探ろうとした筈である。

 独ソ戦が局地戦に終始して居た可能性

 正統派の語る歴史では、ゲーリングが講和交渉に前向きであった事(デイヴィス密使交渉)も、ヘスの決死行も語られ無い。ドイツが講和を願って居たことを書いてしまうと、ルーズベルトとチャーチルの戦争指導が誤って居たのではないか、との疑念を湧かせる事に為る。アノ戦争は、ルーズベルトとチャーチルの、二人の特異な政治家が作った戦争である。

 「二人の怪物(ヒトラーとスターリン)の戦いは不可避である。両者が死闘を続け、国力を浪費した時点で仲介に入るべきだ」と考えて居たハーバート・フーバー元大統領の見立て(フーバー著『裏切られた自由』)には合理性がある。
 独ソの戦いは激しいものに為っただろうが、局地戦に終始して居た蓋然性は十分にあった。そう為っていれば世界大戦にも為らず、日米戦争等起きる筈も無かったのである。

 ルーズベルトは1941年に入ると、苛めにも似た対日強硬外交を本格化させたが、それは日本を対米開戦させ、それを口実にアメリカが対独戦に参戦しようと云う思惑の為であり、飽く迄英米両国の対独外交の一側面であった。この視点(合理的推論)コソが、アノ戦争とは何だったのかを解く鍵なのである。


          歴史街道編集部     以上









 【管理人のひとこと】

 この文章では、米英のドイツに対する徹底的な敵愾心が第二次世界大戦を拡大させた、との様な主旨と受け取れます。この様に今でも、アノ戦争とは何だったのか・・・これは弛(たゆ)まぬ私達の疑問であり、永遠の真実追求のテーマでもあります。
 丁度この問いに対する幾つかの文章を次回から掲載しょうと思います。皆さんと一緒に考えて行きましょう・・・物語として読まれても興味の湧くストーリーもあります・・・









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「9・11を予言した」幻の本『超限戦』 何故、アメリカ軍人はテロ翌日に「必読」と語ったのか?





 






  「9・11を予言した」幻の本「超限戦」 

  何故、アメリカ軍人はテロ翌日に「必読」と語ったのか?


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             〜文春オンライン 1/17(金) 11:00配信〜


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      2001年9月11日に発生した、アメリカ同時多発テロ事件 コピーライトマークロイター AFLO


 〜「9・11を予言した」と大きな話題に為った戦略研究書「 超限戦 21世紀の『新しい戦争』 」中国現役軍人(当時)の喬良氏・王湘穂氏による全く新しい戦争論にして、アメリカの軍事戦略に大きな影響を与えたとされる「幻の1冊」が新書で復刊した。「9・11」の翌日にはアメリカの軍人がテレビで「必読だ」と語ったと云うこの本の凄みとは?〜


 「不幸にも予言が当たりましたね」

 私達は予言者に為ることは望ま無かったし、ましてや血生臭い現実と為る可能性のあるテロ事件を予言する先覚者に為ろう等とは思ってもみなかった。しかし、神様は、人々の多くの善良な願いを取り合わ無いのと同様に、私達のこうした願いを取り合わ無かった。 

 2001年9月11日以後、私達は数多くの電話を受けたが、一番多かったのは「不幸にも予言が当たりましたね」と云う言葉だった。それは、ニューヨークのマンハッタンで起きた正真正銘のアメリカの悲劇を指して居た。
 3年前に、私達が執筆した「超限戦」は、既に正確な予言と判断を下して居たが、これは本当に恐ろしい予言の的中だった。その恐ろしさから、私達は、予言が見事に的中したからと云って、少しも楽しい気分には為ら無い・・・天下に名の聞こえた世界貿易センタービルのツインタワーが、全世界の目の前で無残にも倒壊した時「貴方の正しさを立証した」と言われても、得意満面に為ることなど絶対に出来ない。

 何千と云う罪の無い人々の命を一瞬の内に奪ってしまう様な、驚くべき残酷さは、我々の個人的研究の成果に対する満足感をはるかに圧倒してしまった。これと同時に、私達は深い悲しみと、いかんともし難い思いを感じて居る。3年前、私達はこの本の中で次の様に明確に指摘して居た。

 「無差別に一般人を攻撃する」ビンラディン式のテロリズム

 新しいテロリズムは21世紀の初頭、人類社会の安全に取って主要な脅威と為るだろう。その特徴は、戦術レベルの行動を以て当事国に戦略レベルの打撃を与え震撼させる事だ。私達は本の中で「ビンラディン式のテロリズムの出現は、いかなる国家の力であれ、それがどんなに強大でも、ルールの無いゲームで有利な立場を占めるのは難しいと云う印象を世間の人に強く与えた」と述べた。
 又私達は「彼等は行動が秘密な為に隠蔽性が強く、行為が極端な為に広範囲の危害をもたらし、無差別に一般人を攻撃する事によって、その異常さ・残忍さを示して居る。これ等は全て現代のメディアを通じてリアルタイムに連続的に、高い視聴率で宣伝され、その恐怖の効果を大いに増幅する」と云う点を特に指摘した。

 しかし、私達は「狼が来た!」と叫んで居た子供の様に扱われて来た。9・11事件と同じ様に不幸だったのは、当時、私達の話に耳を傾ける人が居なかったことだ。私達をウソを着く子供扱いしたり、更には、私達コソが狼だと後ろ指をさしたり、私達がテロリズムを宣伝して居ると云う人も居た。
 処が、狼は本当に来てしまった。しかも私達が予言した方式・・・非職業軍人が、非通常兵器を使って罪の無い市民に対して、非軍事的意義を持つ戦場で、軍事領域の境界や限度を超えた戦争を行う・・・で遣って来たのだ。これこそ正に「超限戦」なのである。

 テロ事件の翌日、アメリカ軍人がテレビで語ったこと

 報道によれば、9・11事件の翌日、アメリカの或る3つ星の将軍がテレビの視聴者にこう語った。数年前、中国の2人の将校が「超限戦」と云う本を書き、全世界、特にアメリカに対してテロリズムの脅威を警告して居たが、我々の注意を引か無かった。そして、2人が提起した事態は生々しい形で我々の眼前で起きてしまった。我々は改めてこの本を読み直す必要がある様だと。

 アメリカ軍人の思想の触覚は、彼等の世界各国の同僚達に比べれば、可成り敏感であると云うべきだろう。「超限戦』が中国で出版されたその年に、その英訳版がペンタゴンの将軍達の机に置かれて居た。更にアメリカ海軍大学から私達宛てに、この本を同大学の正式の教材に採用したいので、非商業的な内部版権を譲渡して欲しいと云う書簡が届いた。
 しかし、全ては此処までで、彼等は何もし無かった。彼等がこの本が発して居た警告を理解して居なかったことは、今回の事実が物語って居る。

 もし3年前に、アメリカ人が今よりモッと真剣にこの本を読んで居たら、9月11日の悲劇は必ず避けられた筈だと思う程、私達は天真爛漫では無い。この点において、私達は非常に悲観的である。何故なら、私達はビンラディン式のテロリズムへの注意喚起を行っただけで無く、全世界に次の様な警告を発して居たからだ。

 テロリストと、スーパー兵器の出会い

 「もし全てのテロリストが自分の行動を爆破、誘拐、暗殺、ハイジャックと云った伝統的な遣り口に限定して居る為らば、マダマダ最も恐ろしい事態には為らない。本当に人々を恐怖に陥れるのは、テロリストと、スーパー兵器に為り得る各種のハイテクとの出会いだ」
 
 詰まり、ビンラディン式のテロリズムの他にも、我々は、ハッカー組織が仕掛けるネットテロや金融投機家達が引き起こす金融テロ等、その他の様々なテロリズムに直面するだろうと云うことだ。こうしたテロリストは、ハイテクがもたらした便利さを十分に利用して、彼等の手の届くいかなる処をも、血生臭い或はそれ程血生臭く無い戦場に変える事が出来るのである。
 只一点変わら無いのは恐怖である。しかもそれは神出鬼没で、忽然として形の無い恐怖である。どの国もこの様なテロに対して、いちいちそれを防ぎ様が無い。

 理解を超えた攻撃をして来る敵にどう対応するか

 明らかに惟は伝統的な意義とは違う、全く新しい戦争の形態だ。私達がこれを「非軍事の戦争行動」とネーミングした時、一部の軍事専門家から「ドンな戦術レベルの行動で、アメリカの様な超大国を揺るがす事が出来るのか」と嘲笑された。
 彼等に取って、こうした問題は想像しようにも考えられ無いことだ、戦争は即ち軍事であり「非軍事の戦争行動」ナンてロジックに合わ無いと考えて居た。不幸な事に、テロリズム自体が最初から人類の善良な天性のロジックに合うものでは無い。更に不幸な事に、こんなにも簡単な結論を理解する為に、人類・・・今の処ではアメリカ人・・・は血の代価を支払わ無ければ為ら無かった。

 そして遂に結論が出た。アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領は言った「これは戦争だ!」と。しかし、例え我々が、これは戦争だと判って居ても、こうした戦争の発生を避ける事は依然として不可能だ。
 何故なら、これは全ての戦争の中で最も不確定な戦争であり、確定した敵も確定した戦場も確定した兵器も無く、全てが不確定だからである。この為に、常々確定した方式で敵を打撃するのに慣れて居る、いかなる軍事行動も「虎が天を食べ様としても口に入れ様が無い」式の手の着けられない状況に直面する事に為ろう。

 「超限戦」の中で指摘した様に、私達から見れば「ハッカーの侵入にしろ、世界貿易センターの大爆発にしろ、ビンラディンの爆弾攻撃にしろ、何れもアメリカ軍が理解して居る周波数バンドの幅を遥かに超えて居る。この様な敵にどう対応するか、アメリカ軍は明らかに心理上或は手段上、特に軍事思想およびそこから派生する戦法上で準備が不足して居る」 
 同時に、例えテロリズムに打撃を与える側が或る時点・或る局面で、或る程度の勝利を得たとしても、もしテロリズムを根底から取り除く事が出来なければ、必ずや「ヒョウタンを放って置けば、ヒシャクが出来る」と云った苦境に直面する事に為ろう。問題は「テロリズムを根底から取り除く」事だが、言葉で言う程簡単では無い。
 
 「超限戦」に書き加えたいと思って居たこと

 此処から「何処にテロリズムの根源があるのか」「何がテロリズムをもたらしているのか」と云う問題が出て来る。民族、文化、宗教、価値観の違いによって、こうした問題に対する解答も異なる。
 だが解答がどの様なものであれ、テロリズムは、強い集団に圧迫され日増しに瀬戸際に追い遣られている弱い集団の絶望的な足掻きである、と云う事実を抹消する事は出来無い。もし我々が皆この点を認める事が出来るなら、次の結論・・・テロリズムに対し国家的暴力式の打撃を与えるだけではとても不十分だし、問題を根本的に解決する事にも為ら無い・・・を同様に認める事が出来るであろう。

