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2019年03月28日

小型ビジネスジェット機で世界を制覇!   ホンダジェット



 【管理人より】
   

 日本の産業界の中で、一つだけの朗報と云えば「小型ビジネスジェット機部門で、ホンダジェットが2年連続世界一の実績!」のニュースだろうか・・・世界の超富裕層だけが持ち得る「プライベートジェット機の限られた市場」ではあるのだが、この快挙を為すまでには、並大抵の努力では無い、それこそ血の滲む様な苦難の連続の末の快挙なのである。
 それでは、ホンダが航空機分野に乗り出す開発初期の頃よりの歴史を追って行こう。それは、2015年の春から始まります・・・東洋経済オンライン記事より引用



 




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 木皮 透庸氏  東洋経済記者  著者フォロー  2015/05/17 6:00 より引用します 

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   ホンダ エアクラフト カンパニー 藤野道格社長と機内で(写真提供 : ホンダ)



 ホンダジェットの開発に"導かれた"男


 思い掛けず入社3年目に決まった運命

 




 2015年4月下旬、羽田空港の格納庫で小型ビジネスジェット機「ホンダジェット」が日本で初公開された。
パイロットを含めて7人乗りで、1機450万ドル(約5.4億円)欧米の企業経営者や富裕層を中心に既に100機以上を受注している。FAA(米連邦航空局)からの最終の型式認証を取得次第、顧客向けに愈々納入が始まる。

 国内メーカーで最後発ながら、ホンダが自動車製造に乗り出したのは1963年。それからほぼ半世紀振りにジェット機で新規事業への参入を果たす。日本での発表会は、事業化を前にした「ワールドツアー」の最初の〈訪問地〉と云う位置付けだ。
 今回のツアー開催を誰よりも待ち望んで居たのが、米国子会社のホンダ エアクラフト カンパニー社長の藤野道格だろう。藤野は今年で55歳に為る。東京大学工学部航空学科を卒業し、ホンダに入社したのは1984年。航空学科出身だが、創業者の本田宗一郎が抱いた「空」の夢に共感してこの会社を選んだ訳では無い。


 




 予期せぬ「辞令」に躊躇(ためら)う


 「自分でコンセプトを考えて、自分で造って、出来れば自分で売りたい性格」

 と自身を分析する藤野。学生当時「自分で製品全体を考えて、それを世界の市場で実現して行く方が向いていると思った。残念ながら、当時の日本の航空機メーカーではそうした仕事をするのは難しく、出来るとしたら自動車会社ではないかと考えた」と云う。   
 複数のメーカーへ見学に行き、最も活気があり若い人にも仕事をさせて貰える雰囲気を感じたホンダを選んだ。だが入社3年目藤野の会社人生を決定付ける辞令が出る。ジェット機開発チームのメンバーに選ばれたのだ。

 「最初、異動を口答で言われた時は、少しためらった。本当に何処まで遣るのかと云う全体のイメージが沸か無かった」

 プロジェクトが基礎研究の域を出ず、飛行機として最終製品まで持って行く意図が無ければ、余り魅力が無いとも思ったからだ。1週間程考えた結果、何れにしても、今後こうした開発のチャンスは無いかも知れないと思い直し「異動させてください」と上司に直接訴えに行った。
 真剣な面持ちの藤野に対し、目の前の上司は笑っていた。「既に(異動は)決まって居るから。そんなことは言いに来なくても好いよ」
 それから30年近く。航空機事業の立ち上げに向かって只管前を見続けて来た。2006年からはホンダ エアクラフト カンパニーの社長を務めている。

 「本当に色々な事があった。喜びや達成感を感じるのは極一瞬。その他の大半の時間は、精神的にキツイ思い出ばかり」

 と藤野は言う。1992年に初号機が完成したが、実験機の範囲を超えるものでは無く、社内でも航空機事業のプライオリティに疑問符が着き始めた。「もうダメか」と思う時が何度もあり「もう1回だけヤッテみたい」と当時の川本信彦社長に見せたコンセプトが、今のホンダジェットの土台に為って居る。


 




 常識破りの”ベストポジション”


 数少ない「喜び」の1つがボーイングでの試験だろう。ホンダジェットの最大の特徴は、エンジンを主翼の上に置くと云う従来に無い構造だ。これで一般的な胴体後部のエンジン配置に欠かせ無い〈横串〉の構造が不要に為った。結果、後部まで客室として利用で着る様に為り、騒音や振動の軽減も図れている。
 主翼の上に何かを置くと、揚力が落ち空気抵抗が増すので難しいと云うのが当時の航空業界の常識だった。だが、開発メンバーは研究と実験を重ね、逆に空気抵抗が下がる”ベストポジション”を突き止める。シュミレーションは問題無し。只、机上の計算は100%では無い。ボーイング社で行う試験結果が出るまで不安で堪らなかった。
 試験に関わったボーイング社のスタッフは、「何も判っていないから、アンナことをして」と云った雰囲気だった。処が、結果が出たら「ベリー・スマート」態度は一変した。

