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2019年10月12日

「関電被害者論」の根拠「集落立ち退かせた」説は本当か? 航空写真検証で明らかに為った嘘


 

 「関電被害者論」の根拠「集落立ち退かせた」説は本当か? 

 航空写真検証で明らかに為った嘘

          〜HARBOR BUSINESS Online 10/12(土) 8:32配信〜


        10-12-12.jpg

 2013/07/20国土地理院撮影国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより 特高は2系統4回線500kV運用と為り、更に77kV予備系統1回線がある 福島核災害により全炉運転休止中である

        10-12-14.jpg

               著述家・工学博士 牧田 寛氏







 差別的な「関電被害者論」の「風変わりな根拠」

 前回、関西電力資金還流事件に付いて、安倍自公政権与党政治家へ波及した時と同じくして差別扇動と言っても良い「関西電力被害者論」が跋扈(ぼっこ)した事を厳しく批判しました。

10-12-13.jpg

 原発が作られる前の田ノ浦周辺・航空写真。原子炉設置審査の報告にもある通り集落は見受けられず、立ち退き云々は嘘だと判る

 「関西電力被害者論」では、話題の渦中と為った基元高浜町助役(故人)が強大な権力を持ったその根拠として、この手の資金還流事件(裏金事件)としては一般的な、地域ボスへの企業からの不正な資金供与では無く、大変に風変わりな根拠が提示されました。それが次に挙げるものです。

 a)高浜発電所立地において、或る部落*(集落の事)が立ち退きに為り、それが森山氏の利権の源で在った
 b)森山氏の居住する集落(又は関係する集落)が、高浜発電所への主要道路に有り、森山氏に楯突けば交通遮断された


 *九州や四国等西日本では、集落を日常的に部落と称する場合が多い。又筆者が小中高校生の頃も極当たり前に集落を部落と呼称して居た。

 これから第三回〜第四回に掛けて上記のa)及びb)に付いてファクトチェックをします。第三回の今回は、高浜発電所建設に辺り立ち退きに為った部落は在ったのかです。.

 事実はどうか 立ち退き部落(集落)はあったのか?

 ここでは、前述の関電被害者論の根拠とされるa)b)の二点のうちa)に付いて証拠を添えて論じます。

 a) 高浜発電所立地において或る部落が立ち退きに為りそれが、森山氏の利権の源で在った
 
 こう云う時には、原子炉設置許可の審議議事録を見るのが第一です。幸い、インターネットで公開されています。

 ◆関西電力株式会社高浜発電所の原子炉設置に係る安全性に付いて 昭和44年11月24日(1969/11/24) 原子炉安全専門審査会 抜粋

 本発電所の立地条件および施設の概要は、次の通りである。
 1.1 立地条件
(1) 敷地および周辺環境 発電所の敷地は、若狭湾内に在って内浦湾を形成する音海半島の根元にあり、東は若狭湾に直接面し、西は内浦湾に面して居る。南北は山に狭まれ、中央は平地と為って居る。敷地は殆ど山林で人家は無い。
 敷地全体の面積は、約2,500,000m2(平方メートル筆者追記)である。原子炉は敷地北部の山麓に設置する。原子炉施設の中心から敷地境界までの最短直線距離は約800mである。また、敷地内には、原子炉施設の北側に一般道路のトンネルがあり、原子炉施設中心から、トンネルの出入口までの最短距離は約200mである。
 音海半島の大部分は山地である為、海岸沿いに若干の部落*があるだけで人口密度は稀薄である。敷地周辺には、南約1.3kmに小黒飯、西約1.3kmに神野浦、西南西約1.4kmに神野、北約1.8kmに音海の部落があり、人口は1km以内で0人、5km以内で約5,100人、10km以内で約20,000人、15km以内で約75,500人である。


 ハイ「人口は1km以内で0人」と公文書に明記されて居ます。原子炉から1km以内に人家が在っては為りませんが、高浜発電所では対象家屋は在りませんでした。これで立ち退きに失敗してしまい、原子炉設置場所を変更に追い込まれたのが電源開発の大間原子力発電所です。
 公文書を示しても、申請前に地上げをしたのだと言う人も出るでしょう。当時は、原子炉設置審査は、超ユルユルで、高浜発電所の場合、申請日は1969/05/24です。許可の内示まで半年しか掛けて居ません。申請書一部修正日に至っては、1969/10/16です。因みに12月に入って正式な許可が為され同月着工でした。

