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2021年05月18日

下町三業地紀行 (作家 三浦 展) 特殊慰安施設の実態




 乱暴なプレイで失神 娘の血で襖(ふすま)に「very good」と落書き

 東京各地に点在した “特殊慰安施設” の実態とは



 文春オンライン  5/17(月) 11:12配信


 
       5-18-6.jpg 作家 三浦展(みうらあつし)氏

 プロフィール 新潟県糸魚川市生まれ 1982年に一橋大学社会学部を卒業 佐藤毅ゼミ出身でサブゼミとして岩崎允胤ゼミにも参加 卒業後はパルコに入社 同社のマーケティング雑誌アクロス編集室で勤務 入社4年目の1986年に「アクロス」編集長に就任 1990年にパルコを退社し三菱総合研究所主任研究員に就任 環境デザイン部主任研究員 社会デザイン室長代理・主任研究員等としてマーケティングや労働行政等の調査・研究に 1999年には三菱総合研究所を退社し独立 マーケティング会社・株式会社カルチャースタディーズ研究所を設立し同社の代表取締役に就任 現在はマーケティング調査・商品企画などを行うほか、家族・都市問題を独自の視点で捉え『下流社会』(光文社新書)(80万部のベストセラー)や『ファスト風土化する日本』『下流大学が日本を滅ぼす!』出版 この他に以下のような役職を務める
 立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科兼任講師・信州大学大学院非常勤講師・京都造形芸術大学非常勤講師・都留文科大学講師・国際日本文化研究センター共同研究員・内閣官房内政審議室少子化問題有識者会議委員・経済企画庁生活ビジョン研究会委員・労働省職業情報検討会委員・東京都青少年問題協議会委員・神奈川県住宅供給公社集合住宅開発研究会委員・財団法人セゾン現代美術館評議員



 〜三業地・遊郭・岡場所・赤線・青線・カフェー街と云った夜の歓楽街は、江戸・東京の発展に強く関連する。しかし、様々な理由から当時の名残を留めた建物は年々減少の一途を辿っている。  
 日本社会を独自の視点で研究する三浦展氏は、過つて東京の至る所に存在した花街の歴史を留めようと実際に43の街を歩き、著書『 花街の引力 』(清談社Publico)を執筆した。ここでは同書の一部を抜粋。大井・大森・品川の歴史を振り返り、東京各地に点在した“特殊慰安施設”の実態を紹介する〜



 海岸に出来た花街


   5-17-6.jpg
 
   「東京湾」初の海水浴場が大森に(出所「おおた区報Web版」平成29年1月1日号)5-17-6

 過つての大井海岸町(現・品川区南大井二・三丁目)は、東は遠く房総の山々・南は多摩川の清流を隔てて富士山・北は筑波山まで見え水も綺麗で、渚には小魚や小海老・蟹が生息し、潮干狩りは何時でも出来たので、味噌汁を作る時は海に行けば間に合うと云う程だったと云う。  
 1891年頃、古くから潮干狩りの場所として知られた八幡海岸に八幡海水浴場が出来た。これは大森の丘の上に「八景園」を創設した久我邦太郎が作ったものである。  

 それが切っ掛けと為り、又今の京急本線が1901年に開通すると、交通の便が好く為り磐井神社(いわいじんじゃ)の鳥居前に古くから在った茶屋が維新後に料亭と為って、大井海岸および隣接する大森海岸の花街としての歴史が始まった。  
 又、品川三業地は大井三業地の芸者屋が1932年に東品川三丁目(現・一丁目)の埋立地に集団で移転したものだと云う。大井では料亭「楽楽」「やなぎ」「小町園」「見晴し」等が出来、1929年には芸者置屋が42軒、芸者数は200人は居たと云う。  

 現在はマンションが並ぶ風景に為ってしまったが、京急本線の西側の大井海岸町には、そこも可成りマンション等に変わってしまったとは云え、何とか花街の雰囲気が残って居る。大井海岸町にある「松乃鮨」は1910年に芝神明で屋台の寿司店としてスタート。
 幼少の頃から寿司店を手伝っていた2代目は料亭が立ち並ぶ神楽坂に修業に出て1936年、2代目は大森海岸に出店。当時の大森海岸は海の苔りの名産地と共にコハダ・赤貝・ハマグリ・羽田沖の穴子など素晴らしい寿司ネタが目の前の海で獲れる、まさに江戸前寿司の本場だった。  
 2代目は成功し、数寄屋造2階建ての店を建て3代目が引き継いだ後、1989年に大火で全焼。現在の店は3代目が自身の実家を改装し、燃え残った看板を掲げて店を再スタートさせたものだと云う。(松乃鮨ホームページより)

