2021年04月14日
ソ連兵の「性接待」を命じられた乙女たちの70年後の告白 満州・黒川開拓団「乙女の碑」は訴える 平井 美帆 ノンフィクション作家
ソ連兵の「性接待」を命じられた乙女たちの70年後の告白
満州・黒川開拓団「乙女の碑」は訴える
平井 美帆 ノンフィクション作家
プロフィール 1971年・大阪府吹田市生まれ 大阪府立千里高校を卒業すると同時に単身渡米 1993年南カリフォルニア大学舞台芸術学部卒業 一時東京で演劇活動に携わるも1997年に再びロサンゼルスへ この頃から現地の日本語情報誌に執筆する傍ら日本の雑誌に海外ルポを寄稿する 2001年1月にニューヨークへ移動し 日米を拠点にノンフィクション作家として活動する 2002年7月 拠点を東京に移す
著書に『中国残留孤児 70年の孤独』(集英社インターナショナル、2015)『獄に消えた狂気 滋賀・長浜「2園児」刺殺事件』(新潮社、2011)『イレーナ・センドラー ホロコーストの子ども達の母』(汐文社、2008)『あなたの子宮を貸してください』(講談社、2006)など
本文はじまり
敗戦と共に崩壊した「満州国」では、地獄絵図としか表現しようの無い程、飢えと暴力そして絶望が蔓延した。孤立無援の満洲開拓団は次々と集団自決に追い込まれて行った。その時、或る開拓団の男達はひとつの決断を下した。
現地の暴民による襲撃・ソ連兵による強姦や略奪から集団を守り食料を分け与えて貰う代わりに、ソ連軍将校等に結婚前の乙女達を「性接待役」として差し出したのだ。犠牲と為った「彼女達」は、日本への引き揚げ後もこの忌まわしい記憶をズッと胸の内に留めて居たが、70年が経ちその重い口を開いた・・・ノンフィクション作家・平井美帆氏の特別寄稿。
託された詩
忘れられ無い詩がある。後半のカタストロフィーと対比を成すかの様に、詩は明るい朗らかな一節からはじまる。
《十六才の春の日に 乙女の夢を乗せた汽車 胸弾ませて行く大地 陶頼昭(とうらいしょう)に花と咲く》
「乙女の碑」と題された詩を書いたのは、黒川開拓団の一員だった文江さん(仮名・2016年1月没・享年92)である。1942年3月、文江さんは両親・妹・弟二人の一家6人で、夢と希望を胸に新天地・満州へと向かった。日本が戦争に負けるとは露ほども疑わずに・・・
それからおよそ半世紀経ってから、彼女は「乙女の碑」を書き残す事に為る。心の奥底に封印されて居た記憶は時空を超えて、アノ日アノ場所へ飛んだに違い無い。再び苦悩を味わいながらも、書き遺さ無ければ為ら無かった魂の執念が伝わって來る。
「これが全てなの。話すより、これ読んで貰った方がよう判るけども。自決を止める為に・・・って書いてるけど、もう泣けて、泣けてさ」
2016年5月6日、文江さんの親友のスミさん(仮名・当時88歳・以下年齢は取材時のもの)はそう言って、未だインタビューも始まって居ないのにこの詩を私に見せて来た。両面印刷のワープロ用紙2枚。全体がよれた紙には裏表に計4ページ分の「詩」が縦書きで打ち出され、後から手書きされた箇所が数カ所ある。題名の斜め左下、赤色のインクで書かれた文言が目を引く。
遺族会以外の人に見せてはいけない
その横には黒インクの手書きで「平成二年 六十五才」とある。時代が平成に移っても尚、その事は深いタブーだった。
4-14-30 文江さんはこの詩を、同じ目に遭った女達に見せて居た(@MihoHirai)
「それ、持って行って貰って好いよ」
遠慮勝ちな目を向ける私に「好いよ、私。要らんもの」とスミさんは用紙をグイと差し出した。約4カ月前にこの世を去った親友の遺書とも云える詩を・・・先程迄の穏やかな口調と異なり声に硬さが滲み出ていた。
長きにわたって山麓に封じ込められて居た書を手にして、私はスミさんの家を後にした。弱い雨脚の中、円を描く様に山を下ると川幅の広い水流が見えて來る。山間の道は何処を走っても瑞々しい渓谷の景色に縁どられて居た。
