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2020年05月10日

日本のコロナ対応に欠けて居たのは「戦争」の意識かも知れない




  日本のコロナ対応に欠けて居たのは

 「戦争」の意識かも知れない


            〜現代ビジネス 部谷 直亮 5/10(日) 10:01配信〜


                051010.jpg

             慶應義塾大学SFC研究所上席所員 部谷 直亮氏

 「ウイルスとの戦争」と云う表現の是非

 コロナウイルスとの戦いは〔戦争〕か?と云う議論が内外で起こりつつ有る。米国ではトランプ大統領が4月1日、対テロ戦争がそうで有る様に、コレはコロナウイルスとの戦争・・・それも全面戦争で有ると宣言した他、ムニューシン財務長官も「これは戦争だ」と表現した。
 一方、3月に船内でコロナウイルスが蔓延した事に依り危機的状況に為った米空母セオドアルーズベルトのクロジエ艦長は、海軍長官からの任務続行命令を無視した理由として「我々は戦争中では無い。故に乗員が死ぬ必要も無い」と主張した。

 専門家の間でも、見解が別れて居る。イアン・ブレマーが設立したシンクタンク〔ユーラシアグループ〕のシニアフェローであるマーク・ハンナは「全ての闘争が戦争で有るとは限ら無い。寧ろ戦争宣言は、同盟国との協力やサプライチェーンの供給国との関係を悪化させる」と、コロナウイルスとの戦いを〔戦争〕と見做すべきでは無いと主張する。
 一方、米外交問題評議会会長のリチャード・ハースや軍事史家のアール・ティルフォードは「コレは戦争だ、寧ろ積極的にそう見做すべきだ」との立場である。一体、どう考えるべきか。戦争研究の観点から、このコロナウイルスとの戦いを見てみたい。

 ソモソモ、戦争とは何なのか

 古来、戦争と云う社会現象を定義するべく人類は悪戦苦闘して来た。その試みの大きな画期を作ったのが、プロイセンの軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツである。彼は〔軍人に取っての聖書〕とされる『戦争論』を執筆した事で有名だが、この『戦争論』は、戦争の定義を語る上で、その主張に肯定的であれ否定的であれ言及せざるを得無い、マサに古典理論の地位を占めて居る。
 余談ではあるが、クラウゼヴィッツも、その良き上司で在ったグナイゼナウも、そして彼の『戦争論』の論理の中核で有る弁証法を考え出したヘーゲルも、皆当時大流行して居たコレラ・・・それも遠きインドからドイツに遣って来た・・・で死んで居る。クラウゼヴィッツは戦争の定義として、

 (1) 憎悪や敵意を伴う暴力行為
 (2) 確からしさや偶然性と云った賭けの要素
 (3) 政治の為の手段としての従属的性質


 これ等3つの要素を備えて居るのが戦争で在ると考えた。詰り、戦争とは憎悪や敵意を伴う暴力行為で有り、ソコには不確定な状況で判断を下して行動し無ければ為ら無い〔賭け〕の要素が多分に有るが、飽く迄もそれ等は、政治の為の手段で有ると云う事だ。果たして、現在の諸国家に依る〔コロナウイルスとの戦い〕はどうか。
 コロナウイルスの側から事態を眺めると、コロナウイルスの人類に対する行動は、

 (1) 拡散は一種の暴力行為と見做せるかも知れないが、ソコに憎悪や敵意は無い。生存を目的として居るだけだ。
 (2) 賭けの要素に付いては有るかも知れない。コロナウイルスが増殖出来るかどう変異するかは予測出来無いからだ。
 (3) 一方、政治の手段と云う定義は当て嵌ら無い。コロナウイルスには政治も政策も無い。但し、孫子やマーティン・ファン・クレフェルトは、戦争を〔生存の道〕と位置付けて居る。政治目的では無く単なる生存の為の戦争も在ると、クレフェルトはクラウゼヴィッツを批判する立場から指摘する。


 一方、コロナウイルスと戦う我々の側は、この三要件を満たして居る様に見える。明らかに我々はコロナウイルスに対して憎悪や敵意を抱いて居る。友好的な意志に基づいて、或いは純粋な利益追求の為にウイルスに対峙して居る人は、居たとしても極一部だろう。
 又〔確からしさ〕や〔偶然性〕と云った賭けの要素も非常に大きい。コロナ対策の為に各国で実行された一斉休校・アビガンを初めとする治療薬の緊急開発・行動接触の遮断と云った施策は、その多くが決行当時は〔賭け〕であった。日本の緊急事態宣言の延長も〔賭け〕である。スウェーデンの集団免疫戦略も〔賭け〕である。台湾の蔡英文総統に依るいち早い封鎖戦略も(成功した)〔賭け〕であった。

