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2019年07月28日

参院選で歴史作った「れいわ」が日本政治に生み出す渦


 参院選で歴史作った

 「れいわ」が日本政治に生み出す渦


 

 〜THE PAGE 7/28(日) 19:35配信〜



     7-28-9.jpg

 今回の参議院選挙で一種のフィーバー状態を作り出した「れいわ新選組」写真は投票日前日に演説する山本太郎代表


 年初来、参議院選挙と解散総選挙を同時に行う「衆参ダブル選挙」への観測が後を絶ちませんでした。しかしこれは結局見送られ、単独で行われた参議院選挙の投票率は50%を切りました。盛り上がりに欠いた選挙の中で注目を集めたのは、消費税の廃止等「生き辛い人々を救う政治」を掲げ「特定枠」制度を活用してALS患者の舩後靖彦氏と重度障碍者の木村英子氏の2人を国会に送り込んだ「れいわ新選組」でした。


           7-28-10.jpg

           政治ジャーナリストの田中良紹氏 







 政治ジャーナリストの田中良紹氏に今回の参議院選挙を総括して貰いました。


 旧民主党政権が国民に与えた心の傷

 令和元年7月21日に行われた第25回参議院選挙は令和初の国政選挙であった。争点は「年金不安」と「消費増税」と言われたが、与党も野党も従来の主張を繰り返すだけで目新しさは無く、メディアの報道も何時ものワンパターンで面白く無く、時代の節目の初の選挙と云う気を起こさせ無かった。
 投票率は5割を切り、戦後2番目の低さと為る。有権者の半数以上が選挙に背を向けた。選挙結果も当初から予想された通りで、与党が過半数を制し、一方で改憲勢力は憲法改正の発議に必要な3分の2には届かず、与党も野党も勝利に沸く雰囲気に為ら無かった。

 選挙の前と後で何が変わったのか。何も変わって居ない。では国民は現在の政治に満足して居るかと言えばそうでは無い。埼玉大学の松本正生教授が投票の前日に行った調査によれば、2対1の割合で不満足が満足を上回る。政治に信頼を寄せて居るかと言えばそれも違う。2対1の割合で不信が信頼を上回る。
 処が与党に投票するか野党に投票するかを問うと、4対3の割合で与党に投票すると答える。不満があるから野党に投票して政治を変えようとは考え無い。そして選挙に行く前から選挙に行っても何も変わら無いと思って居る。それが5割を切る低投票率と、それ為りの与党の勝利をもたらした。

 何がそうさせるのか。私は矢張り旧民主党政権の失敗が国民に与えた心の傷だと思う。日本を変えて呉れると期待したが悉く裏切られた。沖縄の辺野古新基地建設やTPP(環太平洋経済連携協定)で米国の言い為りに為り、自民党が主張する10%の消費増税を受け入れ、政権交代しても何も変わら無い事が証明された。初の政権交代で国民が学んだのはそう云う事だった。


 




 昭和の日本が米国に牙を抜かれた平成

 戦後の日本政治を振り返れば、焼け野原から復興と経済成長を目指し、その為平和憲法を盾に米国の軍事要求を交わし、米国からの自立を目論んだ昭和の時代があり、次に米ソ冷戦が終わって日本を最大の敵と見る米国が、構造協議や年次改革要望書で日本経済を解体し、更に平和憲法を護らせる事で日本を隷属化した平成の時代がある。
 戦後日本の経済成長は、ケインズ経済学を基礎とする「大きな政府」によって達成された。「大きな政府」とは福祉に重きを置き国が経済に関与する体制である。自民党も社会党も「大きな政府」を支持し、その先には欧州型の福祉国家を目指した。

 一方で軍事に金をかけ無い様、自民党が社会党に護憲政党の役割を負わせ、国民に平和主義を植え付けて、それを米国に見せ着けた。米ソ対決時代の米国は、日本に社会党政権が出来ては困るので、その弱みに付け込む「巧妙な外交術」だった。
 その結果、1980年代に自動車や家電等日本製品が米国市場に溢れ、米国の製造業を駆逐して米国経済を土俵際まで追い詰める。そして1985年に日本は世界一の金貸し国と為り、米国は世界一の借金国に転落した。昭和の日本は明治以来目指して来た「坂の上の雲」に辿り着いたのである。

 処が平成元(1989)年に冷戦が終結し、その2年後にソ連が崩壊すると、米国は日本を最大の敵と見て、ケインズ経済学を否定する新自由主義、所謂「小さな政府」の政策で日本経済の解体に取り掛かる。日本経済の強さの秘密は、戦時中に作られた銀行が企業をコントロールする間接金融体制と、終身雇用制や年功序列賃金等の労働慣行にあった。
 米国は日本に「プラザ合意」と「ルーブル合意」を飲ませて日本経済にバブルを起こさせ、その処理を巡って日本の銀行の力を削いだ。世界のトップに君臨した日本の大手銀行が軒並み不良債権に苦しみ、経営統合に追い込まれる。

