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2019年04月05日
I love F104 欄外
I love F104 欄外・開発秘話
特集・懐かしの軍用機 より引用
第一級の要撃戦闘機 F104
主翼の端に空対空ミサイルを装備して飛行する米空軍のF104A。未来的なフォルムから「最後の有人戦闘機」とも呼ばれた
朝鮮戦争でソ連製MIG15の軽快な機動性に手を焼いた米空軍のパイロット達は、速度と上昇力に優れた制空戦闘機の開発を強く求めた。1954年3月に初飛行したロッキードF104スターファイターは、そうした現場からの要求を具現化した機体で、重さ5.7トンの単発軽量機ながら最高速度はマッハ2を超えた。
朝鮮戦争終了後、米空軍は戦闘機にマルチロール能力を強く求める様に為った為、自国で活躍の場は無かったが、敵爆撃機の侵入を阻止するインターセプター(要撃戦闘機)としては一級品で、日本の航空自衛隊にも採用されて空の守りを固めた。
全長16.7メートルに対し全幅は6.99メートルしか無い。鉛筆の様に細く尖った胴体と台形の小さな主翼は、高速と上昇性能を追求した結果だった。大きな垂直尾翼とT字型に為った水平尾翼も特徴的だが、実は胴体の両脇に設けられた空気取り入れ口の中央にある半円錐形の「衝撃波コーン」が高速性能のキーポイントに為って居る。
衝撃波コーンが空気流入を適切な量に調節することで、エンジン燃焼が効率的に為り、初めてマッハ2の高速が可能に為った。
残念なことに、完成した時点で米空軍は制空戦闘に特化した戦闘機の必要性を感じ無く為って居た。1958年に米国内の迎撃戦闘機部隊に配備された初期生産型のF104A型は、僅か2年で第一線から引退。核爆撃も可能な戦術戦闘機タイプのF104Cが少数生産され、1965年にはベトナム戦争にも参加したものの、低空での機動性に難があり、然したる働きは出来なかった。
一方、F104は日本の様に要撃機としての役割を重視した国では、その能力が高く評価された。ヨーロッパ諸国も含め15カ国で主力戦闘機として採用、ライセンス形式を含めれば2500機以上が生産され、世界的にはベストセラー戦闘機と為った。
超音速戦闘機第1号 F100
飛行中のF100戦闘機 主翼の下に合計6カ所の兵装ステーションが見えるので、C型以降の戦闘爆撃機タイプ
F86の成功で軍用機メーカーとして不動の地位を獲得したノースアメリカン社は、1951年から超音速戦闘機の開発に着手した。丁度朝鮮戦争の真っ最中で、空軍から基本性能でソ連製戦闘機を遥かに上回る高速戦闘機が欲しいとセッツカれたことも、開発を後押しする形に為った。
1953年5月に原型機が完成したF100スーパーセイバーは、空力抵抗を極限まで低減した細長いボディーに、F86よりも後退角を強めた主翼、F86に比べ倍近い推力を持つ高性能エンジンを備え、初飛行でアッサリと音速を突破した。
格闘戦で優位に立つのに必要な上昇力も素晴しく、空軍は直ぐサマ制空戦闘機としての採用を決め、世界初の超音速戦闘機の量産が開始された。
初期型のF100A型が部隊配備されたのは1954年9月。朝鮮戦争はその前年に終わっていたが、F100に取っては寧ろ幸運だった。同年11月に機体の根本的な欠陥が明らかに為り、飛行停止措置が講じられたからだ。尾翼の再設計などにより欠陥は克服されたが、大きな戦争が無い時期だったこともあり、制空戦闘機型のF100Aは1955年に約200機で生産を終了した。
只、F100の高い性能を惜しんだ米空軍は、戦闘爆撃機としての活用を考え、兵器搭載能力や航続性能を高めたC型、D型が開発された。取り分け1956年に初飛行したD型は、ソ連との全面戦争を意識し、敵領土内に高速で深く侵攻して核爆弾を投下する戦略兵器に位置付けられていた。
