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2019年05月28日

日本初のアフリカ人学長の挑戦と理念


 

 





 【ネットニュースより】



 日本初のアフリカ人学長の挑戦と理念



「グローバル」と「ダイバーシティ」掲げて奔走


 5/28(火) 7:30 配信より引用します



       5-29-1.png

               ウスビ・サコ学長


 京都精華大学のウスビ・サコ学長は式辞で、生まれ育った西アフリカのマリ共和国の文化や言葉を織り込む。それも、必ずである。

 小雨模様だった今年3月の卒業式は「マリは乾燥地帯で、雨の日が一番お目出度い。だから本日は、マリ的には非常に天気が好いのです」と云う挨拶から始まった。4月の入学式では、母語のバンバラ語で「皆さん、故郷の家を出て、新しい家へようこそ」と語り掛けた。
 世界の広さを感じ想像して欲しいからだと云う。2018年4月の就任から1年余り「日本で初のアフリカ出身学長」と話題に為ったサコ氏は「グローバル」と「ダイバーシティ」を掲げて奔走して居る。

   (文・松本創、写真・浜田智則/Yahoo!ニュース 特集編集部)


 




       5-29-2.jpg

                京都精華大学 



 アフリカ・中南米・南アジア・・・「留学生を4割に」


 「スイマセン遅く為って。昨日中に京都へ戻る積りが、帰れ無く為って」
 朝からの取材と撮影を依頼していた日、東京出張から直接大学に戻って来たサコ氏は、30分程遅れてタクシーで到着した。今、53歳。前の日は、ナイジェリアとジャマイカの在日大使館を訪ね、交換留学や大学間連携の話をして来たと云う。
 「セネガル大使館にも行きたかったけど、上手く予定が合わへんかったから、又今度やナ」

 マンガ学部を持つ事で知られる京都精華大の留学生は、大半が中国や韓国・台湾等の東アジア出身者だ(留学生が3割強を占める)。日本のマンガやアニメーションを学ぶ事が目的だと云う。建築や住空間を専門とするサコ氏が学長に為ってからは、それを新たな国や分野に広げ様とし、アフリカや南アジア・中南米と云ったエリアも視野に入って来た。

 サコ学長の誕生と同時に学校法人の理事長に為った石田涼氏(57)はこう言う。

 「様々な国から提携や交流の話が来るのは、間違い無くサコさんの存在が大きい。只、ここまで海外の注目を集めるとは私達も思っていませんでした。話題性やグローバル化を狙って出身国や肌の色の異なる人を選んだのでは無く、飽く迄大学と云う共同体の一員として、学長に相応しい人を選挙で選んだだけなので」


 




 サコ氏は、京都精華大に着任して18年に為る。自身は「この大学で、自分が外国人だと意識したことは無いし、外国人だから学長に選ばれたとも思っていない」と繰り返し語って来た。
 学生の指導や自分の研究だけで無く、大学の校務や対外折衝から様々な雑用まで日本人と全く同じ様に熟(こな)して来たと云う自負もある。石田氏も「言葉や文化の違いから校務に消極的な外国人教員も居る中で、サコさんはそう感じさせる処が無かった」と言う。
 現在、京都精華大の留学生の割合は10%台。これを「4割にまで高めたい」とサコ氏は学長に為った時から語って居る。この春入学した学部生・大学院生は964人で、この内外国人留学生は322人で33%を占めた。


       5-29-3.jpg

       話し始めれば熱っポク、時間を超過することもシバシバ


 その新入生達を前にした入学式で、サコ氏はグローバル化する世界とダイバーシティの必要性を熱っポク語った。

 「グローバル化はテクノロジーの進歩と深く関わります。それによって国や地域を超え、互いが互いの現実についてリアルタイムで話し合えるチャンスが与えられる。世界の若者達が地球の未来を一緒に考えて行くプラットフォームが多様に出来ており、世界を変革する希望も生まれました。この希望を現実にする為には、他者との違いを認識し、尊重する姿勢を学び、自分の価値観を形成する事が求められて居ます」


 