 幸い日本では国土地理院で航空写真が全国に渡って公開されて居ます。しかも航空写真の黎明期まで遡って公開されて居ます。多くの写真は、戦後の米軍によるものと占領解除後の国土地理院によるものと為ります。
 ここでは、高浜発電所が立地する音海半島の航空写真を1948年からホボ同位置、大体同じ縮尺で引用して、高浜発電所立地点がどの様な場所で在ったかを見て行きましょう。そして小屋一つ無かったと云うだけでは寂しいので、終戦後間も無くから福島核災害後迄の高浜発電所の変遷を見て行きましょう。


 




 国土地理院空中写真で見る田ノ浦周辺(高浜発電所)の歴史

 先ず国土地理院1/25,000地形図で田ノ浦(高浜発電所)周辺を示します。これから示す空中写真(航空写真)は、地形図に併せて居ます。当然ですが、上が北です。地図上で北(上)内浦港の在る集落が音海(おとみ)集落です。
 地図中央の高浜発電所が田ノ浦、やや下(南)の東海岸側が小黒飯(おぐるい)集落、更にその南が難波江(なばえ)集落と為ります。この高浜発電所の在る半島を音海半島と呼びます。この音海半島は、過つては集落間を接続する道路の整備状態が極めて悪く、渡船による海上輸送が盛んだったとの事です。

 次に、1947年11月と1948年10月の米軍撮影航空写真です。写真を精査すると、小黒飯から田ノ浦を経て音海まで、道路は在るには在りますが、自動車が通れるものには見えません。田ノ浦には平地が広がって居り、その全体が稲作耕地と為って居ますが、人家は全く見当たりません。又田ノ浦周辺も音海と小黒飯迄人家処か道路の見分けすら困難です。
 田ノ浦は、明治、大正の地形図でも稲作農地と為って居り、音海半島では、貴重な農地として使われて来た事が分かります。一方で居住の実態は見い出されず、道路も整備状態が極めて悪いことから、昭和20年代は、精々渡船による移動が基本であったものと思われます。

 処がこの田ノ浦は、航空写真からも分かる様に小川からの土砂が海岸線に堆積して居り、渡船による交通が困難であった事から、集落が開け無かったものと思われます。結果として田ノ浦は、通い農地として使われて来た事が分かります。
 1963年(昭和38年)に為ると、音海半島全体が大きく姿を変え始めます。世は高度経済成長9年目ですが、全国津々浦々に路線バスが運行される様に為り、自家用車の普及も進みつつあった頃です。しかし、音海半島は極めて急峻(きゅうしゅん)な海岸線の地形で、道路の整備は遅々として進みませんでした。

 此処で昭和37年(1962年)に昭和天皇の若狭行幸があり、昭和40年(1965年)に高浜町による原子力発電所誘致が行われて居ます。この間又はその少し以前に陸上自衛隊による道路敷設・改良が行われ、音海迄自動車通行が可能と為った*事が分かって居ます。

 *原発のある風景 柴野徹夫 前衛1979/08 pp.224に長老の証言として紹介されて居る。この時期、陸上自衛隊が訓練の一環として一般の公共土木では工事困難な道路の敷設・改良を行って居る。基本的に自動車通行可能な道路が敷設されて居る。好く知られる事例では栃木県道266号中塩原板室那須線 塩原・板室間の山越え区間、通称「塩那道路」がある。

 1965年に高浜町による原子力発電所誘致が行われると関西電力は、田ノ浦の調査を開始し、1969年5月には原子炉設置申請が為されて居ます。

 原発誘致開始以降の1968年に為り道路改良工事が進む

 1968年に為ると、関西電力による用地買収が進行して居るらしく、既に農地に何らかの土木工事が入って居ます。更に田ノ浦・音海間の道路改良工事が大規模に進行して居ます。
 1969年5月に為ると、原子炉設置申請前にも関わらず造成工事は大きく拡大して居り幾つかの建物も見える様に為ります。ここで初めて田ノ浦に建物が現れた事に為りますが、当然これ等は高浜発電所建設に関係する建屋です。この時点で田ノ浦隧道の建設が始まって居り、発電所敷地に取り込まれる道路の付け替えが始まって居ます。

 ここ迄でハッキリ分かった事は、原子炉設置審査の報告にある通り、田ノ浦には集落は愚か居住者は一人も居なかったと云う事です。ここで最近流布されて来た立ち退き云々は、嘘であった事が自明と為りました。ここにその嘘を再掲します。

 a)高浜発電所立地においてある部落(集落のこと)が立ち退きになりそれが、森山氏の利権の源であった
 
 これは航空写真を調べれば一目で分かる事で否定は容易です。そうではあってもファクトチェックを誰かが遣らねば為りません。こう云う非生産的な嘘を羅列するのは止めて欲しいものです。ここ迄で嘘を一つ潰す事は出来ましたが、折角ですのでその後の推移を見てみて行きましょう。