幸いにも米ソの核戦争は発生しなかったが、1960年代にベトナム戦争が激化すると、F100は対地攻撃機として初の実戦を経験することに為った。爆弾搭載量が多く、元々制空戦闘機だけに敵の迎撃戦闘機とも渡り合えると判断された訳だが、F100には好い迷惑だった。
主に重武装拠点の爆撃に多用されたものの、その分、損害も大きく、対地攻撃に向か無いことは直ぐ明らかに為った。各型合計で2000機以上が生産されたとは言え、超音速戦闘機第1号の栄誉に見合った働きが出来ずに終わった不運な機種と言える。
以上
次のF104記事をご参照ください・・・
F-104とは、ロッキード社の開発した超音速戦闘機である より引用します
概要
第二世代戦闘機で、アメリカ空軍や航空自衛隊・ドイツ空軍・ギリシャ空軍・イタリア空軍等西側各国に広く配備されて居た。現在、軍用機としては全機退役しているが、少数機が民間アクロバットチームのスターファイターズで運用されている。
背景
F-104を開発するきっかけは朝鮮戦争にまでさかのぼる。
朝鮮戦争開戦直後、アメリカ軍はF6FやF4U・F-51と言った従来のレシプロ戦闘機に加え、直線翼ジェット戦闘機であるF-80シューティングスター及びF-84サンダージェットを投入し、レシプロ戦闘機しか無かった北朝鮮空軍を効果的に抑え込んでいた。
しかし1950年10月に参戦した中国がMiG-15戦闘機を投入して来たことにより、アメリカの制空権確保は雲行きが怪しく為って来た。初の遭遇戦ではパイロットの練度が高く、統制の取れていたF-80が返り討ちにすることに成功したものの、速力や加速力で圧倒的に劣るF-80やF-84では対抗出来ないことが予想された。
この危機を乗り切る為最新鋭のF-86を投入し、MiG-15に対抗することに為ったが、F-86と比較してもMiG-15は加速力や上昇力、スピードで上回る性能を持っており、これに対抗する為F-86もE型の全遊動水平尾翼やF型のエンジン強化を初めとする改良を重ねて行ったが、パイロットはそれらの点を羨ましがっていた。
ロッキード社の設計士であるケリー・ジョンソンは前線で戦うパイロットの話を聞き、小型軽量な機体に大出力エンジンを搭載した白昼制空戦闘機を設計してみようと考えたことによりプロジェクトがスタートした。
特徴
エンジンはアフターバーナー付きのJ-79ターボジェットエンジンを一基搭載する。マッハ2級の高速性能を重視する為、後退翼を採用せず、主翼には幅の短い直線翼を採用している。この主翼は極めて薄く作られており、カミソリ刃と形容される程。その為整備士が怪我し無い様ゴムカバーが翼の前縁に着けられることがある。
翼の付け根にショックコーンを有する。これによってマッハ2付近における気流の乱れによる吸気効率の低下を最小限に抑えることが出来、音速の2倍以上の速度性能を発揮出来る様に為った。公開当初はこの構造が機密扱いと為っており、カバーが取り付けられて見え無い様に隠されていた。
機体の重量が軽く、その割に推力の大きなエンジンを搭載する為、加速性能や上昇力は当時としては群を抜いており現在ですら或る程度通用するレベルにある。反面、翼の面積が小さい為翼面荷重が大きく旋回性はかなり悪い。航空自衛隊はフラップを空戦フラップとして使用する等の対策を施し格闘戦能力を向上させている。
又、垂直尾翼にT字配置された水平尾翼が急旋回時に主翼の後流に干渉して操縦不能と為る事態を防ぐ為、一定の迎え角を取ると強制的に機首を引き戻すキッカーと云う機構が装備されている。このことをキチンと把握していないと、低空飛行時に機首の引き起こしが出来ずに地面に激突する危険性があり、何人かのパイロットがそれによって命を落としている。
機首にM61バルカン砲を1門装備し、AIM-9サイドワインダー空対空ミサイルやロケット弾などを搭載可能。バルカン砲は、F-104の開発当初から搭載することが決定されていたが、アメリカ空軍が実戦配備を急がせた為、機材としての熟成が進んでおらず故障が多発した為F-104Aでは搭載が見送られた他、航空自衛隊向けの機体では、沖縄返還による追加調達機以外は燃料タンクが設置し、機銃を換装キット形式で調達していたが、予算の問題で全ての機体の分は調達出来なかった。
