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2021年04月30日

懐かしい昔のプロボクシングのお話・・・野口進とは何者か?



  懐かしい昔のプロボクシングのお話・・・タクシー会社に日本刀で斬り込み 大臣邸を爆破

 「最高最大の豪傑ボクサー」で「異色のテロリスト」野口進とは何者か?




  4-30-2.gif 4/30(金) 6:01配信



4-30-1.jpg

 現役時代の野口進のブロマイド「最高最大の豪傑ボクサー」と呼ばれた photograph by KYODO 4-30-1

 2020〜21 BEST5 2020年から2021年(対象12月〜3月)までNumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します スポーツ総合部門の第5位はこちら! 初公開日 2021年1月24日

 井上尚弥・井岡一翔・村田諒太等7人もの世界王者を輩出するなど、黄金期の只中にあると言って好い現在の日本のプロボクシング。 しかし「拳闘」と呼ばれた黎明期について書かれた書籍は思いの他少ない。
 勿論、ボクシングだけに関して言えば、一連のモハメド・アリの書籍を初めマイク・タイソンの半生を赤裸々に綴った『真相─マイク・タイソン自伝』 のノンフィクション『一瞬の夏』(沢木耕太郎)・『殴り殴られ』(安部譲二)・『遠いリング』(後藤正治)等一流の書き手による名作もあるにはあるが、野球やサッカーと比較してルーツを詳細に記した書籍は、市民権を得たプロスポーツにしては少ないかも知れない。

 「最高最大の豪傑ボクサー」とは何者か

 筆者は『沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)を著述するに当たって、主人公野口修の父・野口進の人生も具(つぶさ)に追った「最高最大の豪傑ボクサー」(直木賞作家の寺内大吉)と称される黎明期(れいめいき)の人気拳闘家にしてテロをも辞さ無い右翼の壮士・・・野口進は長男の修に劣ら無い数奇な人生を送った人物である。
 彼は何者なのか、彼の人生は、活況を呈する日本ボクシングにいかなる影響を与えたのか。ここでは、拙著では触れ無かった側面にも焦点を当てながら、稀代の豪傑・異能の拳闘家の波乱の生涯を追ってみたい。  

 野口修の父・野口進は1907・明治40年 東京市本郷区根津宮永町(現・東京都文京区根津)に生まれた。少年時代から喧嘩上等の腕白坊主として上野界隈で名を馳せたことは、取り立てて変わった履歴とは言えない。人生が動き始めるのは、尋常小学校卒業後に働いた問屋の店主に「草相撲」を勧められてからである。
 1925・大正14年に財団法人大日本相撲協会(現・公益財団法人日本相撲協会)が設立され、国技館での「大相撲」が定着する迄、相撲興行は寺社で行う勧進相撲・宮相撲・素人相撲等々その形態は乱立して居た。草相撲もその一つで、野口進も「宮の森」の四股名で根津神社を拠点に横綱を張って居た。

 「根津権現で横綱なら、職業相撲(大相撲)から誘いが在っても不思議は し、担がれて地元の名士に為る事もあった。それで政治家に為った人も多いんですよ。彼等はメシも女も不自由し無かった筈です」(三郷市在住の元草相撲力士の白井利助 ※拙著より抜粋)

 柔術家と外国人水夫の真剣勝負から生まれた「柔拳試合」

 そんな野口進だが喧嘩癖は治らず、上野を離れ横浜港に身を隠した。そこで出会ったのが「柔拳試合」だった。黒船来航から始まった日本の他流試合の歴史において、柔術家と外国人水夫(ボクサー)の試合はスリリングな試合展開で好評を博す様に為る。
 これが柔拳試合の発祥で、その流れを汲んだ賭けを対象とした真剣勝負が横浜の賭場や教会で連夜行われて居たのである。

 「グローブをはめての殴り合いで、投げと頭突きも在ったらしい。寝技が在ったかどうかは判らない」(生前の野口修の証言)