 

 原子炉工事開始からはこう変化した
 
 1969年12月12日に原子炉設置許可が下り、同年12月26日に工事が本格的に始まります。航空写真は1970年5月1日に撮影されて居ます。
 1970年5月1日に為ると造成工事は田ノ浦全域に拡大して居り、高浜湾側(東側)への取水路の開削(かいさく)も進んで居ます。特別高圧送電線(特高 設計500kV運用275kV)の鉄塔敷設が始まって居る事も分かります。道路の改良工事も活発化して居り、小黒飯地区南の交通難所を迂回する為の白浜トンネルの工事が始まって居ます。

 田ノ浦地区から内浦湾へは大規模に土砂流出が起きて居り、漁業への影響が在ったものと思われます。これは、海岸を埋め立てて専用港を造成して居た為です。1972年5月3日に為ると1年あけて1970年11月25日に設置認可が下りた2号炉も含めて原子炉格納容器の設置が終えて居り、1号炉2号炉共に生体遮蔽板(鉄筋コンクリート(RC)構造の茶筒の様な原子炉建屋)の取り付けが始まって居ます。
 敷地も取水路・排水路共に姿を見せて居り、更に3・4号炉用地の造成も進んで居ます。この取水路の建設によって道路が遮断される為、内浦大橋が供用開始されて居ます。1974年10月25日では、既に1号炉は完成して居ます。1号炉は、3月27日初併入11月14日営業運転開始で、撮影時点では試運転中です。2号炉は未だ建設中ですが、大きな工事は既に終わって居ます。

 1975年08月31では、1号炉定格出力運転中、2号炉試運転中と為ります。特高は一系統二回路のみで、加えて音海迄の高浜連絡線77kV一系統一回路が接続されて居りますが脆弱性があります。ここで気が付いたのですが、特高の鉄塔が地図・写真検閲で消されて居る様です。発電所直近の三本は写っていますが、四本目が不自然にボケて居り、五本目、六本目の鉄塔があるべき場所の写真を最大に拡大すると、不自然なボカシがあります。こう云った子供騙しの無意味な行為は止めて頂きたいです。
 1976年7月8日では、1号炉2号炉共に定格出力運転中です。排水路の流量が多い事が写真から好く分かります。なお、2号炉の営業運転開始は1975年11月14日です。この様に高浜発電所1・2号炉は建設されましたが、着工から営業運転開始まで1号炉が59ヶ月、2号炉が58ヶ月と5年未満です。

 3号炉・4号炉の建設
 
 次いで3号炉・4号炉の建設を追います。高浜3・4号炉は、1・2号炉着工から約10年経過した1980年12月に同時着工して居ます。但し4号炉は3号炉に工期を6ヶ月遅らせて居ます。高浜3号炉は、僅か50ヶ月の工期で1985年1月17日に営業運転開始、高浜4号炉は計画を2ヶ月繰り上げて54ヶ月の工期で1985年6月5日に営業運転を開始して居ます。高浜3・4号炉は、大飯3・4に先立ち関西電力原子力黄金期を体現する原子炉と言えます。

 そして福島核災害以降の高浜発電所周辺
 
 時を隔てて2011年、福島核災害により全原子力発電所は順次停止と為り、一挙に大量のバックフィットの為の工事を行う事と為りました。これは1980年代以降運開の改良標準化炉(PWRの場合は、川内1・2、玄海3・4、伊方3、高浜3・4、大飯3・4、敦賀2、泊1・2・3)を除く原子炉では工事量=費用が著しく増加する事を意味します。

 高浜発電所では、3・4号炉の操業再開は、司法リスクの顕在化等で停止期間が生じましたが、BWR陣営や、古いPWRに比べれば圧倒的に円滑であったと言えます。ここで航空写真は2013年7月20日と為ります。原子炉は全炉停止中で、写真の時点では、取水路を除き大きな工事は行われて居ません。又、外部電源は500kV二系統四回線、77kV一系統一回線と為っており、最低限の冗長性(じょうちょうせい)があります。
 この写真の時点で、1号炉は残り1年強、2号炉は残り2年強の残余寿命しか残して居らず、延命に向けてのバックフィット工事の膨大さから費用と工期を考えればこのママ廃炉が妥当でした。一方で3・4号炉は、残余寿命が未だ十分に在り且つ、炉の設計・施工も優れて居る為に特重を除けば大規模な工事を必要として居ません。

