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2020年01月10日

有罪率99%の背景に検察官の裁判官化? ゴーン被告が糾弾した検察の問題点とは









  有罪率99%の背景に 検察官の裁判官化? ゴーン被告が糾弾した検察の問題点とは

             〜AbemaTIMES 1/10(金) 18:33配信〜


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                   ゴーン被告

 英語・フランス語・アラビア語等を駆使し、約2時間30分に渉って持論を展開したカルロス・ゴーン被告。自身の逮捕が多くの共犯者達による陰謀だったと潔白を訴えると共に、日本の検察や司法制度に対する批判を繰り返し、自身の逃亡を正当化した。
 朝日新聞やテレビ東京・小学館を除き、日本メディアの多くが締め出される中で参加した海外メディアからは、ゴーン被告の言動を評価しない声も有る一方「日本の司法の暗い片隅に光を投げ掛ける」(英ガーディアン)「乱暴な逮捕や長期の勾留等この事件の根底にある彼の真実を伝える機会だった」(仏フィガロ紙)等、日本の司法制度に関する厳しい意見も見られる。

 こうした事態を受け、森まさこ法相は会見を開いて「主張すべき事があるので有れば、我が国の刑事司法制度において、正々堂々と公正な裁判所の判断を仰ぐ事を強く望む」と異例の反論に踏み切った。

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                   メディアの反応は

 ジャーナリストの佐々木俊尚氏

 「自白偏重で有罪率99%、風呂は週2回で妻に会え無い、クリスマスに1人・・・等と云う話は分かり易く強いので、ナカナカイメージとしてはヒックリ返り難い。日本の司法はこんなに酷いと云う印象が欧米に伝わったと思う。
 そこで日本としては『日本の司法は大丈夫だ』と言うより 『我々の社会に公正さを取り戻すんだ』と主張した方が効果的ではないか。何故なら、ゴーン被告はグローバル企業のリーダーとして、分断と格差の象徴の様な人物に為って居るからだ。
 実際、富裕層やアッパーミドルが読むフィガロ紙の読者アンケートでは、77%が逃亡は正しかったと云う結果に為って居るが、一方、フランスで取材をして居たジャーナリストの記事によれば、格差問題で闘って居るイエローベスト運動の人達の反応は、ゴーンざま見ろでは無くゴーン酷いだ。
 又、レバノンでも富裕層からは英雄扱いされて居るが、反政府運動で戦って居る人達も居て、彼等もゴーン被告に対しては批判的だ」


 とコメント。慶應義塾大学の若新雄純特任准教授

 世界における日本の司法と云う問題に為った事に対して如何に答えるかが大事なのに、法務相と検察が出したコメントは『日本において裁かれなさい。無実なら言い返しなさい』と云う事で、非人道的だとされた容疑者への扱いの部分に付いては反論し無かった。言われっパナしに為って居るのではないか

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 と話した。元日経新聞論説委員で、法制審議会特別部会委員の安岡崇志氏は、

 「もう少し具体的に俺はこんな目に遭ったと説得力を持って言って呉れるのではないかと期待して居たがそれは無かった。面白いなと思ったのは、検察の取り調べ中に早く自白しろ。容疑を認めろ。認め無かったら家族に累が及ぶぞと云う様なことを言われたと云う話だ。
 今時、そんな言い方で調べるのかと思ったし、逮捕容疑を認めたと云う調書は取らせて居無い筈なので、仮にゴーン氏が日本に戻って来て裁判が開かれたとしても、言った・言わ無いが続く」


 との見方を示す。その上で、

 「今の日本の司法は、世界に冠たるものだと云う考えの専門家や法務省関係者・議員は多いが、世界標準では取り調べの時に身柄を拘束すると云う事は無い。調べの中で自白調書を取らせず、黙秘や否認を続ける限り、ズッと拘置所を出られ無い。
 平野龍一と云う刑事法学者が1985年に発表した『現行刑事訴訟法の診断』と云う有名な論文の末尾に『我が国の刑事裁判は可成り絶望的である』と云う有名な言葉があり、取り調べの為の身柄拘束は欧米の水準からすれば堪え難いものだと指摘して居る。
 もっと言えば、それよりも遥か昔の明治35年には、或る弁護士が『刑事被告人の待遇』と云う文章の中で『有罪判決が確定する迄は、無辜の良民として扱わ無ければいけ無い』と書いて居る」
と指摘。

 「取り調べ時の弁護士立会いに付いて、法制審の特別部会でも最初の10回位は議題に上ったが、その後、意見の対立が激しいから辞めて置こうと云う事に為り、改正法の話には出て来なくなった。人質司法の問題についても、もう少し慎重に勾留を認める・起訴後の保釈をゆるやかに認めるべきだと云う意見が出たが、結局は今までの基準を再確認すると云うだけで前進はゼロだった」と振り返った。

        1-10-23.jpg

                    落合氏

 元検事の落合洋司弁護士「ゴーン氏の件に付いて言えば、囚われの身で出られ無かった訳では無く、一定の制約があるにしても保釈に為って居り、弁護団が着いてキチンと裁判で主張が出来る状態にあった。それにも関わらず逃亡してしまった。
 それは無いのでは無いか、と云うのが日本の国内の見方としては多いと思う。一方で、ゴーン氏なり、海外のマスコミが指摘して居る日本の司法の問題点に着いては当たって居る処も少なからず有ると思う。実際、これ迄も国連から勧告を受ける等、批判されて来て居るが、法務省や検察庁がグローバルスタンダードとの比較において日本はどうなのか、と云う発想で反省する事をして来なかったし、我々は法令に基づき、我々の遣り方で遣って居るのだ、と制度自体の問題点を認めようとし無かった。
 只、今回の会見を受け、認めようとし無ければしない程相手とのズレが広がり、突かれる度合いが強まって行くと思う。司法制度自体を変える為には法制審議会なりが動いて、国会に刑事訴訟法の改正案を出さないといけ無い。しかし法務省の幹部は結局、皆検事だ。そう云う組織なので、検察の力を弱める様な改革と云うのはソモソモ遣ろうとしない」


 と話す。また、ゴーン被告が訴えた「有罪率99%」の問題に着いて佐々木氏は「普通は警察が捕まえて地検に持って行き検察が起訴する。しかし、特捜事件は東京地検・大阪地検が行き成り逮捕して起訴する。特に今回の様な特捜事件は、逮捕されて有罪に為る率が99%だ。しかも特捜は近年余りにも力が強く為り過ぎて、非常に横暴に為って居ると言われて居る」

 と疑問を投げ掛ける。落合氏は、

 「現状では捜査段階で強力な捜査が行われるので、尚且つ起訴するに当たってはハードルを高くして居る。詰まり、検察段階で相当数がフィルタリングされ、これは有罪に持ち込むのが難しいと云うものに付いては、ドンドン不起訴にして居ると云う事だ。
 だから伊藤詩織さんの問題の様に、民事では損害賠償請求が認められて居て、被害者がどうしても起訴して欲しいと言って居る事件であっても、刑事事件では慎重過ぎる位に為って不起訴にして居る面はあるだろう。有罪に為って居る率だけを見ると、如何にも歪んで居る様に見えるが、そこはトータルで見ていか無いといけ無い」
と説明。

