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2019年02月01日
北方領土の問題を易しく丁寧に説明します
北方領土問題を易しく解説
易しい北方領土のはなし 北方領土って知っていますか?
1 北方領土って知っていますか?
・北方領土って、何処ですか?
日本の政府は、千島列島の、ハボマイ群島・シコタン島・クナシリ島・エトロフ島(注)を日本の領土だと言っています。しかし1951年は、ハボマイ群島とシコタン島は日本の領土だけれど、クナシリ島とエトロフ島は日本の領土では無いと言っていました。
1956年に今のように言うように為りました。だから、今は、北方領土と言うと、ハボマイ群島・シコタン島・クナシリ島・エトロフ島の事を言います。
戦後、ずっとソ連・ロシアの領土なので、豊かな自然が残って居ます。この為、島には、ヒグマやキタキツネ・クロテン・トドの他、オジロワシやエトビリカなど、普段、目にすることの出来ない珍しい動物が沢山います。これからも、大切に守って行きたいものです。
シコタン・クナシリ・エトロフなどの地名は、日本語では無くてアイヌ語などの言葉です。普通はアイヌ語だと思われていますが、千島列島にはアイヌの他に、千島アイヌ・ウィルタ・ニヴフ・イテリメン等の北方民族の進出もあり、又、アイヌ文化より前にはオホーツク海に広がるオホーツク文化が栄えていたので、アイヌ語とは別の北方民族の言語がもとになってるのかも知れません。
写真(しゃしん)は、海から見たクナシリ島
・日本政府の説明は、世界の人に理解されているのですか?
北方領土問題は、日本とロシアの問題なので、他の国の政府は余り口出しし無い様です。世界で一番有名な百科辞典である『ブリタニカ百科事典』で調べると、英語で次のように書いてあります。
《千島には最初にロシア人が住み着いた。これは17・18世紀の探検に引き続いて行われた。しかし、1855年、日本は南千島を奪い取り、1875年には全千島列島を領有した。
1945年、ヤルタ協定に基づいて 島々はソ連に譲り渡された。日本人は引き揚げ、代わってソ連人が移住した。日本は今でも、南部諸島に対する歴史的権利を主張し、 島々に対する日本の主権を回復するようにソ連・ロシアを繰り返し説得している》
これは、ロシアの説明と大体同じで、日本政府の説明とは違います。この様に、日本政府の説明は世界中から余り理解されていません。
・何故「北方領土」と言うのですか?
日本は、1951年に結ばれたサンフランシスコ条約で千島列島を放棄しました。千島列島は日本の領土では無いと世界に向かって約束しました。
クナシリ島・エトロフ島は千島列島の南の方にあるので「千島列島南部」「南千島」と呼ばれて居ました。サンフランシスコ条約を結んだ時、日本政府は「クナシリ島・エトロフ島はサンフランシスコ条約で放棄した千島列島に含まれる」と公式に説明していました。
処が、それから5年後の1956年になると、日本政府は「サンフランシスコ条約で放棄した千島列島にクナシリ島・エトロフ島に含まれない」と言いました。そうすると可笑しなことに為ります。「サンフランシスコ条約で千島列島は放棄したけれど、南千島は千島列島では無い」1956年になってから、言うことを変えた為に、日本語として可笑しなことに為ってしまいました。
そこで、日本政府の主張が正しいと感じるように「北方領土」と言うように為りました。国会で「北方領土」の言葉を最初に使った人は、外務省の下田武三さんで1956年3月10日のことです。クナシリ・エトロフ・シコタン・ハボマイのことを北方領土と言う様に為ったのは1956年からですが、1960年までは「北方領土」よりも「南千島」と言われることの方が多かった様です。
1964年になると、これまでの「南千島」では無くて「北方領土」と言うように政府は国民に指図しました。これによって「北方領土」と言うと、クナシリ島・エトロフ島・シコタン島・ハボマイ群島のことになりました。
・北方領土には、どんな人が住んでいるの?
現在、ロシアの領土なので、ロシアの人が住んでいます。ロシアは色々な民族が住んでいる国なので、北方領土に住んでいる人も、民族は色々です。
写真は、日本人旅行者をにポーズをとる、クナシリ島の子供たち
(このページのクナシリの写真は、全て、2008年に北方領土旅行をした松村氏が撮影したもの)
・北方領土に日本人は行けるの?
