アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2022年02月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28          
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
ヨリちゃんさんの画像
ヨリちゃん
プロフィール

広告

posted by fanblog

2021年05月04日

「ソ連兵が戦車から何人も降りて来て、片っ端から撃ち殺し・・・」葛根廟(かっこんびょう)事件



  「ソ連兵が戦車から何人も降りて来て、片っ端から撃ち殺し・・・」

  民間人1000人殺害“葛根廟(かっこんびょう)事件”で生き残った日本人が語った“凄惨な現場”


 5-4-1.png 5/4(火) 6:12配信 5-4-1


 「ギャーと云う悲鳴、ブスブスッと銃弾が体に食い込む音が・・・」

 日本人1,000人をソ連戦車部隊が殺害“葛根廟事件”に巻き込まれた少年の証言から続く〜


 5-4-2.jpg

   満洲国境を突破するソ連軍第1極東戦線の歩兵部隊(1945年8月) コピーライトマーク時事通信社 5-4-2   

 終戦前日の1945年8月14日 満洲に侵攻したソ連軍に、徒歩で避難中だった日本人が襲われ、戦車に下敷きにされる等して1000人余りの民間人が殺される事件が起きた。何故悲劇は起きてしまったのか。昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏が寄稿した。(全2回の2回目/ #1 を読む)

 「我々一行は非戦闘員だ、撃たないで呉れ!」

 グループを率いていた興安総省参事官(こうあんそうしょうさんじかん)の浅野良三は、白旗を用意してソ連軍に向けて掲げた。伝えられる処によると、浅野は 「我々一行は非戦闘員だ。撃たないで呉れ!」 と云う意味の言葉を叫びながら、戦車に近づこうとしたと云う。しかし、そんな浅野の身体を無数の銃弾が襲った。浅野は射殺された。  
 戦車の数は10台以上に及んだ。土煙を上げながら轟音と共に縦横無尽に走り回る。人々は逃げようとするが、身を隠せるような建物なども無い。

 「かあちゃん!」 「助けて」 そんな声がアチコチから聞こえて來る。ソ連兵は〔マンドリン〕と呼ばれる自動小銃を乱射した。僅かな兵器しか持た無い日本側には反撃する力も無かった。当時、国民学校の1年生だった川内光雄は次のように語っている。

 「私は、当時32歳だった母に抱かれ、大きな溝に転がり込むように逃げました。左肩に銃弾を受け『痛い』と振り向いた時、既に母は頭に銃弾を浴びていました。『おかあさーん』『おかあさーん』と母の体を夢中で揺すりました。
 母は、バッタリと倒れました。背中にすがりつきワンワン泣きました。妹とも逸れました。(略)一晩中、母の遺体の横で泣き明かしました」(「西日本新聞」2005年7月19日付)


 子供も老人も・・・無抵抗な民間人が狙われた 

 辺り一帯には、生きているのか死んでいるのかさえ判らない人々の身体が無数に転がっていた。戦車はそれらを踏みつけながら走った。葛根廟の丘で行われたのは、無抵抗な民間人への明らかな虐殺であった。  
 そんな攻撃は、午後に為っても続いた。ソ連兵たちは倒れている日本人を見付けると、蹴飛ばしたり銃で突いたりして生死を確認した。息がある者には銃弾を撃ち込むか短剣を突き刺したりした。この時の様子を当時、国民学校の1年生で、馬車に乗せられていた守田隆一はこう記録している。

 「お父さんとお母さんが撃たれて暫くすると戦車が停まり、何人ものソ連の兵隊が降りて来て、倒れている人や逃げて行く人を片っ端から撃ち殺して行きました。一人の兵隊が滔々馬車まで来ました。そして、一緒に乗っていた病気のお爺さんを引きずり降ろすと、パァーンと頭を撃ちました」(『朔北の学友』)  

 子供だろうが老人だろうが、ソ連軍の攻撃に見境は無かった。戦車のキャタピラに轢かれて膝から下を潰された人も容赦無く殺されたと云う。子供を亡くした母親であろう、精神に異常を来たしたと思われる女性の金切り声が辺りにコダマした。

