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2019年08月20日

日露戦争の勝利 日本と世界をどう変えたか




 日露戦争の勝利 日本と世界をどう変えたか


         〜PHP Online 衆知(歴史街道)8/20(火) 12:12配信〜


 〜令和元年(2019)の今年は、日清戦争の開戦から125年、日露戦争の開戦から115年にあたる。日清・日露戦争に於ける日本の勝利は、世界史の視点から見ると如何(いか)なる意味があったのだろうか。今回は日露開戦からその勝利の意味迄を、人気世界史講師・茂木誠氏が解説する〜


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         茂木誠 駿台予備学校 世界史科講師 PROFILE 

 東京都出身。駿台予備学校、ネット配信のN予備校で大学入試世界史を担当。iPadを駆使した独自の視覚的授業が好評を得ている。 世界史の受験参考書の他に一般向け著書として、『世界史とつなげて学べ 超日本史』 『経済は世界史から学べ!』『世界史で学べ! 地政学』『日本人が知るべき 東アジアの地政学 』『「戦争と平和」の日本史』等。



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 日本・イギリス・ユダヤ人、絡み合う三者の思惑

 1904年、日本の旅順港攻撃を皮切りに、日露戦争が始まりました。開戦前、日本はロシアに対し、朝鮮を二分しようと云う妥協案を示し戦争回避に努めます。しかしロシアは応じません。何故なら、こんな小さな島国に負ける訳が無い、戦争で全て奪えると確信して居たからです。処が、結果は周知の通り日本が勝利を収めました。この大番狂わせには、様々な要因が重なり合って居ます。

 一つは、ロシア国内で革命が起きて居た事です。ロシアは貧富の差が激しく、その情報を掴んだ日本陸軍は、明石元二郎を派遣して革命派や少数民族を支援して居ます。もう一つは軍事費の調達です。日本は巨額の軍事費を賄う為国債を発行し、それを外国の富裕層に買って貰おうとします。
 処が、時の日銀副総裁・高橋是清がニューヨークとロンドンに行って国債を売ろうとしても、全く相手にされません。日本が負けたら紙クズに為るからです。

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                ジェイコブ・シフ氏

 この日本国債を買って呉れる人が現われました。ジェイコブ・シフと云うユダヤ人で、有名な財閥ロスチャイルド家の代理人です。ロスチャイルド家も又ユダヤ系です。
 ロシアに於けるユダヤ人迫害は凄まじいものでした。ユダヤ人に取ってロシアは敵で、だからユダヤ系財閥が日本をバックアップしたのです。ロスチャイルド財閥は又、イギリス政府のスポンサーでもありました。
 こうして見ると、勝利の背景にある構図が浮かび上がります。独立を守ろうと云う強い意志を持つ日本、アジアでの利権を守ろうとするイギリス、ロシアを憎むユダヤ人・・・この三者の思惑が上手く絡み合う事で、日本はロシアに勝つ事が出来たのです。

 その勝利によってアジア諸国は目覚めた

 日露戦争に勝利した事は、日本の歴史に取って如何なる意味があったのでしょうか。先ず、日本の国際的地位の向上です。日本はロシアに勝つ事で、欧米列強から初めて列強の一つと認められました。その証が、不平等条約・領事裁判権の撤廃です。

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 ヨーロッパでは、文明国同士で無ければ国際法は適用され無いとされました。イギリスは、オスマン帝国やインドに日本は「非文明国」だから国際法は適用し無いとして居ましたが、日露戦争後、日本を「文明国」として認めたのです。要は力の論理なのです。
 日英同盟はその後も続き、第一次世界大戦では、日本はイギリスに協力して海軍を地中海に派遣し、それに依って、終戦後に作られた国際連盟の五大国の一つとも為って居ます。もう一つは、日本の産業革命が本格化した事です。

 満洲の権益を得た日本は、そこで採れる鉄鉱石や石炭を博多へ輸送し、八幡製鉄所を中心とする重工業を更に発展させて行きました。最も、好い面ばかりではありません。日露戦争では、満洲で多くの将兵が亡く為りました。その為「同胞の血に依って購われた地だから」と、満洲の権益を守ろうとした事が、日中戦争・大東亜戦争へと繋がって行きました。
 又、日露戦争に勝利した事から、その時の戦法が陸軍大学校で手本とされ、大東亜戦争の時にも無理な白兵突撃が行なわれる等、多くの犠牲を出す事と為りました。更に言えば、1910年の韓国併合も、今日に影響を及ぼして居ます。
 ロシア革命が起き、ロシアの南下が止まった時点で、朝鮮半島は防波堤である必要が無く為りました。併合する必要が無いのに併合してしまった。半島に莫大な投資をしたにも関わらず、恨みだけが残ってしまう事に為ります。


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 勝てる筈の無い日露戦争で勝利を得た事で、日本は物事を合理的に判断出来無く為ったと言えるかも知れません。

