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2019年05月12日

天皇の生前退位の歴史を振り返る




 




 天皇の生前退位の歴史を振り返る



 Go to the profile of 汎兮堂 Jul 23, 2016より引用します

 
 Go to the profile of 汎兮堂 薬剤師・スポーツファーマシスト / サイト→https://www.hankeidou.jp



 先日、天皇陛下が生前退位の意向を示されたと云う報道が為され様々な議論を呼んで居ます。実際に退位の意向を示されたのかどうか、事実は我々には知る由もありませんが、この際、天皇の生前退位の歴史を振り返ってみるのも無駄では無いかと思います。


 




 最初と最後の生前退位


 5-12-6.jpg

      乙巳の変 (左上の女性が皇極天皇)


 歴史上、初の天皇の生前退位は645年、乙巳の変(大化の改新)直後に、皇極天皇が同母弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位した時です。退位した皇極天皇はその後、孝徳天皇の死去に伴い、再度天皇に即位し斉明天皇と為ります。この様に一度退位した天皇が再び即位する事を重祚と云いますが、斉明天皇は日本史上初の重祚した天皇でもあります。

 因みに天皇は生前退位すると「太上天皇(上皇)」と為りますが、実は皇極天皇の時代には未だ「天皇」の称号も「太上天皇」の称号も用いられて居無かった。「天皇」が用いられる様に為るのは天武天皇の時代(672〜686年)の為、皇極天皇は史上初の上皇ではありませんでした。史上初の上皇は697年に文武天皇に譲位した持統上皇です。
 現在迄の処、史上最後の生前退位は文化14(1817)年に仁孝天皇に譲位した光格天皇です。これ以降、生前退位した天皇は現在まで居ません。明治以降は制度的にも天皇の生前退位は認められ無く為りました。


 




 生前退位の理由


 (1) 「天皇の死」を避ける為 場合によっては「没後退位」


 史上初の上皇の持統上皇(第41代天皇)から最後の上皇の光格上皇(第119代天皇)迄59人が生前退位して上皇と為って居ます。詰まり79人の天皇の内59人が生前退位して居る訳ですから、可なり多い様に思えますが、実はこの中には亡く為る直前に退位した天皇も多く含まれて居ます。
 亡く為る直前に退位し無ければいけ無い理由は、日本独特の「ケガレ」を忌避する文化にあります。「死」はケガレの源と考えられて居た為、天皇が在位中に亡く為ってしまうと、天皇と云う地位そのものがケガレてしまうとされ、その様な事態を避ける為、天皇が亡く為りそうに為ると退位・譲位して上皇に為ってから亡く為って頂く事にした訳です。

 醍醐天皇・一条天皇・後朱雀天皇等皆この例です。只、何事も予定通りにはいか無い事が多いもので、譲位の手続きが間に合わずに容態が急変して亡く為ってしまう場合もありました。そう云う場合でも亡く為ったことを隠して譲位の手続きを完了した上で、上皇として亡く為った事にしたのです。
 平安時代の後一条天皇や江戸時代の後桃園天皇等がこれに当たります。こう為ると最早実際には生前退位では無く「没後退位」なのですが、形式上は生前退位したことに為って居るのです。


 




 (2) 権力者からの強制 「権威」と「権力」の抗争


 天皇が日本の歴史を通じて最高の権威で在ったことは間違いありませんが、実際の政治権力を握って居た時期はそれ程長くはありませんでした。
 殆どの時代、実際の政治権力を保持して居たのは天皇以外の者であり、それは蘇我氏であったり藤原摂関家であったり上皇であったり、征夷大将軍であったり執権であったり、織田信長であったり豊臣秀吉だったりしました。

 彼等の天皇との関わり方は夫々異なるものでしたが、場合によっては自分の意のままに天皇を交代させ様とした者も居ました。古代の蘇我氏の場合は崇峻天皇を殺害してしまいましたが、流石に臣下が天皇を弑逆すると云うのはこれ以外に例が無く、代わりに退位を強制すると云う手段を取った訳です。
 史上初の生前退位と為った645年の皇極天皇の退位も、乙巳の変で蘇我氏を滅ぼして実権を握った中大兄皇子の意向が働いて居たと考えられます。皇極天皇は中大兄皇子に取って実母ですが、蘇我氏の専横を許して居た皇極天皇を続投させる訳にはいか無かったのでしょう。


 




