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2019年09月01日

米軍優先の度が過ぎる  不公平な日米安保





 米軍優先の度が過ぎる  不公平な日米安保


              〜毎日新聞 9/1(日) 10:00配信〜


 




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 海上自衛隊の護衛艦「かが」の格納庫で、海上自衛官と在日米軍人を前に訓示するトランプ米大統領。左はメラニア夫人、右は安倍晋三首相夫妻 神奈川県横須賀市の海上自衛隊横須賀基地で2019年5月28日


 トランプ米大統領の「日米安保条約は不公平」発言が話題だ。米国には日本が攻撃された時に日本を防衛する義務があるが、米国が攻撃された時に日本が米国を防衛する義務は無いからだと云う。日本政府は米軍基地を提供する義務があるのでバランスは取れて居ると反論する。【上野央絵】

 私は不公平だと考える。片務的だからでは無い。日米防衛協力が米国から長年期待されて来た集団的自衛権を行使出来る迄に進んで居る一方で、60年以上も前の朝鮮戦争を背景とする「戦力放棄の憲法・米国依存の安保・基地集中の沖縄」の枠組みは手着かずのママだからだ。在日米軍基地の現状は米軍優先の度が過ぎるし、数が多過ぎる。


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              伊勢崎賢治・東京外語大教授


 朝鮮戦争以来の冷戦の遺物

 「朝鮮国連軍と云う冷戦の遺物と日本は地位協定を結んで居る。これが問題の根本なんです」

 と話すのは、米軍基地に関するルールを定めた日米地位協定を国際比較研究して居る伊勢崎賢治・東京外語大教授だ。
 朝鮮国連軍とは朝鮮戦争(1950〜53年)勃発時に結成された多国籍軍だ。朝鮮戦争は休戦状態なので今でも残って居り、在韓米軍が実質的な中心だ。日本は朝鮮国連軍地位協定を米韓仏等11カ国と結んで居て、在日米軍基地は、米国と北朝鮮が開戦すれば「後方支援基地」に為る。
 東京都の米軍横田基地には朝鮮国連軍後方司令部が置かれ、国連旗が掲げられて居る。自衛隊が何もし無くても開戦と同時に日本は「交戦国」と見做され、合法的な攻撃目標に為ると云う事だ。

 伊勢崎氏は、トランプ米政権がその「冷戦の遺物」を「崩そうとして居る」と観る。米軍に招かれて講演者として参加した2017年9月の太平洋地域陸軍参謀総長等会議で、北朝鮮を占領統治出来るかどうかに付いてシミュレーションした結論は「リスクが大き過ぎて出来無い」
 伊勢崎氏は、米占領統治下のアフガニスタンで武装解除を担当した。米国はアフガニスタン・イラクで占領統治に失敗して居り、最早占領政策には関心が無いのだと実感したと云う。

 「トランプ政権は朝鮮半島から曳(ひ)こうとして居る。平和主義者だからでは無く、戦争から儲けると云う発想ですよ。危ない前線は現地の友軍に任せて、米軍は曳く。リスクは取ら無い武器は売ると云う事です」


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                  米軍嘉手納基地


 在韓米軍が曳けば、在日米軍基地の後方支援基地としてのプレゼンスは相対的に高まる。

 「今の日本は、米軍基地からの自由出撃を許して居る唯一の同盟国。主体的にノーと言える地位がイヨイヨ必要に為る」


 



 数、面積、資産価値共に世界トップクラス

 米国が世界各国に持つ米軍基地の中で、在日米軍基地は数、面積、資産価値共にトップクラスだ。米国防総省が毎年公表して居る国内外の米軍基地のデータを収めた「基地構造報告書(Base Structure Report)2018会計年度版」に依ると、海外45カ国に在る514カ所の米軍基地の内、ドイツが194カ所と最多で、日本121カ所、韓国83カ所と続く。
 面積では、日本が全体の23.9%に当たる約11万5000エーカー(約465平方キロメートル)で、グリーンランドに次いで2番目。現在の市場価格で建設し直した場合の金額を示す代替資産価値(Plant Replacement Value)は日本が計981億ドルと最も高額で全体の45.5%を占め、次ぐドイツの448億ドル(20.8%)を大きく引き離す。

 基地毎に見ると、嘉手納(沖縄県)を筆頭に▽横須賀(神奈川県)▽三沢(青森県)▽岩国(山口県)▽横田・・・が世界ランキング2〜6位を占める。これ等の共通点は、1945年の敗戦で米軍に占領されたのが切っ掛けで基地としての整備が始まり、朝鮮戦争で朝鮮国連軍の出撃や後方支援の主要な拠点と為った事だ。
 憲法9条で戦力を放棄した日本に再軍備させようと、連合国軍最高司令部(GHQ)のマッカーサー司令官が自衛隊の前身と為る「警察予備隊」創設を指示したのが朝鮮戦争勃発直後の50年7月。1952年4月に日米安保条約と同時に発効した対日講和条約で、日本が独立を果たす一方、沖縄は米国が統治するとされた。

 現在「沖縄県には米軍専用施設の7割が集中して居る」と好く指摘されるが、米軍専用施設には、米軍が管理するものと米軍が管理し自衛隊も使用するものがある。
 防衛省ホームページに掲載されて居る「在日米軍施設・区域の状況」に依ると、米軍専用施設は13都道府県に計78カ所に在り、全体面積に占める割合は@沖縄70.27%A青森9.02%B神奈川5.6%C東京5.01%D山口3.3%・・・等。
 東京都内にはトランプ大統領が来日時に米軍ヘリでの移動拠点として使った六本木のヘリポート等計7カ所在る。これ以外にも自衛隊が管理し、米軍も使用するものがあり、併せると30都道府県に計131カ所に増える。