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                    各国の司法制度

 そして「只、確かに警察が送って来る事件の場合、検事はチェックしようと云う目で見るので、難しい点が有れば補充捜査も指示するし、ダメだったら不起訴にする。しかし特捜部による、所謂独自捜査の場合、自分達でドンドン遣ってしまうので、それをチェックする処は無い。
 裁判所の令状に付いても、捜査をチェックして出して居る訳では無いので検証する人は居ない。その点、アメリカには大陪審と云って、捜査自体をチェックするシステムがあるし、フランスには予審判事と云う人が居て、裁判官が捜査自体を主体的に遂行して行く制度がある。それが無い為、日本の独自捜査は一度暴走し始めると止めど無く暴走して行く。
 又、アラユル証拠を見て有罪に為ら無いと云うものをドンドン不起訴にして行くと云う事は、一審の前に検察が裁判官の様な立場で裁いてしまうと云う事でもあり、裁判がその判断を検証し、刑の重さを決めて行くだけの場に為って居るとも言える。
 平野先生の論文にも「それは裁判と言え無い」と書いてある。しかし日本の場合、起訴されると云う事自体本人に取っては非常に痛いので、慎重に確認する事自体がいけ無いとは言い難い。それでも罪名や被害者の居る・居ない等によって、或る程度は思い切ってこれは裁判を受けて貰おうと、極め細かく遣り方にして行く事は必要なのではないか」
とした。


      AbemaTV『AbemaPrime』より    以上









 【管理人のひとこと】

 AbemaTVの記事は、大いに公正で公平な見方だと思う。検察や法務省が「日本の司法が悪かった」とは口が裂けても言え無いのは判るが、余りにも官僚的で高圧的で一方的過ぎる。確かにこの様な不祥事を「恥ずかしい・・・」との本音で言えたら正直なのに、この様な失態に狼狽(うろた)え慄(おのの)き乍ら、強弁で誤魔化そうとするのが見て居て痛ましく情け無い。
 「言いたい事があれば裁判で堂々と反論しなさい!」とは、マルで刑が確定した事を前提とする言い方であり、ゴーン氏は「その裁判を受けて居る状況・・・身柄拘置・仮釈放に対しての諸条件」に不満で人権に劣ると怒って脱失を決意したのだ。その人に向かって「逃げずに裁判を・・・」とは、逃げ果(おお)せた被告人に向かって「逃げるな!」との追い台詞に過ぎず意味の無い「犬の遠吠え」に似た空しい限り。

 日本の検察・裁判に関わる人権問題は、以前から世界(国連)から批判され何度も勧告・是正を指摘されている。それには深く善処せず、法曹界の批判も交わし旧態を続けて来た。何度かの改革のチャンスが在ったにも関わらず、今でも明治時代そのママの風潮が続いて居たのでは無かろうか。この機会に、日本の司法・裁判制度が開かれた世界の模範的なものに為るのならゴーン様々である。







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無敗の男・中村喜四郎は、何故誰にも聞かれて居ない場所で演説するのか




 




 無敗の男・中村喜四郎は何故、誰にも聞かれて居ない場所で演説するのか

            〜文春オンライン 1/10(金) 6:00配信〜


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      2014年の総選挙で当選が決まり、笑顔で花束を受け取る中村氏 コピーライトマーク共同通信社

 「誰にも聞かれて居ない場所で演説を続けられる様に為って、要約一人前なんですよ」中村喜四郎の言葉だ。日本一選挙に強い男とも呼ばれる衆院議員である。何しろ無所属での当選回数のレコードを持つ。選挙に勝つ事14回、その内7回が無所属での選挙に為る。

 正に「地獄の黙示録」のカーツ大佐を見るかの様

 そんな中村の名を聞いても「昔逮捕されてムショに入った人」位のイメージしか持た無い人は多かろう。それも止むを得まい。何しろ四半世紀近く、ロクにメディア露出して来なかったのだから。ゼネコン汚職で「国策捜査」の様にして逮捕(1994年)され、有罪判決を受けて下獄(2003年)する。
 検察の取調に完全黙秘を貫いた中村は、マスコミに対しても一切を語る事無く、只選挙に出て、只管当選し続けた。

 その間、スシ詰めの支援者を前にして、鉢巻姿で演説する中村の狂気染みた姿をニュース映像で時折見た。「中村教」と支援者達は言うのだが、それは正に「地獄の黙示録」のカーツ大佐を見るかの様であった。沈黙を続ける中村の闇の奥に入って行ったのがノンフィクションライターの常井健一である。『 無敗の男 中村喜四郎 全告白 』(文藝春秋)はその著書だ。

 中村は、選挙とも為ると決起集会に5000人を集め、1日20箇所まわり「夜は個人演説会で千人以上、全員に握手して二時間叫ぶ」のだと云う。68歳で迎えた先の衆議院選挙も、そうした人気アイドル顔負けの活動を連日熟して当選を果たす。
 この様な熱狂は日頃の地道な活動の下地があってコソだ。中村は「無反応を確かめる」様に街宣活動を続け、人の居ない場所に一人で立って演説をする。端から見ればバカバカしい事を続ける事で、信用を得て行くのだという。

 選挙における「音」で言えば・・・

 そして、中村ならではの選挙戦術がオートバイだ。「オートバイに乗って遊説する時は静かに乗って居てはダメなんですよ、静かでは。音が人を興奮させる訳だから、煩く無いと意味が無い」と言う。

 選挙における「音」で言えば、山本太郎も音に拘る。何しろ「選挙フェス」を謳う位だ。これ又常井による「れいわ新選組・山本太郎の研究」( 「文藝春秋」2019年10月号 )によると、山本陣営は10人近くの音響のプロを抱え、演説会場には録音スタジオでも使われる音響ミキサーや超高性能スピーカーが配置されるのだと云う。
 そうまでして聞き心地を追求するのは「山本の演説を聴いた人の数しか支持者は生まれ無いからだ。『声が聞こえる範囲にしか人は集まら無い』と云うリアリズム」に徹しての事だと常井は記して居る。

 SMクラブでのプレイを巡って息子と取っ組み合いのケンカ

 それで言えば中村の選挙は、日頃から「無反応を確かめる」様な活動で得た信用の一つひとつを、オートバイの音で掘り起こし、掻き立てて回って居るかの様だ。「選挙は騒音」と言って憚(はばか)ら無い、意識高い系の者がヒステリーを起こしそうな選挙戦術である。しかしそう遣って中村は、政党や企業の支援も無しに、個人の力で選挙を勝ち続けるのであった。

 処で『無敗の男』で常井が書くのは中村の政治活動ばかりでは無い。政治家だろうが何だろうが、誰しも様々な事情を抱えて生きて居る。或いは「どんな家にも問題がある」とは森健『 小倉昌男 祈りと経営 』(小学館)の有名なフレーズだが、中村の家庭も例外では無い。

 その昔、六本木のSMクラブの元女王様が中村とのプレイを「週刊現代」で告白する。1993年の事だ。当時、中村の長男は未だ小学生で、その事が心の傷として残り続け、後年、親子で取っ組み合いのケンカをする事に為る。その居り、中村はシラを切る事無くこう言ったと云う。 「チャンとお金を払って、楽しませて貰っただけだ」

 最近に為ってインタビューを受ける理由とは

 例えば山崎拓はどうか。山崎は回顧録『 YKK秘録 』(講談社)で、会合の店名や密談のホテルの部屋番号に至るまで事細かく記し、その折々の政局と自らの政治家活動を振り返る。しかし選挙の落選(2003年)に付いては「不覚を取って敢え無く落選した」とだけ記している。不覚も何も「週刊文春」(2002年5月2・9日号)の「山崎拓『変態行為』懇願テープと悍(おぞ)ましい写真」で暴かれた愛人問題で信頼を失った結果に他なら無い。

 刑務所にまで入った中村にすれば、過去のスキャンダルを自分の評伝に書かれる位、どうと云う事は無いだろうが、読む方からすると、それを隠さ無い事でこの人は信頼出来ると思い、それを遠慮無く書く著者にも同様の思いを抱こうか。
 そうした常井の取材を除いては、長らくマスコミを避けて来た中村だが、最近に為って報道各社のインタビューを受ける等、表に出る様に為る。それは安倍政権を倒す為だ。