此処へ辿り着いたのはヒョンな事からだった。2015年秋、中国残留孤児の軌跡をまとめた本を上梓した私は、それからも継続して満州に関わった人々を追い続けて来た。取り分け女達の満州体験に目を向けて居た処「黒川開拓団」のことを知る人から話が伝わって来たのだ。
その夜、飛騨川沿いの鄙(ひな)びた旅館で考えた。どうして彼女はホボ見ず知らずの自分に亡き親友の詩を呉れたのか。スミさんは友の思いを私に託したのだ。私はそう受け留めた、文江さんの遺した詩は訴える。
《乙女の命と引き替えに 団の自決を止める為 若き娘の人柱 捧げて守る開拓団》
ソ連の侵攻、集団自決
今から遡(さかのぼ)る事80年余り、日本は中国の東北地帯に「満州国」の建国を宣言。大和民族を頂点とする五族協和を目指すとして、日本人を計画的に満州へ移住させた「拓け満蒙!行け満洲へ!」旧拓務省は頻(しき)りに、人々の愛国心や開拓精神に訴えながら移民事業を推し進めて行った。
だが、既に戦況で不利な状況にあった国には、ソ連との国境付近に日本人を配置して軍事的に備えて置きたい目論見があった。又、満州移民計画の背景には、過剰人口・耕地の不足によって疲弊する国内の農村問題が横たわって居た。国や県は補助金を出して、農村部の自治体に村を分けて満州に移住させる分村・分郷運動を働き掛けた。
村の面積の約9割を山林が占める岐阜県東部の黒川村(当時)村の指導者等は、食料不足に悩む村の行く末を憂い国策に従って満州への分村移民を決めた。1941年4月、黒川開拓団は29名の先遣隊を満州に派遣した。そして、翌年4月から毎年3回にわたって計129世帯600人余りが海を渡った。
入植地は、新京(現・長春)とハルビンの中間地点に当たる吉林省・陶頼昭(とうらいしょう)の鉄道駅から西一帯だった。開拓民等は複数の部落に分かれ、豆・高粱(コーリャン)・芋等を作付けして農作業に励んだ。
4-14-31 満洲へ渡った黒川開拓団の子供達 未だ平和だった頃のものだ(元団員提供写真)
しかし「満州国」は脆(もろ)くも崩れ去る。1945年8月9日ソ連の満洲侵攻、6日後の日本の無条件降伏・・・約27万人の開拓移民らは、突如異国と為った荒野に取り残された。元々、開拓民等が移り住んだ家や土地は、日本人を入植させる為に満拓(満州拓殖公社)が現地民から安く買い叩いたものだった。日本が戦争に負けると、現地民の一部は衣服や物品を狙って日本人部落を襲って廻った。
【PHOTO】gettyimages 4-14-32
黒川開拓団は襲撃から身を守る為に、夫々の部落から本部近くの二カ所に集結した。そこへ、更に人々を心理的に追い詰める一報が齎(もたら)された。30キロ以上離れた隣の来民(くたみ)開拓団(熊本県)270人余りの集団自決である。団の最期を知らせる役割を担った唯一の生存者・宮本貞喜さんが、命からがら黒川開拓団まで辿り着いたのだった。
内地へ帰れる宛も無く食料も尽きて行く中、暴民の襲撃に怯える集団避難生活が始まった。更に満洲侵攻後、陶頼昭(とうらいしょう)駅付近に駐屯して居たソ連兵等が、団の集団生活場所に毎夜の様に「女狩り」に遣って来ては、若い女と見れば見境無く強姦を繰り返した。
敗戦から数週間経った頃、幹部男性等は或る交渉へと辿り着く。大きな鉄道駅に近い黒川開拓団には、日本人が居る事を聞き着けて、遠方から元軍属の日本人が入って来て様々な情報を齎して行った。衛生兵・医者・通訳者・・・そこで数名の団幹部等は、ロシア語の話せる「辻」と云う男の手を借りて、ソ連軍将校側から救援を取り着けた。
日本に帰れる迄、現地民の暴徒や下っ端のソ連兵から団を守ったり食料を分け与えたりして貰う約束である。そして、団幹部等が引き換えにしたのは・・・生身の人間だった。
未だ結婚して居らず数え年の18歳以上。黒川開拓団の中から「性接待役」としてソ連軍側に差し出される事に為った。条件を満たす女性を探してみると、生存者等の証言通り12人から15人の少女が該当した。既に亡く為った人が大半だが3人の生存者が見付かった。
