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2019年07月28日

奇跡的に生還した「回天」搭乗員が語った「死にぞこない」の葛藤


 

 【管理人より】

 〜もう直ぐ終戦の日(8月15日)を迎え様とする。今夏も終戦の日をどの様な迎えるのか・・・色々な思惑が在る様だが、矢張り「戦争」に付いての思いを多くの人が語る事だろう。私達は戦争そのものを知ら無い世代、読み物や映画に数々のドラマを観てそれを想像するだけ。
 戦争を自分の身体で経験した多くの人が鬼籍と為り、その思いは果たして後世へと伝えられるのだろうか。時代が移り戦争を知ら無い人が、過去を学ば無い多くの人が果たして戦争の実態を知り「戦争」を拒絶出来るのか・・・その答えは不確実だ。
 安倍晋三氏の様に、過去を学ぼうとせず(知って居ても知らん振り)にイケイケドンドンで、軍拡に走り憲法を改正し「戦争の出来る普通の国」にしたいとする。本当はこの指導的年代が、「不戦の先頭」に立た無くては為らぬのに、実に不幸な事だ。それを私達国民が選択した事実は重い〜



 




 奇跡的に生還した「回天」搭乗員が語った 「死にぞこない」の葛藤


  
  〜現代ビジネス 7/28(日) 8:00配信〜



 大型魚雷を人間が操縦出来る様に改造した特殊兵器は「天を回らし不利な戦況を逆転する」ことを期して「回天」と名付けらた。一度出撃すれば、戦果の如何に関わらず生還する事は適わ無い究極の特攻兵器であった。


 〜この死が約束された特攻兵器の搭乗員として出撃しながら、奇跡的に生き残った若者が居た。戦況の悪化の中で「国の為に死ぬ事が全て」と考えて居た若者は、何を思って戦い、戦後、何を抱えて生きて来たのだろうか〜


 奇跡的に生還した「回天」搭乗員が語った「死にぞこない」の葛藤



 




       7-28-1.jpg

         回天一型 一人乗り 操縦可能な「目のある魚雷」である


 「回天」の発案者は現場の若手士官だった

 100名の少年兵の視線が一斉に注がれる中、カーテンの様に張られた土色の大きなシートが外されると、中から真黒い物体が姿を現した。それは、巨大な魚雷の姿をして居た。
 竹林(旧姓高橋)博さんは、子供の頃に「少年倶楽部」(大日本雄辯会講談社)で読んだ、1936年ベルリンオリンピック・水泳1500メートル自由形金メダルの寺田登選手の記事で、同選手の泳ぎを形容した「人間魚雷」と云う言葉を瞬時に連想した。

 昭和19(1944)年9月21日、徳山湾に浮かぶ大津島(山口県)での事である。飛行機に乗る事を夢見て海軍飛行予科練習生(予科練)を卒業したばかりの彼等に取って、海に潜る特攻兵器の搭乗員に為るとは想像もしなかった事だったが「今更後へ退けるか」と、竹林さんは覚悟を決めた。

 竹林さんは大正14(1925)年、札幌に生まれた。小学校卒業後、家庭の事情で親元を離れ、東京に出て魚河岸の問屋で働きながら夜学の昌平中学校に通う。朝4時に魚河岸に行き、そこからトラックやオートバイ、或はリヤカーで得意先に魚を納入、時間ギリギリに店に戻って、時には歩きながら路上で読書し、須田町にあった軍神廣瀬武夫中佐(日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死「軍神」とされた)の銅像を仰ぎ見ながらの通学だった。

 中学5年の昭和18(1943)年、海軍甲種飛行予科練習生を志願、同年12月1日、13期生として三重海軍航空隊に入隊した。既に当時、アッツ島玉砕、山本五十六聯合艦隊司令長官の戦死等が報じられ、戦況が不利に為って居る事は誰の目にも明らかだったが「合格は嬉しかったですよ。この戦争で、日本の為に死な無きゃいかんな、と云うのは私達の自然な感情でした」

 と、竹林さんは言う。予科練での生活は厳しかったが、小さい頃から他人の飯を食って育ったそれ迄の苦労を思えば、十分に耐えられるものだった。昭和19(1944)年3月に茨城県の土浦海軍航空隊に移り、猛訓練に耐えて予科練卒業を目前に控えた8月末、大格納庫に竹林さんら偵察要員の約1600名が集められ「必死必殺の特殊兵器」の搭乗員への志願者が募られた。

