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2019年09月02日

山口組兄弟分が明かす 横山やすし「吉本解雇後」最後の7年間




 山口組兄弟分が明かす 横山やすし「吉本解雇後」最後の7年間



 




             〜デイリー新潮 9/2(月) 11:01配信〜


           9-4-11.jpg

              (左から)竹垣悟、横山やすし


 「山口組」兄弟分が明かす「それからの『やすし』」(1/2)

 〜『それからの武蔵』は巌流島後、晩年迄の剣豪を描いた名著である。他方、今から30年前に吉本興業をクビに為った横山やすしは、亡く為る迄の7年弱、金策に奔走し当時の山口組幹部と兄弟の盃まで交わして居た。その兄貴分が明かす「それからの『やすし』」〜



 「何とは無しにヤッさんの顔見たら、歯茎から血が滲んで歯が所々染まって居ましてね。〈師匠、口から血ぃ出ヨン、お絞りで拭かなアカン〉と言うたんです。本人? 全然それに気付いて変化った。後で聞いたら、肝臓が悪ぅ為るとそう云う症状が出る事があるらしいんですワ」

 と、その日を振り返るのは、師匠、或はヤッさん殊横山やすし(享年51)の最後のスポンサーであり、晩年に盃を交わした元山口組中野会若頭補佐の竹垣悟(68)である。その日とは、1995年12月25日の事であり、写真の様に、竹垣がマイクを握って居る。
 やすしは酒が回ったか、聴き惚れて居るのかその両方なのか。多年の鯨飲で肝臓は絶叫して居る筈なのに、気持ち好さそうだ。

 「肝硬変で亡く為ったんは、1996年の1月21日やったから、この忘年会が最後に為ってしまいました。第一報を奥さんの啓子さん(2008年没)から聞いて、胡蝶蘭を持って弔問に行ったんです。テレビに映るから思て、結構目立つヤツを持って行ったんやけど、ヤッパリ映らへんかったですね」

 20世紀の末で在っても、現役暴力団幹部の名が記された供花だとブラウン管に映るのは都合が悪かったか。駆け足に為るが、ここで竹垣の経歴を紹介して置こう。


            9-4-12.jpg

              山一抗争』30年前の山口組分裂事件


 兵庫県姫路市出身の竹垣は、東映東京撮影所の大部屋時代に端役として映画に数本出演したり、若山富三郎の付き人を経験した後に、竹中正久組長率いる竹中組の直系下部組織に身を置いた。正久4代目が射殺された血で血を洗う山一抗争を経て、竹中組当代と為って居た竹中武(4代目の実弟)組長が山口組を脱退する1989年、竹垣は中野会に移籍。
 当時の古川雅章組長は、先頃手記を出版した許永中氏と親しい間柄で知られて居る人物だ。後に触れる中野太郎会長は、5代目山口組若頭補佐の重鎮である。

 1997年に起きた宅見勝・5代目山口組若頭射殺事件を機に、竹垣は古川組へ移籍。2005年にカタギと為り、現在は暴力団員の更生を支援するNPO法人「五仁會」を故郷の姫路で営む。


 




 「やすし」を使ったって呉れへんか

 竹垣の話に戻ろう。2人の出会いに付いては、

 「1992年の終わりから93年に掛けての頃ですね。当時、私の親分やった中野太郎・山口組若頭補佐が〈一寸竹垣、家の方へ来て呉れへんか〉と言うんです。家と云うのは京都の八幡市。中野会長が1996年7月、4代目会津小鉄傘下の組員に銃撃された散髪屋の近くです。
 その家で〈竹垣、やすしって知っとるか?〉と聞かれて〈知ってるも何も、私、大ファンです〉と答えました。天才漫才師で、雲の上の芸人やと思て見てましたね。私が東映の大部屋に居る時、高倉健、鶴田浩二、若山富三郎・・・それこそ綺羅星の如く映画人が並んで居りました。芸人でそれに比肩するのは誰かと問われたら、横山やすし・西川きよしを措いて他に無い。それ位オーラがある人やと思てたんです」
 