 と云うから、偶然にも初期のキックボクシングと近似したルールにも映る。今ならシュートボクシングに近いのかも知れない。これより少し前の1921・大正10年、米国帰りの渡辺勇次郎が下目黒に日本拳闘倶楽部を設立、更に、日本で初めての拳闘だけの興行を開催する。
 興行的には成功とは言い難く、破産寸前まで追い込まれた渡辺だったが、神戸の嘉納財閥の嫡流に列なる嘉納健治が協力する事で風向きは俄に変わって行く。 柔拳試合を興行的にヒットさせて居た嘉納健治は、興行師としての勘で次第に柔拳興行から拳闘興行にシフトする様に為る。この事が、外国人相手に“決闘”を繰り返して居た野口進の運命も旋回させる事に為る。

 九段相撲場でのデビュー戦 相手はフィリピン人ボクサー

 1924・大正13年、神戸銀行元頭取の樽谷公一が日暮里に東京拳闘会(現・東拳ボクシングジム)を設立、旗揚げ興行を九段相撲場(靖国神社の相撲場)に決める。  
 そこで、東拳師範の荻野貞行は野口進に声を掛けた。力士特有の突進力を買ったのは勿論、柔拳試合の経験を積んで早い段階から顔面パンチに慣れて居た事もあったに違い無い。 

 同年11月16日「日比対抗拳闘試合」と銘打たれた旗揚げ興行の最終試合・メインイベントに出場した野口進は、ファイティング・チゴラと云うフィリピンのライト級ボクサーと 12回戦を戦い引き分けて居る。
 デビュー戦で国際戦が組まれる事は在っても、フルラウンド・12回戦を戦う事は現在の常識では珍しい。当時の新聞は試合を次の様に報じている。

 《九段角力場に開かれた日比拳闘試合は、愈々23日午後1時から選手権争奪の最後の決勝試合を行ふ筈であるが、上海選手権保持者たるチゴラ対野口は、過般の試合に12回にてドローと為ったが、この一戦が当日のみものであろう》(大正13年11月23日付 東京朝日新聞 ※読点は筆者)  

 更に1週間後、同じくフィリピン人のキーコと10回戦を戦いこれも引き分けている。詳しい試合内容は判らないが、結果だけを見れば合格点と言えるだろう。

 ガードもお構い無しに 相手を叩きのめすスタイル
 
 その後、阪急東宝グループ創業者・小林一三の異母弟で実業家の田辺宗英(後、日本ボクシングコミッション初代コミッショナー)を会長とする帝国拳闘会拳道社(現・帝拳ボクシングジム)が設立されると、野口も数人の選手とこれに参加。しかし、資金難で道場が閉鎖されると、神戸に本部を置く大日本拳闘会(大日拳)に移籍する。
 大日拳の会長は嘉納健治である。拳闘興行に本格参入した嘉納健治は東京の拳闘選手を片っ端から引き抜いた。野口進もその1人だったのが通説と為るが、少年時代に嘉納健治から直接話を聞いたと云う野口修曰く、これには前段があったと云う。

 「ピス健(※嘉納健治のこと)は、親父が柔拳を遣って居たから声を掛けたって言って居た。柔拳を遣って居なければ引っ張って居なかったって思うと、不思議な縁だね」(野口修 ※拙著より抜粋)  

 嘉納健治がどう云う意図で野口進を引っ張ったのか、ソモソモ野口修の証言は正確なのか・・・今と為っては知る術も無いのだが、この邂逅は双方に利点をもたらす事に為る。  
 吉田司家を初め、角界にも影響力を持って居た嘉納家の立場を利用して、国技館の興行権も握っていた嘉納健治は、1927(昭和2)年6月4日と5日の2日間、6階級の日本選手権試合を両国国技館にて開催。5日のメインイベントに出場した野口進は、ヤング・ジャクソン(アメリカ)を3ラウンドKOに破り日本ウェルター級王座を獲得する。  

 そこから、佐藤東洋・池田福太郎・大森熊蔵・熊谷二郎・川田藤吉等同じ階級の日本人を総舐め。日本人に負け無しのボビー・ウィリス(フィリピン)にも五戦全勝。同じく日本人キラーのテリー・セコンド(アメリカ)にも四戦全勝と、期待通りの快進撃を見せて居る。