 大森新地・・・蒲田や横浜から労働者や映画関係者が集まった

 大森新地は都土地(みやことち)と云う会社が旧東海道の美原商店街の東側に広がる浅瀬1万坪を埋め立てて1926年に完成させたもので、会社の名前を取って「都新地(みやこしんち)」と名付けた。当時の地図だと周りは海である。  
 関東大震災後、芝浦等都心部から芸者置屋が移転して來ると、1930年には置屋が31軒に急増し、同年に大森新地三業組合が設立された。大森新地の最盛期は1933年から1940年当たりだそうで、蒲田や横浜方面から労働者や映画関係者が客として集まった様である。(「大森海岸 芸妓置屋 由よしの家や 」「大井海岸 芸妓置屋 まつ乃の家や」各ホームページ『東京 花街・粋な街』)

 「アメリカの兵隊と親善の為に交際をするのです」
 
 大正・昭和の華やいだ、或いはノンビリした歴史とは異なり、戦後の大井海岸は米軍の進駐に備えて日本政府がRAAを設置した町として記憶され無ければ為ら無い。RAAは日本語では「特殊慰安施設協会」と云ったが、特殊と云う事は特殊浴場と同じで只の慰安では無い。米兵に性を売ったのだ。
 日本は江戸時代以来、吉原を公的な売春施設として来たが、敗戦直後も国が一般女性の貞操を米兵から守ると云う理由で、政府が三業地等の役員を集めてRAAを作らせたのである。

 米兵が日本の女性に暴行をすると思ったのは、日本兵が侵略先で暴行をして居たからだと推測するのが自然だろう。RAAは広告を打った「新日本女性に告ぐ! 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む! 女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳迄。宿舎・被服・食糧当方支給」 敗戦後間も無い8月28日の事である。  

 女性達が集まったのは銀座・「幸楽」と云う中華料理店を警察が接収し「福助」と云う食堂を買収してRAA本部の事務所と為った。 米軍が上陸する8月28日迄に、RAAは1,370人の女性を集めた。焼け跡で仕事も食べ物も無い女性達がドンドン集まった。その9割は裸足で遣って来たと云う。殆どが素人娘だった。
 集まった女性達には、先ず飯を食わせた。食えるだけで大変な事だった。食後、女性達は、国家の大事業とは売春であると知らされて仰天した。
 
 或る女性は「ダンサーか事務員と思って来たのですが」と質問すると「お国の為に為る仕事なのです、誰に恥じる事もありません。慰安婦と云っても、戦争中と違ってアメリカの兵隊と親善の為に交際をするのです。お互いに仲好く遣る仕事です」と回答された。
 だが、食って行く為には仕方無かった。給料は高かった。女性達の内、先ず50人がRAAの1号店である大井の「小町園」に送り込まれた。

 吉原・新宿・千住は白人兵用 亀戸・新小岩・玉の井は黒人兵用
 
 女性達はトラックに乗せられて大井に向かった。焼け残った料亭は全て買収されて居た。「小町園」の前には朝から既に米兵のジープが行列を為して居た。女性達は到着すると、先ず世話役の女性が「未だ男を知ら無い人は居ますか」と聞いた。「応募された方には処女の方が多いのです。日本の女性を守る為に一身を犠牲にする覚悟で、清い体で応募して下さった方も在るのです。どうぞ経験者は好く指導して挙げて下さい」手を挙げた女性は30人程居た。「ハイ、その方達は、後で私の部屋に来てください。お教えしますから」と世話役の女性は言った。

 それから女性達は風呂に入れられ、消毒器や手洗いの設備を見て回った。着物は三越・白木屋で焼け残ったものを全て差し押さえて在ったのでそれを着た。化粧品は資生堂から押さえて在った。月島の内閣統計局の倉庫に差し押さえた物資を入れて居たと云う。
 ソモソモ最初に慰安施設として接収しようとしたのが日本橋の三越だった! だが、そんな目立つ所に米兵が集まると周辺の婦女子も暴行されるから、施設は分散立地させよと警視庁が云うので、大森の他、立川・福生・三鷹等の多摩地域も含めて東京都内各地、又箱根 ・強羅の常盤館、熱海の観光閣にも施設が出来た。
 
 向島の大倉喜八郎(1837〜1928年)別邸(編集部注 贅を尽くした邸宅で海外の賓客を招いていた)も市川の料亭も接収されて慰安施設と為った。大倉別邸や向島・人形町・白山の花街は高官用の慰安施設にされた。吉原・新宿・千住は白人兵隊用、亀戸・新小岩・玉の井は黒人兵用とされたと云う。