その内の一人が、文江さんの遺した詩を手渡して呉れたスミさんである。3カ月程前に大動脈解離に見舞われたと云う彼女は「こんな歳に為ったら病気で死ぬのに、私は助かっちゃって。満州でも生き残ったから強い」とサラリと言った。
4-14-33 文江さんと九州に旅行に行った時の写真を見せて呉れたスミさん(@MihoHirai)
病院で2週間程意識不明だった時、満州の事を口にして居たと息子から聞かされたそうだ。脳裏に奥深く刻まれた記憶をスミさんは気負わずに話して呉れた。団幹部から娘達の「性接待」が命じられた時、満州へ渡った黒川村の人々は衝撃に揺れた。
「〇〇さん(開拓団に居た男性)は『そんな積りで娘を育てた訳じゃ無い』って泣いて凄く怒られたけど・・・出さざるを得なんだ。お母さんは行かされ無い、娘さんばっかり」
その日ソ連兵の所に行く女性はどう遣って選んだのだろう。
「ソリャあ、具合の悪い人もあるしもう兎に角滅茶苦茶よ。行ける人は行って呉れってネ。義夫さん(仮名)私の所に來るんよ『頼む!明日団に塩が無い。塩がのう為ってしまった。塩が無けりゃ、コーリャンご飯も食えへんで。その塩、貰わんなんで頼む行って呉れ』って『私、昨日か一昨日行ったばかりだから、行かへんよ!』って」
ベニヤ板づくりの部屋で
娘等を前にしたソ連兵の将校等は喜んで、ハラショーッと声を上げた。スミさんは自死を試みたこともある。
「アノ時、私は死のうと思って銃持って外に出たの。重たかったよ。二発(試し撃ちで)空に向かって撃った。団の人等が裸足で飛んで来て私の指を掴んで止めたの。明くる日(団幹部等は)怖かったよー」
この様な人身取引は9月頃から数カ月間は続けられ、未婚の女性等は数名ずつ交代でソ連兵の下へ送り出された。連れて行かれた先は、陶頼昭の鉄道駅付近にあるソ連軍の駐屯地。又本部内の一角にも「接待所」が設けられて居た。
そこは「接待」等とは程遠い、強姦・重姦の場だった。どれ程残酷だったかは「乙女の碑」の紙に赤でペン書きされた文江さんの文章から浮かび上がる……
《ベニヤ板で囲まれた元本部の一部屋は悲しい部屋であった。泣いても叫んでも誰も助けて呉れない。お母さん、お母さんの声が聞こえる》
交代制の接待は団内部の決まり毎だった。病弱だった一人の少女を除き例外は居なかった。副団長にも年頃の娘が居たが、皆の手前、性接待に出さざるを得ない。それでも、副団長の娘は出される回数が少なかったとスミさんは言う。
食事等は出ず「接待」のみの時間。そして戻って來ると、団内部に設けた医務室に連れて行かれた。又、接待に出た娘達だけは特別に風呂にも入れた。
「自分も後数年生まれるのが遅ければ、(性接待に)出さされて居た」
神妙な面持ちでそう語るのは、当時12歳だった元開拓団員のみつさん(仮名)彼女は風呂焚き係を命じられて居た。幹部の男性・義夫が五右衛門風呂を作り、子供達が燃えるものを拾って来た。自分も含め何百人も居る他の人達は風呂等入れ無い。頭髪にはシラミの卵がビッシリと着き、集団生活は不衛生極まり無い状態だった。みつさんは母親にこう訊いたことを覚えている。
「ナンで、あの人等だけ風呂に入れるの?」
すると、みつさんの母は「アノ人等は自決から守って呉れた人達だよ」「ロシア人の所に接待に行かれたんだよ」と答えた。何かあったんだナ・・・みつさんは子供ながらに何かを察したと云う。
「独身のアンタらだけ頼む」
豊子さん(91)は、岐阜県内の酪農地で暮らして居た。戦後、満州からの引揚者達が再入植し開拓した山麓(さんろく)である。豊子さんは開拓団のリーダーを「先生」と呼び、集団避難生活が始まってから数週間程経った頃を振り返った。
「副団長の先生がナ、広場の真ん中に皆を集めて言われましてね。奥さんには頼めんけどな、アンタ等独り者はどうかな、身体を張ってな犠牲に為って呉れやって。旦那が兵隊に行ってる奥さんに利用するのは申し訳無いで、独身のアンタ等だけ頼むって」
そんな要求を突き点けられた時、豊子さんはどう思ったのか。
「ソリャあ、嫌でしたし、もうこれで私の人生も終わりと思いましたけれど、日本へ帰りたい、どんな辛抱しても病気に為っても苦しい思いをしても日本へ帰りたい。その一念でした」