行けます。ロシアの領土なので、海外旅行に為ります。日本から直接北方領土に行く船や飛行機は無いので、サハリンから行くことになります。
但し、日本政府は日本の領土だと主張しているので、日本人には行って欲しく無いと言っています。又、北方領土の観光旅行を募集することを日本政府は認めていません。この為、自分で手続きをしないとならないので、面倒です。
日本政府は日本の領土だと主張しているので、日本政府の事業と無関係・無許可に、北方領土に行か無い様にと言っています。もし、日本政府に睨まれると困る仕事をしている人や、お父さん・お母さんがその様な仕事をしている人は、日本政府の事業とは無関係な北方領土旅行をし無い様強く勧めます。
・北方領土に、手紙は出せるの? 北方領土に手紙を出す時、切手はいくらはれば好いの?
出せます。北方領土は、ロシアの領土なので、ロシアに手紙を出す時と同じです。航空便で25g以下の手紙を出すならば110円の切手を貼ります。
北方領土は、ロシアの領土なので、宛て名にはロシアの国名『Russia』或いは『Russian Federation』と、必ず書きます。英語の他に、フランス語、ロシア語も認められています。手紙の中身は何語でも構いませんが、宛て名は英語・ロシア語・フランス語のどれかで書きます。普通は、国の名前は英語でRussiaと書いて、それ以外はロシア語で書くのが良いでしょう。
例えば、エトロフ島クリリスクのギドロストロイ会社に手紙を出す場合は次のように書きます。右側は、判り易い様に日本語で意味を書きましたが、手紙の宛て名は左のように書いきます。この中で、694530とあるのは郵便番号です。
ЗАО ≪Гидрострой≫Russia 株式会社≪ギドロストロイ≫
694530 Сахалинская область, 694530 サハリン州
Курильский район, г. Курильск, クリル地区 クリリスク市
ул. Заречная, 11-а. ザレチュナヤ通り 11-a ロシア
日本政府は「北方領土は日本の領土だ」と言っていまが郵便は外国扱いです。それに、北方領土に勝手に旅行するなと言っているのに、北方領土への手紙は外国として扱っています。郵便は万国郵便条約と言う、世界の決まりに従って居る為です。旅行は日本政府が国民に「旅行するな」と言う事が可能です。しかし、郵便は世界の決まりがあって、日本政府も世界の決まりを守らなくてはならないのです。
・北方領土に日本人は住めないの? 北方領土に日本人は住んでいるの?
日本政府は国民に「北方領土に行くな」と指図しているので、北方領土には日本人は一人も住んでいないことに為って居ます。しかし、北方領土にあるロシアの会社で日本人が働いていることがあるので、こう云う人たちが北方領土に住んでいることがある筈ですが、詳しいことは判りません。又、サハリン州知事だったフョードロフさんは、日本のアイヌの人達に「何時でも来て下さい」と言っていたそうです。
1945年に、日本が戦争に負ける前までは、北方領土には1万6千人ほどの日本人が住んでいました。又、北方領土と同じように日本の領土だった南サハリンには40万人ほどの日本人が住んでいました。
日本が戦争に負けて、北方領土や南サハリンがソ連の領土に為っても、直ぐには日本へ帰国することが許されませんでした。 1946年12月に日本へ帰国することが許される様に為ると、殆ど全ての日本人は日本に帰ることを希望して1949年7月までに日本へ帰国しました。
北方領土に残った人たちも、その後全てサハリンやソ連本土に移住しています。北方領土からは、日本人は誰も居なくなったのですが、日本に帰国しなかった人たちの2世・3世・4世の中には、その後、北方領土に移住した人もいます。この為現在、北方領土には日本人の子孫の人も住んでいます。但し、この人達の国籍は全てロシア人です。
・北方領土で暮らすロシア人と仲良くすることはできないの?
日本政府は次のように言っています。「残念だけど、今、君達が自由に北方領土へ行って、ロシアの人達と好きな時に遊んだりお話したりすることはできない」そんなことはありません。仲良くする気があるなら誰でも仲良く出来ます。ロシア語が出来きないと大変だけど。シコタン島の人と文通している人や、時々、北方領土に行く人など色々な日本人が居ます。
・北方領土は、どうしてロシアの領土なの?
