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2019年10月20日

短期連載 【幕末・維新回天の真実】(3)



 短期連載 【幕末・維新回天の真実】(3)

 新選組の剣と必勝戦術 負け無い「実践剣」の秘訣とは?

           〜伊東成郎2019.10.19 10:00dot. #新選組〜


 



 〜週刊朝日ムック『歴史道Vol.6』では、幕末を大特集。剣と誠を貫き、滅び行く幕府に殉じた新選組。時には「壬生浪(みぶろう)」と蔑まれながらも、恐れられたその実力とはいかなるものだったのか。前回の記事「『組織の拡大』に見る、新選組の実力とは?」に続き、百戦錬磨の志士も恐れた剣技を解き明かす!〜

  10-20-1.jpg

 ■「技のデパート」的な力を持つ 治安組織を目指して居た新選組

 新選組局長近藤勇と副長土方歳三、更に幹部の沖田総司が会得して居た剣術は天然理心流(てんねんりしんりゅう)だった。

 遠江(とおとうみ)出身の近藤内蔵之助(?〜1807)が案出した、剣・柔・棒・気合等多岐に渉る武術だったが、中でも実戦に即した剣術は突出して習得され、広く多摩地方一帯に門人を生んで行った。近藤勇はその五代目宗家として、江戸市谷の撃剣道場の試衛館で、沖田総司初め多数の門人を指南、ヤガテ道場の中心人物らと上洛し新選組を立ち上げた。

 組織草創期の文久三年(1863)四月十六日、新選組の総員は組織を指揮下に置く京都守護職の会津藩主・松平容保に招かれ、洛東黒谷に或る本陣で、有志による武術の御前稽古を披露した。当日の組み合わせが記録に残されている。(は天然理心流習得者)

 土方歳三×藤堂平助 永倉新八×斎藤一 平山五郎×佐伯又三郎 山南敬助×沖田総司 (棒術披露)川島勝司 (柔術)佐々木愛次郎×佐々木蔵之助

 最高首脳の前で初披露する武術に、失敗は許され無い。確かな技量の者が選ばれた事は、顔ぶれからも推察出来る。更に注目されるのは、剣術以外の武術も上覧された事だった。
 翌年一月のことだが、二度目の上洛を行なった徳川家茂の入京行列に新選組も加わって居る。煌びやかな行進の中、彼等のみは武装姿で、弓や槍等、各々が得意とする武具を携えて居た事が、目撃者の記録に残っている。
 
 新選組の上層部は、多岐武術の習得者を網羅した、言わば技のデパート的な集団として、強力な治安組織を構成する事を初期から目論んで居た様だ。全史を通じ、会得流派に関する資料が残る隊士達を見ると、実にさ間ざまな武術と流派が伝えられて居る。
 また、慶応元年(1865)の西本願寺新屯所移転後、新選組は師範制度を確立、撃剣のみ為らず、柔術、槍術、馬術等、様々な武術のキャリア隊士による指導システムを確立した。常に多岐武術の推奨を重んじて居たのである。
 
 処で改めて8名の撃剣稽古出場者を見ると、局長ゆかりの天然理心流を専門に習得して居た者は半数に満た無い。晴れの御前稽古には、様々な流派の会得者が立ち合って居た。槍術に関してのものだが、幕末期、京都所司代の要員として治安活動に従事して居た、桑名藩士の加太邦憲(かぶとくにのり)が、後年、この様な回想を残して居る。
 
 予は月々一両回、槍及び道具を掲げて、下した立売り通りの会津邸の演武場に臨みたり。当時、会(津)桑(名)の演武場にて行なわれたる槍術は(中略)突刀と均しく、旧式に拘泥せず、諸流派の長所を採りたるもの為れば、全く進歩的のものなりき。(『加太邦憲自歴譜』)

 京都の治安を担う者達は、一つの流派に囚われる事無く、諸流派から利点を選び、武技を磨いたのである。剣術にもこうした配慮が為された事だろう。 
 新選組は初期の壬生屯所時代から、屯所内に撃剣の道場を兼備して居た。首脳部が信奉する天然理心流は指導の中核を為して居たであろうが、加えて、永倉新八からは神道無念流や、吉村貫一郎からは北辰一刀流の利点が教授されて行ったなら、新選組の剣に破格の威力と最強神話を加える事に為ったに違い無い。

