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2020年05月10日

「公共の為に個人の権利を制限した」田中角栄から今 日本人が学ぶべき事





 「公共の為に個人の権利を制限した」田中角栄から
  
 今、日本人が学ぶべき事
 


          〜プレジデントオンライン 田原総一朗 5/10(日) 11:16配信〜


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               ジャーナリスト 田原総一朗氏

 田中が取りまとめた「都市政策大綱」の恐るべき内容

 僕は田中角栄以降、日本の総理大臣とは全て一対一で会って話をして居ます。田中の特徴は、何と云っても構想力でしょう。凄い政治家だと初めて認識したのは、1968年に田中が自民党都市政策調査会長として〔都市政策大綱〕を発表した時でした。
 前年の東京都知事選挙で、社会党と共産党が推薦した美濃部亮吉が当選しました。それ以前に京都は革新知事だったし、その後は名古屋や大阪でも革新が勝った。その状況に危機感を覚えて、田中は「中央公論」に〔自民党の反省〕と云う論文を書きます。

 当時、太平洋側の都市は工業化が進み、過密と公害が問題に為って居ました。そうした不満を吸い上げて当選したのが革新系の首長達です。それに対して田中は、革新は反対だけで対案が無く、政権を任せられ無い。だから自民党が力を着けなくてはいけ無いと反省したのです。
 では、どうすれば好いのか。その答えを示したのが都市政策大綱でした。ここで示されたのは、日本全体を1つの大きな都市にするという構想でした。新幹線や高速道路・航空路線網を張り巡らせ、日本全国を日帰り圏にする。そうすれば日本海側や内陸部にも工場が出来、過密や公害で悩む太平洋側の問題も解決出来ると云う訳です。こんな構想を示した政治家はそれ迄居ませんでした。
 素晴らしいと思ったポイントは2つ。先ず公共の為に個人の権利を制限する事。もう1つは、開発する具体的な地名を挙げ無かった事でした。
 
 都市政策大綱が出来た背景には、田中の長所である膨大な法律の知識が有ったでしょう。田中は、議員立法で33本の法律を成立させて居ます。堺屋太一さんに言わせると、これは途轍も無い事だそうです。新しい法律を作るには、それ迄の法律を全部理解して居ないといけません。だから専門分野の官僚が必死に勉強して作るのが普通。それを尋常高等小学校卒の田中が遣ったのは凄いと。
 後の話ですが、本人に「どうしてそんなに法律を知って居るのか」と聞いた事があります。すると、彼は子供の頃から吃音症で、それを治す為に毎朝畑で六法全書を読み上げる内に暗記したと教えて呉れました。

 田中が衆議院議員に初当選した時の首相は吉田茂です。吉田は、何時も六法全書を脇に抱える田中を揶揄(からか)う積りで法律の条文を3つ尋ねた。全部答えた事に感心して、当選1回なのに法務政務次官にしたと云う逸話も有りましたね。
 サテ、類いまれな構想力と法律知識を背景に都市政策大綱を作った田中は、それを下敷きに〔日本列島改造論〕を1972年に書き、同書は大ベストセラーに為ります。只、都市政策大綱と違うのは、公共の為に個人の権利を制限すると言わ無く為り、開発の具体的な地名を挙げた事。
 秘書の早坂茂三等が反対したら「これは医者の処方箋だ。処方箋は患者を喜ばせ無いといけ無い。列島改造論も国民を喜ばせるものだ」と答えたそうです。直後の総裁選で勝って、田中は総理大臣に為ります。し19かし、開発する地名を出した事で地価が上がりインフレに。
 国民の間で疑問が起き始めた処に1973年秋に第四次中東戦争が起きて石油ショックです。石油の価格が5倍に上がって悪性インフレに為り、田中の政治は金権政治だと批判が沸き起こりました。

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 田中が呉れた茶封筒、厚みから100万円は入って居たと思います

 それ迄は田中の遣り方を悪く言う人は居ませんでした。田中のライバルは東大卒で大蔵省出身の福田赳夫。福田を囲む会は当時政財界に34も在りました。それに対して、田中は「俺は新潟県人会と二田小学校の同窓会しか無い。だから自分で井戸を掘らないといけ無い」と云って自分でお金を作って居ました。それで他の政治家の面倒を見る。社会党の政治家にも渡して居たし、その政治家が裏切っても怒ら無い。それは支持が増えますよ。
 その頃福田派だった亀井静香は「田中派は軍隊だ」と評しました。田中の言う事は聞か無くてはいけ無いが、選挙のお金の面倒も見て呉れる。一方、福田派は単なるサロン。福田は何もして呉れないから、結局、田中に頼みに行かなくてはいけ無いと。処が、石油ショックを契機に国民はそれを許さ無く為った。その後の参院選でも大敗です。

 アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄
 
 石油ショックは、ロッキード事件にも繋がって居ます。日本は石油の供給をアメリカの石油メジャーに依存して居た。そんな中、中東諸国はイスラエルの味方をするアメリカやその同調者には石油を売ら無いと宣言した。田中はエネルギーで自立する為に中東諸国やソ連に接近した。
 これにアメリカが怒り、ロッキード事件で田中を失脚させたと云うのが僕の見立てです。僕は中央公論に「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」を発表してその顛末を書きました。それを田中が読んで信用して呉れましてね。1981年に初めてインタビューする事が出来ました。

 出会いは強烈に印象に残って居ます。僕は30分前に目白の田中邸に入った。処が約束の時間を30分過ぎても田中が遣って来ない。秘書の早坂に聞いたら「実は昨日、オヤジ(田中)に言われて君の資料を集めて来た。朝からそれを読んで居て、未だ終わって無い」と。
 普通、資料を読むのはインタビュアーの僕の方。でも、田中は逆にインタビュアーの事を徹底的に知ろうとして居た。これは面白い政治家だなと改めて感じました。

 結局、インタビューは1時間遅れで始まりました。終わった後、又難題が降り掛かった。田中が金庫から茶封筒を出して僕に渡すのです。恐らく厚みから100万円は有ったと思います。これを受け取ったらお仕舞です。しかし断って怒らせたら、自民党の取材が出来無く為る・・・悩みましたよ。
 結局、一旦受け取ってその足で田中事務所に行き、最敬礼して返しました。2日後に早坂から「田原君、オヤジがOKしたよ」と電話があって首の皮一枚繋がった。OKが出て居なければ、僕のジャーナリスト生命は絶たれて居た筈です。

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 それ以降、田中とは本音の付き合いをさせて貰いました。田中は娘の眞紀子さんを可愛がって居てね「眞紀子は早稲田を出て居て賢いのに、時々本を持って来て『お父さん、この字はどう読むの?』と聞いて来る。親孝行だ」と自慢して居ました。
 1985年に脳梗塞で倒れて、以降は政治への影響力を失って行きました。日本に取って残念なのは、田中以後、アレ程の構想力を示す政治家が出て居ないと云う事です。


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 田原 総一朗(たはら・そういちろう)ジャーナリスト 1934年 滋賀県生まれ 早稲田大学文学部卒業後岩波映画製作所へ入社 テレビ東京を経て1977年よりフリーのジャーナリストに 著書に『起業家のように考える。』ほか
 
 ジャーナリスト 田原 総一朗   構成 村上 敬 撮影 的野弘路       以上





























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