 平安時代、藤原氏の摂関政治が定着すると、自らの孫に当たる皇子を天皇に即位させて外戚の地位を得るために現天皇に退位を迫ると云う事が横行する様に為ります。「この世をばわが世とぞ思」って居た藤原道長は娘の彰子が産んだ敦成親王を即位させる為に三条天皇に退位を迫りました。
 三条天皇は抵抗しましたが、眼病が悪化したこともあって抗し切れず敦成親王に譲位しました。敦成親王は即位して後一条天皇と為り、道長は念願の摂政と為ります。

 院政の時代には、天皇家の家長たる「治天の君」の意向によって天皇の首が挿(す)げ替えられました。この時代天皇は「東宮(皇太子)のごとし」と評され半人前扱いでした。鳥羽上皇は寵愛する美福門院(藤原得子)の産んだ皇子(近衛天皇)を即位させる為、同じく息子ではあるものの待賢門院(藤原璋子)との間の子である崇徳天皇に退位を強制しました。後の保元の乱に繋がる皇室内の亀裂がここから始まって行ったと言われて居ます。


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          後鳥羽上皇(左)・順徳上皇(右) 


 又、鎌倉時代の後鳥羽上皇は長男である土御門天皇の温和な性格が物足り無かった為退位を迫り、激しい気性が自らに似て居る三男の順徳天皇を即位させました。そしてこの後鳥羽・順徳両上皇の父子が鎌倉幕府打倒を目指して失敗する承久の乱を引き起こすことに為ります。
 尚、順徳天皇の後を継いで即位して居た懐成親王は承久の乱後の処理により在位3ヶ月で「廃位」されました。「廃位」の場合は退位と異なり即位そのものが取り消され、歴代の天皇として認められません。但し、懐成親王は明治に為って天皇として認められることに為り「仲恭天皇」と追号されました。

 承久の乱の後は、武家政権の承認なしに皇位継承を行うことは不可能と為り、事実上、皇位決定権を武家が握ることに為りますが、武家と朝廷の力関係、或は武家政権及び朝廷双方の内部対立等様々な要因が絡み合う事と為り、全ての場合に武家政権の思い通りに為った訳ではありません。
 戦国の覇王織田信長も、時の正親町天皇に何度も譲位を迫ったものの天皇が最後まで拒絶した為実現し無かったと言われて居ます。只、逆に正親町天皇が譲位を望んだが、費用等の面から信長が同意し無かった、と云う説もあります。


 




 (3) 天皇自身の希望による退位 「サプライズ退位」も


 江戸時代迄は生前退位が普通に行われて居る事であった為、天皇自身の希望による退位も少なくありませんでした。理由は、a上皇と為って院政を敷く為 b退位して休養や治療に専念する為 c何らかの抗議の意思を示す為等色々です。

 只、天皇の退位とも為れば、 幾ら本人が希望したからと言って直ぐに実行と云う訳には行きません。退位と云う事態は自動的に次の天皇の即位を意味し更に次の皇太子も立て無ければ為らず、夫々に付いてキチンとした儀式を取り行わ無ければ為ら無い為、莫大な労力と費用が必要と為る訳で、各方面への根回しと調整を行った上で実際の退位の段取りに入るのが通常です。
 特に武家政治の時代に為ると、退位に伴う費用は武家政権が負担するのが慣例と為り、従って武家政権の承諾を得る事が必須と為ります。処が、この様な事前調整を無視して退位を強行した例があります。江戸時代初期の後水尾天皇です。


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               後水尾天皇


 後水尾天皇は慶長16(1611)年に父の後陽成天皇から譲位されて即位しました。即位後、江戸幕府は大坂の陣で豊臣家を滅ぼして支配体制を強化し、朝廷に対しても禁中並公家諸法度を制定してその行動を幕府の管理下に置き、朝廷が何かを決定する際には幕府の承諾を必要とする制度を確立して行きました。
 幕府は後水尾天皇に対し即位直後から2代将軍秀忠の娘和子の入内を申し入れ天皇もこれを受け入れましたが、大阪の陣や大御所家康の死、更に後陽成上皇の崩御等が重なり延期が続き、その間に天皇は四辻与津子(およつ御寮人)と云う女官を寵愛し二人の間には皇子・皇女が生まれてしまいました。この事が発覚すると幕府は激怒し、天皇側近の公卿の処罰と四辻与津子の追放を強制した上で和子の入内を強行しました。(1620年)


 