 〔賭け〕で在った事を批判して居るのでは無い。将来的な先行きも効果も結果も見通せ無い、クラウゼヴィッツが表現する処の〔戦争の霧〕の中で決断せねば為ら無いと云う点で、コロナとの戦いは戦争と酷似して居る。寧ろ、安倍首相もロベーン首相も蔡英文総統も〔賭け〕に挑んだと云う意味では評価されるべきである。戦争に際して〔賭け〕が出来無ければ絶対に勝利は得られ無いからだ。無論、結果責任は別に問われる。それも又戦争と同様である。

 コロナ制圧と政治権力と「総力戦」
 
 此処で特筆すべきは、コロナウイルスとの戦いが戦争の3つ目の条件・・・即ち〔政治の為の手段としての従属的性質〕をも満たして居ると云う事だ。各国の政治主体・・・小は自治体から大は国家迄が、その指導者や利益集団や国家全体に取っての様々な〔政治目標〕の為に動いて居る事は否定出来無い事実である。
 例えば、自治体の首長から国家元首迄のアラユル指導者が、今回のコロナ対応を通じて、そのリーダーシップを証明しようとして居る事は言う迄も無い。
 又中国を筆頭として、今回のコロナ対応で援助物資外交が既に発生して居る事、各国間で人工呼吸器等の医療物資の争奪戦が発生して居る事もマサにコロナ対応の〔政治の手段〕としての側面を示して居る。

 又、米陸軍戦略研究所研究部長を経験したアール・ティルフォード氏「戦争は、敵を特定し、様々な資源を集め、ソレを実行可能な戦略に結び付ける行為でもある。コロナウイルス対処は、マサにそれだ」と指摘して居る。マサにコロナウイルスとの戦いは、戦争行為そのものだと云うのである。
 勿論、全ての憎悪や敵意を伴う暴力行為が戦争を意味する訳では無い。ヤクザの抗争・猫の縄張り争いを〔戦争〕と言い表しても、それを比喩以外の意味で取る人が居ない様に。しかしながら、国家がクラウゼヴィッツの戦争の三要件を満たしながら、資源を集め戦略の下にその資源を行使する今般の事態は、最早戦争行為に類するものとして見るべきではないのか。

 加えるに、クラウゼヴィッツは戦争の注目すべき特徴として〔相互作用〕を挙げて居る。詰り、戦争に於いては、暴力・恐怖・力の応酬が互いにエスカレートして行くと云うのである。確かに、コロナウイルスは弱毒性から強毒性に変化し、我々人類側の措置も隔離や外出自粛と云った比較的緩やかなものから、緊急の治療薬開発・罰則付きの制限措置等へとエスカレートして居る。
 こうした〔相互作用〕が有ると云う点で、ウイルスは他の地震・津波・原子力事故・隕石と云った災害とは大きく異なるものだ。更には、我々のコロナウイルスへの恐怖もエスカレートして居る。最も、ウイルスの側には恐怖も何の感情も無い。力の応酬・・・即ち、自らの力を敵より優勢にしようと云う努力も同様に無い。
 
 勿論、これを戦争と見做す事の弊害を指摘する向きもある。冒頭のマーク・ハンナは「脅威の性質を根本的に歪め、政策立案者を最も現実的な解決策から逸らし、国際的な善意を浪費させる」と手厳しい。しかし、これは〔べき論〕でしか無い。
 この戦いには〔抑止概念が無い〕と云う指摘もある。ハドソン研究所研究員の村野将氏は「意思を持た無いウイルスを抑止したりは出来無い。問題は、コロナショック後の回復力・影響力を巡る米中の大国間競争」と指摘する。  
 後者に付いてはマサに卓見であり、有る種の「戦後」を見据えるべきとの重要な指摘である。一方、前者に付いては、寧ろ〔コロナウイルスとの戦い〕コソ、実は、人類がゴミ箱に叩き込んだ筈の、抑止概念等無かった時代の第一次大戦や第二次大戦の様な〔総力戦〕の復活かも知れ無い事を逆に示唆して居る。