 《ファイトスタイルは力士出身らしく、前進あるのみの典型的なファイタータイプ。ガードもお構い無しに相手を叩きノメス好戦的なものだが、闇雲に拳を振り回すだけの選手とも違った。器用さを持ち合わせて居たのは、通算56戦のうち36戦が外国人相手であることからも判る。
 不器用だと外国人選手に忌避(きひ)されるのだ。国際戦が頻繁に組まれた理由はそれだけでは無い。勇猛果敢に攻め込み多くの観客を熱狂させて居る姿を嘉納健治は見逃さ無かった。大衆のナショナリズムに訴えに賭けたのだ》(※拙著より抜粋)


 タクシー運転手の手首を日本刀で斬り落とし・・・

 このママ拳闘界の第一人者として王道を歩むものと思いきや、デビューから5年後の1929・昭和4年8月11日未明、神田のタクシー会社に乱入した野口進は、複数のタクシー運転手を日本刀で斬り着けると云う蛮行に及んで居る。一人は手首を斬り落とされても居る。
 特にタクシー会社に私怨が在った訳では無く友人の喧嘩の加勢だった。諸々の事情は在ったろうが、直情径行では済ま無い驚愕の事件である。  

 ここで疑問なのは、拳闘家らしく素手で制圧出来る筈の野口進が何故日本刀を使ったのかと云う事だ。それも被害に遭った運転手は口を揃えて「アレは剣術師範の腕前」と供述したと云う。
 生前の野口修は「親父の剣術はピス健の道場で身に着けたもの」と証言した。と云うのも嘉納健治は、自邸の庭に構えた道場で拳闘のみ為らず、柔術・剣術・槍術の稽古も奨励して居たのだ。そこには叔父に当たる講道館創始者・嘉納治五郎の影響が在ったと見られる。この複雑極まりない事情に付いては別の機会に改めて論じたい。

 右翼テロで大蔵大臣を襲撃

 1年7カ月の服役後、拳闘の世界に復帰した野口進はメインイベンターとして再び同じ階級の日本人を薙(な)ぎ倒し国際戦でも戦績を重ねている。しかし、懲り無い彼は又もや事件を起こす。今度は義憤に駆られた私闘では無い思想信条に関わる事だった。

 《井上蔵相私邸爆破事件及びその副産物として発生した直訴事件、民政党本部花火事件、井上蔵相脅迫事件の犯人主犯高畑正(31)を始め(中略)野口進(25)等関係者14名は警視庁・刑事部捜査第二課で取調中》(昭和6年6月11日付 東京朝日新聞)  

 ここにある「井上蔵相私邸爆破事件」とは、時の大蔵大臣・井上準之助邸が右翼に襲撃された白色テロである。政友会と袂別しリベラル色の強い民政党の浜口内閣に入閣した井上準之助は、以前より右翼から脅迫めいた嫌がらせを受けて居た。
 その一つに数えられる爆破計画に拳闘のスターも駆り出されたと云う事だ。余談に為るが、井上はこの翌年、右翼の暗殺団「血盟団」に殺されて居る。又もや、野口進の直情径行を示すエピソードと言えるが、この時は服役する事無く、数日収監された後釈放、何事も無く拳闘に戻った。戦前の事とは言え、荒唐無稽過ぎて筆者は論じる言葉を持た無い。

 フランス人ボクサーとの“華々しい熱戦”

 拳闘家・野口進の現役生活のクライマックスを挙げるなら、読売新聞社主催「日仏対抗戦」と云う事に為ろう。読売新聞社主・正力松太郎は「販売部数拡大」「新規広告の出稿」「興行収入」の一石三鳥を企図し「水雷作戦」と称した自社イベントを幾度と無く催して居る。
 「本因坊対呉清源」の囲碁の対局や、多摩川園における「菊人形展」ベーブ・ルースやルー・ゲーリックらメジャーリーガーを招聘した「日米野球」は1931年と34年の二度に及び、その後のプロ野球設立の布石とも為っている。  

 1933・昭和8年の5月から7月に掛けて開催された拳闘の「日仏対抗戦」は、日米野球の次に規模の大きいイベントと為った。フランス人ボクサーを招聘(しょうへい)し、日本のトップ選手と対戦させたこの企画は、開催前から話題を集め前売券は飛ぶ様に売れた。
 特に6月の甲子園球場での興行は、野外スタジアムにおける初のナイターの拳闘興行となり、1万5千人の観衆を集めている。  

