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2019年08月26日

日本の軍部 こうして言論を統制 〜基準を作り忖度させる巧妙さ〜




 日本の軍部  こうして言論を統制 〜基準を作り忖度させる巧妙さ〜


              〜現代ビジネス 8/26(月) 14:11配信〜



        8-27-1.jpg

             ノンフィクション作家・魚住昭氏


 




 〜ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料を紐解き 講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」から極秘資料を発見!日本の出版の曙(あけぼの)と野間家の人々・・・昭和10年代に入ると、戦争の気配が濃厚に為って行く。そんな中軍部は言論統制に乗り出すが、そこには、恣意的(しいてき)な基準を作り出し、出版社に忖度(さんたく)させる巧妙な手法があった〜


 第七章 紙の戦争──不協和音(3)


 何処からとも無く、誰が云うでも無く

 『講談社の歩んだ五十年』の執筆者の一人、辻平一(つじ・へいいち 元『サンデー毎日』編集長)に言わせると、軍の発言が非常に強力に為って来たのは昭和14年から15年の事であった。勿論未だ対米英戦争は始まって居なかったが、軍の圧力が不気味に国民に圧し掛かって居た。
 と言って、軍から直接編集者に対して、アノ男には執筆させるな、とか、こう云う記事は怪しからんとか、別段の発言は無かった。少なくとも辻が関係して居るものには無かった。軍から直接には無かったが、何処からとも無く、そんな意向があるらしい事が、隙間を漏れて来る冷たい風の様に、編集者の胸に染み込んで来た。

 「あの筆者はイケ無いらしいぜ」「誰が言って居るの?」と、その風聞の根を洗って行っても、ハッキリした事が掴め無い事が好くあった。誰が言ったのか、段々、それからそれへと探って行っても、或る程度まで進むと、結局発言者はボヤケテしまうのだった。「幽霊だよ。幽霊に脅え無い様に、確り遣ろうぜ」
 辻は同僚達とそう語り合った。正体のハッキリし無い処に聊(いささか)かの不安はあったし、それに陸軍の報道部辺りから流されて居るらしい事は、オボロ気に推察出来たが、正体を見せ無いものにワザワザ先方の意向まで推し量って、ビクツク必要も有るまい。正体を見せてからでも遅くは無いだろう。

 そうした頃、昭和15年の夏に陸軍報道部から『サンデー毎日』の編集責任者に至急出頭しろと云う電話があった。イヨイヨ来たなと思った。が、何処が悪いのか一向見当も着か無い。当時、大竹憲太郎編集長は大阪に在勤して居た。早速、電話で連絡してその晩の急行に乗車して貰い、翌日、大竹と一緒に報道部に出頭した。

 これは何だ!

 呼び出したのは報道部の鈴木庫三(くらぞう)少佐(後に中佐)だった。大竹も辻も鈴木少佐の机の前に立たされた。鈴木は椅子に掛けて居たが、2人には座る椅子も無かったので、立ったママで居るしか無かった。日に焼けて黒い顔をしていた鈴木は、イガグリ頭で鋭い目をして居た。如何(いか)にもドギツイ男と言った感じだった。
 大竹と辻が名刺を出して、出頭した旨を述べると、鈴木の最初の言葉は「これは何だ!」と云う罵声だった。声がシャガレて居て妙な威圧力があった。鈴木は1冊の『サンデー毎日』を目の前に出した。が、何を詰問されて居るのか咄嗟に飲み込めず、大竹は「ハア」と返事に詰まった。

 「この表紙の絵だ。頭に物を載せて歩く。これは朝鮮の風俗だ。日本には古来からコンな風習は無い」と、鈴木は決め着けた。大竹も辻もビックリして少佐の厳(いか)つい顔を見た。冗談じゃ無い。表紙の絵は大原女を描いたものだった。
 「これは、京都の大原女です」と、大竹は余りの意外さに思わず声を弾ませた。辻も「伊豆の島にも、頭に物を載せて歩く風習が残って居ます」と、ツイ口を滑らせた。鈴木は大竹等の返答を一言も耳に入れて無い様だった。「うん」とも「そうか」とも言わ無かった。


 