 只、広い視野で見ると、アジア諸国に取っては近代化の目覚めとも為りました。例えば、オスマン帝国は日本よりも先にミドハト憲法を制定した国ですが、皇帝がロシアとの戦争を口実に憲法を停止し専制政治に戻してしまいました。処が、遅れて立憲体制を整えた日本がロシアに勝利した。
 そこで日露戦争終結後、日本をモデルにもう一度憲法をと云う運動(青年トルコ革命)が起こり、ミドハト憲法が復活しました。

 イランでも、憲法制定を求める運動(立憲革命)が起こりますが、これも日露戦争の影響です。その上、日本の歴史をキチンと学ぼうと日本ブームが起こりました。古代イラン王達の事績をまとめた、イラン版古事記とも言える『シャー・ナーメ』になぞらえ、明治天皇を称える『ミカド・ナーメ』と云う作品が出来た程です。
 イギリスの植民地だったインドでは、国民会議派による反英運動が始まります。ベトナムでもフランスの植民地支配に抵抗し、日本に留学生を送り出すドンズー運動も盛んに為りました。

 日露戦争は、プラス面だけで無くマイナス面もあり、全てを是として受け入れる事は難しいでしょう。しかし、近代日本が世界へ進出して行くターニングポイントと為り、アジア諸国の近代化を促した事は間違い無いのです。


 ※本稿は、歴史街道2019年7月号特集『日清・日露戦争 名将の決断』より一部を抜粋・編集したものです。

 茂木誠(駿台予備学校 世界史科講師) 以上



【関連報道】



 第二次世界大戦の始まりと終わり 日本とロシアの意識はこんなにも違う


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        服部 倫卓氏 (はっとり みちたか)し プロフィール

 生誕 1964年9月19日(54歳) 静岡県  出身校 東京外国語大学 青山学院大学大学院 北海道大学大学院 職業 国際研究家・ジャーナリスト  旧ソ連地域研究者・ジャーナリスト 現在、一般社団法人ロシアNIS貿易会・ロシアNIS経済研究所副所長を務める。


            〜GLOBE+ 8/20(火) 12:03配信〜


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 モスクワ・クレムリンの傍らで灯り続ける「永遠の炎」「1941〜1945年に祖国の為に散った者達へ」とある。(撮影:服部倫卓)


 ご都合主義の歴史観

 日本人に取って、終戦記念日が巡って来る毎年この時期は、太平洋戦争の事を改めて考える機会と為って居ます。他方、今年は第二次大戦が勃発してから80年目の節目と云う事で、世界的にもそれを回顧する様々な動きがある様です。 

 それにしても、第二次大戦に付いてのロシアの言い分を聞いていると「何と云うご都合主義的な歴史観か」と呆れてしまいます。彼等に取って、第二次大戦とは、1941年6月22日に始まる独ソ戦にホボ尽きると言って好いと思います。
 彼等が「大祖国戦争」と呼んで居るこの戦争で、ソ連の赤軍がナチス・ドイツを打倒し、世界を魔の手から救った。その物語がホボ全てです。


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 歴史の真実の流れは

 時計の針を巻き戻せば、1939年9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第二次大戦の火蓋が切って落とされた直後、ソ連も独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づきポーランド東部を占領しました。エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国に付いても占領を強行。更に、フィンランドに対しても戦争を仕掛けて居ます。
 この様に、ソ連は最初から第二次大戦に深く関与し、ナチス・ドイツとの合意の下に版図を拡大したのです。にも関わらず、ロシアは今日に至る迄それ等が国際ルールに則った通常の外交・軍事行動であったかの様な立場を執り、飽く迄も1941年6月以降のナチス・ドイツと云う絶対悪との対決にフォーカスしようとします。 (冒頭に写真を掲げた「永遠の炎」も、1941年以降の戦没者に捧げられて居る)

 尚、ポーランドは今年、第二次大戦の開戦から80年を記念する式典を予定して居ますが、その行事にプーチン・ロシア大統領を招か無い事を決めました。メルケル・ドイツ首相は招待されて居るそうなので、侵略の歴史よりも、今日の政治関係を重視した判断でしょう。
 これに付いてロシアの大統領報道官は「大祖国戦争と第二次大戦を記念する式典に、ロシアの参加が無いとしたら、世界のどんな国に於いても、それは不完全なものと為るだろう」とコメントして居ます。

 独ソ戦の事を考えるに着け、筆者の様な皮肉屋の外国人は「イッソの事、ナチス・ドイツと、スターリン体制と云う2つの『悪』が差し違えて、両方共倒れれば好かったのに。その方がソ連・ロシア国民にトッテモ幸福だったのでは?」等と、余計な事を言いたく為ります。
 しかし、過つてのソ連や今のロシアの人達に、その様な発想は微塵もありません。(そもそもスターリンが悪だとは余り考えられて居ない)彼等に取って大祖国戦争とは、文字通り自分達の生存を懸けた戦いだったのです。

 尚、ソ連・ロシアの歴史観のご都合主義に付いて指摘しましたが、我々日本人も、もしかしたら同じ様な偏りを抱えて居るかも知れません。1941年12月8日に開戦した太平洋戦争の経験が重視されるのに比べ、それに先立って1937年から続いて居た日中戦争に付いては充分な問題意識を持って居ない傾向がある様な気がします。