 更に1629年には、紫衣(朝廷が勅許により高徳の僧侶に与える紫色の法衣)の授与に付いて幕府に事前の相談が無かったことを理由に、後水尾天皇が与えた紫衣を僧侶から取り上げることを決定し、反抗した僧侶を流罪にすると云う「紫衣事件」が起こり、天皇は幕府によって勅許を踏みにじられると云う屈辱を受けます。
 度重なる幕府の横暴に反発した天皇は紫衣事件が起きた1629年の11月、幕府への通告をし無いまま、突如、皇女興子内親王(徳川和子の娘の明正天皇)に譲位します。事前に「密勅」を受けて居た極一部の側近を除いて関白以下の公卿達も何も知らされ無いままに、当日の朝、突然呼び出しを受けて参内しそこでいきなり「本日、御譲位行わるべし」と告げられると云う、前代未聞のサプライズ退位でした。

 この異例の譲位に付いて京都所司代から報告を受けた幕府は驚愕します。朝廷への統制を強化し要約それが確立したと思って居た幕府に取って、自らの承諾を得無いで行われた譲位は当然認められるものではありませんでした。その気に為れば力ずくで譲位を取り消させることも可能ではあったでしょうが、そんな事をすれば返って事が重大化し、天皇と朝廷の存在感が増してしまう事に為りかねません。
 江戸幕府の一貫した方針は、天皇と朝廷の存在を出来るだけ民衆から隠す事にありました。天皇と云う、将軍様よりも上の権威が存在する事を民衆が認識してしまうと将軍と幕府の権威が低下してしまうからです。従って、この件に関しても幕府は為るべく事態が表面化し無い様、非公式のルートで情報収集と朝廷工作を進めて譲位のモミ消しを図ります。

 しかし、後水尾上皇とその周囲の結束が意外に固く、穏便に譲位を取り消させることは適わ無いと悟った幕府は最終的にこの譲位を追認します。思い通りに譲位を成し遂げた後水尾上皇は、その後50年に渉って上皇として君臨、延宝8年(1680年)に85歳と云う長寿(当時、歴代最長記録。その後、昭和天皇による記録更新があり、現在では歴代2位)で亡く為ります。


 





 生前退位の歴史を踏まえて


 様々な生前退位の例を見て来ると、そこには天皇本人も含め関係各者の思惑が絡み合って居ることが判ります。現在、生前退位の法制化に懸念を示す人達の意見として
 「時の政府の意向で退位を強制されたり、天皇本人が政治的意向をもって退位したりする危険がある」 
 と云うものがあります。歴史上の退位の例を見れば確かにその懸念には一理あります。一方で
 「現在の象徴天皇に政治的な権能は一切無いのだから、政治的な意向でその地位を奪ったり放棄したりする懸念は無い」 
 と云う意見もありますが、それはどうでしょうか。

 江戸時代の天皇には政治上の権力は無く、当時の政府である幕府の統制下にありました。その意味では現在の象徴天皇に近いものがあります。更に当時の天皇は、上述の通り、幕府の意向で完全に民衆の目から隠されて居ました。
 現在、マスコミを通じて国民が日常的に天皇や皇室の動向を目にすることが出来るのとは大違いです。その様な当時の天皇でさえ、後水尾天皇のサプライズ譲位の様に幕府を揺さぶることが出来ました。結局の処、政治上の権力が有ろうが無かろうが、天皇に唯一無二の「権威」がある以上、それを政治的に利用することは可能でありその危険は常にあるのです。


 


 「政治的な退位」を防いだ上で生前退位を法制化すると為ると、退位の理由を健康上の問題に限定することが考えられますが、そう為ると、aそれを診断する医師は誰が指定するのか  b 政府が指定するとしたら、政府や特定の団体等がその医師に何等かの働き掛けをする可能性は無いのか cそもそもどの程度の健康問題であれば退位が認められるのか・・・等ナド検討し無ければ行け無い事が次々と湧いて来ます。
 又、天皇の生前退位が認められるのであれば、皇位継承権者に付いても同様に辞退が認められる必要があります。そうしないと「退位する為に即位する」と云う奇妙な事態が生じる可能性があるからです。

 色々と考えて来ると、生前退位の法制化には可なりの困難が伴いそうです。1年や2年では到底無理なのでは無いでしょうか。ヨーロッパの君主国等では生前退位が広く行われて居る様ですが、それ等の国の君主と日本の天皇を同列に論じる事は矢張り無理なのかも知れません。
 恒久的な「生前退位制度」の制定では無く、今上陛下の今回の事例に限定した特別措置法の様なものが制定可能であれば、比較的早期に退位出来る様に為るかも知れません。その様な法律を制定することが法的に問題無いのかどうか、正直、私には判りません。
 只、生前退位が問題に為るのはそう頻繁にあることでは無く、次に問題に為る頃には、医療も想像がつかない程進歩して居る可能性があるので、生前退位の制度化はそれに費やされる労力程には意味が無い様な気がするのです。従って恒久的な制度改変の議論に時間を費やすよりも、摂政制度の活用も含めて、取り敢えず今回の事例について為るべく早く解決が為される道を探るのが妥当ではないかと個人的には思います。

