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2019年03月31日

「平成」の30年 何故日本はこれ程凋落したのか?





 「平成」の30年 何故日本はこれ程凋落したのか?


 JBpress 3/29(金) 6:15配信 より引用してます


  




        3-31-11.jpg 

   自分なりの成功」追いかけて・・・青山社中リーダー塾 朝比奈 一郎氏



 「平成」の30年 何故日本はこれ程凋落したのか?


 間も無く新元号が発表され、およそ30年続いた「平成」も終わりを告げようとしています。昭和の様に戦争にも巻き込まれること無く、一見平穏だった30年間の様に思えますが、実は大変な激動の時代でもありました。そこで改めて、平成と云う時代を振り返ってみたいと思います。


 1 平成の三大構造変化


 平成には、3つの大きな構造変化がありました。

 1つは、戦後レジームの崩壊です。平成が始まった1989年は、丁度ベルリンの壁が崩壊に向かう年でした。そこから、それ迄厳然としてあった東西冷戦構造が一気に終結に動き始め、2年後には東側陣営のリーダーであるソ連までもが崩壊してしまいます。将に戦後レジームは、平成の始まりと共に崩れ、その結果、アメリカ一強状態が現出しました。

 2つ目の構造変化は、中国の台頭です。日本で平成と云う時代が始まった頃の中国はと言えば、国際政治や国際経済の舞台で、それ程影響力を持った存在ではありませんでした。確かに人口は多く国土も広く可能性を秘めた国ではありましたが、当時はマダマダ開発が進んでいませんでした。それが平成と云う僅かな期間に、目覚ましい発展を遂げて行ったのです。

 平成の初期、中国がここまで発展を遂げることを予想している人は多くはありませんでした。むしろ当時盛んに予想されていたのが「日米欧三極体制」の出現でした。欧州諸国が結束しEU創設を定めたマーストリヒト条約の調印が行われたのは平成4年。
 これによりヨーロッパがEUと云う巨大な統一市場を形成し、日本、アメリカと共に経済の中心に為ると云う観測です。しかし平成の終わりを迎え、結果的に登場したのは、アメリカと中国による二極体制でした。

 そして3つ目の構造変化は、日本の凋落です。残念ながら、平成の30年間は、国際社会における日本の存在感が圧倒的に小さく為って行くプロセスでした。.

 データを見てみましょう。平成6年、世界のGDPに占める日本のGDPの割合は17.6%でした。同じ年にアメリカは24.8%です。詰まり日米両国で世界のGDPの4割以上を叩き出していたのです。これが平成29年に為ると、日本の割合は6.1%。存在感はホボ3分の1に為ってしまいます。
 又スイスのビジネススクール「国際経営開発研究所(IMD)」が毎年発表している、国際競争力ランキングで、日本は平成元年から4年まで1位でした。それが2018年には25位。この数年は20位代後半をさまよっています。世界の時価総額ランキングも、世界のトップ50社を見ると、平成元年には日本企業が32社も占めていたのに、平成30年ではトヨタ1社が35位にランクインしているのみ。何ともお寒い状況です。

 国際経済の舞台で、日本は凋落の一途を辿って行った・・・それが平成と云う時代でした。

 冷戦体制とは、イデオロギー的に言えば、共産主義や社会主義と資本主義との対立構造です。これが終焉したと云う事は、ヤヤ乱暴に言えば「共産主義や社会主義の考え方は誤りで、資本主義が正しかった」と世界中が認識したのです。フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』の原論文が出たのも平成元年でした。
 勿論、共産党一党支配の元の社会主義共和国体制で急成長を果たした中国の一部の人々は違う意見を持って居るかも知れませんが、世界全体で見れば「最終的には資本主義が勝利した」と云う認識が非常に強くありました。

 平成当初、日本人は「資本主義が正しかった。その先頭ランナーの一人である我々は、これからも世界経済の中心に為って行くだろう」と考えていたと思います。

 冷戦が終わり、共産主義や社会主義と云う対立するイデオロギーの存在感が非常に小さく為ると、今度は資本主義の原初的な特徴が非常に強く出て来る様に為りました。どう云う事かと言えば「カネがカネを生む」と云う資本投下の仕方を、より効率的に行おうとする動きが出て来たのです。
 具体的に言えば、日本が得意として来た製造業中心の資本主義から、もっと資本効率の良い金融業やIT産業が経済のメインストリームに為って行ったのです。