 昨年末の東京新聞の取材では「私が居た頃の自民党には謙虚さがあり、権力を使う事に抑制的だった。何か問題が有れば新しい党の顔が出て来た。自分で自分を批判出来たから野党は必要無かった」と述べる(12月27日 朝刊)処が野党が必要とされる今日に在っても、野党は細かい事に拘り、まとまらずに居る。そこで中村は動き出したのであった。野党と言えば、永らく野党の顔であった者に纏わる逸話が『無敗の男』にある。

 「政治家としての感性は、歩か無いと磨かれ無い」

 菅直人が年金未納問題(2004年)で四国八十八箇所参りのお遍路に出掛ける。坊主頭に白装束姿を記憶する者も多かろうか。
 実は同時期、中村も出所を機にお参りして居る。その時、中村が寺の台帳に記帳しようとすると菅の名前が在ったのが途中から消える。帰ってしまったからだ。菅は「つなぎ遍路」で9年掛けて7回に分けて回るのに対して中村はと言えば、運動着を着て人知れず早朝から歩いては40日で廻り切るのであった。

 このエピソードには「野党とはなにか?」の寓話性がある。上っ面のパフォーマンスに現(うつつ)を抜かすのが、民主党を初めとする近年の野党の習性だ。そこに在って小沢一郎が力を持ち続けるのは、そうした野党の中でも自民党伝来の「ドブ板選挙」を知る事での選挙に強いとの神話性によってであったろう。
 小沢の師に当たる田中角栄は、初選挙の者に「戸別訪問3万軒、辻説法5万回」を説いた。田中の秘書だった中村もおよそ11万軒を廻る。「政治家としての感性は、歩か無いと磨かれ無い」と中村は言う。

 「マニフェスト選挙」だ「真っ当な政治」だと言った野党が謳うムーブメントは、一時的には意識高い系の人達にウケても、直ぐに廃れるのが常だ。増して声高に立憲主義を言った処で、幾つに為っても「センター試験で何点だった」と話す様な大卒の郷愁を誘うだけだろう。

 「陽の当たらぬ場所」の人達の怒りと恨み

 そう言えば『無敗の男』は最終章で、ロッキード事件で逮捕されてなお選挙に勝つ田中角栄を「圧勝させたもの」を洞察する、本多勝一のルポ『 そして我が祖国・日本 』(朝日新聞社)を紹介している。
 そこで本多は土建屋中心の利益集団の票ばかりでは無く「陽の当たらぬ場所」の人達の怒りと恨みが当選させたのだと説いた。そして言論人は田中の当選を「地方ならではの『政治意識の低さ』や『遅れた民度』」と冷笑するが、そうした者達やマスコミの田中批判は「都会人の遊び」にしか映ら無いのだと言い、野党関係者等にコソこれを読んで欲しいと本多は述べた。これは極めて今日的で或る種の安倍政権批判への反応にも重なり合おうか。

 中村が政治の世界に入った時、保守王国・茨城は企業や有力者を他の自民党議員が押さえ切ってしまっていた。だから「オレは百票持っている」と嘯(うそぶ)く者を相手にするのでは無く「家族三人しか居ないけど、皆で応援する」と云う支持者を作って行ったのだと云う。
 もし企業や有力者に頼っていたら、逮捕を切っ掛けに皆、逃げてしまうだろうし、増して影響力の限られる無所属では当選し続ける事等出来なかったろう。一般の人の支援を掻き集めるからコソ、中村は「日本一選挙に強い男」に為ったのだ。

 「桜を見る会」に呼ばれる事も無い、意識高い系でも無い、普通の人に声を掛ける政治。そこに可能性はあるに違い無いと『無敗の男』は教えて呉れ様か。そして何より、バイクに乗ったり演説したりする中村喜四郎を生で見たい気にさせられる一冊である。


               urbansea     以上



 【管理人のひとこと】

 この記事を読んで居て、何か心からジーンと来たのは歳の所為なのだろうか・・・裁判で黙示を通し実刑を受け刑務所に入り、出て来て四国を巡礼する姿に、何の意味も無く「砂の器」の映画のシーンが浮かんでしまった。誰も聞いて呉れそうも無い場所で「辻説法」を続ける政治家は沢山居る様で、元首相の野田氏も、今でも千葉の某駅前で続けられて居るそうだ。
 そうだと聞けば野田氏が「消費増税に前向き」だった経済音痴だったとしても何だか「可愛気」な信念も感ずる。そう遣って「選挙に強い人」に為るのだろう。山本太郎氏も、田中角栄氏が小沢氏に残し、山本氏も受け継いだ「遺産」を頑なに実行して居る「選挙に強い男の一人」だと確信する。
 何だか今の野党は、共産党を含め「組織に依存した」綺麗事の様な選挙戦を続け、泥臭い「ドブ板選挙」の経験は少ないのでは無かろうか。ひ弱な正義だけを振り翳してばかり居ては大衆には届か無い「仲間内」の約束と義理だけを頼りにするもので、その絆はドンドン縮小し小さく為ってしまう・・・消耗品なのだ。
 矢張り、此処は小沢氏や中村氏の様な、更に山本氏を含めた「野武士」の様なバイタリティーと草の根の信念が必要で、野党議員の人の一人が、小さな信条は捨て去り大きな果実を育てる「滅私奉公」を今一度目指すべきでは無かろうか・・・折角与党が与えて呉れた数少ないチャンスを捉え切れず、合同出来ない様では今後の浮上は期待も出来ない。








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「山本太郎氏が都知事選出馬」を警戒する小池百合子氏&二階俊博氏の思惑




  「山本太郎氏が都知事選出馬」を警戒する小池百合子氏&二階俊博氏の思惑

             〜文春オンライン 1/10(金) 6:12配信〜

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 東京五輪イヤーの幕が開いたが、小池百合子東京都知事(67)が精力的だ。「最近の小池知事はドンな団体の会合にも必ず出席する。スケジュールがキツクても挨拶回りを欠かさ無い」(都政担当記者)視線の先は勿論、今年7月5日投開票の知事選。正に「再選ファースト」だ。
 連合・創価学会等集票が見込める組織の要望は全て聞き入れる構え。その甲斐あってか、公明党の山口那津男代表は1月2日、新宿で行った街頭演説で知事選に触れ「都政が継続性をもって、都民第一で進んで行く様にし無ければ為ら無い」と強調、小池氏支持を滲ませた。

 小池氏は自民党にも布石を打つ。昨年のクリスマスイブに、予てから昵懇(じつこん)の二階俊博幹事長を党本部に訪問。記者団から「二階幹事長からどう云う話があったのか」と問われ「東京として好く遣って呉れてるね、と励ましを頂いた」と披露。
 一方の二階氏も常々「(小池氏に勝てる候補は)居ない。当たり前じゃ無いか」と漏らして居る。「わざわざイブに会いに行く事で、蜜月関係を強調した」(政治部記者)との見方が専らだ。

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 丁度同じ頃、都内各地に自動音声の電話が鳴り響いた。「都知事には誰を選びますか」選択肢は小池氏・丸川珠代元環境相・「れいわ新選組」の山本太郎代表。小池氏と対決姿勢を取る自民党都連の一部には、丸川氏擁立論が燻り、山本氏は都知事選に着いて「選択肢として排除しない」と色気を見せて居る。

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 山本氏の知事選出馬は「合理的」である理由

 都連関係者が声を潜める。「実は、山本氏が6月にも知事選への電撃出馬を宣言するとの説が駆け巡った。それを受けて二階氏が仕掛けた調査だろう」仮に調査で小池氏がトップ為らば党が小池氏に乗るべきだと云う材料と為り、山本氏がトップ為らば「保守分裂の選挙では山本氏が漁夫の利を得るぞ」と丸川氏擁立論を牽制出来ると云う訳だ。

