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2021年04月12日

【敗戦に学ぶ】ミッドウェーで二兎追って大敗した 日本海軍の「慢心」


 

 【敗戦に学ぶ】ミッドウェーで二兎追って大敗した 日本海軍の「慢心」


  現代ビジネス  4/12(月) 11:01配信



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             4-12-15 写真 現代ビジネス 

 4月12日に発売される『太平洋戦争秘史 戦士たちの遺言』(講談社ビーシー/講談社)は、著者・神立尚紀が四半世紀にわたって戦争を体験した当事者を取材し「現代ビジネス」に寄稿・配信された記事の中から、主に反響の大きかったものを選んで「紙の本」として再構成したものである。
 そこに掲載された記事に関連するエピソードを紹介するシリーズの第4回は、第二章「ミッドウェーで大敗した海軍指揮官が着いた大嘘」に関連して、ミッドウェー攻略と併行して行われた、アリューシャン作戦に参加した搭乗員達のエピソードを紹介する。結果的に大した成果を得られ無かったばかりか、後の戦局に大きな悪影響を及ぼした作戦の実相とは・・・

 日本本土初空襲が流れを変えた


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      4-12-16 アリューシャン作戦で第二機動部隊の旗艦を務めた空母「龍驤」 

 昭和16(1941)年12月8日、日本陸軍のマレー半島コタバル上陸・海軍機動部隊の真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、日本軍が破竹の進撃で東南アジア一帯の油田地帯や軍事拠点を占領下に収めた事で、当初、計画されて居た「第一段作戦」は順調に終わった。処が、次の作戦をどうするかに付いて海軍内部では・・・

 @ アメリカと連合軍の南からの反攻拠点に為り得るオーストラリアを分断する「米豪遮断」を主張する軍令部
 A 太平洋上の艦隊兵力が優勢な今、ミッドウェー島を攻略し米艦隊を誘き寄せて一気に撃滅を図ろうとする聯合艦隊の意見が真っ向から対立して居た。  

 事態が動く大きな切っ掛けと為ったのが、昭和17(1942)年4月18日 米空母「ホーネット」を発艦した16機の米陸軍爆撃機・ノースアメリカンB-25による本土空襲である。日本本土の太平洋岸からおよそ700浬(約1,300キロ)離れた哨戒線上の監視船から「敵空母二隻見ゆ」との報告が届いたにも関わらず、日本側は空母から発艦して來るのが、マサか陸軍の双発爆撃機であるとは想像もして居なかった。それは、日本人の発想には在り得無い戦法だった。

 警戒態勢の虚を衝かれたこの空襲による日本側の損害は、死者88名・重傷者154名・家屋全焼136・半焼59・全壊42・半壊40に達し、その他、空母へ改造中の潜水母艦「大鯨」が被弾する等、来襲した機数の割に大きなものだった。何より、敵味方に与えた精神的影響は極めて大きかった。これを機に、投機的とも云えるミッドウェー作戦に強く反対して居た海軍軍令部は作戦実施に舵を切る。陸軍もミッドウェー島攻略に陸軍部隊を派遣する事を決めた。

 この時、空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」を主力とする第一機動部隊・南雲忠一中将指揮によるミッドウェー島攻撃に始まる攻略作戦・MI作戦と同時に、アメリカの領土であるアリューシャン攻略作戦・AL作戦も併せて実施される事に為り、空母「龍驤(りゅうじょう)」「隼鷹(じゅんよう)」を主力とする第二機動部隊・角田覚治少将指揮がそちらに差し向けられる事に為った。  
 第二機動部隊は、アリューシャン東部・アラスカ州ウナラスカの米軍拠点のダッチハーバーを空襲、同時に陸海軍部隊がアリューシャン西部のアッツ・キスカ両島を占領する。  

 これは、ミッドウェーを攻略しても出て來るかどうか判ら無い米艦隊の出撃を二重に誘い出すと共に、北太平洋からの米軍の反攻を抑える目的があったと言われる。又、ミッドウェー島攻撃の前日にダッチハーバーを攻撃する事で米機動部隊の注意を引き、ミッドウェー島への上陸を容易にする陽動作戦と為る事も期待されて居た。  
 アリューシャン作戦に投入される「龍驤(りゅうじょう)」は、小型空母ながら歴戦の艦「隼鷹(じゅんよう)」は、日本郵船のサンフランシスコ航路に使われる予定であった大型客船「橿原丸」を、建造途中で海軍が買収し空母に改造した新造艦で、防御力と速力はやや劣るものの、正規空母に近い飛行機搭載能力を持って居た。出来たばかりの「隼鷹」は、処女航海がこの大作戦と云う、ブッツケ本番の作戦参加だった。

 搭乗員も驚いた壮大な作戦!?