 テロリストがドンなに人を驚かす事件を起こしても、グローバル化の列車は相変わらずビューッと唸りを立てて前に進んで好く。一瞬ブレーキを掛けたり減速しても、殆ど既定の軌道を変える事は無い。我々は皆この列車の乗客である。列車の進行方向が正しいかどうか、列車自体の性能が安全で頼りに為るかどうかは、我々1人ひとりに関わっている。
 同じ列車に乗っている以上、片一方だけの安全等存在し無い。安全は共通のものであり、全員一体のものである。この事は、例え列車長にせよ、自分の安全を多くの乗客の安全よりも優先させる事は出来ないと云うことを意味して居る。特に、列車長は乗車して居る1人ひとりの乗客を上手く持て成すことが必要だ。
 我々は、乗客の誰かが絶望感から、列車と友に滅びる気持ちを抱き、捨て鉢に為るのを許しては為らない。何故なら、この事は翻って言えば、私達自身の命に危険をもたらすからである。この事コソ、9・11事件後、私達が「超限戦」の中に書き加えたいと思って居たことである。


           喬良氏・王湘穂氏     以上









 【管理人のひとこと】

 一つの書籍を此処に紹介したい・・・デイリーBOOKウォッチ 2019/10/16 より
 
 書名 アメリカは何故戦争に負け続けたのか・・・米国が勝った戦争は過去60年間で一度だけ サブタイトル 歴代大統領と失敗の戦後史 ハーラン・ウルマン著 中本義彦 監修 田口 未和 訳 出版社名 中央公論新社 出版年月日 2019年8月 7日 定価・本体3200円+税
 
 アメリカは強い。戦争には何時も勝って居る・・・先の戦争でアメリカに負けた日本人は何と無くそう思って居る。だからアメリカに付いて行けば間違い無いと。処が本書『アメリカはなぜ戦争に負け続けたのか』(中央公論新社)はマルっ切り正反対の事を言う。アメリカは負け続けて居るのだと。エ−そうなの、と驚く日本人が少なく無いのではないか。

 戦後も戦争を続けている

 評者は或る時軍事問題の専門家から「アメリカは毎年の様に戦争して居る国だ」と聞いて、一寸驚いたことがある。第二次世界大戦が終わってから、朝鮮戦争を戦ってヴェトナム戦争に介入した事位は知って居たが、その後も戦争を続けて居る事についてはすぐに思い浮かば無かったからである。本書はその辺りを見透かしたかの様にこう説明する。

 冷戦が正式に終結した1991年から現在迄、アメリカは実にその三分の二を超える年月を、戦争、或は大掛かりな武力衝突や武力介入に費やして来た。・・・1991年のイラクとの戦争、1992〜1993年のソマリア内戦への介入、2001年から継続中のアフガニスタン紛争と世界規模の対テロ戦争、2003年から継続中のイラク戦争、2016年に始まったシリアとイエメンでの紛争等、1991年以降の26年間の内、合わせて19年にも渉ってアメリカの軍隊は戦争に従事して来たのである・・・。

 そして時計の針を戻し、第二次世界大戦後の72年間の内、半分超の37年間は戦争状態にあったと見る。しかも戦績はそれ程目覚ましいものでは無かったと云うのだ。「朝鮮戦争は引き分けだった。ヴェトナム戦争は不面目な敗北に終わった。サイゴン(現ホーチミン)のアメリカ大使館は包囲され、その屋上から最後の救出用ヒューイ・ヘリコプターが飛び立つ映像は、痛恨の敗北を象徴する忘れられ無い光景と為った」

 「戦後戦争史」を総括
 
 この60年間で唯一明白な勝利と呼べるのは、1991年の第一次イラク戦争(湾岸戦争)だけだと云う。ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、戦争の目的をサダム・フセインとイラク軍をクウェートから追い出すことに限定し、その目的を達した処で大部分の軍隊を引き揚げると云う賢明な判断をした。しかし、その息子のジョージ・W・ブッシュ大統領は、後に第二次湾岸戦争の指揮を執ったものの「イスラム国(IS)」の興隆に繋がり、現在も未だ戦闘が続く。(筆者注・未だ限定的にアメリカ軍はイラクに駐留中)
 
 本書は以上の様にアメリカの「戦後戦争史」を振り返りつつ総括する。

  アメリカ人の殆どは、この数十年間に自分の国がどれ程長く軍事紛争に関わって来たかに気付いてすら居ないか、マルで懸念を抱いて居ない。
  世界最強の軍隊を持つと誰もが認める国でありながら、戦争や武力介入の結果がこれ程失敗続きなのは何故なのか、と疑問を持つアメリカ人も殆ど居ない。

 そこで本書は「国民全般の無関心を踏まえた上で、この国が大きな紛争或は武力介入を決断した時に、常に成功出来る様にするにはどうすれば好いか?」と問題を投げ掛ける。(略)

 大統領との関係を重視 

 本書は「戦争と大統領」の関係を重視している。言うまでも無くアメリカの大統領は、軍の最高司令官としての指揮権を保持する。事実上、宣戦布告無しで戦争を開始する事が出来るし、大統領が使用命令を出すことで初めて核兵器の使用が許可される。詰まり「核のボタン」も握って居る。日本の総理大臣とは比べ物に為らないほどの強大な権力者であり、その力量差が戦争にも付き纏う。
 本書では、戦争の趨勢について「最高司令官である大統領の経験不足も足を引っ張る一因」とし「司令官としての経験不足が、最近の三人の大統領に不利な状況を強いて来た」と見ている。そして「現在その地位にある現職大統領にも同様の影響を与えるだろう」と予想する。

 辛口のジャーナリストの書いた本かと思ったが、意外なことに著者のハーラン・ウルマンは米戦略国際問題研究所、アトランティック・カウンシルのシニアアドバイザー 1941年生まれ。米海軍士官学校を卒業し、ハーバード大、タフツ大で博士課程修了 安全保障の専門家として、米政府や経済界に助言し、米国内外のメディアにも出て居る人だという 米国国防大学特別上級顧問 欧州連合軍最高司令官管轄下の戦略諮問委員会のメンバーも務めている 著書も色々あるようだ。

 本書の訳者、中本義彦・静岡大学教授の解説によると、著者はヴェトナム戦争への従軍を切っ掛けに、軍、大学、ビジネス、シンクタンクの世界に身を置きながら歴代政権にアドバイスして来た大御所的な存在。
 豊かな学識と実務経験を兼ね備え、どの政権とも適度な距離を保ちながら、率直に意見具申して来た人物だと云う。「敢えて言えば共和党寄りだが、間違い無く穏健派」であり、本書では「アメリカの武力行為の多くに付いてバランスのとれた判断を下して居る」とのことだ。

 選挙に勝つ能力とは次元が違う

 アメリカと云う国はニューヨークの「自由の女神」が象徴する様に「自由と民主主義」を旗印にしている。この女神の正式名称は「世界を照らす自由」と云うそうだ。世界各国から来る移民に対し、アメリカでの「自由」を保証すると共に、海外の自由を抑圧する国に対しても目を光らせる。アメリカが武力行使に踏み切る時「自由」「民主主義」等と云う立派なスローガンが掲げられる事は良く知られている。
 一方でアメリカは、新大陸に上陸した移民が先住民を制圧し版図を広げた歴史も持つ。サル精神病理学者の本で読んだ様な気がするのだが、そうした過去は国家として一種のトラウマに為っており、常に関与する戦争を「正義」と理由付けし「戦争の正当化」をしようとする内的契機にも為っているそうだ。

 即ちアメリカの大統領とは、単に強大な権限を持つと云うだけで無い。アメリカと云う国の歴史や精神も体現する存在だと言える。選挙に勝つ能力とは又次元の違う資質が要求される。そして過去の例を振り返れば、任期中に一度か二度は「開戦」の決断をしなければならないのだ。
 本書では、「ケネディ、レーガンにも十分な資質があったとは云い難いが、カーターにはそれが殆ど無かった。そして更に深刻なのは、1992年当選のクリントン以降の4人の大統領である」(中本氏)とされている。

 気に為るのはトランプ大統領だが、著者が「常識」の持ち主と評価するマティス国防長官とマクマスター国家安全保障補佐官は既に事実上解任されている。本書の米国での刊行予定が、トランプ大統領の就任から間も無かったこともあり、十分な記述は無いが、最近の4人の中でも「トランプ程政治経験の乏しい大統領は居ない」とシビアだ。
 選挙期間中からシバシバ公約や発言を翻して居ることを考えれば「いくら情報に基づいた分析をしても、数時間、或は一日か二日で意味の無いものに為るだろう」と突き放す。そんな大統領に率いられたこれからのアメリカは何処に向かうのか。日米関係はどう為るのか。安倍首相を始め、日本の政治家や官僚も一読して置くべき本と言えるだろう。永田町の書店で特に売れる事を願う。
 以上







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絶対に選挙に落ちない男・中村喜四郎が、再び注目される理由




 絶対に選挙に落ちない男・中村喜四郎が、再び注目される理由

        〜ダイヤモンド・オンライン 麻木久仁子 1/17(金) 6:01配信〜


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             中村喜四郎衆議院議員 Photo JIJI

 最近チラチラと見掛ける 「中村喜四郎」とは

 「中村喜四郎」と云う名を聞いて何を思い浮かべるだろうか。最早微(かす)かな記憶・・・「何か汚職で捕まった人じゃ無かったかしら」若い人達なら思い出す記憶も無く「だれ?」と云うだろう。その「キシロー」の名を最近何故か、チラチラと見掛けるのである、それも思い掛け無い処で。「エ?このキシローさんは、あのキシローさん?」
 
 中村喜四郎氏は1949年生まれ。大学卒業後に田中角栄事務所に入り秘書と為り、27歳の時に旧衆院茨城3区で初当選。メキメキと頭角を表し、その後1987年に田中派が分裂すると経世会(竹下派)の結成に参加、翌年には若くして派閥の事務局長、更には40歳の若さで初入閣し、戦後生まれ初の閣僚と為った。
 その後は42歳で建設大臣。実力は勿論、その男前な風貌も相まって名実共に建設族のプリンスと謳われた。「小沢の次」「何れは総理も夢では無い」とメディアからも持て囃(はや)された人物である。が、その転落は呆気無かった。

 1994年、突如、ゼネコン汚職疑惑が持ち上がり斡旋収賄容疑で逮捕される。政治の腐敗が度々騒がれ、政治改革を世論が厳しく求めていた時代、中村氏の疑惑は大きなニュースと為り連日報じられて大騒ぎだったことを思い出す。
 中村氏は自民党を離党したものの議員辞職はせず、検察の取り調べにも黙秘し、最高裁まで約10年に渉って裁判闘争を続けながらも刑が確定する迄選挙に出続け、しかも当選し続けた。その態度は「フテブテしい」とテレビの視聴者や新聞雑誌の読者の目には映ったし、その様な刑事被告人に投票し続ける有権者は一体どんな柵(しがら)があっての事なのかと「旧弊に縛られた古い悪しき日本の選挙」の典型の様にも見えて居た。

 が、戦い虚(むな)しく最高裁で上告棄却、実刑判決が確定し黒羽刑務所で刑に服することに為る。勿論国会議員としての議席は遂に剥奪された。政治家としては一巻の終わり、だろうと思われた。それ以降は全国ニュースで中村喜四郎の名を目にすることは無く為って行き、アレだけ大騒ぎして居た世間もその名を忘れて行ったのである・・・

 アノ事件後、驚きの人生 無敗で14期目

 時は流れ・・・2018年5月、新潟知事選挙は立憲民主党や共産党が呉越同舟で手を組み、前社民党県議の女性候補を応援すると云う、野党共闘が成立した戦いだったが、その戦い振りを報じる記事の中に意外な名があった。「中村喜四郎」何度も応援に入り、ドブ板選挙を展開して居ると云う。
 中村氏と云えば田中角栄の最後の弟子とも言われ新潟に縁(ゆか)もあるが。何と野党側に立ち、地元の有力者にも大いに働き掛け、保守層の切り崩しに力を発揮したと云うのだ。残念ながら候補は惜敗したが、手応えのある戦いに迄持ち込む事が出来たと云う。

 更にその約1年後、2019年8月、今度はその姿を埼玉知事選挙に現した。しかも立憲の枝野代表、国民民主の玉木代表等と並んで街宣車の上に立ったのである。シャツの袖を捲り上げ熱弁を振るうその姿は、70歳とは思え無い程精悍。与党対野党の事実上一騎打ちと為った選挙で野党候補の当選に力を尽くしたのだ。
 「懐かしい!未だ居たのか!」しかし、本書『無敗の男 中村喜四郎 全告白』で改めて、アノ事件後、中村氏がどうして居たのかを辿ると、ソコには驚きの人生があった。未だ居たのか、何て云ってしまったら大変に失礼!だったのだ!