 政治部デスクも「山本氏の知事選出馬は合理的だ」と語る。山本氏は最近、衆院選で立憲民主、国民民主、共産等との野党共闘路線に乗るかどうか悩んで居るが「衆院選で共闘すれば、山本氏とれいわの存在感が一気に失われる。山本氏自身がそれを好く分かって居る」(野党幹部)
 一方、立憲の枝野幸男代表は、昨夏の参院選で「野党のカリスマ」の座を山本氏に奪われ、ライバル心を隠さ無い。「山本氏が知事選の野党統一候補に為って呉れれば、山本氏も埋没せずに済、枝野氏にも利がある」(前出・デスク)桜を見る会やカジノ疑惑で与野党の激突が予想される通常国会。その裏では、都知事選を巡る駆け引きも激しさを増しそうだ。


      「週刊文春」編集部 週刊文春 2020年1月16日号   以上









 【関連報道】議員在職50年 小沢一郎「出世とキャリア」 〈1〉

               〜JBpress 1/10(金) 6:00配信〜


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           衆院在職50年を迎えた小沢一郎氏(写真 AP アフロ)

 国民民主党の小沢一郎(77)が衆院在職50年を迎えた。尾崎行雄、三木武夫、原健三郎、中曽根康弘、桜内義雄(衆参通算で51年半)に次いで憲政史上6人目と為る。小沢は1969(昭和44)年12月27日の衆院選で初当選し、現在迄17回連続当選を誇る。小沢は今も野党随一の実力者であり、その現役感は半端では無い。 
 一方でそのキャリアは極めて特徴的だ。一貫して党のポストに就いて来た為、党首経験は通算17年8カ月に及ぶものの、意外にも閣僚経験は自治相の1回だけ、その期間も僅か7カ月余である。官房副長官として首相官邸を経験して居るが、これも1年半に過ぎ無い。

 にも掛からず、首相を凌駕する絶大な権力を握り続け、自民党を2度に渉って下野させた。昭和末期から平成後期に至るまで、日本政治の中心は常に小沢だった。小沢は如何にしてその政治力を高めて行ったのだろうか? 

 27歳で政界デビューした二世議員とは言え、出世が最初から約束されて居た訳では無い。寧ろ、若い頃は可成り地味である。目立たぬ若手政治家の一人に過ぎなかった小沢は、どの様にして権力の階段を駆け上がって行ったのか。自民で23年半、非自民で26年半過ごした議員生活を「出世とキャリア」の観点から振り返る。(敬称略 出典は逐次明記)



 二世議員

 小沢は、吉田茂内閣で郵政相や建設相、池田内閣で行政管理庁長官を務めた父・佐重喜(さえき)の長男として1942年5月24日に生まれた。中学2年迄岩手県水沢市(現・奥州市)で過ごし、中学3年時に父親が居住する東京都文京区に引っ越した。
 都立の有力校・小石川高校へ進学し、東大を志したが願いは叶わず、2浪の末、慶応大学経済学部に入った。1967年4月から日本大学大学院に進学し、司法試験を目指して勉強をして居た。

 転機は父の急逝だった。佐重喜は1968年5月に死去(享年70歳)し、息子の小沢が後継に収まる。佐重喜は藤山愛一郎派であったが、関係者の助言等もあり、当時自民党幹事長として辣腕を振るっていた佐藤派の実力者・田中角栄と接点を持つ。
 小沢本人へのインタビューは勿論、家族や関係者が実名で登場する大下英治の『一を以って貫く 人間小沢一郎』(講談社文庫)によると、小沢が田中に初めて会ったのは1969年4月中旬だと云う。面会場所は田中の私邸・目白御殿だった。

 田中は小沢の前で「好し、思い切って遣ってみろ。親の七光りは当てにしては行けない。戸別訪問は3万軒だ。何処の神社の階段が何段まであるか迄、一木一草を知れ。選挙区の人間を、トコトン知り尽くさねばいかん」「辻説法は5万回だ。3分でも5分でも辻立ちをして、自分の信念を喋れ」と捲し立てた。
 この戸別訪問と辻説法の徹底は、後に小沢が若手や新人候補を指導する時にも、口グセの様に繰り返し主張した方法論である。
 小沢番を長く務めた全国紙の政治部記者は「小沢の教えに影響を受け、それを応用して選挙に強く為った議員は多い。例えば2000年から選挙区で勝利し続けて居る細野豪志(無所属・自民党二階派)は、小沢流選挙を上手く取り入れて居る」と指摘する。

 小沢は1969年12月の衆院選に27歳で出馬しトップ当選を果たす。この時点でも、未だ大学院に籍があり、社会人経験は皆無である。小沢は現在に至る迄政治家の仕事しかして居ない。

 吐くまで飲む
 
 1970年1月14日、国会に初登院した小沢は挨拶の為、再び田中の事務所を訪れる。田中は小沢に向かって「一郎は大学院生だ。他の同期生と同じ気持ちで日々を過ごすなよ。ドンな部会であろうと、必ず出て勉強しろ」(『一を以って貫く』)と言い放った。
 当選同期には、福島県議出身の渡部恒三(後に衆院副議長)茨城県議会議長を務めた梶山静六(後に官房長官)等が犇(ひし)めいて居た。当時の最年少代議士だった小沢の注目度は低く、四世議員である小泉進次郎が2009年に28歳で初当選した際のメディアの注目振りとは雲泥の差だった。

        1-10-1.jpg 渡部恒三氏

 社会人経験も政治経験も無い小沢は、田中の助言に従い、真面目に自民党本部の部会に出席し、国会閉会中は只管地元を回った。田中が言った通り、七光りは通用しない。父親の地盤を継いだとは言え、支持者がスンナリと応援して呉れる程甘い世界では無かった。

 小沢は自著の中でこう述べて居る。「二世だからと言って、それに胡坐をかいて居たら、一回は当選出来ても、その後はどう為るか分から無い」「選挙区の人達は、僕が果たして国会に行くに相応しい男かジッと観察して居る。だから、徹底的に選挙区を回る事にした」『小沢主義 志を持て、日本人』集英社文庫)

        1-10-2.jpg 石川知裕氏

 若い時代の苦労を物語る印象的なエピソードがある。小沢の秘書出身で、陸山会事件で有罪判決を受けた石川知裕元衆院議員の『悪党 小沢一郎に仕えて』(朝日新聞出版)にこんな件(くだり)がある。

 「岩手では日本酒が飲め無いと政治家は務まら無い。会合と云う会合で酒を勧められる事に為る。集まった一人ひとりからお猪口に並々と酒を注がれ、一気に空けるのが礼儀だ(中略)。会合を梯子する小沢の車には、必ず用意し無ければ為ら無いものがあったと云う。塩水を入れた薬缶(やかん)だ。
 一つの会合を終え、小沢を車に乗せると、沢山の人が外まで見送って呉れる。手を振る人が見え無く為った途端、小沢はこう指示する。『ここで止めろ』」
 「小沢はドアを開け、その薬缶の塩水を口へ一気に流し込む。すると、先程支援者から頂いた酒が口から全部出て来るのだ。吐くのである。『口から弧を描くように綺麗な線に為って出てくんだ』と、(住み込み書生第1号の)藤原(良信元参院議員)先生は得意気に話していた」


 小沢は徹底的に地元に張り付いた。地元に戻ると、1日100軒以上の戸別訪問、100以上の後援会支部でのミニ集会を徹底的に熟すスタイルを貫いた。田中の教えを忠実に実践したと云える。「言いたい事を言い、自分が信じている事を実行する為には、選挙に強いと云う事が大前提と為る」(小沢主義)と強調して居る。