豊子さんは懐かしそうに思い出のアルバムを見せてくれた(@MihoHirai) 4-14-34
一方で、豊子さんは「団の為なら死んでも好いんだって思いました」「団の為に仕方が無い」とも語った。黒川開拓団に対しては恨む気持ちは無いと言い切り「アンナ立派な開拓団はありません。よう(自分のことを)仲間にして連れて帰って来て呉れた」と評する。
満州の開拓女塾「興亜凌霜女塾(こうありょうそうじょじゅく)」の卒業生である彼女は、当時叩き込まれた自己犠牲の精神を今でも覗(のぞ)かせた。開拓女塾とは、未婚女性達に開拓生活に必要な知識や理念を教える訓練校で、卒業生等は「大陸の花嫁」として各開拓地に送り出された。彼女の表情に生々しい感情が見えたのは、どの様に接待に行かされたかと訊ねた時だ。
「義夫さん、怖かった」
それ迄凛として居た豊子さんは顔を歪(ゆが)めた。接待係の男性は3・4人居て「アンタ等、今日は出て呉れないか?」と娘達に頼んで回った。豊子さんが名前を出した男性に付いては、スミさんも「『義夫さん、嫌い』って皆が嫌がっとったから。皆怯えとったよ」と語り、集団内の命令系統が浮かび上がる。
豊子さんによると、駅の方へ馬車で連れて行かれ、遅くとも翌朝には団へ返されたと云う。風呂や消毒の甲斐も空しく、犯された少女等は次々と性病に感染して行った。更には発疹チフスも大流行し、開拓団では毎日の様に人がバタバタと死んで行った。
「皆、性病を貰ったんです。性病と発疹チフスが一緒に為っちゃったから。12人の内、7人位は亡く為ったんです。『(日本に)帰りたい。帰りたい』って言いながら、向こうで死んで行った」
豊子さんも発疹チフスに感染したが九死に一生を得た。そのうち団では遺体を巻く菰(こも)も底をつき、旧本部の裏に野晒と為って行った。
敗戦の翌年、1946年5月 要約日本への引揚船がコロ島(遼寧省)から出港を開始した。同年8月以降、黒川開拓団は複数回にわたって引揚げを果たしたが、600人以上居た団員のうち、200人余りが満州や引揚げ途中で命を落とした。
引き揚げ後も続く苦しみ
懐かしい故郷に戻ると、娘達が性接待に出された話はタブーと為った。
「もう、皆が表に出さんかったからね。アノ当時はトッテモコンナことは話せんて」
シミジミとそう語るスミさんは、満蒙開拓青少年義勇軍(青少年を開拓事業に参加させる制度)の隊員だった男性と結婚した。結婚前に接待のことを伝えると「ソリャ、辛かったやろう」と言葉を掛けて呉れたと云う。だが、妻が元開拓団員らの集まりに参加するのは嫌がった。
スミさんには、我が娘にも打ち明けられ無いと思った出来事がある。10数年前、長女と居間でテレビを見て居た時だ。韓国の慰安婦問題のニュースが流れると、娘は咎める様な口調で言った。「慰安婦、慰安婦って自分から言うとったら、子供や孫に迷惑が掛かる。自分からよう言うわね」と・・・「アーだから、私は言うたらアカンって思って」スミさんは押し殺す様に声を潜めた。「言いたい事はもう、皆で言うちゃっとるで。集まった時に」
胸の奥の苦しみは、同じ目に遭った女達と集まった時にだけ思う存分吐き出す事が出来た。帰国後、親分肌だった文江さんが仲間を誘い「乙女会」と名付けて外に連れ出して呉れたのだ。遺族会の集まりで、アノ話を持ち出す者は居なかった。
処が少人数に為ると、彼女達を揶揄(からか)って來る父親世代の男も居た。それは事も在ろうに、性接待に行かせて居た側の団幹部・義夫からのものもあった。豊子さんも元義勇軍の男性と結婚した。「嫁入り」前には、日本に帰って来てからは梅毒が出て無い事を医者に一筆書いて貰い夫側に見せたのだと云う。
ベルトを外す金属音がトラウマに
当時数え年で18歳、最年少で性接待に出さされた照子さん(仮名88)は、東京郊外の街に暮らして居た。同居家族に聞かれると困るからと外で待ち合わせたが喫茶店にも入ろうとしない。以降、照子さんとは交流を続けて居るが、何時も人目の着か無い場所を彼女は選んだ。