 「筆記用具の入った手箱を持って座り、司令の訓示を受けました。強制はされて居ません。一歩前へ、とか、手を挙げろ、と云うものでは無く、終わったら希望者は紙に〇を着け、希望しない者は白紙で出せと、それだけでした」

 竹林さんは、迷わず熱望の二重丸に「絶対」と書き加えて提出した。多くの志願者の中から、100名の特殊兵器要員が選ばれた。発表に為った後、選に漏れた練習生達が、どうして自分が選ばれ無いのかと教官に詰め寄る一幕もあった。だが、その時点で、肝心の「特殊兵器」がどう云うものであるかは誰も知ら無い。
 特殊兵器搭乗員に選ばれた竹林さん達100名は、9月1日、盛大な見送りを受けて土浦を出発、呉の潜水学校等でひと通りの教育を受けた後、9月21日、大津島の秘密基地に配属に為った。

 そこで初めて、基地指揮官・板倉光馬少佐より「お前達はこの兵器に乗って貰う」と、シートに隠されて居た特殊兵器「回天」を見せられたのだ。

 「オオっと目を瞠りましたが、直ぐに、ヨシ、これで行くんだと心を決めました。板倉少佐は『もし嫌だと云う者があったら遠慮無く申し出よ』と言いましたが、誰一人として嫌だと云う者はありませんでしたね」  

 回天は、日本海軍の誇る酸素魚雷(九三式魚雷。航跡が目立たず射程が長い)を、人間が操縦出来る様に改造し、頭部には1.5トンを超える炸薬を詰め込んだ「目のある魚雷」で、まさに「人間魚雷」と呼べる特攻兵器だった。


 




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       回天は潜水艦の甲板上に数基ずつ搭載されて目標付近まで運ばれる


 潜水艦の甲板上に数基ずつ搭載されて目標付近まで運ばれ、母艦である潜水艦から発進すれば、敵艦に命中してもしなくても搭乗員は確実に死ぬ。

 特筆すべきは、その開発は上層部の指示では無く、現場の若手士官の発案と嘆願によるもので、発案者自身が先頭に立つ覚悟が明確だった点、他の特攻兵器とは一線を画して居た。発案者の一人、黒木博司大尉は、昭和19年9月7日、徳山湾で訓練中に殉職して居る。

 大津島では「純粋培養」と呼ぶに相応しい外界から隔絶された環境で、顔に未だアドケナサを残した若者達が回天特攻隊員として、究極の「死」に向けての訓練に励んで居た。全員が同じ条件で死と向き合う、男同士の連帯意識からか、そこには「特攻基地」と云う言葉から受ける殺伐とした印象とは裏腹に、和気合い合いと蟠(わだかま)りの無い空気が流れていたと云う。

 攻撃に失敗すれば、自爆か自沈

 11月に為ると、回天部隊の出撃が始まる。回天のもう一人の発案者である仁科関夫中尉も、第一陣、菊水隊の一員として出撃した。残された隊員達は「羨望の眼差しをもってそれを見送った」と竹林さんは回想する。
 隊員達の士気の高さに対して、精密機械である回天の生産、整備が追い着かず、搭乗の順番はナカナカ回って来なかった。竹林さんが回天の搭乗訓練に入ったのは、昭和20(1945)年4月の事である。5月、多聞(たもん)隊が編成され、竹林さんはその中の勝山淳中尉以下6名から為る一隊に加えられた。



        7-28-5.jpg

                   多門隊


 「勝山隊の6名は、出撃まで3ヵ月間、士官も下士官も搭乗員室の同じ部屋で起居を共にしました。これは、同じ目的に向かってひた走る者同士の、心の触れ合いと同化を大切に考えた勝山中尉の方針を、上層部が認めて呉れたのでしょう。
 故あって母親からの手紙が来ない私に、勝山中尉がお母さんから来た手紙を読ませて呉れたり、出撃の悲壮感や緊迫感の中にあっても、互いに思い遣りのある生活でした。普通、軍隊で士官と下士官が同じ部屋で生活する事はあり得無いですから、こんな事は、陸軍でも海軍でも例を見なかったんじゃ無いでしょうか」

 回天の操縦訓練は、最初の一回は一人乗りの狭い回天操縦室に、教える側と教えられる側が向かい合って座っての同乗訓練から始まり、次いで一人で搭乗して、大津島や周囲にある島の周りを回ったり、湾内での方向転換、潜水艦からの発射訓練、そして味方駆逐艦を目標にしての模擬襲撃等、作戦に即した様々なことが行われた。