 次に米国は「労働力の流動化」を要求し、非正規労働者を大量に生み出させた。年功序列賃金や終身雇用制は「今日より明日に希望が持てる仕組み」だったが、非正規労働者の増大は世界最速の少子高齢化と共に、先行きの老後不安を深刻化する。

 平成の30年間は米国に挑戦した昭和の日本が、次々に牙を抜かれて行く時代だったと思う。その中で政治は「55年体制」との決別が求められた。ソ連崩壊後は、米国に対する牽制策として社会党を使う事が出来無く為る。政権交代を狙う本物の野党を作る必要があった。そこで小選挙区制が導入され、初めての政権交代が2009(平成21)年に実現した。
 当時は、米国が要求する「小さな政府」を受け入れた小泉政権によって格差拡大と弱者切り捨てが進行して居た。政権交代はそれを是正する方向に向かわ無ければ為ら無い。小沢一郎民主党代表が2007年に掲げた「国民の生活が第一」はそれを意味して居た。

 それが自民党支持者にも影響し、自民党支持の業界団体を巻き込んで政権交代は実現した。この政権交代が上手く行って居れば、米国の共和党と民主党、英国の保守党と労働党の様に「小さな政府」対「大きな政府」と云う政権交代の図式が日本にも定着した可能性がある。
 しかし万年与党と万年野党と云う時代が長かった所為か、政権交代には官僚機構等各方面でハレーションが起きた。政権交代直前に検察が小沢代表の秘書を逮捕する等通常有り得無い事件が起き、政権交代は可笑しな方向に向かう。
 そして鳩山由紀夫首相の辺野古新基地を巡る迷走、菅直人首相による米国のTPP要求受け入れ、選挙公約を裏切る10%の消費増税宣言、更には東日本大震災での対応の稚拙さ、そして最後は消費増税3党合意と、首を捻るしか無い衆議院解散等、どれを見ても政治の未熟さを思わせる出来事が相次いだ。


 





 旧民主党政権の失敗と解散総選挙への誘惑

 民主党政権が自滅して自民党政権が復活した時、総理大臣の座に返り咲いた安倍晋三首相はバブル崩壊後に20年以上続く「デフレからの脱却」を叫び、戦前の金融恐慌の時に高橋是清蔵相が採用した反緊縮リフレ政策を「アベノミクス」と称して打ち出す。それが円安と株高を招き、アベノミクスは大いに持て囃された。では、安倍政権は国民から熱狂的に支持されたかと言えばそうでも無い。第2次安倍政権が誕生してからの選挙は何れも投票率が低い。
 2013年の参議院選挙52.6% 14年の衆議院選挙52.6% 16年参議院選挙54.7% 17年衆議院選挙53.6% そして今回の参議院選挙は48.8%である。60%から70%で推移して来た日本の投票率が安倍政権に為ってから低いママなのだ。何故か。

 私は旧民主党政権に期待し失望した国民の心の傷が未だ癒えて居ないからだと思う。政治に対し「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」姿勢が変わら無いのである。只今回の選挙で安倍首相が衆参ダブル選挙に踏み切れば、低投票率から脱する事は出来たと思う。
 年頭の記者会見で、安倍総理にはダブル選挙に打って出る意欲がアリアリと見えた。北方領土「2島返還」で国民の信を問う事を考えて居た筈だ。しかし日米安保体制がある限り返還は難しいと云うロシア側の姿勢は崩れず、ダブル選挙は見送られた。

 それでも安倍首相はダブル選挙に拘(こだわ)る。日朝首脳会談の実現を模索し、萩生田幹事長代理に消費増税延期のアドバルーンを上げさせた。公明党の反対を押し切れる大義があればダブル選挙は出来た筈だが、遂にその大義を見付ける事が出来無かった。
 何故安倍首相は解散に打って出たいか。野党第1党の枝野幸男代表が東日本大震災の時の官房長官だからである。国民に適切な情報を流して居たのかと国民に過去の姿を思い起こさせれば、自分の方が総理大臣に相応しいと訴える事が出来る。
 だから選挙中に何度も「民主党の枝野さん」を連発した。枝野代表が野党第1党の党首で居る限り、解散・総選挙の誘惑は消え無い。安倍首相も民主党政権に失望した国民の心の傷は癒えて居ないと考えて居るのだ。


 




 財務省への「借り」と消費税廃止訴える「れいわ」/span>
 
 衆参ダブル選挙を見送った事で、10月の消費増税は確実な見通しと為った。しかし安倍首相の本音は、増税を辞めたいと思って居る筈だ。増税で景気が落ち込む事に為れば、今後の政権運営に致命的な影響が出る。だが「森友問題」で昭恵夫人の関与を徹底して隠蔽して呉れた財務省に借りがあり、延期を強行する事も出来無い。
 唯一の例外はダブル選挙で大勝する事だった。財務省との関係で増税延期を解散の理由にする訳にはいか無いが、2島返還等の歴史的な課題を掲げて大勝すれば首相の権力は絶対に為る。余力で増税延期に踏み切ることが出来る。そう為れば財務省は従うしか無いと私は見て居た。