照子さんは戦後、黒川開拓団の遺族会とは距離を置き、集まりに一度も顔を出した事は無い。只、同じ開拓女塾で学んだ豊子さんとだけは偶に手紙の遣り取りをして居たそうだ。彼女は豊子さんとは異なる思いを、黒川開拓団に対して抱いて居た。
「開拓団に好い思い出、ひとつもありません。集団生活に入るでしょ。これが日本人か!って思った。言うことを聞く者は好いけど、他所者扱いは見え見えで遣るしね」
照子達一家は、継母の繋がりから開拓団に加わった。だが、満州に渉ってから父母は離婚。叔父も開拓団に居たが団幹部の男性等とは折り合いは好く無かった。照子は辛い記憶を幾つも吐き出した。ソ連兵や中国人に殴られた時、大人は誰も助けて呉れ無かった事、同胞の裏切りによって中国人に売られて連れて行かれそうに為った事・・・壮絶な満州体験を持つ彼女だが、これ迄は過去を振り返る余裕等無く、生きる為にガムシャラに働いて来た。
「私らナンて恥かしゅうて、ズッと口に出さんかったよ。だけど復興も見たしアレから美味しいものも食べさせて貰ったから好かった。それから、私、少し書き残す必要があるなって思って」
70代に為ってから少しずつ綴る様に為ったノートには、短歌風に思いが綴られて居た。
《守り忘れたか関東軍 婦女子残して又今日も南下する》
《日本に帰りたいと静かに眠る友の顔 一夜明ければ動かぬ人に》
満州に進駐して居たソ連兵等は黒川開拓団の避難場所へ遣って來ると、少女等を見付けては引っ張り出して行った。
「ソ連兵が来たーって聞いただけで、心臓がね、動いているか動いていないのか判らん様に為っちゃう。ここら辺が冷とう為って来ちゃうの」
照子さんは胸に手を置いた。ソ連兵は抵抗する未婚の娘達を銃で殴り、何度失神しても連れ去ろうとした。
4-14-35 漢口の陸軍病院で被弾した傷跡を見せる照子さん(@MihoHirai)
そうこうして居る内に、今度は上の者達の間で「性接待」の話がまとまった。
《自決のがれて一息つく間もなし 接待に切りかえられる》
極限状態とは云え、どうしてそんな事を思い着いたのか。思わずそう零した私に、照子さんは被せる様に言った。
「楽よ、そうすれば楽じゃない。出しとけば自分達がワイワイ騒ぐ事無い。出さ無いと『女出せ!女出せ!』って突かれるから大変じゃない。探しに行くの、皆嫌で逃げてるから、何処に隠れてるか判らないし」
親に力がある人は(ソ連兵の所へ)行かされる回数が少なかったと照子さんも語った。御婆さん達の話からは幾重にも折り重なった差別構造が透けて見えて來る。「接待所」には仕切りも無かった。娘がズラリと並び友人が犯されて居るのも見える。
「だから、隣に居る人とね『お互いに頑張ろう』って言って、こう遣って手を握ってね」
強姦する時も、ソ連兵は銃の向きを変えただけで肌身外さ無い。恐怖で身体が硬直し頭は真っ白である。ヤガテ、ガチャッ・ガチャッと音がする・・・兵士が太いベルトを外す時の金属音だ。帰国後もアノ音が耳から離れず、フラッシュバックに苦しんだ。
「男はアア云う目をさせて置いてネエ、それで助かって置いてね。帰って来たら『好いじゃないか、減るものじゃ無いし』って、飛んでも無い話だよ」
団幹部だった男性から発せられた性暴力を軽んじる言葉。そうした心無い言葉は再び女性達を深く傷つけて居た。
《傷つき帰る小鳥(娘)たち 羽根(心)を休める場所もなく 冷たき眼身に受けて 夜空に祈る幸せを》
詩の「小鳥」の横に“娘”、羽根の横に“心”と文江さんは書き入れて居る。
口を閉ざす人々
照子さんは八路軍(後の中国人民解放軍)によって留用され、1953年に日本へ帰ることが出来た。看護婦として働かされた漢口の陸軍病院では、兵士の誤射によって被弾し左足に傷跡がウッスラと残る。八路軍の幹部は「日本人は女を出した」と黒川開拓団の性接待を知って居たと云う。何故、アンナことをしたのか・・・八路軍兵士からそう言われた事が照子さんの胸に深く刻まれて居る。
4-14-36 照子さんは書き留めて居たメモを見ながら「あの時」を振り返った(@MihoHirai)
遺族会は乙女の犠牲をどう受け止めて来たのだろう。
