アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2019年10月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
ヨリちゃんさんの画像
ヨリちゃん
プロフィール

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2019年10月25日

日本占領がもたらした「負の遺産」




 日本占領がもたらした「負の遺産」

          〜nippon.com 増田 弘 10/25(金) 15:00配信〜



    02610742_310.jpg 戦艦ミズーリ艦上で降伏文書調印

 〜アジア・太平洋戦争に敗れた日本は1945年9月から52年4月まで米国が主導する連合国軍の占領下に置かれた。米国による日本占領は、1945年9月2日に米戦艦ミズーリ号上で行われた降伏調印式から、サンフランシスコ講和条約が発効する52年4月28日まで、6年8カ月もの長期に及んだ。一体何故占領期間がこれ程長期化したのか占領によって、日本人は何を得て何を失ったのか〜






 現代日本の原型を作った長期占領 

 その主な理由は、第1次世界大戦終結後の講和が悉く失敗した事に起因する。詰まり、パリ平和会議では戦勝国だけで講和条件を取り決め、ドイツ等敗戦国側にベルサイユ条約他の講和条約を強要したが、この即時講和方式は、結局ファシズムの台頭を招き、第2次世界大戦の勃発を防止出来無かった。
 連合国側はこの歴史的結末を深く反省し、今回は直ちに平和条約を結ぶ方式を見送り、日本やドイツ等枢軸国を平和愛好国家へ改造する事が真の近道と考え、一定期間の占領方式を採用したのである。

 こうして手間暇の掛かる偉大な実験が挙行された。確かにこの実験を通じて、日本は過去の軍国主義・全体主義・超国家主義体制を払拭(ふっしょく)すると云った革命的な大変貌を遂げた。米国単独統治による日本の非軍事化・民主化の成果には目を見張るものがあったと言え様。
 新憲法制定、主権在民と象徴天皇制、三権分立、男女平等、財閥解体、農地改革、教育改革、人権保障と言論の自由等、現代日本の政治・経済・社会・法制・教育・文化等の原型は、ホボこの6年余りの占領期に形成されたと言っても過言では無い。

 削除された昭和天皇の「反省」

 では、明治維新期の西欧化路線に次ぐ、第2の戦後米国化路線は、上記の正の遺産を以て無上の天恵と納得して好いのであろうか。筆者の答えはノーである。この占領期を通じて、日本人と日本社会は或る重大な歴史的失錯を犯したと言わざるを得無い。その失錯とは何か。それは戦争責任を回避した事による自主性・主体性の喪失である。

 2019年8月17日に放映されたNHKの特別番組「昭和天皇は何を語ったのか」は、その重大な歴史的過失をいみじくも明らかにして居た。
 これは、戦後民間から初めて宮内庁長官に抜擢(ばってき)された田島道治の「拝謁記」5年間(1949~53)に依拠してドラマ化されたものである。

 戦前の現人神(あらひとがみ)から、戦後人間宣言をして国民統合の象徴と為った天皇いわく「私は反省と云うのが沢山ある」その一つが「敗戦の責任」であると。
 明治憲法下、軍の統帥権を握る天皇ではあったが、実質的な決定権が無い立場から無答責とされ「法律上の戦争責任は無い」と米国側から認定された。但し南原繁東大総長等は道徳的責任論を唱え天皇の退位を促した。

 しかし 連合国軍総司令部(GHQ)の頂点に立つダグラス・マッカーサー元帥がそれを抑止した事で、1948年時点での天皇退位問題は収束する。
 しかし講和論が浮上すると、天皇は再び戦争責任を口にする様に為った。独立回復と為れば、天皇が声明を発する事に為る。そこで天皇は田島に対し、その際、自己責任をカムフラージュするか、実情を国民に話すべきかを問うた。

 1951年9月8日にサンフランシスコで対日平和条約が調印され、条約発効が近付くと、天皇は「私は反省と云う字を入れねばと思う」と発言する。
 これは田島らを逡巡(しゅんじゅん)させたが、その要望を入れた草案が吉田茂首相に送付された。すると吉田から「過つて無き不安と困苦とを招くに至った事は、遺憾の極み…」との一節を削除せよとの指示があった。不満の表情を見せた天皇も、結局これに同意し、1952年4月28日の平和条約発効と独立回復を経た5月3日、戦争への反省に触れ無い天皇の「お言葉」が表明されたのである。





 「自己保身」が招いた戦争責任の封印

 もしこの時、天皇退位が実現して居たとすれば、以後の日本の情勢はどう推移したであろうか。過つての最高権威者が戦争責任を具現化したと為れば、旧軍部以下、政官界、経済界、言論界、教育界、又地方に迄激震が及んだであろう。

         ECKr7acW4AY0QcJ.jpg 一億総懺悔発言

 終戦直後の東久邇内閣が一億総懺悔(ざんげ)を唱えながら、戦争責任問題を等閑に付し、GHQの突然のパージ(指導者追放)指令によって日本列島はパニック状態に陥るが、その様な他律的な矯正では無く、天皇退位は自律的かつ主体的に太平洋戦争への道を自省する重要な契機と為ったに相違無い。鬼畜米英から礼賛へと豹変(ひょうへん)した国民とて同様であったろう。

 それは国内に留まらず、アジア諸国や世界に対しても日本の新たなメッセージと為ったであろう。処が逆に戦争責任を封印し、真実を糊塗(こと)する道を選んでしまった。
 日本が主体性と自信を失った瞬間でもある。その意味で、天皇退位か否かは戦後史上の決定的メルクマールであったのではないか。では一体何故吉田首相は天皇が戦争責任に論及する事に異を唱えたのか。

 臆測を交えれば、第1に、当時自由党内では権力闘争が激化して居り、鳩山一郎らの反吉田勢力が憲法改正と再軍備論を掲げ、これが天皇の再軍備容認論に結び着けば、一気に政局と為り、首相の座が脅かされると恐れた事。
 第2に、戦争責任から天皇が退位すれば、自己の退任論にも波及する可能性があった事。
 第3に、朝鮮戦争の特需景気により、困窮のドン底にあった日本経済が息を吹き返して居り、今は過去の問題よりも将来の問題を優先すべきだと考えた事。
 第4に、皇太子(後平成天皇)が15歳の未成人であった事等がその理由であったろう。

 上記の第3と第4は、吉田独りでは無く、広く国民も共有する問題であったが、第1と第2は明らかに吉田の政略上の問題であり、自己保身に走ったに等しい。
 政争の渦中に在ったとは言え、政治家として吉田は歴史的視野に立った哲学的思索を欠き、近視眼的に日本の物質的回復を志向したとの非難は免れ無い。戦争責任に対して明快な結論を下すと云う千載一遇の機会を失った事は、戦後日本に執って最大の不幸であった。

 



 甘えの構造を定着させた吉田路線

 吉田にはもう一つ負の遺産がある。吉田は吉田路線と云う戦後日本の骨格を固めた功労者と評されるが、本人の真意は兎も角、吉田路線は日本社会に他力本願と云う甘えの構造を定着させた。
 実は野党や鳩山らの反発は、吉田の独善的姿勢や非民主性ばかりで無く、その対米依存政策にも在った。これでは「真の独立では無い、仏作って魂の入れ忘れだ」と。

 日本は1960年代以降、奇跡とも呼ばれる高度経済成長を遂げた。この間に物質的豊かさが追求されても、精神的自立性や主体性は放置された。果たしてその結果はどう為ったのか。
 1990年代初頭、湾岸戦争時に経済大国日本の国際貢献の在り方が国際社会からバッシングを受けた。「カネは出すが人は出さず、増して汗も血も流さ無い」と。改めて政府も国民も一国平和主義他力本願主義の末路を悟らされたのである。

 但し「経済重視の吉田路線は現状に合わ無い」「日本の実力に釣り合う国際的役割を志向し無ければ為ら無い」と、脱吉田路線を掲げた首相が居た。それが大平正芳と中曽根康弘である。
 大平は「総合安保」「環太平洋構想」を、中曽根は「経済大国に匹敵する政治力と安全保障上の役割」を提起した。処が新聞・テレビ等指導的世論はこれを評価せず、ホボ無視した。国民世論も無難な吉田路線を支持した。

 もし日本世論が客観的に自己省察を深めて居た為らば、湾岸戦争時の対日非難は別の形を取って居たのではないか。此処でも日本人社会に病巣化した他国依存主義主体性・自主性の欠如があり、その根底には、戦争責任を等閑視した負の遺産を見る事が出来る様に思われて為ら無い。



              01_13104 (2).jpg

 増田 弘 MASUDA Hiroshi 政治学者 立正大学名誉教授 専門は日本政治外交史・日米関係・安全保障論1947年神奈川県生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科卒業 同大学院法学研究科博士課程修了 法学博士 著書に『公職追放』(東京大学出版会、1998年)『自衛隊の誕生』(中公新書、2004年)『マッカーサー』(同、2009年)『南方からの帰還』(慶応義塾大学出版会、2019年)など

                 以上


 【管理人のひとこと】

 我が国の国民は、戦争に対しての責任も反省もせず、殊更、経済的繁栄を追求するのみの利己的な国民性では無かろうか・・・と絶えず警鐘を鳴らされて来た様な感じがする。
 戦後の自由平等や民主主義もアメリカJHQによって上から「タナボタ」の様に与えられたに過ぎず、その大切さを身を以て知ら無い。だから、政治・政府に対しても鷹揚な態度を取り、腐敗・違法な出来事にも「マアマア」で済ませてしまい、何時まで経っても緊張感のある議会政治も出来無い・・・と。

 それに対して、同じ東洋の国である韓国の国民・市民は、戦後以来の軍事独裁政権を倒し現在の民主制国家を作ったその圧力は日本とは大いに異なる・・国民性の違いだとメディアは分析するが、実は根本的な戦後以来の生き方の違いでもあるのでは無かろうか、と最近考えてしまう。協調性を尊び独自性を嫌う様な国民性に依るものだろうか。
 何事でも「お上の言動は正しい・・・」のだと信じ込み、何か可笑しなことが起きても「マアマア」で全て事勿れ主義で納めてしまう。そして現在は先進国の中で最下位の貧しい国へ為ってしまった。増田 弘先生の文章を読み、益々自省する日々である。



 



 ワールドビジネスサテライトや産経新聞、雑誌プレジデントでも紹介


25分129円〜のマンツーマン英会話なら「レアジョブ英会話」










「効率ばかり言う人」が結局、成功しない3大理由




 「効率ばかり言う人」が結局、成功しない3大理由

           〜東洋経済オンライン 10/25(金) 5:20配信〜



 ビジネスに於いて効率化は大切な事ですが、効率ばかりを重視してしまう人が陥ってしまう失敗とは?