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     4-12-17「隼鷹」飛行隊長・志賀淑雄大尉(終戦時少佐)〈右写真撮影 神立尚紀〉

 ミッドウェー島を攻略すれば、新たに編成された第六航空隊(六空)の零戦33機が同島に進駐する事に為って居た。六空零戦隊は、第一機動部隊の4隻の空母に計21機が搭載されたが「隼鷹」にも12機が搭載され、アリューシャン作戦終了後、南下してミッドウェー島に上陸する予定である。宮野善治郎大尉が率いる六空の零戦12機は、大分県の佐伯基地で「隼鷹」戦闘機隊と合流した。
 「隼鷹(じゅんよう)」の飛行隊長は志賀淑雄大尉。これ迄空母「加賀」零戦隊を率い、真珠湾攻撃以来第一段作戦の言わば表舞台で出撃を重ねて来た。しかし、志賀の回想によると「何と無く反りが合わ無かった」艦長・岡田次作大佐と事ある毎に衝突し「加賀」が内地に帰るや否や、左遷同然に「隼鷹」に転勤が発令されて居たのである。
 
 「隼鷹(じゅんよう)」戦闘機隊の定数は18機だが、当初の配備予定は旧式の九六戦だった。「今時九六戦で戦が出来るか!」と怒った志賀は、鈴鹿の航空廠へ飛行機の受領に赴いた際、旧知の監督官が「加賀」から受領に来たと思い込んで居るのを幸い、何食わぬ顔で全機零戦で揃えて佐伯に帰って来たと云う。  

 「飛行長の崎長中佐が『エッ、うちは九六戦だよ』とビックリして居ましたね。『持って来たんだから好いでしょ』と、そのままアリューシャン作戦に行きました」と、志賀は筆者のインタビューに語っている。  
 新造艦の「隼鷹」は、搭乗員も未だ揃え切れて居ない。固有の零戦搭乗員は志賀大尉を含め9名しか居らず、便乗して行く六空零戦隊も、12名の搭乗員のうち空母の発着艦経験がある者は宮野大尉以下4名のみで、後の8名はアリューシャン作戦には使え無い。

 空母から発艦するだけなら飛行場からの離陸とそれ程変わら無いが、高速で航行する空母の狭い飛行甲板への着艦は、訓練を重ねないと出来無いからだ。「隼鷹」は、5月20日、呉軍港を出港し関門海峡を通過、日本海を北上した。
 23日「搭乗員総員集合」が掛かり、右舷の艦橋前に整列した搭乗員達は、艦長・石井芸江大佐より作戦命令を伝えられる。それは、搭乗員達を驚かせるに十分の、壮大な作戦だった。  

 「今回の作戦はミッドウェー島攻撃の第一機動部隊の支援の為、第二機動部隊としてアリューシャンのウナラスカ島・ダッチハーバーの攻撃に向かう。我が隊は、アッツ島・キスカ島へ上陸する陸海軍の輸送船団も支援し、上陸完了後は陽動隊として敵機動部隊を引き着け、第一機動部隊の攻撃作戦を容易にする為の囮部隊と為る。  
 作戦終了後ミッドウェーに向かい、六空戦闘機隊をミッドウェーに上陸させる予定である。尚上陸日をN日、攻撃日はNマイナス3日とする」
 

 5月25日「隼鷹」は、本州最北端の海軍基地・青森県大湊に入港した。ここで「臨時『隼鷹』乗組」の辞令を持って助っ人として乗組んで来た5名の零戦搭乗員達が居る。何れも5月7日から8日に掛けて戦われた史上初の空母対空母の戦い「珊瑚海(さんごかい)海戦」で被弾・損傷して内地に帰り修理中の空母「翔鶴」の搭乗員達であった。
 