                  以上


 




 【管理人のひとこと】


 今回の生前退位に付いて、前回の平成時と異なり誠に賑やかに行われた事で、世の中は一時お祭り騒ぎに迄発展しました。多くの国民が「おめでとう」と言えるし、新たな年号の「令和」もつ恙(つが)無く受け入れられたと政府もホッとして居るでしょう。
 この間、生前退位に反対する大きな力も国民の多くの声に負け、今回一回の特例として法律化されました。筆者の予想通りです。そして、反対する人の立場や理由もこのレポートのお蔭で理解することも出来ました。この様に説明されると「なるほど」と頷けるのですが、世に出て来る専門の学者と言われる方々の説明は、何度聞いても納得出来なかったのは一体どうしてなのか・・・

 一つ気に為ったのは、「次に問題に為る頃には、医療も想像が尽か無い程進歩して居る可能性があるので、生前退位の制度化はそれに費やされる労力程には意味が無い様な気がするのです・・・」との言葉です。何か人間の生死を医療の発展に任せて・・・例えば医療で死を延ばす様な措置を採れば問題無い様な形容の仕方は頷けません。飽くまでも医療は、快く自然死を遂げられる為の補助なのです。植物人間として徒に延命する処置は人間の威厳を失わせるものですから・・・



 



 









消滅していく君主制



 





 消滅して行く世界の君主制



 2008年02月12日 XMLより引用します



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           著書「プリンセス・マサコ」


 





 オーストラリア人ジャーナリストのベン・ヒルズ氏は、20世紀の初めに世界の人口の90%は君主によって統治されて居たが、今では10%以下に為ったとして、著書「プリンセス・マサコ」(第三書館刊)で次の様に述べて居る。



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               ベン・ヒルズ氏


 ミレニアムを祝う花火が打ち上げられた頃には、君主を抱く国民は世界の10パーセント以下に減って居た。それ迄の百年間に、戦争があり革命があり偶には民主的な投票によっても君主の三分の二が消え去った。今日世界に残って居る王家は30家だけで、その殆どが、憲法や選挙による議会や独立した司法等によって権力を弱められて居る。三カ国(スペイン・カンボジア・ウガンダ)だけが後に考えを変えて君主制を復活させた。
 注目すべきはブルガリアのシメオン二世で、2001年に半世紀の亡命生活から国に戻り、新しい政党を作って首相として選出された。

 この変化が全て人類を幸せにしたと言えるなら好いのだろうが、中国・ソ連・マルクス主義独裁の北朝鮮・ラオス等を見れば、君主制の廃止が必ずしも民主主義や人権の尊重、国民の生活向上に繋がるとは言い切れ無い事が判る。その点では、君主制を創始する事も同じだろう。中央アフリカ共和国の国民は、その結果をこれから見ることに為って居た。
 20世紀の初め、皇帝(エンペラー)と呼ばれる統治者は5人居た。その内一つの系統だけが生き残って居る。それが日本である。但し、その帝国は既に消え去って久しい。実際、天皇をエンペラーと翻訳すべきかどうかと云う議論がある。天皇に充(あ)てられる漢字は「雲の上に居る神の様な支配者」と言った様な意味である。


 




 ハブスプルグ家最後の皇帝のオーストリア=ハンガリー皇帝カール一世、そしてドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の二人は、第一次世界大戦終結と共に帝位を追われその帝国は解体され、新しいドイツ共和国とオーストリア=ハンガリー共和国がヨーロッパの地図に書き込まれた。
 イギリスの最後の皇帝ジョージ五世はインドに皇帝位を返上、イギリス硬貨の裏に刻印されて居た「Ind Imp(インド皇帝)」の文字は取り除かれた。ベルナルド・ベルトルッチの息を呑む様な映像のお蔭で二十世紀で最も有名に為った皇帝と云えば、中国の最後の皇帝薄儀(ふぎ)だが、彼は1912年に皇位を失い、その後日本の支配する満州国の傀儡(かいらい)君主として第二次世界大戦が終わる1945年迄皇位に在った。しかし、実は薄儀は最後の皇帝では無かった。