 Google Map衛星写真が2018年後半から2019年3月頃の撮影と思われますが、本シリーズ第一回でご紹介しました通り、高浜発電所では、経営陣の正気を疑う様な大変に大規模な工事が行われて居ます。
 1・2号炉延命工事・バックフィット工事に加えて特定重大事故等対処施設(特重)工事が行われて居り、その工事量は膨大です。結果として工事は遅延し、電力業界と財界による圧力を原子力規制委員会が当然拒否した事も在って、3・4号炉は来春から少なくとも1年、工事遅延の度合いによっては数年間の停止と為る事は必至で、1・2号炉の操業開始も大幅に遅れます。
 これは明らかに戦力分散・戦力逐次投入の愚の結果であって、関電経営陣の初歩的且つ致命的な判断ミスです。

 又最後のGoogleによる衛星写真に赤い橋が見えますが、これは原子力発電施設等立地地域特別交付金事業 一般県道 音海中津海線(大飯郡高浜町音海〜小黒飯)によるもので、約55億円の国費・県費が投じられています*

 *原子力発電施設等立地地域特別交付金事業 一般県道 音海中津海線(大飯郡高浜町音海〜小黒飯) 2018/02/09 福井県

 勿論、地方の生活道路改修は大切な事ですが、これも原子力の費用です。







 完全に否定された関電被害論「集落立ち退かせ」説

 ここ迄で、先ず「関電被害者論」のデマゴギーの一つである「高浜発電所は集落を立ち退かせた」は完全に否定されました。同時に高浜発電所近傍の歴史を俯瞰する事によって、その栄光と急速な衰亡が明らかと為りました。このママですと、1・2号炉に引きずられる形で3・4号炉の運転実績も大幅に劣化するでしょう。
 こう為る事は、当初から自明であって関電経営陣が何故この様な判断ミスをしたのか不思議で為りません。狂った経営判断には、狂った事情があったとしか考えられません。

 そこへ浮上したのが長年の宿痾としての関電巨額資金還流事件です。この膿(うみ)は完全に出し切ってしまわ無ければ関電にも日本の原子力産業にも将来は無いでしょう。次回は、音海半島、高浜町全体を俯瞰しながら、もう一つのデマゴギーに付いてその虚構を露わにします。



 ◆『コロラド博士の「私はこの分野は専門外なのですが」』〜緊急特集・関西電力資金還流問題編2

 取材・文 牧田寛


 牧田寛 Twitter ID:@BB45_Coloradoまきた ひろし 著述家・工学博士。徳島大学助手を経て高知工科大学助教、元コロラド大学コロラドスプリングス校客員教授。勤務先大学との関係が著しく悪化し心身を痛めた後解雇。1年半の沈黙の後著述家として再起。本来の専門は、分子反応論、錯体化学、鉱物化学、ワイドギャップ半導体だが、原子力及び核、軍事については、独自に調査・取材を進めてきた。原発問題についてのメルマガ「コロラド博士メルマガ(定期便)」好評配信中
     
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日本の現状を作った参勤交代 驚くべき旅の真の姿とは 


 

 日本の現状を作った参勤交代 驚くべき旅の真の姿とは 

 久住 祐一郎 『三河吉田藩・お国入り道中記』 磯田 道史による書評


           〜ALL REVIEWS 10/12(土) 6:00配信〜

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      『三河吉田藩・お国入り道中記』(集英社インターナショナル)


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                  書評 磯田 道史氏


 




 参勤交代 驚くべき旅の真の姿

 日本の現状は「参勤交代」が作った面がある。江戸時代、清(中国)の人口は3億人で首都北京に百数十万人が居た。日本は、10分の1の3000万の人口であったが、江戸にホボ同じ100万人が暮らして居た。この恐るべき、トップ都市への集中の原因は、参勤交代に他なら無い。

 全国の大名が将軍の居る江戸に交代で参勤して暮らす。国の富を此処で莫大(ばくだい)に消費する。それで日本は、ロンドン・パリより大きな都市を持つ小さな島国と為った。常に大名の半分が江戸住まいで人質状態だから反乱が起き無い平和に為った。
 全国の武士が江戸で交流し、知識が素早く交換される様に為った。学問や文化・法律に統一性が生じ、移動が頻繁だから、交通も便利に為った。

 それだけでは無い。都市民の割合が高く為ると識字率が上がる。浮世絵等の江戸文明の芸術が花開いた。しかも、その主たる担い手は、支配者で無く都市民と為った。アジアの中で、過つて日本が素早く先進国に入ったのは、参勤交代制度の所為でもある。