 実は中村氏は、刑期を終えた後にも選挙に無所属で出馬し見事当選。その後も勝利を重ね、何と現在14期目の無敗の男だったのだ!しかも毎回圧勝だ。
 建設族のプリンスとは昔の話、既に完全無所属で、何等利権を誘導する事も中央とのパイプを誇る事も無い中村氏が、これ程までに選挙に強いのは何故なのか。この本では、今まで沈黙を守って来た中村氏が語る。そこに見えて来るのは過つてマスメディアが描いた人物像とは全く違う姿であった。

 日本中が敵に為っても 簡単には離れ無い強い後援会

 中村喜四郎氏の後援会は「喜友会」と云う。が、この組織は他の一般的な政治家の後援会とは全く違うのだ。普通は地域のボスや大物・地元企業の経営者等に協力を求め、そこからピラミッド型の組織を作り、イザ選挙と為れば票の取りまとめや選挙活動のアレコレを上意下達で動かして行く。
 だが喜友会はそうした地元の名士や企業には全く頼ら無い。組織の基盤は「町内会」毎に細分化した10人から50人と云った小さな単位でありそれが何百と在る。夫々が地域に溶け込んで居り、縦の繋がりも横の繋がりも無く、従ってピラミッド型に上から指示が降りて来たり動員が掛かったりすることも無い。「鉄の結束より竹の様なしなやかさ」を特徴とする組織作りだ。

 「ピラミッド型だと、一番上の人が死んだり辞めたりしたら一瞬で組織が崩れチヤウ。一番上の人の気が変わっただけで、大人数が相手陣営にヒックリ返っチヤウ」

 だから「俺は何百、何千票持ってるぞ」と云う人物よりも「うちは家族3人だけど一票入れるね」と云う細かい細かい、けれど強い支持を呉れる人々を束ねて行くと云う。だからコソ、例え刑事被告人と為り、日本中が敵に為っても簡単には離れない強い後援会なのだと。とは家、そんな組織は一体どう遣って作るのだろうか。

 これが、気の遠く為る様な作業なのである。土日は朝の7時半から夕方6時迄、街頭演説活動を行うのだが、2週間(土日2回計4日)で選挙区の全市町を回る。それも決まった時間と同じルートで回る。有権者に取って、何時も同じ時間に月に2回、中村喜四郎の「肉声」を聞く事に為る。テープは使わ無い肉声である。これを初当選から40年、一度も休まずに続けて居ると云うのだ。

 「マルで、天台宗の僧侶が真言を唱えながら千日間も山中を歩き続ける『千日回峰行』の様な過酷な活動である」
 
 そして国政報告会。月に1〜2回、50人から100人規模で国会見学ツアーを行う。タップリと政策に付いて演説したら、後はカラオケ大会等で盛り上げる。余興の司会も自分で遣る。合間に有権者の声を細かく細かく聞く。
 イヨイヨ選挙戦とも為れば、一日に何と20箇所も!自らオートバイに跨って各地を周り、声を枯らして演説し、夜は1000人単位で集まる個人個演説会で全員と握手するのだ!選挙戦では各候補が「街頭演説予定」を告知するが、20箇所ナンて見た事が無い。正に選挙の鬼である。しかし、選挙に強い事コソが、孤高を保つ源泉である。政治家は何を言おうが「落ちたら只の人」だからだ。

 「絶対に選挙に落ちない男」は これからどんな「鍵」を握るのか

 サテ、本書ではこうした中村氏の選挙戦のエピソードは勿論、彼を此処まで支えて来た母や兄との尋常為らざる絆の強さや、検察との戦いの裏側、そしてアノ「斡旋収賄事件」の陰にどんな政治的駆け引きがあったのか、或は地元茨城のドン・山口武平氏との長年に渉る暗闘、ナドナド、兎に角面白い話が満載である。

 だが、こうして熱い人生を駆け抜けて居る中村氏は、しかしながら選挙区外では沈黙し、目立って政局に絡む事も無かった。その中村氏が、動き始めたのである。前述した様な知事選への関与のみ為らず、過つての宿敵小沢一郎との和解、小泉純一郎との再会、そして参院選では野党共闘の候補者を応援して回る等、活発にその姿を見せ始めている。

 逮捕後は自民党との関係に配慮しつつ、その後は公明党とも良い関係を築いて来たが、2015年の安保法案では棄権、2017年の共謀罪の採決では反対票を投じた。
 そして今、無所属に為った旧民進党議員と会派を組みつつ、自分の息子が立候補して居る茨城県議選では、ライバル共産党の候補に必勝の為書きを送る。保守政治家で有りながら、党派に縛られ無いアクロバティックな行動をも厭わ無い。何処へ向かおうとして居るのだろう。ここへ来て変わろうとする中村喜四郎。実に興味深いのである。

 利権か政策論か。自由か公正か。そうした政治を巡る「2択」の谷間にコボレ落ちてしまう「義理と人情」を体現して居る様にも見える。そしてそれは、実はとても大切な要素であり、この国の政治の局面を動かす要素であると思う。
 一方で、では中村喜四郎と云う政治家は、結局何をしたいのか、その政治目標は今までは鮮明には見えて来なかった。そうまでして選挙に勝つのは何をする為なのか。長い沈黙が続いた。がその沈黙が破られたからには、明確なビジョンが現れて来るだろう。

 「絶対に選挙に落ちない男」はこれからどんな「鍵」を握るのか、握り得るのか。本書を読んで居るとその「ドラマ」に期待したく為るのだ。


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              HONZ 麻木久仁子氏    以上









【非関連報道】  「昭恵夫人」は責任回避の呼称か 気に為る男女の呼び分け

      〜47NEWS 江刺昭子 1/17(金) 10:42配信〜

 
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     「桜を見る会」で招待客と記念写真に納まる安倍首相と昭恵夫人 2019年4月

 間も無く通常国会が召集されるが、国会における議員の呼称が気に為る。議長や委員長が発言者を指名する時、男女を問わず「君」付けで呼んで居るからだ。1890年の第1回帝国議会以来だそうだが、女性の政治参加を一切認め無かった時代の慣習をそのママ踏襲して居て好いのだろうか。
 接尾語としての「君」は、同輩や目下の人に使用する事が多い。明治時代には書生言葉でもあったことから主に男性に対して使われる。しかし現代の一般社会では、男女の別無く「さん」付けで呼び合うのが普通である。

 国会で初めて男女共に「さん」を用いたのは、1993年に女性初の衆議院議長に為った土井たか子さんだった。目が覚める思いだった。「尊敬の念を持って呼んで居る」と土井さんは語って居る。2018年には、衆院予算委員会で女性初の委員長に為った野田聖子さんが「さん」付けで指名して注目された。だが、ドチラも後が続か無い。
 地方議会でも見直しの動きがあり、男性は「君」女性は「さん」と使い分けたり、男女共「議員」と呼ぶ所もあるが、ナカナカ広がら無い様だ。男女共同参画を進める上で、又議会と一般社会の垣根を低くする為にも、呼称から議会改革を進めて欲しい。

 メディアが用いる呼称も影響が大きい。議員の様な社会的地位のある人に付いては、新聞は「さん」では無く主に「氏」を用いて居る様だ。そうすると、土井たか子氏、野田聖子氏にする事に為る。
 ソモソモ「氏」と「さん」の区別は何が基準なのだろう。敬意を込める場合に「氏」を用いるのであれば、それ以外の人は敬意を払われて居ない事に為る。男性は「氏」女性は「さん」と、新聞は長い間性別で呼称を使い分けて来たが、現在は男女共「さん」が主流に為った。しかし、今も訃報欄等で使い分けして居る記事もあって抵抗を感じる。

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             シンポジウムで意見を述べる伊藤詩織さん

 最近の例では、ジャーナリストの伊藤詩織さんが性暴力を受けたとして元TBS記者山口敬之さんを告訴し、東京地裁で勝訴した事を伝える記事。伊藤「さん」山口「氏」と繰り返し書いてあり、悪い事をしたと認定された山口さんに敬意が払われて居る様で不快だった。
 少し前までメディアに頻出して居た「福原愛ちゃん」「石川遼君」にも違和感があった。大人に伍してアスリートとして堂々と活躍して居るのに、年齢が低いから「ちゃん」「君」呼ばわりは無いだろうと。近年は若くても、男女共ホボ「さん」に統一された様だ。

 もう一つ、気に為る呼称は「夫人」である。社長夫人、教授夫人、夫人同伴等と使われ、夫の付属物と云うニュアンスが強い。メディアでは流石に殆ど使われ無く為ったが、1990年代迄は「サッチャー夫人」「アウンサン・スーチー夫人」女子テニス選手の「ビリー・ジーン・キング夫人」等と云う表現が罷り通って居た。
 彼女達は誰かの妻としてでは無く、自身の活躍や業績によって報道対象に為って居るにも関わらずである。しかし調べてみると、偉人伝の定番「キュリー夫人伝」は今でも多くの出版社から発行されて居り「マリ・キュリー伝」として居るのは数点に過ぎ無い。

 戦前は、社会的地位の有る男性の妻が公的な団体のトップに為るケースが多かった。「〇〇男爵夫人」「〇〇知事夫人」等と呼ばれ、愛国婦人会等の官製団体のトップとして戦争協力をリードした。
 しかし、この種の夫人達は、本人の実力でその地位を得た訳では無い。だから戦後はそれを逆用し「為りたくて為った訳では無い」と戦争責任から逃げた。