 記録に残る6名の新選組撃剣師範就任者を見ても、天然理心流の会得者は、沖田総司と斎藤一の二人のみである。新選組の本旨は、飽く迄相手の捕縛だった。池田屋への突入時に近藤勇が「御用御改め、手向かいいたすと容赦なく切捨つる」(『浪士文久報国記事』)と、真っ先に伝えた様に、抵抗されて捕縛が難しく為った時、彼らは抜刀した。
 制服に舞台衣装のデザインを引用する程、新選組が崇敬した元禄の赤穂浪士は、吉良邸討入りに際し、相手に複数で対峙する事を最大の戦略として居た。同時代資料のマニュアルは残されて居ないが、最強の治安組織として、捕縛に向けた新選組の戦術には、尊敬する赤穂の先人の戦略も見据え、時宜や事態に応じた多彩なものがあった事だろう。
 

       文 伊東成郎 ※週刊朝日ムック『歴史道Vol.6』より  以上

 



 








 

短期連載 【幕末・維新回天の真実】(2) 新選組の実力とは?



 短期連載【幕末・維新回天の真実】(2)


 「組織の拡大」に見る、新選組の実力とは?

         〜伊東成郎 2019.10.18 07:00dot. #新選組〜

 〜週刊朝日ムック『歴史道Vol.6』では「雄藩最強ランキング」を初め、幕末を大特集。剣と誠を貫き、滅び行く幕府に殉じた新選組。時には「壬生浪(みぶろう)」と蔑まれながらも、恐れられたその実力とはいかなるものだったのか。近藤勇と土方歳三が築き上げた鉄の組織を解き明かす!〜

 


 
 【新選組「組織の拡大」変遷図】

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 不逞浪士から京を守る! 新選組の誕生と組織の拡大

 文久三年(1863)2月23日、250余名から為る浪士組が、江戸から中仙道を経て京都に入った。当時、国政の最重要課題でもある攘夷を推進させる為、朝廷内の攘夷派の策動により、将軍徳川家茂(いえもち)の上洛が急遽決まった。三代家光以来、二百年振りと為る徳川将軍の上洛である。

      10-21-19.jpg 清河八郎

 巻き起こる天誅活動により、当時、京都の治安は悪化して居た。そこで、将軍上洛に先がけ、関東の浪士や農民らから為る浪士組を編成、治安活動の為京都へ派遣すると云う計画が立案された。計画を提唱し、人脈を駆使して実現させたのは出羽の浪士・清河八郎だった。 
 江戸市谷で撃剣道場を営む近藤勇一門や、常陸水戸一帯で攘夷を唱え、国事活動を実践する芹沢鴨とその一派等も、この浪士組計画に賛同、一員として上洛し居留地の壬生(みぶ)に腰を下ろした。

 だが、到着したばかりの京都で、清河八郎は朝廷に上奏し、浪士組を攘夷活動の為、直ちに江戸へ帰還させるとの許諾を得てしまった。将軍警護を召集目的とした浪士組を、自身の国事活動の手駒として利用するのが、清河の真の狙いだったのである。
 近藤勇等は清河に反発し京都残留を選択する。近藤や同門の土方歳三等の出自は武蔵多摩である。土地の多くが天領であり、これを所轄する将軍家への忠誠心は強固な者達でもあった。飽く迄も浪士組の当初の目的を矜持として京都に残留したのである。

      10-21-20.jpg 芹沢鴨

 芹沢鴨等もこれに同調、最終的に24名と為った浪士組の脱退者等の身柄は、前年より京都守護を任じられて居た会津藩に委ねられ、指揮下に置かれる事と為った。以後、彼等が担う事と為ったのが、京都の治安維持活動である。
 組織は当初、発足地に因んだ壬生浪士組を自称した。通称は壬生浪(みぶろう)浪士組の到着直後、彼等を嘲笑する京雀の間から、自然発生して行った名乗りである。ヤガテ浪士金と云う名称で、会津藩から活動資金も支給される様に為り、京都や大坂の町道場等から、新入隊士の募集を行なう様に為った。

        10-21-21.jpg 近藤勇

 当初は、組織の母体と為った芹沢鴨と近藤勇の各派閥から、首脳部や幹部を固める隊形を取った。新規入隊者より結成幹部を幅広く重視した形である。だが、その後芹沢が市中で金策や商家の破壊等の粗暴な活動を重ねる様に為る。組織は芹沢浪士組等と蔑称される様に為り、会津藩は近藤等に芹沢の抹消を示唆、結成約半年後の九月、芹沢と周辺幹部らは暗殺排除された。 
 後日、組織には、江戸に戻った浪士組隊士等が発足させた治安維持組織の新徴組と呼応する様に、会津藩から新選組と云う隊名が授けられた。