 ソ連軍に包囲され、自決する人々も
 
 その後、戦車群は漸(ようや)く葛根廟から去った。生存者の一人である小池うめは、その後に見た光景を以下のように述べている。

 「足元を見ないと、沢山の死体で何回も躓(つまづ)いて転びそうに為った。 転がっている人が手を上げていたので立ち止まって覗(のぞ)くと、虚空の一点にカアーッと目を据えたママもう硬直した手だった。二十歳前後の若い女だった。
 その女の足元に一緒に歩いて居たのか十歳位の女の子の・・・女の人と握って居た手が外れて、可哀想に首から上は戦車に轢かれたのか、完全に押し潰され半分土の中にめり込んでいた」(『殺戮の草原』)
 

 生存者の中からは、遂に自決者が出始めた。ソ連軍に包囲されていると思われる状況下、重傷を負ってこれ以上の退避を諦める人や、ソ連兵からの陵辱を拒む女性、子供を失って絶望に打ちひしがれた母親などである。
 《子供と同じ場所で一緒に死のう》 と考えた母親達は、無念の思いと共に次々と自ら命を絶った。自決の方法は、刃物か銃による事例が多かったと云う。その他、青酸カリで命を絶つ者も居た。「もしもの時の為」と青酸カリを持参していた者達も居たのである。

 子供に青酸カリを飲ませて・・・

 自らの愛する子供達と心中を図る母親も居た。当時、28歳の広久政子は、2歳の長女・節子と8カ月の長男・克彦を連れていた。政子は戦後に綴った手記の中でこう告白している。

 「・・・私は決行した。腰のハンカチで坊やの細い首をギュっと絞めたのだ。『坊や、許して、我慢してね。母ちゃんも直ぐ後から行くの。坊やばかり遣るんじゃないから、苦しいけど我慢してね。御免なさい。御免なさい』チョット力が抜けると吹き返して來る息。長く苦しませたく無いばっかりに一生懸命に引いた。ガックリと首がくびれて、あゝ、遂に私の坊やは死んでしまった。
 八月十四日 克彦は僅か八か月の命を母の手に奪い去られたのだ。亡骸はどうすることも出来ないので、草の上にオムツを敷いて寝かした。顔をガーゼで掩ってやった」(『亡き子がわたしを呼ぶ』)
 

 政子は次に長女の節子に青酸カリを飲ませた。そして、自分も直ぐ後に続いた。しかし、致死量に足り無かったのか、2人は死ぬ事が出来なかった。

 地元の農民は屍体から衣服や所持品を剥ぎ取って行った

 そのうちに、地元の農民などがこの混乱に乗じて略奪している様子が目に入った。暴徒と化した彼等は、鎌や包丁・棒などを持ち、屍体から衣服や所持品などを剥ぎ取っていた。《見つかったら暴行される》 そう思った政子は、瀕死の節子を背負い他の数名と共にその場を逃げ出した。  
 這うようにして山の裏手へと逃げ込んだ彼女達の目の前には断崖が広がっていた。政子は節子を負(お)ぶったママ、崖の縁から飛び降りた。 《どうぞ死ねますように》 と祈りながら。しかし、今度も死ぬ事は出来なかった。

 落下の衝撃で身体に激痛が走ったが、命に関わる様な重傷では無い様だった。節子にも息があった。だがやがて、追い剥ぎの暴民たちが近づいて来た。政子は死んだ振りをするしかなかった。 暴民達は節子を引き離し、政子の衣服を全て剥(は)いだ。それでも政子は我慢して死んだ振りを続けた。暴民たちはやがて去って行った。以降に起きたことについては、政子の手記から引こう。

 「泥土(でいど)の上に無惨に放り出されて、俯伏せに手足を伸ばして居る裸の節子をソッと抱き起こしたら、ゴロゴロと咽喉が鳴って、大きな呼吸を一つ残してコト切れた。どんなに苦しかったことだろう『辛かっただろうね節子、御免なさいね、母ちゃんも行くから御免なさいね』裸の腕に確り抱き締めた節子が段々冷たく為って行く、手も足も固く為って行く。『あゝ、許して、許して』抱いたママ草の上に身を投げて、私は身を悶えて泣いた〉(同前)

 殺戮の翌日に、戦争は終わっていた
 
 葛根廟の丘は屍体で埋め尽くされた。流れ出た血が、赤と云うよりもドス黒く不気味に丘を染めていた。冷たく為った母親の乳房を吸い続ける赤ん坊の姿もあったと云う。
 前日の雨水が溜まっている窪地があった。その水溜りの周囲には、取り分け多くの屍体が折り重なって居た。最期に水を求めて集まって来たのであろう。その水は血に染まっていたが、それを見付けた生存者達は貪る様にしてその液体を飲んだ。翌15日に戦争は終わった。しかし、生存者達はそんな事実を知ることも無く、更なる逃避行を続けた。