 一方で私は今回の選挙で与党が改選議席の63を割り込めば、安倍首相は続投しながらも批判票が多かった事を理由に、消費増税凍結が国民の民意だとして、消費増税延期を宣言し、参院選直後に解散する事も有り得ると見て居た。だが63をクリアしたのでそれも無い。


 参院選で歴史作った「れいわ」が日本政治に生み出す渦


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         当選した木村英子氏(左)と山本太郎代表


 では安倍首相はどのタイミングで解散に打って出るか。その判断に、今回の選挙で一躍注目を浴びた「れいわ新選組」の存在が関係して来ると私は思う。「れいわ新選組」はこの選挙で歴史を作った。普通なら立候補等考えられ無い重度障碍者を2人も国会に送り込んだからだ。その為国会議事堂の改修が行われ、重度障碍者に議員への道を拓いた事実は永遠に形と為って残る。
 しかも自民党が身内を優遇する為に作った「特別枠」の制度を、自分の私利私欲と無縁の誰もが考え無かった事に使ったのだから見事である。この2人の当選で政治家達が異口同音に「弱者に寄り添い、弱者の為に頑張る」と綺麗事を言う姿が一気に色褪せた。

 そして山本代表の主張には「反アベノミクス」が鮮明である。安倍首相がデフレから脱する為に採用した日銀の金融緩和と云う反緊縮の政策に対抗する形で、山本代表はデフレから脱する為「消費税廃止」を主張する。それを国債発行と云う反緊縮の政策によって実現すると云う。
 目的はデフレの解消、手法は反緊縮、しかしアベノミクスは格差拡大と弱者切り捨ての「小さな政府」で、「れいわ」は「消費税廃止」と「奨学金チャラ」を実現し、格差を縮小し弱者を救う政治だと言う。

 「消費税廃止」は安倍首相も本音では言いたい。だが森友問題で財務省に借りがあり、自民党には過去に3党合意を結んだ経緯もある。口が裂けても言え無い。今の安倍首相に取って「れいわ新選組」は微小な存在だが、ほおって置くと増殖する可能性がある。
 旧民主党で消費増税に反対した小沢グループや共産党は、3党合意に加わって居無い為「れいわ」と共闘する垣根は低い。山本代表は消費税廃止で無くとも、消費税5%に賛成するなら一緒に遣れると発言して居る。それなら立憲民主や国民民主の中から賛成する議員も出て来るかも知れ無い。 
 それが次の衆議院選挙の争点に為れば自公政権に取って厄介だ。そう考えれば為るべく早く解散を打ち、枝野代表との一騎打ちに国民の目を引き付け様と考える可能性はある。


 



 
 「弱者を救う政治」対立軸作り出す

 安倍首相に取って、常識的な解散の時期は来年の秋である。今年10月1日には消費税が引き上げられ、新天皇「即位の礼」が10月22日「大嘗祭」が11月14日に行われる。年内の日程は立て込んで居り、又年内に衆議院選挙を行えば、統一地方選挙と参議院選挙に続く3度目の選挙と為って、野党は大変だが与党も消耗する。
 来年夏の東京オリンピックが終わった後、米国のトランプ大統領と同じ時期に選挙を迎えるのが、2017年に当選した衆議院議員の4年任期の3年目に当たり具合が良い。但し消費増税が景気にマイナスに為れば「れいわ」の存在感が増す事に為る。

 安倍首相は年内解散に踏み切り、早めに厄介な芽を摘むか、泰然として常識的な来年秋の選挙を選ぶか、思考を重ねて居ると思う。一方で今回ダブルに踏み込んで居れば、「れいわ」がこれ程注目される事は無かった。面白く無い参議院単独の選挙だったから「れいわ」が脚光を浴びた。
 令和初の国政選挙は、少額の寄付に頼った「れいわ新選組」を正式に政党に押し上げた。そして議員に為れ無いと思われて居た重度障碍者に議員への道を拓いた。それ等は歴史に刻まれる。

 更に3党合意によって与野党の対立軸が明確で無く為った政治に、格差拡大と弱者切り捨ての政治か、弱者を救う福祉重視の政治かと云う対立軸を作り出した。「小さな政府」と「大きな政府」に似た対立軸が再び日本政治に浮上した。




 田中良紹(たなか・よしつぐ) ジャーナリスト。TBSでドキュメンタリー・ディレクターや放送記者を務め、ロッキード事件、日米摩擦、自民党などを取材する。1990年に米国の政治専門 チャンネルC−SPANの配給権を取得してTBSを退職、(株)シー・ネットを設立する。
 米国議会情報を基にテレビ番組を制作する一方、日本の国会に委員会審議の映像公開を提案、98年からCSで「国会テレビ」を放送する。現在は「田中塾」で政治の読み方を講義。またブログ「国会探検」や「フーテン老人世直し録」をヤフーに執筆中