また、イタリア空軍向けの機体ではAIM-7スパロー中距離空対空ミサイルを搭載する為レーダーを改造しており、イルミネーターを載せる為撤去されている。後に延命工事を受けた際に機器の小型化によってバルカン砲の装備が復活したが、その後のアップデートにより再び撤去することに為った。
運用
開発元であるアメリカ空軍では、当初の発注元である戦術航空軍団(TAC)では戦術転換によって、F-104への興味を失っていたが、F-102の後継機として開発していたF-106の開発が遅れた為、F-106が配備される為の繋ぎとして採用されたが、公式に明言されているSAGEシステム対応機材が搭載出来ないことや航続距離が短く空中給油に対応していなかった事で防空軍団(ADC)からは短期間で退役させられた。
戦術航空軍団ではF-104Cをベトナム戦争等に派遣されたものの、北ベトナム空軍はF-104との交戦を避けた為空中戦の機会はほぼ無く、逆に地対空ミサイルの餌食に為ったり、中国の領空にウッカリ侵入した機体が撃墜されたり、撃墜されたF-104の捜索に出動した機体が空中給油機と接触事故を起こして墜落等、散々な目に遭った。
しかしながらアメリカ空軍での不遇をよそに、NATOでは主力戦闘機として各国に大量に配備され、ワルシャワ条約機構軍の侵攻に備えることに為った。
ドイツ空軍では、本来は高高度高速迎撃戦闘機であるこの機体を低空で近接航空支援を行う戦闘爆撃機として運用することに為ったが、ヨーロッパ特有の悪天候に不慣れなパイロットが多かったこともあり、大量の事故損失機を出す結果と為ってしまった。
この為「未亡人製造機」等と不名誉な渾名を付けられるに至った。又、滑走路を破壊された時でも発進出来る様、ロケットエンジンを装備してゼロ距離射出する試験も行われていた。
イタリア空軍では、発展型であるCL-1200への搭載を目的に開発された新型レーダーを装備したF-104Sを運用していた為、AIM-7スパロー空対空ミサイルが運用可能であり最高の空戦性能を有するに至ったが、ユーロファイターの開発が遅れたことや、繋ぎであったトーネードF3の運用コストが、当初の予算で賄い切れ無い額に高騰したこと等で退役が遅く為り、繋ぎの繋ぎであるF-16ADFと入れ替わる2005年まで運用されて居た。
航空自衛隊では上述の通りフラップを空戦フラップとして扱うことにより、強引に旋回性を上げ、僚機との連携を使い熟し、訓練でF-15を落とした猛者も現れた。
1986年にF-15Jの増備によって航空自衛隊からは退役したが、一部の機体はFMS(有償援助)であったことから米軍に返却することに為り、そこから台湾空軍に再配備されると云う運命を辿った。又、その他の状態の好かった機体はドローンターゲット(無人標的機)として改造され、UF-104Jのコードを与えられてミサイルターゲット等として全機「撃墜」された。
ちなみに、この航空自衛隊仕様のF-104を選定するに至った第一次F-X選定作業のナンヤカンヤを描いた小説作品が山崎豊子の「不毛地帯」である。
その他パキスタン空軍にも配備され、インドとの二度の紛争(印パ戦争)ではインドもF-104との空中戦を避けた他、パキスタン側もF-104とMig-21の対戦を避けて居た。
以上
次にF104整備士さんのお話を・・・
F-104J整備士体験談
以下は掲示板に投降された記事です。興味深い話なので他の発言に埋もれてしまうのは勿体無いと思いここに掲載します より引用します
私は元F−104の整備員ですが、これは私の体験談です。或る日、退役間近のF−104戦闘機が私の勤務する基地に立ち寄りました。当時、当基地はF−104が全機退役し、F−4戦闘機が配備されていました。