 この様に、矢張り、コロナウイルスは、或る種の総力戦の復活で有り、戦争と見做すべきなのだ。勿論、人間の営みとしての政治と云う要素が一方に無い戦いを〔戦争〕と定義するかどうかに付いては更なる議論が必要であろうが、政策的な観点からもそう見做すべきだ。

 勝利の為には「作戦」が必要だ
 
 筆者は矢張り、コロナウイルスとの戦いは、或る種の総力戦の復活であり戦争と見做すべきと考えて居る。それは、平時とは異なる政策対応が求められると云う点に於いてだ。クラウゼヴィッツは、戦争は政治(≠政策)の延長で有ると指摘した。そして、戦争は軍人が指導するよりも、無能で有っても文民指導者が指導した方が増しであるとすら喝破した。
 詰り戦争とは、純粋な政策の延長でも無ければ単なる殺戮の延長に有るものでも無い。戦争とは、政治と云う総合的利益に基づいた観点での〔勝利〕に向かって、国家の様々な資源を効率的に様々な時系列で行使して行く事に依って遂行されるべきものである。そして、戦略的勝利の為には、複数の戦術的成果を使役する作戦構想が必要と為る

 これを現在のコロナウイルスとの戦いに当て嵌めれば、コロナウイルスとの戦いは、単なるウイルスの殲滅の延長に有るものでは無い。他方で、純粋な経済政策の延長に有るものでも無い。コロナウイルスとの戦いには、最終的な〔戦争目的〕が設定され無ければ為ら無い。
 そして、その目的を実現する為の戦略を設定し、複数かつ個別の戦術的成果に固執するのでは無く、それらをより大きな戦略に役立てる様な作戦構想が必要だ。此処で云う戦略とは短期的なものでは無く、開戦から終戦迄・・・詰り出口戦略を含むものである。

 医療的な視点だけでも経済的な視点だけでも無く、マサに村野氏が指摘する様な戦後構想を含む総合的な〔政治目的〕とその実現の為の戦略を策定し、それを国民に知らしめ、協力を要請するべきで在ると云う事だ。

 例えば「この様な状況に為ればこう対応する」と云った段階的な・・・例えば三段階程度の・・・出口戦略を策定・公開し、状況に合わせて随時更新して行くべきである。そして、政府は個別の戦術的問題に拘泥する事無く、戦術的成果を戦略の実現に向けて編み合わせて行く行為に専念すべきである。
 この〔戦術的成果を戦略に結び付ける〕と云う行為は、所謂〔作戦術・operational art〕と呼ばれる営みである。これを現況に当て嵌めれば、政府としては、先ず政治指導者がどの様な状況を作り出したいかを明確に・・・例えば、早期にウイルス感染・治療が完全にコントロール可能な状況に置かれて居る状態を目指すとか、若しくはウイルス感染を或る程度許容しながらも経済維持を優先する・・・等に示さねば為ら無い。

 そして、そこに至る為の方策を具体化し、有機的に組み合わせてシンクロさせ、時間軸に沿ってフェーズを管理し、何時何処で戦うか、或いは戦わ無いかを選択しつつ、与えられた人的・物的資源の範囲でマネジメントし、目標とする状況へと近づけて行く事が必要に為る。
 此処で特に重要なのが時間管理で有る。例えば冷戦下で、米国がソ連の圧倒的な物量を打破する為に編み出したのが〔エアランド・バトル・ドクトリン〕だが、これは敵の前方部隊を機甲部隊で、その後方部隊を航空戦力や砲兵で同時に打撃すると云うものである。これは一見、前後の敵を同時に打撃して居るだけに見えるが、その実〔目前の敵と将来の敵を叩く〕と云う〔時間管理〕にコソ本質が有るとされる。

 この時間管理に付いては、危機管理の混乱時には止むを得無い事であるが、今の日本に於いては、自治体から政府に至る迄出来て居る様には見え無い。想定される現状の脅威、少し先の脅威、そして近い将来の脅威に、夫々どの様に資源をブツけて行くかの作戦策定が重要だ。出口戦略を主張する自治体も在るが、そればかりに集中するのは、目の前に現れる敵だけ見て戦術的にだけ戦って居る事と変わりが無い。全体的な時間の管理を心掛けた作戦術が必要なのではないか。