 「『隼鷹』は、搭乗員が未だ揃って無かったんですネ。そこで『翔鶴』はどうせ暫くは出られ無いと云う事で貸し出されたんでしょう。今で云うアルバイトですよ」  

 と、その中の一員であった佐々木原正夫二飛曹は回想する。彼等はこの作戦が終了すると全員が再び「翔鶴」に復帰して居るので、臨時雇いであったことは間違い無い。だが、アルバイトだろうがパートタイマーだろうが、実戦経験を積んで来た若手搭乗員の加入は「隼鷹」に取って心強いものだった。  
 大湊の沖合いで一夜を過ごした「隼鷹」は、翌26日、角田覚治少将が座乗する旗艦「龍驤(りゅうじょう)」に続いて出港した。両空母を護衛するのは、重巡洋艦2隻と駆逐艦3隻。  

 出港後「隼鷹」では再び搭乗員総員が集められ「N日は6月7日なり」と伝えられた。即ち、ダッチハーバー攻撃はNマイナス3で6月4日と為ったのである。これは、前に述べた様に、第一機動部隊によるミッドウェー島空襲予定の前日に当たる。

 「この戦争、勝てると思いますか?」


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 4-12-18 ミッドウェー島に駐留予定で「隼鷹」に便乗した第六航空隊分隊長・宮野善治郎大尉(昭和18年戦死)

 北の海は霧が深く「霧中航行用意」の艦内放送が何度も流された。海上はミルク色のベールに遮られ、探照灯の灯りがボンヤリ明るく見える程度で、僚艦の姿も全く見え無い。先行する「龍驤」が、800メートルの長さで曳く浮標(ブイ)の立てる白波と、浮標に着けられたドラの音だけが頼りである。  
 視界が効かず衝突の危険があるが、電波を出せば敵に傍受されて位置が知れてしまう為、無線封止は大前提である。未だレーダーも装備されて居なかったから、濃霧の中での航海の苦労は筆舌に尽くしがたいものがあった。  

 この季節、北に向かうに従い夜がドンドン短く為る。夜半に薄暗く為ったかと思うと午前2時にはもう夜が明け始める白夜に近かった。その為、1日の食事が4度に為った。元は一等船室に為る筈だった「隼鷹」の士官室で、志賀大尉と便乗する六空零戦隊の指揮官・宮野大尉は夜毎に遅く迄話し込んだ。
 2人は、過つて海軍兵学校で最上級生(志賀)と最下級生(宮野)の関係に在った。志賀は宮野に弟の様な親しみを感じて居たし、宮野も志賀には「先輩!」と、学生の様に話し掛けた。

 開戦後は、志賀は機動部隊、宮野は基地航空部隊で夫々最前線で戦って来て居る。そんなこれ迄の戦闘の話・クラスメートの近況・内地に残して来た女性の話・色々と話は尽き無かった。 志賀の回想によると、或る晩宮野は、雑談の合間にフト真顔に為って「先輩、この戦争、勝てると思いますか?」と訊いて来た。志賀は表情を一瞬強張らせた。宮野は続けた。

 「P-40・米陸軍戦闘機ナンか、何機来たって問題じゃ無いんです。でも敵は、墜としても墜としても新しい飛行機を持って來るのに、此方は、飛行機も搭乗員も補充が全く無いんですよ。台湾を出る時は45機揃えて行ったのに、新郷さんの隊(台南空)等最後は20何機。
 搭乗員に下痢やマラリアも出ますが、何しろ飛べる飛行機が間に合わんのです。それで内地に帰ったら飛行機の奪い合いで、今回の12機を揃えて來るのも大変でした。今に搭乗員だって足り無く為りますよ・・・先輩、こんなことで勝てますか」


 志賀は、思わず考え込んだ。志賀自身はこれ迄、機動部隊で連戦連勝を重ねて来て、戦局の行く末を深刻に考えたこ都が無かったのだ。嫌、アメリカの国力の強大さについては理解して居る積りだったから、考え無い様にして居た、と言った方が正しいのかも知れ無い。 少しの沈黙の後「嫌、勝た無きゃいかん、確りしようぜ」と答えて志賀は話を逸らせた。