           13.jpg

 来年2020年で創業35周年を迎える株式会社ディスカヴァー・トゥエンティワンのCo-founder及び取締役社長であり、自ら編集した書籍も累計1000万部を超える干場弓子氏。

 〜直近では、ディスカヴァー編集教室を開校し、広く後進の指導にも力を注いで居る他、TV・雑誌・新聞・ネットメディアにも多数登場、大学・社会人・出版人向けの講演も多数行って居る。
 この度、初の著書『楽しくなければ仕事じゃない「今やっていること」がどんどん「好きで得意」になる働き方の教科書』を上梓した干場氏が「『効率ばかり言う人』が結局成功しない理由」を解説する〜






 今は「効率」ばかりを重視する人達が多い

 私は、ディスカヴァー・トゥエンティワンと云う出版社を創業時から育て経営して来た。出して居る本は、コミックと雑誌と学術書以外は一通りで、ビジネス書・自己啓発書が中心だ。気が付いたら来年2020年で創業35周年に為る。
 25年前に新卒社員の一般公募を始めて以来、延べ1万人以上の学生達を見て来た。そして、数十人の新卒社員を育てて来た。その中で「若い人達の変化」も身を以て感じて来た。

 出版社を志望するのは、会社の規模の割には比較的偏差値の高い大学の学生が多いのだが、ここ数年、彼等に共通するのは「要領の好い」「好い子ちゃん」が増えて居ると云う事だ。要領が好いと云う事は、詰まり「効率」を重視すると云う事。何でも効率好く熟す事が会社に求められて居る事であり、且つ「優秀さを示すバロメーター」だとでも思って居るみたいな節もある。
 忙しいビジネスパーソンに取っては無駄な事を出さず、より効率的に仕事をする事は好い事かも知れない。だが、効率を求める余り、一番大切な「仕事を楽しむ」事が出来ず、結果的に伸び悩み、仕事の成功にも結び付けられて居ない人も少なく無い。

 では「効率」ばかりを求めて居る人が結局、成功しない理由は何なのか。様々な理由があるが、ここでは主な3つに付いて解説する。

 1つ目は「効率ばかり言う人」は、往々にして「効率」と言いながら、それが「手抜き」「力の出し惜しみ」に繋がって居ると云う事だ。

 今も生きて居る「『ウサギとカメ』の教訓」

 その効率化は、単なる「手抜き」「力の出し惜しみ」では?ディスカヴァーの採用は、原則新卒(第2・第3新卒でも好いのだが)採用で、全員先ずは書店営業に就く。そこで、新人のMVPを獲る人達に共通するのは、マニュアル以上の事を自分で工夫して行って居ると云う事だ。
 自社の数百点に及ぶ稼働書籍を覚える為に、自分でパソコンに書影を入力し、フラッシュカードの様な方式で即座に答えられる様して居たり、お店におけるお客様の動線を観察し、売れる場所を見付ける為の独自のマニュアルを作って居たり。逆に、成績の悪い人に限って「マニュアルが整備されて居ない」とか「社内インフラが整って居ない」とか「訪問するより電話の方が好い筈だ」等と、兎角「効率化」を訴える。

 しかし、私に言わせれば、その殆どが「効率化」では無く、単なる「手抜き」「力の出し惜しみ」だったりする。何事も「出し惜しみ」をして居ると、本当に枯渇してしまう。目一杯出すと減った分処か、その倍位、何処からか湧いて来るのは、遣る気も能力も同じではないか。
 只課題を卒なく熟すだけでは、結局その場限りの仕事に為ってしまい、月日が経てば忘れてしまい勝ちだ。しかし1度、徹底して深めた事は「自分の血肉」に為り「武器」に為る。そうすると、その先、それに付いては二度と学ば無くても好く為るので、長い目で見れば、ズッと効率的とも言える。

 新入社員の頃から、要領好く何でもサッサと卒なく熟す人より、不器用だが、力を出し惜しみしないで課題と格闘して居る人の方が10年経ってみたら、ズッと伸びて居る事が多い。時間は掛かるけれど「ウサギとカメの教訓」は今も生きて居る。

 2つ目の理由は、仕事の成果と云うのは、ソモソモ「自分に」「直ぐにその場に」表れるとは限ら無いと云う事だ。





 或る程度の「時間軸」で見る事が大事

  仕事の成果は、直ぐにその場には表れ無い。とかく「効率」を重視する人程「コスパ」を気にする事が多い。「コスパ」とは、コストパフォーマンス、費用対効果。費用がどれだけ効率好くパフォーマンスに生かされて居るかと云う点では、要するに或る種の効率だ。
 買い物や食事に「コスパ」を考えるのは好いとしても「アノ人と付き合うのは『コスパ』が悪い」等と仕事や人間関係に迄「コスパ」を持ち込むのは如何なものか。確かに、コストにはお金だけで無く、労力や能力・時間も含まれるから、リターンは出来るだけ早い方がコスパは好い事に為る。でも、特に若い人程、仕事で学ぶ事の多くは「直ぐには成果の出無い」ものだ。貴方が幾ら勉強しても投資しても、それが仕事の成果として表れるには時間が掛かる。

 人間関係でも「これは行っても意味が無いだろうな」と思った勉強会やパーティーで、新しい著者候補の人や、後々まで付き合える人に出会える事も多い。ソモソモどんな仕事でも、成果は「自分に直ぐにその場に」表れるとは限ら無い。貴方がコツコツと仕込んで来た事が、貴方がその部署に居る時には成果と為っては表れず、後任の人の成果と為って表れる事も珍しく無い。
 仕事の成果は「直ぐにその場」には表れ無いと思って置いた方が好い。仕事の成果は「全体」に表れる。「他の誰か」に表れるかも知れ無い。そうは言っても、仕事とは、そんなものではないか。今、貴方が「誰かのお蔭」で、その仕事の成果を出せて居る様に。

 でも「リターン」は必ず有る。今直ぐ、此処には返って来ないかも知れないけれど、或る程度の時間軸で見れば必ず。コスパ、コスパと、目先の効率だけを追い求め、出来るだけスマートに働こうとする事は「仕事を楽しむ」のみならず「成長する」と云う目的からも離れる一方なのだ。

 3つ目の理由は「無駄」を省いて行くと、結局、色々な「チャンス」も失い勝ちと云う事だ。

「無駄」を省くと「チャンス」も失う。そもそも「無駄」って何だろうか?確かにメールで済む事をワザワザ紙に書いて郵便で送ら無ければいけ無い様な決まりとか、タダタダ関係者のメンツを立てる為の会議とか、そう云う無駄は省くべきだ。
 しかし、例えば年に1度、会社のパーティーでの足った5分の出番の為に、1カ月前から何十時間も掛けてダンスの練習をするのは「無駄」だろうか? 
 「アレも無駄」「コレも無駄」と遣って居たら、最後は一番無駄な存在は自分だ、と云う事には為ら無いだろうか? 

 しかし、先程も述べた様に「一見無駄に感じられる出会い」が、後に「素晴らしい縁」と為ったりする。一見無駄な勉強が、後で役に立ったりする。引き出しやチャンスは、多ければ多い程好い。何であれ、一直線に欲しいものに辿り着けるナンて事は滅多に無い。大抵「回り道」をするものだ。でも、その回り道コソが人生ではないか。
 だって、人生は「結果」では無くて「プロセス」だから。そうじゃ無かったら、人生のゴールは死ぬ事に為ってしまう。人生は結果では無く生きることそのものが目的の筈。「効率」ばかりを目指して「無駄」に見えるものをドンドン省いて行くと、結果として、現時点では想像出来無い様な出会いやチャンスを自ら塞いでしまう事に為りかね無いのだ。

        hoshiba.jpg

 無駄なのは「ぜい肉だけ」だ

 私は若いスタッフに時々尋ねる「50の投資で80点を執って合格するのと、200の投資で100点を執って合格するのと、ドチラが偉いと思う?」と。大抵前者だと答える。
 「後者は効率が悪過ぎる。ビジネスだったら赤字じゃないですか」と。確かに「ビジネス」だったら赤字だ。けれども、私は「個人の成長」の事を言って居る。無駄に使った(様に見える)100の投資は、消えたりはしない。その人の中に確実に残る。残って「次の成長の礎」に為る。

 人生は、一見「余計な事」「無駄な事」を、どれだけ遣るかだ。仕事でも勉強でも。恋や友情だって「無駄なおしゃべり」の中で育まれる。無駄なおしゃべりを何時までも続けられるのが仲良しの証拠じゃないか? 
 山登りにしろバンドにしろ、花火大会にしろ祭りにしろ、何の為?と問われれば「楽しみの為」としか応えられ無い。そんなの、エネルギーの無駄か?経費の無駄か?税金の無駄か?無駄なもの、合理的で無いものを排除した民族・組織は、存続出来無いそうだ。個人も人生もそうじゃないかな。無駄なのはぜい肉だけだ。


 干場 弓子 :ディスカヴァー・トゥエンティワンCo-founder・取締役社長  以上






25分129円〜のマンツーマンレッスンなら「レアジョブ英会話」


ワールドビジネスサテライトや産経新聞、雑誌プレジデントでも紹介された英会話














4度の特攻から生還した男が「刑事」として生きた激動の戦後




 4度の特攻から生還した男が「刑事」として生きた激動の戦後
 
 失業した3.906人の戦闘機搭乗員たち


           〜神立 尚紀 カメラマン・ノンフィクション作家〜


 〜太平洋戦争の最中、十代半ばで海軍の搭乗員養成機関である予科練を志願した一人の若者が居た。飛行機の操縦を覚え、イザ敵機を戦わんと戦場に出た途端、特攻隊員に指名され、4度出撃するが、一度も敵艦に遭遇する事無く敗戦を迎える。
 未だ19歳の、飛行機の事しか知ら無い若者は、身一つで焦土と化して大混乱の社会に放り出されてしまう。ゼロからの人生のリスタートに、彼は刑事として犯罪捜査に生涯を懸ける道を選んだ。アレから73年、92歳と為った男は、この平成の世に何を思うのか〜


 
 多くの下士官兵達が警察官への道へ

 旧日本海軍の主力戦闘機として、今なお語り継がれる「零戦」(零式艦上戦闘機)が、海軍に制式採用されたのは、日中戦争(当時の呼称は支那事変)が泥沼化して居た昭和15(1940)年7月24日。今から78年前のことである。
 零戦は、それから5年後の昭和20(1945)年、日本が連合国に降伏し太平洋戦争(大東亜戦争)が終わる迄第一線の戦闘機で在り続けた。総生産機数は1万機を超え、これは日本製の飛行機として、今後も破られる事は無いであろう最多記録だ。