 国会質問は嫌い

 小沢は若い頃から、地元受けを狙ったスタンドプレーを好ま無かった。1970年4月17日、衆院文教委員会で初めての質問に立った。私学振興財団に関する法案に着いての質疑だった。
 憲法論をベースにした質問で、原理原則論を好む小沢らしさが感じられる。当選間も無い政治家は大抵、国会質問で有権者にアピールしようとするが、小沢はそう云った活動には新人時代から興味が無かった。試しに筆者が「国会会議録検索システム」で検索を掛けた処、小沢の初当選から10年間の国会での発言は僅か33回。当選同期の羽田孜(後に首相)が87回、渡部が71回である事を考えると半分以下である。

 『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』(五百旗頭真ら編 朝日新聞社)で、小沢は国会質問に付いてこう答えている。

 ・・・小沢さんは、国会の委員会での質問等は余り好きじゃ無いんですか。

 小沢 嫌いですね。僕は国会で余り質問をした事が無い。35年間の議員生活で質問は合計でも30分位しかした事が無い。質問をしても、答弁に立つ役人の話を聞くだけだから、何の意味も無い。意味の無い事は遣りたく無い。
 
 小沢は国会質問では無く、先輩や実力者達と過ごす事を優先した。常に小沢は「誘われたら断ら無い」姿勢で可愛がられて行く。師匠である田中とは将棋を指し、姻戚関係を結ぶ竹下登・後ろ盾と為る金丸信のマージャンにも最後迄付き合った。会合や宴席の幹事役は何時も小沢が引き受けた。朴訥で口数が少無く万事控え目だが、酒は飲めるし付き合いが好い。古い日本社会で出世する条件を備えて居た。

             1-10-3.jpg 野中広務氏

 目上や先輩に対する態度に関しては、野中広務が興味深い見方をして居る。野中は1992年の竹下派(経世会)分裂時に小沢と激しく対立する一方、1998年の自自連立政権で再び手を組む事に為る因縁の深い人物だ。1985年頃の話である。

 「竹下派の七奉行は、テレビが映して居る正面に座る訳です。処が、七奉行の1人である小沢一郎さんは居ら無いんですよ。小沢さん、何処に居るのかなと思ったら、秘書が座って居る柱の陰に座って居る訳。嫌、小沢一郎と云うのは偉い奴だ(中略)。年が若いけれど、そう云う事を心得た政治家が居るな、と云う感じを受けた事を今も忘れません」(『聞き書 野中広務回顧録』御厨貴・牧原出編、岩波現代文庫)

 科学技術政務次官

 1975年12月、三木内閣の科学技術政務次官に就任する。当選2回の33歳であるが抜擢では無い。政務次官は当選2・3回生であれば手にする事が出来るポストだった。小泉進次郎が内閣府兼復興政務官に就いたのは当選2回の32歳。小沢の初期のキャリアは進次郎と共通して居る部分がある。

 政務次官時代の小沢には大仕事が待って居た。難航して居た原子力船「むつ」の母港探しである。小沢は長崎県佐世保市入りし対話を重ねた。在職期間は僅か10カ月だったが、同市が修理港と為る道筋を着けた。一定の成果を出したのだ。小沢は後に党政務調査会の科学技術部会長も経験して居り、科学技術は得意分野だった。
 1976年9月に政務次官を退任すると、自民党には猛烈な逆風が吹いて居た。そんな中で行われた1976年12月の衆院選、所謂「ロッキード選挙」で小沢は生き残る。この選挙では、当選同期で終生の友にも敵にも為る梶山が落選して居る。この選挙に勝った小沢は、ライバルだらけの当選同期の中でヤヤ優位に立ち始める。

 同年12月、福田赳夫内閣で建設政務次官に就いた。当選3回、2度目の政務次官である。田中派の影響力が強い建設省に敢て送り込まれたであろう事は想像に難く無い。派閥内で「使える建設族若手」として存在感を放ち始めた時期である。
 丁度この頃から、建設相だった父・佐重喜の薫陶を受けた若手官僚が幹部クラスに為って居り、小沢は官界との関係を深めて行く。東京府立五中時代を含む小石川高校出身のキャリア官僚の会合にも名を連ねる様に為った。先輩議員にくっ付いてばかりの小沢だったが、霞が関人脈の構築は怠ら無かった訳だ。後年、野党生活が長期化しても、政府内の事情に精通して居たのは官僚人脈が大きい。2世議員としての遺産をこう云う場面で活用して居るのは抜け目が無い。

 地味な30代

 時期は前後するが、小沢は1973年、田中を支援して居た新潟県内の建設会社の娘と結婚して居る。時の首相・田中が父親代わりとして結婚式に出席したエピソードは有名だ。お見合いから挙式まで僅か3カ月。事実上の政略結婚である。
 小沢の妻の妹が、竹下登の実弟・亘と結婚し、竹下とも姻戚関係と為る。上司から可愛がられて姻戚関係を結ぶパターンは出世の観点から見れば王道中の王道である。

 1979年3月、自民党岩手県連会長に就任した。36歳の若さである。県連のベテラン達が統一地方選を巡る面倒な地元調整を小沢に押し着けた事情もあったが、期待に応えて同年4月の統一選を乗り切る。「ベテランの顔を立て、若手の自分が泥を被る」スタイルは何時の時代でも好まれるのは言う迄も無い。
 同年10月の衆院選後、自民党は分裂寸前と迄言われた熾烈な党内抗争「四十日抗争」を繰り広げ、派閥間対立が頂点に達した。浜田幸一が自民党本部内のバリケードを撤去する等したテレビ的にも派手な政局だったが、当選4回の小沢には出番は無い。

 1980年6月、大平正芳首相の急逝により、自民党は史上初の衆参同日選で圧勝した。小沢は38歳、既に当選5回を数えて居たが、未だ目ぼしいポストには就いて居ない。小沢の30代は非常に地味だった。例えば、竹下登、海部俊樹、麻生太郎、安倍晋三、岸田文雄、小泉進次郎等「若手ホープ」が経験して来た重要ポスト・青年局長も経験して居ない。70年代は正に「雌伏」と表現出来る。小沢が表舞台に出るのは1982年迄待た無ければ為ら無い。


     続く 紀尾井 啓孟









 【管理人のひとこと】

 山本太郎氏の都知事立候補・・・この解説には「合理性」があると解説する。確かに、現在交渉中の野党大連合は頓挫しそうな雲行きであり、立憲の吸収合併を否定する人達が新たに分派する・・・益々弱小野党化が加速されそうな・・・有っては為らない最悪の結果へと雪崩れ込みそうだ。
 ソモソモ国民側の存在は、維新に似た「湯党」的体質が抜け切れず・・・敢て云う為らば、安倍氏のヤル気の無い掛け声だけの「憲法改正」の餌に飛び付き、与党に組し利権の一端を貰いたい・・・かの様な印象を多くの国民に与えて居るからで、イッソ維新と合流した方がスッキリする。
 立憲もこの様な体質が混在すれば、それこそ立党の具現化に少しも利せず負の印象が強く為り、互いにダメージを受けるだけでは無かろうか。国民の分裂劇を加速させ、この話は立憲側にも多少の傷を残すことで落ち着くだろう。
 サテ、山本太郎氏の立場だが、確かに実に難しい。野党大連合が為っても為ら無くても彼が、オール野党のキャスチングボードを握れるか? それは、何かの大きな出来事でも起き無ければ無理な様だ。幾ら人気があり大衆を動員する魅力があるとしても、政党としての組織力は到底及ば無い。彼が主張する消費税廃止や奨学金徳政令・政府の大型経済対策等は国政としての仕事。
 彼が都知事として何がしたいのか・・・現在無職の彼が単なる「次の仕事」として「腰掛」としての意味でしか無いと受け止められてしまう。親分の小沢氏とヨクヨク相談して次の「奇跡的」な一手を考えて欲しい。山本氏の政治に於いての才能がどの様に開花するのか、彼を無くすのは国家的損失だ、頑張れ「たろう!」







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武士達のリストラ!「秩禄処分」とは?