 「日米安保は対等にすべきだ」

 トランプ大統領の「日米安保条約は不公平」発言の3日後、東京都内の大学で在日米軍基地に付いて講義する機会があった。トランプ発言に対する安倍晋三首相の「日米同盟は極めて強い」との発言を紹介し、在日米軍基地の歴史と国際比較、在日米軍の活動の現状を説明した。沖縄からの「不公平だ」との異議申し立てとして辺野古埋め立ての賛否を問うた県民投票にも触れた。


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                 米軍の災害援助


 約40人の感想文を読むと、
 「日本に米軍基地が集中して居るのは可笑しい」
 「狭い島国でこれだけ多くの米軍基地が要るのか」
 
 等、基地の数の多さ自体に驚いた人が最も多く半数を超えた。
 「沖縄ばかりにせずもっと全国各地に分散されるべきだ」 
 等沖縄への集中を疑問視する意見の一方、
 「基地は沖縄だけと思って居たが、意外に全国各地に在ると分かった」
 と云う人も少なからず居た。

 『辺野古』県民投票の会代表の元山仁士郎さん(27)が、自らの住む東京都国立市議会に県民投票結果を尊重する様陳情し、同市議会が意見書を採択した事に付いては「国民が自ら働き掛ける事も大切なのだと分かった」との感想があった。
 興味深かったのは「戦力放棄」の憲法の下で米軍との実質的な協力関係を強めて居る自衛隊に付いての受け止めだ。
 「戦争をし無いと云う日本でも自衛や災害救助等様々な場面で米軍や自衛隊が必要。でも米軍基地にはメリットもデメリットもある」
 「日本は米国に大きく依存した安全保障政策を行って居る為、米国の意向に逆らう事が出来無い。米国に基地を使わせて置いて私達の手は汚れて居ないとは言え無いので、日米安保体制が対等に為る様努めるべきだ」
と言った声が在った。

 講義のタイトルは「在日米軍基地は何の為に在るのか」貴方はどう考えますか?


                 以上


 



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生きて居るのに靖国に祀られ 捕虜と為った凄腕零戦パイロットの葛藤





 生きて居るのに靖国に祀られ 捕虜と為った凄腕零戦パイロットの葛藤


 




            〜現代ビジネス 8/31(土) 13:01配信 〜


 〜大日本帝国の軍人(民間人も)は、捕虜と為る事を「恥」とする感情があった。それは、最前線で戦って捕虜と為った者は英雄だと考える欧米の軍人とは正反対の価値観であり、その為に、失われ無くても好い筈の多くの命が戦場に散って行った事は否め無い〜



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            捕虜と為った凄腕パイロットのアルバム


 今から76年前、南太平洋の最前線で戦って居た海軍でも有数の凄腕パイロットが、武運つた無く捕虜と為った。戦時中、彼は戦死したと認定され、靖国神社に英霊として祀られる事と為った。だが、その英霊は、捕虜と為った後、太平洋の島々、そして米国本土の捕虜収容所を転々とさせられて居た。「捕虜に為る位なら死を選べ」と教育されて居た男は、その間、何を見て何を考えて居たのでだろうか。

 最前線では捕虜に為るかどうかは紙一重


 




 「私の同年兵(同じ年度に海軍に入った兵)の戦闘機乗りに、中島三教(なかしま・みつのり)と云う大の仲良しが居ました。音に聞こえた名パイロットで、日本舞踊の名手でもありました。ソロモンで不時着して、現地人に騙されて捕虜に為った男です。
 本人は、捕虜に為った事を恥じて、長い間戦友会にも出て来なかったけど、そんなの気にする事無いからと一生懸命誘って、最近ヤット出て来て呉れる様に為ったんです」


 と、元零戦搭乗員・原田要さんは言った。私が生き残り搭乗員の取材を始めたばかりの平成7(1995)年の事である。当時、長野県で幼稚園を経営して居た原田さんは、私が最初に出会ったゼロファイターだった。原田さんも、ガダルカナル島上空の空戦で負傷、不時着し、それが偶々味方陣地の近くだった為、救出されたと云う経験を持つ。

 「敵味方が混在する最前線で、味方に助けられるか敵軍の捕虜に為るかはまさに紙一重です。自分の経験からも他人事とは思え無くて・・・気の好い男でね、真正直に生きて来た。紹介するから、中島さんの話も是非聞いてみて下さいよ」

 「生きて虜囚(りょしゅう)の辱を受けず」と云う言葉は、近代日本の軍隊の道徳律を表すものとして今や広く知られて居る。この文言自体は、昭和16(1941)年1月、東条英機陸軍大臣の名で陸軍内部に示達された「戦陣訓」の一節に過ぎず、海軍はこれには縛られ無い。
 ソモソモ陸海軍には「俘虜査問会規定」と云う規則があって、軍人が戦闘で捕虜に為り得る事は想定されて居たから、示達に過ぎ無い「戦陣訓」の教えは絶対的な拘束力を持つ程のものでは無い。海軍に籍を置いた人の中には、陸軍にこの様な示達や文言があった事自体知ら無かったと云う人も多い。