昔、日本は強力な軍隊を以て、廻りの国を侵略して居ました。朝鮮半島を植民地にしました。更に、中国を侵略し多数の人を殺傷しました。中国東北部に「満州国」と云う国を作って、中国東北部を支配し中国人を弾圧しました。又、北方領土のエトロフ島には大きな海軍基地を作りました。第2次世界大戦では、エトロフ島から密かに出航した軍艦がハワイのパールハーバーを奇襲しました。
第2次世界大戦の終り頃、ソ連は日本に宣戦布告して、日本が支配していた満州国を解放し中国人を開放しました。この戦争は日本が負け、そして、日本が再び廻りの国々を侵略し無い様に、日本はアメリカなど戦勝国に暫くの間占領され、日本の領土は、本州・北海道・四国・九州、それから、日本に勝った国が決めた島々に限られました。
終戦後、日本を占領していたGHQのマッカーサーは、北方領土を始めとする日本周辺地域の日本政府の行政権を停止する命令を出しました。そして、北方領土は、ロシアの領土に為りました。日本は千島列島の領有を放棄しました。
・クナシリ島の子供達 皆、スタイルいいのは、何故?
・日本とロシアの国境は何処ですか ?
日本政府は北方領土は日本のものだと言って居ますが、現実にはロシアの領土に為って居ます。この為、日本政府は「日本とロシアの間の国境は決まっていない」と説明しています。言葉では、この様に説明しているけれど、そうも行かないので、北方領土と北海道の間に中間線を定めています。図の青線です。この線は日本が引いたものですが、ロシアも同じような線を引いています。
日本の漁船は、この線よりもロシア側で魚を取ることや入ることが禁止されています。コッソリ入って魚を取ると日本の法律で罰せられることに為ります。ロシアに捕まるとロシアの法律で罰せられます。
・昔、北方領土が、日本の領土だったって本当なの?
北方領土だけでは無く、南樺太・朝鮮半島・台湾・南洋群島など広い範囲が日本の領土でした。アメリカ・イギリス・中国等の国は、日本が奪い取ったと批判して居ました。日本は戦争に負けた時に、奪い取ったことをを認めこの様な地域は日本の領土では無くなりました。
上の地図は、日本が戦争に負ける前に作られた中学生用の教科書地図 朝鮮半島、台湾、千島、樺太、南洋群島は日本の領土だった。(昭和13年発行 帝国書院 中学校社会科地図帳 改定 新選詳図 帝国の部)
(昭和27年発行 帝国書院 中学校社会科地図帳)
上の地図は、日本が戦争に負けた7年後に作られた中学生用の教科書地図。
クナシリ島などを含む千島列島や樺太はソ連の領土に為り、朝鮮半島は独立し、沖縄・小笠原はアメリカの軍政に為った。沖縄・小笠原はその後アメリカと条約を結んで日本に戻った。
北方領土はもう少し複雑な歴史を持っています。北方領土のうち、一番大きなエトロフ島の歴史を説明します。
平安時代中期にオホーツク海沿岸にオホーツク文化が起こっています。この文化の担い手は現在アムール川流域に住んでいる人達の祖先だろうと言われているので、この頃にはこう言った人達がエトロフ島に住んでいたと思われます。
江戸時代、この地域に住んでいた人はアイヌでした。1769年、ロシア人イワン・チョールヌイはエトロフ島に渡り、そこで、アイヌから無理遣り毛皮を取り上げます。イワン・チョールヌイは隣(となり)のウルップ島に留まってアイヌに乱暴な行いをします。怒ったアイヌ達は、1770年〜1772年、ロシア人を千島から追い出しました。
1776年ロシア人シェパーリンがエトロフ島に遣って来て、ロシア人とアイヌは仲良く貿易をすることに為りました。しかし、1780年にウルップ島で大きな地震が起こると、ロシア人の多くはカムチャツカへ引き上げてしまいました。
日本人がエトロフ島探検に遣って来たのは1786年に最上徳内が最初です。最上徳内がエトロフ島に遣って来た時には多くのロシア人は居なくなっていました。エトロフ島に住んでいたロシア人は3人だけで他はアイヌでした。最上徳内は3人のロシア人から、エトロフ島やもっと北の様子を色々聞きました。