 この過程で、アメリカはウォールストリートの金融業や、シリコンバレーのIT企業、特にGAFA(Google・Apple・Facebook・Amazon)と呼ばれるIT界の巨人が経済成長を支えて来ました。中国も、巨大な国内市場を強みにして、IT企業や金融機関が成長し経済を牽引しています。この変化に日本は着いて行けませんでした。それが日本凋落の原因なのです。


 




 2「教育敗戦」が招いた「人的資源の劣化」


 では、日本は何故この変化に着いて行け無かったのでしょう?元々日本人は、時代の大きな変化に柔軟に対応して行く事が得意な人達でした。

 典型は明治維新です。それまでの徳川幕府の時代からすれば、明治維新は社会構造を根本的にヒックリ返す様な改革です。各地に君臨した殿様の権限を全部取り上げて廃藩置県を行ったり、米で納めさせていた税金をお金で納めさせる様にしたり、国民全員に初等教育を受けさせる義務教育を導入したり・・・
 どれを取っても「消費税率を8%から10%に」等と云うレベルの改革ではありません。明治維新と云うのは、本当に無茶苦茶な改革でした。近代西洋とブツカリ合って「ア、そう云う時代なんだ、このままじゃ生き残れ無いんだ」と、鍵となる日本人達が認識したからこそ、過去をかなぐり捨てて時代の変化に食らい着いて行ったのだと思います。

 戦後も同様です。日本はアメリカとガチンコの戦争をし、徹底的に叩き潰されました。ハッキリ言って「終わった国」だった筈です。しかし、その状況から日本人は、欧米型の民主主義・資本主義に対応して行きました。
 自動車も家電も、日本人が発明したものはありませんでしたが、欧米企業にキャッチアップし、遂には抜き去る様にして、経済大国へとノシ上がって行きました。1979年には『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と云う本もアメリカで出ました。

 詰まり歴史を振り返ってみると、新しい時代・新しいゲームに着いて行く事は、本来、日本人は何処の国の人達よりも得意な筈なのです。

 処が、平成の時代に起きた世界の構造変化には、サッパリ着いて行け無かったのです。その原因は、一つしか考えられません。それは「人的資源の劣化」です。もう少し突き詰めて言う為らば、平成に起こった日本の凋落は「教育の敗戦」の結果だったと言えるでしょう。

 高度成長期から平成の最後まで、日本人の教育は「受験して好い学校に入り、好い会社に入り、そこで頑張って出世する」と云うゲームをする為の教育でした。学校教育の仕組みと云うレベルを越えて、社会全体でそう云うゲームを作ってしまった訳です。その結果、イノベーティブな人が多数出て来たり、活躍したりし難い社会に為りました。


 




 3 エリート中心主義の末路


 これは実は、中国の過つての凋落の歴史に近いと思います。例えば、17〜18世紀に掛けての中国の清朝は世界に冠たる帝国で、世界中のどの国と争っても負ける筈が無いスーパー大国でした。しかも科挙と云う試験によって、あの広大な中国大陸の中から、飛びっきりの秀才だけをかき集めて国家運営をしていたのです。世界最強の国が、最高の人材を集めて国家運営しているのだから、負ける筈がありません。

 処が19世紀に為るとその勢いが衰え、西欧諸国に事実上植民地化され、敗れて行くことに為ります。私はこれは、科挙と云う超難関試験を突破する事だけを考えて勉強する様に為ったエリート中心主義に失敗の原因があったと思うのです。

 既存の枠組みの中で、試験を突破して好い処に入り、そこで同じ様な教育を受けて居た仲間との競争に勝って出世して・・・と云う志向の人材を集めてしまうと、大きな変革の時代には対応出来ません。全体として大きく躓(つまづいて)いてしまうのです。何故なら、こう云う教育の中からは、全体の枠組みを考えたり作ったり、新しいチャレンジをする人材は生まれて来難いからです