 航空機開発に関わった時間について、藤野はこう表現する。

 「頭の中で色々あったことを思い出すと、(開発チームに加わってから)29年間と云う重みと長さを感じる。だが、余りにも沢山の出来事があったので、アッと云う間に過ぎたと云う”肉体的な時間感覚”を持っている。不思議だが、今思うのは、人はその間に起きる事象の数や重みで、頭の中で感じる時間と、体で感じる時間とは全く逆のものに為ると云う事」

 航空機事業への新規参入と云う道無き道を行く。開発は数え切れ無い試行錯誤の繰り返し。辞めたいと思い会社を何回も休んだ。だが、出社せずに買い物をしていても、スポーツをしていても、何時の間にか頭の中では仕事のことを考えている自分に気付く。何時しか「自分はこの”飛行機を作る”と云う仕事からは逃れられ無い」と思う様に為った。


 




 次の電信柱まで全力で走る


「飛行機産業に新しい価値を」と云う大きなゴールを設定し、目の前のマイルストーンを達成して行く。「兎に角次の電信柱までは全力で走ると云う事を繰り返し、やっとここまで来たと云う感じ」(藤野)

 既に100機以上を受注して居るものの、実績の無いホンダが継続的に受注を獲得し、事業を軌道に乗せるのは容易で無い。過つて米国では、航空機ベンチャーのエクリプス・アビエーションが当初1機100万ドルを切る格安の航空機を売り出し、数千機の受注を集めたが、資金繰りに行き詰まり2008年に経営破綻した。

 ホンダとしては闇雲に受注を追わず、ライバルには無い商品性を売りに、着実に販売を伸ばす考え。発売1年目は50機で、3年目以降は80〜90機の生産を計画、常時、年間販売の2倍程度のバックオーダーを持ち続け、2020年の黒字化を目指す。
 フロリダ州でビジネスジェット機の仲介を手掛けるプライベートジェットカンパニーのダニエル・ジェニングスCEOは「ホンダ製品には二輪や自動車で培った信頼性がある。車と同様のサービス体制を築ければ、市場で優位に立てるだろう」と話す。

 ホンダもその点は認識しており、13年にはサービスセンターをノースカロライナ州の本社内に立ち上げ、FAAの認証も取得。北米全域で7カ所のディーラー拠点を設け、故障の際に1時間半以内に駆け着けられる体制を整えている。
 藤野は「今のお客さんをケアすることが、将来もっと重要なビジネスに繋がる」と、長期的な視点での事業展開にこだわる。


 




 画一的な市場に勝機あり


 顧客に納入してからが、藤野にとって本当の勝負と云えるかも知れない。ビジネスジェット機の市場規模は220億ドルで、この10年で2倍以上に成長しており、米欧が市場の7割を占める。
 ホンダが照準を合わせる小型ジェットの市場を握るのは、米セスナとブラジルのエンブラエルの2強だ。高い安全性が求められるだけに、航空機産業は参入障壁が高く保守的とも言われる。米国で平均的なビジネスジェットの利用は2〜3人の乗客で1回の飛行距離は1000キロメートル程度。この画一的とも云える市場性にこそ、ホンダは勝機があると見ている。

 「適材適所で使い道を絞ったジェットを市場に投入すれば、航空機産業のカルチャーを変える切っ掛けに為る。新しいコンセプトがあれば、市場のパイも広がる」との思いが藤野にはある。
 創業者・本田宗一郎の夢の実現は間近。30年近く掛けてやっと事業化のスタートラインに立った。ここから「空」でのホンダブランド育成には、時間の掛かる地道な作業に為る筈。藤野がホンダジェットに関わり続ける以上、これ迄と同様に途方も無い努力を強いられるのだろう。全ては、飛行機産業に新しい価値を創造すると云う”ゴール”の為に。(一部敬称略) 以上


 




 ・・・それでは、その後から現在までを次のレポートを引用します・・・




 
 ホンダジェット 100年の道のりとは 

 〜宗一郎少年が見た夢からシェアトップ獲得まで〜/span>


  関 賢太郎(航空軍事評論家) 2017.08.30  より引用します


 「ホンダジェット」が2017年上半期のVLJ市場シェアトップを獲得しました。本田宗一郎氏がホンダを創業して約70年、幼い日にアクロバット飛行を見てから100年目の出来事でした。これまでの苦難の道のりを振り返ります。


 




 「ホンダジェット」遂にシェアトップ獲得
 


 2017年8月16日、ホンダの航空機事業子会社であるホンダ・エアクラフトカンパニーは、2017年上半期(1月〜6月)において同社の製造する「ホンダジェット(Honda Jet)」がVLJ(小型ビジネスジェット機)市場において24機の最多出荷数を達成したことを発表しました。


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  2017年上半期、カテゴリ別で最多出荷を達成した「ホンダジェット」(画像:ホンダ)


 「ホンダジェット」は2015年末に引き渡しを開始、現在月産4機(年産48機)ペースで製造されていますが、ビジネスジェットやエアタクシー(チャーター機)として用いられるVLJとしては競合機に比べ客室が大きく、又トイレを持っていることや低燃費であること、そして所有欲を刺激する「格好好さ」が高く評価され引き渡し開始以来好調を維持、2019年には年産80機に拡張することが決定しています。