 アフリカの角に位置する、飢餓と荒廃の広がる国エチオピアのハイレ・セラシエ一世は、王の中の王・君主の中の君主・ユダの部族を統べるライオン・神に選ばれし者・・・等々は、ホボ半世紀の間エチオピアに君臨し、1974年にマルクス主義者のクーデタによって退位させられ数カ月後に死んだ。(窒息死とも言われる)

 ベン・ヒルズ著、藤田真利子訳「プリンセス・マサコ」第三書館 104ページから引用


 




 尚、同書によると20世紀に君主制を廃止した国は次の通りである。以下の国は20世紀に君主制を廃止した。

  1910 韓国・ポルトガル
  1012 中国
  1917 ロシア
  1918 オーストリア・ドイツ・ドイツ帝国・ドイツ帝国内国家フィンランド・リトアニア・ポーランド
  1924 トルコ・モンゴル
  1931 スペイン(但し1975年に王政復古)
  1944 アイスランド
  1945 満州・ベトナム・ユーゴスラビア
  1946 ハンガリー・ブルガリア・イタリア・アルバニア
  1947〜1950 インドとインド太守国家
  1953 エジプト
  1956 パキスタン
  1957 チュニジア
  1958 イラク
  1960 カンボジア(1993年に王政復古)
  1961 南アフリカ
  1962 北イエメン
  1966 ブルンジ
  1967 ウガンダ内ブガンダ・トロ・ブンヨロ・アンコル(1993年に王政復古)・南イエメン、
  1968 モルジブ
  1969 リビア
  1973 アフガニスタン・ギリシャ・エチオピア
  1974 マルタ
  1975 ラオス・シッキム
  1979 イラン・中央アフリカ帝国
  1987 フィジー
  1992 モーリシャス

 同書 108ページから引用


 




 ベン・ヒルズ氏は上に引用した文章で、君主制の廃止が必ずしも民主主義の発展や国民の生活向上に繋がら無い事を指摘して居るが、それは事実としてその通りかも知れ無い。しかし、民主主義の理念が君主制とは相容れ無いものである事も又論を待た無い。君主制の下で一定の範囲内の民主主義は可能かも知れ無いが、より一層の発展の為には君主制は障害物以外の何物でも無い。


               以上



 





 【管理人のひとこと】



 天皇・皇室の方々の人権を認めよう・・・


 天皇や皇室の方々に、この文章は決して読まれたく無いのだが、恐らく殆どの方々は、既に充分この問題を熟知し悩み考えた事だろう。その末に、無理にでも自分を納得させて居られると思う。だから、彼等彼女等の心の中には、人に告げられ無い多くのものを抱えてお過ごしだろう。
 「普通の人に為りたい」「何度思い考え悩み抜いた」ことだろうか・・・そして、周囲の人々から忠告や励ましを贈られ、ヤット平常心を取り繕(つくろ)って居るに過ぎ無いのだ。そう考えると「天皇・皇室の方々の人権」に付いて、ご本人からご発言されぬこと故、猶更(なおさら)、私達国民の側から前以て充分な措置を執る様に動か無ければ為ら無い。それがどの様な法律なのかどの様な内容なのか・・・は、勿論当事者の方々のご意見を充分以上に汲み取ったもので無ければ為ら無い。

 我が国の天皇・皇室関係者は生真面目で優等生過ぎる。と云うより我慢し過ぎでは無いだろうか。時には政府に逆らい国民に反省を求める様な発言があってコソ国民統合の人間的な象徴と云えるのだ。彼等が、何も考えず何も感じ無い無機質な道具であって欲しく無いのは、国民が最も望むもので、何も100%の支持等は必要無い。好き嫌い半々もあればベターだろう。


 




 私達国民が、彼等に余りにも完全を求めてはいけ無い。嬉しい時に腹から笑い悲しい時は心から嘆き悲しむ・・・その姿こそが「国民と共に歩まれる天皇」の本当の姿だ。被災地に必ず出向く事も恒例化しては為ら
無い。心の中でお悔やみと励ましがあれば充分だ。
 色々なスキャンダルがあっても人間だからコソ。常識から外れた行いが目立っても好い。時にはヤンチャで不貞腐れた態度を取っても一向に構わ無い。それが自然な人間の姿だ。サイボーグやお人形が好いとは誰も思わ無い。それこそが拓(ひら)かれた皇室だとも言える。