 そんな憧れを口にした竹垣に対し、中野会長は、

 「〈そうか、お前一辺、やすしと会うてみるか? 会うて、もし良かったら、色々姫路でディナーショーとか何やかんや遣っとるから、やすしを使ったって呉れへんか〉と言いましてね。ヤッさんの家の電話番号聞きまして、こちらから電話したら『横山です』って出まして。
 〈親分から聞いたんやけど〉と言うと〈そうですか〉と。〈もし時間有ったら姫路の方へ飯でも食いにけぇへんか〉と言うたのが最初ですわ。親分が誰に頼まれたとかそう云う事情は一切聞かされ無かったんです。ヤッさんが中野会と何処で接点が出来たのかハッキリしませんね」


 とは言え、竹垣の頭を過(よぎ)るのは、例えばこんな想像だ。


          9-4-13.jpg


 「1992年、ヤッさんは野村秋介代表の『風の会』から参院選に出ましたよネ。風の会の事は菅原文太等が応援してました。文太が山口組とベッタリなんは有名な話で、その関係の筋やと思わんでも無いけど・・・正直判りませんわ。落ちブレタ言うても天下の漫才師やから大阪やと目立つし、その点、姫路やったら田舎やし好いかなと云う会長の判断も有ったのかも知れません。当時私は中野会の若頭補佐で、執行部の一員でバリバリ頑張っとったんです」


 




 お金が苦しく為ったら

 現役を既に退いた中野太郎は目下、竹垣の言葉を借りれば「満足にコミュニケート出来無い」体調で、やすしの世話を誰が頼んだかに付いては、歴史の闇に消えて行く他無い様だ。
 一方でやすしは、1989年の4月に吉本興業から解雇を通告されて居た。その直前に起こした飲酒人身事故が直接のキッカケだが、それ迄に積み重なって居た20近い不祥事こそやすしのクビをジワジワ締め上げたし、不世出の芸人を庇い続けた吉本をボディブローで攻め立てて居たのは間違い無い。
 そして、漫才を辞めた寂しさを慰めて呉れるのは、これ迄以上に自宅での酒しか無かった。竹垣の電話に「横山です」と、飛び着く様に出たのも無理は無い。

  「ヤッさんは大阪の摂津の家から、新幹線やのうて(じゃ無くて)普通の快速に乗って姫路の私の家に来ました。初対面の時点で既に酒飲んでましたね。勢いが着いてて調子良かったもんね。食事して韓国クラブへ飲みに行って・・・5万か10万円か渡して、帰りは電車が無いから摂津迄クルマで送って行きました。若い衆は喜んでました、あのヤッさんやから」

 摂津〜姫路は往復で3時間も掛から無いから、竹垣が同乗する事もママ有った。

 「約束とかは無くてね、ヤッさんから〈姫路行ってええか?〉って電話か駆って来るんですわ。摂津の家で啓子さんと、その後に漫才師に為る娘のひかりちゃんと一緒に暮らしてました。ひかりちゃんが未だ小さい頃やったし、お金が苦しく為ったらウチへ来れば小遣いは貰えるから、そこは必死やったんでしょう」  

 口にするのは、いいちこ等の焼酎の水割り。それこそ水の様に飲み続けるのだと云う。

 「大抵は〈アイアイサー〉言うて楽しそうにしてるんですがね。ヤッさんはタバコがエライ嫌いで。何時も行く韓国クラブの店長と〈俺の前でタバコ吸うな言うとるやろ〉〈やかましワイ、ここはワシの店や、気に入らんねんやったら帰れ〉って口論に為ってました。
 だから若い衆も含めて、ヤッさんの前ではタバコ吸わん様にと言うてました。落ちブレても芯は崩れてへんかったんでしょう。その強さは息子の木村一八への期待と繋がってたのかナぁ。夢を託してた印象ですね。〈一八に賭けとんねん。一か八かのイッパチや。一八はこれからもっと大き為るで〉と。そんな一八と私は今度Vシネマで共演するんですよ。セリフは二言、三言と少ないですが……」