 順風満帆に見える「ホンダジェット」ですがその実現は苦難の道のりであり、何と100年もの歳月を必要としました。「ホンダジェット」を実現させたもの、それは「The Power of Dreams(夢の力)」でした。


 100年前の1917(大正6)年4月、静岡県浜松市において開催されたアート・ロイ・スミス氏によるアクロバット飛行ショーは観客の度肝を抜く大盛況でした。未だ飛行機が珍しかった時代にあって、ロール(横転)やループ(宙返り)急降下と云ったアクロバットは、見学者のひとりであった当時10歳の本田宗一郎少年に、航空への夢を抱かせるには十分過ぎるものでした。
 その後、本田宗一郎氏は1946(昭和21)年に本田技術研究所(現本田技研工業)を設立。二輪車・四輪車では今や世界で知らぬ者が無い「ホンダ」が誕生します。本田宗一郎氏は創業当初から航空機産業への参入を夢見ていましたが、その実現は更に70年もの歳月を要します。


 




 「ホンダジェット」実現に向けた第一歩とは


 ホンダが航空機事業の最初の一歩を刻んだのは1962(昭和37)年に朝日新聞社が主催し、通商産業省(現経済産業省)及び運輸省(現国土交通省)が後援、ホンダが協賛した軽飛行機の設計コンテストでした。
 このコンテストには後に本田技研工業の社長と為る、東京大学航空学科に在学中であった吉野浩行氏が応募する等、航空に対する夢を持つ優秀なエンジニア達がホンダに入社する切っ掛けと為ります。更に1986(昭和61)年には和光基礎技術究センターが発足、小型飛行機とその搭載ジェットエンジンの開発計画がいよいよスタートします。

 飛行機の研究チームの中には、東京大学航空学科を卒業して3年目の若手であった現ホンダエアクラフトカンパニー社長の藤野 道格(みちまさ)氏の名もありましたが、チームの中に実際の飛行機開発に携わった経験を有する者は誰一人いないと云う、将に手探りの状態でした。
 そんな中にあって1992(平成4)年には、遂に世界初の全炭素複合材ビジネスジェット実験機「MH02」を完成させ、1993(平成5)年3月5日に初飛行を成功裏に実施。そして1997(平成9)年には藤野道格氏を中心とし、後に「ホンダジェット」と為るVLJ開発作業がスタートします。


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    2017年8月現在、月平均4機のペースで生産されている(画像:ホンダ)


 「ホンダジェット」の実機は2003(平成15)年に完成、ホンダ独自開発のジェットエンジン「HF118」が装着され12月3日に初飛行を実施します。これはライト兄弟が飛行機の初飛行を実施してから99年と352日目の快挙でした。
 2006(平成18)年秋に受注を開始すると、何と即日100機を超えるオーダーを集めると云う大人気を博し、ホンダの空への進出を航空機の世界の中心であるアメリカが歓迎しました。


 




 10年にわたる苦難を経て

 
 しかし「ホンダジェット」の開発はここからが苦難の始まりでした。商用飛行機として販売するには、アメリカ連邦航空局(FAA)及びヨーロッパ航空安全局(EASA)によって安全性などが確認された「型式証明」を取得する必要があり、順調に推移すれば引き渡し開始は2012年にも可能であると見込んで居たものの、量産機の開発遅れや型式証明取得の為の試験が当初の見積もりよりも遥かに厳しいものであった現実から、数度にわたってスケジュールが延期されます。

 その間ホンダは「100機を超える受注」と云うアナウンスを実に10年に渉って何度も繰り返す苦しい状況に置かれ続け、その様子に対して冷ややかな視線を向ける者も少なくありませんでした。
 要約「ホンダジェット」がFAAの型式証明を取得したのは2015年12月8日で、初飛行から12年目のことでした。ホンダエアクラフトカンパニーの藤野社長は「この日を生涯忘れ無い」と、これ迄の苦難の道のりと喜びを語っています。
   
 藤野社長は過去に「ホンダジェット」に続く2機種目の開発についても語っており、VLJの枠を超えた更に大型のビジネスジェットの開発に意欲を示しています。「ホンダジェット」の生産が軌道に乗る中、再びホンダグループの「The Power of Dreams」の理念が我々を驚かす日は、そう遠く無いのかも知れません。

 尚、2017年上半期における競合VLJの出荷数は、

 ・セスナ「サイテーション・マスタング」が7機「サイテーション・M2」が15機の合計22機
 ・エンブラエル「フェノム100」が7機 ワンアビエーション「エクリプス550」が4機でした。
 ・ホンダは前述の通り24機で、シェアトップの42%を獲得しました。 以上


 




 ここで別のレポートも参照しよう・・・

    

 世界を翔るホンダジェット

  実現した本田宗一郎の夢


 経済・ビジネス 技術 2019.2.28  谷 定文 氏のレポートから引用


 ホンダジェットは、世界で最も売れている小型ビジネスジェット機だ。巨額の資金を投じること30年。苦難の連続だった開発チームの努力が今、実を結びつつある。


 