 海軍の戦闘機搭乗員の戦没者は4.330名、内4000名近くが零戦によるものである。終戦時、日本海軍には零戦1.166機を初め、1.709機の戦闘機(旧式機は除く)と3.906名の戦闘機搭乗員が残存して居たが、搭乗員の多くは実戦経験が無く「歴戦の」と枕詞の着くベテランはホンのひと握りに過ぎ無かった。
 拙著『証言 零戦』シリーズ(講談社+α文庫)は、そんな生き残り搭乗員の内、実戦経験の有る人を中心に23年に渉って数百名を訪ね歩き、彼等が潜り抜けて来た激動の戦中・戦後の体験にスポットを当てた証言集である。登場人物は、日本初の敵機撃墜を果たした搭乗員、日本初の編隊アクロバット飛行チームの一員、そして、零戦が「向かう処敵無し」だったデビュー当時から、南太平洋やオーストラリア上空での激闘を経験した搭乗員、大戦末期、特攻隊員として出撃した搭乗員迄多岐にわたる。

 戦後の歩みも人夫々で、人間、全てを失った処からの再スタートで、ここ迄逞しく立ち上がれるものかと、インタビューの都度、私自身も目を開かされる思いがした。戦中、アメリカ軍の戦闘機乗りが全員、少尉以上の士官だったのに対し、日本海軍では養成コースの仕組み上、下士官や兵の搭乗員が大半を占める。 その殆どが、高等小学校卒か旧制中学中退で海軍を志願した少年で、頭脳明晰・身体頑健ではあるものの、職業経験が無いので飛行機に乗る以外に潰しは効か無い。だが、GHQの方針出一切の航空活動を禁じられた日本人が再び空を飛べる様に為るかどうか、当時は誰も知る由が無い。

 生きて行く為に、或る者は家業を継ぎ或る者は農地を開拓し、或る者は空襲の焼け跡に職を求め、又或る者は囁(ささや)かな事業を興し夫々に第二の人生を歩み始めるが、彼等の進路を辿って行くと、警察官に為った者が少なく無い事に気付く。
 軍隊で厳しい訓練に耐え、戦闘を潜り抜けた旧軍の下士官兵に取って、公務員として定収入の見込める警察官は、軍人としての経験が生かせる、まさに打って付けの職業だった。これは、明治初期、警察制度が発足した当時の邏卒・捕亡吏(後の巡査)に、過つての下級武士が多かったと云う事情に通じるものがあるのかも知れ無い。





 一度も志願して居ないのに指名された特攻出撃

 シリーズ最新刊『証言零戦 搭乗員がくぐり抜けた地獄の戦場と激動の戦後』の登場人物中、最年少の長田利平さん(92)も、戦後、警察官に為った一人である。
 長田さんは、大正14(1925)年、山梨県忍野村生まれ。昭和18(1943)年4月、予科練に入隊、凄まじい速成教育を経て戦闘機搭乗員に為る。昭和19(1944)年12月、大戦末期のフィリピンで零戦に搭乗して米軍戦闘機と空戦を交え、初陣。
 翌昭和20(1945)年1月、米軍の侵攻から逃れ、命カラガラ脱出した台湾で「一度も志願して居ないのにも関わらず」特攻専門部隊である第二〇五海軍航空隊(二〇五空)に編入、3月9日、正式に神風特別攻撃隊「大義隊」(隊員103名)の一員と為った。

 昭和18年3月30日、岩国海軍航空隊に入隊するため、故郷・忍野村を発つ。当時17歳

 短躯でガッチリした体形の長田さんは、飛行服を着、ライフジャケットを着けた姿が当時の人気漫画「タンクタンクロー」のキャラクターに似て居る事から、ここでは「タンク」のニックネームで呼ばれて居た。長田さんの回想。

 「空戦で、コチラの技倆が劣って居て撃墜されるのなら仕方が無い。しかし、爆弾を抱いて体当りでは、何の為に今まで努力して来たのか判ら無い。待って居るのが同じ『死』であるにしても、それとコレとは全く別だと思い、私は特攻を志願しませんでした。にも関わらず、否応無しに選ばれたんです。
 特攻に指名されたその日から、死んだらどう為るんだろう、死後の世界はあるのかと考える反面、体当たりすれば木っ端みじんに砕けて全てが無に帰する、等と思ってみたり・・・19歳の少年に哲学や仏教の知識はありませんし、観念的に、故郷の山河や父母兄弟姉妹、延いては祖国日本を救う為の礎に為ろう、と考えるのが精一杯でした」


 昭和20年4月1日、沖縄に来襲した米艦隊を迎え撃つ為、石垣島・台湾の新竹・台南の3つの基地から計20機の「第一大義隊」が出撃したのを皮切りに、二〇五空は二十三次に渉って特攻出撃を重ねた。
 長田さんの特攻機としての初出撃は、4月13日の事である。この日、石垣島から4機、台湾の台中から30機、計34機が「第九大義隊」として出撃。長田さんは250キロ爆弾を搭載した零戦に搭乗し台中基地を発進した。

 「ニッコリ笑って出て行く、と云うのは、要するに開き直りですよ。人間ですから、死を目前にして色々思い悩む事はありましたが、整列したらもう割り切れました。よし、どうせ突っ込むならデカいのにブツかろう、どうせ死ぬんだから、責めてニッコリ出て行こう、と気持ちが吹っ切れるんです」

 離陸して編隊を組むと、互いに手信号で確認し合って、機内からワイヤーで繋がって居る爆弾の安全栓を左手で抜く。信管に直結する発火装置の風車が回り出し、零戦の腹に抱いて居る爆弾は即発状態に為る。だが、目標の位置に付いては数時間前の索敵機の情報が元に為るので、予定地点に着いても敵艦隊は既に移動して居り、姿が見え無い事の方が多かった。

 「予定地点に敵を見ず、付近を旋回しながら敵を探したけど見つから無い。それで、石垣島に着陸しました。ホッとしました……」

 長田さんは以後、4月29日・5月4日・6月22日と特攻出撃を重ねるも、敵艦と遭遇すること無く生還、台湾北東部の宜蘭基地で終戦を迎えた。「大義隊」の特攻戦死者は35名だった。





 大学の法科出も高等小学校卒も横一線の警察学校

 昭和21(1946)年1月、郷里・忍野村に帰った長田さんは、同じ村の女性と結婚、暫く家業の農業を手伝うが、偶然、富士吉田警察署前に掲示されて居た横浜市警察の警察官募集ポスターを見た事から、人生が急展開する。

 「農業は好きだけど現金収入が不安定だから……毎月、決まった収入のある仕事に就こうと、女房には内緒で、義兄を誘って一緒に警察の試験を受けました。昭和23(1948)年秋、試験会場は大月市役所の講堂です。試験官は横浜市警の警部補と巡査部長の二人で受験者は30名程。
 一つの机に二人が座り、隣の受験者の答案を見ながら書いても何も言われ無い、今思えば大らかな試験でした。二人とも採用通知が来て、昭和24(1949)年に横浜市警に入りました。この頃はGHQの施策で、日本の警察の弱体化を図ると共に、アメリカ流に市や町の自治体に警察を持たせ、村や郡部は国家地方警察としての県警察の管轄としたんです」


 長田さんは初め、淵野辺(現・相模原市)の警察学校で、神奈川県警・横浜・川崎・横須賀の各市警に採用された55名と共に訓練を受けた。

 「憲法、法律、警務、交通、逮捕術から一般教養まで、全く未知の領域で、それが返って好奇心を刺激して勉強に熱が入りました。警察学校の同期には、大学の法科を出た者が一人、元学校教員、海軍兵学校卒が各一人居ましたが、残りは全員、中学か高等小学校卒でしたね。
 警察の勉強のスタートは一緒だから、努力すれば高等小学校卒の自分でも一番に為れるんじゃないかと思い頑張りましたよ」


 半年の教育を終え、警察学校を5番の成績で卒業した長田さんは、昭和24(1949)年12月末、鶴見警察署に配属された。
 最初の仕事は、警察署の周囲を受け持つ署在派出所勤務で、犯罪を犯して送検される被疑者の身柄を検察庁に移すのが主な任務である。当時は現在の様な護送車は無く、被疑者一人に警察官一人が付いて、手錠、腰縄を掛けた被疑者を電車に乗せて護送して居たと云う。

 「乗客がジロジロ見るので、好い気分はしなかったですね。電車が混んで居る時は、逃走され無い様特に緊張したものです」

 昭和25(1950)年の正月、鶴見署の『武道始式』の柔道大会で優勝、これに自信を着けた長田さんは、職務質問から窃盗犯を検挙したり、警邏中に花札賭博の現場を発見、一人で10人を検挙、警察署に連行した事もあった。
 昭和28(1953)年2月、巡査部長に昇任。戸部警察署外勤係主任として、管内の派出所を監督する仕事に就いた。

 「その内に捜査係が三部制に為り、主任を務める巡査部長が三人必要に為って、署内異動で捜査第一係(殺人、放火、強盗等の強行犯を担当)の主任に移りました。ここで刑事に為った訳です」

 職務上知り得た事は、公務員の守秘義務上、詳しくは話せ無いと云う長田さんが、戸部署時代に捜査に携わった事件で特に印象に残って居るのは、昭和29(1954)年、同僚が不審者に職務質問した処、鈍器で頭を殴られ殉職した事件と、34(1959)年、野毛山公園でデート中のカップルが何者かに襲われ、男性が刺殺された殺人事件で、犯人の少年5人を検挙した事だと云う。

 その間の昭和29(1954)年、新警察法の公布に伴い、新たに都道府県警察として神奈川県警察本部が発足、翌30(1955)年7月、横浜市警察は神奈川県警に吸収される。昭和35(1960)年4月、長田さんは、神奈川県警察本部刑事部捜査第一課に転勤した。

 「捜査一課は殺人、放火等の凶悪犯、二課は詐欺・横領等の知能犯、三課は泥棒、四課は暴力団を担当し、後に機動捜査隊と云う、初動捜査を担当する部署が出来て、私は二課以外は全部ヤリました」

 刑事の仕事は多忙で過酷だった。長田さんが県警本部に赴任して直ぐ、三崎警察署管内で放火強盗殺人事件が発生、捜査本部が置かれ、長田さんも捜査に当たった。捜査の結果、容疑者はマグロ漁船の船員であることが判明し、遠洋漁業に向けまさに出港する日の早朝、長田さんは同僚刑事と共に船で横付けして漁船に乗り込み、船内に居た容疑者を任意同行、取り調べの結果、容疑を認めた為逮捕。
 同年12月上旬には、大和警察署管内で青果商の老人が死亡、病死として扱われ、まさに葬儀が行われ様として居る処を「殺されたのでは」との地元紙記者の通報で駆け着け、検視の結果、絞殺と判明。男女関係のモツレで殺害したとして、女性容疑者を逮捕。36年8月中旬、三渓園近くの一家3人刺殺事件を捜査・・・