 ・・・だが、当時の一般的な日本人の通念とすれば、矢張り捕虜に為る事は「恥」であった。「戦陣訓」の無かった海軍でも、将兵に対し、捕虜に為った時の心構え等を教える事は無かったし、捕虜に為るなら潔く死を選べと教え込んで居た。
 捕虜を、最前線で義務を果たした戦士として、寧ろ英雄的に扱う西洋的価値観とは正反対の世間の「空気」が、軍民問わず理屈抜きに醸成されて居たと言える。その為、可惜(あたら)助かるべき命が数多く失われ、残された家族を悲嘆の淵に追いヤッタのだ。
 それでも、支那事変から太平洋戦争に掛けて、敵軍の捕虜に為った日本軍将兵は意外に多い。殆どが不可抗力によるものだが、そんな戦中の日本的な「空気」は、戦後も長い間彼等を苦しめた。

 金鵄勲章(きかしくんしょう)を授与される程活躍したパイロット

 原田さんの紹介を得て、大分県別府市に暮らす中島さんを初めて訪ねたのは、平成8(1996)年春の事だった。取材依頼の手紙を書き、電話をした時、中島さんは、

 「捕虜に為った私に、人様に語る様な資格は無いですがな……」


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 と、初めは困惑した様子だったが、他ならぬ原田さんの紹介ならと、快くインタビューを承諾して呉れた。以後、私は何度か別府を訪ね、平成19(2007)年、中島さんが93歳で亡く為るまで交流が続いた。

 「私は、アメリカに捕まってから頭が可笑(おか)しゅう為って。何もかも忘れてしまったんです。戦争が終わる迄は戦死の扱いで靖国神社にも祀られとった。戦死認定後、家族に合祀の通知があったらしいです。戦後、靖国神社に生きて帰った事を申し出ましたが、一度合祀したものは取り消しは出来ん、と云う事で、今も『中島三教命』は祀られたママなんです。
 東京に行った時『遺族でも戦友でも無く、祀られてる本人じゃ』と言うて、お参りさせて貰った事もありました」

 
 中島さんは大正3(1914)年4月1日、大分県宇佐郡に7人兄妹の三男として生まれた。大分県立中津中学校(現・県立中津南高等学校)を経て、一般志願兵として海軍を志願、昭和8(1933)年5月1日、海軍四等水兵として佐世保海兵団に入団した。
 基礎教育を終えて空母「加賀」乗組を命ぜられ、砲術科に配属された中島さんは、そこで見た飛行機の姿に心奪われ、搭乗員を目指して操縦練習生を受験。数十倍の難関を突破し、昭和10(1935)年5月、第二十九期操縦練習生と為る。練習機での操縦訓練を経て、選ばれて戦闘機専修と決まり、同期生13名と共に大村海軍航空隊に入隊した。

 「大村空の頃、休日に為ると日本舞踊を習いに行ってました。その他にも色々な出来事があった筈なんですが、この頃の事はもう殆ど覚えとらんのですよ」

 昭和12(1937)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突した「盧溝橋事件」を皮切りに「北支事変」が勃発すると、海軍は直ちに航空兵力を大陸に派遣する事を決定、第十二航空隊を大分県佐伯基地で、第十三航空隊を長崎県大村基地で編成した。

 8月9日、上海で大山勇夫海軍中尉・斎藤與蔵一等水兵が中国兵に射殺された事を切っ掛けに「第二次上海事変」が勃発、海軍は空母「加賀」「龍驤」「鳳翔」を上海沖に派遣、艦上機を以て南京、広徳、蘇州の中国(中華民国)軍飛行場攻撃を開始、早くも烈しい航空戦が展開された。戦火は拡大の一途を辿り、9月2日、これ等両事変を総称して「支那事変」と呼称する事が閣議決定されて居る。

 中島さんは第十三航空隊に配属され、9月9日、未だ砲声の鳴り止ま無い上海・公大飛行場に進出した。乗機は当時の最新鋭機・九六式艦上戦闘機(九六戦)だった。
 そして9月19日、山下七郎大尉以下、九六戦12機が艦上爆撃機を護衛して出撃した第一次南京空襲に参加、中島さんは。以後連日の様に続いた戦闘で、中国空軍のソ連製戦闘機ポリカルポフE15、E16(И-15、И-16を、日本海軍、中華民国空軍共にそう呼んだ)やアメリカ製戦闘機カーチス・ホーク等を相手に撃墜を重ねた。
 その活躍は目覚ましく、後に「勲功抜群」の証(あかし)である功六級金鵄勲章を授与されて居る。処が、イザ話題が戦闘に及ぶと中島さんの口は途端に重く為った。

 「空戦の話は余りしたく無い。人を殺した訳ですからね。誰に聞かれてもした事はありません。戦争はもう嫌です。戦争なんか無い方が好い・・・」  

 9月26日の南京空襲では、指揮官として出撃した山下七郎大尉が敵地に不時着、重傷を負って中国軍の捕虜に為り、中島さんは衝撃を受けたと云う。

 「山下大尉は、ソリャあもう大和魂(やまとだましい)の権化の様な人で、非常に気性の激しい人じゃった。それが捕虜に為って、こりゃ全然判らんもんだワイと思ってビックリしました。後に為って、本人が上半身裸で体操をする写真が送られて来たりもしました。奥さんは福岡の自宅の廻りに竹囲い(蟄居謹慎を表す)をして、気の毒な生活をして居られたそうです」