『ああ、陶頼昭 黒川開拓団の想い出』
戦後から約36年経過した1981年3月に黒川分村遺族会が発行した文集には、性接待に言及した箇所が散在する。或る男性団員は自分達が生き残る事が出来たのは、治安を維持して呉れたソ連軍と八路軍のお陰だと書き記し
「しからばこの人達に対し、交渉に当たって呉れた団幹部の方達だけであの安全が得られたであろうか。十余人のうら若き女性の一辺の私利私欲も無い、唯々同胞の安全を願う赤城の挺身があったからではないだろうか」
と続けた。他の男性もこうだ。
「駅に常駐する司令部のソ連兵には豚の料理等で接待し、娘達も協力して呉れ誠に感謝の外無い」
男性寄稿者達は少女達の犠牲を悼みつつも、本人が自発的に身を捧げた解釈をして居る。その一方で、女性寄稿者は被害女性を含め、誰一人としてそのことには触れては居ない。1981年11月、異郷で命を落とした少女等を悼(いた)み「乙女の碑」が建てられた。碑には亡く為った女性達の名前は刻まれず、事情を知る者達の胸中だけに収められた。
当時の遺族会会長は、町の会報誌に「うら若い乙女達の尊い、かつ痛ましい青春の犠牲があった」とだけ綴って居る。地元に碑が建立されても、何があったのかは触れては為ら無い事だった。
あれから更に長い月日が流れ、終戦時に大人だった人々は既に亡く為った。女性達が何度も名を挙げた団幹部男性・義夫には、戦後生まれの息子が居る。黒川開拓団の遺族会会長を務めて居る彼は「接待」に着いて口外しては為ら無いと云う方針を採って居た前遺族会会長とは異なり、後世に歴史は残して行かなくては為ら無いと考えて居る。
「こう云う事があったとは、親父は話した事が無かった。豊子さん等と話す様に為ってから、自分の親父が深く関わっていたと知った」
性接待を決め娘達を差し出した男達は、引揚げ後も同じ集団内のリーダーで在り続けた。文江さんは「乙女の碑」に他言無用の文言を着け加えたが、今も昔も岐阜県内で暮らす御婆さん達から話を聞いて居ると、狭い人間関係に縛られて来た事が好く判る。
遺族会会長等を辿ると敗戦当時の団幹部らに繋がり、更に辿れば満州への分村移民を決めた村の男衆らに繋がるのだ。脈々と続いて来た男達の決め事の中で、如何に女性の人権は蔑ろにされて来たか。そして、今なお周りの認識は本人達とはズレがある。慰霊碑に対して、何らかの思い入れを口にした被害女性等居ない。スミさんは乙女の碑など見たく無いと話す。
「乙女の碑ナンか、私の方相談あれへんよ。〇〇さん(遺族会の男性)が乙女の碑に、口紅着けたって。何それ?」
屈強な兵士等に犯され、性病に感染して苦しみ藻掻きながら死んで行った仲間たち・・・後から尊い存在に祭り上げられること自体、冗談じゃ無いと為る。
「アンタらのお陰で私等は救われたんでさ」と感謝を口にされた時も返す言葉等無かった。本人に取ってそれは紛れも無い性暴力であり、何処にも逃げられ無い状況の中、上から強要されたものだ。処が今でも、当時を知る人は「接待」と言い、私が「レイプ」と呼ぶと拒否感を示した。
亡く為った娘達はどう云う存在なのだろうか。現遺族会会長に訊ねると、少しの間を置いて彼は答えた。黒川開拓団の「守り神」であると・・・
姉妹のきずな
文江さんとは後一歩の処で会え無かったが、彼女の姿と肉声は満蒙開拓平和記念館で数年前に行われた講演会のビデオに残されて居た。在りし日の文江さんは満州体験の中で「性接待」に付いても言及している。彼女の証言によると、ソ連兵等による「女狩り」を防ぐ為、娘達がソ連軍将校の「おもてなし」をする事に為った時「それなら死ぬ」と娘達は言い周りの者も大反対したと云う。
だが、副団長が「兵隊さんに行って居る家族を守るのも、お前達の仕事。団の存続は娘達の力に罹っている」と力説した。その時、文江さんは副団長に同調し、泣いている年下の女の子達を慰める側に廻ったと打ち明ける。
「今から思うと恥ずかしいんですけど、本当に、自分の命を捨てるか開拓団の皆さんをお救いするかは、娘達の肩に懸かっていると自分で思ったんですね。それで何としででも日本へ帰りたいから、命を救いたいからと云う事で」