 海軍では「タンク」と呼ばれて居た長田さんは、刑事時代は「オーサン」と云うニックネームで呼ばれて居た。

 「『証を得て人を求める』不起訴の検挙者を出さ無いのが私のモットーでした。例え黙秘してても起訴出来るだけの証拠を揃える。取り調べの時も、威圧的な態度を執るのでは無く、親や妻子の為にも遣った事は早く清算した方が好いぞ、と云う具合でした。頑なに否認するのは暴力団員位でしたね」





 犯罪発生率県下一の署で栄養剤注射を打ちながら勤務

 昭和36(1961)年10月10日、警部補に昇任、川崎署に転勤。外勤係長を経て、37年1月1日から刑事第一課の捜査係長に為る。

 「川崎署は大変でしたよ。未だ幸署が出来る前で、現在の川崎署・幸署、両方の管内が一緒に為って居ました。管轄する範囲が広い上に、夜は酔っ払いの喧嘩が絶え無い。警察署の東に堀ノ内歓楽街、西には南町の歓楽街があって夫々暴力団が跋扈し、犯罪発生も県下一でした。
 客に色付きのソーダ水を飲ませて法外な料金を請求、支払いに応じ無いと袋叩きにして身ぐるみ剥ぐ暴力バーが暗躍、届出を受けて現場に行っても既に店は閉まって居て、次の夜には経営者が変わって居る様な有様でした。
 夜中の内に留置場が一杯に為って、当直すると、48時間以内の送検手続きの為に夕方迄帰れ無い。捜査一課には係長が二人居て、私が4個班、もう一人が3個班を受け持って居ましたが、彼が過労でブッ倒れちゃった。それで私が7個班を受け持つ事に為ったんですが、その内に私も、調書を取って居て頭を上げるとフラフラする様に為った。
 医者に行くと低血圧との事で、毎日、昼に栄養剤の注射を打ちながらの勤務でした。ヤガテ医者が私の健康状態の事を署長に報告し、署長が課長を呼び着けて『お前、長田を殺す気か!お前も仕事しろ!』と、そう云う事もありましたよ」
 

 昭和38(1963)年10月、横浜中華街に在る加賀町署に異動。川崎署では夜間当直の職員が40〜50人居ても、尚激務だったのに、加賀町署では当直が7〜8人しか居なかった。

 「こんなので大丈夫かな、と初めて当直主任を遣った時には不安に思いましたが、アノ辺りは住宅が少なくて、夜は人が少ない。川崎署に比べると静かなものでした」

 それでも、馬車道の洋品店での強盗殺人事件、広域窃盗事件等を捜査、被疑者を検挙、北海道千歳警察署から指名手配されて居る被疑者を逮捕、同僚刑事と二人で列車と青函連絡船を乗り継いで護送する等「オーサン」刑事の活躍の場には事欠か無かった。
 更に長田さんは、昭和39(1964)年から2年間、警察庁に出向、関東管区警察局の刑事課強行犯係として、関東管区の殺人、強盗、放火等の事件の取りマトメを担当する。

 「職場は警視庁の4階でしたが、警視庁人事二課に、予科練同期で二〇五空大義隊でも一緒だった大舘和夫君(一飛曹)が居て、好く一緒に食事をしながら昔話をしたものです。二〇五空の零戦搭乗員だけで、私と大舘君・荒井敏雄さん(上飛曹)・今泉利光さん(上飛曹)・愛知正繁君(一飛曹)の5人が警察官に為って居ました」

 昭和41(1966)年、神奈川県警に復帰後は捜査一課、四課、機動捜査隊を渡り歩いた。捜査四課では、暴力団犯罪の捜査に当たる一方、昭和43(1968)年6月16日に発生した国鉄横須賀線列車爆破事件(1名死亡、14名負傷)の捜査にも一班を率いて派遣され、犯人検挙に貢献。
 機動捜査隊では、監禁事件の被疑者が逃走中、バス停で偶々居合わせた女性にナイフを突き着け人質にしたのを、一瞬の隙を付いて被疑者に飛び掛かり、人質を無事救出すると共に、被疑者を逮捕したりもして居る。

 「捜査一課で、殺人事件の捜査の時、警部に盾付いて四課に出され、機動捜査隊の司令班長だった55歳の時、警部に推薦すると云う話がありましたが、試験も受けずに昇進するのは嫌だお情けは要ら無いと断りました。本来為らば、零戦に乗って19歳で終わって居る筈の人生ですから、誰に媚びる事も無かったですね。最後は神奈川署に2年間いて司法係長を務め、昭和59(1984)年3月、58歳で定年退職しました。退職と同時に任警部。これが34年9ヵ月勤めた警察官人生の総決算でした」

 二〇五空大義隊の元特攻隊員は、戦後、進んだ道は夫々違っても、生死を共にする事を誓った者同士として、戦後も固い絆で結ばれて居た。長田さんは、戦友会や慰霊祭には可能な限り出席し、近年では「NPO法人零戦の会」理事として、若い世代とも気さくに交わり、戦争体験を伝えている。

 



 「戦争は、総てのものを破壊し、無にしてしまう。戦争は絶対に遣ってはいけ無い。永久に平和である事を願うばかりです」

 ・・・17歳で海軍に身を投じ、19歳で特攻隊員として幾度も生死の境に直面した「零戦刑事」長田さんの、実体験に裏打ちされた心からの述懐である。


                以上


 【管理人のひとこと】

 読み物等で特攻隊の若き隊員達の苦悩や心の葛藤・心境を描いたものは沢山ある。そして無念にも大空で青春の火を惨禍し、又は、色々な事情でこの世に戻って来て戦後の荒波を掻い潜って来られた方達も居られ様。その中で、戦後の人生を刑事として勤めて来られた方のお話である。
 戦後生まれの私達には想像も着か無い苦労を重ね・・・現在の私達が存在し現在の日本がある。この禄でも無い戦争を巻き起こしたのも、又その後の苦難の道を切り開いたのも同じ人間だと云う事。

 人間は自ら苦難の道を選択し好んで苦労を背負うのでは無いのだが、何故か人間の遣る事には、通り一遍の損得勘定だけでは無い何かの宿命みたいのものが有る様だ。
 アメリカの戦後処理の一大成功例に挙げられる日本支配だが、我が国は戦後からの急激な民主化をどの様に心の中で咀嚼し自分のものと為したのか。又は、他人から与えられた民主化の中で、どの様に自らを改革したのか・・・果たして自ら勝ち取った民主化では無く、お上からボタモチ的に命令された民主化であり自ら反省し旧弊に抗ったものだったのだろうか・・・
  


 



オンラインレッスンの「レアジョブ英会話」
 



特攻機の盾と為った戦闘機乗りが、目の当たりにした「司令部の無策」




 特攻機の盾と為った戦闘機乗りが、目の当たりにした「司令部の無策」


            〜現代ビジネス 10/25(金) 9:01配信〜

 75年前の今日、1944年10月25日、最初の特攻隊である「敷島隊」が米海軍機動部隊に突入した。この爆弾を抱いた航空機で敵艦に体当たりする搭乗員必死の戦法は、戦局が圧倒的に不利に為ってから採用された作戦である。
 だが、実はこの2年前、日本艦隊が最後に米艦隊と互角に渡り合った「南太平洋海戦」では、生還不能としか思われ無い戦場へ搭乗員達が死を決して出撃して行くと云う状況に為って居たと云う。

 この海戦で艦上爆撃機搭乗員だった兄を失い、自らも戦闘機隊の飛行隊長として何度も特攻機の護衛に出撃した岩下邦雄さんは、特攻と云う作戦に非があるとすれば、作戦を運用した司令部の余りの無策振りにあると云う。

      10-25-10.jpg

 〜昭和19年10月20日 特攻隊編成の日。バンバン川の河原で敷島隊・大和隊の別杯。
 手前の後ろ姿は大西瀧治郎中将 向かって左から、門司親徳主計大尉・玉井浅一中佐(何れも後ろ姿)・関行男大尉・中野盤雄一飛曹・山下憲行一飛曹・谷暢夫一飛曹・塩田寛一飛曹〜


 「兄貴の出撃は、特攻に近かった」

 昭和19(1944)年10月25日、フィリピン・レイテ島沖で「神風特別攻撃隊(特攻隊)」が、初めて米護衛空母に突入。250キロ爆弾を搭載した延べ10機の零戦による体当り攻撃で、護衛空母1隻を撃沈・5隻に損傷を与えた。今から丁度75年前の事である。
 これ等特攻隊の目的は、レイテ湾に押し寄せる敵上陸部隊を粉砕する為、総力を挙げて出撃した戦艦「大和」以下の主力艦隊が無事に目的地に辿り着ける様、脅威と為る敵空母の飛行甲板を破壊し、暫くの間、使用不能にする事だった。

 この日、突入に成功した特攻隊は、満23歳の関行男大尉を指揮官とする「敷島隊」「大和隊」「菊水隊」「朝日隊」の四隊で、爆弾を搭載した爆装機と、爆装機の突入を自ら盾に為って掩護し戦果を見届ける直掩(ちょくえん)機、夫々数機で一隊を編成して居た。
 「比島沖海戦」と呼ばれるこの戦いで、日本艦隊によるレイテ湾突入は、結局、失敗に終わり、壊滅に近い惨敗を喫する。だが、戦法としての「特攻」は、その後も終戦迄続けられ、空に海に多くの若い命が失われた。

 戦後、10月25日には幾つもの慰霊祭や慰霊法要が執り行われ、関大尉(戦死後、二階級進級で中佐)の故郷・愛媛県西条市の楢本神社に昭和50(1975)年に建てられた慰霊碑の前では、今も盛大な慰霊祭が挙行されて居る。
 一切公開される事無く、当事者だけでヒッソリと営まれた慰霊行事もあった。東京・芝の寺に過つての軍令部総長や司令長官、司令部職員や元特攻隊員が集った「神風忌・しんぷうき」と称する慰霊法要も、その一つである。

 「神風忌」の法要は昭和21(1946)年から平成17(2005)年迄、60回に渉って続けられた。参列者名簿には、及川古志郎大将・福留繁中将・寺岡謹平中将・猪口力平大佐を初め、特攻に関わった指揮官達の名前が、夫々生を終える直前まで残されて居て「命じる側」の良心の呵責を垣間見る事が出来る。私は許しを得て、この慰霊法要に最後の4年間、参列する事が出来た。
 「神風忌」に欠かさず参列して居た人の中に、フィリピンや沖縄の戦いで特攻機を護衛し、激戦を潜り抜けた戦闘機乗り・岩下邦雄(大尉 1921-2013 戦後 会社経営)が居た。