 お前たち

 次に目の前に出したのは昭和15年8月4日号の表紙絵だった。赤い模様のあるネッカチーフの様なもので、頭髪を包み、アゴの下で結んで居る女の絵だった。
 「これも外国の風習だ。コンな惰弱(だじゃく)な日本古来に無いものを、どうして表紙絵に使うのだ。表紙はどの号も女の顔ばかりじゃないか。こんなものは前線の将兵に送れ無い。兵隊の志気が緩むばかりだ」
 大竹は「しかし、前線では非常に歓迎されて居るらしいのです。慰問品として大口に申し込みもありますし、随分喜ばれて居るのじゃないかと思って居ます」と弱気に答えた。鈴木はそれを黙殺し「そうか」とも「それがいけ無いのだ」とも言わ無かった。自分の言葉を一方的に押し着けるだけで、大竹等の返事には反撃も加え無かった。

 それはそうだろう、軍隊では上官の命令に異見を差し挟む余地は全く無いのだ。反対とか釈明等は持っての他だった。最後の止めを刺す時、鈴木少佐はスックと立ち上がって居た。
 「お前達は新聞社の人間じゃないか。新聞は時世を察するに非常に明敏だ。素早く、頭を切り替えて行く。それなのに、お前達の頭はどうして切り替えられ無いのか」
 と、シャガれた声を大きくして、ドンと机を叩いた。暑い日だったが、扇子を使うのも忘れて立ったまま、説教を食らって居た大竹の痩せた顔が蒼(あお)ざめて居た。

 「アレが幽霊の正体か。等々姿を現したな」辻が帰りの車の中でそんな事を考えて居たら、大竹は「お前達は、と言いヨッタなあ」と、ポツンと言った。こんな態度で扱われたのは、それまで何処の官庁でも全く無かったので、腹に据え兼ねて居るらしいのが、その口調に伺われた。
 この日から急角度で『サンデー毎日』の表紙の絵も写真も変わった。従来は女優の顔が大きく出ていたが、それが桃太郎人形や赤ん坊の笑顔や、日本軍の敵前上陸の表紙に変わり、編集の混乱振りが露呈された。

 陸軍軍人達の遺恨

 鈴木少佐に脅されたのは『サンデー毎日』編集部だけでは無い。彼の傍若無人な言動の〈被害者〉はそれこそ枚挙に暇(いとま)が無い。それにしても、何故、陸軍の一少佐に過ぎ無い彼が「独裁者」と言われる程の権力を持つに至ったのだろうか。理由の背景ないし一端を知る上で貴重なエピソードを辻は書き残して居る。

 その頃、大阪毎日新聞(東京日日新聞)の出版関係者が「ご高説拝聴」と云う名目で陸軍報道部のお歴々を星ケ岡茶寮(北大路魯山人が顧問を務めた超高級料亭。永田町に在った)に招待した事がある。辻もその末席に連為った。
 処が顔馴染みの少ない両方の顔ぶれなので、ナカナカ話も弾ま無かった。その内陸軍報道部長が口火を切った。M大佐だった。「この頃は新聞記者もサッパリの様だね」M大佐は濃い口髭の厚い唇で、好く肥えて居たが、精悍な顔付きだった。

 「新聞記者も好い時代があったね。相手が大臣でも、ヤア、とか言って、肩を叩いてマルで友達付き合いの様な口を聞いてサ。そんな時代があったじゃないか。大臣室で葉巻を二・三本ポケットへ入れても大臣は何とも言わ無い。怒りもし無い。そんな頃、俺達は惨めな目に遭った事も在ったよ」 と、M大佐は言うのである。
 彼はその頃中尉か大尉だった。富士の裾野か何処かの陸軍演習へ、貴族院や衆議院の議員達を案内した事があった。陸軍の予算を上手く通して貰う為に、これ等の議員を接待するのである。若き日のMはその接待係を命じられた。

 「大いに努めたものだよ。演習地迄の汽車の中から、ヤレ酒だウイスキーだ葉巻だと、これ努めたものだよ。この連中のご機嫌を損ねたら、予算はウンと削られるのだからね。処が〈この間の海軍の演習は至れり尽くせりだったな〉と、大きな声で、恰も陸軍の接待はナットランと云う様に言う奴が居るのだよ。嫌な奴だと腹が立ったが、機嫌を損じては予算に響くと細かく気を配るのだが、我乍(われなが)ら惨めな感じがしてね。実に不愉快だった」