 マリ共和国出身の学長が、日本の古都の小さな芸術系大学を世界へ開こうとして居るのだ。マリ共和国から中国そして日本へ。サコ氏の人生は変化に富んでいる。

 1966年にマリの首都のバマコで生まれた。苦学して税関職員に為った父親は厳しく、長男のサコ氏はスパルタ式で育てられた。中学教師だった遠方の親戚宅に小学4年生から預けられ、水道も電気も無い家で暮らしたと云う。炎天下、片道5キロの通学路を歩く。夜はベルトで鞭打たれながら勉強した。「甘えるな」が父の方針だった。 
 成績優秀で数学が得意だったサコ氏は、高校卒業時に国費留学生に選ばれた。本人は旧宗主国のフランス行きを望んだものの行き先はマリ共和国政府が決める。命じられた留学先は改革開放から間も無い中国だった。北京で1年間中国語を学んだ後、南京工学院(現在の東南大学)に入り建築を専攻した。この間、留学生排斥運動にも遭遇したと云う。

 1990年、夏休みの旅行で初めて日本に来た。アフリカ人3人による気ままな旅。長逗留(とうりゅう)した先は、中国で知り合った日本人留学生の実家で、東京の下町の商店街に在った。そこで日本人の印象が変わったと云う。

 「中国で接していた日本人留学生と云えば、レトルトカレーとインスタントのスープばかり食べ、何をするにも効率とお金の話をする。『ロボットみたいな人達』と思って居た。だけど、その家の人達は、温かくて凄く人間臭い普段の生活が見えた。お父さんは下着姿で家の中をウロウロしてるし、商店街の人達も連日の様に歓迎会を開いて呉れる。居心地が好くて2週間位居座ったよ」/span>

 実は、サコ氏らの滞在が長引くに連れ、その家の人達は「何時まで居る積りなんだろうか」と困って居たらしい。だが、ハッキリ言わ無いから伝わら無い。一方のサコ氏等には、特段の予定が無く急いで中国へ戻る理由も無い。「負担を掛けて申し訳無い」と云う感覚も当時は無かった。日本の常識を知った今から思えば「とてもマリ的だった」とサコ氏は笑う。
 「結局、その家の人から『京都で祇園祭と云うのが開かれる。是非見に行った方が好い』と強く勧められ、最後は新幹線の切符まで渡された。別に行きたく無かったんやけど、そこまで言うならシャアナイなと」

 処が、その約1年後、サコ氏は京都に舞い戻ることに為る。中国留学を終えれば、母国で国家公務員に為る予定だったのに、国の経済情勢が悪化し、帰国しても直ぐに公務員に為れる見込みが立た無く為ったからだ。それなら再留学を・・・そして関西を目指した。


 




 「日本へ来たのは好いけど、日本語も出来ず大学院へ入る当ても無い。滞在費は3カ月分だけ。大阪の日本語学校に入り、英会話スクールでアルバイトしながら兎に角必死で勉強した。少し話せる様に為ったら大学院を探した。幾つかの大学に電話して教授に会いに行き、自分の研究テーマを話して・・・それで京大の大学院に入れる事に為った」
 日本で経験した異文化ゆえの苦労やスレ違いを、今では笑い話として話せる。だが当初は違った。言葉の問題だけでは無い。貧しいアフリカの国の出身であること・黒人であること・イスラム教徒であること・・・日本で暮らした28年間、偏見や無理解から来る差別や衝突はシャワーの様に数限り無く経験した。

 サコ氏には「日本のお父さん」と呼ぶ人が居る。京都・西陣で織物会社を経営する小野内悦二郎氏(81)所属する京都北ロータリークラブがサコ氏の京都大学大学院時代の奨学金の窓口に為って居た。小野内氏は海外出張が多く外国人との接点も多かった為、サコ氏のカウンセラー役を任されて居た。小野内氏は、京都に来た頃のサコ氏を好く覚えている。