ロシア人がエトロフ島で貿易をして居た頃、北海道の厚岸では、飛騨屋久兵衛がアイヌを奴隷のように働かせていました。飛騨屋久兵衛は1774年にクナシリ島にも遣って来ましたが、首長ツキノエに追い返されこの時貿易は出来ませんでした。
その後、ロシア人がいなくなってしまうと、クナシリ島のアイヌは貿易が出来なくて困ってしまい、しかた無く飛騨屋久兵衛にお詫びをして貿易をするように為りました。処が、飛騨屋久兵衛は、クナシリ島のアイヌを奴隷のように働かせました。
このままでは、生きて行けないと思い詰めた、クナシリ島や厚岸のアイヌは戦いを挑みますが直ぐに負けてしまいました。「クナシリ・メナシの戦い」と言います。
江戸幕府はこの戦いにロシア人が関係していないかとても心配しましたが、好く調べて見ると関係ありませんでした。しかし、ロシア人が関係した戦争が怒るかも知れないと心配だったので、エトロフ島を日本のものにすることにしました。
1798年、近藤重蔵をエトロフ島に行かせました。この時はロシア人はエトロフ島には居ませんでした。エトロフ島に渡った近藤重蔵は、ロシア人が立てた十字架を引き倒して「大日本恵登呂府」と書いてある柱を勝手に立てました。
エトロフ島のアイヌにはロシアの宗教であるキリスト教を信仰している人がいました。近藤重蔵はアイヌの持っていた十字架等を取り上げて「キリスト教を信仰したら、ウンと罰するぞ」と脅しました。更に、エトロフ島のアイヌにロシアと貿易することを禁止しました。この時から、エトロフ島は日本のものと云うことに為っています。
1855年、ロシアと条約を結び、エトロフ島は日本のもの、ウルップ島はロシアのものと決まりました。
一寸可笑しいと思いませんか?ずっと前から住んでいたアイヌは無視されています。昔からアイヌはエトロフ島とウルップ島を自由に行き来していました。日本とロシアで「何で勝手に決めるんだ」って怒っても好い筈です。
クナシリ・メナシの戦いの後、アイヌは日本人が怖くて逆らえなくなり、クナシリ島などのアイヌの人達は殆ど死に絶えてしまいました。
江戸時代の終わり頃、松浦武四郎と云う人が、シレトコやクナシリを探検して「近世蝦夷人物誌」「知床日誌」と云う本を書いています。これらの本によると、クナシリのアイヌはほぼ全滅してい為、日高地方のアイヌが連れて来られて、男は日本人に奴隷の様に働かされ、女はもっと酷い事を日本人の男にされていました。この為、クナシリのアイヌだけでは無くて、日高地方でもアイヌの人数は随分少なく為ってしまいました。
明治時代になると、旧土人保護法と云う法律が出来て、アイヌは厳しく差別されました。アイヌを差別した旧土人保護法が廃止されるのは平成9年7月1日です。
・どうして2月7日が「北方領土の日」なの?
江戸時代の終り頃、1855年2月7日、伊豆半島の下田で日露通好条約が日本とロシアとの間に結ばれました。この条約で日本とロシアの国境は、エトロフ島とその北にあるウルップ島の間と決められました。エトロフ島は日本の領土、ウルップ島やそれよりも北にあるその他の千島列島はロシアの領土と、そこに住んで居たアイヌを無視して勝手に決めました。
本当は元々住んでいたアイヌの土地なのに、日本とロシアがアイヌの土地を奪って勝手に分けたのです。日露通好条約を結んだ日が2月7日だったので、2月7日を「北方領土の日」と日本政府は決めています。
日露通好条約から、49年後の1904年(明治37年)に、日本とロシアは仲が悪くなって戦争をします。日露戦争と言います。この戦争は日本が勝って、その結果、ロシアの領土だったサハリン島の南半分を日本は取りました。
日本とロシアの間にはこのような戦争があったので、前の日の2月7日を北方領土の日にしているとも考えられます。
・「北方領土は日本に返還しなさい」−日本では皆がそう言っているの?