 過つてと違って、存在感の有る暴力団組長役だと云う。処で、やすしが自棄に為り悪い酒に頼るように為ったのは「きよしが1986年の参院選に出馬したから」と云うのが定説に為って居るのだが、

  「〈キー坊とはズッと一緒に遣って来たんや〉と言うだけで恨み節とかは一切無かったです。吉本興業への不満も全く言わへんかったですね。私も血の気が多いから〈吉本カチコもか、師匠〉って言うたら〈嫌、そんなんせんでもエエ〉と。押し並べて、過去を振り返ってどうのこうのって感じじゃ無かったね」

 又或る時は、

 「〈漫談でも何でも一つ〉と客から無礼なリクエストがあっても〈キー坊あってのワシやから〉と殊勝な答えで応じず、代わりにと言うてはナンやけど、十八番を歌うだけやったね。曲は『俺は浪花の漫才師』。チップはもろて無かったです」

〈十八番を一つ歌うだけ 妻には涙を見せ無いで 子供に愚痴を聞かせずに 男の嘆きはほろ酔いで……〉と、酒量を除けば恰も河島英五の歌の世界である。(文中一部敬称略)


 (2)へつづく 「週刊新潮」2019年8月29日号 掲載 新潮社


 





 【管理人のひとこと】


 管理人が横山やすし氏とスレ違ったのは、大阪キタに在る大きなサウナだった。当時の大阪のサウナ風呂は、表の派手な電飾に飾られた何百人も入れる超豪華なホテルの様な拵(こしら)えで、中のラウンジは豪華なホテルの様に明るい照明に溢れて居た。
 サウナやお風呂に入り身ギレイにし、サービスのアルコールや飲み物を飲んで女性からマッサージを受けるもので、東京の性サービスのトルコ風呂とは異なり、単に豪華な気分で風呂に入りマッサージを受けるだけのものだ。
 当時の大阪には、飛田新地や松島等の、売春防止法以前と変わらぬ普通の遊郭が残って居り、タクシーンが走る道路の両側に何十軒もの店から女性が表に並び客を曳く・・・目に留まった好い子に会えば店に上がり条件や料金を決めて遊ぶ。手軽に遊べたので、大阪のサウナとはマッサージ止まりのサービスしか無かった。
 女性も中年以上の年増が多く、ショートパンツにブラを着けた格好で、マッサージ専門と云う雰囲気しか出して無い。時タマフザケテ胸やお尻を触る事は有ろうが、明るい照明の中のズラーット並んだベッドでマッサージされるのだから、健康的?なものが売りだった。

 当時のやすし氏は、何度目かの処分を受け謹慎中の身で一人でサウナに来て居た。無論、酒を飲み酔った状態で色々な女性をカラカって居た。
 「何やアノ人気色悪いわ・・・」「アレが横山やすしヤ」「偉そうに・・・好かんわ」「又テンゴウな事して舞台に上がれんのや」「そやろそやろ、適わんワ」
 と女性には散々悪態を着かれて居たのだが、楽しそうに酔って居た。無論、彼等の漫才は面白くテンポが速く捲し立てる。新しい漫才で人気を博して居たが、やすし氏は何度も小さな事件を起こしては世間を賑わして居た。大阪の芸人は庶民の中に入り混然として居たが「やすしきよし」のコンビは、一歩離れたテレビの中のスターだった訳だ。



 



 



 







「戦争体験の無い自分に出来るのか?」  戦後世代が受け継ぐ〈語り〉



「戦争体験の無い自分に出来るのか?」  戦後世代が受け継ぐ〈語り〉



        〜yahooニュース 8/15(木) 7:25 配信〜



 




