アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2022年02月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28          
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
ヨリちゃんさんの画像
ヨリちゃん
プロフィール

広告

posted by fanblog

2021年05月12日

徳川家康「田舎町・江戸を本拠地に選んだ」理由




 徳川家康「田舎町・江戸を本拠地に選んだ」理由

 辺鄙な土地を選んだ天下人に 家臣達もビックリ!

 東洋経済オンライン  5/10(月) 16:31配信



     5-10-10.jpg

 徳川家康は「未開の地」と言っても過言ではない江戸を なぜ本拠地に選んだのか?(写真 metamorworks/PIXTA)5-10-10


 1590年、天下人である豊臣秀吉から関東への国替えを命じられた徳川家康。本拠地候補には、当時既に都市として完成して居た小田原鎌倉も在った。しかし、家康が選んだのは江戸であることは周知の事実。当時、辺鄙な田舎町でしか無かった江戸を家康が選んだ理由とは? 

 作家の新晴正(あらた はるまさ)氏による『謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点』より一部抜粋・再構成してお届けする。


 豊臣秀吉が天下統一事業の総仕上げとして、小田原の後北条氏の攻略に成功したのは天正18年(1590年)7月のことである。この時小田原攻めに加わって居た徳川家康に対し、秀吉がこんな言葉で関東への移封(国替え)を命じたと云う。

 「関東を貴殿に与える代わりに、それ迄の貴殿の領地は貰う。この小田原は東国支配の重要地であるから、家臣の中から信頼出来る者を選んで守らせ、貴殿は江戸に本城を築かれるのが宜しかろう」  

 家康は、この言葉を聞いて愕然としたに違いない。江戸と云えば、三河や遠江を本拠とする家康に取って、政治・経済の中心である京大坂から遠ざかるばかりか、当時の江戸は葦の生い茂る低湿地帯が何処迄も広がり、僅かに寒村・寒漁村が点在するだけの未開の地であったからだ。
 この時の秀吉の命令は断固たるものでは無く、家康にはこの小田原、又は鎌倉の何れかに本拠を置くことも出来たと云う。しかし家康は、小田原や鎌倉が既に十分な都市機能を備えて居るにも関らず、それ等には目も呉れず、秀吉の命令通り江戸に本拠を移すこととする。
 一体、何故家康はこの時江戸を選んだのであろうか。本稿ではその辺りの謎について迫ってみたいと思う。

 家臣も驚いた「江戸」への移封  

 秀吉が家康に対し関東への移封を命じた時点で家康は、三河・遠江・駿河・信濃・甲斐の5カ国を領する実力者であった。それを召し上げ、替わりに後北条氏の旧領で在った関東8カ国(武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総・下野・常陸)を与え様と云うのである。
 確かに石高だけを見れば150万石から250万石へと大幅に増える事に為るので家康の面目は立つのだが、中央から遠ざけられる事による影響力の低下は否めなかった。  

 秀吉がそう迄して家康を自分の側から遠ざけたかったのは、家康が自分に匹敵する実力者だけに「何時かこの男に寝首を描かれるかも知れない」と怖れたからに他為ら無い。恐らく秀吉は、剣呑な敵対者を少しでも遠くへ追い遣り、その隙に豊臣政権を盤石なものにしたいと考えたのであろう。

 家康が関東への移封を命じられた時、家康の大方の家臣達は、ご主君は小田原か鎌倉のどちらかを本拠と定めるに違いないと読んで居た。小田原は後北条氏の本拠地として長く栄えており、今回の小田原攻めにおいても城自体は殆ど無傷であったのも好材料だった。
 一方、鎌倉は過つて鎌倉幕府が置かれており、武士に取っては「聖地」の様な場所だった。小田原か鎌倉か、家臣たちが注目する中、家康が選んだのはまさかの江戸であった。
 
 この時の家康の決断に対し、家臣達は一様に驚愕(きょうがく)した。家臣の一人の石川正西が著した『聞見集』には「どうしてそんな所にと、誰もが手を打って驚いた」とある。前述した様に当時の江戸は低湿地帯が多い極辺鄙な土地で、そんな土地に新たに城や町を作るのは至難の技であると誰もが考えたのである。  
 しかし、家康の考えは違って居た。小田原も鎌倉も山に囲まれて居り、敵に攻め込まれ難い半面、そのことが都市としての発展を阻害して居ると見たのである。


    5-12-5.jpg

                  その後の日本橋風景


 その点、関東平野のまん中に位置する江戸は、海に面して居る上に関東に幾筋も流れる川の終着点でも在った。物資を運搬するのにこれ程都合が好い土地も無かったのだ。大坂の発展を見る迄も無く物資の流通が都市の発展に直結すると考えて居た家康は、これ迄氾濫を繰り返す為厄介この上無いと思われていた江戸の河川さえ制する事が出来れば勝算はあると睨んだのであった。
 こうした目論見のもと江戸に入った家康は、当時は粗末な城であった江戸城の改築工事から着手した。必要な建築資材は、城から江戸湾まで水路を建造し、その水路を利用して搬入した。同時に城下町を建設する為今日の皇居付近迄食い込んで居た海の埋め立てにも乗り出した。駿河台の南端に在った神田山を切り崩し、その土を充てた。この時埋め立てられたのが現在の日比谷公園や新橋周辺である。