日本政府は「北方領土は日本に返還しなさい」と言う運動をしています。この為、日本人の多くは日本政府と同じ考えをもって居る様です。しかし、アイヌの団体には、北方領土返還に反対している人達も居ます。同じ考えを持つアイヌ以外の日本人もいます。
例えば、アイヌ解放同盟委員長の山本一昭さんは「『北方領土』はアイヌ民族のもので、和人が『固有の領土だから返せ』とか云うものでは無いんです・・・あの土地は、現在住んでいる者とアイヌ民族のものです」と言っています。
又、北海道アイヌ協会理事の結城庄司さん等は、ロシア札幌総領事館の副総領事に面会して「私達は日本政府や和人が主張する北方領土返還運動には絶対反対であり、北方諸島の領有権は元々アイヌ民族にある」と主張した処、副総領事も北方諸島はアイヌ民族の大地であることを認識し自由な往来を認めたそうです。
注意)「和人」とはアイヌで無い普通の日本人のことです。江戸時代アイヌのことを蝦夷、北海道のことを蝦夷地と言っていました。蝦夷とは外国人と云う意味で、蝦夷地とは外国の土地と言う意味です。
注意)「北海道アイヌ協会」は現在の略称で、当時は「北海道ウタリ協会」。又「ロシア札幌総領事館」は現在の略称で当時は「ソ連総領事館」
・北方領土が日本のものになる可能性はあるの?
難しいですね。1956年、日ソ共同宣言では「平和条約を結んだ後に、ハボマイ群島・シコタン島を、日本に引き渡す」と為って居ます。それから、60年以上経って居るのに平和条約を結んでいないのです。長い間に、シコタン島で生まれ育った人も多いので、こう云う人を無視して勝手に決める訳にも行かないので難しい事です。
クナシリ島・エトロフ島は、もっと、難しいと思います。サハリン州の法律によると、もし、日本のものにする為には住民投票が必要です。現在、北方領土に住んでいる住民の大多数が日本のものに為る事に賛成するならば日本のものになるかも知れません。でも、今は、北方領土に住んでいる多くの人が、日本の領土に為る事に反対しています。
・教科書の地図では、北方領土は日本のもののように書いてあります。他の地図ではどうなの?
現在、日本の政府は、日本の子供達に、日本政府の考えだけを教え込む為、北方領土が日本のもので無い様な書き方を禁止しています。このような書き方が強制されるようになったのは1964年からです。しかし、日本以外の世界の地図の多くは、北方領土はロシアのものになっています。
日本の教科書地図でも、1964年以前は今とは違った書き方がされており、北方領土がソ連の領土になっている教科書もありました。
上の図は昭和25年発行の中学校の地図、下の図は、昭和27年発行の中学校の地図(帝国書院 中学校社会科地図帳)です。 日本とロシアの国境は北海道とクナシリ島の間になっています。この地図では、北方領土はロシアの領土です。今では、このような地図を教科書に使う事はできません。しかし、日本以外の国で使われている地図の多くは、このようになっています。
・千島列島とは何処ですか?
北海道の知床半島の隣にあるクナシリ島から、カムチャツカ半島に続くシムシル島までの島々のことを「千島列島」と呼んでいました。
日本は1951年に結ばれたサンフランシスコ条約で、千島列島を放棄(ほうき)しました。処が、1956年になると日本政府は「サンフランシスコ条約で放棄した千島列島にクナシリ島・エトロフ島に含まれません」と言いました。この為「千島列島」はエトロフ島の先にあるウルップ島からシムシル島までのことを言うのか、クナシリ島からシムシル島までのことを言うのか良く分から無くなって居ます。
今、北方領土返還運動を一番活発に行っている日本政府公認の団体に、(社)千島歯舞諸島居住者連盟があります。戦後、ハボマイ群島や千島から引き上げて来た人達やその子孫達の団体です。ここで言う千島とは何処だろうかと思ってMailで聞いてみた処、団体の名前の千島とは、クナシリ島・エトロフ島・シコタン島の事を指すと受け取れるそうです。こんなに日本政府に近い団体でも、未だにクナシリ島・エトロフ島・シコタン島のことを「千島」と言っています。
終り
【管理人のひとこと】
平安時代のオホーツク文化のはなしから、江戸時代・明治時代から昭和の戦争の時代へと、この問題の変遷を判り易く丁寧に解説されている貴重なレポートでした。「日本の固有の領土だ!」と声高に返還を叫んでも、現実の問題としてそこに住む人々にとっては生活に切迫するものです。その人たちの今後の問題も含めると、領土問題の決着はとても難しいものだと実感します。
アイヌの人たちの話も含めると、日ロだけで済まされ無い歴史問題まで発展しかねません。北方領土・・・と云う、日本側の呼び方までもロシア側は懸念を示したそうです。近隣の友好関係は、韓国の例を見るまでも無く、大変神経質に為らざるを得ません。時間を掛けてユックリと話しても、互いに譲れないものがありそうです。難しい話です・・・ため息がでます。