 近年、メディアを賑わして居るのは「昭恵夫人」である。森友問題や「桜を見る会」等、歴代総理夫人の中で動向が突出して居る。公務員のスタッフを身の廻りに置き、総理夫人の肩書きで講演したり、様々な団体の役職を務めたりして来た。ナノに都合が悪く為ると、公人では無く私人だと云って夫の後ろに隠れてしまう。
 夫の付属物では無く、自立した社会人と云う自覚が有るのなら、立場に伴う責任を取って貰いたい。その第一歩として、何はともあれ「桜を見る会」の「昭恵夫人枠」招待客の名簿を公表するべきではないか。「夫人」と呼ばれる事で、戦前の「夫人」達と同様、逃げ切ってしまう事等、有っては為ら無い。


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             女性史研究者・江刺昭子氏  以上









 【管理人のひとこと】

 ウーン・・・男女の氏名の後に使う「尊称」とは、とてもデリケートの様で、それによって使う人の相手に対する見方・価値観まで透けて見えそうである。例えば、この文章においても写真説明には「ジャーナリストの伊藤詩織さん」「女性史研究者・江刺昭子氏」と何気に使ってしまっている。
 伊藤詩織さんに「氏」とは何と無く似合わ無く「女性史研究者・江刺昭子氏」と自然に使ってしまって居た。これはそのママ相手に対する感情まで含まれて居ると批判されそうだ。同じく管理人が何度と使う「安倍晋三氏」とは、一国の総理とも首相とも使い難い「蔑称・べっしょう」の意味で用いて居るのもお気付きだろう。

 私はサラリーマンの時、同僚や後輩には極力「さん」付けで使う様に心掛けて居た。それが好かったのか悪かったのかは知ら無いが、それ程親しく無い相手に「君」付けで呼ぶ事に何と無く抵抗があり、自然に「さん」と呼んで居た。
 最近は年功序列が崩れ呼び方にも苦慮するだろうが、私は30歳以前に「主任」として本社・大阪から東京へ転勤と為り同じ年齢の社員が数人居た。その中の一人が私を「〇〇氏」と最後まで呼んだ。彼とはその後・・・今も連絡を取り合うポン友の付き合いの腐れ縁があるのだが・・・同年齢の私に「主任」と呼びたく無く苦慮して使ったのだと思う。氏等と呼ばれても何と無く似合わ無かったが「〇〇氏さ、この後一杯やる?」と何度も誘われて居る間に「彼の癖」だと素直に「〇〇さん、好いよ!」と返事する毎日だった。
 「さん」は尊敬もあり親し気感もあり決して悪く無い万能な尊称だと思う。でも・・・色々な感情を含んだ尊称が存在して「これは尊称か蔑称か・・・」と迷わせるのも一つの興味には為る。一つの呼び方に杓子定規に定型するのは何と無く味気無い思いもするものだから。







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ゴーンが本当に凄かった時代 彼は日産も私の記者人生も変えた




 ゴーンが本当に凄かった時代 彼は日産も私の記者人生も変えた

          〜現代ビジネス 井上 久男 1/16(木) 7:01配信〜

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 〜レバノンに不法出国して逃亡した日産自動車前会長のカルロス・ゴーンは総じて「名経営者だった」と言われる事が多い。だが果たしてゴーンは本当に優れた経営者だったのか・・・その点を検証するには、ゴーンの来日から逮捕までを、日産の中期経営計画をベースに3つのフェーズに分けて見て行く必要がある。
 拙著『日産vs.ゴーン 支配と暗闘の20年』から一部抜粋、それに加筆しながら前編と後編の2回に分けて説明して行く〜



 日産の「体質」を変えた男

 ゴーンは1999年春に来日し、日産の経営トップと為り再建を指揮した。当時の日産は債務超過目前で、模索して居た独ダイムラー社との提携交渉も立ち消えと為り、倒産の2文字がチラツク状況だった。そこへ乗り込んで来たのが、日産が電撃的に提携を決めた仏ルノー副社長のゴーンだった。

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 ゴーン改革の代名詞とも為ったのが、最初の中期経営計画「リバイバルプラン」00〜01年度だ。この計画を推進するに当たって、ゴーン氏がまず取り組んだのがクロスファンクショナルチーム・CFTの設置だった。訳すと機能横断チーム
 日産が経営危機に陥った要因の一つが縦割り組織の弊害であり、開発、生産、購買、販売等の各部門が、経営不振の理由を押し付け合って居た。こうした体質なので、意思決定が遅れた上、全体最適も図れ無い傾向にあった。ゴーンはソコに大ナタを振るって体質を改めさせた。

 「研究開発」「販売・マーケティング」「車種削減」等課題毎に9つのCFTを設置。「パイロット」と呼ばれるチームリーダーは、殆ど40代の課長クラスに任せた。一つのチームには関係する複数の部門から人材を集めて構成することにより、部門最適では無く、全体最適を目指した。「リバイバルプラン」の原案はこのCFTが作った。

 実はトヨタにも似た様な発想があった。トヨタでは新設組織の名称に「BR・ビジネス・リフォーム」と付けるケースがある。1990年代初めの急激な円高とバブル経済崩壊によって収益力が悪化した際、経営企画部内に「BR収益管理室」を置いたのが最初と言われる。
 開発や営業、経理など会社の複数の部門から人を集め、車の設計や販売の方法などアラユル仕事の進め方を見直した。小手先だけの改革で目先の利益を追うのでは無く、企業体質そのものを変える様な改革を目指したのである。以降、トヨタにおけるBR組織は会社の課題に素早く対処する緊急プロジェクトチームの様な位置づけと為った。

 「コミットメント」概念を輸入した

 「リバイバルプラン」の発表記者会見に、当時、朝日新聞経済部の日産担当記者として筆者は臨んだ。印象に残っているのは、ゴーンがプレゼンテーションをする為に映し出された画面に「診断」と云う文字が刻まれ、1988年から1998年迄の過去11年間の業績を徹底分析して居ることだった。
 ゴーンは「利益追求の不徹底、顧客志向性の不足、危機意識の欠如等が業績不振の原因であり、これを修正すれば再生の可能性が大である」と説明した。

 このリバイバルプラン策定に当たり、日米欧で200人が直接関与し、2000件のアイデアの提案を受け、その内400件を承認した事も記者会見で明かした。策定のプロセスを明確にする事で、再建計画に説得性を持たせると共に、自分達で作ったプランだから実行責任がある事を訴えたかったのであろう。
 この時、ゴーンは数字を根拠にする経営者だと筆者は感じた。グループ従業員の14%に当たる2万1000人の削減、コストの6割を占める部品調達では購入先を1415社から600社に絞り込む、そして航空宇宙部門等本業以外の事業の売却等により、総額1兆円のコスト削減を目指す・・・具体的な数字を掲げながら細かく、且つ分かり易く説明した。

 そしてゴーンは「3つのコミットメント」と云う言葉を掲げた。今でこそコミットメントと云う言葉はダイエットのCMにも使われ「結果に責任を持つこと」と多くの人が理解出来るだろうが、当時はメディアもどう訳すか迷い「必達目標」と表現した。このコミットメントと云う考え方もゴーンが日本企業に持ち込んで来たものだ。

 その3つの必達目標とは、2001年3月期迄の黒字化、2003年3月期迄に営業利益率4・5%の達成と、有利子負債の50%削減である。ゴーンは「黒字化出来無かったら責任を取って退任する」と宣言した。
 当時の日本企業は全般的に株式の持ち合いにより、株主からの「規律」が働き難かった為、経営は「ヌルま湯」に為り勝ちだった。経営責任は大きな不祥事でも起き無い限り、棚上げにされる風土があった。ゴーンはそうした風土にもメスを入れる事にしたのだ。

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 僅か2年で「過去最高益」
 
 そして驚くべき日が遣って来た。「リバイバルプラン」発表から1年後の2000年10月30日、ゴーンが記者会見し、2001年3月期決算の通期業績見通しで当期利益が過去最高の2500億円に為ると発表したのだ。筆者も記者会見に臨んで居たが、この数字が開示される為り、記者会見場から飛び出して「1面のスペースを空けて置いて下さい!」とデスクに第一報の電話を入れた。
 過去最高益の要因は、北米での販売増やコスト削減による効果だった。「リバイバルプラン」の効果が即効薬として現れて居た。前年に巨額の引当金を積めば翌年はV字回復し易い財務テクニックがある事も後に分かったが、倒産寸前だった会社が僅か2年後に最高益をヒネリ出すとは、驚き以外の何物でも無かった。

 V字回復を受け、筆者は2001年5月、ゴーンの一日を追う取材ルポをした。ゴーンは朝7時40分には会社に出勤し、当時、東銀座にあった日産本社15階の執務室に向かい、自分で自分の部屋のカギを開けて居た。8時頃までは今日遣る仕事の優先順位を考える。
 即決即断のケースが多い為、机の上にあった決裁書類を入れる3つの箱は全て空だった。報告文書を持って行くと、書類を破りながら「君だけが頼りで信用して居る、だから書類は不要だ」と言う事もあった。

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 当時の関係者は「厳しいリストラ等を繰り返して来たので、悪口を言われるのは慣れて居るが、親しみ易さが足り無いと言われる事をゴーンは気にして居る」と語った。夜も遅いと11時位まで働いて居た。目的が明確では無い会食は全て断るとの事だった。ゴルフも嫌いだった。
 ホボ一日をその為だけに使う事が、彼流の考えでは無駄なのだそうだ。ワーカホリックの様に早朝から夜遅く迄働くので「セブン-イレブン」と仇名が付いた程だ。

 この取材の時、ゴーンに今どんな思いで働いて居るかと聞いたら「社員や株主が誇りに思える会社にしたいし、日産で働く事が社会や家族に貢献して居ることが分かる様にしたい。遣ることはマダマダある」との返事が返って来た。

 経営者としての絶頂

 リストラだけでは無く、ゴーンは攻めの姿勢にも転じ、2001年には約1000億円を投じて米国での新工場建設や軽自動車への参入等を決めた。リバイバルプランは当初2002年度迄の3年間だったが、1年前倒しで目標をクリアした。3つのコミットメントも全て達成した。
 当時のゴーンは、単に数字を管理したり、リストラをしたりするだけでは無く、自動車メーカーの生命線である商品開発にも積極的に口を挟んだ。クルマづくりにも情熱を持って居た。

 2000年1月に「プログラムダイレクター」と云う役職を設置したのはその象徴的な動きだ。一人の「プログラムダイレクター」が、担当する車種群でデザイン、技術、製造、購買、販売など6部門に指示する権限を持ち、収益に対して責任を負う。
 各部門の専門性を束ねて結果を追求する為の役職であり、これは単にクロスファンクショナルな活動をするだけでは無く、収益確保も同時並行で追求すると云う狙いがあった。

 続いてゴーンはリバイバルプランに続く中期経営改革「日産180」02~04年度を策定した。この中期経営計画では、グローバル販売台数の100万台増、営業利益率8%の達成、有利子負債ゼロ(自動車金融事業を除く)をコミットメントとして掲げ、全て達成させた。