 米兵は日本の男たちよりズッと優しかった

 翌朝からが仕事だった。料亭は畳の上にベッドを置き、床の間の柱にペンキを塗って洋式に見せたと云う。開店すると列を為して居た米兵達が土足のママ障子や襖を蹴破ってドッと上がり込んで来た。ベッドだけでは足りず広間に布団を敷いた。広間で仕切りも無しに抱き合って居る者も居た。
 それでも女性が足りずアブレた米兵が暴れた。女郎屋・芸者屋の主人達は大金を持って田舎に行き、疎開して居る女性達をドンドン買い集めて来た。

 米兵の巨体に驚いた女性も多かった。恐怖に怯(おび)えながら女性達は無我夢中で米兵の相手をした。午後の閉店迄に或る女性は23人の相手をした。何日かすると1日60人の相手をする女性まで居た。 時間外に遣って来て帳場女性をネジ伏せると云う事は日常茶飯事だった。
 「小町園」の或る娘は膣を破られて失神した。布団は血の海で、米兵は娘の血で襖に「very good」と落書きした。余りの事に逃げ出す女性や発狂する女性、逃げ出して電車に飛び込み自殺をする女性も居た。

 経験の無い処女では効率が悪いと云う事で、そう云う女性は向島の妓楼に回し、交換でベテランの女性を連れて来たりもした。だが、一方で、米兵の中には日本の男達よりズッと優しく親切だった者も多かった。米兵は鬼畜で日本の婦女子を暴行すると思ってRAAを作った側としては拍子抜けする程だった。
 男が女にアンナに親切にし無ければ為ら無いのか、戦争に勝った国の男なのにと、日本の男達はビックリしたと云う。


 (東京焼け跡ヤミ市を記録する会著、猪野健治編『東京闇市興亡史』草風社、鏑木清一『秘録 昭和のお吉たち 進駐軍慰安作戦』番町書房、小沢昭一・永六輔『色の道 商売往来 平身傾聴 裏街道戦後史』ちくま文庫)




 昔の“白山”は「ヤバい」街だった? ドレスを着た芸者がストリップ・ダンスを踊り 閑静な住宅街の知られざる歴史


 三浦 展 『花街の引力』より #2


 〜海水浴・温泉などの新しい娯楽が生まれると共に新たな花街が出来て居た戦前。そして、戦後は米軍が花街に大きな影響を及ぼした。詰り、花街に付いて考える事は、近代日本の工業化・軍国主義・戦後の占領・闇市・貧困・女性の性の歴史を考える事とも関連する。
 此処では、膨大な資料を基に43の街を実際に歩き「街の記憶」に眼を差しを向けた三浦展氏の著書『花街の引力』(清談社Publico)の一部を抜粋。「花街」をキーワードに、閑静な住宅地として知られる白山エリアの知られざる街の歴史を紐解く〜



 マジで「ヤバい」街だった白山
 
 白山と云うと、都営地下鉄の三田線の駅であり水道橋から2駅目と云う事もあって、都心とは云え住んでいる人・通勤通学で通う人以外は余り行かない駅かも知れない。だが、戦前は花街として栄えた所なのだ。地理的には東側を西片・向丘・本駒込と云った丘の上の高級住宅地から下って来た低地である。低地なのに白山と云う地名なのは白山神社があるからだ。
 白山三丁目は小石川植物園が在るが、植物園の西側が小石川と云う川の暗渠(あんきょ)だ。豊島区の長崎方面を源流とする谷端川(たにはたがわ)が池袋当たりを蛇行して大塚の三業地を経て南下すると、小石川と名を変える。

 そして、小石川後楽園や東京ドーム辺りを流れて神田川に合流する。江戸時代の初期には、この小石川迄入江だったと云う。この小石川沿いは工場地帯であり印刷工場等が多かった。徳永直の『太陽のない街』(岩波文庫)も、この辺りの印刷工場が舞台である。
 尚東京ドームは、30年程前迄は後楽園球場、戦後は隣に遊園地としての後楽園が追加されて居たが、1937年に球場が出来る前は陸軍砲兵工廠であり、その前は水戸藩の上屋敷だった。
 