 山下大尉は成都監獄で終戦を迎え、終戦後の昭和21(1946)年2月7日、中国軍に依って処刑された。空戦の話をしたがら無い中島さんだったが、それでも特に印象的な出来事はあったらしく、心を開くに従い、ポツリ、ポツリと戦闘の話も出て来る様に為った。
 九六戦は最初の頃故障が多く、敵地上空でエンジンが止まり死を決意した事。味方の軍艦から敵機と誤認され、対空砲火で撃墜され負傷した経験・・・

 妻と生後半年の長男を残して最前線の基地へ


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   昭和13年十二空時代 左から2人めより中島さん、相良六男二空曹、樫村寛一三空曹


 




 中島さんは、翌昭和13(1938)年3月には第十二航空隊に転じ、更に空母「赤城」に乗り組む等、最前線での勤務は3年近くに渉って続いた。大分海軍航空隊の教員として、要約内地部隊への転勤が命じられたのは昭和15(1940)年10月の事である。
 昭和16(1941)年12月8日、日本は米英を初めとする連合国との戦争に突入。中島さんは、大分空でその二ュースを聞いた。

 「それ迄も戦争一色だったから、又始まった位で感情ナンかありゃせんですよ。しかし、真珠湾を空襲しただのフィリピンで米軍を圧倒した等と聞くと、ヤッパリ、何でわしこんな時に内地で教員ナンか遣ってるんだろう、あのママ『赤城』に乗って行きたかったなと悔しかったです」

 昭和17(1942)年11月、准士官の飛行兵曹長に進級した中島さんは、12月、イヨイヨ第一線部隊である第二五三海軍航空隊に転勤を命ぜられ、妻と生後半年の長男を大分に残して、昭和18(1943)年1月5日、ラバウルの北、ニューアイルランド島カビエン基地に進出して居た二五三空に着任した。

 昭和17年8月7日、米軍のツラギ島、ガダルカナル島上陸に始まったソロモン諸島の戦いは、既に泥沼化の様相を呈して居た。米軍に占領されたガダルカナル島飛行場の奪還作戦も悉く失敗に終わり、島に上陸した陸軍部隊への補給もママ為ら無い。
 海軍は、ガダルカナルに程近いニュージョージア島ムンダに前進基地を設け、零戦隊を進出させるが、間断の無い敵機の空襲を受けアッと云う間に壊滅、日本側は折角作ったムンダ基地を常駐基地として使用する事を諦めざるを得無く為った。
 12月31日の御前会議でガダルカナル島撤退の方針が決定され、1月4日、遂に大命が下る。中島さんが二五三空に着任したのはそんな時期だった。


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           ラバウル東飛行場に集結、発進する零戦隊


 「着任して暫くは、訓練やら当直やら基地の上空哨戒やらをして居ました。私はそれ迄ズッと九六戦で、零戦は慣熟飛行しかした事が無く20ミリ機銃も撃った事が無かった。だから20ミリを海に向かって撃ってみたり・・・初めて20ミリを撃った時は驚いたですな。ドッドッドッと主翼に振動が伝わって、一瞬、飛行機が後ずさりするんじゃ無かろうか、翼が取れるんじゃ無かろうかと心配に成程でした。そして1月24日、不時着機を捜索する飛行艇を護衛して、私が指揮官で6機を率いて飛んだんです」

 防衛省に残る「二五三空戦闘行動調書」に依ると、中島飛曹長が率いる6機は、午前4時45分、カビエン基地を発進、飛行艇と合流した。

 「敵地近くで、飛行艇だけでは危ないからと護衛に着いたんですが、探しても探しても判らんのですよ。それで、航続力の関係でソロソロ引き揚げ無いといかんと云う時に、飛行艇が不時着機を見付けた。飛行艇が高度を下げて行くのを6機で旋回しながら上空で見てたら、下で搭乗員らしきのがオーイと手を振っとる。
 島に上陸して助かって居たんです。それで食糧等を投下して引き返しました。途中、ブーゲンビル島のブイン基地で燃料補給してラバウルに立ち寄って、薄暮ギリギリの時間にカビエンに帰りました。朝、離陸してから15時間。もうクタクタですな。ラバウルで『中島さん有難う御座いました』と、ビールを1ケースお土産に貰ったのを憶えて居ます」


 ガダルカナル島からの撤退を成功させる為の航空作戦が始まろうとして居た。翌1月25日には、戦闘機、爆撃機協同による大規模な作戦が行われる事に為る。15時間に及ぶ飛行から帰ったばかりの中島さんも出撃を命ぜられ、早朝ラバウルに進出した。


 




 不時着後、現地人に騙されて捕虜に

 1月25日朝、陽動隊の一式陸上攻撃機18機の誘導の下、ラバウルのブイン両基地より58機の零戦隊が発進。陸攻隊の爆撃と見せ掛けてガダルカナル島基地の敵戦闘機を誘い出し、戦闘機同士の空戦でこれを撃滅しようと云う作戦である。
 中島さんは、二五三空第二中隊第三小隊長として、二番機・前田勝俊一飛曹、三番機・入木畩次二飛曹を従えて居た。

 「いよいよガダルカナル島が見えて来て、高度を上げ始めました。処が、6000メートルより上がろうと思ったらエンジンの調子が突然悪く為って、ブスブスと息を着き始めました。これはイカンと思って列機に先に行けと合図するんだけども、どうしても離れ無い。そこで2機を連れたママ元来た道を引き返しました。
 フト攻撃隊の行った先を見ると、空戦して居るのが見えました。それを見て、追う、ヤットルヤットルと。しかし、私の飛行機はエンジンに力が無く為って、段々高度が下がって来る。そして、間も無くムンダの飛行場が見えると云うところで、とうとうプスッと止まってしまった。これはモウ不時着するしか無い。
 そこで、島の海岸近くの海に降りたんです。そしてバンドを外して翼の上に出て、海に飛び込んで約300メートル泳いで岸に辿り着きました。列機は上空を暫く旋回して居ましたが、ヤガテ帰って行きました。私の零戦は、海が浅いから全部は沈まず、尾翼の一部が海面から出て居るのが見えました」