 いきなりのベストセラー


 ホンダの航空機事業子会社「ホンダ エアクラフト カンパニー」(本社・米ノースカロライナ州グリーンズボロ)のホンダジェットは2018年、小型ジェット機カテゴリーで世界1位の販売数37機を記録した。43機だった17年に続く2年連続のトップだ。

 ビジネス用の小型ジェット機マーケットをリードして来たのは、米セスナ社を初めとする少数の航空機メーカーだった。そこに飛行機の経験が無い日本の二輪・自動車メーカーが割り込み、しかも、いきなりベストセラーを記録した。

 ホンダジェットの特長は、エンジンを主翼の上面に配置した独特のデザインにある。ビジネスジェット機のエンジンは、胴体に取り付けられているのが普通。この常識を覆す発想により、空気抵抗を減らして燃費性能と航続距離、そしてスピードを向上させることに成功した。
 更に、エンジンを胴体から離れた主翼上面に配置することで室内空間に余裕をもたらすと同時に、室内に伝わる騒音と振動を低減させたと云う。もう一つの特長は、パイロットにとって操縦の負担が大幅に軽減された点にある。ホンダは「スマホの様に、タッチスクリーンに表示されるアイコン等を使って直感的に操作可能」と説明する。

 しかし、ここに至るまでホンダの飛行機事業は、苦難の連続だった。縮小の判断が下され、撤退の2文字がチラツイたこともあった。


 




 縮小された航空機事業


 藤野道格(ふじの・みちまさ)ホンダ エアクラフト カンパニー取締役社長の彼を抜きに、ホンダジェットの歴史は語れ無い。
 入社3年目の1986年、藤野は本田技術研究所 和光基礎技術研究センターに配属され、航空機の設計・開発プロジェクトに加わった。東京大学工学部航空学科で学んだとは言え、自動車メーカーへの入社を決意した彼に取って、この人事は意外なものだった。その後、一貫して航空事業に携わるとも想像していなかった。

 藤野が本格的な研究活動に入ったのは、米ミシシッピー州スタークビルの同州立大学ラスペット航空研究所だった。ここでは、実験機2機を完成させる成果を上げた。
 しかし、バブル崩壊に伴う経営環境の悪化は、カネ食い虫の航空機事業を以前の様に続けることを許さ無かった。ホンダは航空機事業の縮小に舵を切った。藤野を初め全員が日本に帰国、日本の同事業メンバーも他の部署に配転させられた。1996年のことだ。ここでホンダの空への挑戦が途切れたとしても可笑しくは無かった。


 




 夜中に閃(ひらめ)いたアイデア


 藤野の記憶によると、1996年末か翌97年初め、埼玉県の借家で寝ていた時、或るアイデアが閃き夜中に飛び起きた。手元に紙が無かった為、カレンダーの裏側にスケッチを描いた。ホンダジェットの特長、主翼の上面にエンジンを配置した絵だ。藤野自身が何処まで気が付いていたか分から無いが、この夜、ホンダジェットが産声を上げたのだった。

 ホンダジェットの原型と為るデザインはカレンダーの裏に描かれたものだった。(提供:ホンダ エアクラフト カンパニー)

 1997年秋、未だ30代だった藤野は偶然、当時のホンダ社長、川本信彦と立ち話をする機会を得て、航空機事業を続ける意義を説いた。熱意が通じたのだろう、川本は経営会議で提案する様指示した。会議では実験機の開発再開と共に、藤野のプロジェクトリーダー就任人事が決議された。ホンダの空への挑戦は続くことに為った。


 




 初飛行の成功、だが「事業化せず」


 再び渡米した藤野は開発・設計に没頭する。そして2003年12月、ノースカロライナ州グリーズボロのピードモントトライアッド空港で、技術実証機の初飛行に成功した。飛行時間は約1時間だった。
 しかし、ホンダの経営陣が下した判断は「事業化はしない」と云う厳しいものだった。当時、同社は航空機事業を純粋な研究とその技術の自動車への応用と位置付けていた。ホンダによると、事業化するには認定、生産、販売、アフターサービスと難問が山積している上、参入障壁もあると想定されて居た為、社内では事業化に反対する声が多かったと云う。


 




 失意のバハマでの出会い


 失意の藤野はバハマで休暇を取る。家族と朝食を採っている時だった。隣のテーブルから、米国人男性が「可愛いお子さんですね」と声を掛けて来た。
 話している内に、彼は保有するビジネスジェットでバハマに遊びに来て居る事が分かり、藤野もホンダで航空機事業に携わっていると打ち明けた。すると、その米国人男性はホンダジェットの記事を読んだと言い「ホンダジェットは凄く格好好い。売りに出したら絶対に買うから最初に教えて呉れ」と約束して呉れた。藤野に取って、これ以上の励みとなる言葉は無かっただろう。