                以上




 【管理人のひとこと】


 投票日を終えて縛りが解けたのだろう、一般のテレビで山本太郎氏の話題が散見される様に為った。特に身体障碍者の国政参加・バリアフリーの問題を取り上げるものが多い。実に、彼の足跡は我が国に真剣にこの問題を投げかける大きな切っ掛けを投げ着けた。
 そして、彼の主張する消費減税の問題も付属的に語られることも。彼は、今回の選挙戦で唯一勝利した人間として今後もこの様に表に出て来るだろう。今までの長い期間のネット上での話題が、一挙に表に出て来たのだ。

 殆どの媒体が彼を認め、新しい考えだと称えるのだが、その実、彼が得たものは何だったのか。彼が必要とするのは、単なる褒め言葉や賞賛では無いだろう。彼の考えに賛同しそれを大きく拡げて行く事にマスメディアが動く事なのだ。果たして彼は満足はして居ない。
 如何に日本のメディア媒体がお粗末なのかが露呈する訳だ。先進国中でビリなのも頷けるのだが、今回の投票率の減少の原因の多くはこの情けないメディアの責任が大きい。確かに選挙期間中は、不党不偏を貫く為に公平が求められるのだが、殆どの媒体が無視を続け、更に、今でも不確かな報道を続ける。

 吉本の闇営業の宮迫問題を主に取り上げ、選挙に関する報道を極力抑えてしまった。よって消費税の問題も取り上げず、問題を年金や憲法改正へとシフトしてしまった。或る意味、意図的なすり替えが行われた。まるで消費増税は多くの国民が納得している既成事実として無視し続けた。
 国民の関心や不安を意図的に無視し押し潰した訳だが、この様なメディアに果てして存在の意味があるのだろうか。私は殆どのテレビニュースに懐疑的な思いで見るしか無い。この見方は本当なのか、意図的な意思が入ってるのでは無かろうか・・・信じがたいのだ。
 


 



 3箇所の取水地から選べる 『日本の山水』




 





奇跡的に生還した「回天」搭乗員が語った「死にぞこない」の葛藤


 

 【管理人より】

 〜もう直ぐ終戦の日(8月15日)を迎え様とする。今夏も終戦の日をどの様な迎えるのか・・・色々な思惑が在る様だが、矢張り「戦争」に付いての思いを多くの人が語る事だろう。私達は戦争そのものを知ら無い世代、読み物や映画に数々のドラマを観てそれを想像するだけ。
 戦争を自分の身体で経験した多くの人が鬼籍と為り、その思いは果たして後世へと伝えられるのだろうか。時代が移り戦争を知ら無い人が、過去を学ば無い多くの人が果たして戦争の実態を知り「戦争」を拒絶出来るのか・・・その答えは不確実だ。
 安倍晋三氏の様に、過去を学ぼうとせず(知って居ても知らん振り)にイケイケドンドンで、軍拡に走り憲法を改正し「戦争の出来る普通の国」にしたいとする。本当はこの指導的年代が、「不戦の先頭」に立た無くては為らぬのに、実に不幸な事だ。それを私達国民が選択した事実は重い〜



 




 奇跡的に生還した「回天」搭乗員が語った 「死にぞこない」の葛藤


  
  〜現代ビジネス 7/28(日) 8:00配信〜



 大型魚雷を人間が操縦出来る様に改造した特殊兵器は「天を回らし不利な戦況を逆転する」ことを期して「回天」と名付けらた。一度出撃すれば、戦果の如何に関わらず生還する事は適わ無い究極の特攻兵器であった。


 〜この死が約束された特攻兵器の搭乗員として出撃しながら、奇跡的に生き残った若者が居た。戦況の悪化の中で「国の為に死ぬ事が全て」と考えて居た若者は、何を思って戦い、戦後、何を抱えて生きて来たのだろうか〜


 奇跡的に生還した「回天」搭乗員が語った「死にぞこない」の葛藤



 




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         回天一型 一人乗り 操縦可能な「目のある魚雷」である


 「回天」の発案者は現場の若手士官だった

 100名の少年兵の視線が一斉に注がれる中、カーテンの様に張られた土色の大きなシートが外されると、中から真黒い物体が姿を現した。それは、巨大な魚雷の姿をして居た。
 竹林(旧姓高橋)博さんは、子供の頃に「少年倶楽部」(大日本雄辯会講談社)で読んだ、1936年ベルリンオリンピック・水泳1500メートル自由形金メダルの寺田登選手の記事で、同選手の泳ぎを形容した「人間魚雷」と云う言葉を瞬時に連想した。