 サテ、この白山一丁目・本郷から下った辺りに、過つて可成り名を馳せた三業地が在ったと云う。明治時代この辺りに次第に商店が建ち始め、日清戦争(1894年)の頃に為ると、前述した砲兵工廠の工員達が沢山行き来する様に為り、住宅も増え夜には露店が現れ新開地として栄えて行った。又、百軒長屋と呼ばれる様な貧乏長屋も沢山在ったと云う。
 更に、日露戦争(1904年)の頃から銘酒屋(めいしゅや)や楊弓場(あげゆみば)が沢山出来た。銘酒屋とは酒を飲ませる店でありながら酌婦が居て、そのママ店に上に上がって性的サービスをする店である。楊弓場とは弓矢で的に当てて遊ぶ場所だが、これも店に女性が居て矢張りサービスをするのである。楊弓場は矢場(やば)とも云い「ヤバい」と云う言葉はこの矢場から生まれた。

 アメリカ人や亡命したロシア人がモダン芸者に為った
 
 こうして、白山は夜の歓楽街に為って行った。樋口一葉の『にごりえ』は、この白山の銘酒屋をモデルにして居る。一葉も一時期、白山に住んで居たのである。だが、街が発展するのは好いが、余りに性的なサービスの街に為って行くのも困る。そこで当時は警察に届けて正式に三業地として認めて貰うのがお決まりの方策だった。
 警察が管理するのだから私娼は排除される。料亭があり置屋があり芸妓が居て、チャンと芸妓を揚げて遊ぶ。最後にする事は同じでも、これなら天下公認だからである。

 白山で酒屋と居酒屋を兼業して居た秋本鉄五郎と云う人物が居た。彼が白山に三業地を作る中心人物であり、白山だけで無く東京の各地の三業地の創設にも助力した人物である。1924年に没するが、その後は養子の秋本平十郎が街を発展させた。
 平十郎は戦後、RAA(編集部注 特殊慰安施設協会)の常務理事にも為り、その功績を称えた胸像が白山三業地跡地に今もある。

 秋本は居酒屋を改修して料理屋「かね万」を1904年頃に開業した。料理があれば酌婦が欲しいと云う事で、近所の芸事の師匠に頼んで居たが、拡大する需要に応えるには不足であった。そこで、神楽坂・四谷・下谷・湯島(かぐらざか・よつや・しもや・ゆしま)の花柳界から芸妓を呼んで居たが、これでは能率が悪い。そこで、白山独自に花柳界・三業地の創設を急いだのである。
 こうして、1912年に白山三業組合が設立され、1915年には白山三業株式会社と為った、社長は秋本である。株式会社と為った三業地は東京として唯一であった。1918〜1920年頃には全盛期を迎え、1922年に為ると「モダン芸妓」と云うものが白山に現れた。

 モダン芸妓とは、一つは外国人の芸妓であり、最初はアメリカ人。着物では無くモダンな服装で登場した。亡命したロシア人も居たと云う。更に、1923年4月には上野公園で開催された東京大正博覧会に白山の芸妓衆55人が出演して踊りや常磐津で喝采を浴びた。
 それ迄、未だ世間的に認められて居無かった白山芸妓達は、この博覧会を契機としてその存在を知られる様に為った。1925年には白山芸妓の常磐津がラジオで放送された事もある。芸妓がラジオ出演したのは、これが最初だと言われて居る。

 ストリップ・ダンスの登場
 
 こうして発展した白山三業地であるが、昭和に入るとモダンな文化が隆盛し、映画女優・バスガール(車掌)・ダンサー・カフェーの女給・果ては映画館で切符を売るチケットガール迄もが女性の新職業として持て囃(はや)される様に為り、芸妓の地位が下がり始めると云う時代に為って行った。
 だから、余り芸の無い芸妓はカフェーの女給に転職すると云う事も多かったらしく、永井荷風を読んでもそんなことが書いてある。


    5-18-7.jpg

           参考 昭和初期 浅草ロック座の踊り子

 
 その為芸妓にも三味線・踊り・常磐津など以外の新しい芸を身に着ける必要が出て来た。その為、歌謡曲を歌ったりバイオリンを弾いたりする芸妓が現れた。究極が白山に1930年に誕生した「ダンス芸妓」である。10人以上で、蓄音機で流す流行歌に合わせて振り袖姿で踊ったり、ワンピースを着て西洋の楽曲で踊ったりしたのである。又、芸妓がマンドリンやギターを弾く事もあった。

 ダンス芸妓が人気を集めると、他の三業地にも波及した。処が、五反田では1934年頃にストリップ・ダンスをする芸妓が登場し警視庁が捜査に乗り出すことに。新聞は「ダンス芸妓弾圧は罷り為らぬ」と論陣を張った為、益々白山のダンス芸妓の知名度が上がり、一躍マスコミの寵児と為ったと云うが、結局、ダンス芸妓は終焉する事に為ってしまったのである。
 この様に、今はチョット地味な感じの白山と云う街にも華やかな歴史がある。それが東京の面白さ奥深さである。


                   以上
















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