 過つて日本人は学ぶことを「学問をする」と言っていました。学問とは、問いを学ぶと云う事です。そこには「自分で問題を見つけ出し、その答えを自分で考える」と云うニュアンスが含まれています。
 しかし昭和の後半から平成の時代の学びは、「学問」では無く「勉強」でした。これは、自分で問いを立てたりすることは無く、与えられた問題に対する正解を覚える・選ぶと云う行為です。予(あらかじ)め決まった正解を、どれだけ多く覚えられるかを競うのが「勉強」でした。こう言った「勉強」中心の教育に為ってしまった事が、日本凋落の原因だと私は感じています。

 例え答えが見付から無くとも、自分で問いを立て自分で考える。自立的に物事を考え、自ら行動を起こせる様な人材を育てる教育こそが、本当は必要だったのです。

 ちなみに、猛烈な経済成長を実現している現代の中国の教育ですが、実はこれも「勉強」型の教育スタイルです。一人っ子政策が続いて来たお陰で、中国の家庭では一人の子供の教育に多額の資金を投じます。その為語学の様な基礎学力等では物凄くレベルの高い人材が非常に沢山生まれています。
 但し、それでも激しい受験競争を勝ち抜くことが“ゲーム”の本質に為って居て、例えるなら日本の受験競争システムをもっと激しく大規模にした様なものです。

 その為若者達は、ゼロベースから自分で思考して行くと云う面では、チョット弱い様な印象です。今はイノベーティブな野心家が沢山居ますし、人材の層が厚いこともあり、暫くは中国の成長は続くと思いますが、このままの教育システムが続けば、長い目で見れば日本の様に時代の変化に取り残されてしまう可能性があるのではないかと云うのが私の予想です。
 
 それはさて置き、日本の教育システムが時代の流れに食らいついて行けない様なものであるならば、元号が変わる今こそ、変革して行く絶好の機会です。


 




 4 消滅した「人物教育」の機会


 では、どう再建するべきか。私が考えるポイントは2つです。

 1つは、自由な教育の推進です。

 現在の教育は、私立大学であっても文科省の規制の中で行われています。教育内容や単位数、教員と為る為の論文の数等、アレコレ細かく縛られているのが実態なのです。
 しかし、教育はもっと自由度があってしかるべきでしょう。幕末は、各地の藩校や私塾が、夫々の哲学に基づいた教育を施し、そこから国を引っ張る人物が育って行ったのです。教育に多様性が多くの有為な人物を生みました。学校にもっと独自性を発揮させ、自立的に考え、行動出来る人物を育てるべきです。

 もう1つのポイントは、人物教育の推奨です。

 と云うのも、何故幕末や戦後の混乱期に個性的なリーダーが生まれたのかを考えると、それは家庭教育と地域教育が確りしていたからではないかと思うのです。
 日本に学制が発布されたのは明治5年(1872年)です。それ迄義務教育はありません。寺子屋等で読み書き算盤を習わせる習慣はありましたが、それ以上に地域や家庭での「社会教育」が機能していたのではないかと思うのです。その中心が人物教育です。

 詰まり、自分の父母、祖父・祖母や先祖の立身出世話や失敗談と言ったファミリーヒストリー。或は地域の為に尽力した地元の偉人にまつわる伝承。こうした身近な人達の生き様・人生観と言ったものは、対象が非常にリアルであるが為に、感情移入しながら心に刻み付けることが出来ます。それは、一人の人間が成長して行く過程で、極めて大きな影響を与えるものです。

 自身のことを振り返ってみると、両親は典型的なニュータウン族で、都心からチョット離れたベッドタウンで私は育ちました。その為先祖のことをアレコレ教えて呉れる親戚も身近に居らず、周りも同じ様な家庭ばかりですから地域の偉人にまつわる伝承を聞くこともありませんでした。結局「人間」とか「生き様」について学ぶ機会があまりありませんでした。
 昭和の初期の頃までは、誰もが当たり前の様にそう云う機会に接して居た筈です。その機会が急激に消失して行った事で、日本人の人間性の厚みが縮小して行った様に思われるのです。

 ポスト「平成」の時代は、AIが発達する時代です。その時代には、単なる知識やノウハウを持った人間では無く、人の生き方・社会の在り方を自分自身で考えて行ける様な人材の存在が重要に為る筈です。今の教育システムでは不十分です。
 私自身は、8年前に青山社中リーダー塾を立ち上げ、自ら塾頭として教鞭を取っていますが、相当思い切った教育改革を社会全体で考えて行かなければならないと痛切に感じています。