 ホンダに飛行機を事業化する考えは無かったが、テストは続けられた。2005年7月には、米ウィスコンシン州オシュコシュで開かれたエアーショーでホンダジェットが初公開された。そして延べ数十万人が押し寄せた会場で、主翼の上にエンジンを配した斬新なホンダジェットは熱い視線を浴びた。
 しかし、ホンダとしては、飽くまで自社の航空機技術を世の中に示すのが目的であり、販売に迄事業を広げる計画は無かった。


 




 パンケーキの様にジェットが売れる


 転機が訪れたのは2006年3月だった。藤野は当時のホンダ社長、福井威夫(ふくい・たけお)と直談判してホンダジェット事業化の了解を取り付け経営会議で決定された。同年10月、米フロリダ州オーランドで開かれたビジネス航空ショーで、ホンダジェットを初展示して受注を開始する。この時は100機以上を受注する盛況だった。
 藤野はこの時の様子を「パンケーキの様にジェット機が売れた」と表現する。長年の努力が報われた瞬間だった。会場ではもう一つ、嬉しい驚きがあった。忙しく立ち働いていた藤野は、背後から呼ぶ声に振り返った。バハマで会った男性が「覚えているかい。あの時、絶対に買うと言ったから来たんだ」と、その場で購入契約にサインして行った。

 幾ら高性能であっても、型式証明を取得しないと顧客に機体を引き渡せ無い。ホンダジェットは2015年12月に米連邦航空局(FAA)の型式証明を取得して初めて、実際に販売する事が出来る様になった。受注開始から何と9年も経ていた。この様に、航空機事業は実に息の長いビジネスなのだ。


 

 


 技術者として、経営者として


 勿論、この成功物語は藤野だけでは紡(つむ)げ無かった。日本記者クラブでの記者会見で、藤野はチームの力を引き出す為には「ミーティングを最小限にする」と発言した。
 その真意を尋ねた処、当初はメンバー全員を集めていたが「会議自体が仕事」と為ってしまい、新しいアイデアが生まれ無い状態に陥った。そこで、ミーティングを極力減らして個々のチームメンバーが自ら情報を収集する運営に変更。この結果、「独創的なものを生み出す環境に変えることが出来た」と説明する。

 只、チームが当初の40人から1800人に増えた現在、ミーティングを活用しないと仕事が回ら無いとも認める。要は柔軟に現実的に対応すると云う事なのだろう。研究・開発から販売まで漕ぎ着けるには、技術者としてだけで無く、現場を管理運営する経営者としての能力も求められて居る訳だ。


 




 トイレで受け継がれたDNA


 ホンダの創業者である本田宗一郎に取って飛行機は夢だった。幼少期に来日した米国の曲芸飛行士アート・スミスの妙技に魅せられたのが切っ掛けだったと伝えられている。藤野は、宗一郎に一度だけ会ったことがある。和光の研究センターのトイレで、赤いアロハシャツを着た宗一郎に遭遇したのだ。

 藤野は上司から「本田宗一郎さんに航空機事業のことを絶対に話してはいけない」と厳命されていた。その頃、宗一郎は既に役職から退いていた。しかし、飛行機好きは社内で知られており、開発の話を耳にすれば、復帰を言い出しかねず現場が混乱すると云うのが理由だった。藤野は上司の言葉を守り一言も発し無かった。
 その2年後の1991年、本田宗一郎は84年余の生涯を閉じた。それから更に30年近く時間が流れた現在、ホンダジェットは世界の空を飛び巡っている。言葉こそ交わすことは無かったが、夢を追うDNAは、その時にそのトイレで、宗一郎から藤野に受け継がれたのかも知れ無い。


 谷 定文 TANI Sadafumi経歴・執筆一覧を見る

 ニッポンドットコム常務理事・編集局長。1954年、東京都生まれ。上智大学外国語学部卒業後、時事通信に入り、経済部長、編集局長、常務取締役等を歴任。88〜92年にはワシントン特派員として、激しさを増す日米貿易摩擦を最前線で取材した。2016年から現職。


 ・小型ジェット、初の改良=航続距離を延長−ホンダ

 ホンダは28日、米子会社が製造・販売する小型ビジネスジェット機「ホンダジェット」を改良したと発表した。改良は2015年の出荷開始以来初めて。8月から顧客への引き渡しを始める。

 改良機の名称は「ホンダジェット エリート」燃料タンクを大きくし、航続距離を約2661キロと従来比17%延長した。エンジンの空気の取り入れ方も見直し、客室内の騒音を軽減した。
ホンダジェットの出荷機数は17年に43機となり、軽量小型ジェット機としては世界で最も多かった。


 ・小型ジェット、日本でも販売=来年前半納入開始へ−ホンダ

 ホンダは6日、米子会社が製造する小型ビジネスジェット機「ホンダジェット」を日本でも販売すると発表した。2019年前半の納入開始を目指す。15年12月に北米で出荷を始めて以来、欧州、アジア等に続き約2年半で世界主要地域での販売体制が整う。
 ホンダの八郷隆弘社長は東京都内の本社で記者会見し「グローバルに評価されて居るホンダジェットを、日本の多くの皆様にも利用して貰える様取り組む」と語った。