F−104は、空気取り入れ口横にある扉から中に入れる様に為って居るのですがその際、中に人が入って居る事を示す「垂れ幕」を取り付けます。処が、F−104が全機退役したこの基地にはそんなものは無い。「直ぐに済むから」と私は中に入りエンジンのブレードを点検しました。
点検を終えて出ようとした処、何と扉は閉められて居た!哀れな私を乗せたF−104はそのまま格納庫に引っ張られて行きました。機体を叩けど叫べど気付いて呉れません。
その後、駐機場にあった私の靴が手掛かりに為り、その日の内に発見、救出されたものの・・・、
「何ヤッテたんだ、まったク!」
「お前、点検の時居たの!?」
「ドジ!!」
等と上官からドヤされることに・・・ 二度と手抜きはしないぞ、と思いました。それ以上に、もしエンジンを掛けられていたらと思うと、今でも体がブルッと来ますね。
(更新日:2001年11月17日)
I love F104 その2
I love F104 その2
その1から つづき
3 〈最後の有人戦闘機〉XF104の開発
P80〈シューティングスター〉で、ジェット戦闘機の基本型をまとめあげたケリー・ジョンソンは、その後の世界のジェット戦闘機の推移を見守りながら次期プランをまとめていた。
既に戦後数年を経て、戦闘機のスピートは音速(時速約1200キロ)を超え、1955年迄にはマッハ2(音速の2倍)以上と為る事が予想される。ソ連で開発中のミグ19はマッハ1.4と言われるが、次のミグ21とスホイはマッハ2に達するであろうと云う情報が入った。
「ケリー君、FX(次期戦闘機)のプランはまとまったかね」
「私はやはり、スピードを徹底的に追求したいと思います。勿論上昇力も含めてのことですが・・・」
ジョンソンはグロスにこう答えて、
「詰まり強力なエンジンを付けて、軽い機体を引っ張ると同時に、ジェットの余った推力を利用して、機動性を好くするんです。多少のことは犠牲にしてでも・・・」
と、自信タップリに言った。
「しかし、軍からやかましく言われている全天候性の方は・・・」
「勿論、コンパクトされたものを出来るだけ積みます。でも、矢張りスピードを優先させましょう」
こう言われて、グロスは〈実績のあるケリーのこと、ひとつ思う存分やらせてやれ〉と云う気に為った。 しばらくして、ジョンソンのまとめて来た新戦闘機のプランを見て、グロスは危く葉巻を落としそうになった。それはまるで、ミサイルに小さな翼を付けた様なものだったからである。
「一体翼面荷重は?」
「600キロ弱(一平方メートルあたり)でしょう」
「えっ? そんなに・・・」
「F84(リパブリック『サンダージェ ット』戦闘機)だって、350キロはありますよ。主翼後縁のファウラー・フラップだけで無く、前縁フラップも設けて着陸を安全にします」
「処で、問題のスピードはどの位出るかね?・」
「マッハ2以上は楽に出せますね」
コンべアF102
処がこのXF104は、三角翼のコンべアF102の採用によって自主製作と為り、原型一号機は1954年2月7日、テスト・パイロットのトニー・リバーの操縦で初飛行に成功した。
その鋭く尖った鼻先と細長い胴体、薄くて短い主翼と云う特異なスタイルによって〈最後の有人戦闘機〉と云うキャッチ・フレーズを付けられたが、ややオーバーだったとは言え、写真を見る者に等しく、その通りと云う印象を与えたものである。
初期量産型F104Aを数十機使って実用テストを進め、1958年の初めからアメリカ本土及び海外の基地へ配備された。そして同年5月、高度2万7813メートル、時速2259キロの世界最高記録二つを作り、ロッキードの名をまたまた轟かせた。
ロッキードF104Gの三面図
4 F104 NATO各国で配備
F104Aは、ゼネラル・エレクトリックのJ79GE3推力7700キロ(アフターバーナー付)エンジン一基を装備し、全幅6.69メートル、全長16.68メートル、主翼面積18.2平方メートル、自重5300キロ、全備重量8500キロ、最大時速2100キロ(一万メートルで)、上昇限度2万メートル、航続距離約1500キロ、武装20ミリ・バルカン砲一門、サイドワインダー二基と云うのが主なデータである。(C型はエンジンをJ79GE7に換装)