 昭和19(1944)年9月21日、徳山湾に浮かぶ大津島(山口県)での事である。飛行機に乗る事を夢見て海軍飛行予科練習生(予科練)を卒業したばかりの彼等に取って、海に潜る特攻兵器の搭乗員に為るとは想像もしなかった事だったが「今更後へ退けるか」と、竹林さんは覚悟を決めた。

 竹林さんは大正14(1925)年、札幌に生まれた。小学校卒業後、家庭の事情で親元を離れ、東京に出て魚河岸の問屋で働きながら夜学の昌平中学校に通う。朝4時に魚河岸に行き、そこからトラックやオートバイ、或はリヤカーで得意先に魚を納入、時間ギリギリに店に戻って、時には歩きながら路上で読書し、須田町にあった軍神廣瀬武夫中佐(日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死「軍神」とされた)の銅像を仰ぎ見ながらの通学だった。

 中学5年の昭和18(1943)年、海軍甲種飛行予科練習生を志願、同年12月1日、13期生として三重海軍航空隊に入隊した。既に当時、アッツ島玉砕、山本五十六聯合艦隊司令長官の戦死等が報じられ、戦況が不利に為って居る事は誰の目にも明らかだったが「合格は嬉しかったですよ。この戦争で、日本の為に死な無きゃいかんな、と云うのは私達の自然な感情でした」

 と、竹林さんは言う。予科練での生活は厳しかったが、小さい頃から他人の飯を食って育ったそれ迄の苦労を思えば、十分に耐えられるものだった。昭和19(1944)年3月に茨城県の土浦海軍航空隊に移り、猛訓練に耐えて予科練卒業を目前に控えた8月末、大格納庫に竹林さんら偵察要員の約1600名が集められ「必死必殺の特殊兵器」の搭乗員への志願者が募られた。

 「筆記用具の入った手箱を持って座り、司令の訓示を受けました。強制はされて居ません。一歩前へ、とか、手を挙げろ、と云うものでは無く、終わったら希望者は紙に〇を着け、希望しない者は白紙で出せと、それだけでした」

 竹林さんは、迷わず熱望の二重丸に「絶対」と書き加えて提出した。多くの志願者の中から、100名の特殊兵器要員が選ばれた。発表に為った後、選に漏れた練習生達が、どうして自分が選ばれ無いのかと教官に詰め寄る一幕もあった。だが、その時点で、肝心の「特殊兵器」がどう云うものであるかは誰も知ら無い。
 特殊兵器搭乗員に選ばれた竹林さん達100名は、9月1日、盛大な見送りを受けて土浦を出発、呉の潜水学校等でひと通りの教育を受けた後、9月21日、大津島の秘密基地に配属に為った。

 そこで初めて、基地指揮官・板倉光馬少佐より「お前達はこの兵器に乗って貰う」と、シートに隠されて居た特殊兵器「回天」を見せられたのだ。

 「オオっと目を瞠りましたが、直ぐに、ヨシ、これで行くんだと心を決めました。板倉少佐は『もし嫌だと云う者があったら遠慮無く申し出よ』と言いましたが、誰一人として嫌だと云う者はありませんでしたね」  

 回天は、日本海軍の誇る酸素魚雷(九三式魚雷。航跡が目立たず射程が長い)を、人間が操縦出来る様に改造し、頭部には1.5トンを超える炸薬を詰め込んだ「目のある魚雷」で、まさに「人間魚雷」と呼べる特攻兵器だった。


 




         7-28-2.jpg

       回天は潜水艦の甲板上に数基ずつ搭載されて目標付近まで運ばれる


 潜水艦の甲板上に数基ずつ搭載されて目標付近まで運ばれ、母艦である潜水艦から発進すれば、敵艦に命中してもしなくても搭乗員は確実に死ぬ。

 特筆すべきは、その開発は上層部の指示では無く、現場の若手士官の発案と嘆願によるもので、発案者自身が先頭に立つ覚悟が明確だった点、他の特攻兵器とは一線を画して居た。発案者の一人、黒木博司大尉は、昭和19年9月7日、徳山湾で訓練中に殉職して居る。

 大津島では「純粋培養」と呼ぶに相応しい外界から隔絶された環境で、顔に未だアドケナサを残した若者達が回天特攻隊員として、究極の「死」に向けての訓練に励んで居た。全員が同じ条件で死と向き合う、男同士の連帯意識からか、そこには「特攻基地」と云う言葉から受ける殺伐とした印象とは裏腹に、和気合い合いと蟠(わだかま)りの無い空気が流れていたと云う。

 攻撃に失敗すれば、自爆か自沈

 11月に為ると、回天部隊の出撃が始まる。回天のもう一人の発案者である仁科関夫中尉も、第一陣、菊水隊の一員として出撃した。残された隊員達は「羨望の眼差しをもってそれを見送った」と竹林さんは回想する。
 隊員達の士気の高さに対して、精密機械である回天の生産、整備が追い着かず、搭乗の順番はナカナカ回って来なかった。竹林さんが回天の搭乗訓練に入ったのは、昭和20(1945)年4月の事である。5月、多聞(たもん)隊が編成され、竹林さんはその中の勝山淳中尉以下6名から為る一隊に加えられた。