 ホンダジェットは7人乗り。高い燃費性能に加えて広い客室空間が特徴で、17年には軽量小型ジェット機として世界最多と為る43機を出荷した。大手商社丸紅の子会社・丸紅エアロスペース(東京)が国内販売の代理店と為る。
 価格は最新型「ホンダジェット エリート」が525万ドル(約5億7700万円)航続距離は約2661キロで、東京から北京・上海と云ったアジアの主要都市に飛ぶ事が出来る。

 ・小型ジェット、ホンダが初の年間首位=17年43機出荷

 Newsfrom Japan 経済・ビジネス 2018.02.23

 ホンダは22日、米子会社が製造・販売する小型ビジネスジェット機「ホンダジェット」の2017年の世界出荷機数が前年比約87%増の43機に為ったと発表した。米セスナ・エアクラフトの「サイテーションM2」を抜き、軽量小型ジェット機の機種別で初の年間首位と為った。広い機内空間や高い燃費性能が評価された。

 ホンダジェットは最大7人乗り。カタログ価格は1機490万ドル(約5億3000万円)。独自のエンジン配置で広い機内空間を確保。機体を軽量化した他、設計の工夫で空気抵抗を減らしており、従来の小型ジェット機より速く、燃費性能も高いと云う。

 以上


 






 【管理人のひとこと】


 到頭、日本でも販売されると云うHONDA JETT。一体、日本の誰が初めに所有するのか大いに興味の沸く話題だ。ホリエモンも食指を示しているとの報道も為されているが、世界を股に掛けて飛び回る多国籍企業のオーナー辺りが打って付けだろう。そんな人が日本に居るのだろうか?
 今は失脚してしまったが、日産の元会長ゴーン氏にしたら喉から手が出るほど欲しかったのではないだろうか。残念だが、今では日本から出国も出来ず宝の持ち腐れに為ってしまう。それとも、芸能人か・・・渡辺謙氏辺りが所有すると、自由に日本とハリウッドを行き来出来る。 

 レポートでは、開発までの色々な苦労話が出て来たが、相当の時間と努力が必要だった経緯が理解できる。何事も大事を為すには、一朝一夕では不可能だと思い知らされる。ホンダには、今まで蓄積された信頼と愛着と何かへの期待感が溢れている。
 それは、ユーザーに対する強い責任感と技術力と熱意に表れているのだから、対象が空に駆け上がろうともそのまま引き継がれるだろうと期待も出来るし裏打ちもされている。HONDA JETTは、素人の目で見ても実に美しいフォルムをしている、まるで海を泳ぐイルカの様な愛くるしくさも兼ね備えている。無駄を削り機能を追い求めると、この様な美しさと可愛らしさに凝縮されるのだろうか。


 ここで話は変わるが、日本のお家芸とは一体何なのか?と思い返してみよう・・・次のレポートを参照しよう



 




 日本のお家芸「技術力」が、実は景気回復の足を引っ張っている


 国内2016.08.24 44 by 『日本の情報・戦略を考えるアメリカ通信』
 より引用 shutterstock_202364875


 バブル崩壊以降、その重度な「後遺症」に悩まされ続けている日本。技術力に関して云えば世界的に高い評価を受けている我が国が、ここまで「負けパターン」から抜け出せないのは何故なのでしょうか?
 無料メルマガ『日本の情報・戦略を考えるアメリカ通信』の著者で戦略学者の奥山真司さんは「現代社会を生き抜く為に必要な『戦略』と云うものを、日本人が正しく理解して居ない事がその本質的原因」と指摘しています。

 




 日本人は「戦略」を本当の意味で理解できているのか?


 そもそも戦略とは何か? 何故日本人はこの発想が苦手なのか? それを解決する方法はあるのか?これから、改めて「戦略」と云うものに付いての根本的な話を敢えて考えてみようと思います。少し長くなりますがお付き合い下さい。
 国際問題について解決法を示している本は幾らでもありますし、個人や組織向けの「成功本」や「ビジネス本」も沢山あります。ですが、ちっとも状況は解決していません。その問題の本質的な原因は何処にあるのか?

 一言でいえば、一般的な日本人は「戦略」と云うものを勘違いして居る様な気がして為りません。だからこそ、巷に出回っている国家戦略に関する本や「ハウツー本」を幾ら読んでもサッパリ上手く行か無いのではないか・・・戦略的な考え方は、今後の暗闇にも似た世界の中を、日本の政府や企業、そして個人が生き抜く為には絶対に必要に為ります。
 日本人は、そもそも「戦略とはどう云うものか」と云う本質的なことは絶対に習わ無いので、或る程度まで理解出来ても、根本的な処がナカナカ身に着きません。日本人が戦略を体得する為のヒントは「戦略をタテに考える」と云う事です。

 戦略は、上下の「階層」に分かれています。例えば国家が戦争をする時、先ず必要なのは、優秀な兵隊や戦車・戦闘機を支える「技術」これ等は最も具体的なもので、使い熟せ無いと意味がありません。その為に必要に為るのが「戦術」更に、幾つかの戦術を使って大きなプロジェクトを達成する為には「作戦」が必要。
 処が「作戦」だけは戦争には勝てません。勝つ為には「作戦」を幾つか束ねて軍事的に相手を圧倒する為の「軍事戦略」が必要に為ります。更にその上で、国家の資源を戦争で活用する為の「大戦略」が必要に為って来ます。