 不時着水して岸に泳ぎ着いた中島さんが、サテどうしたものかと海を見ると、岩の間をウツボが沢山泳いで居るのが見える。試しに木の棒で突いてみるとガブッと噛み着いて来た。イザと為ればこれを捕って食べられ無い事も無い。椰子の実もある。
 少し安心した気持ちで服を脱ぎ、乾かして居た中島さんの耳に、ジャングルの奥から「ニッポンバンザイ、ニッポンバンザイ」と云う声が聞こえて来た。

 「2・3人の現地人が・・・エエ、肌の色は真っ黒で、腰蓑を着けて居りました・・・『ニッポンバンザイ』と言いながら近づいて来ました。急いで服の所に戻って拳銃を抜いて構えたら、彼等は持って居た蕃刀を地面に捨てて『ニッポンバンザイ、ムンダ行こ行こ』と日本語で言う。ラバウルやカビエンでも現地人が日本軍に友好的で、不時着機を担いで来たりと協力的だったのを思い出して、これは味方だ、助かったわいと思いました。
 不時着する処は部下が見て居るから、その内味方の飛行艇が助けに来て呉れるだろうと思ったんですが、現地人の奴等がムンダ行こ行こ、言うて効か無いんですよ。それでマア、どうにか為るわいと思って着いて行った訳です」


 中島さんが不時着水したのは、ニュージョージア島の南東、ガダルカナル島寄りに位置するウィックハム島だった。列機の報告を下に、1月26日、27日と2日連続で零戦12機が飛行艇と共に捜索に発進、不時着した中島機を発見して居る。

 「不時着から一夜明けて次の日でしたが、上空を盛んに飛行機が飛んで居ました。それで、探しに来て呉れたと思って出様としたら、現地人が、出ちゃイカン、撃たれると言って怖がるんですよ。コッチは拳銃を持ってるんだし、無理にでも出れば好かったんだけど、マア、ムンダ迄案内すると言うんだし、と、私の方が折れてしまいました」

 そうして、ムンダももう直ぐと云う2日めの晩・・・

 「その晩は、現地人の集落で偉く歓待されて、酋長の様な偉いのが出て来たり、鶏の丸焼きを食べさせて貰ったり、スッカリええ気分に為ってしまいました。
 そしたら行き成り、現地人に後ろ手に押さえ着けられて拳銃を盗られて。すると奥からイギリス軍の大尉が出て来て、現地人の奴はソイツに私の拳銃を手渡しました。今まで仲良くして居た連中も私に銃を突き着けて、コッチは丸腰でどうにも為らん。隙を見て拳銃を取り返そうとしたけどダメでした。それで、これもわしの運命だと諦めて捕まったんです。それ迄は、もう直ぐムンダの友軍基地に着くと信じてたんですが」


 中島さんは、現地人に売られた訳である。

 「その島にイギリス軍の見張所があるなんて事は、日本軍は知らん訳ですよ。現地人はドチラにも好い顔をして、或る人は日本軍に連れて行き、或る人は敵に売る。諦めて捕まったけども、これは何としてもムンダに帰って報告しないとイカン。ムンダの近くにこう云うのがある、攻撃せねばと逃げようとしましたが、今度はジャングルの端の、ワニを入れる様な檻に閉じ込められた。
 それで、これはイヨイヨダメだから死ななきゃいかん、そう思ってベルトを外して首を吊った訳ですよ。とうとう捕虜に為ってしまった。捕虜にだけは為るなと教育されて来たのに。処が、首を吊って自分では死んだと思ったんですが、死に切れずに地面に落ちてしまいました。

 そして今度コソ、と思ってフト柱に目をやると、薄暗いランプの灯りに照らされて〈星野中尉以下十三名〉と書いてあるのがハッキリと読み取れたんです。それを見て、これは、此処に確かに日本人が何かの理由で居たのに違い無い、もしかしたら私の様に捕えられたのかも知れ無いと思い、矢張り何としても帰って報告せねばと思いました。
 味方の飛行機が上空を飛ぶ時には、奴等ジャングルに逃げるから、その隙に何とか脱出を試みて、一度は檻から出て海に飛び込んだりもしましたが、又捕まってしまいました。これはもう逃げられん。その内飛行機か何かで迎えに来るだろう、その時、高い所から飛び降りれば死ねるだろうと考えて居ましたが、或る日、又4、5人の現地人に押さえ着けられてロープで縛り挙げられ、それから迎えの飛行艇が来たんです。
 日本軍に見付かるのを恐れて、遠くから水上滑走で海岸近く迄来ました。そして私を担ぎ上げて乗せると、ガダルカナル島の収容所に連れて行った訳です」


 日本側では中島さんは「行方不明」として扱われたが、後に戦死が認定され、海軍少尉に進級、正八位勲六等功五級に叙せられた。そして、靖国神社に合祀する旨の通達が、家族の元に届いた。生きながらにして「英霊」に為ったのだ。


 