 「ひめゆり平和祈念資料館」職員の尾鍋拓美さん(38)は、モドカシサを抱きながら「説明員」の仕事を熟して居ると云う。
 戦後74年。沖縄戦の体験者は少無く為り、自らの口で経験を伝える「語り部」も数える程しか居なく為った。研修等を重ねたとは云え、尾鍋さんの様な若い世代は、戦禍の記憶を引き継ぐ事が出来るのか。直接の戦争体験者から一体何を託されたのか。沖縄・広島・欧州、夫々の地域で始まって居る継承の試みを追った。(文・写真:当銘寿夫/Yahoo!ニュース 特集編集部)


 戦争を知ら無い自分に出来るのか

 「ひめゆり学徒隊」は沖縄戦の際、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の女子生徒と教師で組織された。負傷兵の看護や遺体埋葬等に従事しながら沖縄本島南部を逃げ回り、教師も含む240人の内136人が死亡した。
 その悲劇を語り継ぐ施設が「ひめゆり平和祈念資料館」だ。那覇市内から車で約30分。修学旅行の生徒や旅行者らが大勢此処を訪れる。

 
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         沖縄本島南部に在る「ひめゆり平和祈念資料館」

 
 三重県出身の尾鍋さんは「説明員」に為った時のことを好く覚えて居る。2007年、25歳の臨時職員だった。

 「嫌ぁ私は一寸、って躊躇いました。何ですかね……。人と話すのがそんなに好きじゃ無いし、体験が無い自分に戦争体験を伝える事が出来るんだろうか、って。(戦後生まれの先輩が説明員に採用された時も)外側の人間として(そんな事が)本当に出来るの、って。見られる側に行くのは怖いと思いましたね」

 この資料館では1989年の開館後、元学徒隊の女性達が自らの経験を直接、入館者に語って居た。転機は開館から10年後である。
 特別企画を開催しようと、体験者等がアイデアを練って居た。その最中、メンバーの1人が亡く為った。別の1人も体調を崩して活動を休んだ。そこで初めて職員や体験者は「残された時間は長く無い」事を実感したと云う。そして2005年、資料館は初めて元学徒に代わって説明する説明員制度を作り、職員の採用に乗り出した。尾鍋さんはその2人目。説明員歴は13年目に為る。               

 学徒だった女性達もスッカリ高齢だ。体験者が直接語る「戦争体験講話」は2015年に終了し、同時に説明員らに依る「平和講話」が始まった。そこでは、元学徒の女性達が語るビデオは映されるものの、講話の場に当の女性たちは居ない。
 「説明員」としての尾鍋さんにはこの間、色んな事があった。例えば、或る時の「平和講話」では、男子大学生の言葉が突き刺さったと云う。

 「私、その大学生に『重みがありません』って、ハッキリ言われたんです。『映像で話を聞いても体験者の言葉は重みがある。でも、生で聞いても体験の無い人から聞くと重みを感じられ無い』と。実際、そうなんだろうなって」

 尾鍋さんには自負があったから、猶更応えた。どんな自負だったのだろうか。それは2009年頃に築かれたと云う。

 「当時、資料館で活動中だった元学徒の方々と一緒に、戦時中に逃げ回った場所を実際に回って、そこで話を聞いて。大きな経験でした」

 それに参加して居た元学徒の女性達は当時、17人。毎月数人のペースを守り、1日掛けて一緒に過ごす。17人全員の悲劇を追体験した。夫々の場所で映像も撮った。「平和講話」では、元学徒隊の女性はビデオで登場。それを戦後世代の「説明員」が補足する。尾鍋さんが続ける。

 「(体験者本人の話を実体験した場所で聞いて行くと)ヤッパリ年々、その経験が私の自信と云うか、自負に繋がる。『私は全員から話を直接聞いてるんだ』と。説明員として平和講話の内容を作る時も、聞き取り資料を読み返すんですよ。すると、『良かった、聞いてあった』と為る事があります」