     10-21-23.jpg 土方歳三
 
 単独で組織を担う事と為った近藤勇は、直ちに組織内を8分割した八小隊編成を編んだ。各小隊組頭の統率下、主要任務の市中巡察に際して、機動的に活動する事を念頭に置いたのである。
 八小隊編成は、以後も不変のママ継続されて居る。又、隊士が増加する契機と為った池田屋事件以降は、八小隊に加え、経理や庶務面を一括した小荷駄隊を独立させ、全九小隊編成とする等、より実践的な改革も進められた。
 
 新選組は屯所の玄関に、激烈な攘夷派でも知られる旧水戸藩主・徳川斉昭の「いざさらば我も波間に漕ぎ出でて アメリカ船を打ちや払わん」と云う攘夷歌を掲示して居た。念願の攘夷実現を目指す最強の京都の治安維持組織は、その後、西本願寺の屯所で150名もの隊士を抱える強靱な集団と為って行ったのである。

 



 ■京の治安維持のみ為らず 長州征討行軍も熱望して居た

 新選組が主要な任務としたのは、京都市中の治安維持活動だった。その一環として彼等には、他の治安組織と共に、個別の巡察地域も定められて居た。定められた範囲内で、より的確で綿密な警備活動を行なう様に統制されて居たのである。
 個別の巡察区域は、池田屋事件の起こる2カ月前の元治元年(1864)四月以前から定められ、その後も適宜、変更されて行った。

 時に新選組は、巡察時間以降に担当地域に不審者が出没した際には、直ちに屯所へ通報する様、町人へ回状を通達する事もあった。テリトリー内の町人達を治安活動の補完勢力とし、完璧な治安状況を造り出す為、腐心をして居たのである。

        10-21-24.jpg 池田屋事件

 新選組は慶応元年(1865)三月に屯所をそれ迄の壬生から西本願寺へ移転させて居る。更に江戸での隊士募集を実行し、この年五月には総隊士数150名の巨大組織と為った。時に緊張が弛緩する様な、俄かの大所帯化に対し、その頃、四カ条から為る厳粛な隊規も策定された。隊規違反者には総員の前で罪状を読み上げ切腹が命じられた。 
 隊規による引き締めの先に新選組が目指そうとして居たのが、長州征伐への出戦だった。長州軍は元治元年七月に御所周辺で起きた、京都守衛の会津や薩摩軍との戦闘で敗走、政局は御所へ敵対したとする長州征伐へと進行して居た。
 
 念願だった攘夷戦争への参加も非現実的と為る中、池田屋事件で圧倒的に威名を喧伝した新選組も、現実的な長州征討軍入りを渇望した。
 元治元年十二月と慶応元年九月に、副長の土方歳三は夫々「行軍録」と題する進軍リストを作成し、武蔵の国許(くにもと)へ送って居る。これ等は土方による試案と見られ、何れも長州へ出軍した際の新選組の進軍形態を、詳細に表記したものである。慶応元年の「行軍録」では、小隊を束ねる組頭隊士達を「奉行」や「頭(かしら)」等とし、隊旗や近藤や土方の家紋入りの旗指物(はたさしもの)等も図示した。 
 この賑やかな行軍図は京都で市中巡察を行なう新選組の姿では無い。戦場で武威を示す組織そのものである。

 更に土方は、元治元年の「行軍録」に「軍中法度」と題する、長州出軍中の厳しい戦陣訓をも策定して同送した。又、彼等は銃砲を用いた軍事調練も、壬生寺境内で適宜実践して居た。 
 それ程までに新選組は、長州征伐への参加を望んで居たのである。だが、京都の治安体制の中に、この極めて有能な組織の存在は欠かせ無いものだった。幕府上層部からの許諾は出されず、長州出戦は、攘夷戦争への参加と共に、夢想として消える事と為る。皮肉にもその実力と信頼度が、終始彼等を京都に縛り付けたのだった。


            10-21-25.png 五稜郭時代の土方歳三


 文 伊東成郎 ※週刊朝日ムック『歴史道Vol.6』より   以上

 短期連載【幕末・維新回天の真実】(3)へつづく
















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