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                   多門隊


 「勝山隊の6名は、出撃まで3ヵ月間、士官も下士官も搭乗員室の同じ部屋で起居を共にしました。これは、同じ目的に向かってひた走る者同士の、心の触れ合いと同化を大切に考えた勝山中尉の方針を、上層部が認めて呉れたのでしょう。
 故あって母親からの手紙が来ない私に、勝山中尉がお母さんから来た手紙を読ませて呉れたり、出撃の悲壮感や緊迫感の中にあっても、互いに思い遣りのある生活でした。普通、軍隊で士官と下士官が同じ部屋で生活する事はあり得無いですから、こんな事は、陸軍でも海軍でも例を見なかったんじゃ無いでしょうか」

 回天の操縦訓練は、最初の一回は一人乗りの狭い回天操縦室に、教える側と教えられる側が向かい合って座っての同乗訓練から始まり、次いで一人で搭乗して、大津島や周囲にある島の周りを回ったり、湾内での方向転換、潜水艦からの発射訓練、そして味方駆逐艦を目標にしての模擬襲撃等、作戦に即した様々なことが行われた。

 通常の魚雷では、発射後の針路変更は出来無いが、回天では搭乗員が自分の目で特眼鏡(潜望鏡)を見て、計算をしながら操縦し突入する。事故を防ぐ為、訓練潜航中の回天には、必ず水上追躡(ついじょう)艇と水上機が随伴して居た。只、回天は無航跡なので、悪天候の時は上空から目視する事が出来ず、訓練は出来無かった。


 




 「特眼鏡以外は目隠しされて居る様な状態ですから、深度、速度、方向等、計算尺での自分の計算とカンだけが頼りです。操縦は出来ますが、飛行機の様に自在に動けるものではありませんでした。
 実際の敵艦襲撃の方法を例に挙げると、先ず、距離2000メートル位で敵艦を発見したら、特眼鏡を下ろして潜ったママ、為るべく敵艦から離れ無い様に15ノット(時速約28キロ)位で航走します。700メートル前後まで近付いたら特眼鏡を上げ、敵艦の速力・針路を判断して、自分で計算して決めた針路にセットして、全速の30ノット(時速約56キロ)で突入するんです。

 突撃中は特眼鏡は上げません。ストップウォッチを睨み乍ら、右手にある電気信管の把手(とって)を握って、敵艦にブツカッタ瞬間に弾頭の触発信管と合わせてスイッチが入り爆発する様に為って居ます。信管は、万が一の不発に備えて、二段構えに為ってるんです。
 もし予定時間が過ぎても命中し無ければ、艦底通過後、やり過ごして浮上し、又左右を確認して再度突っ込む。それでも駄目な場合・・・回天の航続力(30ノットで2万3千メートル)が尽きた場合には、自爆か自沈する事に為ります」


 潜水艦から爆発音が確認された回天の中には、こうした無念の自爆を遂げたものもあると見られる。母潜が近くに居る場合には、自爆すると巻き添えにする可能性があるのと、音で敵に位置を知らせてしまうので、黙ってハッチを開いて自沈する。

 「但し、自沈に備えて自決用の青酸カリ等は渡されて居ませんでした。出撃の時貰った短刀も、愛する回天の中で腹を切ったりして、無様な恰好で死にたく無いと思い、私は持って行きませんでした」


 




 発進命令後、艇内に有毒ガスが充満し・・・ 

 6月に入って、勝山隊6名の搭乗員に、思いがけ無い6日間の出撃休暇が与えられた。敵機の空襲で津軽海峡が危険な為、北海道へ帰る事は許可されず、竹林さんは東京の親戚方に帰省した。


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             回天特別攻撃隊 勝山淳氏


 7月14日、多聞隊にイヨイヨ出撃命令が下る。勝山隊6名が搭乗する回天6基は、伊号第五十三潜水艦(伊五十三潜)に搭載され、出陣式の後基地の隊員総員の見送りを受け出撃した。搭乗員は各自の回天の上に立ち「七生報國」と墨書された鉢巻を締めて、二度と日本の土を踏むことは無いのだと云う悲壮感と、敵艦撃沈の使命感が激しく交錯する思いで、力の限りに両手を振ってこれに応えた。