 時が過ぎ、あの17人も少しずつ欠け始めた。


 




 「ひめゆり」職員、海外へ

 戦争体験の無い世代に為った時、社会は「体験」をどう伝えて行くのか。その問いは、日本だけのものでは無い。オランダの首都アムステルダム。その運河沿いに博物館「アンネ・フランク・ハウス」はある。第2次世界大戦の時、ユダヤ系ドイツ人の少女、アンネ・フランクは、ナチスの迫害から逃れる為、ここを隠れ家にした。その日々を綴った「アンネの日記」は、今も世界中で読まれて居る。


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 アムステルダムにある「アンネ・フランク・ハウス」 (c)Anne Frank House/Photographer:Cris Toala Olivares


 ひめゆり平和祈念資料館と違い、この博物館にはナチスの迫害を実体験として語る者は居ない。展示内容を説明するガイドも居ない。年間120万人以上が訪れる同館は、では、どうやって伝えて居るのだろうか。
 広報部のイリス・ハルムさんに依ると、専門スタッフに依る「入門プログラム」を用意して居る。入館者は見学を始める前の30分間、先ず、アンネ・フランクに関する出来事や当時の歴史に付いての説明を受ける。
 「入門プログラムの部門には5人の正職員が居ます。彼等はアンネ・フランクやユダヤ人迫害、第2次世界大戦に付いて詳しい知識を持って居る。プログラムを提供する為の訓練も受けて居ます」5人は30〜35歳と若い。
 
 一般用とは別に、小・中学校向けの教育プログラムも用意されて居り、2018年には1023団体が受講したと云う。教育プログラムには館内の見学だけで無く、子供達が参加するワークショップも組み込まれている。
 2017年には、ひめゆり平和祈念資料館の職員が研修の為ここを訪ねた。その時に応対したのは、教育プログラム部長のヤン・エリック・ダブルマンさん。「事実を伝えるのが目的では無い。『事実の意味とその背景の関連性を伝える』それが最も重要な目的だ」と云う彼の言葉は、今も館内に掲示されて居る。

 「『入館者』に為って初めて分かった」

 実は、ひめゆり平和祈念資料館は早くから海外に職員等を派遣し、どうヤッテ実体験を継承したら好いのかを研究して来た。皮切りは2003年。学徒隊の体験者6人を含む12人が、アウシュビッツ強制収容所だったポーランドの「アウシュビッツ・ビルケナウ博物館」等を視察して居る。同資料館の学芸課長・古賀徳子さんは言う。

 「(元学徒隊の方々は)2003年にヨーロッパに行く迄、体験が無い人に伝える事が出来るのか、半信半疑だったそうです」

 古賀さんも欧州やアジアで様々な施設を視察して来た。その時の立場は「入館者」。特に北アイルランド紛争で知られる英国・北アイルランドの博物館を訪れた際に、体験者の語りだけで無く、訪れた人と出来事の現場を繋ぐ事の大切さに気付いたと云う。
 その博物館「ミュージアム・オブ・フリーデリー」は、血の日曜日事件の起きた場所に立つ。1972年、デモ行進していた僅か27人のカトリック系市民に対し、英国軍が銃撃を行い14人が死亡した事件だ。

 「血の日曜日事件に付いては、事前に読んで知って居た積りでしたが、現場に来ても、全然、その情報が自分の中で繋がら無かったんですよ。だけど、職員の方が『此処とココで撃たれました』と説明して呉れて。『ココで1人、アソコで2人』と。しかも、その方は遺族。自分に取って遠い出来事だったものが、急に繋がった感じがしました。情報や知識として学んで来た事が光景として立ち上がって来た」

 古賀さんが続ける。

 「海外視察の時は、事前に学習して行くんです。でも、見学して居ても全然分から無い事がある。入館者に為ってそれを実感しました。だから、沖縄県外の方が沖縄戦を事前に学習して居ても、実際に現場(資料館)に来たら、全然分から無いと云う事も起こるんだな、と。(体験者の語りだけで無く)初めて訪れた人と現場を繋ぐ。その大切さを感じました」