 2004年3月期には営業利益率11・1%を記録。ゴーンが君臨した19年間で最高値だった。 
 世間の見方も、リストラへの反発はあったが、丁度2001年に首相に就任した小泉純一郎が掲げたスローガン「構造改革なくして景気回復なし」と相まって、ゴーンが遣った「痛みを伴う改革」が肯定的に捉えられた一面もある。この2つの中期計画の間、即ち2000〜2004年度がゴーンの経営者としての絶頂期だったかも知れない。数値目標を設定して、厳しいリストラを繰り返すだけでは無く日産の組織風土も変えた。

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 「働き方改革」を先取りした

 一例として、人材発掘のシステムも大きく変えた事が挙げられる。ゴーンは来日直後の1999年9月「ノミネーション・アドバイザリー・カウンシル・NAC=人材開発委員会」を設けた。メンバーはゴーンや副社長、人事担当役員。海外の子会社も含めて部長以上の管理職の人事や評価を一元化し、有能な人材を国籍を問わず起用する狙いだった。こうした制度は今でコソ珍しく無いが、20年以上前の日本企業では斬新な仕組みだった。

 「働き方改革」を先取りして居た一面もある。ホワイトカラーの生産性向上の取り組みを2001年から本格化させ「V-up推進活動」と名付けた。Vはバリュー(付加価値)の頭文字を取った。
 製造現場には「日産生産方式」と云う方法論が浸透して居り、仕事が標準化され易い様に為っている。処が、ホワイトカラーの職場では確立された方法論が無かった。それを改める為の活動であり、社内会議の運営の在り方迄見直させた。無駄な会議を排除し、議事録の作成も簡潔にさせた。ゴーンは、議事録を作成して居る時間は付加価値を「生産」して居るとは見做さなかった。

 こうした様々な改革を国内外のメディアが評価した。筆者も肯定的に報じた。同時に、ゴーン改革の取材を通じて新聞記者としての在り方を自問自答した事も多かった。「記者はもっと勉強しないと、グローバル経営の事が理解出来なく為る。夜討ち朝駆け取材だけでは通用しない時代が来て居る。記者教育の事を真剣に考える時代が来て居る」この事を朝日新聞社の社内会議で言ったら、後に役員に為る経済部長に一笑に付された。

 実はこの頃から、筆者は社内の人との付き合いは程々にして、空いて居る時間は勉強に充てた。社会人大学院に通ったのもこうした理由からだ。或る意味、自分のキャリア形成に関して気付きを与えて呉れたのがゴーンかも知れないし「ゴーン改革」を取材して居なければ触発されず、恐らくサラリーマン記者を辞める事は無かったかも知れないと今感じている。
 筆者は現在、ゴーン批判の急先鋒の様に見られて居るが、彼の活動や実績を全て否定して居る訳では無いことは改めて強調して置きたい。冒頭にも述べたように、君臨した19年間を分けて冷静に見て行く必要がある。

 絶頂期を迎えた直後の2005年から、ゴーン流経営に変化が見られ始めた。今から思えばそれが第一フェーズの終わり・・・凋落の始まりだった。後編ではその事を説明して行く。


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              井上 久男氏  (つづく) 


 【管理人のひとこと】

 管理人がゴーン氏の記事を何度も取り上げるのは、何も彼を擁護しようと云う気では無い。この問題は、単純に企業の中の不手際を、公の官憲の力を借りて利用しようと考えた一部の人達が原因で起こった事件なのだ。その利用された官憲が更なる不手際を起こしてしまい、今や国際問題に発展してしまった・・・単にそれだけだ。
 しかし、その根は実はモッと深く歴史的な我が国の検察・裁判制度にも起因するものとしてクローズアップされてしまった。日本の多くのメディアは、日本の法を犯した極悪人と決めつけて「余りにもアクドイ」等と批判・中傷しているが、それは余りに一方的弾劾であり、裁判で裁定されるまでは飽く迄「被告人」として人間として扱わねば為らない筈である・・・それを強調したいと思う迄だ。
 日本では起訴されたら99%実刑の裁定が為されるので、起訴=犯罪者のレッテルを貼られてしまうが、刑が確定するまでは「推定無罪」が原則なのが通常の国の判断だ。恐らく裁判に為っても「有罪」は困難な検察だが、彼が国外逃亡を図った事で、別の犯罪を引き起こしてしまった。ゴーン氏は、或る意味早まったのでは無かろうか・・・彼が幾ら日本の検察・裁判を批判しても「法を犯して国外逃亡」した罪は消えない。それだけは確かなことだ。

























何故、昭和のトップスター・岡田嘉子は 恋人と「ソ連への亡命」を決断したのか




 




 何故、昭和のトップスター・岡田嘉子は 

 恋人と「ソ連への亡命」を決断したのか


              〜文春オンライン 1/16(木) 17:00配信〜

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                 岡田嘉子氏 コピーライトマーク文藝春秋

 スター女優と若手舞台演出家の亡命

 今の日本では「越境」「亡命」と云っても全くピンと来ないだろう。島国の日本に陸地の国境は無い。しかし、75年以上前には、傀儡国家「満州国」と他国との境以外にも国境が存在した。
 日露戦争の結果、北緯50度線以南の半分が日本領と為った「樺太」現サハリンで、北半分を占めるソ連領との境。そこを雪の正月に越えて行った男女が居た。それも、女は当時のトップスター・岡田嘉子。と云っても、今の若い人達にはピンと来ないだろうが、映画や舞台で活躍し、一時は人気ナンバーワンに為った女優。男は若手舞台演出家・杉本良吉だった。共産主義国家ソ連への2人の亡命は当時大きな話題と反響を呼んだ。

 しかし、ソ連ではスターリンによるとされる粛清の嵐が吹き荒れて居り、越境・亡命劇の結末は、本人達が夢見たものとは全く違って居た。詳細は今も現代史の謎の1つとして残されて居る。前代未聞のスター女優の越境、亡命とは一体どんなものだったのか。資料や当時の新聞記事を基に見てみよう。

 「岡田嘉子謎の行方 杉本良吉氏と同行 樺太で消える 奇怪・遭難か情死か」(東京朝日)
 「風吹の樺太国境に 岡田嘉子さん失踪 新協の演出家杉本良吉君と 愛の雪見か心中行?」(読売)


 ・・・1938年1月5日付朝刊各紙は一斉にこう報じた。前年の1937年12月、日中全面戦争で日本軍が中国国民党政府の首都南京を陥落させ、お祭り騒ぎで正月を迎えた。そんな中でのニュースに多くの国民は驚いただろう。

 当時でも破天荒過ぎた「亡命」

 メディアも2人の行動の真意を測り兼ねた様だ。当時の地元紙「樺太日日新聞」は5日付朝刊で「熱愛の旅を樺太へ 岡田嘉子恋の逃避行 新春に投ず桃色トビツク(トピック)」「朔北の異風景に マア素敵だわ」と、ピント外れの報じ方。有名人の越境・亡命が当時でもいかに破天荒な出来事だったかが分かる。

 1月6日付(実際は5日)夕刊の続報では「謎の杉本と嘉子・果然入露 拳銃で橇屋を脅迫 雪を蹴って越境 夕闇の彼方に姿消ゆ」(東京朝日)「赤露と通謀か 亜港領事館に逮捕厳命」(読売)等と、越境の模様を詳しく報道。東京朝日の同じ紙面の下部には「戦捷の新春に咲く!」と云う映画雑誌の広告や、各レコード会社が発売した新曲の広告が。
 「露営の歌」「上海だより」「塹壕夜曲」「兵隊さん節」・・・各紙共、2人が自分達の意思で越境した可能性を打ち出したが、朝日は6日付朝刊で「謎解けぬ雪の国境 思想上の悩みか 邪恋の清算か」と未だ迷って居る。

 その後の動きを新聞報道で見ると、日本の外務省が「北樺太」の首都アレキサンドロフスク駐在の総領事を通じてソ連側に2人の捜索と引き渡し交渉する事に。(8日付夕刊)総領事からの報告で、2人が国境のソ連監視所に勾留され、生存して居ることが判明。(9日付朝刊)2人はアレキサンドロフスクへ護送され、ソ連当局の取り調べを受けて居ることが分かった。(15日付朝刊)誰もが驚く越境劇に周囲の動揺は大きかった。

 プッツリ途絶えた2人の消息
 
 小山内薫等の築地小劇場の流れを汲む劇団で、杉本が所属して居た新協劇団は、それ迄もメンバーの多くが検挙される等弾圧を受けて居り「劇団の規約を乱し、劇団の方針に関しての社会的疑惑を引き起こした事に付いては断固として糾弾せざるを得無い。行動は劇団とは無関係」として除名処分を決定。嘉子が所属した井上正夫一座は除名せず「出来るものなら温かく迎えたい」との態度で好対照を見せた。

 岡田嘉子の前夫・竹内良一の実妹で嘉子の親友でもあった竹内京子は、事前に相談を受けて居たが、警視庁の調べに「只、雪を見たいからとだけ言って居ました」と答えた。
 「婦人公論」は1938年3月号で良吉の妻智恵子の手記「杉本良吉と私」を、4月号では嘉子が10代で生んだ博の手記「子を捨てた母へ」を掲載し話題を集めた。

 越境・亡命から8カ月余り経った8月30日付東京日日には「フェイクニュース」が。同年7〜8月に起きた日ソ間の国境紛争「張鼓峰事件」の停戦協定締結後の情報として、岡田嘉子がソ連領で共産学校の日本語教師をして居るが、顔色も蒼褪め頬の肉も落ちて、過って舞台やスクリーンでファンを騒がせた晴れやかな面影はオクビにも見え無いと云われる。一方、杉本はハバロフスクで健在・・・この辺りで2人の消息はプッツリ途絶える。









 人気投票でナンバーワンのトップスターに

 キネマ旬報増刊「日本映画俳優全集  女優編」によれば、岡田嘉子は広島市生まれ。地方紙記者だった父の勤務の都合で各地で暮らしたが、元々女優志望で、舞台を経て日活の映画女優に。オランダ人の血を引くとされるエキゾチックな美貌と妖艶な雰囲気を生かし、村田実監督の「街の手品師」等に出演して人気を集め、1925年の映画女優人気投票でナンバーワンに為るなど、トップスターと為った。

 1927年「椿姫」に出演したが、村田監督の指導に納得がいか無い等の悩みから、相手役の外松男爵家の御曹司・竹内良一と撮影をスッポかして逃避行。日活を解雇された。しかし、華族の資格を剥奪された竹内と結婚。一座を作って舞台公演を続けた後、松竹蒲田に入社した。
 小津安二郎監督の「また逢ふ日まで」「東京の宿」等で好演を見せたが、井上正夫一座で舞台女優に戻る。商業主義に走り勝ちな映画よりも舞台に自分の場所を見い出して居た様だ。

 「私達の恋には明日が無いのです」越境を決意
 
 そこで知り合ったのが演出助手の杉本良吉だった。本名・吉田好正。ロシア語に堪能で、早稲田大を中退して左翼の劇団運動に参加し、日本共産党に入党したが、1933年に治安維持法違反で逮捕され執行猶予中だった。
 2人は演技指導を通じて親しく為り愛し合う様に。しかし、嘉子には別居中だが竹内と云う夫があり、杉本にも、過つての美人ダンサーで当時は結核で闘病中の妻が居た。嘉子が1973年に出版した自伝「悔いなき命を」には、2人が越境を決意した時の事がこう書かれて居る。