 大戦略を準備するには軍人だけで無く政治家のバックアップが絶対に必要で、その政治家は国の「政策」を決定する。そして政策の最終的な方針は、その国のリーダーが持つ「自分の国は何者で、どの様なビジョンがあるか」と云った「世界観」に決定されます。詰まり戦略と云うのは下から順に「技術戦術作戦軍事戦略大戦略政策世界観」の7つのレベルに分けられます。

 そして、ここが大事な処ですが「上位の者が下位の者を決定する」と云うの原則です。この「戦略の階層」と云う概念を個人に当て嵌めて考えてみましょう。

 語学や資格の習得等は最底辺の「技術」レベルに為ります。その為、闇雲に技術を得ようとしている人は、更に上の階層から技術習得の意味を位置付けている人には勝てません。又「戦略の階層」で国家について観ると、日本が国家グルミで提唱している「ものづくり」も、実は「技術」レベルでしかありません。これでは上から戦略を組み立てている国には勝てる訳がありません。
 「戦略」を考える際に最も役に立つこの「戦略の階層」と云う概念で基本的に言えるのは「両者が同じレベルで均衡している場合には、より上位の階層で力を持っている方が勝つ」と云う事です。この仕組みを理解すると「戦略」と云うものはかなりレベルの高い分野を扱っていることが好く分かります。


 




 新撰組が凄腕の志士達を倒し続けられた訳


 日本人が得意なレベルは、実は階層としてはかなり下に位置しています。一例を挙げると、例えば、幕末の新撰組。仮に貴方がスゴい剣術を持った幕末の志士であっても、相手に3人掛で斬り着けて来られたら勝て無い。新撰組がヤッタのは将にこれで、多摩出身の田舎侍の1人の腕(技術)よりも、3人掛のチーム(戦術)で強い相手に勝つことを狙った。詰まり彼等新選組は、相手より高い階層で勝負したから強かったのです。

 階層の仕組みが判ると、何故優秀だと考えられている日本の企業や個人が、バブル後にずっと「負けパターン」にハマっているのか? これが実に好く分かります。

 その一例が「ものづくり」です。バブル後の1990年代から国策に近い形で追求されていますが、これは「技術」レベルのスローガンで、階層では一番下です。詰まり、幾ら凄い「技術」でも上手く使う人がいないとそれ以上のレベルを使って来る相手には勝て無いのです。
 確かに日本は「技術」で未だシブトク勝てている。同じく個人でも「スキル」と云う「技術」レベルの才能を磨いている優秀な人は沢山居ます。処が日本は全然豊かに為って居ない。少なくとも、我々の生活にはバブル期以降「豊かに為った」と云う実感が無い。

 日本は技術で「勝ち」に行こうとするから負ける。これは「戦術レベルの思考」です。「戦闘」で勝っても、その上の「戦略」等のレベルで負けていると、いとも簡単に優位を覆されてしまうのです。

 出版や書籍の世界での例をみれば、皆さんも好くご存知の通りの状況があります。幾ら品質の高い本を作っても、流通を握っている某巨大販売サイトに値段を一方的に決定されれば、それには逆らえ無い。幾ら好い物を作っても販売・流通ルートを握られていたら、何時までも勝負には勝て無いのです。
 戦略学の世界で云う処の「コントロール」とは「常に優位に立って管理すること」を意味します。そして、戦略で狙うべきことは勝利では無く「コントロール」なのです。

 確かに国家間の戦争で狙われるのは、軍事的に相手に勝利すること。しかし、折角戦争に勝っても、敵との和平交渉等で不利な条件を突き付けられれば「戦争に勝って平和で負ける」ことに為る。
 日本は第一次世界大戦中に対華21カ条要求を提示しながら、欧米列強からの圧力で要求を引っ込めざるを得無く為りました。これ等はその典型です。個人では、その場で実際にやり合ってケンカには勝っても後の裁判で負け、高額の賠償金や医療費を払わされる嵌めに為った・・・等のケースも同じことです。

 戦略で狙うべきことは「相手をコントロールすること」もっと分かり易く言えば、戦っている最中も後も、自分に取って不都合に為ら無い様に「相手や状況を上手く管理すること」
 更に詳しく云えば、バトルでの勝利(これは戦術の狙い)より、戦いが行われる仕組みやルールそのものを作り、相手より「長期的に優位な状態」を保つことを狙う。

 「自分達に有利な環境づくり」これが日本人が最も不得意とすることで、日本は誰かにルールを決めて貰い与えられた枠組みなどの「環境」の中で頑張るのは得意です。しかし「環境」そのものを自分に都合好く変えると云う発想が無く致命傷と為って居ます。
 詰まり、目の前のバトル(戦術)に勝とうとするばかりに、それよりも高いレベルのルールづくり(戦略)に目が向か無い。日本は勝負自体で勝とうとすることよりも寧ろ「自分の都合の好い場」を作って相手(そして自分自身も)を「コントロール」することを心掛けるべきです。