 




 「語り部」を引き継ぐ〈覚悟〉

 ひめゆり平和祈念資料館では、館長も戦後世代だ。職員を経て2018年4月に就任した普天間朝佳さん(59)。それ迄の館長は、学徒隊の引率教諭や元学徒、ひめゆりの同窓生だったのに、そうした縁も無い。長い勤務歴がありながら、普天間さんはナカナカ入館者の前で、ひめゆりの悲劇を説明出来無かったと云う。

 「ズッと逃げて来たんです。体験者が持つ言葉の重さに怖気づいて居た」

 それでも、体験者で無い者が語る「平和講話」が2015年に始まると、入館者の前に立つ様に為った。平和講話の「説明員」に為った職員から「体験者の方達も『伝える努力』をして居ますよ。自分の体験だけを語るのでは無く(当時の背景や歴史も含めて)入館者にキチンと説明して居るんです」と聞いたからだ。館長に為る前の、アノ出来事を普天間さんはこう振り返る。

 「体験者の方だって伝える努力をして居る訳ですから、戦争を体験して居ない私がそこから逃げていてはいけ無い、と。(元学徒の女性から)館長を引き継ぐ話が出た時も、プレッシャーはありました。戦争体験の無い私に務まるのか、と。でも、職員皆が体験者の思いを確り受け継ごうとして要る。私も平和講話の講師として『伝える活動』に加わって居た事で、館長に為る覚悟が出来た。戦争体験者で無くても、遣れることを遣って行きます」

 残された時間は少なく

 後継者の育成は、原子爆弾を投下された広島市でも進んで居る。被爆者の体験をそのママ語る「伝承者」を育てる取り組みだ。
 応募者は被爆の実相や伝え方の技法を座学で学び、1人の被爆体験者にいわば弟子入りする。マンツーマンで被爆体験の伝授を受け、自身の講話の原稿を作成する。講話実習を積み重ね、体験者からゴーサインが出れば合格だ。その後は「伝承者」として登録され、広島平和記念資料館等で講話に立つ事が出来る。
 伝承者の多くは、原爆投下に至る迄の歴史や当時の日本国内の世相等もベースに講話に臨む。応募から「伝承者」に為るまでには3年もの研修を要すると云う。


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    広島平和記念資料館には「被爆体験の継承・伝承」のコーナーがある。奥には「被爆体験を受け継ぐ」の文字も見える


 この事業を担当する広島市平和推進課の被爆体験継承担当課長、中川治昭さんはこう話す。

 「1人の方の体験、記憶、考えを引き継ぐには、体験者本人と触れ合う時間が必要です。加えて、広島の被害がどんなものだったかを学ば無いと人前で被爆の実相を語る事に(伝承者として)堪えられませんから」

 事業は2012年度に始まり、これまでに20代を含む131人が「伝承者」に為った。2019年度には新たに61人の応募があったと云う。

 「被爆を体験された方がどの時期までに居なくなってしまうか。推計は難しいですが、『もう直ぐ居なく為ってしまう』と云う時期に継承しようとしても遅いんです。2012年度(と云う事業開始)はギリギリ間に合ったかな、と」

 体験者「若い人には伝える力がある」

 元ひめゆり学徒の仲里正子さん(92)は、今も時折、ひめゆり平和祈念資料館で自身や学友の体験を伝えている。過つての「戦争体験講話」と云う形では無く、短時間での語り。年齢と体力を考慮し、実施は月2回としている。
 仲里さんの体験も又壮絶だ。沖縄で組織的戦闘が終結した1945年6月23日以降も、戦闘終了を知らされず、沖縄本島南部を2カ月も彷徨った。配属されて居た手術室での出来事、負傷しながらの逃避行……。