 通常の魚雷では、発射後の針路変更は出来無いが、回天では搭乗員が自分の目で特眼鏡(潜望鏡)を見て、計算をしながら操縦し突入する。事故を防ぐ為、訓練潜航中の回天には、必ず水上追躡(ついじょう)艇と水上機が随伴して居た。只、回天は無航跡なので、悪天候の時は上空から目視する事が出来ず、訓練は出来無かった。


 




 「特眼鏡以外は目隠しされて居る様な状態ですから、深度、速度、方向等、計算尺での自分の計算とカンだけが頼りです。操縦は出来ますが、飛行機の様に自在に動けるものではありませんでした。
 実際の敵艦襲撃の方法を例に挙げると、先ず、距離2000メートル位で敵艦を発見したら、特眼鏡を下ろして潜ったママ、為るべく敵艦から離れ無い様に15ノット(時速約28キロ)位で航走します。700メートル前後まで近付いたら特眼鏡を上げ、敵艦の速力・針路を判断して、自分で計算して決めた針路にセットして、全速の30ノット(時速約56キロ)で突入するんです。

 突撃中は特眼鏡は上げません。ストップウォッチを睨み乍ら、右手にある電気信管の把手(とって)を握って、敵艦にブツカッタ瞬間に弾頭の触発信管と合わせてスイッチが入り爆発する様に為って居ます。信管は、万が一の不発に備えて、二段構えに為ってるんです。
 もし予定時間が過ぎても命中し無ければ、艦底通過後、やり過ごして浮上し、又左右を確認して再度突っ込む。それでも駄目な場合・・・回天の航続力(30ノットで2万3千メートル)が尽きた場合には、自爆か自沈する事に為ります」


 潜水艦から爆発音が確認された回天の中には、こうした無念の自爆を遂げたものもあると見られる。母潜が近くに居る場合には、自爆すると巻き添えにする可能性があるのと、音で敵に位置を知らせてしまうので、黙ってハッチを開いて自沈する。

 「但し、自沈に備えて自決用の青酸カリ等は渡されて居ませんでした。出撃の時貰った短刀も、愛する回天の中で腹を切ったりして、無様な恰好で死にたく無いと思い、私は持って行きませんでした」


 




 発進命令後、艇内に有毒ガスが充満し・・・ 

 6月に入って、勝山隊6名の搭乗員に、思いがけ無い6日間の出撃休暇が与えられた。敵機の空襲で津軽海峡が危険な為、北海道へ帰る事は許可されず、竹林さんは東京の親戚方に帰省した。


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             回天特別攻撃隊 勝山淳氏


 7月14日、多聞隊にイヨイヨ出撃命令が下る。勝山隊6名が搭乗する回天6基は、伊号第五十三潜水艦(伊五十三潜)に搭載され、出陣式の後基地の隊員総員の見送りを受け出撃した。搭乗員は各自の回天の上に立ち「七生報國」と墨書された鉢巻を締めて、二度と日本の土を踏むことは無いのだと云う悲壮感と、敵艦撃沈の使命感が激しく交錯する思いで、力の限りに両手を振ってこれに応えた。

 「ヨシ、イヨイヨ出番だ、今度は俺が行くぞ、任せとけ、と云う気持ちが強かったですね……」

 戦争が約1ヵ月後に終わるとは、この時は誰も予想して居なかったのだ。敵艦を攻撃する予定地点は、沖縄とフィリピン・レイテ島を結ぶ線上である。伊五十三潜は、日中は潜航し日没を待って浮上する事を繰り返しながら、予定戦場に向かった。
 密閉された潜水艦内に居ると、昼と夜との区別は着か無い。竹林さん達回天搭乗員の居室は、魚雷発射管室に臨時に設けられた寝台だった。酸素の節約の為、用の無い時は寝て居る事に為って居るが、高温高湿の艦内では、ジッとして居ても汗が噴き出して来る。風呂もシャワーも無い。何時敵艦と出会うか判ら無い戦闘航海が続く。

 7月24日午後、伊五十三潜はバシー海峡東方海面で敵輸送船団を発見した。艦長・大場佐一少佐より「回天戦用意」が発令される。勝山中尉は一号艇に、後の5名の搭乗員も艦内から交通筒を通って夫々の回天に搭乗した。搭乗員は、半袖の防暑服に飛行靴(半長靴)に鉢巻と云う出で立ちである。
 搭乗員達が回天に乗り込むと、後のプロ野球盗塁王・阪急ブレーブス福本豊選手の父・福本豊治兵曹が、交通筒のハッチを艦内から閉めた。回天本体のハッチは、搭乗員が自分で開けて乗艇したら内部から閉める。両方のハッチが閉まると、交通筒のエアーを抜いて海水を入れ、回天は何時でも発進出来る状態に為る。