 武士達のリストラ! 「秩禄処分」とは?

           〜PHP Online 衆知 歴史街道 1/9(木) 12:12配信〜

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 明治新政府の大きな課題

 明治新政府は、廃藩置県や地租改正と云う革命を、奇跡的に無血で成し遂げた。しかし、明治新政府には、もう一つ大きな課題があった。それは武士に支給して居た「秩禄」を廃止する事である。
 江戸時代、武士は将軍や大名から俸禄を貰う事で生活を成り立たせて居た。明治維新でも、その形式は受け継がれて居た。既に述べた様に明治新政府は「版籍奉還」「廃藩置県」により、幕府や大名が持って居た領地・藩を国家に返納させた。

 しかし、幕府や大名が持って居た領地・藩には武士が付随して居り、この武士への俸禄はそのママに為って居た。将軍や大名が幕臣や藩士に払っていた俸禄を、明治新政府がマトメて秩禄と云う形で払い続けたのである。詰まり、藩は廃止しても、武士への財政支出は残って居たのだ。明治新政府の経済改革の中で、この秩禄を廃止する事が、最も困難なものだったと考えられる。

 武士が貰っていた俸禄は、江戸時代の250年に渉って綿々と続いて来た「既得権益」である。武士に取って、俸禄を貰う事は当たり前の事であり、俸禄を貰う為に先祖代々将軍や藩主に忠誠を尽くして来たのである。その権利を簡単に手放せるものでは無い。
 ソモソモ武士と云うのは、他に収入を得る方策を持って居なかったのだから、俸禄が無ければ忽ち食って行けなく為る。しかし明治新政府に取って、武士に払う「秩禄」は大きな負担と為って居た。国家支出の3割にも上って居たのだ。

 明治新政府は、キチンと教育を受けた新しい軍隊・新しい官僚組織を作ろうとして居り、もう世襲の武士達には用は無い。何の用も足さ無い武士達に対して、国家支出の3割も割か無くては為らないのだ。一刻も早く、近代国家としてのインフラを整えたい明治政府に取って、秩禄と云うものは大きな障害と為った。その為、タイミングを見計らって秩禄の廃止を行なう事にしたのである。
 武士の秩禄は、明治維新時に既に大幅に削減されて居た。上級武士為らば7割程度、中下級武士も3割から5割程度削減されたのだ。詰まり、明治初年の時点で、武士の報酬は江戸時代から比べれば、半減かそれ以上の削減をされたのである。
 
 明治3(1870)年には、武士から農民や商人に為る者には、士族から除籍し一時賜金として禄高の5年分を出すと云う制度を作った。又、秩禄を奉還する者・放棄する者には、禄高の3年分を一括支払いし、樺太・北海道移住者には7年分を一括支払うと云う制度を作って居る。
 明治6(1873)年には、この士族除籍制度を更に拡充し、百石未満の元下級武士に対し秩禄奉還した場合は、永世禄の者は禄額の6年分・終身禄の者は禄額の4年分を一時支給する事にした。翌年には、百石以上の者にも同様の制度が設けられた。

 これはマルで早期退職奨励金の様なものである。「6年分の報酬を一度に支払うから武士を辞めなさい」と云う事である。但し、新政府には金が無い為、支給は半額を現金・半額を公債証書とした。公債は8%の利子が着き、3年間据え置いた後、7年間で償還されるものだった。
 この様な制度を作ると云う事は、秩禄がその内廃止されるかも知れない、と云う雰囲気が社会に有ったと云う事である。そうで無ければ応募する者等居無い筈だからだ。

 更に新政府は、明治6(1873)年に家禄税を創設して居る。これは、家禄に対して課せられる税金で、家禄高に応じて累進性に為って居たが、平均して11・8%の税率だった。家禄は政府が支給して居るものなので、家禄を11・8%削ったのと同じ事だった。
 こう云う処置を段階的に行なって行くことで、家禄が廃止の方向に向かって行くと云う事を士族は肌で感じる事に為ったのだ。

             1-11-4.jpg


 遂に武士の給料を全廃する

 そして明治9(1876)年、明治新政府は遂に秩禄を廃止し、金禄公債を武士に配布する事にした。詰まり、秩禄を廃止する代わりに、少し纏まった金・俸禄の5年〜14年分を武士に与えた訳である。
 しかし新政府は財政が苦しく、現金では支給出来ずに公債と云う形で支給した。公債なので、利子が支払われる。利子率は220石以上の上級武士が5%・22石から220石の中級武士が6%・22石以下の下級武士が7%だった。当面はその利子で食って行きなさいと云う事である。

 新政府に取っては、可成り大きな負担だったが、秩禄を廃止する為には仕方がなかった。この金禄公債を貰った武士には、毎年利子が入って来る。しかしその利子は、以前の俸禄と比べれば勿論非常に低い。22石以下の下級武士が毎年受け取る利子は平均で29円5銭だった。
 武士の殆どは22石以下である。だから、武士の大多数は平均29円5銭の年収しか無かった訳である。1日当たりにすると僅か8銭であり、大工の手間賃45銭に遠く及ば無かった。武士の殆どは利子だけでは生活出来ず、他の収入の途を求め無ければ為ら無かった。

 金禄公債を売って慣れ無い商売を始め、元も子も無くしてしまうと云う武士も大勢居た。所謂「没落士族」による「武家の商法」である。彼等は、汁粉屋、団子屋、炭薪屋、古道具屋等を始めたが、殆どが上手く行かず、1年持つ者は稀だったと云う。
 又士族の多くは、新しい政府での官職を求めようとした。武士と云うのは、江戸時代は役人でもあったのだから、明治に為っても役人に為ろうと云うのは当然の事だと云える。しかし新政府は「能力の有る者しか採用しない」と云う建前を採っていた。
 欧米化・富国強兵化を目指して居た新政府は、何の能力も無い武士を役人として雇い入れる余裕は無かった。何らかの能力が無ければ到底、官職には就け無かった。

 明治14年の帝国年鑑によると、旧武士の内、明治政府で官職に有り付けた者は全体の16%に過ぎ無いという。西南戦争を初めとする旧士族の乱も、この秩禄廃止が要因の一つである。明治新政府は、大きな代償を払う事に為ったが、これで近代的な財政システムを作る事が出来たのである。

 又この秩禄奉還に関しては、武士以外の人々は歓迎して居た。武士以外の人々に取って、武士であると云うだけで貰える秩禄と云うのは不愉快なものなので、当然と言えば当然である。当時の新聞の投書等には、華族や士族の事を「平民の厄介」「無為徒食」等と批判する者も多く見られた。
 又「東京日日新聞」では「士族に対する家禄は、給金でも褒美でも無く、御情の仕送り・貧院の寄付」とまで書かれている。国民の大多数は、近代国家を作る為には莫大な費用が掛かる事を知って居り、何もしていないのに禄を貰える華士族達と云うのは、批判の対象でしか無かったのだ。

 旧武士達もその点は、弁えて居た様で、薩長土肥以外の殆どの士族達は半ば仕方無いと感じて居た様である。だからコソ、武士の反乱は西南戦争程度で済んだのである。西南戦争は、当時の日本に取っては大戦争だったが、それでも半年で勝負が着いた。近代のアジア諸国の内乱に比べれば、遥かに短期間で終息したものといえる。これは、当時の武士階級が、時代の流れを受け入れる様に為って居たからではないかと思われる。