 朝比奈 一郎


 朝比奈 一郎氏 Ichiro Asahina 青山社中塾 筆頭代表(CEO) ビジネス・ブレークスルー大学大学院 客員教授

 1973 年生まれ。埼玉県出身。東京大学法学部卒業。ハーバード大行政大学院修了(修士)。経済産業省ではエネルギー政策、インフラ輸出政策、 特殊法人・独立行政法人改 革に携わる。
 「プロジェクトK (新しい霞ヶ関を創る若手の会)」初代代表。経産省退職後、2010 年に青山社中株式会社を設立。現在は自治体(三条市・那須塩原市・川崎市・沼田市・生駒市・妙高市・軽井沢町)のアドバイザー、総務省地域力創造アドバイザー、内閣府クールジャパン地域プロデューサーなども務める。

 筆頭代表ページはこちら クレジットカード twitter:@asahinaichiro



 





 【管理人のひとこと】


 引用させて頂きありがとうございます。昨今の教育は、学問で無く勉強・・・好い大学好い会社出世して好い暮らし・・・の為の受験に特化したものだと断言されました。更に、エリートだらけの集団競争の中からは、世の中を変える様な特異な発想は生まれ難いと。

 著者が、清帝国の科挙による集団エリート体制の弱点を指摘しました。恐らく明の時代位からこの様な国家公務員試験が行われたと思いますが、血縁・地縁・その他の権力の縁から離れた、学問の優劣だけで上級公務員を採用する制度は、当時としては画期だったと思います。学問さえ優秀なら大臣やそれ以上の地位に就けるのです。
 しかし、何時の時代でもこの制度は長続きせず、最後には国家が転覆してしまう。そして新たな国家が実力で国家運営を始めるのですが、結局は科挙制度へと戻ってしまう・・・の繰り返しでした。国家運営は学問だけでは制覇出来ないのですね。この制度は、下級官吏を採用するのには最適ですが、国家運営は別の問題の様です。科挙制度は、学問の為の学問に終始した嫌いが有ります。


 




 だから著者は、何も無い時代であった、明治維新や戦後の時代に活躍した人物の生きざまを学ばせたいと考えたのだと推察します。世界の偉人の歴史を学ぶのは決して無駄では無いし、その人達の学んだり努力する姿を文字の上からでも知ることも大切です。決して違うとは申しません。
 が、偉人の真似をし参考にしても偉人に為れるとは限りません。時代背景やその他の要因も変化し、同じ様には行かないこともあるでしょう。
 言わば、模範・見本に学ぼうとするのですが、師として尊敬し真似をしても師を超えるのは難しいでしょう。勿論、偉人の努力する姿に感動し、自分もモットもっと努力しようとの意思を高揚させるには役立つでしょうが、学問とは、己の能力を知る事・その能力を最大限に伸ばし生かす道を自らの力で切り拓く力を言うのでは無いかと思うのです。

 と云うのは、世の中にある偉人伝の殆どが大いに脚色されたフィクションが多いからで、この様な人が居たら素晴らしいな・・・と読者に感動を与えるのがその本の署作の目的でもあるから。例えば、初めから小説(ノンフィクション)と判って居り偉人伝でも無い、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく・・・」の影響は絶大なもの。竜馬ファンは世の中に一杯存在し、明治維新を為したのは竜馬のお陰だと信じています。この様な個人崇拝や愛着だけで何かの役に立つとも限ら無いと思うのです。
 それは、七生報国でお馴染みの幕末の教育者・思想家と言われる吉田松陰にしても同じで、彼を祭り上げて何かの役に立て様との思惑で彼は偉大な人物へと作り上げてしまった。この様な個人崇拝は少し危険では無いか・・・もう少し学問は、自由で伸び伸びとした環境や精神と沢山の愛情から育って行くのです。これは、著者のご意見と全く同じです。

 この論文はとても好く簡潔に平成時代を分析されています。その通りだと私も大いに共感しますし大いに絶賛したいとも思います。今後の貴兄のご活躍を願っています。その他の論評も是非参考させて頂ければ幸いです。




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