 吐き出す様に不機嫌な顔付きでMは言うのだった。「処が、この頃は何でもかでも報道部へ聞きに来るのだ」今や軍の全盛時代が来ている、とハッキリは言わ無かったが、そんな臭いを多分に撒き散らして居るモノの言い方だった。





 


 今や我が世の春
 
 Mは続けた。「パーマネントが怪しからんと云う世間の声は、君達も聞いて居るだろう。処が、どの程度のものが怪しからんのか、それとも全面的にいけ無いのか、美容師の組合でも判ら無いのだね。そこで組合から警視庁に伺いを立てたんだよ。だが、警視庁だってそんな事は判ら無い。アチラコチラに問い合わせても、結局判ら無い。トドの詰まり、報道部へ聞きに来たのだ」
 M大佐の声は段々大きく為って居た。得意な顔付だった。「報道部には人間が揃って居る。そこに居るF中佐よ」M大佐はF中佐を指さした。髭のF中佐と云われた程、顔の下半分は口髭・頬髯(ほほひげ)で埋まって居たが、目が細くて目尻が下がって居た。

 「女の事ならFが好かろう。これは部内全員の認める処だ。アノ男は女が好きだからナア。Fは美容師全員に集まる様にと組合幹部に命令を下した。そこで時局講演を一席ブッタ。その後で組合幹部から提出させたパーマネントの色んな形の写真を〈この程度ならよかろう〉とか〈これは怪しからん。断固禁止だ〉とか写真で一枚一枚判定を下したのだ。これが基準に為った。今日、東京の女性のパーマネントはこのFの判定にパスしたものだけに為って居る」

 辻は言葉も無く、Mのご高説を拝聴して居るより他無かった。女性の頭髪の形まで軍部によって握られて居る。これ自身は小さい事だが、軍の我が世の春の象徴でもあるのだ。

 「同じ様な事が、京都の染物組合でも問題に為った。着物の柄をどの程度まで派手にしても好いものか、どの程度の柄が時局に相応(ふさわ)しく無いのか何処に聞いても分から無い。ヤッパリ最後は報道部に来たね。これはアノ若い中尉が判定した」
 と、未だ若い中尉を指さした。京都に出張して、一つひとつの柄を判定して基準を作ったと云うのである。そうしてMは事も投げに言った。
 「君達はS少佐(鈴木庫三)を、煩(うるさ)い厄介な男だと思って居るかも知れ無いが、ナアに簡単なもんだよ。Sの判定の基準を飲み込んでしまえば好いんだよ」

 M大佐のご高説に社の先輩達からの反論は無かった。会合を終え、辻は星ケ岡の坂を下りながら、段々難しく為る世相を心に噛み締めて居た。皆も黙り勝ちであった。夫々の思いに耽って居たのだろう。黙々と暗い坂を下りた記憶だけが辻の記憶に残って居る。

 内務省や軍当局との深まる接触


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 鈴木庫三は、戦時中の言論界で最も恐れられ忌み嫌われた「日本思想界の独裁者」(清沢洌<きよさわ・きよし>の『暗黒日記』)だった。この章の冒頭で述べた様に、昭和16年初め、講談社に顧問制を導入させたのも彼である。

 簡単に彼のプロフィールを紹介して置こう。茨城県出身、初め兵として入隊し下士官に為り、猛勉強の末に陸軍士官学校へ入学した。卒業後、陸軍の派遣学生として東京帝大文科で教育学を学び、陸軍自動車学校教官を経て陸軍省新聞班(後の情報部⇒報道部)に配属された。ひと言で言うなら、陸軍大学校出のエリートとは畑の違う「叩き上げのインテリ軍人」である。
 佐藤卓己著『言論統制──情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中公新書)によると、昭和13年8月に陸軍省新聞班(翌月、情報部に昇格)入りした鈴木少佐の主務は雑誌指導、即ち内閲等を通じて雑誌をコントロールする事だった。
 内閲とは、雑誌等の発行前の原稿や校閲刷りの段階で行われる検閲の事で、昭和12年8月(盧溝橋事件の翌月)から、発禁による経済的ダメージを恐れる出版業者の要請で始まった。