 「ヨシ、イヨイヨ出番だ、今度は俺が行くぞ、任せとけ、と云う気持ちが強かったですね……」

 戦争が約1ヵ月後に終わるとは、この時は誰も予想して居なかったのだ。敵艦を攻撃する予定地点は、沖縄とフィリピン・レイテ島を結ぶ線上である。伊五十三潜は、日中は潜航し日没を待って浮上する事を繰り返しながら、予定戦場に向かった。
 密閉された潜水艦内に居ると、昼と夜との区別は着か無い。竹林さん達回天搭乗員の居室は、魚雷発射管室に臨時に設けられた寝台だった。酸素の節約の為、用の無い時は寝て居る事に為って居るが、高温高湿の艦内では、ジッとして居ても汗が噴き出して来る。風呂もシャワーも無い。何時敵艦と出会うか判ら無い戦闘航海が続く。

 7月24日午後、伊五十三潜はバシー海峡東方海面で敵輸送船団を発見した。艦長・大場佐一少佐より「回天戦用意」が発令される。勝山中尉は一号艇に、後の5名の搭乗員も艦内から交通筒を通って夫々の回天に搭乗した。搭乗員は、半袖の防暑服に飛行靴(半長靴)に鉢巻と云う出で立ちである。
 搭乗員達が回天に乗り込むと、後のプロ野球盗塁王・阪急ブレーブス福本豊選手の父・福本豊治兵曹が、交通筒のハッチを艦内から閉めた。回天本体のハッチは、搭乗員が自分で開けて乗艇したら内部から閉める。両方のハッチが閉まると、交通筒のエアーを抜いて海水を入れ、回天は何時でも発進出来る状態に為る。

 「私は四号艇に搭乗しました。回天の操縦室は、直径1メートル長さ1.5メートル程の空間に、操縦装置が所狭しと配置されて居て、座ると足も伸ばせ無い狭さです。私の四号艇は、母潜の後甲板、一号艇の真後ろに固縛されて居ました。
 特眼鏡を覗くと、海面からの明かりで一号艇が目の前に見えました。『一号艇発進』艦長の指示がレシーバーを通じて聞こえて来ます。『一号艇発進用意よし』勝山中尉の声が聞こえた瞬間、一号艇のスクリューが回り、エンジンの排気で私の特眼鏡の視界が一瞬、真白に為った。後には、主なき架台と交通筒が残るのみでした」

 
 艦長の判断で、この時の発進は勝山艇だけで中止と為り「用具収め」の命令で、交通筒にエアーが充填され、竹林さん達は再び艦内に戻った。そして程無く、ゴーンと、胸の底を刺す様な爆発音が響いて来た。勝山中尉は米駆逐艦「アンダーヒル」に命中、それを瞬時に沈没させたのだ。
 「アンダーヒル」の艦体は真二つに割れ、艦長以下112名の乗組員が戦死した。回天は通算して、少なくとも敵艦船3隻を撃沈、4隻を損傷させた事が判明して居るが、結果としてこれが命中した搭乗員が特定出来る唯一の戦果と為った。

 伊五十三潜は尚も作戦行動を続行し、7月29日には、川尻勉一飛曹の二号艇が米輸送船に向け発進して居る。8月3日午後、潜航中の伊五十三潜は突然、数隻の敵駆逐艦と遭遇、激しい爆雷攻撃を受けた。頭上を航走する敵艦のスクリュー音が生で聞こえる。至近弾の炸裂、鋭い衝撃、艦内の電灯が消える。執拗な攻撃。
 回天搭乗員・関豊興少尉が「このママでは潜水艦諸共遣られてしまいます。頭上の敵艦と刺し違えますから、回天を出して下さい」と、艦長に詰め寄った。
 日付が変わって8月4日、爆雷攻撃は激しさを増す。遂に「回天戦用意」の命令が九だった。残る4名の回天搭乗員は夫々の回天に乗艇した。

 「その時の感覚と云うのは、生死の極限状況を体験した者で無いと判ら無い。絶対の岐路に立った気持ちは、言葉で言い表す事は出来ません。どんな哲学者でも心理学者でも、正解は出せ無いんじゃないでしょうか」

 発進命令。深度40メートル、訓練でも経験の無い深さである。関少尉、荒川正弘一飛曹の回天が発進。しかしそこで残る二基の回天に不測の事態が起こった。坂本雅俊一飛曹艇は故障で発進不能、竹林さんの艇は、爆雷の衝撃で、エンジン起動時に起動弁に注入する四塩化炭素の瓶に亀裂が入り有毒ガスが艇内に充満、竹林さんは人事不省に陥った。

 ・・・関、荒川艇の発進が功を奏して、間も無く敵艦の攻撃は止んだ。伊五十三潜の艦内に引き下ろされた竹林さんが意識を取り戻した時、大場艦長が「お前には手古摺ったぞ。泣きながら、出して呉れと叫ぶんだからな」と優しく声を掛けた。その間の記憶は竹林さんには無い。


 




 それから僅か11日後の8月15日、竹林さんは、呉軍港に帰投した伊五十三潜の甲板上で、終戦を告げる天皇の玉音放送を聞いた。それ迄考えもしなかった敗戦と云う現実。衝撃に頭の中が真白に為った。遂先日、突入した仲間達の事が脳裏を過(よ)ぎる。「生き残ってしまった」・・・まさに身の置き処の無い思いがした。
 