 その甲子園大会のメインイベントに出場した野口進は、フランスのキキ・ラファエルと対戦し《華々しい熱戦》昭和8年6月25日付 読売新聞の末引き分け。7月に横浜公園球場で行われた再戦では惜しくも判定負けを喫するも、彼が日本を代表する人気拳闘家だった事は最早紛れも無い事実だ。

 元首相テロ未遂・・・そして大量飲酒の後昏倒

 ちなみに、この「日仏対抗戦」で頭角を現したのが、早大在学中のフライ級ボクサー・堀口恒男(ピストン堀口)だった。3月に日本拳闘倶楽部からデビューしたばかりの堀口は、甲子園大会の2週間後の7月3日、早稲田戸塚球場に集まった3万人の大観衆の前で、元世界王者のエミール・プラドネルと互角の戦い振りを見せ一躍人気選手に躍り出た。

 《堀口のボクシング・スタイルは、この国粋主義の風潮に余りにも符合して居た。大和魂と云う空無な精神主義の中に堀口を置くと、そのノーガードで打ち掛かる無謀なボクシングが見事にマッチして居たのだ》(『ピストン堀口の風景』山本茂著/ベースボールマガジン社刊)  

 新星・ピストン堀口の台頭は、野口進の心境にいかなる影響を及ぼしたのかそれは全く判ら無い。判ら無いがその年の10月、イギリス人ボクサーのハーレイン・ユウインにKO負けを喫した野口進は、11月21日、元首相の若槻礼次郎にテロを仕掛けるも果たせず、懲役七年の刑を言い渡され(控訴審で五年に減刑)、堀口と入れ替わる様に現役生活に終止符を打った。

 実働9年で通算成績は56戦35勝7敗14分。事件に至る詳しい経緯は拙著で確認されたい。出所後、一家で上海に渡った野口進は野口興行部を設立。ディック・ミネや淡谷のり子と云った歌手を招聘し軍人の慰問興行を手掛けた後、戦後は愛媛県新居浜市で13歳の三迫仁志(三迫ボクシングジム創始者)と邂逅。
 東京・目黒の雅叙園前に野口拳闘クラブ(現・野口ボクシングジム)を開き、三迫仁志を初め、金平正紀(協栄ボクシングジム創始者)海老原博幸(その後の世界フライ級王者)等を輩出して居る。

 詰り、具志堅用高輪島功一鬼塚勝也も、そのルーツは野口進に辿り着く事に為るのだ。  
 1961年、次男の野口恭が日本フライ級王座を獲得し史上初の親子日本王者に輝くと大量の飲酒の後昏倒。七日後の1961年5月8日そのママ息を引き取った。壁には吐いた血を指でなぞって「恭、チャンピオン、ばんざい」と書かれて居たと云う。稀有の豪傑は直情径行らしく慌ただしく逝った。

 文章「ボクシングPRESS」細田昌志


 〜管理人のひとこと〜

 懐かしい名前が次から次と出てきました・・・一時期プロボクシングやボクシングは、スポーツの頂点に君臨した時代が在ってのです。しかし、拳闘・ボクシングとは、実に日本人の心にスーッと入って行ける短絡・直情径行的なスポーツです。野球の様にノンビリとした時間的経過を必要とせず、目の前の相手に只殴り掛かる。無論、頭脳と身体全身を使って敏捷に動き回るのだが天性のカンも必要です。
 大きい人でも小さい人でも同じ条件で、比較的平等の条件で戦えるのは体重で階級が区分されて居るからでこれも近代的だ。拳がポイントにヒットすればそのまま倒れてしまう。気が遠く為り息が出来ない程のダメージを食らってしまう・・・実に恐ろしいものだ。だから、互いに最後まで逃げ続ける試合にはブーイングが沸き起こり人気も出ない。華々しくKOで終わると、仮令倒れても両者に盛大な拍手が沸き起こる・・・詰り真剣勝負なのだ。昔のボクシングファンより・・・                    

                   以上















 
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