 「私は四号艇に搭乗しました。回天の操縦室は、直径1メートル長さ1.5メートル程の空間に、操縦装置が所狭しと配置されて居て、座ると足も伸ばせ無い狭さです。私の四号艇は、母潜の後甲板、一号艇の真後ろに固縛されて居ました。
 特眼鏡を覗くと、海面からの明かりで一号艇が目の前に見えました。『一号艇発進』艦長の指示がレシーバーを通じて聞こえて来ます。『一号艇発進用意よし』勝山中尉の声が聞こえた瞬間、一号艇のスクリューが回り、エンジンの排気で私の特眼鏡の視界が一瞬、真白に為った。後には、主なき架台と交通筒が残るのみでした」

 
 艦長の判断で、この時の発進は勝山艇だけで中止と為り「用具収め」の命令で、交通筒にエアーが充填され、竹林さん達は再び艦内に戻った。そして程無く、ゴーンと、胸の底を刺す様な爆発音が響いて来た。勝山中尉は米駆逐艦「アンダーヒル」に命中、それを瞬時に沈没させたのだ。
 「アンダーヒル」の艦体は真二つに割れ、艦長以下112名の乗組員が戦死した。回天は通算して、少なくとも敵艦船3隻を撃沈、4隻を損傷させた事が判明して居るが、結果としてこれが命中した搭乗員が特定出来る唯一の戦果と為った。

 伊五十三潜は尚も作戦行動を続行し、7月29日には、川尻勉一飛曹の二号艇が米輸送船に向け発進して居る。8月3日午後、潜航中の伊五十三潜は突然、数隻の敵駆逐艦と遭遇、激しい爆雷攻撃を受けた。頭上を航走する敵艦のスクリュー音が生で聞こえる。至近弾の炸裂、鋭い衝撃、艦内の電灯が消える。執拗な攻撃。
 回天搭乗員・関豊興少尉が「このママでは潜水艦諸共遣られてしまいます。頭上の敵艦と刺し違えますから、回天を出して下さい」と、艦長に詰め寄った。
 日付が変わって8月4日、爆雷攻撃は激しさを増す。遂に「回天戦用意」の命令が九だった。残る4名の回天搭乗員は夫々の回天に乗艇した。

 「その時の感覚と云うのは、生死の極限状況を体験した者で無いと判ら無い。絶対の岐路に立った気持ちは、言葉で言い表す事は出来ません。どんな哲学者でも心理学者でも、正解は出せ無いんじゃないでしょうか」

 発進命令。深度40メートル、訓練でも経験の無い深さである。関少尉、荒川正弘一飛曹の回天が発進。しかしそこで残る二基の回天に不測の事態が起こった。坂本雅俊一飛曹艇は故障で発進不能、竹林さんの艇は、爆雷の衝撃で、エンジン起動時に起動弁に注入する四塩化炭素の瓶に亀裂が入り有毒ガスが艇内に充満、竹林さんは人事不省に陥った。

 ・・・関、荒川艇の発進が功を奏して、間も無く敵艦の攻撃は止んだ。伊五十三潜の艦内に引き下ろされた竹林さんが意識を取り戻した時、大場艦長が「お前には手古摺ったぞ。泣きながら、出して呉れと叫ぶんだからな」と優しく声を掛けた。その間の記憶は竹林さんには無い。


 




 それから僅か11日後の8月15日、竹林さんは、呉軍港に帰投した伊五十三潜の甲板上で、終戦を告げる天皇の玉音放送を聞いた。それ迄考えもしなかった敗戦と云う現実。衝撃に頭の中が真白に為った。遂先日、突入した仲間達の事が脳裏を過(よ)ぎる。「生き残ってしまった」・・・まさに身の置き処の無い思いがした。
 
 「死ぬべくして不幸にも死ね無かった」

 戦後、生まれ故郷の北海道に帰った竹林さんは、30年に渉り炭鉱に勤務、無我夢中で働いた。職員組合の幹部に就任、労働運動の先鋒に立った事もあれば、会社の労務部長として組合側と対峙した事もある。炭鉱が閉鉱し、残務整理を終えた後は職業訓練校の事務長や町内会長等を務めた。