 「如何してダッチハーバーみたいな田舎の所へ、貴様も不満だろうけど、問題はミッドウェーだよ。如何にして犠牲を出さずに向こう迄行くかと云う事だ」  

 戦後半世紀余りが経っても、この時の宮野の、戦場での経験に基づいた切実な言葉は志賀の心に鮮やかに残って居た。  

 「当時、搭乗員で戦争の見通しに付いてそこ迄ハッキリと悲観的な事を言う者は珍しかった。彼には先を見るセンスがあったんですね。私は思わず答えに窮してしまいましたが、内心、物事を冷静に見て居る偉い奴だと感心しました」  

 と、志賀は筆者にシミジミと述懐して居る。

 戦争の趨勢を左右した不時着機


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  4-12-19 「隼鷹」艦爆分隊長・阿部善次大尉(終戦時少佐)バックは九九式艦上爆撃機

 何とか無事に攻撃地点に着いた「隼鷹」と「龍驤」は、日本時間の6月3日午後10時25分「隼鷹」から志賀大尉の率いる零戦13機・阿部善次大尉の率いる九九艦爆14機をダッチハーバーに向け発艦させた。1時間後「龍驤」から零戦3機・九七艦攻14機が発進した。   
 白夜の黎明を突いて初進した隼鷹戦闘機隊は、艦爆隊を護衛して目標に向かうが、11時27分、米軍のPBY飛行艇1機と遭遇、北畑三郎飛曹長・佐々木原正夫二飛曹の零戦2機が本隊と分離してこれを攻撃する。佐々木原二飛曹の日記には、  

 〈母艦を出て、暁闇と霧の北洋を夜目にもしるく航空灯を点けて編隊を崩さず北へ北へと進む。進撃約十五分、右側方を通過する飛行機を発見、中隊より分離してこれに後方より攻撃に移る。近付くと明らかにコンソリデーテッドPBY5型飛行艇、雲高五百の海上を約四百の高度で味方(艦隊)方向に近接しつつある。  
 気付かれぬ様に後下方より一番機の後より撃ち上ぐ。照準器が明る過ぎて照準が出来ぬ。反転して第二撃、今度は二十粍を撃ちっ放す。(中略)敵機は黒煙を吐きつつ遂に雲中に遁入す。一番機これを追えども撃墜に至らずして取り逃せり。残念〉
 

 とあって、照準器の光枠が明る過ぎると感じる程の暗さの中での戦闘であったことが窺える。結局、この出撃では濃霧の為「隼鷹」を発艦した北畑・佐々木原機以外の全機が引き返し「龍驤」艦攻隊だけがダッチハーバーを爆撃した。  
 「龍驤」艦攻隊は、爆撃を終えての帰途、ダッチハーバー西方のマクシン湾に敵駆逐艦5隻を発見、司令部にその旨を打電する。角田司令官は空かさず、この敵艦に向けて第二次攻撃の出撃を命じた。  

 「隼鷹」からは、先程の第一次攻撃で引き返したものの内、零戦6機・九九艦爆15機「龍驤」からも零戦9機・九七艦攻17機。それに加えて重巡「高雄」「摩耶」の九五式水偵各2機も、30キロ爆弾2発ずつを積んで発進した。  
 処が、この時も、攻撃隊は厚い雲と霧に阻まれ引き返さざるを得無かった。天候の為とは云え締まら無い結果に、角田司令官は痛く不満の様子であったと云う。  

 6月5日 第二機動部隊は再度ダッチハーバーを攻撃する事と為った。「龍驤」から零戦6機・九七艦攻9機「隼鷹」から零戦5機・九九艦爆11機である。攻撃隊の発艦直前、第二機動部隊は「速やかに南下、第一機動部隊に合流すべし」との命令を聯合艦隊から受けている。  
 これは、ミッドウェーで空母「赤城」「加賀」「蒼龍」が被弾した為だった。しかし、そんな事情迄は知らされて居ない角田司令官は命令を一時無視し、攻撃隊が帰還した後、南下する事にしたのである。  

 阿部大尉の率いる「隼鷹」艦爆隊は、陸上目標と在泊艦艇に急降下爆撃を敢行、米本土から運ばれたばかりの油の入った重油タンクや格納庫・倉庫等を破壊・炎上させ、港内に係留されて居た宿泊艦「ノースウエスタン」に損傷を与えた。  
 この攻撃による米軍の戦死者は43名・負傷者50名と云う。アリューシャン作戦で「隼鷹」が挙げた初の戦果らしい戦果であった。だが、攻撃終了後、米軍戦闘機P-40の攻撃を受けた艦爆隊は3機が撃墜され、又、編隊から逸れた1機は機位を見失い未帰還に為っている。