しかし、スピード性能は好いが、航続距離が短いのと広地域のコントロール・システムを槓む余裕が無い為、米本土防衛には不向きで、防空はコンベアF102の天下であった。この為アメリカ空軍の第一線から間もなく退かされて、代わってヨーロッパ(西ドイツ・オランダ・ベルギー・イタリア)とカナダ・日本等の西側主要国で使用され、総計2000機以上が生産されることに為った。
ヨーロッパとカナダのものはG型であり、日本のはJ型(愛称「栄光」)である。J型は、基本的にはG型と変わり無く、三菱で国産化され、航空自衛隊が1962年8月から七個中隊を編成配置した。日本の様に狭い国土ではF104の性能で十分であり、バッジ・システムと連動することも出来る。
だが、アメリカとの共同防衛態勢から考えて、機体の狭少による搭載能力不足は否めず、次回のFXが決定し、それが配備され始めれば、第一線から後退する運命にある。
しかしF104「スターファイター」が20年前に出現して、マッハ2の超音速と、1万6000メートルまで一分と云う上昇力を持って居た事は、当時の水準から云って驚くべきことで、その意欲は高く評価されて好い。
未亡人製造機と呼ばれ
NATO向けG型のうち、西ドイツに配備されていた機体がしばしば事故を起こし、大問題に為った。
「F104Gは欠陥機だ。西ドイツのパイロットの腕が悪いのでは無い!」
「何者かによって、西ドイツのF104に爆破装置が仕掛けられているのではないか?」
等の噂が頻りに乱れ飛び、F104の飛行が禁止に為ったり、パイロットが搭乗を拒否したりする騒ぎになった。又、事故死したパイロットの未亡人達は「スターファイター・ウィドー」を結成して、西ドイツ空軍当局に押しかけデモを繰返した。
いかにもF104が、トラブルを起し易い、安全性の低い機体の様に思われて居るが、事故の原因として次のように考えられる。
・先ず、西ドイツ空軍のパイロットが天候の安定しているアメリカ本土で訓練を受けている。その為、曇天の多いヨーロッパで飛行する場合、荒天に対する処置が好く無いこと。
・更に、低空飛行の対地攻撃等の戦術支援用戦闘攻撃傚として使用して居て、この為低空で失速し易いこと。この二つの要因で事故が多発したと見ることが出来る。
「着陸速度が速いし翼面積が小さいから、外から見ると危険な様に見えるのだろうが、操縦がし易く不安は感じ無い」
と、日本の航空自衛隊のF104パイロットは言っている。
5 グラマンに逆転勝ちしたF104J
Grumman F-11 Tiger
1958年(昭和33年)4月5日、国防会議は、グラマンF11F1F「スーパータイガー」を航空自衛隊のFXとして採用することに内定した。
ノースアメリカンF86F「セイバー」ジェット戦闘機の旧式化に伴い、二次防における次期主力戦闘機の選定に迫まられたのだ。FXの候補機として数機種上がったが、結局、アメリカのロッキードF104とグラマンF11F1Fの二機種に絞られた。
そこで数百億円の取引きを巡って、ロッキード社とグラマン社、及びその代理店の間に激しい駆け引き合戦が行われ、黒い霧が立ち込めた。これが防衛庁や国会にも及んで、グラマンを推す者、ロッキードを推す者が、互いに非国民呼ばわりする迄発展した。
そうした挙句、翌34年6月15日、グラマン採用決定が白紙に戻され、再び当時の源田実空将(元参議院議員)を団長とするFX機種選定調査団がアメリカに渡った。
この間、両社が日本の関係者にいかなる策動をしたか、明らかにされて居ないが、矢張り今日、尾を挽くだけのナニかがあったと見て好いと思う。
帰国した源田調査団長は、
「両機を比較した場合、緊急発進及び上昇力、スピードの諸点でF104が勝る。F11F1Fは確かに運動性は良好で航続距離も長いが、その他の点で劣り、更に日本向けは未だ原型だけで、テストの余地が残されているのが弱い」