 「逃げ回って居ただけじゃ無いかと云う思いもあって、ナカナカ(人前で話す事に)踏み出せ無い自分が異端ですけどね。(資料館の開館から約10年後に)講話を始めて、段々分かって来ました。何故(沖縄戦終結後も)8月まで逃げ回って居たか。
 『戦争に勝っている』『正義の戦争だ』と思って居たからなんですよ。その背景は教育なんですよね。本当に軍国少女だった。だから教育は大事なんです。そう云う自分の思いと、亡く為った人達の悔しい思いが繋がるんです。『本当は生きられたのに』と云う人達が亡く為って居ますからね」


 語り部に為る日、仲里さんは決まって手作りの食事を持ち込み、昼休みに職員と一緒に食べる。その席には戦後世代の「説明員」も居る。

 「(高齢なので)『何時まで出来るか分から無い』と云う話はして居ます。でも、若い人達が研修、研究して居ますから。私達は『自分の体験』が中心に為るけど、彼女達には『どう云う時代背景があって、戦後はこう云う風に為って』と云う、戦争を知ら無い今の人達に伝える力を持って居るから。彼女達は(私達の体験を)本当に皆知って居るんですよ。この20年余り、近くで質問して来たり、傍で聞いたりして居るから」

 説明員の尾鍋さんは、こう話した。

 「私の話には、体験者の様な重みは無いかも知れません。それでも『後輩を壕に置いて来た』と云う、余りに辛くて話せ無かった事を、私達は学徒隊の方々と接する中で聞いて居る。体験者が話せ無かった事を、当事者では無い私達だからこそ伝える事が出来ると思って居ます」

 1989年の開館当時、ひめゆり平和祈念資料館には、実体験を語る「証言員」が27人居た。それがこの7月には6人。沖縄本島を逃げ回って居た15〜19歳の少女達は今、90〜94歳に為る。


 当銘寿夫(とうめ・ひさお)記者。琉球新報記者を経て、2019年に独立。Frontline Press所属。

 *この記事へのご感想やご意見、または「Yahoo!ニュース 特集」で今後取り上げて欲しいテーマをお寄せ下さい。


 



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【書評】軍部と闘った悲劇の宰相 城山三郎著『落日燃ゆ』




 【書評】軍部と闘った悲劇の宰相  城山三郎著『落日燃ゆ』


            〜nippon.com 9/2(月) 15:15配信〜



9-2-14.jpg 城山三郎著『落日燃ゆ』


 〜戦争を知る世代の減少で戦争経験の風化が指摘されるが、その恐ろしさは文学作品には確りと記されて居る。その中から、死の一歩手前で終戦を迎えた作家が描いた「悲劇の宰相」の物語を紹介したい〜。


 




 ここ数年、言葉を失う様な若手政治家の浅薄な言動が目立つ。余りに軽く、戦争と云うものを知ら無さ過ぎるのでは無いか。勿論、評者自身も戦後生まれであり、戦争体験など有る訳では無い。それでも体験者からの伝承で想像は出来る。しかも戦争を生きた人々は言葉に重みがあり、骨太な生き様と相まって、信じる事が出来る。

 本作の著者である城山三郎は戦時中に海軍に入隊後、特攻隊に配属され訓練中に終戦を迎えた。経済小説家である城山は「男子の本懐」「指揮官たちの特攻」等重厚な戦時小説も著して居る。「落日燃ゆ」はその一つ。外交官出身で総理や外相を務め、身体を張って軍部と闘ったにも関わらず、極東国際軍事裁判(東京裁判)ではA級戦犯として死刑判決を受けた広田弘毅の物語である。
 歴史学者の間では、広田に対して厳しい評価もあるが、城山の目を通して見た広田は、外国との協調や融和を目指す「協和外交主義者」として再評価されて居る。