 「死ぬべくして不幸にも死ね無かった」

 戦後、生まれ故郷の北海道に帰った竹林さんは、30年に渉り炭鉱に勤務、無我夢中で働いた。職員組合の幹部に就任、労働運動の先鋒に立った事もあれば、会社の労務部長として組合側と対峙した事もある。炭鉱が閉鉱し、残務整理を終えた後は職業訓練校の事務長や町内会長等を務めた。

 「炭鉱での過酷な勤務を初め、社会人としての種々の職業体験を通じて私を支えて呉れたのは、回天での経験で培われた精神でした。私はね、奇跡の生還者では無く、死ぬべくして不幸にも死ね無かった、死にぞこ無いなんです。戦後もその事を考えると悶々とした日々を送りましたし、自分が生きて居る事には、今もって戸惑いを覚えて居ます。けれども生かされて今日ある事を思えば、その事実を語る使命と重責を感じます。
 戦争の再現は望ま無い、美化する積りも無い。増してや特攻の生き残りだからと言って、命を粗末に考えて居る訳では決して無い。しかし、アノ時代、自らの死が日本を救うと信じて戦った若者達が居た事は、正しく歴史に刻み込んで欲しいと願って居ます」


 でも……と、竹林さんは続ける。「戦後、男の子を二人もうけて、親と為った立場で回天を考えたら、腸(はらわた)を搔き毟られる思いがしますね・・・残された親御さんの思いは如何(いか)ばかりであったかと、胸が痛みます」

 戦争は「死ぬ事に疑問を抱か無かった」と云う純真な若者達を死地に投じ、戦没者の数だけ悲嘆に暮れる遺族を生んだ。竹林さんの回天が無事に発進して居れば、竹林さんのその後の人生は無く、子供達も生まれて来なかった。
 もし、伊五十三潜が爆雷攻撃で撃沈され、乗組員だった福本兵曹が戦死して居れば、後の「盗塁王」がこの世に生を受ける事も無かった。運命はまさに紙一重。戦争により失われた命と、無限の未来。残された遺族の思い、そして自らを「死にぞこない」と呼ばざるを得無い生還者達の心の葛藤・・・

 大津島で、竹林さんが回天搭乗員に為って75年。彼等の内、生き残った者も全員が90歳を超え、体験を正確に伝承する事も困難に為りつつある。近年では〈私はどんな敵だって怖くはありませんが、矢張り母さんの涙が一番怖いんです〉と云う、後年創作された「遺書」が「18歳の回天特攻隊員の遺書」として流布され一人歩きをして居る。
 だが、戦争に対する反省も特攻作戦に対する批判も、戦いに斃れた若者達への追悼も全ては「事実」の上にのみ成り立ち得る。ファクト無きお涙頂戴的な「作り話」で得られた感動は、幾多の先人達の命と引き換えに得た平和の意味をも空しくするものだろう。先ずは生還者の声にこそ虚心に耳を傾けたい。



    神立 尚紀  以上


 





  【管理人のひとこと】

 旧日本海軍の特殊潜航艇・特攻兵器には幾種類のものがある。主なものは、

 1海龍・2甲標的・3蛟龍・4回天 (人間魚雷)・5特型運貨筒・6震洋・・・等だ。何れも、戦争半ばに日本の連合艦隊は壊滅的敗戦を続け、実質的には戦艦・空母での攻撃は不可能に為った・・・実質的な海軍の崩壊である。そこで出て来たのが「特攻」だ。自分の命を捨てて敵艦に一撃を加える・・・それしか手が無かった。
 戦闘機の自爆攻撃に始まり、潜水艇に爆弾を積んで突っ込む・・・又は、べニア製の小型ボートに爆弾を積み暗夜に敵艦へ突っ込む。戦艦・空母の建造は無理に為り、この様な小型で殺傷力の強い兵器が次々と考案された。

 何れも1.2度の成功を見たけれど、敵の防御も固く非効率・非能率的な戦闘行為であったが、他に方法は無かった。多くの若年の若者が、訓練中や移動中にも犠牲に為り、運好く戦地に辿り付けられても、条件が悪く攻撃中止に為ったり、出撃しても自爆して終わる事も多かった。一億総特攻!とメディアは煽り戦果を過大に報じたが、大きな戦果は挙げられ無かったのが実相だ。
 この体験記を読む通り、作戦に関わった多くの少年・青年は、何の疑いも持たず「祖国の民の為」にと必死に行動するのみ。当時は「国の為に死ぬ」のが男としての最高の生きる道だと教えられて居たしそう信じて居た。

 戦争を起こし「戦え」と命ずる為政者と、それに応え犠牲と為る青少年の対比は、何と悲劇的なものなのか・・・これが国民を大きく二分する戦争の罪悪の一つでもある・・・



 



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