 岩下は、昭和13(1938)年、海軍兵学校(海兵)に六十九期生として入校、卒業後は巡洋艦「羽黒」「青葉」を経て飛行学生と為り、戦闘機搭乗員と為った。兄・豊も同じく海兵(六十六期)卒業後、艦上爆撃機(艦爆 急降下爆撃機)のパイロットに為って居る。兄弟共に飛行学生を一番の成績で修了、恩賜の銀時計を授与された。
 兄弟で飛行学生トップと云うのは日本海軍でも唯一の例だが、邦雄に取っては豊と云う目標があればコソの事だった。

 兄・豊は昭和17(1942)年5月27日、結婚して姓が石丸と変わるが、同年10月26日、空母「瑞鶴」艦爆隊分隊長として日米機動部隊が激突した「南太平洋海戦」に参加。米空母「ホーネット」に爆弾を命中させたものの、自らも被弾し重傷を負う。
 辛うじて味方艦隊上空へ辿り着いたが、力尽きて不時着水、救助された駆逐艦の艦上で「ズイカク……」と一言発してこと切れたと伝えられて居る。新婚僅か5ヵ月の出来事だった。

 「神風忌」の慰霊法要の時、岩下は「今日は海兵で一期後輩の関君達の命日。明日は兄貴の命日。尊敬出来る自慢の兄でした。この両日は、私に取っては特別な日です」と、挨拶するのが常だった。 「兄貴の出撃も、或る意味、特攻に近かったと思うんですよ」
 「十死零生」の特攻隊と、生きて再び戦う余地が残された他の部隊とで、隊員の精神状態を比較する事は難しい。だが、今から77年前の昭和17(1942)年10月26日に戦われた「南太平洋海戦」は、その2年後に始まった「特攻」と比較して、岩下がそう回想しても可笑しく無い程に凄絶な戦いだった。

 



 足った一度の攻撃で戦力の8割を失う
 
 南太平洋海戦の経過を、生還者へのインタビューから振り返ってみる。

      10-25-11.jpg

      空母「瑞鳳」零戦隊を率いた日高盛康大尉(右写真撮影 神立尚紀)
 
 昭和17(1942)年10月26日、日米機動部隊がホボ同時に相手を発見し、双方共、直ちに攻撃隊を発進させた。空母「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」の第一航空戦隊から出た第一次攻撃隊は零戦21機・九九式艦上爆撃機21機・九七式艦上攻撃機(艦攻・雷撃・水平爆撃兼用)20機の計62機
 攻撃隊が発艦した直後「瑞鳳」は、索敵に飛来した敵艦上爆撃機・ダグラスSBDドーントレスの投下した爆弾を飛行甲板に受けた。

 第一次攻撃隊が高度3000メートルで米機動部隊に向け進撃する途中、米空母「ホーネット」より発進したSBD艦爆15機とスレ違った。敵は右前方、高度2000メートル。発艦してから間も無いと見えて、未だ編隊も組めずにバラバラに飛んで居た。
 高度差1000メートル、日頃の射撃訓練の形をそのママ持って来た様な絶好の条件である。が「瑞鳳」零戦隊9機を率いる日高盛康大尉(後少佐 1917-2010 戦後、航空自衛隊〜富士重工テストパイロット)は「任務は攻撃隊の直掩」と、その敵機をヤリ過ごした。

 更に10分後、今度は「エンタープライズ」から発艦したグラマンF4F戦闘機・グラマンTBFアベンジャー艦攻各8機・SBD艦爆3機と遭遇した。敵機は右前方からコチラに向かって来る。先程と全く同じ条件である。日高隊は丁度太陽を背にして優位な態勢にあった。日高の脳裏を、4ヵ月前のミッドウェー海戦の悲劇が過ぎった。「今ならこの敵をヤッツケても攻撃隊に追い付ける」
 そう思った次の瞬間には、日高は攻撃開始のバンクを振って、訓練通り、敵機が自機の右主翼前縁、先端から3分の1に見える位置に差し掛かった処で切り返し、敵編隊に突入して行った。

 「太陽の方向から奇襲を受けた敵機は、次々と火を噴いて墜ちて行く。敵戦闘機は、クルクルと旋回するばかりで何故か反撃して来ませんでした。一撃の後、高度を取って全体を見渡すと、墜落した敵機が、海面にピシャン、ピシャンと水飛沫を上げるのが幾つも見えました」  

 と、日高は回想する。米側記録には、この空戦でF4F 3機が撃墜され1機が損傷、TBF 4機も撃墜されたとある。F4Fの戦意の無さに比べて、TBFの後部旋回機銃は意外に命中精度が好く侮れ無いものだった。零戦2機が旋回機銃に撃墜され、もう1機も被弾し大破した。しかも思いの他空戦に時間を盗られ、一段落した時には味方攻撃隊の姿は最早視界からは消えて居た。
 日高が上空で列機を集合させると、日高機は増槽(落下式燃料タンク)を着けたママだったが、列機のうち5機は増槽を落として居て、しかも殆どの機が機銃弾を撃ち尽くして居た。日高は、味方攻撃隊を追う事を諦めざるを得無かった。

 この時の日高隊には、更に追い打ちを掛ける様な、隠れた出撃時の不手際があった。通常、空母から発進する際には、艦の現在位置と予定針路をプロットしたチャート(航空図)を、航海士が指揮官に渡すものだが、急な出撃にチャートが間に合わず、日高はチャートが受け取れ無いまま発艦して居たのである。「瑞鳳」の艦橋は飛行甲板の下にあり、飛行甲板上との連携が執り辛い欠点があった。
 空戦には勝利したが、戻るべき母艦の位置が判ら無い。クルシー(無線帰投装置)のスイッチを入れてみたが、空戦時に掛かった荷重の所為か、故障して居て何も聞こえ無い。無線も通じず、進退窮まった日高は、列機を小隊毎に解散させ、各々の小隊長の航法に任せて母艦に帰投を試みる事にしたが、2機が機位を失して行方不明に為った。

 日高隊の空戦で、味方空母に向かう敵攻撃隊を蹴散らし、それによる損害を未然に防ぐ事が出来たが、この為に、只でさえ少ない攻撃隊掩護の零戦が12機とホボ半減し、敵空母上空に待ち構えて居た38機のグラマンF4Fとの交戦で苦戦を強いられた。
 艦攻・艦爆隊はグラマンからの攻撃と敵艦隊の撃ち上げる対空砲火を掻い潜って、空母「ホーネット」に魚雷と爆弾を命中させたが、艦攻16機・艦爆17機・零戦4機を失った。生還した艦攻、艦爆は夫々4機のみである。8割を超える艦爆・艦攻を、足った一度の攻撃で、搭乗員と共に失ったのだ。

 「瑞鶴」九九艦爆隊を率いた岩下邦雄の兄・石丸豊大尉が、偵察員(2人乗りの後席)・東藤一飛曹長と共に戦死したのはこの時の事だった。

 ・・・日高大尉が率いる「瑞鳳」零戦隊が命令通り、攻撃隊の護衛に付いて居れば味方攻撃隊の犠牲を少なく出来たかも知れない。しかし、そうするとミスミス敵機による味方機動部隊への攻撃を許す事に為り、ミッドウェー海戦の二の舞に為った可能性もゼロでは無い。
 今日の目で日高の判断の是非を論じるのは難しい。だが、現場指揮官が遭遇し瞬時の判断を求められた究極の局面として、戦後、航空自衛隊でも「自分が日高大尉の立場ならどの様に行動するか」を考えさせる、幹部教育の教材に使われた程の教訓をこの戦いは残した。

 



 戦死した皆とのチームプレー

 機動部隊は第一次攻撃隊を発進させた後、直ちに第二次攻撃隊の準備に掛かり「翔鶴」から零戦5機・九九艦爆19機、「瑞鶴」から零戦4機・艦攻16機を発進させた。
 第二次攻撃隊もグラマンF4F 10数機の邀撃を受け、更に対空砲火を浴びて、艦爆12機・艦攻10機・零戦2機を失った。米空母「エンタープライズ」と戦艦「サウスダコタ」に新たに装備された新型のエリコン20ミリ、ボフォース40ミリ対空機銃の威力には凄まじいものがあった。

      10-25-12.jpg

       空母「翔鶴」零戦隊・佐々木原正夫二飛曹(右写真撮影 神立尚紀)

 そんな中、第二次攻撃隊に参加した「翔鶴」零戦隊の佐々木原正夫二飛曹(後少尉 1921-2005 戦後、森永製菓勤務)は、被弾し、気息奄々として居る敵空母「ホーネット」を上空から見て、機上でバンザイを叫んだと云う。佐々木原は、日記に次の様に記して居る。

 ・・・クルシーを入れてみると、味方の母艦群より連続信号を発信して来るのが受信された。然し未だ母艦は見えず、又その位置も判ら無ければ測定も出来ぬ。クルシーが破壊されてゐるのだ。諦めて電話に切り換えたが感度無く、電信にダイヤルを切り換えると間も無く感度あり、総戦闘機(サクラ)及び制空隊(ツバメ)に呼び掛けて居るのが聞こえた。
 シメタ!と受信に掛る。右手の操縦桿を左手に持ち、レシーバーを完全に装着して、ダイヤルを調節して聞こえるのを右膝の上の記録板に書き留める。『サクラサクラ我の位置、出発点よりの方位二十八度 九十五浬 速力三十ノット、針路三十三度。一三三五(注:午後1時35分)』次いでサクラサクラと連送して来る。直ちに母艦の位置を計算、会合点時間を計測する・・・

 
 「翔鶴」より索敵に発進して居た吉野治男一飛曹(後少尉 1920-2011 戦後 東京電力勤務)は、途中、敵艦上機と遭遇した他は敵影を見ず、午前9時頃、母艦上空に帰って来た。吉野は語る「着艦セヨの信号で着艦コースに入り、艦尾近くに達してまさに着艦寸前、母艦の着艦用誘導灯が消え、飛行甲板が大きく左に傾きました」
 上空では、敵急降下爆撃機が、まさに攻撃態勢に入って居た。「翔鶴」はそれを回避する為に右に転舵したのである。吉野の目前で「翔鶴」は忽ち夥しい水柱と煙に覆われた。