 「私達二人は、もうどうする事も出来ない処まで進んで居ました。私達の恋が世間から、周囲の人達から祝福され無い事は好く分かって居ます。私達の恋には明日が無いのです。二人ともそれは好く分かって居るのです。それだけに又激しく燃え上がる愛情なのです」  
 1937年には日中全面戦争が勃発。軍事色が濃く為る中で、非合法共産党の活動や、それに繋がるプロレタリア文化活動への弾圧が厳しく為って居た。
 「彼(杉本)が一番恐れたのは赤紙でした。召集されれば、思想犯の彼が最悪の場所へ送られるのは明らかです」「私達二人は刻々と周囲を取り巻いて来る暗黒を見詰めて、ともすれば黙り勝ちに為るのでした」
 と同書は書いて居る。そんな中で嘉子は或る言葉を漏らす。「ネエ、イッソ、ソビエトへ逃げちゃいましょうか」その時「彼はハッとした様に私を見詰めました」

 共産主義者に取って理想の地だったモスクワ

 実は杉本は以前、国外脱出を計画した事があった。平澤是曠「越境―岡田嘉子・杉本良吉のダスビターニャ(さようなら)」によれば、1932年、党員仲間と北海道・小樽から小型発動機船でソ連に密航する事を考えたが、仲介者が信用出来ず、船に不安があった事から断念した。

 この頃の共産党員や支援者に取って、国際共産主義の本拠「コミンテルン」の在るソビエト・モスクワは理想の地であり、スタニスラフスキーの弟子メイエルホリドが指導する最先端の演劇運動は、左翼演劇人の憧れだった。現に華族出身で「赤い伯爵」と呼ばれた杉本が師事した演出家・土方与志と、同じく佐野碩がモスクワに居ると杉本は思って居た。実際は2人とも追放されて居た。

 「海を越えて行く事は、彼が既に失敗して居ます。陸続きと云えば、満州か樺太しかありません。執行猶予の身である彼が満州へ出る事は出来ない。とすれば道は一つ、樺太の国境を越えるだけです」(「悔いなき命を」)
 嘉子にも、メイエルホリドの演技指導を受けて「もっと好い女優に」と云う願望があったと云う。「このまま日本にいても・・・」閉塞状況にあった2人が決断するのにそれ程の時間は掛から無かった様だ。

 「生涯に一度は樺太に行ってみたいと何時も憧れて居ました」

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 そこから越境に至る迄は、自伝「悔いなき命を」と、当時「時局情報特派員」の加田顕治が現地で取材し、「事件」から3週間後に出版した小冊子「岡田嘉子・越境事件の真相」では可成りの違いがある。

 「悔いなき命を」によれば、2人は1937年12月26日、舞台の千秋楽を終え、翌27日、上野駅発の夜行列車で青森へ。 「青森から連絡船で函館へ着き、旭川迄。その夜は旭川泊まり。どうにも隠し様の無い私の顔です。アイヌの芝居を遣るのでその生活を研究に来た、と宿の人に言った手前、次の日は早く起きてアイヌの家を訪れました。午後出発、翌日朝、海を越えて南樺太へ。その夜は豊原駅前の旅館で一泊。翌日又汽車に乗って、夕刻敷香へ到着。山形屋旅館へ落ち着きました」(「悔いなき命を」)

 「岡田嘉子・越境事件の真相」では「二人を乗せた列車が国境の町敷香駅に到着したのが三十一日夜九時」として居る。宿の主人に目的を聞かれた嘉子は「私の父はズッと昔、樺太民友新聞に勤務し、文章生活をして居た事がありますし、生涯に一度は樺太に行ってみたいと何時も憧れて居ました」と答えた。

 2人が越境越えを果たした瞬間
 
 以下は「悔いなき命を」に従う。

 「それと無く国境の事を聞くと、冬は雪で道が閉ざされ、警備隊詰所に数人の隊員が雪に埋もれて寂しく暮らして居るだけとの事です。それは気の毒だから、その人達を慰問に行こうじゃないかと言い出しますと、宿の人も喜んで・・・」

 翌日、警察署長宅に行くと、元日の祝宴中で大歓待を受け、署長がソリを出して呉れる事に為った。「生まれて初めて乗るホロも無い馬ゾリ。四辺は縹緲とした雪野原」「国境警備隊半田詰所へ着いたのは午後二時を回って居たでしょうか。慰問の言葉もソコソコに、私は国境見物を願い出ました」信用した隊員は自分達はスキーで、銃や連絡用電話機を嘉子達が乗った馬ゾリに載せた。

 「暗く為っては国境が見え無いから早く早くと馭者をせき立てます」「『ここだ』と言われて、馬ゾリが止まるや否や、二人は手を取り合って駈け出しました」「雪との闘いで邪魔に為った手提げカバンを投げ捨て、暑く為ったので、首に巻いていたセーターを投げ捨てた時、杉本が『国境を越えたぞ!』と叫び、首から吊るして居た呼び笛を吹きました。それと同時に、二人の若い兵士が行途に立ち塞がりました」と嘉子は書いて居る。

 「岡田嘉子・境事件の真相」は「国境警備隊半田詰所」を「半田警部補派出所」として居り、この方が正しい様だ。

 「嘉子が彼に突き付けた踏み絵だったのだ」

 「越境」は杉本の越境の動機をこう分析して居る。モスクワでの演劇修行への強い関心と併せて「愛しい病妻と、嘉子と云う熱い愛人との狭間で葛藤があった。2人に接する杉本の愛に偽りは無かったが、このママ2人に平等に分かち合うのは偽善者であり、必ず破綻の時が来る」
 升本喜年「女優 岡田嘉子」は嘉子の動機をこう書く。「杉本の心を心だけでは絶対自分のものに出来無いとすれば、杉本のその体を物理的に智恵子の手の届かない処へ引き離す他に道は無い。樺太国境を杉本に迫ったのは、嘉子が彼に突き付けた踏み絵だったのだ」

 ドチラもその通りかも知れない。他にも様々な推測があるが、どれも裏付ける根拠は無い。そして、それから戦争を挟んで長い年月が経った。

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 理想の地は「地獄」だった 

 ・・・大粛清時代・ソ連へ渡ってしまった男女の悲劇的な真相 この時代の越境は「地獄の中に飛び込んだものであった」岡田嘉子の越境 #2

 戦後初めて伝えられた嘉子の消息

 戦後、嘉子がモスクワの放送局でアナウンサー兼プロデューサーの様な仕事をして居ることが伝わって居たが、消息が正確に報じられたのは1952年。日本人として戦後初めてモスクワを訪問した高良とみ参院議員が面会。
 同年7月2日付朝日新聞朝刊には、高良議員等と一緒に写った写真と共に「結婚した岡田嘉子」の見出しで記事が掲載されて居る。

 その後、ソ連を訪問する過つての知人等と面会して居たが、ソ連での結婚相手で矢張り戦前、映画スターとして活躍した滝口新太郎が死去。その納骨の為に34年振りに帰国したのは1972年11月だった。
 それから何回か両国を往復。その間、山田洋次監督の松竹映画「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」や舞台にも出演した。

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            この画面に映る女優は、故・太地喜和子さんです・・・注

 「その知らせは余りにも最悪でした」「悔いなき命を」によれば、ソ連の国境警備隊詰所での事を「三日程経った後、私だけが何処か他所へ連れて行かれる事に為った時は、流石の私も杉本に縋り付いて泣きました」と書いて居る。杉本は「直ぐに又逢えるからね」と言ったが「それっ切り私達は二度と再び相逢う事が無かったのです」(同書)

 独房の様な所に「三カ所位はアチラコチラへ移されましたが、それが何処だったかは、ロシア語が分か等無いのだから知り様がありません」そしてこう書いている。 「こんな生活が二年近くも経った頃、突然呼び出されました。その知らせは余りにも最悪でした。風邪の後肺炎に為って死んだと云うのです。死に目にも遭え無かった!」そして中央アジアの町で数年暮らし、1947年にモスクワに出たとして居る。日本とソ連を行き来する間に何度もインタビューを受け、越境後の事を聞かれたが、詳しく話す事は無かった。

 杉本はスパイ容疑で処刑されて居た

 1989年4月15日、モスクワ発時事通信電のショッキングなニュースが新聞夕刊に載った。「杉本良吉氏 実は銃殺 スパイ容疑、粛清の犠牲」(北海道新聞見出し)リャボフと云うモスクワの現職検事補が、国家保安委員会・KGBの文書に「杉本が銃殺された」と云う記述が有るのを発見した事が現地の週刊誌に掲載されたと云う内容だった。

 記事によれば、2人は越境後、国境侵犯の容疑で内務人民委員部・NKVD=KGBの前身の取り調べを受け、杉本は拷問の結果、日本の陸軍参謀本部から破壊活動の為派遣されたスパイと虚偽の自白を強制された。杉本は裁判手続き無しに処刑され、その自白からメイエルホリドにも嫌疑が掛かり、彼も処刑されたと云う。
 「女優 岡田嘉子」によれば、リャボフは嘉子の家を訪れてその事実を伝えた。「その説明を聞いた嘉子は強烈な印象を受けた筈だが、それを表面には出さず、意外な程冷静に聞き、リャボフの質問に対してロシア語でいちいち答えた。そして最後に言った。『杉本は病死したとばかり思って居た。アノ時、死亡証明書も貰っている。死因は肺炎とあった。死亡の日付も違う』」時事の記事に添えられた嘉子の談話も「モッと早く真実を教えて欲しかった」と為っていた。

 「杉本は私を助ける為に罪を被った」
 
 1992年2月、嘉子はモスクワで老衰の為89年の波乱の生涯を閉じた。しかし、物語はそれで終わら無かった。4カ月後の6月、再び時事通信が、越境から2年後の1940年1月に嘉子が検察局と内務人民委員部宛てに嘆願書を出していたと云うニュースを配信した。
 それによれば、越境直後「5日間、夜も昼も眠りを与えられ無い取り調べ」を受けて「精神状態に異常」を来たし「スパイと言えばソビエト人とするが、言わ無ければ日本に帰す」と脅されて自白書を書いた。その為、杉本に対する拷問は過酷を極め「隣室で苦しさの余り発する杉本の悲鳴が私の胸を刺した。取り返しの付か無い後悔の念に死を願ったが、監視が厳しく許され無かった」と綴っていた。「杉本は私を助ける為に罪を被った」とも。

 嘉子はハバロフスクからモスクワに送られ、1939年10月、軍事法廷でスパイ罪で10年の刑を受けた。杉本の処刑はその1週間前だったと云う。嘆願書はモスクワから約800キロ離れた強制収容所・ラーゲリで書かれ「スパイの汚名は死ぬ程辛い」と再審理を直訴して居たが、願いは適わなかった。
 記事は「岡田さんの自白が元で、杉本氏も自らをスパイと認め銃殺に繋がった事が判明した。軍国主義の日本を脱出し、憧れの地ソ連に越境した二人は、当時吹き荒れたスターリン粛清の直接の犠牲者と為った」として居る。