 「隼鷹」と六空の零戦隊は2度に渉ってP-40と遭遇、空戦に入りその6機を撃墜した。「龍驤」の九七艦攻は弾薬庫を目標に爆弾を投下したが、悉く目標を外してしまい、辛うじて目標を逸れた爆弾が対空機銃の銃座に損害を与え、4人の米兵を死傷させただけに留まった。  
 「龍驤」零戦隊は海軍基地に機銃掃射を行ったが、対空砲火は意外に強烈で、1機が燃料タンクを撃ち抜かれて、予てからの打ち合わせ通りダッチハーバー東方の無人島(アクタン島)に不時着した。しかし、この零戦は、湿地帯である事に気付かずに脚を出して着陸しようとした為に、ツンドラに脚を取られて転覆、19歳の搭乗員・古賀忠義一飛曹は戦死してしまう。  

 後に米軍が、殆ど無傷のこの零戦・二一型・DT-108号機を発見、飛行可能な状態に迄修復し様々なテストを通じて、それ迄知り得無かった神秘のベールを剝がして行く事に為る。 これによって、零戦の弱点が白日の下に晒され、米軍はそれに対して有効な対抗策を打ち出して來るのだが、この1機の不時着がマサかそんな大事に繋がるとは、その時の参加搭乗員や第二機動部隊司令部の誰もが予想さえして居なかった。  

 アメリカの領土を攻撃されて米軍も黙っては居なかった。「龍驤」「隼鷹」の攻撃隊が発進して間も無く、アラスカ半島のコールド・ベイを発した2機のボーイングB-17が低空で艦隊上空に飛来する。1機は「龍驤」を狙って5発の爆弾を投下したが命中せず、もう1機は高度が低過ぎて爆撃出来ずにそのママ艦隊上空を飛び抜け様とした処を、重巡「高雄」の対空砲火に撃墜された。

 〈本艦舷側スレスレにその残骸、海中に両脚浮遊しをり、海面にガソリン浮かぶを見たり〉と、佐々木原二飛曹は日記に記して居る。B-17に続いて、魚雷を搭載した5機の双発爆撃機・マーチンB-26も日本艦隊を攻撃したが、1発も命中しなかった。

 無駄足処かマイナスに為った作戦

 予定の作戦を終えた第二機動部隊は、イヨイヨ最終目的地のミッドウェーへ、六空零戦隊を進出させる為に南下を開始した。暫くして、着艦経験が無い為に補助暗号員に回されて居た若い搭乗員達は、説明も無いママ電信室への立ち入りが禁止された。
 彼等の間から不満の声が上がった。志賀大尉や宮野大尉等、分隊長以上の士官にのみ電信室で傍受した戦況が知らされた。中部太平洋で、飛んでも無い事態が発生して居たのである。

 「ミッドウェー海戦」と呼ばれるこの日の戦いで、日本側は第一機動部隊の主力空母4隻と重巡洋艦「三隈」が沈没、空母搭載の全機285機(「戦史叢書」による推定)と水上偵察機2機を失った。対して米側の損害は、大破して漂流中の空母「ヨークタウン」が日本の伊号第百六十八潜水艦の雷撃に止めを刺されて、駆逐艦1隻と共に沈没・飛行機喪失150機だった。


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               写真 現代ビジネス 4-12-20

 第二機動部隊が南下を開始した時点では、未だ空母「飛龍」が健在で、これと合流してアワヨクバ敵機動部隊に反撃を掛ける積りだったが、アリューシャンからミッドウェー迄、高速で航行しても3日は掛かる。戦機を失うのは明らかであった。
 その上、残る「飛龍」も被弾するに及んで、第二機動部隊の南下はその意味を失った。聯合艦隊はミッドウェー作戦の中止を決定し、6月6日夕刻、再び第二機動部隊に北上を命じた。  

 一方、アリューシャン攻略部隊は6月7日、アッツ島・キスカ島を占領して居る。何れも、敵の守備隊が居ない島への無血上陸だった。両島の占領を受け、それを迎え撃ちに來るかも知れない敵艦隊に備えて、第二機動部隊は又も南下を始めた。佐々木原二飛曹の日記には、
 