 「今よりズッと痩せてヒョロリとして、自信が無さそうに見えました。月1回の(ロータリークラブの)例会にサコ君も出席するんですが誰も近寄ろうとしない。彼が話し掛けても、会員は『英語は分からんから』と逃げるんです。サコ君は『僕は日本語で話しているのにナア』と言うてました。彼が自信無さそうに見えたのは結局、日本人の側が上手く交われ無い事の裏返しやったんでしょう」


 




 サコ氏はその後、日本人女性と結婚し2人の息子を育てた。そうした中でも壁や悩みがあった、と小野内氏は振り返る。しかし、サコ氏は自らの来歴や経験して来た壁を決して深刻に語ら無い。関西弁で飄々と笑いに包む。学長室での取材では、例えばこんな風だった。

 「いちいち気にしてたら、もう、遣ってられへんことばっかりですよ。だけど、それ等を差別だと僕は思って無い。只単に、相手を知ら無い理解が足り無いから起こるだけのこと。マイノリティーが被害者意識を募らせて怒りの声を上げても、ナカナカ受け入れて貰えない。マジョリティーの側もビビッてしまうからね。大事なのは双方が歩み寄ること。ジャあ、そう云う関係を作って行くにはどうしたら好いかを考えた方が好いでしょう?」


 




 「違いと共に成長する」の真意とは

 京都精華大は、サコ氏の学長就任と同時に「ダイバーシティ推進宣言2018」を発表した。「違いと共に成長する」と云うその理念に、サコ氏の発想が好く表れている。

 「年齢・人種・性別・身体的特徴・性表現等表面的に認識され易いもの」から「国籍・宗教・家庭環境・出自・働き方・性自認・性的指向等表面からは認識され難いもの」迄を対象とし、それ等を理由とした差別や排除が起き無い様にするには、どうすれば好いのか。その取り組みの方向性を具体的に示した内容だ。
 教員の中で女性や外国人の比率を上げる為、同等の能力であれば他の候補者より優先して採用する事が明文化された。同性パートナーの居る教職員にも、男女の夫婦と同等に就業規則が適用される様に為った。異なる文化や価値観を理解する為の学内イベントも継続的に開かれている。サコ氏自身がマリ共和国のカレーを振る舞い、祖国の生活や文化を紹介した事もある。


 




 京都精華大学は1968年の開学時から「自由自治」「人格的平等」を掲げ、民主的な大学運営を徹底して追求して来た歴史がある。5学部・4研究科の専任教職員が全員出席する「教職員合同会議」が3カ月に1回。学長・理事選挙の選挙権・被選挙権も、全ての専任教職員に与えられて居る。過つては、学長から食堂職員や用務員迄一律の給与体系だった時代もある。
 そうした流れに沿う形で「違いと共に成長する」は登場した。ダイバーシティ推進センター長を務めた矢澤愛さんは、サコ氏と共に理念の実現に向けて走り回って来た。

 「(サコ氏からは)上下関係を感じることが無いし、どんなに意見や立場が違う人でも、取り敢えず話を聞こうとしますよね。それと、怒ら無い。理不尽で辛い自身の体験も一旦笑いに昇華させて話します。凄いなあ、と」

 矢澤さんはシングルマザーで「働き方と云う意味ではマイノリティーです」と言う。フランクな語り口は初対面の人にも緊張感を抱かせ無い。矢澤さんが続けた。

 「理不尽に直面すると、どうしても怒って相手を責めてしまう事があったんです。でも、それだと相手が引いて逆に伝わら無いんですね。サコさんは『楽しく遣って、周りを巻き込んで行こう』と云う遣り方。国籍や肌の色だけじゃ無く、〈違い〉の生じる切り口は無数にあって、誰もがマイノリティーに為り不自由を感じる可能性があるんだと思います」


 




 民主主義が進めば多様性を損なう?