 自らの自白が原因だったと云う事実は嘉子に重く圧し掛かり、生涯その事を自分の口から明らかにすることが出来なかったと思われる。自伝「悔いなき命を」に書いた「中央アジアの町に住んだ」と云う話は他の所でも述べて居たが、或はKGBから言い含められた「物語」だったのか、真っ赤なウソだった。

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 2人が犠牲と為った「スターリンの大粛清」とは

 1930年代を中心にソ連で起きた大粛清は、規模や原因等、全容は今も解明されて居ない。横手慎二「スターリン」も「大粛清の全てを単一の原因で説明する事が不可能な事は明らかである」として居る。農業集団化等の経済政策や赤軍の運営等の軍事を巡って、最高権力者スターリンを取り巻く上層部で権力争いが起きた事は間違い無いが、それだけでは無かった。

 「現在では、1930年代後半の大弾圧は、こうした政治や軍事の指導層だけでは無く、より広い階層の人々に迄及んだ事が確認されて居るのである」(同書)経済部門の管理者や女性「満州」に関連した人々・・・アリトアラユル人が理由もハッキリし無いまま罪を問われ、死刑を含む粛清の対象に為った。「スターリン」によれば、1936年から38年迄の間に政治的な理由で逮捕された者は134万人に達し、そのうちの68万人余りが処刑されたと云う。これよりはるかに多い人数を挙げる人も居る。

 こうした大粛清はスターリンの意図とは別に為されたものでは無かったかと云う議論もあるが「大粛清の責任はスターリンには無かったとする結論迄引き出すのはバランスを失して居る様に思われる」と同書は指摘している。







 「事件が可笑しい」2人の越境に関心を示して居たゾルゲ

 興味深いのは、嘉子と杉本の越境、亡命にあのゾルゲが関心を抱いて居たことだ。ゾルゲはコミンテルンのスパイでドイツの新聞記者として日本で活動。1941年10月に逮捕され、1944年11月に死刑に処された。
 グループの1人で画家の宮城与徳(後死刑)の警察訊問調書には、彼がゾルゲに報告した情報が詳細に記録されて居る。その中に「昭和十三年一月 杉本良吉、岡田嘉子の北樺太越境 両人の経緯及人物評」「ゾルゲの依頼により私の人物評に私見を報告」と云う記載がある。宮城は1942年3月の検事の取り調べにも2人の件に付いてこう答えて居る。

 「此の問題はゾルゲから『事件が可笑しいからスパイとして行たのではないか』と調査を依頼され調べて見ましたが、両人とも良い人で芝居を現実に行た丈の事である事が判りました」(検事訊問調書 以上「現代史資料」)ゾルゲからの報告は嘉子と杉本の運命に影響を及ぼさ無かったのだろうか。

 歴史から消えた「コミンテルンとの連絡」
 
 今も残る謎の1つは、越境・亡命にどれだけ裏付けが有ったかだろう。杉本の亡命は、同時に日本共産党に入党した宮本顕治・元委員長の指示だったとする見方がある。宮本元委員長自身、著書「回想の人びと」でこう書いている。

 「杉本(良吉)は演劇運動の有能な演出家でありました」「こう云う人達を残して置きたい。それにはソ連に遣って置こうと考えた訳であります」「1933年に為りますと、弾圧は一層厳しく為って、コミンテルンとの連絡も容易で無いと云うことで、併せてコミンテルンとの連絡と云うことを考えた訳であります」「マンダートと云って信任状、これは日本共産党員であると証明する文書、これを彼等に渡しました」

 正史である「日本共産党の五十年」にもこう書かれている。「コミンテルンとの連絡の為に1938年1月、樺太の国境を超えてソ連に入った杉本良吉も、逮捕されてその任を果たせ無いままソ連で死亡した」

 その後の「日本共産党の六十年」「日本共産党の六十五年」も同様の記述だったが、「日本共産党の七十年」では「コミンテルンとの連絡」が消え「日本共産党の八十年」に為ると「杉本良吉、岡田嘉子……」と、他の亡命者と十把一絡(じゅつぱひとからげ)げの書き方に為って居る。この間に杉本の銃殺と嘉子の嘆願書と云う新事実が明るみに出て居り、そうした影響を考慮したのだろうか。

 この時代の越境は「地獄の中に飛び込んだものであった」

 加藤哲郎「モスクワで粛清された日本人」によれば、旧制東京府立一中(現日比谷高校)で杉本の2年先輩だった新劇界の大物・千田是也は著者のインタビューにこう答えている。

 「気の毒なのは杉本良吉・岡田嘉子の1938年1月のソ連行きだった。自分達新築地劇団(築地小劇場の流れを汲む別の劇団)のグループは、土方与志・佐野碩が追放に為ったのを1937年9月頃に知って居た」「新協劇団の杉本はそれを知らずに、ソ連は天国だ、行けば土方・佐野と会えるだろう、メイエルホリドの元で学べるだろうと信じてソ連に入ってしまった」

 同書はその時代の状況に付いては次の様に述べて居る。

 「当時のソ連は、日本人であれば誰でも『偽装スパイ』を疑われるスターリン粛清の最中であった。既に1936年11月に伊藤政之助、1937年中に須藤政尾、前島武夫、ヤマサキ・キヨシ、国崎定洞、山本懸蔵等が逮捕されて居た」
 「杉本良吉・岡田嘉子の越境は、その地獄の中に飛び込んだものであった」
 「二人の国境を越える夢は実現されたが、それは、敷居の極度に高い、別の国境に囲い込まれたものに過ぎなかった。夢にまで見た『社会主義の祖国』への入国は、逮捕・拷問と銃殺・強制収容所によって迎えられた」

 
 この事件に未だ謎は残って居る。只、本人達の情報収集や考え方に問題があったとは言えても、理想と思って居た国が実は地獄の地として、信じて来た人間を裏切り死にも追い遣る無残さは、死ぬ迄真実を明らかに出来なかった無念と重為って、80年余り経った今も私達の胸を打つ。







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社会主義復活のヤバい風潮が・・・!リーマンショック後の長期停滞の悲劇




 社会主義復活のヤバい風潮が・・・リーマンショック後の長期停滞の悲劇


         〜現代ビジネス 安達 誠司 1/16(木) 9:01配信〜

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 「長期停滞」から抜け出す為に

 リーマンショック後の世界経済は「長期停滞」と呼ばれて居る。この「長期停滞」という言葉は、2013年11月のIMFの会議の席上、米国の著名経済学者であるハーバード大学のローレンス・サマーズ氏が用い、それが徐々に普及・定着したものであるが、元々は、大恐慌直後の1938年の米国経済学会で当時の学会長であった同じくハーバード大のアルビン・ハンセン氏が提唱したのが最初であった。

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 1938年と云う年は、一旦は大恐慌による「デフレの罠」から脱出し掛けた米国経済が再びデフレに見舞われた「1937年大不況」の翌年に当たる。この再デフレに付いては様々な理由が指摘されて居るが、結局の処、デフレを克服出来なかったという「絶望感」が国民の間に広がった。その後、米国政策当局は、第二次世界大戦に参戦すると云う事もあり、戦時体制に突入して行く。
 戦時体制を、経済面で言い換えれば「統制経済」と云う事に為るが、有名な「ニューディール政策」はこの長期停滞を克服する為に新たに構想された「統制経済政策レジーム」であった。

           1-17-20.jpg ルーズベルト大統領

 「ニューディール政策」の代表的な政策は、インフラ投資等の公共投資、及び軍事支出拡大と云った財政支出を、中央銀行であるFRBの低金利政策・・・1942年以降は、国債の各年限の利回りを固定すると云う「Bond Price Peg制」が敷かれた・・・でファイナンスすると云うものであった。
 この「マクロ経済政策の組合せ」は「積極的・Activeな財政拡張政策と受動的・Passiveな金融緩和政策」と云う事に為ろう。これは長期停滞を克服する為に有効だと思われる政策の組合せ・ポリシーミックスであることが、ブラウン大学のガウチ・エガートソン氏らによって提唱されて来た事は、当コラムにおいても度々指摘して来た処である。

 処で、当時の米国の経済政策を見るうえで注意すべきは、1930年代前半の「デフレからの脱却」に際しては、FRBによる金融緩和・・・特に、国債の積極的な購入による量的緩和政策の効果が大きく、それ程大規模な財政出動を実施した訳では無かったと云う点である。精々、緊縮的な財政政策では無く為ったと云う程度であった。詰まり、当時のFRBは、金融政策主導でデフレからの脱却を実現させた。
 だが、これは残念ながら「サクセスストーリー」には為ら無かった。何故なら、この様なリフレーション政策を実施して居る最中から、当時も前例の無かった量的緩和の実施、及び、それに伴うゼロ金利状況の持続に不安を持ち、その結果、金融政策の正常化を急ぎ過ぎた事が再デフレに繋がった可能性が高いからである。

 又、同時に増税を実施した事も人々の再デフレ懸念を強めた。これに付いても、ガウチ・エガートソン氏の先駆的な研究がある。この様な、言わば「拙速な経済政策の正常化」が、折角克服し掛けたデフレと云う病をブリ返えさせる事に為ったのだが、それであれば、大規模な金融緩和を再開すれば事足りるのかと云うと、そうでは無かった。
 拙速な政策転換は、人々の経済政策に対する「信頼性」」を著しく損ねた。その為、1930年前半には成功した、金融政策に依存したリフレーション政策を単純に繰り返した処で、それが再び成功するか否か疑わしく為ったと云うのが、1930年代終盤の経済状況であった。

 そこで、ルーズベルト政権は、経済政策の「レジーム」を本格的に変えようと試みた。これは、単に財政支出を大幅に拡大しただけでは無く、経済のアラユル側面で政府が積極的に介入すると云うものであった。
 例えば、価格上昇を意図したAAA・農業調整法による農産物の生産制限やデフレによる労働需給の緩和の悪影響を払拭する事を意図したNIRA・全国産業復興法による労働時間の短縮や賃金の確保「ワグナー法」による労働者の権利拡大と云った政策である。

 「MMT(現代貨幣理論)」との危険な類似
 
 処で、以上の様な「ニューディール政策」の枠組みを今の文脈で見てみると、昨年話題に為った「MMT(現代貨幣理論)」との類似点が多い事に気付くだろう。「MMT」の教科書を読むと、MMTでは、財政支出拡大が中央銀行によるファイナンスで実施される事に加え、それに伴うインフレ圧力は、JGP・ジョブ・セキュリティ・プログラムと云う政府主導の雇用創出政策に付随する最低賃金の設定・・・これが物価のアンカーに為る・・・と税制や規制による各市場の需給調整によって対処するのでインフレリスクは低いとされて居る。

 実質的には経済の様々な分野で政府の介入を増やす事に為る訳だが、当時の「ニューディール政策」は雅にこれに当て嵌ると考えられる。
 米国でMMTを支持するのは、民主党の左派、モッとハッキリ言えば、社会主義を標榜して居る層であるが、当時の米国でも、当初、ルーズベルト政権が構想した政策は「米国の伝統的な自由主義、資本主義を危うくする」として最高裁判所から違憲判決を受けて居る。詰まり、最高裁は米国の社会主義化を懸念したと考えられる。