 決定的に異なる日本とロシアの終戦の風景

 日本もロシアも、第二次大戦の帰結がその後の歩みを決定付けたと云う点では同じです。しかし、敗戦国の日本と、戦勝国のソ連・ロシアでは、その方向性が全く異なります。
 日本人の心に刻まれて居る終戦の風景は、8月15日に焼け野原の中で、皆が打ち拉(ひし)がれ乍ら玉音放送を聴くと云うものでしょう。戦後世代も、テレビ等でその風景を繰り返し見る事に依って、それが原点と為って居ます。多くの日本人が、平和の誓いを新たにするイメージでしょう。

 一方、ソ連では、1945年5月9日にナチス・ドイツに対する戦勝が伝えられると、皆が自発的に表に繰り出しお祭り騒ぎと為りました。祝砲が鳴り響く中、人々は誰彼と無く抱き合い、涙を流しては勝利を喜び合ったのです。ヨーロッパ戦線が終結したとは言え、この後対日戦争が続く事に為るのですが、ソ連の人々に取っては、5月9日を以て実質的に第二次大戦が終わったと云う感覚でしょう。

 ソ連の欧州領土の広大な領域は、日本と同じ様に焼け野原に為って居ました。しかし、苦しい戦争を最終的に勝利で終えたソ連の場合には「これからも、より強くあろう」と云う決意に漲(みなぎ)って居ました。と同時に「これだけの甚大な損害を負いながらナチス・ドイツを倒した我が国は、戦後世界に於いて特別の地位を認められるべきだ」と云う特権意識が生じます。
 今日の日露交渉で、先方が何かと「第二次大戦の結果を認めよ」と言って来る背景にも、その意識があります。

 サテ、当時の最高指導者スターリンは、国民が対独戦勝に沸いたこの5月9日を国の祝日に指定しました。1948年から1964年に掛けて、祝日では無い単なる記念日に格下げされて居た時期もありましたが、戦勝20周年を記念して1965年に祝日として復活、今日のロシアでも一年で最も重要な祝日と為って居ます。

 実は、ドイツによる降伏文書の調印には一寸した経緯があり、その受け止め方の違いから、欧米諸国は5月8日を対独戦勝記念日にして居ます。ロシアでも「諸外国と同じ様に、5月8日を戦勝記念日にした方が好いのではないか」と云う議論が時折聞かれます。
 しかし、1945年5月9日に、人々が歓喜の余り表に飛び出して、心から喜びを分かち合った事が、この祝日の原点です。もう何十年もその日付で祝われて来た訳ですし、今更それが変更に為る事は先ず無いでしょう。

 戦争は8月15日で終わった訳では無い

 1945年5月にナチス・ドイツが降伏した事で、ソ連では国民は終戦ムードに浸り、指導部も戦後の秩序へと関心を移しました。しかし、ソ連の戦争は未だ終わった訳では無く、寧ろアジアでは将にこれからでした。ソ連はヤルタ会談での合意に基づき、8月8日に対日宣戦布告し、翌9日にソ連軍は対日攻勢作戦を発動しました。

 既に述べた通り、日本人に取っては、8月15日の玉音放送が、戦争の終わりを告げるものでした。翌16日に大本営は全軍隊に対して戦闘行為を停止する様命令し、これにより太平洋戦争の戦火は基本的には収まりました。第二次大戦が正式に終結するのは、日本が対連合国降伏文書への調印を行った1945年9月2日でしたが、日本は既に白旗を挙げて居たのです。

 しかし、遅れて対日戦に参戦したソ連は、日本のポツダム宣言受諾後も、満州・朝鮮半島北部・南樺太・千島列島への進撃を続け、日本軍も自衛的に応戦せざるを得ませんでした。ソ連軍による作戦は9月2日の降伏文書調印後も続けられ、ソ連軍が一方的な戦闘攻撃を要約停止したのは9月5日の事でした。
 戦後、日本では常にソ連が嫌いな国ナンバーワンでしたが、共産主義イデオロギーに加えて、第二次大戦終結時の火事場泥棒の様な振る舞いが、ソ連への憎悪に繋がって居た事は疑いありません。

 世界的には、降伏文書調印の9月2日が対日戦勝記念日に為って居ます。処が、対独戦勝記念日のケースと同じ様に、ここでもソ連・ロシアは1日ズレて居て、9月3日が対日戦勝記念日として祝われる時代が長く続きました。
 新生ロシアの時代に為っても、当初それは変わりませんでしたが、2010年7月に9月2日を「第二次世界大戦終結の日」とする法案が成立し、それに吸収される形で9月3日の対日戦勝記念日は無く為りました。

 退役軍人やサハリン州住民の間には、9月3日の対日戦勝記念日が無く為ってしまった事に不満な人々も居り、彼等は復活運動を試みています。しかし、プーチン政権は、日本との関係に配慮してか、今の処応じる姿勢は見せて居ません。


          服部倫卓   以上





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