 1年余り前の取材で、サコ氏は次の様な事を語って居た。学内選挙によって就任が決まった直後である。

 「精華大は、民主主義と平等主義が徹底して居るから僕は学長に選ばれた。だけど、民主主義が徹底していると云う事は、多様性が進んでいないと云う事でもある」

 民主主義が進めば多様性も進む・・・普通はそう考えそうだ。サコ氏の発想は逆である。この4月、どういう意味なのかを再び尋ねてみた。

 「皆が同等の権利を持ち平等に扱われると云う事は、全員が差異の無い平準で無個性な数の一人に為ってしまう恐れがあると云う事。僕が好く話す〈しょうが焼き弁当〉の話の様に、個々の宗教的背景や健康状態や好みも全部無い事にして『平等なんだから全員一緒で好いだろ』と為ってしまう。民主主義と多様性って、両方実現しようとするのはナカナカ難しいと云う事です」

 〈しょうが焼き弁当〉の話とは、サコ氏の経験談だ。お昼時に行われた大学の会議で「全員、同じ弁当で好いね?」と豚肉のしょうが焼き弁当が用意された事がある。サコ氏はイスラム教徒であり、豚肉を口に出来ず全部捨てたと云う。 
 市場原理主義に基づく「グローバル化」は、一方で世界中の人々の個性と多様化を押し殺して居るのでは無いか・・・そうした考えが、サコ氏にはある。昨年10月には、アフリカ初のノーベル文学賞受賞者と為ったナイジェリアの詩人、ウォーレ・ショインカ氏が京都精華大を訪れ、サコ氏との対談で同じ様な考えを披露した。

 「今日、世界の一極化が進むことによって、人間の価値を認め無い風潮がもたらされている」「グローバル化によって、マクロでは均質化と一極化が進み、ミクロでは分裂と対立の時代に入った」と。


 




 グローバル化の負の側面に対し、サコ氏はここ数年、警告を発し続けて居る


 今年の入学式でサコ氏は、ショインカ氏の言葉を引用し、その一例として祖国で起きた事件を挙げた。

 「私の出身国であるマリ共和国でも、遂先月、民族間の対立により村が焼き打ちされ、150人以上が殺害される事態が起きました。殺し合いが在った民族同士は長年共存し互いの価値観を尊重して着た筈です」

 グローバル化は、因襲的な束縛から個を解放する一方で、地域や民族の対立を顕在化させ、経済や教育の格差を広げ、人々に不安や分断をもたらしている・・・学長に為る前からサコ氏は、様々な処でそう警告を発して来た。だからこそ今、ダイバーシティ、詰まり多様な価値観を共存させる努力が必要なのだと。

 「先ずはお互いの違いを認める。皆同じでは無い事を知る。そして、個々の存在が自立出来る様にする。小さな大学からでも、そこから始めて行くしか無いんじゃないかナア」

 入学式で配布された冊子。47人の教職員からのメッセージと谷川俊太郎の詩が贈られた。



 松本創(まつもと・はじむ)ノンフィクションライター。新聞記者を経てフリーに。関西を中心に人物ルポやインタビュー、コラムを執筆。著書に『ふたつの震災 [1・17]の神戸から[3・11]の東北へ』(西岡研介氏との共著)『誰が「橋下徹」をつくったか 大阪都構想とメディアの迷走』『軌道 福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い』など。

 この記事へのご感想やご意見、又は「Yahoo!ニュース 特集」で今後取り上げて欲しいテーマをお寄せ下さい。

                    以上




 【管理人のひとこと】


 市場原理主義に基づくグローバル化は、一方で世界中の人々の個性と多様化を押し殺して居る
 今日、世界の一極化が進むことによって、人間の価値を認め無い風潮がもたらされている
 グローバル化によって、マクロでは均質化と一極化が進み、ミクロでは分裂と対立の時代に入った

 以上、ウスビ・サコ学長の指摘する処は、全てが現在の世界に当て嵌まり、悪いことに我が国では、その一番の短所が全て網羅(もうら)されてる様だ。グローバル化の影に為る部分が集約され、一挙に噴き出したかの様な有様を迎えて居ると言っても過言では無い。それは全てが政治の失敗であり、その政治を許し作り出した私達やメディア全てが負わ無くては為らぬ重い十字架だ。
 何時までもこの様な事を続けては、この国は疲弊(ひへい)し尽くし再起の元気も喪失してしまう。今が、子孫に残すべく日本の国を作り直すラストチャンスかも知れない。