 「翔鶴」には爆弾3発が命中、幸い、攻撃隊を出した後でミッドウェーの時の様な誘爆は起さずに済んだが「瑞鳳」に続いて発着艦が不可能に為った。吉野機を初め、攻撃や上空直衛から生還した飛行機は、全て「瑞鶴」に着艦せざるを得無く為る。同じ頃、艦隊前衛の重巡「筑摩」も敵の爆弾4発を受けた。
 一方、機動部隊本隊の西方に居た前進部隊の空母「隼鷹」は、敵との距離280浬(約520キロ)の位置から、志賀淑雄大尉(後少佐 1914-2005 戦後、会社経営)が指揮する零戦12機・九九艦爆17機の第一次攻撃隊を発進させて居る。

 志賀の回想「断雲の間から、行き成り1隻の空母が現われ、飛行甲板からグラマンが2機、発艦するのが見えました。『ア、好いぞ、アレに行くんだな』と、艦爆が単縦陣に為って降下して行く上を、戦闘機の方がスピードが速いのでツンノメラ無い様にエンジンを絞って蛇行運動しながら付いて行きました。
 兎に角、艦爆はドッチに行く?敵戦闘機は?と考えながら、対空砲火なんか全然目に入りませんでしたね。そして、幾つかの断雲を抜けて、アッと思ったら戦艦の真上に出てしまったんです。『アレ、戦艦だ』と思う間も無く高度70メートル位にまで下がったと思います。
 大きな煙突が目の前に現われて、天辺に金網が張ってあるのがハッキリと見えましたよ。艦爆の三浦尚彦大尉機に付いて行った筈だったんですが、雲の中で逸れたんでしょう、三浦機が何時火を噴いたのかも判りませんでした」

 
 志賀は意識しなかったが敵の防御砲火は此処でも衰えを見せず、艦爆隊17機の内9機が撃墜されて居る。

 「隼鷹」では更に、第二次攻撃隊として、臨時に着艦して居た「瑞鶴」の九七艦攻7機に魚雷を積んで、零戦8機と共に発進させる。雷撃隊は、敵空母に魚雷3本・巡洋艦に1本を命中させたと報告したが、2機が撃墜され、艦攻隊の全機が被弾した。
 空母「飛龍」雷撃隊の一員として真珠湾攻撃で戦艦「オクラホマ」、ミッドウェー海戦で空母「ヨークタウン」に魚雷を命中させた「隼鷹」艦攻隊の丸山泰輔一飛曹(後少尉 1922-2010 戦後、木材会社勤務)は、この攻撃でも「ホーネット」に魚雷を命中させて居る。

 「雷撃と云うのは、サッカーと同じで、チームプレーです。アッチから攻めコッチから攻めして初めてゴール出来る。私の魚雷が命中したと言っても、単機で攻撃したのでは上手く行く筈がありません。これは、敵戦闘機や対空砲火を引き付けて呉れて戦死した皆の力なんですよ」

 と、丸山は回想して居る。

 



 戦死者数が日米逆転した海戦

 「瑞鳳」と「翔鶴」が被弾し、空母が「瑞鶴」だけに為った第一航空戦隊は残存機を描き集め、零戦5機・九九艦爆2機・九七艦攻6機の第三次攻撃隊を発進させる。ここまで来ると、最早敵の反撃も疎らに為って居た。
 「隼鷹」も、帰って来たばかりの第一次攻撃隊の生き残りの中から使用可能な飛行機を集め、零戦6機・九九艦爆4機から為る第三次攻撃隊を編成した。零戦隊指揮官は志賀大尉、艦爆隊は、第一次攻撃で分隊長クラスが戦死したので、初陣の加藤瞬孝中尉が指揮を執る事に為った。

       10-25-13.jpg

      岩下邦雄(左)と日高盛康(右)平成14年9月靖国神社にて(撮影 神立尚紀)

 初めての戦闘で、凄まじい防御砲火を潜り抜けてヤット生還した加藤中尉は、報告の声もシドロモドロで、未だショックから立ち直って居なかった。搭乗員待機室で参謀・奥宮正武中佐から「加藤中尉、もう一度願います。今度は君が指揮官を遣って貰いたい」と伝えられた加藤中尉は「エッ!又行くんですか」と、驚いた顔をして立ち上がった。

 志賀は語る「加藤中尉はトンちゃんの愛称で親しまれて居る可愛い男でした。蒼ざめて居る彼に『トンちゃん、戦争だぞ。敵を最後までヤッツケ無いと勝ったとは言え無いぞ。俺が付いてるから、攻撃が済んだら戦闘機を誘導せずに真っ直ぐに帰れば好いから』と励まして出撃したんです」

 「隼鷹」第三次攻撃隊は「ホーネット」に全弾を命中させ、艦爆隊は志賀に言われた通り一目散に母艦へ帰って行った。既に夕闇が迫って居た。
 志賀は列機を取り纏め、クルシーのスイッチを入れた。すると、母艦からの電波が入り、クルシーの航路計の針がピクンと動いた。発艦前、志賀は海軍兵学校で一期先輩の「隼鷹」通信長・佐伯洋大尉に「もし、無線封止だナンて言って電波を出さ無かったら、帰って来たらブッ飛ばすぞ」と言い置いて出て来たが、通信長の律儀さが有難かった。故障し易いクルシーが生きて居たのも幸運だった。

 翼端の編隊灯を点け、逸れ無い様ガッチリと編隊は組んだママ、針が指し示す方向に飛ぶ事1時間余り、周囲は既に暗闇に包まれて居る。突然、針がパタッと倒れた。志賀が下を見ると、真暗な海面に、パッと母艦の中心線のランプが縦一線に灯った。「隼鷹」であった。

 この海戦で、日本側は米空母「ホーネット」と駆逐艦1隻を撃沈「エンタープライズ」に損傷を与え、飛行機74機を失わせたが、空母「翔鶴」と「瑞鳳」他2隻が被弾。空母の喪失は無かったものの、飛行機92機と搭乗員148名に艦船乗組員約300名を失った。
 これは結果的に、日本海軍機動部隊が米機動部隊に対し、互角以上に戦った最後の機会と為ったが、搭乗員の戦死者数で見ると、空母4隻を失い大敗したミッドウェー海戦(同年6月5日〜6日)の121名をも上回る。特に、真珠湾攻撃以来、実戦の経験を積んで来た艦上爆撃機・艦上攻撃機の主要指揮官の大部分と練達の搭乗員を失った事は、以後の作戦にも大きく影響する、取り返しの着か無い痛手だった。

 米軍パイロットの戦死者は、ミッドウェー海戦では日本側の倍近い210名だったのに対し、南太平洋海戦では遥かに少ない26名(別に艦船乗組員約240名)だったとされて居る。艦船の得失では日本側の勝利とも取れるが、人的損失とそれによって受けたダメージは、日本側の方が遥かに大きかったのだ。
 岩下邦雄は、この海戦で兄・石丸豊大尉が戦死したのは、日高大尉が率いる「瑞鳳」零戦隊が、進撃途中で編隊を離れ、味方の攻撃に向かう敵機と戦った為に、艦爆・艦攻隊の護衛が手薄に為った一面は否定出来無いが、自身の経験と照らせば責められ無いと言う。

 「自分が後にフィリピンや沖縄で、艦爆隊や特攻機の護衛をした経験から言えば、どう遣ったら効果的な掩護が出来たのか、どうすればベストだったのか、最後迄答えが出無いママでした。今も時々自問自答しますが、本当に判ら無い。
 攻撃隊を護衛した事のある戦闘機乗りなら皆そうだったと思います。だから、兄貴が戦死した事で、日高さんの判断をトヤカク言う気は全く無い。兄貴と日高さんは海兵同期なんですよ。クラスメートを護衛出来無かった日高さんも、可なり辛い思いをされたんじゃないでしょうか」


 



 1度は却下された「生還不能の新兵器」

 南太平洋での日本軍の敗勢が明らかに為った昭和18(1943)年6月末頃から、海軍部内では飛行機に爆弾を搭載したママ敵艦に突入すると云う、捨て身の作戦が議論に上って居る。

 昭和18年6月29日、侍従武官・城英一郎大佐は、艦攻・艦爆に爆弾を積み、志願した操縦員1名のみを乗せて体当り攻撃をさせる特殊部隊を編成し、自身をその指揮官とする様、当時、航空本部総務部長だった大西瀧治郎中将に意見具申した。大西は「搭乗員が100パーセント死亡する様な攻撃方法は未だ採用すべき時期では無い」としてこの意見を却下した。
 同年10月には、黒木博司大尉・仁科関夫中尉が共同研究した「人間魚雷」の設計図と意見書を軍令部に提出したがこれも却下された。

 だが、昭和19(1944)年2月17日、中部太平洋における日本海軍の一大拠点・トラック島が大空襲を受け、壊滅的な打撃を受けた事で潮目が変わった。
 2月26日、先の「人間魚雷」の着想が見直される事に為り、呉海軍工廠魚雷実験部で極秘裏に試作が始められる。これは後に「回天」と名付けられる水中特攻兵器で、魚雷に操縦装置を着け、人間の操縦で敵艦に体当りするものだった。

 昭和19年4月4日、軍令部第二部長(軍備)・黒島亀人少将は、第一部長(作戦)・中澤佑少将に「体当り戦闘機」「装甲爆破艇」を初めとする新兵器を開発する事を提案し、その案を元に軍令部は、9種類の特殊兵器の緊急実験を行なう様海軍省に要望した。
 昭和19年5月には、一〇八一空の大田正一少尉が、大型爆弾に翼と操縦席を取り着け、操縦可能にした「人間爆弾」を着想、同隊司令・菅原英雄中佐を通じて空技廠長和田操中将に進言、航空本部と軍令部で研究を重ねる事に為った。

 6月19日には第三四一海軍航空隊司令・岡村基春大佐が、第二航空艦隊司令長官・福留繁中将に「体当り機300機を以て特殊部隊を編成し、その指揮官として私を任命されたい」と意見具申。岡村は更に、軍需省航空兵器総務局長に為って居た大西瀧治郎中将の元へも赴き、体当り戦法に適した航空機の開発を要望して居る。
 昭和19年8月に入ると、航空本部は大田少尉の「人間爆弾」案を元に、空技廠に試作を命じた。後の「桜花」である。

 特攻兵器の試作が決まったのを受け、昭和19年8月上旬から下旬に掛け、第一線部隊を除く日本全国の航空隊で「生還不能の新兵器」の搭乗員希望者を募集した。但し、その「新兵器」がどんなものであるか、その時点では明らかにされて居ない。
 昭和19年9月13日付で、海軍省に「海軍特攻部」が新設され、大森仙太郎中将が特攻部長に就任した。「特攻」は、既に海軍の既定路線だった。