 処が、この参勤交代の「旅としての実態」は、左程研究が無い。寧ろ近年、映画「超高速!参勤交代」等で面白く描かれる様に為った。本書は、1841年に三河吉田(愛知・豊橋)藩が行った一回の参勤交代の細部を検証したもの。
 松平信宝(のぶとみ)と云う若殿様が、藩主の代わりに初めてお国入りする事に為ったが、几帳面な武士が居て、これでもかと云う程緻密な記録を残して居り、この研究が可能に為った。

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 映画で無い実際の参勤交代も面白い。先ず殿様は必ず事前に菩提(ぼだい)寺に参詣してから出発する。旅行の統括は「目付」が行い、宿割(やどわり・宿泊手配)・宿払(やどばらい・支払い)・船割(ふなわり・船の手配)の三つの係が設置される。
 この藩では藩主の初国入りは415人、それ以外(帰城)は265人の大名行列。この時は345人の行列を組んだ。家老から徒(かち)迄の士分54人・戦闘要員の足軽32人・荷物運びの中間(ちゅうげん)259人である。

 江戸上屋敷の2階に「参勤交代対策室」みたいな部屋が置かれ、人材派遣業者の人宿(ひとやど)三河屋との相談が始まる。実は、大名行列は、可なりの部分アウトソーシング(外部発注)で行われて居た。宿泊と荷物運びの手配を人宿が請け負ったのである。

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 だが、実際は幾つも難題が起きた。藩の或る老幹部は「馬に乗れ無い。駕籠(かご)にして呉れ」と要求。先例と格式と費用の狭間で担当者は四苦八苦した。表向きは騎馬、内実は駕籠と云う日本的解決法で乗り切って居る。
 又大名行列のシンボルの槍(やり)の鞘(さや)が古く為って居た。業者の入札に掛けたが、藩主が「豪華に見える様裏まで鳥毛を植えろ」と指示。15両以上も掛かってしまった。更に藩祖の「知恵伊豆・松平信綱」使用の虎皮の鞍覆(くらおおい)で移動して、道中と領民に若殿様を格好好く見せようとしたら、老中から贅沢(ぜいたく)だからダメと禁止された。宿の予約が遅れて、他の大名に宿を獲られてしまう事も起きた。

 費用的な事を言えば、道中の武士の宿泊・食事代や船賃は、チケット制に為って居て、札が武士達に配られ、後で宿払の係がそれを回収して精算して居た。雨天等で日程が延びると、宿泊費が嵩(かさ)む。人宿はキッチリ追加料金を請求して来るので、大名行列が高速移動を求められたのは事実である。
 この藩の参勤交代は総額で6〜700両掛かったらしい。他にも、大名行列の宿場での宿泊実態や忘れ物への対処法等、本書の細部は楽しい。

 江戸社会は、武士の義務的移動が特徴の社会である。参勤交代や転封で、武士が巨額な費用を掛けて移動し無ければ為らず、それで巨大都市の在る、制度の統一された国民の識字率も高い国が江戸時代に既に出来、現代日本の前提条件を提供した。
 これは、全国統一の法治国家や近代軍隊や先進工業国を作るのには好かった。しかし、本書を読むと、工業化段階迄は江戸社会が日本を先進にして呉れたが、21世紀に入った現在では、江戸の武士社会の在り様が、返ってこの国の進路の足枷(あしかせ)に為って居る事にも気付かされる。

 江戸の武士社会は永続が価値であった。吉田藩でも50家ばかりが、17世紀初めの「島原の乱」に従軍したと云う理由でアラユル優遇を受けて居た。長くその組織に居る者(譜代)が、高い地位に座れる条件に為って居た。その時代に必要なスキルを持った者が高い地位に座れる組織では無かった。
 時代の変化に沿って、組織の姿を柔軟に変えるのは不得意で、先例や格式・伝統と慣習に従うお行儀教室的な組織に為り勝ちであった。又、直ぐに上の指示を仰ぎたがり指示を待つので、意思決定から実行迄が遅かった。本書は泰平の世に弱点を持ち始めた武士社会の様相も見せて呉れる。

 IT・人工知能・急速な人類社会の変化の中で、日本が先進国の座から降りつつある今、日本を過つて先進国にした参勤交代の真の姿の細部を観て置きたい。


 磯田 道史  歴史学者 1970(昭和45)年岡山市生れ 茨城大学准教授 2002年慶應義塾大学文学研究科博士課程修了 博士(史学)日本学術振興会特別研究員 慶應義塾大学非常勤講師等を経て現職 著書に『武士の家計簿』(新潮ドキュメント賞)『殿様の通信簿』『近世大名家臣団の社会構造』等


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                 久住 祐一郎氏

『三河吉田藩・お国入り道中記』 著者 久住 祐一郎  出版社 集英社インターナショナル   発売日 2019年04月5日  ISBN 4797680369

   毎日新聞 2019年9月22日掲載 磯田 道史   以上






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戦艦「大和」の何がスゴかったのか?