 一般的に日本人が得意なのは、ゲームで例えてみるとゲームそのもののスキル。ですが、外国の戦略家達はゲームの腕前より、ゲームのルールを作り、最終的に自分達に有利な稼げる環境や状況を作ろうとします。
 彼等はその部分で勝負して来るのです。これではいかに日本人が地道に頑張っても、お釈迦様の手のひらの孫悟空のようなもので、幾ら頑張って働いても、どうもリッチな気分に為れ無い・・・と云うのも、或る意味で当然とも言えます。この視点を理解出来た時に、日本人は本当の「戦略思考」を初めて手に入れたと言えます。

 個人であっても話は同じです。幾ら資格や語学等「スキル」を磨いても、働いている会社の上司に評価され無かったら折角のスキルも宝の持ち腐れ。上司を超えることも出来ない。では我々に足り無いのは一体何なのか?

 




 次にキーワードと為るのが「コントロール」

 「技術」や「戦術」では無く「戦略」レベルで目指すべき「コントロール」なのです。ここからは少し発展的な話に為りますが、もう少しお付き合い下さい。

 何かを戦略的に成功させようとする場合、その全ては足った2つの遣り方に分けられます。その2つとは「順次戦略」と「累積戦略」です。
 この分類法を提唱したのは、元米海軍の将校で、旧日本海軍とも太平洋戦線で戦った経験を持つJ・C・ワイリーと云う米国の海軍少将です。ワイリー氏は「順次戦略」について、自分が参戦した太平洋戦争時の米海軍の動きに例え、洋上艦が東京の大本営に向かってスゴロク式に侵攻して行った様子で説明しています。反対の「累積戦略」は、同戦線で米艦隊が日本の潜水艦を1隻ずつ沈めて行ったのがそれだとしています。

 順次戦略は、具体的には目標の設定・数値化・データ化・バランスシートの強調・若しくは「見える化」等、極めて現代的かつ西洋的な遣り方です。
 正反対の遣り方が累積戦略で、1隻ずつ潜水艦を沈めて行く様に、前後の作戦と繋がりの無い単発の小さな成果を細かく積み上げます。「見える化」せず、手当たり次第にものごとを進めると云う、かなり古い東洋的な遣り方でもあります。

 「目の前のことを必死にやれば、何時か努力が報われ花が咲く」と云うのが将に累積戦略で、日々同じことを繰り返して小さな成果を積み重ねると、或る時点で突然爆発的な効果(「創発」と云う)が生まれるのが興味深い点です。累積戦略には個人や組織の底力を鍛える効果があり、日本でも伝統的に重視されてきました。

 この2つの戦略は夫々長所と短所があります。そこで肝心なのはワイリー氏も主張する様に、2つを同時に使わなければダメと云う事です。古いタイプの日本人は「累積」ばかりを強調します。若い人や新しいもの好きな人々は「順次」ばかりに目が行く。
 処が戦略本や成功本等で名著と誉れ高いものは、この2つを上手くミックスしてアドバイスしているものばかりで、2つは東洋思想で云う「陰と陽」の関係の様に、両方同時に使われて初めて成果を発揮するものなのです。

 サテ、かなり長々とお話して来ましたが、最後に、日本と云う国家としてだけでは無く、一人ひとり、各個人が現状を打破する為に今回、ここまで私がお話して来たポイントを4つ上げておきます。

 1.「戦略の階層」の理解(そもそも「戦略」とはどう云う構造をしているのか? を知る)
 2.「コントロール」の理解(各個の「戦闘力」よりも「外交力」こそが重要)
 3.「ルール」を作る側に回ると云う発想(自分にとって都合の良い環境を強(したた)かに構築する)
 4.「累積戦略」と「順次戦略」を両立する(東洋思想の真髄「陰陽論」の発想を活かす)

 このポイントを理解する人々が増えて行けば、日本には輝かしい未来が待っていると信じています。


 image by: Stephane Bidouze / Shutterstock.com

『日本の情報・戦略を考えるアメリカ通信』国際情勢の中で、日本の採るべき方向性を考えます。情報・戦略の観点から、又、リアリズムの視点から、日本の真の独立の為のヒントと為る情報を発信して行きます。
  以上


 





 確かに、今までと同じ考え・やり方を続けても結果は心もとない。そうであれば、考え方・やり方の本質から見直す必要もあるのかも知れません。好く、国際競技で日本が連戦連勝を続けると、国際競技委員から競技ルールの見直し・変更が出て来ます。例えば、柔道や体操にスキージャンプ等に見られたものですので、ご存知の方もおられましょう。
 凄い選手は、直ぐに新ルールに適応し逆により高いレベルに達しますが、それが困難な選手も居るのです。丁度現在の日本は、新たなルール・価値観にナカナカ馴染め無い不器用な選手の立場に居る様な感じかも。一度今までのルールを見直し新しいルールの本質を掴む必要もあるのではないでしょうか・・・





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