 体当たり攻撃隊の編成開始と並行して、海軍軍令部は、来るべき日米決戦で敵機動部隊を撃滅する為の新たな作戦を練って居た。全海軍から選抜した精鋭部隊と、臨時に海軍の指揮下に入る陸軍重爆撃機隊で編成された「T攻撃部隊」による航空総攻撃である。
 「T」はTyphoonの頭文字を採ったもので、敵戦闘機の発着艦が困難な悪天候を利用して、敵機動部隊を攻撃すると云うものである。只、精鋭部隊と言っても、南太平洋海戦の頃とは状況が違う。飛行機の性能・機数が敵より劣り、実戦経験の無い搭乗員が多くを占める現状から、真面に考えれば敵機が飛べ無い程の荒天下で有効な攻撃が出来る筈が無い。

 コチラの都合のみを好い様に考えたこの作戦を発案したのは、軍令部第一部第一課の部員・源田實中佐、採択したのは軍令部第一部長・中澤佑少将である。案の定、と云うべきか、台湾沖に出現した敵機動部隊を攻撃に向かった日本の航空部隊は、昭和19年10月12日から16日に掛けて戦われた「台湾沖航空戦」で、敵空母を一隻も沈める事が出来ずに約400機を失い惨敗した。
 敵機動部隊は、ホボ無傷のままフィリピンに向かい、10月17日には米上陸部隊がレイテ湾沖に浮かぶスルアン島への上陸を開始して居る。処が、フィリピンに展開する日本海軍の基地航空部隊(第一航空艦隊)も、その戦力は約40機しか無い。

 フィリピンにおける日本海軍の航空兵力がこれ程弱体だったのは、台湾沖航空戦での損失と共に、前月に起きた二度の不祥事が原因だった。

 9月9日から10日に掛け、第一航空艦隊(一航艦)が司令部を置いて居たダバオが、米機動部隊艦上機による大空襲を受けた。10日早朝、見張所から「敵水陸両用戦車200隻陸岸に向かう」との報告が入り、浮き足立った根拠地隊司令部が「ダバオに敵上陸」を報じ、玉砕戦に備えて通信設備を破壊、重要書類を焼却し自ら司令部機能を失ってしまう。
 飛行機は空襲被害を避ける為、フィリピン各地に分散して居て、ダバオには飛べる飛行機が1機も無く、報告の真偽を確かめられ無かったのだ。

 夕方に為って、美濃部正少佐が、修理した零戦で現地上空を偵察飛行して見た処、敵上陸は全くの誤報である事が判った。見張員が、暁闇の海面の白波を、敵の水陸両用戦車と見間違えたのだ。これは、昔、平氏の軍勢が水鳥の羽ばたく音を源氏の軍勢と間違えて壊走した「富士川の合戦」を思わせる事から「ダバオ水鳥事件」と呼ばれる。
 敵機動部隊は9月12日、今度はセブ基地を急襲する。ダバオに敵上陸の誤報を受け、敵攻略部隊に備えてセブ基地に集められたママに為って居た第二〇一海軍航空隊(二〇一空)の零戦隊は、この空襲で壊滅的な損害を被った。基地指揮官・中島正少佐の発進命令が遅れ、離陸直後の不利な態勢で敵戦闘機に襲われたのだ。フィリピンでの決戦に向けて用意されて居た虎の子の零戦は、こうして戦力を失った「セブ事件」と呼ばれる。

 この一連の不祥事で、一航艦司令長官・寺岡謹平中将は在任僅か2ヵ月で更迭され、後任の長官には大西瀧治郎中将が親補された。この司令長官交代劇は、周到に準備されて居たものでは無く、飽く迄寺岡長官が責任を取らされた偶発的なものである。

        10-25-14.jpg

      大西瀧治郎中将の副官を務めた門司親徳主計大尉(右写真撮影 神立尚紀)

 大西中将の副官を務めた門司親徳主計大尉(後主計少佐 1917-2008 戦後、丸三証券社長)によると、米軍のスルアン島上陸を受け、大西は門司を伴って10月17日午後、第一航空艦隊司令部のあるマニラに到着する。その日の内に、前任の寺岡中将と大西との間で、実質的な引継ぎが行われた。辞令上は、大西の長官就任は20日付だが、この時点で指揮権は大西に移ったと考えて差し支え無い。

 



 「惰性で人の命を奪ってはいけ無い」
 
 聯合艦隊司令部は、敵のスルアン島上陸を米軍による本格的なフィリピン侵攻の前ブレと捉えて、それを迎え撃つべく、10月18日夕刻「捷一号作戦」を発動する。
 これは、栗田健男中将率いる戦艦「大和」以下の大口径砲による砲撃で敵上陸部隊を殲滅する事を柱とし、それを成功させる為、敵機動部隊を引き着ける陽動の空母部隊や、レイテ湾を南北から挟み撃ちにする別働隊等を配する、日本海軍の総力を注ぎ込んだ大作戦だった。

 新たに着任した大西中将は、配下に有る足った40機の飛行機で、主力艦隊のレイテ湾突入を支援し無ければ為ら無かった。門司は「海軍では『特攻』は既定路線だったんでしょうが、大西中将がフィリピンで、本当に特攻隊を出す決心をしたのは18日の夕刻、即ち『捷一号作戦』発動の時だったと思います」と語って居る。

 大西は、翌10月19日朝、現地航空隊の司令・飛行長に、マニラの司令部への参集を命じた。処が、戦闘機隊の二〇一空本部の在るマバラカット基地はこの日、間断の無い空襲を受け、司令・山本栄大佐と飛行長・中島正少佐は午後に為っても到着しなかった。業を煮やした大西は、門司副官を伴い車でマバラカットへ向かった。その道中、右前方にアラヤット山を望む辺りで、門司は「決死隊を作りに行くのだ」と云う、大西の呟きを聞いて居る。
 二〇一空に特攻隊の編成を指示したのはその夜の事だった。少数の航空兵力で、栗田艦隊のレイテ湾突入を成功させる為に出来る事は、例え沈め無いまでも、敵空母の飛行甲板を一時的に使え無くする事しか無い。それと共に、大西が特攻隊編成を決意したのは「敵に本土上陸を許せば、未来永劫日本は滅びる。特攻は、フィリピンを最後の戦場にし、天皇陛下に戦争終結のご聖断を仰ぎ、講和を結ぶ為の最後の手段である」と云う思いがあったからだった。

 この事は、昭和天皇の弟宮として大きな影響力を持つ海軍大佐・高松宮宣仁親王、米内光政海軍大臣の内諾を得て居たと云う。詰まりこれは、表に出さざる「海軍の総意」だったと見て差し支得無い。

 大西の要請を受けて、二〇一空副長・玉井浅一中佐が人選し「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と名付けられた最初の特攻隊が編成されたのは10月20日、第1回の出撃は21日の事である。22日に若桜隊、23日に菊水隊が新たに編成される。
 特攻隊は、味方索敵機が報告する敵情に従って出撃するが、予定海面に達した時には既に敵艦隊が移動して居て見当たらず、帰投する事を繰り返した。その間、突入が確認され無いまま未帰還に為った隊員も居る。10月25日、関大尉が突入したのは4度めの出撃の時だった。

 だが、特攻隊の、文字通り命を爆弾に代えた犠牲も空しく、栗田中将はレイテ湾突入を断念「決戦」は又も日本側の大敗に終わる。それでも、米軍の更なる侵攻を食い止めようと、特攻隊は次々と編成され飛び立って行った。
 栗田艦隊の失敗で敵の勢いを止められ無く為った今「敵空母の飛行甲板を一時的に使用不能にする」と云う当初の限定的な目的が、変容せざるを得無く為ったのだ。

 南太平洋海戦で兄を失った岩下邦雄大尉は、局地戦闘機「紫電」で編成された第三四一海軍航空隊戦闘第四〇一飛行隊長として、フィリピンで、連日の様に出撃を重ねて居た。

 「12月16日、ミンドロ島の米攻略部隊攻撃に、艦爆隊を護衛して出撃した時の事です。ボツボツ予定地点かな、と思った時、断雲の下に敵攻略部隊を発見しました。驚いたのは上陸用舟艇の数です。マルでバケツ一杯の羽根を撒き散らした様に無数の船が航行して居て、私は、コレは味方が全弾命中させてもカスリ傷にも為るまいと、力が抜ける様な気がしました」
 
 岩下はその後、主戦場が沖縄に移ってからは、横須賀海軍航空隊笠之原派遣隊指揮官として、九州から沖縄方面への出撃を繰り返す事に為るが、その間、戦場で感じた「特攻」の意味の変化に付いて、次の様に語って居る。

 「フィリピンでの最初の特攻は、それ迄通常攻撃でさえ、出撃した飛行機の殆どが未帰還に為り、しかも戦果を挙げられ無い様な場面が多かったから、搭乗員の側にも仕方が無いと云う空気はありました。我々皆、遅かれ早かれこの戦争で死ぬものだと思ってましたからね。関君達が、足った10機で栗田艦隊を上回る戦果を挙げた事も大きかった。
 しかし、フィリピンを取られ沖縄も占領され、もうどうにも為ら無く為っても続けた事に付いては、大いに疑問に感じて居ます。死を覚悟した軍人であっても、惰性で人の命を奪ってはいけ無い。海軍の身内を悪く言いたくはありませんが、司令部の怠慢と取られても仕方が無い様に思います」
 

 特攻隊に付いては、これまで様々な論考が為されて居るが、先ず否定ありきの偏った考察によるものが少なく無い。それらに対する反証は、昨年(2018)4月15日に寄稿した拙稿「日本人なら知っておくべき特攻の真実〜右でもなく、左でもなく…」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55270で述べた。
 中でも「海軍兵学校出身者が温存され、予備士官や下士官兵ばかりが特攻に出された」とか、結果論で「特攻は、1隻沈めるのに〇人の命が失われた非効率な作戦」と言った、俗耳に入り易い言説には、そうでは無い具体的な根拠を挙げた積りである。敵艦1隻を沈めるのに失われた搭乗員の数は「南太平洋海戦」も「特攻」も大差無い。

 失われた人命に比しての戦果と云う見方をすれば、3.948名の犠牲で8.064名の敵の命を奪い、10.000名以上に傷を負わせた「特攻」は、大戦中期、ガダルカナル戦以降のどの航空作戦よりも効果的に戦果を挙げた。だから特攻は優れた戦法だった、と肯定する気は無い。問題はそこでは無いのだ。