 忖度とは無縁

 この本を読み返してみて率直に驚いたのは、当時の幣原喜重郎外相や広田弘毅等を擁する外務省が融和的な外交政策を唱えて、満州で暴走する関東軍等軍部とは一線を画して居たとの記述だ。
 武力を持ち、尚且つ天皇の統帥権(軍隊を指揮監督する最高権限)と云う錦の御旗を利用し振り翳す軍部に対して、精一杯の抵抗を試みたのは「忖度」流行りの昨今の政治状況と比較しても目を見張るものがある。

 主人公の広田は名門の出では無く、出世にも華やかな社交にも興味が無く、日本の行く末だけを見詰め続けた。「戦争は外交の行き詰った果てに起こる」が持論。
 軍部の台頭に腰の引けた政府から「成り手不在」として何度も請われ、首相の他外相を二度務めた。犬養毅・浜口雄幸・高橋是清等多くの政府要人が凶弾に倒れ、広田自身も首相就任に際し「最後のご奉公と思って引き受けた」と死を覚悟した。

 中国大陸への勢力拡大を目論む軍部に対し、広田は第三国を介して和平工作に努めるも横ヤリを入れられて努力はご破算に為る。そうした事の繰り返しで戦線は拡大、軍部は南京大虐殺を引き起こし、日中戦争の泥沼に陥ったとある。広田の「敵」は他国では無く、専ら内なる軍部だったと云う事に為る。
 その軍部に勢いを与えたのは、明治憲法だったと城山は本作で度々指摘して居る。必ずしも天皇の真意に沿って居るかどうかに関わらず、統帥権を盾に軍部は外部からの意見に耳を貸そうとし無かった。


 




 「防げ無かった」責任

 本作のクライマックスは、東京裁判の場面だ。A級戦犯のリストの中に東条英機ら軍人に混ざって、広田の名前が載ったのである。
 検事団は「これだけの戦争を軍だけで遂行出来る筈が無い」として、軍と政府の共同謀議のシナリオを描き、辻褄合わせに文官をヤリ玉に挙げる必要が生じた。そして指導的立場にあった広田が選ばれてしまった。 広田は判決を静かに受け入れ、絞首台に消えて行った。
 しかし、その意味合いは軍人達とマルっ切り違う。「戦争を防げ無かった」責任を引き受けたのだ。広田の和平工作を妨害し、戦争に突き進んで行った軍人とは訳が違う。

 刑の執行日。戦犯の軍人達は夫々「万歳!」を三唱してから刑場に向かったとある。自分の番を待つ広田は、それを聞いて「今、マンザイ(漫才)を遣ってたんでしょう」と教誨師に尋ねたと云う。軍人達に向けられた痛烈な皮肉には、押し殺した様な怒りと軽蔑の念が込められ、彼等と共に死ぬと云う運命の巡り合わせを笑いたく為ったのかも知れ無い。

 歴史の中に埋もれ勝ちで、評価も必ずしも芳しく中った広田。城山がそこに新しい光を当てて、人物像を浮かび上がらせ様としたのは、A級戦犯の烙印(らくいん)を押された事の名誉回復と鎮魂、軍部への嫌悪感があったのではないか。

                  以上


 




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 【書評】軍部と闘った悲劇の宰相 城山三郎著『落日燃ゆ』


 暗黒時代 本作は、戦場での戦闘シーンや無差別爆撃など凄惨(せいさん)な殺りく場面が出て来る訳では無い。急速に力を増す軍部に対し、政府・議会が抗し切れず、戦時体制へ向かう様を描いて居る。
 恐慌で窮乏化した国民も「生命線」満州への侵略行為を何時しか受け入れ、一切の異論も許され無い暗黒時代に突入して行った。戦争は外に対する軍事行為に留まらず、内部から社会を侵食して行くのだ。 戦後は帝国陸・海軍とも解体。新憲法の下で「専守防衛」の自衛隊が発足し、更に文民統制(シビリアンコントロール)と云うタガも嵌められた。本作を読んで、その意味合いを噛み締めてみたい。

 (ニッポンドットコム編集部・持田譲二)


 



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