スミさんら他の被害女性によると、文江さんは「綾子の分も私が出る」と妹を庇(かば)い、妹は接待の任務をしなくて済んだと云う話だった。妹の綾子さん(仮名88)と会えたのは2016年8月のことだ。ハガキを送った処、耳の遠い祖母の代わりにと30代の孫の女性から連絡が入った。
「ハガキを貰って、お婆ちゃんは嬉しかった。ワザワザ調べて呉れてって、凄い喜んでいた」
綾子さんは満州体験をこれ迄身内にしか話していなかったが「亡く為った姉さんの為にも」と云う思いもあってか、インタビューを快諾して呉れた。
忘れ難き満州の記憶を語る綾子さん(@MihoHirai) 4-14-37
旧黒川村の在った地域から幾つかの峠を越えた山間部・・・自ら切り開いた土地の上に、綾子さんは三世代で暮らして居た。前日に丸一日掛けて綴ったと云うメモ書きの束を前に、彼女はその半生を止めど無く語り続けた。
「男みたいな気性やった」と、綾子さんは姉のことを評する。お姉さんが綾子さんの分まで、ソ連兵の元へ行ったのは本当なのだろうか。
「最初は、娘は全部接待に出るって話やったけど、兎に角姉さんが頑張って、私はね、17に為っとったかね、数えの。兎に角、姉さんが数えの18以上って線を引いちゃったのよ。それで私を外して呉れたんよね」
姉の機転で接待役を免れた綾子さんには、接待に出た人の洗浄係が割り降られた。開拓団は医務室を作ってベッドを一つ置き、接待に出た女性達の洗浄を行って居た。洗浄の指導をしたのは、外から入って来た北海道出身の衛生兵だったと云う。
「そんな技術は開拓団には医者も居ないし、無いもんでね。夜・・・夜中でも接待に出た人が居ると起きてね、冷たい水で洗浄した。冷たかったやろうネエ」
過マンガン酸カリウム・モルヒネ・・・綾子さんはブツブツ呟く様に扱った薬品名を挙げて行った。陶頼昭の南側の駅に居た日本軍の部隊が残して行った薬品類を開拓団の人達が運んで来たものだ。
「リンゲルの瓶一杯に、抹茶の小さい匙(さじ)があるわね。それで、過マンガン酸カリウムを一杯ポっと入れるとね、バアーッと真っ赤に為るのよ。それを上から吊るしてホースをずうっと通って来て・・・上からそれを・・・ホースの先をどうしたか覚えは無いけれども、下からネ、ホースを子宮迄入れて遣って洗って・・・」
「途中で死ねば好かった」
綾子さんは堰を切った様に当時の様子を振り返った。途中「接待」と聞いた時の気持ちを訊ねると、その問いには答えずに次の様に告白した。
「最初にロシア兵がダーッて入って来た時はね、13・14歳位の子から上、みーんなロシア兵の犠牲に為っちゃったのよ。ホンでネエ私もそんな目に・・・一番最初はネエ、体格が好いロシア兵が私をヒッ捕まえて行ってネエ、ホイでもうアッとう間に遣られちゃった」
【PHOTO】gettyimages 4-14-38
驚いた私が再び訊ねると、綾子さんはウンと頷いた。手書きのメモには次の様に記してある。
《敗戦国の惨めさ 支那事変の時の日本兵の女漁り話は聞いて居たが直面するとは・・・夢にも思わ無かった》
中国東北部の冬は零下30℃にも為る。極寒の季節が過ぎた4月初め父が亡く為り、その月の終わりには母も亡く為った。父の死後母に何とか食事を与えようとしたが、母は口を噤んで何も食べ無かった。「食べれば生き伸びる。母は死ぬ積りだった」と綾子さんは母の覚悟を推測する。それからは文江さんが親代わりと為って、身を投げ打って綾子さんと2人の弟を故郷まで連れて帰った。
しかし、引揚げ後の道のりも又険しいものだった。敗戦後の日本は何処も生活が苦しく兄妹はバラバラに引き取られ、綾子さんは母親の実家へ上の弟は父親の姉の嫁ぎ先へ。そして文江さんと下の弟は父の実家の裏に在ったワラ小屋に移り住んだ。親戚には冷たい目で見られ、周りからは満州で汚れた女と偏見をブツけられる。
「途中で死ねば好かった」「帰って来にゃ、好かった」 気丈な姉がそう漏らす事もあった「乙女の碑」の最終ページには文江さんの心情が追記されている。