 






「実態を知らぬ〈嫌韓〉の罪深さ」




 




  「実態を知らぬ〈嫌韓〉の罪深さ」

 
  新大久保駅転落事故から18年


  勇気ある韓国人留学生が未来に託した 「日韓の架け橋」




  AbemaTIMES 5/27(月) 10:03配信 より引用します



         5-28-1.jpg

                辛潤賛さん

 
 先週金曜日、JR新大久保駅に1人の韓国人女性の姿があった。辛潤賛さん(68)は今から18年前、この駅で大切な長男を失った母親である。毎年の命日には、事故現場と為ったこの駅を欠かすこと無く訪れて居ると云う。
 2001年1月26日、JR山手線・新大久保駅で線路に落ちた人を助け様とした二人の男性が犠牲に為った。その内の一人である李秀賢(イ スヒョン)さんは当時、日本語学校に通って居た韓国からの留学生で当時26歳だった。


 




 事故現場と為ったホームに立ち、悲しみの余り今にも崩れそうな身体を懸命に維持しながら「何時もここに息子が居る様な感じがします」と涙ながらに話す辛さん。18年前の1月26日、一体何が起こったのか・・・


 




 東京・新宿の或る日、この日に行われて居たのは、3月に亡く為ったイ スヒョンさんの父であるイ ソンデさんを偲ぶ会。ソンデさんは息子の死後、日本と韓国の学生を繋ぐ奨学金制度を設立。この日は外交官等の関係者を含む80人を超える人が献花に訪れて居た。


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           26歳で亡く為った息子の李秀賢(スヒョン)さんを偲ぶ慰霊碑の前で 


 スヒョンさんは、高麗大学に在学中の25歳の時に日韓の貿易関係に興味を持って来日した。スヒョンさんが通って居た赤門会日本語学校の新井時賛理事長は当時のことを、

 「自分は必ず『日韓の架け橋』に為るんだと話していた。明朗活発で非常に運動も好き。音楽も好き、勉強も好きの稀にみる好青年。絵に描いた様な学生だった」

 と振り返る。自らの命を顧みず勇気ある行動を起こしたスヒョンさん。その行動を称えられる一方で、母親が大切な息子を異国の地で亡くした悲しみは想像を絶する。
 又、この日は両親の活動を追ったドキュメンタリー映画「かけはし」が上映された。その映画では、来日した韓国の学生と日本の学生が、交流を深めながら歴史認識の違いを知り成長して行く姿が描かれている。
 来場者した中高年の女性等が「凄く色々と考えさせられる」「今まで過ごした時間の中で今日が一番、有意義な時間の過ごし方だった」と映画の感想を述べれば、若い夫婦は「子供が立派に育つ様な親でいなくてはいけ無いと感じた」と話した。


 




 現実を受け入れられず、霊安室で眠る息子の携帯に電話を掛けた 


 近年、その関係が悪化の一途を辿る日韓関係。こう云った状況の中、スヒョンさんの母親はどの様な思いを抱いて18年間を過ごして来たのだろうか。18年前の事故当日、第一報を聞いた時の気持ち等も含めて話を伺った。

 「連絡があったのは夜1時過ぎでした。大怪我をしたと云う事だけ聞いたので、足が不便に為るのか? 腕は不便に為るのか? 等ケガの事ばかり考えて居た」

 そう話した辛さんの思いは来日直後に一変する。成田空港に降り立ったご両親を待ち受けて居た報道陣の余りの多さに「只事では無い」と云う事を悟った。しかしこの時点では、息子の死を知ら無かったと云う。その後、警察署の霊安室でスヒョンさんの遺体と対面することに為る。
 「これはうちの息子では無い」
 現実を受け入れる事が出来なかった辛さんは、その場でスヒョンさんの携帯電話を鳴らした。しかし、スヒョンさんの死と云う辛い現実は揺るが無かった。スヒョンさんの夢は、事故の翌年に開催されるサッカーの日韓W杯で通訳をする事だった。その夢は叶う事は無かった。この事故を経て、日本を恨んだことは無いのか? その問いに対しては次の様に答えた。