 収容所に入って、精神に異常を来す

 ガダルカナル島の収容所に送られた中島さんが見たのは、栄養失調で幽鬼の様に痩せ衰えた陸軍将兵の姿だった。

 「骨と皮ばかりにガリガリに痩せた人間が50〜60人。日本兵の捕虜がアンナに居るとは思わんですから、最初は、此奴ら何だろうと不思議に思いました。私は航空隊で、食うものはチャンと食ってて、身体は確りして居ましたから。ガダルカナルでは陸軍さんは食糧が無くて、ソリャア大変だったらしいですな。
 陸軍の兵隊は海軍の事を知らず、一人の上等兵がキサマ階級はナンじゃと言うから、海軍の兵曹長じゃと答えたら、兵曹長ちゅうのは上等兵の上かな下かなと。そしたら或る人が、兵曹長は陸軍で言うたら准尉じゃと教えて呉れて。上等兵の奴がビックリして『失礼しました』と、そんな一幕もありました」


 捕虜に為った現実が日に日に実感出来る様に為ると、もう二度と日本には帰れ無いとの思いが胸に重く圧し掛かって来る。中島さんは、何もかもを忘れようと努力する内、本当に精神に異常を来したと云う。

 「ガダルカナルに送られて暫くして訊問を受けました。中佐か大佐の前に出されて、通訳が名前を書きなさいと言うんだけど書け無かった。中だけ書いて、島と云う字がどうしても思い出せ無い。忘れてしまったんです。どうして名前を書かんのか、と言われて、嫌島の字が判りませんがと言うと『バカヤロー! 』と偉く怒られた。なんぼ怒られても判らんものは判らんのだから。結局、ガダルカナルに居る間、自分の名前が書け無いママでした。
 又或る時、突然、何もかもが判ら無く為って。食事を持って来てもそれを食べて好いのかどうか、声を掛けられても返事をして好いのか、どう言えば好いのかも判ら無い。今返事をしたら皆に笑われるんじゃ無かろうか、アメリカの兵隊に馬鹿にされるんじゃ無かろうか、変な強迫観念に囚われて何も判断出来無いんです。

 食事も出来ず水も飲まず、只ベッドに寝たり起きたりを数百回繰り返して居たそうです。その内奈落の底に沈んで行く様な感覚があって、周囲の連中も、等々中島さん狂ったかと言い合ってたらしい。で、そのママ眠ってしまい、翌朝ヒョコット目が覚めたら正気に戻ってた。
 アレ、わしどうしたんかいなと。お茶を一口飲んで、そしたら皆が、オイ中島さん大丈夫かい、と声を掛けて呉れました。足った一日でしたが、本当に狂ったかと思いましたな。他にも、アメリカと戦争をして居る事も判ら無く為ってる陸軍少尉が居ましたが、彼は、戦争が終わる頃には真面に為ってました」

 中島さんは、昭和18(1943)年4月頃、他の数名の捕虜と一緒にニューカレドニア・ヌメアの捕虜収容所に送られた。


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 「ニューカレドニアでは、例の、柱に名前を書いた星野中尉に会いました。彼の話では、ツラギの飛行艇基地から全滅寸前に50数名で脱出、島伝いに航行して居るうちに毎晩の様に襲撃を受け、遂に13名に為ってしまった。そして私と同じ様に、現地人に騙されて捕虜に為ったと云う事でした」

 ヌメアの収容所には、ガダルカナル島沖で撃沈された駆逐艦に乗組んで居た古参の下士官が居て「好くお出で為さいました」と言って中島さんを迎えた。

 「彼が言うには、ワシ等脱走しようと思うんじゃが、中島さん指揮を執って呉れんですかと。好し遣ろうと為った訳です。アンナ島で収容所から逃げても、太平洋を泳いで渡る訳にもいかんけど、敵兵を何人か殴り殺して道連れにすれば全くの無駄死にには為るまいと。マア破れかぶれですな。
 それで脱走を計画して居たんですが、その頃、海兵六十八期出身の艦上爆撃機搭乗員で、後に直木賞作家に為った豊田穣中尉が来た。ガダルカナル空襲に参加して撃墜されたそうです。最も彼は、終戦迄大谷少尉と云う偽名で通して居ましたが・・・私はライフジャケットに名前を書いたママ捕まったから、偽名も何も無かったが、偽名の人も多かったんです。
 兎に角自分より上官の豊田さんが来て、私が、脱走を企てとるからアンタが指揮をして下さい、と言ったら、豊田さんはジッと考え込んでました。脱走しても、その後どうするんじゃ、好く考えて行動しようと」


 豊田氏の直木賞受賞作『長良川』には、中島さんが「海軍の兵曹長」として登場する。『長良川』に依ると、ヌメア港を見下ろす郊外の丘の斜面にある収容所で、駆逐艦の先任下士官であった「勝野兵曹」以下20名が、豊田中尉や中島飛曹長の自重論を他所に決起、暴動を起こしその大部分が自決したとある。

 「日本に帰ったら、死刑に為るかも知れん」

 その後、中島さん等は船でハワイの捕虜収容所に送られ、そこで約半年を過ごした。更にアメリカ本土のサンフランシスコに送られ、カリフォルニア州サクラメントの収容所で約2ヵ月。ハワイ迄は捕虜に為った時の服装のママだったが、ここで初めてデニム地に白いペンキでPW(Prisoner of Warの略)と大きく書かれた服を支給された。

 「サンフランシスコに着いた時、もう逃げ様が無い、運命のママに生きて行こうと諦めました。それから今度は、ウィスコンシン州のマッコイキャンプに連れて行かれました。汽車に乗せられて、大分時間が掛かったですよ。