 

 戦艦「大和」の何がスゴかったのか?


            〜BEST TIMES 10/12(土) 12:00配信〜


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 令和元年度の自衛隊観艦式に先がけて開催中の「FLEET WEEK(フリートウィーク)2019」10月5日、横浜会場のトークショーに『戦艦大和 建造秘録』の復刻改訂版が刊行されたばかりの大和研究第一人者の原勝洋氏が登壇した。
 テーマは『大和の何がスゴかったのか』「大和」が世界に誇る日本の最高傑作たる所以として氏が挙げる「大和の3つの世界一」とは? 



 その1 世界一の主砲 〜46センチ砲の脅威〜

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 「大和」は当時、世界で建造された戦艦の頂点であった。第2次世界大戦(太平洋戦争)に就役した戦艦数は80隻主砲門数は744門に及んだが、その頂点に立ったのが「大和」「武蔵」に搭載された46cm(18・11インチ)砲である。

 1936年以降の新式戦艦29隻と1936年以前の旧式戦艦51隻計80隻と為る。

  1 46cm砲・・「大和」「武蔵」に続く8種類の砲の口径は
  2 41cm砲・・長門型戦艦「長門」「陸奥」16門
  3 40.6cm砲・・米戦艦アイオワ級4隻を含め13隻、英国戦艦ネルソン級2隻
  4 38cm砲・・ドイツ海軍ビスマルク級2隻ほか23隻
  5 36cm砲・・24隻
  6 34cm砲・・3隻
  7 32cm砲・・4隻
  8 30cm砲・・3隻
  9 28cm砲・・2隻


 と為って居た。46cm砲が如何に巨砲であったか窺い知る事が出来る。「大和」主砲の「限界」発射弾数である命数(砲身の寿命)200発。これを超えると弾丸の弾道が狂って来る。

 砲身は発射毎に発生する高熱ガスの為に膅面(とうめん)を摩損し、毎回少しずつ精度を不良させる。更に、施条(大和の場合72個)の摩耗量が或る一定限度に達する時は、著しくその精度を不良にさせるだけで無く、或は膅発(砲身内での爆発)の原因と為る。ちなみにこの限界に達したものを「命数に達した」と言い、この限界に達する迄の射撃弾数をその砲の命数と称した。そこで傷付いた内筒だけを新しく交換する方法を執って居た。


 




 その2 世界一の安定性 〜洋上に浮かぶ要塞〜

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 「大和型」の主砲の名称は、94式40センチ砲と称し、膅面直径46センチを軍機(国の最高機密)として秘匿した。九四式は、皇紀2594(昭和9=西暦1934)年に兵器として採用された為、その下の桁の数字を採り40センチ砲と呼称したのである。皇紀とは、初代神武天皇が即位したとされる年を元年とした日本の紀年法だ。

 何故「大和」に18・11インチ(46センチ)砲が搭載されたかの理由は、16インチ(40・6センチ)砲弾に比較して弾量で46%重く・射程2万メートルの落角で16インチ砲の17・3度に対し16・5度・弾速490m/秒に対し、522m/秒と弾道性に優れて居る事にあった。
 対艦用弾丸の重量は1・46トン、名称は九一式徹甲弾、その着色弾を一式徹甲弾、対空弾は三式焼霰弾と称した。

 前部6門、後部3門を同時に同一舷、同一方向に発射すると、約8000トンの反動力が生じる。その為、船体その他の強度不足の部分があれば、湾曲し破損する部分が生じる恐れがあった。その為船体の中心線の両側に約1m間隔で、前部と後部砲塔間に渉りバーチカルキール(竜骨)が平行に2列設けられて居た。又、2列のバーチカルキールの頂上に、船体中心縦隔壁が設置されて居た。
 主砲を発射した際、砲口から伝播する強大な爆風圧力の強度は、ボートを破損させ人間の被服を破り一時朦朧とさせる。甲板開孔部は、この圧力侵入の少ない箇所にマトメ且つ丈夫に造られた。その結果、露天甲板は大変にスッキリ広々とした。


 




 その3 世界一の防御力 〜航空攻撃への耐久性〜

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 米軍第1次攻撃隊 第1群(空母2隻・軽空母2隻)と第3群(空母3隻・軽空母2隻)から発進した222機(空母1隻の38機は目標に達せず、その他3機はトラブルで途中帰還)第2次攻撃隊(空母2隻・軽空母1隻)から発進した107機(トラブルで2機途中帰還)が海上特攻隊「大和」に向かった。
 第1次攻撃隊は、ロケット弾112発・爆弾63発・空中魚雷52本を「大和」に集中。第2次攻撃隊は、爆弾30発と空中魚雷7本で「大和」を攻撃し止めを刺した。