 「生前、スヒョンが日本が韓国より技術的な面で可なり発展して居ると言って居た。だから私も駅の機械は優れて居ると思って居た。スヒョンもそれを信じて行動を起こしたのだろう。事故後に実際に駅に行ってみたらホームドアやストップ装置も無くて、その時は凄く恨みました」 


        5-28-3.jpg

            赤門会日本語学校の新井時賛理事長


 「日本と韓国の架け橋に」亡き息子の遺志は未来の学生に託された


 しかし、辛さんの思いは或る出来事を機に変化したと云う。

 「葬式が行われたその日は凄く大雪だった。でも事故を通じてスヒョンの事を知って呉れた多くの方々が、手紙を書いて参列して呉れた。頂いた手紙を1枚1枚読んで居る内に気持ちが切り替えられる様に為りました」


 




 翌2002年には、全国から寄せられる支援金を元手に、アジア人の留学希望者を支援するLSHアジア奨学会を設立。「日本と韓国の架け橋に為りたい」と云う息子の遺志を継ぎその活動は続けられて居る。
 その理由に付いて辛さんは「息子は夢を叶える事が出来なかったが、同じ夢を見る留学生も沢山居る。スヒョンの強い遺志が多くの人を動かしたんだなと感じて居ます」/span>と語って呉れた。果たしてこの18年間は、そんな辛さんに取ってどの様な年月だったのか・・・辛さんは「息子は無くしてしまったけど遺志を受け継いだ18年間だった」と穏やかな笑顔で答えて呉れた。


 




           5-28-4.jpg

               三谷紬(つむぎ)アナウンサー


 実際に話を聞いたテレビ朝日の三谷紬アナウンサーは、

 「事故が起きた2001年は小学一年にも為って居らず、事故の事は殆ど知ら無かった。事故が起こって、息子さんが亡く為ってから失意に落ちるのでは無く、その後を見据えて、これからの留学生の事を支援しようとしたお母様やお父様の活動に心を打たれました。自分自身、何か嫌な事があったらそこで落ち込むのでは無く、次の事を確り考えた人生を送りたい」

 と静かに語った。この事件を受け、今日に至る迄日本では様々な変化があった。外国人留学生は2001年の約7万8000人から2018年では約29万8000人に増加。更にスヒョンさんの様な悲惨な事故を未然に防ぐ為の駅ホームドアの設置や緊急停止ボタンの設置に防犯カメラの増加等、事故の教訓は着実に生かされて居る。


 実態を知らずに〈嫌韓〉に走る「罪深さ」


 こう云った民間レベルで進む交流を受け、今後の日韓関係について意見を求められた国際政治学者の舛添要一氏は、

 「矢張り政治が問題。文大統領も安倍首相も確り政治の判断をすべきだし、政治判断をフォローするメディアも同じことだ。
 今だから話しますけど、3年前に失脚した大きな要因の一つは『日韓関係を良くしよう』とした事。当時の朴大統領に会いに行った矢先に批判が増えた。政府が日韓関係改善に取り組ま無かったから関係は物凄く悪かった。責めて地方の政府から改善を図るべきと考えた。
 東京とソウルは姉妹都市に当たる。しかし、(東京は)ヘイトスピーチが物凄かった。日韓の歴史認識において間違って居る点は間違って居ると申し上げるが、それ以上に〈政治の意思〉が確りし無ければ為ら無い。要約朴さんと安倍首相が話せる様に為ったら政権交代・・・非常に悲しいですね」



 


 