《命からがら日本に帰って来ればロスケにやられた女とささやかれて、何時出るか解ら無い病気に怯えつつコッソリ病院に通った。或る日弟が好きに為った団の娘が、途中で悲しい事が在ったと聞いて一変に嫌に為ったと聞いた時、千丈の谷に落ちる感がした》
未だ子供だった弟等は、姉妹がどの様な目に遭ったのかを知ら無い。そうとは云え、弟は好きに為った娘が、引揚げ時に性暴力被害に遭ったと知って嫌いに為ったと云うのだ。弟でさえこうなのだからと、文江さんは嘆いた。
《これが開拓団も含めて、一般の人の気持ちに違い無い。アノまま自決すればこんな悲しい思いは無いのに、涙も悲し過ぎると出ないもの》
結婚は満州の色々な事情を知って居る人とするのが好い・・・姉妹は夫々、元義勇軍の男性と結婚した。だが、文江さんには子供が出来無かったことから、綾子さんの次男を養子に貰い一人息子として大事に育て挙げた。姉妹はまさに互いに支え合い二人三脚で厳しい人生を乗り越えて来た。
「姉さんが守って呉れた。姉さんが居なかったら中国で孤児に為っていた。綾子・綾子って姉さんの声が何時も耳に残って居る。『男なら、こんなに頼りに為らん』って言って居た」
どうしても納得できないこと
物心着いた頃、綾子さんは次男から「何で、僕を大垣(文江さんの嫁ぎ先)に遣ったんだ?」と訊ねられたことがある。「姉さんのお陰で内地に帰って来れたんで、その恩を御前に返して貰おうと思って遣った」綾子さんがそう言い聞かせると、次男はそれから何も言わ無く為ったと云う。
お姉さんの写真が見たいと言うと、綾子さんはアルバムの中から探し出そうとしたが、それ程枚数は無かった。要約出て来たのは1991年に二人で四国に旅行した時の写真だった。
「姉さんの写真がコンなに無い何て判らなんだ・・・ズッと姉さんから二人切で旅行がしたい、連れてけって叱られてたけど、舅(しゅうと)さんが在ったでねそんなに出れ無い。一緒に旅行には行け無かった。それが心残り。死んだら一緒に旅行に行ける」
映像の中の文江さんとソックリの声で、綾子さんは穏やかに言った。文江さんの講演会の後半は、苦しい問い掛けで埋められている。彼女は生涯に渉って、自分の人生が全く思わぬ方向に行ってしまったことに苦しみ続けた。
僅か4年の満洲生活で味わった地獄は忘れる事など出来ず、夢にも度々現れた。陶頼昭駅の近くに蹲(うずくま)って居る自分、松花江(しょうかこう)に飛び込む自分・・・父が私達を満州に連れて行った事が原因と、父を恨む気持ちも消え無い。どうしても納得出来ないものが心にあると文江さんは滔々と語る。
「一体、満州って何だったんだと。日本は何故満州ナンかを作って国民を沢山送り出して、アンナ悲しい思いをさせたのか。子供達は絶対平和の中で育てて欲しい。平和の中で個人個人が行動するのは好いんです。それは運命ですからね。でも、その集団の中で逃げられ無い、どうにも為ら無いってことには絶対に為ってはいけ無いと思うんです」
幻の満洲国が崩壊してから70年以上の月日が過ぎた。孫娘等を見て居ると、自分の若かりし頃と遂比較してしまうと文江さんは複雑な心境を吐露する。自分が通ら無ければ為ら無かった娘時代と云うのは、避けては通れ無かったかも知れないけれど還らぬ青春が悔やまれる。
そして、彼女はこう続けた。世界各地の紛争や難民のニュースを目にする度、平和な国の幸を願わずにはいられないと・・・
「戦争する人は好いですよ。好きで遣ってるんですから。だけど、その残された庶民、多くの子供も死んで行くやろうと思うと、私は胸が痛い。チョット優しい心を持って、指導者が心を鎮めて呉れたら、大きな戦争には為らんかったで。戦争の犠牲に為っていく庶民が可哀想で仕方が無い」
文江さんの遺した詩「乙女の碑」は次の一節で終わる。
《異国に眠るあの娘らの 思いを胸にこの歌を 口づさみつつ老いて行く 諸天よ守れ幸の日を 諸天よ守れ幸の日を》
「乙女の碑」 4-14-39
以上
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