 余りにも国民が干渉し過ぎると「天皇に為りたく無い」と言われたらそれ迄だ。そんな事態に為ったらそれコソ内閣総辞職でも足り無い、世界からお笑い者の国民に為ってしまう。国民と天皇・皇室の間には一方通行では無い、相互による理解と遠慮と思い遣りと愛情が無ければ為らぬ。その付き合い方を学ぶ為にも、ご本心を隠さず国民にブツければ好い。それが、身勝手だ政治利用だ等とは誰も思わ無い。

 世界にも特異な我が国独自の天皇制は、その制度を国民が求め承認する事で、或る意味天皇と皇室の方々の人生を大きく拘束する事に為る。それを好く理解した上で、国民も天皇や皇室も、出来るだけ少ない犠牲の上で互いに幸福な生活を送られる様な制度に変えねば為ら無い。
 その意味で、古い大昔からの伝統や仕来りや風習等は、都度、最小の犠牲に抑え最良な効果を挙げるべく改正するべきであり、それは早ければ早い程好い。



 






 







 


女性天皇実現に向けて本格議論、ハードルは決して高くない




 





 【ネットニュースより】



 女性天皇実現に向けて本格議論

 ハードルは決して高く無い



 5/12(日) 16:00配信  NEWS ポストセブン より引用します



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 「愛子さまを天皇に」待望論が再燃



 
 宮内庁では、古代日本から126代続く皇室の文化や制度、儀式や祭祀に関する膨大な文献が管理されている。今改めて、それ等の記録が丁寧に調べられて居ると云う。

 「過去に女性天皇が在位していた時の資料を掘り出して、その間に宮中祭祀や儀式がどのように行われていたかを調べて居るそうです。例えば、新天皇は即位の礼で、天皇の玉座である高御座(たかみくら)に立ち、皇后は御帳台(みちょうだい)に立たれます。過去の女性天皇は即位された時、高御座に立たれたのかどうか。
 又、皇室には古来から独特の〈血の穢れ〉の思想があり、女性皇族は生理中には宮中祭祀に参加されません。かつての女性天皇はどうされたのか。そうした具体的な事案まで調査し、女性天皇容認の本格的な議論に備えているようです」(皇室ジャーナリスト)


 改元を跨いで、女性天皇実現に向け水面下で着々と準備は進んで居る。


 




 愛子天皇待望論が浮上


 賛成79.6% 令和時代が始まった直後の5月1、2日に共同通信が実施した緊急世論調査が大きな話題となった。皇室典範で「男系男子」に限るとした皇位継承をめぐり、女性天皇を認めることの賛否を尋ねた結果、「賛成」が79.6%で「反対」の13.3%を大きく上回った。
 時代の移り変わりを目撃した国民は、皇室の歴史と女性天皇に大きな関心を持った様だ。5月4日には、歌手の宇多田ヒカル(36才)が《日本の皇室の長い歴史の中には、女性が天皇だったことが何度もある(8人、10代)と知り驚く》とツイッターに書き込み、大きな反響を呼んだ。

 5月1日放送の『報道ステーション』(テレビ朝日系)は、現状で女性天皇の議論が遅々として進んでいないことを指摘し、将来的に天皇家の血筋が途絶えてしまう懸念があるとして「愛子天皇の即位」の可能性について一歩踏み込んだ報道をした。
 俄かに盛り上がる女性天皇の待望論。大きな理由は「安定的な皇位継承を実現する為」と云うものだ。長い歴史を持つ日本の皇室にとって、安定的に皇位を継承することは何にも増して優先される最重要事項である。

 皇位継承の規則を定める皇室典範の第一条には《皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する》と記される。「男系の男子」とは、父方が天皇の血筋をひく男性のことだ。このルールでは、現在、皇位継承資格を有するのは、継承順位順に【1】秋篠宮さま【2】悠仁さま【3】常陸宮さまの足った3人に限られる。


 




 「これは安定的な皇位継承にとって危機的な状況です」と指摘するのは、前出の皇室ジャーナリストだ。

 「常陸宮さまは既にご高齢ですし、秋篠宮さまは天皇陛下と6才しか違わ無い為、将来にわたって天皇の地位を務められる皇位継承者は悠仁さまに限られます。悠仁さまが結婚された後、その妻との間に男子が生まれ無ければ、天皇家にとって何よりも重要な皇統が途絶え、天皇制が終焉してしまうのです」

 悠久の歴史を誇る日本の天皇制が終わる・・・余りにショッキングな事実に国民は震撼した。そこで愛子天皇の待望論が浮上したのだ。宇多田がツイートした様に、過去の日本には、推古天皇、持統天皇と云った女性天皇が実在した。今の時代の男女平等の理念に即しても女性天皇の気運が盛り上がる。加えて「秋篠宮家の諸問題」を指摘する声もある。