       5-28-5.jpg


 と持論を展開した。ネット問題に詳しい文筆家の古谷経衡氏は舛添氏の話を受けて、

 「スヒョンさんの事故の翌年のW杯辺りからネット右翼(ネトウヨ)と呼ばれる人達が出て来た。
 2003年から2006年に至る迄、それ等の人々はこの事故に付いて『事故自体がねつ造だ』と言って居た。韓国民団(大韓国民団)や日本メディアが韓国を美化する為にワザワザねつ造したとも。舛添さんが叩かれて居た時に、何の根拠も無い『舛添は在日コリアンだ』と云う噂も流された。
 ネット右翼の台頭に伴い、韓国人と実際に、又は通訳を介して話した事も無い人達が『韓国は滅亡する』『韓国人は嘘つきだ』『韓国人は盗人、詐欺師だ』と言い続けて来た。後に逮捕された或る人物に関しては、韓国に行ったことすら無かった。これが実態だ。韓国では反日本など売っていない、日本だけだ。この状況をどの様に考えるか」


 と語気を強めた。続いて大阪で生まれ育ったと云うタレントの時人は、

 「周りに海外の人が多く〈何が嫌なのか〉は分から無いが、シンプルに軽蔑したり差別したりと云う事があった。理由も判らずに『嫌韓』で居る人が多いと思う。僕もそうだが、こう云った事を知る事が出来れば、実態を分から無いまま差別して居る人が減る筈だ」


 




 と話した。最後に三谷アナは

 「日本で韓国がブームに為ったり、多くの韓国人が日本を訪れて居る。民間同士の交流は増えて居て嬉しい。一方で政治が可なり緊迫して居る状況だが、我々は政治に付いて何も言う事は出来無いのでモドカシイ」 

 と云う辛さんの言葉を代弁した。なを、映画「かけはし」は5月31日に大分で、6月25日の韓国での初上映を経て、7月7日に大阪、8月30日〜31日は沖縄で上映される予定だ。


                  以上



 





 【管理人のひとこと】


 管理人(私)が、駅のホームから線路に落ちた人を目撃したら一体どの様な反応をするだろう・・・と考えてみた。先ずは近くに駆け寄りその場を確認する「何が在ったのだ?」と。そして「落ちてしまい動け無い」状況なら大声を張り上げ廻りを見廻し駅員を探す。同時に「非常ベルを探して押して呉れ!」と叫び続ける・・・
 咄嗟にその様な行動が出来るか確信は無いが、その時間帯の電車の本数にもよるが、自ら線路に降りて助け出すまでの行動が出来るかどうかの自信は無い。

 スヒョンさんは恐らく「危ない!」と判断し、咄嗟に後先も考えずに線路に飛び降り救助に臨(のぞ)み、不幸にも電車に撥ねられてしまった。その時、彼は自らの危険は一切頭に浮かば無かったのだ。そんな事考えたら行動出来るものでは無い。危ない助ける、それしか無かった行動だ。何とも勇気ある行動だろう、私にはとても出来ない。日本だ韓国だとの国とは一切関係無い、人間としての咄嗟に出た尊い行動だ・・・有難う、ご冥福をお祈りする。


 




 管理人はこのニュースを聞いて心で泣いた覚えがある。何と立派な事が出来る人間なのだろう。何? 一人は韓国から来た留学生? 自分には到底出来ない立派な行動をする人だ・・・感謝とお詫びの気持ちしか無かった。私達は犠牲者に何を報いる事が出来るだろうか。
 責めて、日本の国民の多くで、残された肉親の方々に心からの感謝とお悔やみを捧げたいとの思いで一杯だった。政府や関係者は、特別な感謝と褒賞をさせて頂くしか報いる方法は無いと思った。

 〈嫌韓・嫌中〉〈ヘイト〉・・・何と人間の悪い面を強調する感情だろうか。国を人を嫌悪する・・・過去の戦争の際に敵国に対する、言われも無い意図的に作られた感情の事だ。「ネトウヨ」も同じなのだろうか、関心も無いので判らぬが、人や国を憎んで一体何が生まれるのか・・・単なる憂さ晴らしなのか、虐(いじ)めに似たこの感情を人は捨てられ無いものなのか・・・
 例え戦争で敵味方に別れても、一旦国を離れて個人に戻ったら同じ人間同士。そこには、人間としての感情が嫌でも現れる筈で、喜びも悲しみも分かち合う人間の関係が生まれる筈。一つの原因も無く何の因果関係も無いのに、廻りのムードに押し流されるのだけは慎みたいものだ・・・



 



 










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