 米軍の日本艦隊との交戦記録(大和の最期)では、作戦中の戦闘報告を分析して空中魚雷19本・454kg爆弾18発・227kg爆弾10発命中との記録を残して居る。日本側記録は、被弾6発・空中魚雷10本・至近爆弾無数と記録して居る。


              文 原勝洋  以上


 




 「関連記事」 戦艦大和 その誕生

 第二次世界大戦当時、世界最大の戦艦を日本が建造した事をご存知でしょうか。その戦艦は「大和」(やまと)と言います 。アジ歴では、戦艦大和に関する当時の生の資料を見る事が出来ます。その資料には、大和の戦いはどの様に記録されて居るのでしょうか。
 戦艦大和の構想は、第一次大戦後に遡ります。大正11年(1922年)にワシントン海軍軍縮条約、続いて大正5年(1930年)にロンドン海軍軍縮条約が締結され、日本海軍の装備はアメリカ・イギリスの6〜7割までとすることが決定され、主力艦の建造が中止されました。

 海軍軍縮条約の期限は昭和11年(1936年)末でした。海軍の装備を制限する条約が無く為り、各国間での軍艦の建造競争と為った場合、日本は総合的な国力で他の有力な国々に劣る為不利とならざるを得ません。そこで海軍は、艦船の数で勝負するのでは無く、他国に勝る性能を有する戦艦を備える事を考えました。
 この際に重視されたのが、主砲の大きさでした。アメリカ海軍は、太平洋と大西洋を行き来する際にパナマ運河を通過して居ました。しかし、この運河の門の幅は33メートルである為、ここを通り抜ける事の出来る艦船も幅がこれ以下の規模のものにホボ限られました。

 戦艦で言えば、主砲の大きさが41センチ未満のものと云う計算に為ります。そこで日本海軍は、これを上回る大きさの主砲を備えた戦艦をアメリカ海軍が建造する可能性は低いだろうと判断し、更に大きな46センチの主砲を備えた大戦艦の建造を計画したのです。こうして造られたのが戦艦大和でした。

 戦艦から航空機へ

 昭和16年(1941年)12月8日、空母6隻を柱とする機動部隊がハワイ・真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を奇襲し、二度に渉る攻撃によって停泊中の戦艦8隻のうち4隻を撃沈、3隻を大破させました。その僅か二日後、日本海軍航空部隊は、マレー沖でイギリス東洋艦隊の主力戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈します。
 日本のこの緒戦の勝利は、皮肉にも戦いの主役が大和の様な戦艦から航空機へと移った事を証明する事に為ります。

 大和は「大艦巨砲主義、即ちより大きな砲弾をより遠くへ飛ばす戦艦を軸に海軍を編成すると云う作戦思想の産物でした。しかし、各国の航空機の性能が飛躍的に向上し、更に洋上の基地と為る航空母艦が主力に為ります。この状況の変化により、大和が必勝を目指して居た戦艦による艦隊決戦自体が行われ無く為りました。

 昭和16年(1941年)12月の竣工後、大和は連合艦隊に編入され、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦で初陣を迎えます。その後、マリアナ沖海戦(米軍呼称はフィリピン海海戦、昭和19年(1944年)6月19日〜20日)、比島沖海戦(米軍呼称はレイテ海戦、同年10月23日〜25日)は共に対空戦闘に終始した為、大和の主砲が威力を発揮する事はありませんでした。
 しかし唯一、比島沖海戦中、サマール島沖で米護衛空母部隊と交戦した際に敵艦に対して砲撃が行われ、この時が、大和が敵艦に向けてその主砲を放った最初で最後と為りました。

 戦艦大和 最後の戦い

 そして昭和20年(1945年)4月5日、大和に海上特攻隊としての出撃命令が下りました。目的地はアメリカ軍が上陸を始めた沖縄でした。作戦の時の軍艦大和の戦闘詳報です。戦闘詳報とは、後の作戦指導を適切に行う為に、一つの戦闘終了後にその戦闘の状況を詳しく上級指揮官に報告する文書の事です。「軍極秘」の文字があります。