と述べた。その結果、国防会議は、航空自衛隊戦闘機にロッキードF104の採用を逆転決定したのであった。確かに源田氏の言った様に、F104のスピードと上昇力は、日本の防衛において不可欠の要素であり、グラマンF11F1Fのスピードと加速ではヤヤ物足り無かったであろう。
この様ないきさつで決定されたF104が、日本向けのF104J型である。その後、ロッキード社はF104の一部での不人気を挽回し、もう一度自由陣営の各国へ売り込もうと企てた。
L1200(F204)「ランサー」
そこで、F104の中翼を肩翼にして、翼面積も1.5倍に増やし、エンジンをアフターバーナー付で推力1万1340キロに強化したF104の発展改良型を自主開発した。これがL1200(F204)「ランサー」であり、最大時速はマッハ2.4を超えると言われている。
なお、宇宙開発の実験にもロッキードF104が使用された。F104に推力2720キロのロケット・ブースターを装備して、3万570メートルの高空へ急上昇して滑空する。この時パイロットは一分間の無重力状態を経験出来る。同時に、機首と翼端から過酸化水素を噴射して、大気圏外での操縦訓練も行える。これに使用したF104は、ロッキードNF104と呼ばれた。
NF-104A STARFIGHTER(スターファイター)
以上
ありがとうございました。又、新たな資料が発見されたら又掲載します・・・
スポンサーの皆様です・・・
I love F104 その1
I love F104
その1
Lockheed F-104 Starfighter
皆さまはご存知でしょうか?ロッキードF104 スターファイターを。キャッチコピーを〈最後の有人戦闘機〉と呼ばれた異色の戦闘機です。このF104に関する懐かしいお話を色々お伝えします。
朝鮮戦争のミグショックから生まれたF-104スターファイター より引用します
ロッキードF-104スターファイター(就役1954-1975)は1950〜60年代に一世を風靡したアメリカ空軍センチュリーシリーズ戦闘機の一つで、ロッキード社の鬼才クラレンスのケリー・ジョンソンが開発にあたりました。
F-104はセンチュリーシリーズの他の機体に比べて格段に小型・軽量に設計されています。例えばF-101の全幅12.09m、全長20.55m、F-102の全幅11.61m、全長20.55mに比べ、F-104は全幅6.62m、全長16.66mしかありません。大型・重装備を特徴としていたアメリカ軍戦闘機にあって、F-104は異色の戦闘機と言えます。これは、朝鮮戦争(1950〜1953)におけるミグ・ショックが大きく影響を及ぼしています。
1950年6月25日に朝鮮戦争が始まり、当初は真面な空軍を持た無い北朝鮮に対して安々と制空権を得ていたアメリカを始めとする国連軍でしたが、中国経由でソ連が介入して来ることと為り、1950年11月朝鮮半島北部上空に突如としてソ連の高性能新型戦闘機のMiG-15が出現します。
ドイツから収奪した後退翼技術とイギリスから入手したジェットエンジンの先進技術を絶妙なバランスを持って融合させたMiG-15は、速度や上昇力と云った運動性能・整備性・武装等、殆どあらゆる面でアメリカを中心とする国連軍の戦闘機を凌駕しており、安々と確保していた制空権は一気に危機的状態に陥ります。
この危機は、同じくドイツから収奪した後退翼技術により開発したアメリカのF-86セイバーを配備し、激闘の末、何とか乗り切る事が出来ました。しかし、辛くも勝利出来たのはパイロットの技量や装備、射撃管制装置等に頼った部分が多く、機体そのものの性能をみるとMiG-15はF-86を上回っていました。
MiG-15とF-86セイバーをみると、機首に配備された空気取入口(インテイク)・後退翼、そしてホボ同じ推力を持つエンジン等、好く似ています。それでもMiG-15がF-86を上回る高性能を発揮して居たのは、その軽量に大きな原因があると言われます。