 この内閲の情報を得る為、出版業者と当局側の懇談会が組織され、同年9月から内務省内での出版懇話会が始まった。翌13年に為ると、海軍報道部・陸軍情報部・陸軍航空本部が夫々月例の雑誌懇話会を開く様に為った。これ等の内閲や懇話会を通じて、内務省や軍当局と編集者の接触が深まって行ったらしい。『改造』編集部の水島治男は『改造社の時代 戦中編』(図書出版社刊)に書いて居る。

 〈既に昭和12年11月には(南京占領の前月)宮中に陸軍大本営が設置されて居る。内閣情報部と云うのも出来て居た様である。軍の報道管制は大本営直属であるから、大本営陸軍報道部・海軍報道部と為って、庶民的な名前の新聞班から格上げされた。
 それ以来、硬派、総合雑誌の四社(中公・改造・文春・日評)と軍報道部との関係は、毎月定例会議を持つことに為って来た。それは気味が悪いとか性に合わ無いと云う様なものでは無かった。報道部配属の軍人の一人一人は話の判る連中で、お話を聞いて居ると、どうしても暗々裡に牽制され飼い慣らされて行く事に為る。
 真正面から編集に介入したり、命令によってこう云う原稿を載せよと云う段階には未だ至って居なかったのである。自由主義的傾向迄圧殺して執筆禁止を命ぜられたのは後の事だったが、今にして思えば編集の自主独立権を徐々に侵蝕されて行った事は確かである〉



 




 用紙統制による出版の好況

 これとホボ同時期に、出版界に取って飯の種とも云うべき用紙の統制が始まって居る。商工省は昭和13年9月、日本雑誌協会に対し、前年下半期用紙使用高の一律2割の節約を実行する様通達した。原料木材の欠乏からパルプの増産が出来ず、日中戦争に伴う輸入制限でパルプの輸入も益々困難に為ったからである。
 これを皮切りに商工省は翌14年に為ると、各雑誌社実績によって1分〜5分の追加削減を命じた。各社はページ数の削減、付録の縮小・廃止、増刊号の中止でこれに対処し、印刷部数だけは確保しようとした。しかし、事態は好転せず、翌15年8月に為ると、雑誌用紙の割当制限は一層強化され、昭和13年に比べて3割8分から4割2分の削減と為った。

 雑誌がそうだったから、一般書籍の用紙難も推して知るべしである。出版社はアラユル手段をもって用紙の獲得に奔走し無ければ為ら無かった。この用紙不足は出版界に何をもたらしたか。恐らく読者は、出版不況の4文字を頭に浮かべられる事だろう。処が、実際に起きたのは空前の出版活況だった。元取次最大手の東京堂の社史『東京堂の八十五年』に掲載された次のデータをご覧いただきたい。

 昭和11年以降、東京堂が扱った有力雑誌79種の総売上部数(送本部数から返品部数を引いた実売部数)である。当時、国内で発行された雑誌の7割前後は講談社のものだったから、これ等の数字は講談社の雑誌売上部数の推移を反映して居ると見ても的外れでは無いだろう。

 昭和11年 6858万4800部
 昭和12年 7273万3000部(対前年比で6.04%増) 
 昭和13年 7547万4000部(同3.7%増)
 昭和14年 8227万6000部(同9.0%増)
 昭和15年 9339万3000部(同13.5%増)

 昭和12年の6.04%増は日中戦争に伴う臨時増刊号の増発によるものだ。大衆娯楽雑誌・写真グラフ雑誌・教育雑誌・綜合雑誌その他で266種の臨時増刊が出た。日中戦争に対する国民各層の関心は深く、昭和13〜15年も引き続き出版界に活況をもたらして居る。
 一方、東京堂が扱った雑誌の種類を見てみよう。昭和12年の1017種を頂点として、13年に958種・14年920種・15年968種・16年869種と云う風に減少傾向を示して居る。
 日中戦争以来、用紙の不足で新雑誌の創刊は難しく為った。昭和15年、当局は雑誌界の整理統合に乗り出した。その範囲は業界雑誌・医学雑誌・工業・経済雑誌・映画・演劇雑誌・幼年雑誌に及び、廃刊を命じられ、又は合併を勧告されるものが続出した。にも関わらず雑誌全体の売れ行きが増加したのは、
 「雑誌の報道性と娯楽性が、時局下の国民各層から求められて居たからであった。娯楽機関の欠乏は、勢い読み物に集中した。そして軍需産業の好調や、地方の好景気は、全国津々浦々に新しい読者を広げて行った。各有力雑誌は頁数を減らし、判型を変える等の工夫を凝らして読者の要求に応じようとした」(『東京堂の八十五年』)のだった。