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 マッコイでは、真珠湾攻撃の特殊潜航艇で捕虜第一号に為った酒巻和男少尉と会いました。酒巻さんは豊田さんと海兵の同期生です。確りした人でマッコイキャンプのリーダーでした。英語も堪能でしたし、アメリカ側からも信任されて、彼だけは自由に町に出たりして居ました。酒巻さんが押さえてたから、マッコイでは捕虜達の統制が保たれて、オーストラリアのカウラ収容所の様な暴発は起き無かったんだと思います。

 それから、ミッドウェー海戦で空母『飛龍』から脱出した機関科の人達。『飛龍』は、機関室に生存者を残したママ味方の魚雷で処分され、辛うじて脱出した人達が15日間の漂流の末に米軍に救助されたそうです。機関長の中佐が居ましたが、彼は少々精神に異常を来して居て、萬代久男機関少尉が『飛龍』生存者のリーダー格でした。後は、昭和17(1942)年4月18日の日本本土初空襲の時、敵機動部隊を発見して撃沈された徴用漁船の人達等、色々な人が居りました」


 捕虜に対する米軍の扱いは、極めて人道的且つ丁重なものだったと云う。

 「人に依っては酷い拷問を受けたみたいですが・・・捕虜取扱いに関する国際条約で、食事も給料もアメリカ兵の最低以下にしては為らん、と為って居たらしいです。給料は現金では無くクーポンで支給され、月に何度かはビールの券迄出る。豊田さんや酒巻さんが中心に為って皆の券を集めて置いて、何かの記念日には宴会を遣ろうと。正月や四大節(四方拝・紀元節・天長節・明治節)等、ナカナカ派手にヤッテたですよ」

 捕虜には労働が課せられるが、マッコイキャンプでは、日本軍の風船爆弾への対策として、防火施設の為の道路を作る作業に駆り出されたと云う。

 「風船爆弾は上手い事考えたもんですな。日本から風に乗って飛んで来て山火事を起こしたり、何処に落ちるか判らんから、米軍も大分気味悪がってるみたいでした。道路作業をしながら、もっと焼いてヤレ、と思ったりして。准士官以上は現場監督ですから、肉体労働には為りませんが」
 
 捕虜には様々な前職の者が居て、大抵のものは自分達で作る。それでも足り無いものは、労働で得た給与で買う事も出来た。

 「冬は寒い所ですから、運動場に囲いをして風呂の湯をジャーッと一杯容れて、すると直ぐに凍ってスケートリンクに為るんです。スケート靴は、靴職人だった兵隊が拵えたのを履いたり、酒巻さんが町に出て買って来たりして。お蔭でスケートは大分上手に為ったです。何しろ広い所で、運動は何でも出来ましたよ」
 「或る時、私は好く事情を知ら無いですが、捕虜と米兵の間で何か衝突が起きたらしく、士官と下士官兵が分離されました。我々はウィスコンシンの大きな病院の一室に、准士官以上の20〜30名で入れられて。でも、そこに入ってからは仕事も無く待遇は好かった。
 石炭が豊富で暖房は利くし風呂には自由に入れるし。どうせならアメリカの物資を為るべく多く使って遣ろうと、石炭も水も食糧も可なり贅沢に使って居ました。コーヒーを飲むのに砂糖を使った振りしてドンドン捨てたり……」


 監視着きではあったが、外出を許される事もあったと云う。

 「時々、トラックの荷台に乗って大勢で町に出たりもするんですが、町の人達はとても好意的でした。年寄りは無言で通り過ぎるけど、手を振って呉れる人も多かった。市民が態々(わざわざ)キャンプに来て、ハンカチ出してそこへサインを求められる事もありました」

 囚われの身ながら、何不自由の無い暮らしが続いた。只、捕虜に為った現実は誰の心の中にも澱の様に溜まって居て、先行きの事を少しでも考えれば、胸が締め着けられる様な気持ちに為るのであった。

 「それから最後に、テキサス州の砂漠の端にあるケネディキャンプに移されました。そこでは、サイパンやらアチコチで玉砕した陸軍の兵隊が随分増えました。皆痩せ衰えた姿で、陸軍さんは大変じゃなと思ったですよ。テキサスでは、今まで扱いを好くし過ぎたと、煙草を止められたり食事が悪く為ったり、一寸虐められました。
 戦況は、現地の新聞で読む事が出来るし、容易為らざる事態である事は、新たに送られて来た捕虜の話を聞いても想像が着きます。私は、今は負けて居ても最後には必ず日本が勝つと信じて居ましたが、豊田さんは確りしてましたな。もう長くは続かん日本は負けると。特攻隊で、撃墜されて海に放り出されて捕まった搭乗員も居て、負けた、どうしても勝てんと言ってました」


 そして終戦。

 「その頃の我々の長は、海軍の中村中佐と云う人でした。或る日、重大発表があると集められ、そこで日本が降伏した事を知らされました。泣く人も騒ぐ人も無く、皆静かに聞いて居ました。日本に帰ったら、軍法会議に廻されて死刑に為るかも知れんが、ジタバタしても始まらん。兎に角日本政府の命令を待つしか無いと、船に乗せられて帰国の途に着いたんです。
 しかし、日本に帰れる事が嬉しいとは思わ無かったですな。私等は捕虜に為ったんじゃから。何時までも気持ちは落ち着きませんでした」



 