 ※本稿は、大村大次郎著『土地と財産」で読み解く日本史』より一部を抜粋編集したものです。       

           大村大次郎 評論家・元国税調査官   以上



 【管理人のひとこと】

 現在このブログのサブで「学び直しの日本史」を準備中です。学校時代は確か日本史を学んだ筈なのですが、トウに全て忘れ去りました。今は、古墳時代へと準備中ですが、縄文・弥生と進みヤッと古墳時代ですが、ナカナカ興味深く毎日深夜まで格闘しています。
 その時代人類は、生まれ落ち生き延びても寿命が短く、毎日食う為に大変な苦労されていたと想像するのですが、時が過ぎ江戸時代・明治時代に進んで令和の現在も同じ様な苦労が続くものです。武士階級の廃止・・・とは、一つの身分制度の廃止であり、国による国民の一部分の遺棄・生命に留めを指すもので、この様な事を為政者は泣きの涙で断行します。
 同じ様なことは、戦後の日本の社会でも起きます。それは、敗戦で海外に居た数多くの国民が帰還します。しかし、日本は戦争中の国土の疲弊で大変な食糧不足に陥って居ました。その上に帰還者の食糧には難儀します。職も無く食料も無い日本に・・・要約帰還した人達は職を探し食料を求めます・・・国は、彼等に職と食料を与えようと「緊急開拓政策」を閣議決定し、今まで手付かずの未墾のアラユル山地に入植を勧めます。この結果、約30%が定住しますが、残りの7割は開墾を諦め各地に散って行くのです。その間、国は色々な政策で彼等を援助しますが・・・結局は棄民政策だと批判されます。
 しかし・・・TV番組「ポツンと一軒家」を視聴すると、戦後開拓民の一部は現在まで営々と農業や林業を続け確りとした生活の基盤を確立して居る方々もいらっしゃる様です。想像出来ない大いなる努力と忍耐がそれを裏付けます。そして、もうその様な不便な所には住めないと・・・その地の殆どは過疎地として忘れ去られてしまうのです。







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それは1979年から始まった アメリカとイラン 敵対の歴史を紐解く




 


 

 それは1979年から始まった アメリカとイラン 敵対の歴史を紐解く

          〜BUSINESS INSIDER JAPAN 1/9(木) 8:10配信〜


            1-11-1.jpg

               吉川慧氏 Kei Yoshikawa

 1988年東京都生まれ 東京中華学校講師(世界史)ドワンゴのニュース部門等を経て2016年3月から現職 関心領域は政治・国際ニュースの他、歴史、美術、映画、将棋、落語、アニメ・漫画等 お肉が大好き ハフポストの特集企画「#だからひとりが好き」ディレクター  連絡先 kei.yoshikawa@huffingtonpost.jp

 〜トランプ大統領の命令で米軍がイランの革命防衛隊「コッズ部隊」のソレイマニ司令官らを殺害したことで、両国間で緊張が高まって居ます。1月8日、イランはイラク国内の米軍基地をミサイルで攻撃。更なる報復の連鎖と中東情勢の不安定化が懸念されて居ます。アメリカとイランは何故敵対して居るのか。歴史的な経緯を簡単に振り返ってみます〜


 



 
 1 パフラヴィー2世がアメリカと接近

 過つてのイランは今とは違い、シャー・・・古代ペルシアに於ける「大王」の呼称。報道では「国王」「皇帝」等と表記・・・が支配する王政の国でした。第2次大戦期、国王レザー=ハーンは、ナチス・ドイツに接近した事でイギリスやソ連の反発を招き退位させられました。代わって国王と為ったのが、レザー=ハーンの長男モハンマド・レザー・パフラヴィー・パフラヴィー2世です。
 パフラヴィー2世は親英・親米路線でしたが、これに国内の民族主義勢力が反発します。「民族主義」とは、外国勢力からの解放・独立を目指す考えです。特に、イギリス系の石油会社が独占して居たイランの石油利権をイランの手に取り戻そうと云う抵抗運動が強まって行きます。

 1951年、イランでは民族主義者のモサデグ氏が首相に就任。モサデグ首相は石油の国有化を宣言。イギリス系のアングロ=イラニアン石油会社を接収しました。処が、こうした動きにイギリスやアメリカは反発します。1953年、米CIA等の工作によりイランでクーデタが発生。モサデグ首相が失脚し、パフラヴィー2世が再び実権を握りました

 当時は東西冷戦下でもあり、パフラヴィー2世はアメリカに接近。イランは1955年に結成された反共軍事同盟・中東条約機構(METO)に参加しました。アメリカとしても、イランを中東における反共の砦にしたかった訳です。モサデグ失脚で石油国有化も頓挫しました。石油の利権はイギリス・アメリカなどのメジャー・国際石油資本が実質的に支配する事に為ります。

 パフラヴィー2世の親米・独裁体制は、ヤガテ革命を招きました。1978年1月、イスラム教シーア派の聖都コムで、神学生等による反政府デモが弾圧されます。これ以降、王政に反対する動きが全国に飛び火しました。1979年1月、パフラヴィー2世は遂に国外に脱出し王政は崩壊しました。同年2月、フランス・パリに亡命して居た宗教指導者ホメイニ師がイランに凱旋帰国します。
 反体制勢力は王党派を駆逐。新たにイスラム原理主義・反米路線を掲げる新政権が樹立され「イラン=イスラム共和国」が成立しました。革命前迄のイランは中東において、西洋化を通じた近代化のお手本の様な存在でした。処がイラン革命は、こうした発展モデルを正面から否定する事に為った訳です。

 2 上からの近代化「白色革命」

 モサデグ失脚後、パフラヴィー2世はアメリカとの結び着きを強めて行きます。1963年からは「白色革命」と呼ばれる近代化政策が始まり、農地改革や国営工場の民間払い下げ、女性参政権、識字率の向上等が図られました。
 この「白色革命」は王権による上からの強権的な西洋化・近代化でした。その為宗教勢力や民族主義者などが反発します。処が、改革に反対する勢力は秘密警察に弾圧され、言論や思想の自由も封じ込まれました。

 パフラヴィー2世は、豊富な石油マネーを基に軍備拡張や更なる近代化を進めます。1973年の第3次中東戦争を切っ掛けとした第一次オイルショックの後、石油価格が高騰した事も背景にありました。 急激な近代化は、貧富の格差を広げる事に。都市には地方から農民が流入し農村は疲弊。インフレが発生し、国民の間では次第に経済的な不満が高まって行きます。







 3 イラン革命(1979年)

 パフラヴィー2世の親米・独裁体制は、ヤガテ革命を招きました。1978年1月、イスラム教シーア派の聖都コムで、神学生らによる反政府デモが弾圧されます。これ以降、王政に反対する動きが全国に飛び火しました。
 1979年1月、パフラヴィー2世は遂に国外に脱出し王政は崩壊しました。同年2月、フランス・パリに亡命していた宗教指導者ホメイニ師がイランに凱旋帰国します。反体制勢力は王党派を駆逐。新たにイスラム原理主義、反米路線を掲げる新政権が樹立され「イラン=イスラム共和国」が成立しました。

 革命前迄のイランは中東において、西洋化を通じた近代化のお手本の様な存在でした。処がイラン革命は、こうした発展モデルを正面から否定する事に為った訳です。

 4 米大使館人質事件とイラン=イラク戦争(1980〜88年)

 ホメイニ師を最高指導者とするイラン新政権は、中央条約機構・中東条約機構[METO]の後進から離脱する等反米政策を進めます。更には、イランから逃れたパフラヴィー2世の受け入れをアメリカが認めた事で、ホメイニ支持の学生達がテヘランのアメリカ大使館を襲撃。1年以上も大使館員とその家族52人を人質に捕る事件が発生しました。(アメリカ大使館人質事件)
 当時、アメリカのカーター大統領(民主党)は救出作戦を指示するも失敗。この事件は、カーター政権が1期4年で終わり、共和党のレーガンが大統領に為る切っ掛けに為ったと言われています。