    5-12-4.gif

           利根川の付け替え工事 地図 5-12-4  

 家康は文禄3年(1594年)には、当時江戸市中に度々洪水被害をもたらしていた利根川の付け替え工事にも乗り出す。当時は江戸湾に流れ込んで居た利根川の流れを太平洋に面した銚子へと移すと云う過つて無い大工事で、これを31年もの歳月を掛けて完成させて居る。
 この利根川の付け替え工事は、江戸における洪水被害を防いで湿地帯を農作地に適した土地に変えるばかりか、江戸と太平洋とが直結する事に為る為利根川を水運の大動脈として機能させられると云う利点もあった。

 江戸を本拠地に選んだのは「大正解」  

 家康は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに勝利すると、諸大名に河川改修や上下水道、道路、掘割運河などの「インフラ整備」を命じた。世に云う「天下普請」の発令である。これには諸大名の経済力を削ぐ目論見も在ったと云う。諸大名は家康に忠誠心を示す為、それこそ死にもの狂いで工事に当たった様である。
 こうして江戸の都市化が着々と進む中、家康は元和2年(1616年)にその生涯を閉じた。恐らく最晩年の家康は、100年・200年先を見据えて江戸を本拠地とする事に決めた自らの判断に満足を覚えて居たに違い無い。


          5-12-1.jpg

         作家 新 晴正(あらた はるまさ)Harumasa Arata 5-12-1

 石川県生まれ 経済紙記者として現役で活躍する傍ら歴史への探究心とその該博な知識を活かし歴史の意外な側面にスポットを当てる書籍を"黒子"として数々執筆 参画した書籍のベストセラー多数 本作はその名で初めて世に出すひと味違う日本史教養本である


 〜管理人のひとこと〜

 昨今の天下取り武将の人気は、過去には草履取りから天下人と為った豊臣秀吉の人気が高かった様に思う・・・太閤記。それからは、徳川家康、そして織田信長へと変遷する。秀吉の晩年のモウロク政治・朝鮮出兵等の不人気から、矢張り新たな思想を切り開いた織田信長の人気が一段と高く為って居た。何れも出版された小説が大ヒットしたからだった。しかし、容赦なく家来を消耗させる性格が災いし、信長人気が下火と為り、反逆した明智光秀の温情的性格や行動が注視される様になった。
 が、矢張り240年もの安定期を創生した家康へと人気・評価は落ち着くのだろうか・・・管理人は、明智光秀の乱と家康は何処かで結びついていると想像している。しかし、反逆者とされた光秀を表に出すことは控えたのが勝利者が作った歴史だった。光秀を反逆者とした方が国民受けするからだ。

 光秀が信長殺害に走った最終的な原因は、信長による中国制服の野望にあったとする説が最近出て来たそうだ。その計画によると信長の息子たちに日本各地を統治させ、信長が天皇を中国へ連れて行き中国を統治する・・・最終的には、主な武将は不要と為る・・・と予想して身の危険を感じたからだとするのだ。しかし、中国征服のためには武将は何人いても足りないくらいだから、管理人は光秀不要論には賛成しかねるのだ。
 それよりも中国征服論が出るのは、中国には強い軍隊が無く頭デッカチの役人が国を治めているから簡単に征服出来ると考え、欧米の外交官達も応援すると為っていたそうだ。朝鮮出兵は、秀吉以前に信長の考えだったのかも知れない。恐らく欧米列国の外交官達は、当時世界最強の武力を誇る日本を利用しようと、信長を焚き付けたのだろう。
 兵隊の数でも鉄砲・槍・刀・鎧の武器・武具・人数・・・全ての面で、戦国時代の日本は世界有数の軍事大国だった訳だ。百姓イコール足軽であり無尽蔵に兵隊が作られ国民の殆どが兵隊予備軍。国内が落ち着いたら、その力で中国へ行けと信長を駆り立てたのだろう。信長が武力で中国を征服したら、欧米列国が中国から資産を分捕り世界へ輸出して莫大な富を得よう・・・と結託したのだろう。それを光秀が引き留めて反対した・・・結局は光秀不要論と為った。・・・これは、何とか頷けられるのだが。
 そして、家康が240年もの長期政権に成功したのは、京や大阪から遠い関東へと幕府を作ったからに違いない。地理的にも人間性にしても、広大な関東平野を意識した政治感覚が新たな支配感覚を作り上げたのだろう。

 以上















 




この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/10720756
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。