 
 日本の軍隊が無く為ったから帰って来られた

 昭和21(1946)年1月4日、中島さん等、アメリカ本土より送還された捕虜達は、三浦半島の浦賀に上陸した。この時、浦賀上陸場で指揮官を務めて居た武田光雄大尉は、私のインタビューに対し、捕虜達の規律正しい態度が印象的だったと回想して居る。

 「戦場では何時でも死ぬ覚悟が出来て居ると思って居たのに、命が助かったと為ると生への執着が頭を擡(もた)げて来る。人間は弱いもんですな。捕虜に為った自分達を日本はどう扱うのか、不安に怯え乍ら帰ってみたら、一人一人、係官の簡単な聞き取り調査があってそれで終わり。陸海軍も無く為ったと。拍子抜けしました。
 電話や電報は通じ無いと言われ、汽車も何時に出るか判ら無いけど、兎に角復員者用の無料乗車証と何がしかの現金を貰って、そのママ郷里に帰りました。しかし、日本に帰ってみたら、人の心は荒んでいるし、歯がゆくて悔しくて、ヤッパリ戦争は負けるもんじゃ無いと思ったですな。
 郷里に帰る迄は心配でした。アチコチ焼野原に為ってることは聞いていたから、果たして家はあるんじゃろうか、捕虜に為った私が帰ったら、長男坊が虐められやせんかと。もし長男坊が虐められる様な事に為ったら、暴れて長男坊を殺して自分も死ぬワイ、等と色々覚悟しながら帰りました。

 宇佐の家に帰ったら母と弟が居ました。私は戦死した事に為って居たから、信じられ無かったみたいでした。母が私の体を撫で回して、オウオウ泣き出して・・・弟が私の位牌を庭に投げて『焚き物じゃ、焚き物じゃ』と。直ぐに高田の実家に居た家内の元へ連絡が行って、翌朝、義父が大きな鯛を持って、家内と長男坊を連れて来て呉れました。
 最後に見た時は1歳にも為らず、未だ歩け無かった長男坊が、もう4歳に為って居ました。家内から写真を見せられて父親の顔は知ってたでしょうが、コッチに来んかいと言うのに人見知りしてナカナカ寄り着か無い。私の体の廻りを二回か三回、グルグル廻って観察してヤット判ったんでしょう、突然『ワア、父ちゃんじゃ』言うて飛び付いて来ました。感激したですよ」


 中島さんの予想に反して、郷里の人々は観な、暖かく迎えて呉れた。

 「捕虜に為って帰って来たのに、廻りは皆歓迎して呉れる。皆喜んで呉れる。しかし私は、何だか空事の様な気がして、本当は蔑まれてるんじゃないかと相当悩みましたよ。何時までも長い間『恥』と云う感覚は消えませんでしたナア。
 日露戦争でロシア軍の捕虜に為った人が、日本に帰れずアメリカに渡って浄土真宗の僧侶に為って居て、マッコイに面会に来た事がありました。立派な人でしたが、我々も日本がもし勝ってたら帰れ無かったでしょうな。負けて、日本の軍隊が無く為ったから帰って来られた様なもんですよ」


 中島さんは、役場で戸籍を回復し、少尉進級と戦死認定後の勲六等功五級の叙勲は取り消された。だが先に述べた様に、一旦合祀したものの取り消しは出来無いとの建前から「英霊」として靖国神社には祀られたママに為って居る。
 戦後は地元・宇佐で薬局に勤めた後、小さなオモチャ屋を営んだ。その後、高田にある妻の実家の食料品店を引き継ぎ、店はヤガテ小さなスーパーマーケットに発展した。その間、占領軍に依って禁じられて居た日本の航空活動が再開されると、中島さんの操縦技倆を惜しむ関係者を通じ、自衛隊や日本航空からパイロットへの誘いがあったが、全て断ったと云う。

 「操縦には聊(いささ)か自信があったし、本当は飛行機に又乗りたかった。しかし、捕虜に為った私は、過去を忘れて生き無きゃいかんと思って居ましたから。マッコイで一緒だった空母『飛龍』の萬代久男さんは、自分の経験を後輩に伝え様と海上自衛隊に入られて、そう云う考え方もあったのかも知れませんが、私には出来無かった。戦闘機で一緒だった斎藤三朗少尉が自衛隊の教官に為って居て、何度も誘って呉れたですがね」

 中島さんは、高田市の中央市場の組合長、役員を経て、私が出会った頃には全ての役職から身を引き、息子達が建てて呉れた別府の自宅をベースに、平日は店を手伝ったりと自適の日々を送って居た。

 「私は海軍では上官に恵まれて居ました。皆可愛がって呉れましたし、海軍で嫌な思い出は一つもありません。ええ、一つも無い。子供にも恵まれたし、家内にも恵まれたし、幸福な人生でしたよ。人には笑われるかも知れんが、今は本当に楽をさせて貰って居ます」
 
 と、中島さんは言う。だが、戦争に付いてどう思うかとの問いに対しては、

 「戦争は嫌いですな。戦争は無い方が好い。あれば勿論負けちゃいかんが、戦争は悪いですな。戦争は悪い……本当に戦争は悪い。戦争の無い時代に為ら無いと、何時までも。戦争はいかんです」

 と、首を振り振り、何度も繰り返した。

 「幸福な人生だった」との述懐に偽りはあるまい。だがその表情には、戦争に翻弄された人生の重みが、年輪と為って宿って居る様に感じられた。


       神立 尚紀   以上



 



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