 イラン革命後、イスラム教の宗派でスンニ派が優位の近隣国は、シーア派系住民による革命が広がることを懸念します。隣国イラクのサダム・フセイン政権はアメリカの支援の下、革命の混乱に乗じてイランに侵攻。この「イラン・イラク戦争」は8年に及ぶ泥沼の戦いに為りました。
 
 5 イラン核疑惑(2002)と核合意(2015)アメリカの離脱

 革命後の1980年以来、イランとアメリカは断交が続いて居ますが、対立が一層深まる事態が2002年に起こります。イランが核兵器を開発して居るのではと云う疑惑でした。イラン側は平和利用を主張しましたが、アメリカや西欧各国などは経済制裁を実施しました。
 2015年、アメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・中国・ロシアの6カ国は、イランと核開発に関する協定で合意に漕ぎ着けます。

 イランに求められたのは、核兵器に用いる様な高濃縮ウランや兵器級プルトニウムを15年間生産し無い事と、ウラン濃縮に使われる遠心分離機を大幅に減らす事でした。合意を受け欧米各国は、イランへの経済制裁を緩和する事に為りました。
 オバマ政権が締結したイランとの核合意でしたが、当時アメリカ国内では共和党を中心に「甘過ぎる」と批判が出ていました。

 その後就任したトランプ大統領は2018年5月、イランとの核合意からの離脱を一方的に宣言。制裁を再開します。直近のアメリカとイランの緊張は、此処が契機に為ったと言われています。アメリカの核合意離脱を受けて、イランは2019年5月から核合意の履行を段階的に停止して居ます。なお、イラン政府は1月5日、核合意に基づくウラン濃縮等の制限を全て放棄すると表明。
 更に、アメリカが原子力空母をイラン周辺に派遣する等軍事的圧力を掛けたり、イランが米軍の無人機を撃墜したりと、次第に両国の緊張が高まって行きます。







 6 米軍、ソレイマニ司令官殺害(2020年)

 イラン革命から40年余りが経った今、イランとアメリカの緊張の糸は、又も張り詰めてしまいました。2019年12月末、イラク北部キルクークにあるイラク軍基地にロケット弾が撃たれ、民間業者のアメリカ人1人が死亡。米軍とイラク軍の複数の軍人が負傷しました。
 首都バグダッドでもイランの支援を受ける民兵組織の支持者がアメリカ大使館を包囲、投石する事態が発生しました。米軍によるイランのソレイマニ司令官ら殺害のニュースが伝えられたのは、その直後の1月3日です。アメリカ側はソレイマニ司令官の影響下にあったシーア派民兵組織が、アメリカ人や米軍施設への攻撃を計画していたことを殺害理由として居ます。

 一方で、2020年11月に大統領選挙での再選を狙うトランプ大統領が、選挙を意識して取った行動ではないかと云う指摘もあります。又、自身が下院の弾劾決議を受けた不正疑惑「ウクライナ疑惑」から目を逸らす為では……という声もでて居ます。
 ソレイマニ司令官らの殺害後、トランプ氏は「我々はイランの52の地域を標的にした」とツイート。この「52」と云う数字は、アメリカ大使館人質事件での人質の数を意味して居るとされます。イラン問題が失脚に繋がったカーターの様に、これで大統領選に負ける訳には行かないという意思表示なのでしょうか。

 何れにしても報復の連鎖に歯止めは掛かるのか。イランのミサイル発射を受けて、トランプ大統領は1月9日に何らかの声明を発表すると表明して居り、その内容に注目が集まります。


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                文・吉川慧     以上







 
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これが世界の左派が掲げる反緊縮政策だ 松尾匡氏(立命館大学経済学部教授)










 これが世界の左派が掲げる反緊縮政策だ 松尾匡氏 立命館大学経済学部教授 

            〜ビデオニュース・ドットコム 1/9(木) 2:56配信〜


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           松尾 匡(まつお ただす) 立命館大学経済学部教授

 安倍政権が歴代最長の政権を維持出来て居るのは、何と言ってもこれ迄毎如く選挙に勝利して来たからだ。そして、その勝因は常にアベノミクスに代表される経済政策だった。
 実際、安倍政権は安保法制や秘密保護法・共謀罪等の難しい法案を可決させて来たが、毎回選挙で問われたのはそうした安全保障政策や社会政策では無く経済政策だった。野党がアベノミクスへの対案を提示出来て居ない事が、安倍政権の長期政権化を可能にして来たと言っても過言では無いだろう。

 立命館大学経済学部の松尾匡教授は、アベノミクスに一定の評価を与えながらも、それに対抗する経済政策を提示する事は十分に可能だと語る。それが左派による反緊縮経済政策だ。
 これは必ずしも日本に限った事では無いが、我々はどんな政策を実行するにも財源の裏付けが必要だと強く思い込まされて来た。そして財源とは税収若しくは国債・・・詰まり借金によって賄われるものであり、借金が膨らみ過ぎると財政破綻のリスクが増すので、緊縮政策を採ら無ければ為ら無いと教えられて来た。

 処がこの考え方に異を唱える勢力が世界で台頭して居る。イギリス労働党のコービン党首やアメリカ大統領に出馬中のバーニー・サンダース候補やオカシオ・コルテス下院議員等世界各国の左派の間で反緊縮政策を提唱する勢力が支持を集めて居ると云うのだ。
 最近注目を集めて居るMMT・現代貨幣理論もその流れを汲む。日本では山本太郎氏の「れいわ新選組」が、反緊縮を前提とする再分配政策を主張して先の参院選を戦い躍進して居る。

 松尾氏によると、こうした反緊縮左派は、財政危機論は新自由主義者のプロパガンダだと主張する。財政危機を煽り緊縮財政を推し進めれば、公的社会サービスが削減され、民間に新たなビジネスチャンスが生まれる。又、公有財産を切り売りすれば大資本が儲かり、しかも新自由主義が目指す小さな政府が実現すると云った具合だ。
 反緊縮左派の考え方は非常に明快だ。要するに、通貨発行権の有る政府はデフォルトリスクは全く無いので、財源が必要で有れば通貨をジャンジャン刷って財源を賄えば好いと云うのだ。

 そんな事をすれば大変なインフレに為ってしまうと考えるかも知れないが、不完全雇用の間は、どれだけ通貨を発行してもインフレは悪化しないと云うのは、今日では反緊縮派に限らず、主流派・非主流派のケインジアンに共通する経済政策の考え方だと松尾氏は言う。
 インフレに或る程度の上限を設けた上で、そこ迄は通貨の発行によって社会政策の財源を賄って行くのが反緊縮派の経済政策の要諦と為る。その一方で松尾氏は、通貨の発行により確保した財源を、医療、教育、社会保障等の社会サービスの拡充に再分配し、より公平な世の中を志向する政策を提案する事により、安倍政権が掲げるアベノミクスとの対立軸を明確にする事が出来ると語る。

 財界や大企業の意向を強く受けた安倍政権には、再分配や公平な世の中を志向する政策路線は採れ無いと考えるからだ。より公平な社会を作る為には再分配が必要だが、その為に財源が不可欠だ。しかし、税の累進性を高める事で富裕層への課税を強化したり法人税を増税するだけでは限界がある。
 もし反緊縮派の主張する様に財政赤字を気にせずに再分配をする事が出来れば多くの施策が選択肢に入って来るが、ソモソモそんな事は可能なのか。反緊縮政策とはどの様な考え方に基づいて居たもので、そこに落とし穴はないのか。反緊縮派の重鎮の松尾氏に、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が聞いた。


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 松尾 匡(まつお ただす) 立命館大学経済学部教授 1964年石川県生まれ 1987年金沢大学経済学部卒業 92年神戸大学大学院経済学研究科博士後期課程修了 博士(経済学)同年より久留米大学経済学部教授 2008年より現職 著書に『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』共著に『そろそろ左派は経済を語ろう』『「反緊縮!」宣言』など

 本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください

                   以上

















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