ソ連(中国)のMiG-15(前)と米軍のF-86。写真:Classic Jet Aircraft Association
MiG-15は空虚重量3,582kg、F-86は5,046kgあり、MiG-15はF-86に比べて約30%軽量な機体と為っており、この差が決定的な運動性能の差と為って現れていると考えられました。
F-104の開発にあたりミグ・ショックの克服を目指したアメリカは、技術者を現地朝鮮に送り調査を行います。その結果、無駄を省いてシンプルに取り扱える基本性能の高い戦闘機が必要との結論に至り、小型・軽量のF-104が開発されることと為りました。
試作1号機は1954年3月に初飛行し、最初はアフターバーナー未装備のXJ-65-B-3エンジンであった為水平飛行では音速を超えることはありませんでした。7月に為ってアフターバーナー着きのJ65-W-7エンジンに換装してマッハ1.51を記録、その後試作2号機がマッハ1.79を達成しています。
無駄をそぎ落とした小型・軽量の機体は、概ね期待された高速性能を発揮したものの、アメリカ軍は矢張り重装備志向であった様で、F-104の採用は少数かつ短期間に留まります。しかし、全体の生産数は2,578機と多く、これは日本や西ドイツ・イタリア・台湾等アメリカの同盟国や友好国等世界15か国もの国々に供与されたからです。
西ドイツ向けに改良された戦闘爆撃機型のF-104Gは、ヨーロッパ各社でライセンス生産も行われ1,122機が生産されました。G型は各部を強化し垂直尾翼を拡大しフラップを改良しています。これ等の改良からは旋回性能の向上などが想像されます。
そして、このG型を元に造られたのが航空自衛隊向けのF-104J/DJ型(DJは複座型)です。1962年から導入され、三菱重工のライセンス生産により178機が造られました。専守防衛を旨とする自衛隊機である為、爆撃能力は有して居らず専ら防空の為の迎撃能力に特化しています。愛称は栄光、又その形状から三菱鉛筆とも言われました。1995年に退役しています。
それでは、次のレポートを参照します
F104の虚像と実像 より引用します
四発の大型プロペラ旅客機「コンステレーション」シリーズで、ダグラスのDCシリーズに切り込んだロッキードも、遂に四発大型ジェット旅客機の開発に遅れをとり、更に、ボーイング707の先見の明に服して、その開発を諦めた。
しかしこれは、民間機の部門を一時中止したと云うだけであって、軍用機では次々と名機を送り出していたのである。詰まり、軍用機の開発と生産で追われていた為に、四発大型ジェット機の開発まで手が回らなかったと云う事である。
F-80C Shooting Star
1 F86Dへの繋ぎ役F94A
戦中から戦後に掛けての、ロッキード軍用機のピカ一は、何と言ってもP(F)80「シューテイングスター」だった。これを改造してRF80C「シューティングスター」写真偵察機が生まれた。これはF80C(戦後PからF=Fighter の頭文字に変えられた)の機首の武装を取り去って写真機を装備した偵察型である。
更に、後席を設けて複座とし、練習機としたT33Aへ発達した。これは世界最初の本格的ジェット練習機で、操作が容易なのと射出座席などあらゆる装備が着いているので、実用機と殆ど差が無く、米空・海軍をはじめ世界各国で使われた。
日本にも、航空自衛隊の主力ジェット練習機として60機供与され、川崎航空機で約210機が国産化されている。現在の航空自衛隊幹部のパイロッ卜出身者は、殆どこの機体のお世話に為っており、“ティー・サン・サン”(T33)に愛着を持っている。
只、設計が古い為、最大時速は1000キロに満たず、又燃料消費量が大きくて航続力の少ないのが欠点であった。