 「眞子さまのご結婚の目処が立たず、結婚を許されていない秋篠宮さまに対し、佳子さまは反発する姿勢です。ご夫妻はお子様方の自由意思を尊重される教育をされて来ましたが、ここに来て不安の声が上がっています。悠仁さまが天皇に相応しい人格に育たれるのかが注目されます。
 一方で愛子さまは、生まれた時から『皇太子の長子』の立場で、天皇陛下の立ち居振る舞いを暮らしの中で学ばれて来ました」(前出・皇室ジャーナリスト)


 政府も重い腰を上げた。菅義偉官房長官は5月1日、安定的な皇位継承について、今秋以降に検討を本格化する考えを示した。女性天皇容認が念頭にあるのは間違い無い。

 「小泉純一郎政権時代の2005年、皇室典範に関する有識者会議で『皇位継承は男女問わず、長子優先』と云う結論が出され、改正案が翌年の国会に提出される運びでした。処が、2006年2月に紀子さまが懐妊され、悠仁さまが誕生されると、お蔵入りに為ったんです」(皇室記者)

 女性天皇実現へのハードルは、決して高く無いのだ。

 ※女性セブン2019年5月23日号


 




 次にもう一つ引用します・・・



 何故日本に「天皇」と云う文化が生まれ育ったのか


 配信 THE PAGE 5/12(日) 9:00 より引用します


 5月1日、新天皇陛下が即位され「令和」の時代が幕を開けました。即位に関する数々の厳かな儀式を目にして、改めて日本における天皇の存在の大きさに思いを巡らせた人も多いのではないでしょうか?
 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は「日本の天皇制は他国の王制とは異なる性質を持って居る」と指摘します。何故、日本には世界に稀な「天皇」と云う文化が存在して居るのでしょうか。若山氏が独自の「文化力学」的な視点から論じます。




 何故日本に「天皇」と云う文化が生まれ育ったのか



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          名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏



 平成から令和への感慨


 平成から令和へと替わるに当たって、上皇、上皇后の、世界の平和を祈り国民の哀しみに寄り添う姿勢が印象に残った。
 戦後、急進的に民主主義を求める革新陣営に対して、天皇制は保守的な思想の上に存続したが、現在では、保守陣営がパワー・ポリティクスに傾斜する中で、飽くまで平和を祈る天皇の姿勢は、寧ろ革新に近い印象を与える。ジョセフ・ナイの唱える「ソフトパワー」と云うべきか。現在の天皇は政治とは切り離された象徴ではあるが、逆にそのことによって不思議な政治力を持ちつつある様に思える。この「天皇」と云う、世界にも稀な文化が、何故この国の風土に生まれ育ったのであろうか。


 天皇文化・・・保留民主制


 過つて三島由紀夫が『文化防衛論』と云う本を書いて、興味深く読んだのだが、三島に取って、日本文化とはそのまま天皇の事であった。勿論僕は、科学的な思考を基本とする理系の人間として、文化と云うものをより広範囲に捉えて居るが、天皇と云う象徴が日本文化の大きな部分に及んで居る事は認めざるを得ない。この「天皇文化」に付いて客観的に考えることは、日本の文化論者として避けることので来無い事の様に思えるのだ。

 世界に王制を抱える国家は少なく無い。先進国では北ヨーロッパに集中し、それ以外では中東が目立つ。これをどう理解すべきか。
 近代ヨーロッパでは、フランス革命、それに続くナポレオン戦争、プロイセン・ドイツの戦争(普墺戦争、普仏戦争、第一次・第二次世界大戦)、ロシア革命が、各国の社会体制を変革する大事件であったが、北ヨーロッパはこの影響を左程受けて居ない。
 又中東では、植民地支配からの独立に際して多様なアラブ民族の首長が夫々国家を形成した。古い王政に対する革命と国民投票による大統領制を完全な民主制であるとする為らば、何れも或る種の「保留」をして居るのだ。その意味で日本も又王制を維持する「保留民主制」なのである。しかし日本の天皇制は、こう云った他国の王制とは又異なる性質を持って居る。