 深刻な飢えと渇き・・・ソ連兵を避け、草原や畑を歩いた
 
 葛根廟駅の付近にはソ連兵や暴民が多く、近付くことすら出来なかった。避難民たちは幾つかの集団と為って、満洲国の首都である新京まで歩くことにした。彼らは深刻な飢えと渇きに襲われた。ソ連軍兵士や暴民に見付からない様、草原や畑の中を歩いた。  
 そんな中、人のいない農家を見付けて、そこに隠されて居た粟で命を繋いだ者達も居た。彼等は粟を炊いてお握りを作り、皆で分け合って貪り食った。しかし、その中の一人であった大櫛戊辰によれば、次のような哀しき光景も見られたと云う。

 『お母ちゃん、僕のごはんを取るなよ!』 早く喰べ終った母親が、未だ我が子の手にある飯を取ろうとしていた。 『嫌だ! 嫌だ! 僕のだ!』 背を屈め握り飯を胸に抱き、頭を埋めて必死に為って防いで居る。その光景は、浅ましいとか物の哀れとか云うよりも、鬼気(きき)迫る餓鬼道(がきどう)の世界だった。愛とか美とか、糞くらえだ。何が母性愛か何が仁道だ!」(『殺戮の草原』)

 疲労困憊(ひろうこんぱい)の末に辿り着いた地は・・・
 
 8月と云えども、夜に為ると身体が震える程気温が下がった。負ぶっていた赤ん坊が何時の間にか死んでいたり、歩くことを諦めてその場に伏せる者もいた。 子供達に対し 「頑張って歩こうね」 「もう直ぐだから元気だして」 等と励ましの声を掛ける大人も居れば、何も言わない人も居たし 「泣くな。うるさい! 誰かに見つかったらどうするんだ!」と怒りをぶつける者も居たと云う。  

 地図も方位磁石も無い逃避行、目印の少ない大地では迷うことも多かった。疲労困憊の果てに辿り着いた場所が、数日前に自分達が居た所だと判った時の絶望は計り知れ無かった。ソ連兵や暴民に見付かった若い女性が強姦される事件も複数起きた。

 日本人に同情し、手を差し伸べた現地住民たち
 
 その一方、日本人に同情し、食事を分け与えて呉れる現地の人々も居た。避難民達はそんな時に「日本が戦争に負けた」と云う事実を知った。自分達が虐殺に遭った日の翌日に戦争が終わった事を知り、避難民達は愕然とし脱力した。  
 結局、千数百人居た避難民の内、生きて日本に帰国出来たのは僅か百余名であった。現地に取り残された子供達は残留孤児と為り、夫々激動の戦後を過ごす事と為った。(文中敬称略)

 ◆ 〈参考文献〉 『葛根廟(新聞記者が語りつぐ戦争(5))』読売新聞大阪本社社会部 『葛根廟事件の証言』興安街命日会 『殺戮の草原―満州・葛根廟事件の証言』東葛商工新聞社

 早坂 隆 Webオリジナル(特集班)


 〜管理人のひとこと〜

 満州移民の逃避行・・・終戦のドサクサにソ満国境を突破して来たソ連兵・・・この記事には、冒頭に(全2回の2回目)と注意書きが在る様に前編が在るのですが、私には余りに悲惨な内容なので読む気がしなかった。が、勇気を振り絞って読むことに、しかし新たに此処で発表するのは躊躇った。もし読みたい方がいらっしゃるとなら下記にアクセスください。
 一つ言えるのは、この記事でソ連兵の残虐さを強調したいのでは無いのです。中国を侵攻した日本軍の行為もこれに劣らず酷いものだった。詰り、戦争は人間を狂わし平時では考えられない行動を平気で犯すものなのだという事です。周り中が敵の真っただ中へ侵攻する兵隊は、極度な緊張で怯えています。何時周りから責められるのか不安の真っただ中なのです。ですから、我が身を守る為に不要に攻撃性が高まり・・・撃ちまくると云う行動をしてしまうのです。戦争は、勝っても負けても傷付くのは将兵だけで無く弱い普通の人間なのです。

 【前編を読む】ギャーという悲鳴、ブスブスっと銃弾が体に食い込む音が…」日本人1000人が殺された葛根廟事件 前編












この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/10702091
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。