 そこで、ルーズベルト政権は、最高裁判所の人事を変える事によって政策実現を可能にしたのだが、当時の米国でもルーズベルト政権的な政策レジームは、社会主義経済化を彷彿とさせるものとして抵抗感が強かった事が伺える。
 又、最近の研究では、経済政策としての「ニューディール政策」を支えて来た官僚(FRB高官を含む)の中に、マルクス主義者が多く含まれて居て、その後の政策にも影響を与えた事が指摘され始めて居る。この様に、当時の米国で社会の価値観すら変えてしまい兼ね無い様な政策が採用された理由は何であろうか? 
 それは「長期停滞」と云うマクロ経済全体の低迷と云うよりも、同時並行的に深刻化した格差の拡大の影響であろう。そして、その格差の拡大による人々の不満を受け止めると思わせたのが社会主義であった。

 以上の様な流れは、米国だけの現象では無く、当然、当時の日本でも見られた。特に、日本の場合は、或る意味、軍部の既得権益と化して居た中国大陸への進出と整合的な経済政策レジームとして統制経済が志向された。
 更に言えば、統制経済は、先に実現して居たドイツやソ連を「模範」として、正しい政策として経済学者の間で研究対象と為り、そして、1930年代終盤より実行された。

 そして、特筆すべきは、当時の日本の場合、米国とは異なり、リフレーション政策に失敗し、再デフレに陥った訳では無かった。日本では一応は「高橋財政」によって、デフレからの脱却に成功して居たのだった。最も、「高橋財政」も政治的には様々な問題点があり、それが後の統制経済化に繋がったと思われるのだが。

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 社会主義は復活するのか

 そこで、話は現代に移るが、ソ連崩壊・冷戦終結と云う「歴史の終わり」によって死滅したと云われて居た社会主義が、自由を重んじる米国で再び広がりつつあるらしい。

 これに付いては様々な調査結果が公表されて居る。ハリス・ポールと云う調査会社によれば、1997年から2012年までに生まれた米国の若者・ジェネレーションZと云われる、の49.6%が社会主義国で暮らす事を望んで居るとの調査結果を発表したらしい。
 又、米国のシンクタンクであるケイトー研究所が、昨年9月に発表した世論調査では、社会主義に好意的であると回答した民主党支持者が64%と、資本主義に好意的と回答した支持者45%を上回ったらしい。

 これは、今回(リーマンショック後)の長期停滞が米国の格差問題をより深刻化させた事に対する米国民の反応であり、中でも、特に若年層が資本主義の競争社会で勝ち抜く事に対して大きな将来不安を抱えて居る事の証左であろう。
 この様な若者の将来不安は、経済全体を動かす「アニマル・スピリット」の後退による米国経済の低迷と表裏一体なのだろう。それ故「長期停滞」が続いて居るのであろう。

 こうした動きを観て筆者が疑問に思うのは、若者を中心に支持を高める社会主義が、米国で本当に理解されて居るのだろうかと云う点である。
 旧ソ連や現在の中国を観れば、社会主義の「現実」は、寧ろ、権力者が既得権益をより多く享受できる体制である事は明らかである。又、選挙戦でも話題に為り、サンダース議員がその典型例だが、民主党で大統領候補に為る様な人は超富裕層が多い事等を見て、何か可笑しいとは思わ無いのだろうか。やはり「貧すれば鈍する」と云うことなのか。

 しかし、この様な風潮は決して米国だけの話では無い。格差拡大を初めとする周辺環境は、米国と変わる処は無い為だ。ただし、1930年代以降の米国との比較で云えば、まだ「拙速な正常化政策」によって再デフレに陥って居ない点が救いなのかも知れない。
 ただ、その面では、未だ顕在化はして居ないが、昨年10月の消費増税によって、先行きの再デフレのリスクに付いて警戒すべき点が散見され始めて居る。更に言えば、日本の場合、この「不満」の受け皿に為りそうな有力野党が存在しない点が米国との大きな違いであり、それ故、政府与党には未だ余裕がある様に見受けられる。

 だが、戦前日本の政策当局が統制経済に傾斜し、ヤガテ無謀な戦争で多くの犠牲を払う事に為ってしまった切っ掛けは、昭和恐慌迄の長期デフレによる格差拡大と「資本主義の行き詰まり」と云う考えであった。
 又、日本の表面的な歴史では、社会主義は徹底的に弾圧され消滅してしまったかの様な扱いだが、当時の政権内で或る程度の影響力を行使したと考えないと、戦争に至る道のりに整合的な説明が付か無い点が多い。その意味で、現在の政治経済状況は戦前、特に1930年代後半との類似点が多い様に思えて為ら無い。


              安達 誠司     以上



 【管理人のひとこと】

 ・・・ハリス・ポールと云う調査会社によれば、1997年から2012年までに生まれた米国の若者・ジェネレーションZと云われる49.6%が社会主義国で暮らす事を望んで居るとの調査結果を発表したらしい。
 又、米国のシンクタンクであるケイトー研究所が、昨年9月に発表した世論調査では、社会主義に好意的であると回答した民主党支持者が64%と、資本主義に好意的と回答した支持者45%を上回ったらしい・・・

 
 とは実に興味を惹く話だ。超資本主義で、何でも有りの市場経済・競争社会を標榜する超大国アメリカの若者の中に、この様に敗北主義の様な(失礼な言い方だが)心情が生まれて居たとは想像もしなかった。
 しかし、アメリカの若者だとて一人の人間だ。競争に疲れ世の中を懐疑的に観る人が増えても自然だ。人間が生まれ生きて行くのは、何も他人を蹴落として競争に打ち勝つ事が目的では無い。人間として生きる幸せを如何に求めるかの流離(さすらい)なのだと達観する人生もある。詰まり、これが極普通の人生観なのに、敢えて「自由競争」「金の獲得」を至上命題にした現在の価値観コソ異常なのだ・・・と悟りを開いたと観ても好いだろう。又は人間本来の価値観を取り戻したのだと。アメリカの若者だって普通の人間の一人なのだ。この当たり前が当たり前に思え無かった現状が異常なのだ。

 しかし、社会主義が本来の社会主義として成功させる技は今の処存在しない。嫌、色々実験はしたが何れも失敗し資本主義に敗北してしまった。詰まり、教科書的社会主義は、絵本の中には存在しても現実には存在しなかった架空の物語だった。中国も北朝鮮もキューバも、全てが変形した社会主義であり、社会主義本来の姿では無かろう。
 だから、今更社会主義に戻ろうと実験する国は現れ無いだろう。出来得るのは、その思想の利用出来る利点を掬い上げ学び、現実の資本主義社会に何らかの規範とブレーキを掛ける政策を用いる事に限定されるだろう。








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ジム・ロジャーズ「安倍首相の経済政策もホボ全てがが間違い」その理由は?




 

     
 ジム・ロジャーズ 「安倍首相の経済政策もホボ全てが間違い」その理由は?

              〜週刊朝日 dot. 1/16(木) 8:00配信〜


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 ジム・ロジャーズ 1942年米国アラバマ州出身の世界的投資家 ウォーレン・バフェット、ジョージ・ソロスと並び「世界3大投資家」と称される。2007年に「アジアの世紀」の到来を予測して家族でシンガポールに移住。現在も投資活動および啓蒙活動を行う


 「世界3大投資家」の一人とされるジム・ロジャーズ氏の本誌連載「世界3大投資家 ジム・ロジャーズがズバリ予言 2020年、お金と世界はこう動く」今回はトランプ大統領の再選、日米の経済の今後等に付いて。

 米軍がイランのソレイマニ司令官を暗殺し、イランが米軍拠点へのミサイル攻撃で報復する等、両国の対立は先鋭化して居る。しかし、トランプ大統領が「軍事力行使は望ま無い」と語った事でも解る様に、両国が全面戦争に突入し第3次世界大戦を引き起こす様な事態は、少なくとも2020年中には起こら無いだろう。当面は世界的な経済危機に発展する事も無い。
 又、ウクライナ疑惑を巡る弾劾裁判では、トランプ氏に解任された元最側近のボルトン前米大統領補佐官が証言に立つ構えだが、最終的にトランプ氏は秋の大統領選で再選され、政権が継続する確率の方が高いと見ている。

 アメリカの歴史を見ると、再選され無い大統領は殆ど居ないし、既にトランプ陣営は大金を使って票集めを進めて居るからだ。2016年の大統領選を振り返っても私の予見は当たって居た。
 トランプ氏は標準控除額の拡大や法人税率一律21%への引き下げ、テリトリアル・源泉地国課税主義税制への移行等を断行。その上で大規模なインフラ投資をしたが、デット・債務は上がって居る。米国は金を刷り続けて居るが、このママ行く筈は無いと思って居る。トランプ氏の言動は殆ど間違って居る。

 取り分け、保護貿易政策は愚の骨頂だ。トランプ氏は、中国との貿易戦争は正しい行いで、必ず自国が勝つと信じて居るが、歴史上、保護主義政策を取って貿易戦争に勝った国は無い。
 トランプ氏がイランとの戦争を回避し、中国との貿易戦争に解決の道筋を着ける迄は、株式市場も大きく動揺しないだろう。しかし、今年の年末か来年には、米国経済の減速で株式市場に波乱が起きるかも知れない。再選されたトランプ氏が愚策を繰り返し、中国以外の国にも貿易戦争を仕掛ければ、その引き金を引く事に為る。
  
 一方、トランプ氏と良好な関係を築いたとされる安倍晋三首相の経済政策もホボ全てが間違いだ。アベノミクスの第1の矢である金融緩和は、円安に誘導し日本の株価を押し上げた。日銀が紙幣を刷り捲くり、そのお金で日本株や日本国債を買い捲くれば株価が上がるのは当たり前だ。
 しかし、引き換えに、日本円の価値は下がり、何れ物価が上がると国民が苦しむ羽目に為る。こうした通貨の切り下げ策で中長期的に経済成長を達成した国は歴史上無く、一部のトレーダーや大企業だけにしか恩恵は無いのだ。

 第2の矢である財政出動も、日本を破壊する為の政策にしか見え無い。国の借金が増え続ける中で、間違った経済政策を続けるのは、最終的に借金を返さ無くては為ら無く為った時には、自分がこの世に居ないからなのだろう。安倍首相の行動原理は自分や、自らの体制を維持する事であり、そのツケを払うのは日本の若者だ。私が日本に住む10歳の子供だったら、少しでも早く日本を飛び出す事を考える。近隣の中国や韓国に住んだ方が、余程豊かな生活が送れるに違い無い。

 自民党内で安倍総裁の4選を容認する意見があると聞くが、一刻も早く辞任すべきだと思う。新しいリーダーの下で、競争力を高める為に規制を緩和し、子育て環境を整えて子供を増やし、移民をもっと受け入れる様にする等政策転換を急ぐべきだろう。


 構成 本誌・小島清利 監修 小里博栄 ※週刊朝日  2020年1月24日号  以上


 



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