1949年にはF80を基礎として機首を伸ばし、そこヘレーダーを入れて、複座の全天候戦闘機としたF94Aが造られた。これは未だ適当な全天候戦闘機が無く、ノースアメリカンF86Dに代わるまでの繋ぎ役となった。朝鮮戦争にも多数出撃している。
ロッキードXF-90 World Weapon
エンジンが強化(推力3000キロ)され、最大時速は1030キロ、実用上昇限度1万4800メートルと好くなっている。F94B及びCも造られた。更に1949年6月には、浅い後退翼を持ったXF90戦闘機を初飛行させている。現在から見れば、F80とF104の中間的な設計であるが、出現当時は革新的戦闘機として騒がれた。
しかし、未だ大出力のジェット・エンジンが無く、ウェスチングハウスJ46推力2700キロ2基とした処に難があり、最大時速も1200キロ前後だった為に不採用と為った。このエンジンを推力3140キロ二基に換装したXF90Aも試作されたが、矢張り採用され無かった。とは言え、このテスト結果が、後のF104に生かされたことは勿論である。
航空自衛隊のジェット練習機T33A「若鷹」 T33A
ロッキードF80戦闘機を複座に改造したもので、世界最初の本格的ジェット練習機と為った
ロッキードF94A
ロッキードF94A :複座の全天候戦闘機でノースアメリカンF88Dに代わるまでの繋ぎ役だった
2 夢の飛行機VTOLの挫折
離着陸の滑走無しに、詰まり飛行場の全く要ら無いVTOL垂直上昇機は、飛行機が未だ夢だった時代から、レオナルド・ダ・ビンチのスケッチにも現れて居る様に盛んに研究されていた。しかしこれが容易で無い事は、飛行機の歴史が証明する通りで、ヘリコプターとして実現したのが40年足らず前だった。
その後、ヘリコプターは順調な発達を遂げて行ったが、回転翼によら無い型式・・・推力の変向、主翼取付け角の転換で垂直に上昇するタイプは、多くの試作機が造られたにも関わらず殆ど成功していない。
只一つ、イギリスのポーカー・シドレー「ハリヤー」が、推力変向式ジェット・エンジンを用いて、垂直上昇戦闘機を完成し実用化しただけである。矢張り、何トンもある機体を回転翼を用いずに垂直上昇させ、垂直降下させることの難しさは並大抵のことでは無く、ジェット・エンジンの推力を巧みに利用することによって初めて可能に為った。
そうは言っても、戦中から戦後に掛けて飛行機そのものをVTOL化させ、防空戦闘機として用いようとする試みはしばしば行われた。離着陸に要する時間や、場所を全く必要としない利点は、堪らない魅力があったからである。
その一環として、アメリカ海軍では1950年頃から、各メーカーにその可能性を打診しテスト機を作らせようとした。これに応じたのが、他ならぬロッキード社とコンベア社で、両社とも二重反転式の大直径プロペラを付けた飛行機を上向きに垂直に立てて、大きな十字型の尾翼で支えるようにした。
只、ロッキード社のXFV1が主翼を普通の先細翼としたのに対し、コンベア社のXFY1は三角翼を採用したので、支えは主翼と上下二枚の垂直尾翼であった。しかし両機とも、何のことは無いヘリコプターの変形で、二重反転にしてトルクを消した大直径のプロペラを、回転翼代わりとしただけの話である。
XFY1の方は、一応、垂直離着陸とその後の水平飛行に成功したが、いかにも操作が難しくベテランのテスト・パイロットにして初めて可能だったと云う。
ロッキードのXFV1は、1954年3月からテスト・パイロットのハーマン・サルモンによって、エドワーズ空軍基地でテストされたが「上昇、降下のエンジンの調節が困難だし、パワー不足ではどうしようも無い」と言って、サジを投げた。VTOL戦闘機開発中の涙ぐましい一コマだが、結局はこれ以上は無理とわかり開発は中止された。
実用化した唯一の垂直上昇戦闘機、イギリスのポーカー・シドレー「ハリヤー」
それでは つづきを その2に 要約F104の開発が始まります
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