 大和は4月6日15時20分に出撃します。出撃する艦艇は10隻、第二艦隊旗艦大和以下、軽巡洋艦矢矧、駆逐艦冬月・涼月・磯風・浜風・雪風・朝霜・霞・初霜。
 隊形を整えた艦隊に対して、伊藤整一第二艦隊司令長官は指揮下の各艦に対し「神機将ニ動カントス。皇国ノ隆替懸リテ此ノ一挙ニ存ス。各員奮戦敢闘、全敵ヲ必滅シ、以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ」、との訓示を伝えました。

 4月7日の8時40分、大和は米軍の航空機の編隊を視認しました。12時34分に「敵艦上機一五〇」に対し射撃を開始しました。しかし、数多くの米軍機からの攻撃を受け、およそ2時間後の14時23分に「前後部砲塔誘爆沈没」しました。
 大和の戦果は撃墜3機、撃破20機、その被害は「沈没(戦死艦長以下2498名)」と記されて居ます。4月7日の海戦は、日本側では「坊の岬沖海戦」と呼ばれて居ます。10隻から為る艦隊は、大和の他矢矧・磯風・浜風・朝霞・霞の計6隻が沈みました。帰還した4隻の内、涼月は大破、冬月・雪風は被弾もしくは至近弾を受け、初霜はほぼ無傷でした。

 生還者達は、この戦いをどの様に書き記して居るのでしょうか、次の様な事が記されて居ます。

 戦況が行き詰まった際には、焦燥感にかられ計画準備に余裕が無いと云う事がシバシバであるが、特攻兵器を別として、今後残存駆逐艦等によるこの種の特攻作戦を成功させる為には、慎重に計画を進め、準備を出来るだけ綿密に行う必要があり「思ヒ付キ」作戦は精鋭部隊をもミスミス無駄死にさせてしまう、と書かれています。
 又、大和を護衛した「第二水雷戦隊」の戦闘詳報では、作戦は飽く迄冷静にして打算的で無ければ為ら無い、徒に特攻隊の美名を冠して強引なる突入戦を行うのは失う処が多く、得る処は非常に少無い、と作戦そのものに対する厳しい批判が書かれています。

 大和沈没とその後

 4月7日の海戦の同日、後に戦争の幕引きを行う鈴木貫太郎内閣が誕生し、親任式が行われました。その親任式の後、鈴木首相は控え室で大和の沈没を知らされたと言われて居ます。
 4月30日、昭和天皇は、米内光政海軍大臣に対し下問され「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と問われて居ます。これに対し海軍人事局三戸壽少将と富岡第一部長は関係資料を基に話し合い、「作戦指導ハ適切ナリトハ称シ難カルベシ」と結論付けました。そして、この作戦の4ヶ月余り後、日本は終戦を迎える事に為ります。


                 以上


 




 【管理人のひとこと】

 歴史には、IF(もしも)と云う仮定の話はタブーとされて居ます。何故なら、その結果に至ったのには、それ迄の歴史上の事実が積み重為って起きたものであり、その一つをIFで否定した話は、全ての歴史を否定してしまう事に為ってしまうのです。それでは、歴史そのものが成り立他無く為るのです。
 もし、日本がアノ時米英に戦争を起こさ無かったら・・・も、今と為ったらどうにも為ら無いIFの話であり、取り返しのつか無い否定出来無い厳然とした事実でありそれが真実の歴史なのです。私達はその歴史を真正面から受け入れそれに対して真摯に立ち向かって行く事しか出来無いのです。

 当時は(今でも根本的には変わら無いのですが)全ての揉め事を戦争と云う武力で解決するのが常識でありそれが国際法下で認められて居ました。その中での色々な約束事があり、相手を騙す宣戦布告以前の奇襲戦法はご法度でしたし、戦争捕虜に対する取り決めもありました。詰まり、戦争するにも或る一定の取り決めがあって、その下で戦ったのです。
 我が国は、自国の脆弱性を悟り、その中で精一杯の背伸びをして準備して居のです。それは一撃で相手を挫きそのまま停戦に向かう・・・奇襲・短期決戦での勝利しか無いと腹を括って居たのです。その背景には、日中戦争の泥沼化のママに新たな戦線を開くと云う無理があったのです。

 不十分な準備で大陸と太平洋と云う二面の戦線を維持するのは、我が国の実力以上のものであり、結果として300万人と云う犠牲者を半ば戦わずにして、半数は餓死・病死で尊い命を惨禍させてしまった、戦争指導者の精神論に押されてしまった、我が国の国民性の敗北でした。しかし、その尊い犠牲の上に現在の我が国が存在するのです。
 その歴史を決して否定しては為らず、増してや「聖戦」等と賛美しても為らず、事実として真摯に受け入れるべきで、そこから未来を語るべきなのです。その意味で当ブログでは、時折戦争の話を取り上げて居ます。



 



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