 折しも、特攻戦没者を愚弄する様なオブジェが「芸術作品」と称して展示され話題を呼んだ。特攻隊員を初め戦没者の死を「無駄死に」で在ったとする声も一定の割合で必ず聞こえて来る。だが、歴史は大きな流れの中で段階を踏んで進んで居る。
 好むと好まざるとに関わらず、現在は、アノ忌まわしい戦争をも含めた歴史の上に成り立って居る。どんな時代であれ、自分の生きた世界を懸命に生き、そして死んだ人達の事を、嘲る資格等誰にも無い筈だ。取り分け、戦没者を侮辱する事は、世界の何処でも許される事では無い。

 今の時代が、例えば70数年後、どの様に評価される事に為るのかは判ら無いが、先のオブジェが優れた美術作品と評価されるとは考え難い。現代を生きる我々は、過去を嘲るのでは無く、そこから何事かを虚心に学ぶべきだろう。
 特攻に付いても、今後、更に事実が解明され、幅広い考察が為される事を期待したい。只一点、危惧するとすれば、これからの世代は当事者の声を生で聞け無く為る事だ。

 本稿執筆中、特攻隊員として4度の出撃を重ねて生還し、戦後は神奈川県警刑事と為った長田利平氏(「4度の特攻から生還した男が『刑事』として生きた激動の戦後」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56662参照)が、93歳で亡く為ったとの知らせが届いた。砂時計の砂は、無情に落ち続けて居る。


        ecf1408171402006-p1.jpg

              神立 尚紀   以上


 




 新興和製薬のNMN配合サプリは
================================================

最高純度99.5%。のNMN(ニコチンアミドモノヌクレオチド)を高配合し、
変色せず、長期のヒト安全性試験の臨床試験も受けているため安全です。

経済界、芸能界、医師その他、多くの著名人が飲まれています。
我々はその期待に応えるべく日々研究をしています。
================================================

NMNは新興和製薬のミライラボ
詳しくはこちらからお申し込み下さい。
https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=35DAFE+1I6GTU+4A38+5YZ77










【パックンコラム】裏切られ続けるクルド人の苦境に思うこと




 【パックンコラム】裏切られ続けるクルド人の苦境に思うこと


           〜ニューズウィーク日本版 10/24(木) 18:24配信〜


       10-25-1.jpg

 トルコ軍の攻撃を逃れてシェルターに避難したクルド人の母子 Muhammad Hamed-REUTERS


 〜アメリカがクルド人を利用しては見捨てる・・・と云う歴史の繰り返しの中でも、今回のトランプ大統領の裏切りは特に酷い〜


  
    

       packn01-240x300.jpg パックン(パトリック・ハーラン)

 「日本人に生まれて好かったナ〜」と思う瞬間はありますか? 温泉に浸かってアニメを観ながら、豚骨ラーメンを召し上がる時とか?では、逆に「〇〇人に生まれ無くて好かったナ〜」と思う瞬間は? 
 僕は、ニュースを見てそう思う事は多い。特に最近だと「クルド人に生まれ無くて、本当に好かった」とばかり思って居る。
 
 多少失礼な言い方だが、貶(けな)す積りは全く無い。主にイラン・イラク・トルコ・シリアの国境地帯に住む山岳民族のクルド人は、独自の文化・立派な伝統芸能や音楽・文学を持って居る。ノーベル平和賞受賞者や世界一の水切りヨーグルトのメーカーの創立者等、世界に貢献して居る著名なクルド人も居る。勿論、クルド人に生まれた為らば、それを「好かったナ〜」とキット思う筈だ。
 でも、苦境に置かれて居るのは間違い無い。ナンせ、世界一のSTATELESS NATION詰まり、国を持た無い民族だからだ。

 勿論、クルド人は自分の国が欲しいと思って居る。その名も「クルディスタン」今のシリア・トルコ・イラン・イラクの4カ国に跨ったエリアの理想の国に為るなら、その面積は39万平方キロでクルディスタンは日本より大きい。世界に拡散して居るクルド人を国民として集められれば、その人数は3500万人
 クルド人はマレーシア人より多い。更に、食べた事は無いが断言させて貰えれば、クルド料理はイギリス料理より美味しい。

 ナンで国が無いのか?理由は複数あるが、大国の裏切りが大きな要因と為る。19世紀から自国創立を求める運動を起こしたクルド人は、第一次大戦でイギリス軍やロシア軍と共に、その地域を支配して居たオスマン帝国対戦に参加した。
 そのご褒美も含め、イギリスは終戦後のセーブル条約(オスマン帝国の分割案が定められた)で、将来クルディスタンを建国させる約束をした。ナノに裏切った。

 分断されたママのクルド人は、それからも、主にアメリカに利用されては見捨てられる。例えばアメリカは、イラク政府と敵対するとクルド人の民兵を武装して、政府への抵抗を勧める。しかし、自分達の目的が達成出来ると、イラク政府から反撃を受けたクルド人が虐殺されてもアメリカは動か無い。
 この悲劇はジョンソン政権の時にも、ニクソン政権の時にも、レーガン政権の時にも、ブッシュ・パパ政権の時にも起きて居る。
 クリントン政権の時は、トルコ政府がトルコ国内のクルド人を、ブッシュ・ジュニア政権の時は、矢張りトルコ政府がイラク国内のクルド人を攻撃して大勢殺しても止め無かった。

 アメリカの民主党と共和党はドンな課題においても対立する、両党の支持者が居ると夜ご飯を喧嘩せずに食べる事すら出来無いのに「クルド人を守ら無い」と云う点においてだけ仲良く一致して居るね。
 
 アメリカ人に生まれ無くて好かった?

 そんな悲惨な歴史の中でも、今回の裏切りは特に酷い。2014年にアメリカは、テロ組織ISIS(自称イスラム国)の支配圏拡大を止めるべく、又もクルド人の協力を要求。武器と金を渡し訓練と後方支援を行ったが、戦闘自体は殆どクルド人が担当し、犠牲もクルド人が負った。
 ISIS対戦で亡く為ったアメリカ兵は200人以下の処、命を落としたクルド人は1万1000人にも上る。そして、高く点いたが、勝利は出来た。全ての領土を奪還した後、ドナルド・トランプ米大統領が2018年12月に「僕等はISISに勝った」と宣言したが、その時の「僕等」と云うのはクルド人を差して居る筈だ。

 そして、そんなトランプが、そんな「僕等」を又裏切った。10月6日に、トルコのエルドアン大統領と電話会談した後、シリアからの米軍撤退を発表し、側近や専門家の反対を押し切って実施。すると、誰もが予測した事・・・最悪の展開が起きた。
 トルコ軍がシリア北部のクルド自治区に侵攻した。トルコ系の民兵がクルド人の市民を殺した。クルド難民が大勢逃げた。クルド人の女性政治家が車から引き降ろされ射殺された。収容所からISIS戦闘員や関係者が逃走した。

 この5年間で大量の血を流して勝ち取った自由・自治・領土・安全・平和が一瞬にして取り消された。失礼ながら、このニュースを見て、マタマタ「クルド人に生まれ無くて好かったナ〜」と思った。

 多大な代償を払いながら戦って呉れた仲間を裏切った大統領。対立国のシリア・イラン・ロシア、そして反米テロ組織のISISを利する決断を衝動的にした大統領。その後の残酷な結果を見ても、トルコの侵略を認める形の作戦一時停止に合意して「クルド人は大喜びだ」「文明に取って最高の日だ」と豪語した大統領。
 そんな、非道徳的で無知なトランプ大統領を見た時も、マタマタ「アメリカ人に生まれ無くて好かったナ〜」とも思った。アァー・・・!


      patrick_harlan2.jpg パックン(パトリック・ハーラン)








 【関連報道】クルド人を見捨てたのはアメリカだけでは無い

      〜ニューズウィーク日本版 六辻彰二 2019年10月17日(木)15時20分〜

            profile-1566608406.jpg

 〜アメリカが裏切ったと言われるが、シリアもロシアもイランもトルコも、クルド人は「消滅」した前提でシリア内戦後の未来図を描いて居る〜

・トルコは、シリアのクルド人の独立運動がトルコのクルド人を触発する事を恐れシリアに軍事侵攻した
・これに対して、シリア政府やこれを支援するロシアも、トルコを批判し衝突の危機も指摘されて居る
・しかし、トルコによる攻撃でクルド人がシリア政府やロシアの保護下に入った事は、これ等各国に取っても利益と為る

 
 いよいよトルコ軍がシリア領内に入り、クルド人と衝突し始めたが、クルド人を殲滅させる程徹底的な攻撃は想定出来無い。寧ろ、トルコの攻撃を恐れてクルド人がシリア軍やロシアに接近した事で、トルコの最優先の目標は既に達成されて居り、適当な処で矛を収める公算が高い。

 予期されて居たクルド攻撃

 日本のメディアでは、10月10日からのトルコ軍による攻撃がマルで突然始まったかの様に報じられ易いが、筆者がこれ迄度々取り上げて来た様に、クルド攻撃は予て予期されて居た事だ。
 シリアの少数民族クルド人の組織「人民防衛部隊」(YPG)は、2011年からのシリア内戦で勢力を伸ばし「イスラーム国(IS)からの防衛」を大義名分にシリア北部を制圧した。元々クルド人はシリアからの分離独立を目指して居り、言わば内戦の混乱の中で本来の目標に近い状態を作り出したのだ。

 しかしこれは、シリア政府だけで無くトルコ政府に取っても無視出来無い。クルド人はトルコ国内にも居り、矢張り分離独立を目指して居る。シリアのクルド人が半ば独立する事は、トルコのクルド人を触発し兼ねない。
 この危機感の元、トルコ軍はこれ迄も屡々シリアに侵入し、ISだけで無くYPGとも衝突。一方、NATO同盟国のアメリカはIS対策としてだけで無く、元々関係の悪かったアサド大統領率いるシリア政府を封じ込める為にYPGを支援し(シリア政府の許可の無いまま)アメリカ軍をシリアに駐留させて来たが、トルコ政府はこれを繰り返し批判して来た。

 シリアから引き揚げたいアメリカ

 そのトルコのクルド攻撃を後押ししたのは、トランプ大統領だった。シリア撤退を大統領選の公約にして居たトランプ氏は、以前から度々撤退を示唆して来た。マティス国防長官やボルトン大統領補佐官など、これに抵抗する高官は相次いで政権を去った。
 こうして反対派を排除したトランプ政権は、トルコ軍の進撃に合わせ、13日にシリアから1000人のアメリカ兵を撤退させる方針を発表。シリア内戦で利用して来たクルド人を見限ったと云う悪評を避ける為「同盟国(トルコ)と戦争は出来無い」「トルコには制裁を加える」と息巻いて居るが、トランプ氏とトルコのエルドアン大統領に利害の一致があった事は確かだろう。


        以下 略   以上


 



NMN最高純度99.5%、NMN配合食品・化粧品は新興和製薬【ミライラボ公式ストア】




×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。