 王、皇帝、天皇


 「天皇」と云う言葉と概念が登場するのは、天皇史上最も権力が集中した天武帝の御代とされる。文字、都市、法律、その他、中国を規範として国家制度が整えられて行く時期であり、天皇文化が中国文化との関係によって成立したことは明らかだ。しかしそのままでは無い。
 民族と文化の激しい戦いが続いた地中海文化と比べ、黄河長江文化には強力な一神教としての宗教が成立し無かった。儒教は道徳に近く、道教の源流と為った老荘思想は哲学に近く、宗教では無いと云う人も居る。詰まり比較的宗教色が薄い文化なのだ。しかし「天」と云う概念に対する尊崇の念は強かった。

 夫々の国を治める「王」を超えて、一つの文化圏としての中国全体を治める「皇帝」と云う概念が出来たのは始皇帝の時だが、以後、中国の歴代皇帝は天帝(天の支配者=北極星を象徴とする神の様な存在)の子として「天子」とされた。「天皇」はこの「天」を含むので、皇帝より上の感覚もあり、形而上学的(宗教的)な意味をより強く含む。
 又「天皇」は英語で「エンペラー」と訳されるのだが、西洋における「エンペラー=皇帝」は、元々古代ローマの「インペラトル」から来て居り、政治の実権を握った軍事指揮官の意味が強い。ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)がその象徴的人物で、ドイツのカイザーも、ロシアのツァーリもこの「カエサル」を語源とする*2。「天皇」には明らかにそれ以上の神聖感がある。

 詰まり中国やヨーロッパから見れば、一人の王の領域程しか無い日本列島が、今なお、皇帝さえ超える程の意味を持つ象徴を抱えて居ると云うことに為る。〈偉そうな処のある〉文化なのだ。とは言え、王朝が交代する中国(易姓革命)やヨーロッパと比べ、「万世一系」とされる様に圧倒的な歴史の長さがあることは事実である。と云うより「これ(天皇家)だけは変わら無い」と云うのが日本文化の特質である。

 現実の歴史においても「天皇」は、政治権力者である期間は殆ど無く、寧ろ権力者に担がれる存在であった。その意味で天皇と権力者の関係は、ヨーロッパにおけるローマ法王と各国の王或は神聖ローマ皇帝、イスラム圏におけるカリフとスルタンの関係に似て居るが、天皇は、ローマ法王やカリフの様な完全な宗教者とは言え無い。そこに、権力者でも無く宗教者でも無い、文化主催者としての姿が浮かび上がる。


                  以上





 【管理人のひとこと】


 「男系男子」との規定は、明治時代に作られた皇室典範をそのまま戦後の法律として引き継いだからだ。明治時代に作られたこの規定は、過去から色々な事情を学んで出来たもので、田原総一朗氏は「明治時代の天皇は軍隊を統べる大元帥だった。その時代女性は軍人に為れ無かった」「だから天皇は天皇の血を引いた男性」としたのだろう・・・と述べられて居る。
 「現在天皇は自衛隊の総司令官でも無く、女性でも自衛官に為れるのだから・・・」と愛子様が天皇に為ることへの否定はしていない。


 




 それでは具体的に考えてみよう。新天皇は1960年のお生まれで今年で59歳。80歳までお元気に天皇職に就かれるとして20年と一寸で次の御代と為ろう。21年後(2040年)は、愛子様は2001年のお生まれだから39歳に為られる。ご結婚されお子様も何人か居られ様。
 39歳の女性天皇・・・子育てもされた女性天皇とは何とも好いではないか・・・女性は長生きだし90歳位まではお元気で過ごされる筈である。自然に女系の天皇へと引き継がれる・・・これの何処が拙いのだろうか?女性でありご結婚されたらお子様も生まれるのが自然だ。そのお子様が男性でも女性でも好いのではないだろうか。

 皇統は「男系男子」とする方が不自然で危ういものだと感じるのは私だけだろうか? 女系では皇統の意味が無いと主張する人も居るのだが、どうも理屈や説得力か弱いのだ。外国の例を見るとマチマチで余り参考には為ら無い。「国民の思い」を汲んでみるのは好いのだが、国民投票の様な事だけはしないで欲しい。国民投票は究極の世論なのであるが、国民を二分する悪い事例がある。
 時間は未だあるので、何年も掛けて「新しい皇室典範」を作り上げて欲しい。その中には「天皇と皇室にも人権を認める」との項も入れて頂きたいものだ。成人と為ったら、住居・職業・結婚等の自由である。
 「天皇は、政治から離れる事で、権力者でも無く宗教者でも無い、文化主催者としての姿が浮かび上がる」
 詰まり、天皇は政治と離れて居るからこそ、多くの国民から象徴として認められ、親しみに似た愛情が湧き上がる。愛される天皇は、女性であってこそ新たな人気も出て来よう・・・





 

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