 〈六月八日 ジグザグ進撃  六月九日 反転南下 ジグザグ進撃  六月九日 毎日、南下したり北上したり、西進東漸を繰り返す〉
 
 とある。6月14日第二機動部隊は、ミッドウェーで第一機動部隊の生存者を収容した駆逐艦と洋上で合流した。〈一、二航戦の生き残り搭乗員駆逐艦より移乗し来る。状況書くに及ばず〉  と、佐々木原二飛曹は日記に記して居る。佐々木原の回想・・・
 
 「初めは皆口が重かったですね。ヤガテ気持ちが解れて来たのか、実はコッ酷く遣られたんだと。予科練で2期先輩の岩城一飛曹が『赤城』の艦橋に居て退艦する直前、伝声管から機関科員の歌う『君が代』が聴こえて来たと言って居ました。機関室は艦の底にあるから脱出出来ないんですが、従容として。今も思い出すと涙が出るんですよ、可哀想で。岩城兵曹も泣きながら話して呉れました‥‥‥」  

 「隼鷹」に収容された生存者の中には「赤城」や「蒼龍」の零戦搭乗員も居た。「隼鷹」戦闘機隊と彼等第一機動部隊の零戦搭乗員が、艦橋脇の飛行甲板で並んで撮った写真が残されている。一見、普通の記念写真だが、写って居るメンバーを見ると、この戦いの一端が窺えて興味深い。
 下士官兵の搭乗員は「隼鷹」に収容された時点で「仮入隊」と云う扱いに為り、一時的に「隼鷹」戦闘機隊の隊員と為って一緒に写真に収まったのだ。  

 その後も暫く敵艦隊に備えて北太平洋を遊弋(ゆうよく)して居た「隼鷹」が大湊に入港したのは6月24日のことである。出港してから丁度1ヵ月に及ぶ長い航海だった。「隼鷹」は、被弾・故障した零戦9機を大湊基地に運び、修理・機銃の軸線整合・コンパスの自差修正をした後、29日に飛行機を収容、日本海から関門海峡を通過して呉に向かった。その間、6月27日には、アリューシャン作戦戦没者の告別式が艦内で行われて居る。
 7月1日、飛行機隊は「隼鷹」を発艦して岩国基地へ。「隼鷹」の搭乗員にはそのママ8日迄の休暇が与えられたが、撃沈された第一機動部隊の搭乗員は敗戦を秘匿する為、鹿児島県の鹿屋・笠之原基地に送られ、次の配置が決まる迄、軟禁生活を送らされる事に為った。

 こうして、アリューシャン作戦は、ミッドウェー島攻略の陽動の目的を果たせず、僅かな戦果と引き換えに1機の零戦を米軍に鹵獲される、結果論を承知で言えば無駄足処かマイナスとも云える結果に終わった。 アメリカ領土であるアッツ島・キスカ島を占領してみたのは好いが、これも、戦局全般に寄与する事の無いママ、後にアッツ島玉砕(昭和18〈1943〉年5月29日)の悲劇を生む基に為る。
 
 「結局ネ、当時は我々も上層部が何を考えて居るか判ら無かったけど、艦隊決戦で一気に雌雄を決しようとする聯合艦隊と、段階を踏んで着実に遣って行こうとする軍令部との考えの溝を、両方の顔を立てて埋めようとしたからアア為ったんじゃないか。  
 ダッチハーバー攻撃など遣らずに『龍驤』『隼鷹』を直接ミッドウェーに持って行くことは出来なかったか。増してや『隼鷹』は、アリューシャン作戦の後、ミッドウェー島に六空の零戦を届ける事に為って居たんですから・・・」
 

 と、志賀大尉(終戦時少佐)は筆者に語って居る。日本側の暗号を解読し、劣勢な戦力を集中してミッドウェーで待ち構えて居た米軍と、敵の動きが読め無いママ、圧倒的に優勢な筈の戦力を分散し、二兎を追おうとして大敗した日本海軍・・・その日本海軍が、足った半年前の真珠湾攻撃の際には、機密保持にも情報収集にも細心の注意を払って居た事を思えば「慢心」コソが最大の敵、本当の敵は自らの中に在る、と言っても好さそうである。

 神立 尚紀 カメラマン・ノンフィクション作家  以上












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