 又返品の無駄を省く為、雑誌社と元取次は全国小売書店に呼び掛け、配本の適正合理化を図った。絶対量が不足して居た事もあって「この努力は実を結んで返品の激減と為り、発行部数を増やさ無くても実質売上部数が増加すると云う理想的な結果をもたらした」(同)

 書籍出版も雑誌に劣らず活発だった。東京堂が扱った新刊点数を見ると、昭和10年度には4821種だったのが、昭和13年度には5041種と為り、昭和15年度には6123種に達した。取り分け文芸書類は種類も増加し、売れ行きも好かった。「戦時下の勤労青年・学生・職業婦人の娯楽要求が読物に向かって集中された事は明らかであった」(同)

 摘発、弾圧、逼塞

 用紙の統制とホボ同時並行で進んだのが思想統制である。それ迄共産党関係者に限られて居た言論弾圧の手が、非共産党系社会主義(労農派)や自由主義思想にまで広がった。昭和12年8月『中央公論』に掲載された矢内原忠雄(やないはら・ただお)東大教授の巻頭論文「国家の理想」が当局の忌諱(きき)に触れ、全文削除を命じられた。
 矢内原は、キリスト教ヒューマニズムの立場から、侵略主義に対して若干の批判を加えたに過ぎ無かったが、この論文によって当局から平和主義者・反軍主義者の烙印を押され、遂には大学を去らざるを得無く為った。

 又昭和13年2月には、石川達三の小説「生きてゐる兵隊」を掲載した『中央公論』3月号が内務省により発売禁止に為って居る。この小説は、中央公論社特派員に為った石川が、陥落直後の南京で見聞きした日本兵の残虐行為等を基にして書いたものだ。
 石川の意図は、聖戦と呼ばれ美化されて居る戦争の実態を伝える事にあったのだが、それ自体が軍の権威を傷着けると非難された。結局、石川と編集長の雨宮庸蔵(あめみや・ようぞう)等が起訴され、2人は禁錮4ヵ月(執行猶予3年)の判決を受けた。この時既に雨宮は責任を負って中央公論社を退社して居た。 

 これより少し前の昭和12年12月15日、労農派の山川均・荒畑寒村・向坂逸郎(さきさか・いつろう)等約400人が治安維持法違反で一斉検挙された(第1次人民戦線事件)。翌昭和13年2月1日、有沢広巳(ありさわ・ひろみ)・大内兵衛(おおうち・ひょうえ)・美濃部亮吉・宇野弘蔵・高橋正雄・脇村義太郎等教授グループを中心に38人が検挙された。(第2次人民戦線事件)
 文藝春秋社員の池島信平(後の社長)は当時、教授グループ検挙に大きな衝撃を受けた。戦後の回想録『雑誌記者』(中公文庫)にこう記して居る。

 〈それ迄に共産党に対する弾圧はシバシバ号外等に出て居たが、足許に火の点いた様な感じを受けたのは(中略)教授グループ事件であった。これ等の先生方に私はナンの個人的な面識も無く、仕事の面でも特別の関係は無かったが、この出来事を報じた号外を社で手にした時、愕然(がくぜん)たる思いに捉(とら)えられた。
 心屈するママに、レインボー・グリル(文藝春秋が入って居たビルの地下一階のレストラン。作家等の社交場でもあった)のパーラーに降りて行った。眼の前を色々な人が平和そうに又楽し気に通って行く。中には社と関のある作家も居たが、私は只腹が立って誰とも口をキク気がし無かった。雑誌記者に為って初めてのショックであった。
 私は共産主義に対しては最初から余り強い同情は無かったが、所謂自由主義の人達に対しては親近感を持って居た。これ等の教授達が検挙されたのは如何なる理由によるのであろうか。私には到底、彼等が留置場にブチ込まれる様な事をしたとは考えられ無かった。只感じられる事は、怖ろしいファシズムの跫音が、等々我々の仕事の直ぐ隣りまで来たと云う事であった。正確に言えば、私達の仕事の中へ入って来たと云うべきであろう。これから来る怖ろしい時代の予感に暗澹たる思いがした〉



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            先進国中最下位の報道の自由とは?


 魚住 昭  以上



 




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