 「炭鉱での過酷な勤務を初め、社会人としての種々の職業体験を通じて私を支えて呉れたのは、回天での経験で培われた精神でした。私はね、奇跡の生還者では無く、死ぬべくして不幸にも死ね無かった、死にぞこ無いなんです。戦後もその事を考えると悶々とした日々を送りましたし、自分が生きて居る事には、今もって戸惑いを覚えて居ます。けれども生かされて今日ある事を思えば、その事実を語る使命と重責を感じます。
 戦争の再現は望ま無い、美化する積りも無い。増してや特攻の生き残りだからと言って、命を粗末に考えて居る訳では決して無い。しかし、アノ時代、自らの死が日本を救うと信じて戦った若者達が居た事は、正しく歴史に刻み込んで欲しいと願って居ます」


 でも……と、竹林さんは続ける。「戦後、男の子を二人もうけて、親と為った立場で回天を考えたら、腸(はらわた)を搔き毟られる思いがしますね・・・残された親御さんの思いは如何(いか)ばかりであったかと、胸が痛みます」

 戦争は「死ぬ事に疑問を抱か無かった」と云う純真な若者達を死地に投じ、戦没者の数だけ悲嘆に暮れる遺族を生んだ。竹林さんの回天が無事に発進して居れば、竹林さんのその後の人生は無く、子供達も生まれて来なかった。
 もし、伊五十三潜が爆雷攻撃で撃沈され、乗組員だった福本兵曹が戦死して居れば、後の「盗塁王」がこの世に生を受ける事も無かった。運命はまさに紙一重。戦争により失われた命と、無限の未来。残された遺族の思い、そして自らを「死にぞこない」と呼ばざるを得無い生還者達の心の葛藤・・・

 大津島で、竹林さんが回天搭乗員に為って75年。彼等の内、生き残った者も全員が90歳を超え、体験を正確に伝承する事も困難に為りつつある。近年では〈私はどんな敵だって怖くはありませんが、矢張り母さんの涙が一番怖いんです〉と云う、後年創作された「遺書」が「18歳の回天特攻隊員の遺書」として流布され一人歩きをして居る。
 だが、戦争に対する反省も特攻作戦に対する批判も、戦いに斃れた若者達への追悼も全ては「事実」の上にのみ成り立ち得る。ファクト無きお涙頂戴的な「作り話」で得られた感動は、幾多の先人達の命と引き換えに得た平和の意味をも空しくするものだろう。先ずは生還者の声にこそ虚心に耳を傾けたい。



    神立 尚紀  以上


 





  【管理人のひとこと】

 旧日本海軍の特殊潜航艇・特攻兵器には幾種類のものがある。主なものは、

 1海龍・2甲標的・3蛟龍・4回天 (人間魚雷)・5特型運貨筒・6震洋・・・等だ。何れも、戦争半ばに日本の連合艦隊は壊滅的敗戦を続け、実質的には戦艦・空母での攻撃は不可能に為った・・・実質的な海軍の崩壊である。そこで出て来たのが「特攻」だ。自分の命を捨てて敵艦に一撃を加える・・・それしか手が無かった。
 戦闘機の自爆攻撃に始まり、潜水艇に爆弾を積んで突っ込む・・・又は、べニア製の小型ボートに爆弾を積み暗夜に敵艦へ突っ込む。戦艦・空母の建造は無理に為り、この様な小型で殺傷力の強い兵器が次々と考案された。

 何れも1.2度の成功を見たけれど、敵の防御も固く非効率・非能率的な戦闘行為であったが、他に方法は無かった。多くの若年の若者が、訓練中や移動中にも犠牲に為り、運好く戦地に辿り付けられても、条件が悪く攻撃中止に為ったり、出撃しても自爆して終わる事も多かった。一億総特攻!とメディアは煽り戦果を過大に報じたが、大きな戦果は挙げられ無かったのが実相だ。
 この体験記を読む通り、作戦に関わった多くの少年・青年は、何の疑いも持たず「祖国の民の為」にと必死に行動するのみ。当時は「国の為に死ぬ」のが男としての最高の生きる道だと教えられて居たしそう信じて居た。

 戦争を起こし「戦え」と命ずる為政者と、それに応え犠牲と為る青少年の対比は、何と悲劇的なものなのか・・・これが国民を大きく二分する戦争の罪悪の一つでもある・・・



 



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