 個別問題に囚われることの危険性
 
 同時にコレは、国民のレベルでも有効な考え方である。目前の特定の戦術的な問題・・・例えばマスク配布や首相の動画公開、そして、近所の店が自粛して居るかどうかと云った問題・・・に付いて、マスコミも国民も過剰に今は拘泥する事無く、追求すべき全体的な〔戦争目的〕と戦略に付いてモッと議論すべきだろう。
 一市民として、勿論筆者も国民の怒りや不満は好く判る。しかし憤懣遣るかた無い思いが在るので有れば、事態の収束後の早期総選挙実施を求め、そして、ソコで思いをブツケルべきである。

 勿論、国民の行動には政府や自治体やマスコミ等にも責任の一端がある。〔戦略〕や〔作戦〕を提示され無いママ〔戦術〕嫌、それよりも低いレベルの〔戦闘〕に於ける正しい行動・・・ソーシャルディスタンス云々等ばかりを求められるのである。コレは苦しい。
 しかも、人に依っては、コロナウイルス以上に目前に有る経済的破綻や生活上の様々な危険・・・DVや既往症の悪化等に対するリスクを強要されるのであるから、憤りによる迷走も判ら無くも無い。政府も自治体もマスコミも、区々(くくりかえし)たる戦術論を国民に提示するのでは無く〔戦略〕とそれに基づく〔作戦〕そして〔作戦術〕を提示すべきだ。国民はモッと賢明だ。

 国家が〔根性論〕に堕する責任の一端はマスコミと国民にも有る。これは先の戦争に於いて官僚と軍人とマスコミが率先して〔総力戦〕〔国家総動員体制〕を呼号し、全ての権力を官僚組織に委ねさせたものの、全く戦争の効率化に貢献する処か、都市防空も民間船舶護衛にも失敗した挙句、松根油増産や物資献納等の様に本末転倒な策へと追い込まれた事からも明らかだ。
 国民生活に付いて政府に過剰に期待するのでは無く、寧ろ市民同士の協力コソ重要で有る。寧ろ政府に期待するべきは、平穏な生活を取り戻す迄の道のりを示す〔戦争指導〕である。そして現在、飽く迄もコロナウイルスの殲滅を優先すべきと云う議論と、経済再建を優先すべきと云う両極端の議論が巷間為されて居るが、これも又、総合的な戦争目的とは何かと云う観点から議論の構図を見直すべきであろうし、戦略と作戦構想を議論すべきだ。
 
 コロナウイルスは、都内ではヤヤ落ち着きつつ有る事から、こうした議論を手遅れと見做す立場も有るだろう。しかし、コロナウイルスには、スペイン風邪と同様に第二波、第三波が来る可能性が有る以上、こうした議論は今からでも遅くは無い。そして、来るかも知れないCOVID-20・21、中国や北朝鮮との不幸な戦争に備える意味でも大事だ。今こそ、コロナウイルスとの戦いを「戦争」と見做し、戦争目的・戦略・作戦の議論を開始すべきだ。


   (本稿の執筆に当たり、国士舘大学准教授の中林啓修氏のご指摘に範を得ました事を、心より御礼申し上げます)

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 部谷 直亮 慶應義塾大学SFC研究所上席所員 一般社団法人ガバナンスアーキテクト機構上席研究員 成蹊大学法学部政治学科卒業 拓殖大学大学院安全保障専攻博士課程(単位取得退学) 財団法人世界政経調査会 国際情勢研究所研究員等を経て現職 専門は安全保障全般

                 以上



 【管理人のひとこと】

 何かの事象(コロナ禍)を別のより具体的な特定な事象(戦争)に例えるのは、その事象をより適格に説明が出来更により具体的な印象を与える為の言い換えだ。例えられたより具体的な特定な事象(戦争)とは、過去の歴史に実存する誰にでも満遍なく想像し得るものだ。
 この場合の戦争であれば、必ず双方に犠牲者が生まれ、停戦・休戦・敗北・勝利・・・と色々な結果を生み出しその後の新たな歴史が生まれる。実にそれは全てが政治であり賭けであり、偶然の結果は万一にも起こり得ない。無論戦争であれば特に現代の戦争とも為れば、甚だしい犠牲・悲劇が繰り返されるものと為ろう。
 結果に依っては社会体制が変革し、新たな政治指導が求められる改革も為されよう。例えば経済的な仕組みも新たな物差しが生まれるかも知れない・・・壮大な歴史の転換点と為るかも知れない・・・この様な考えを導き出す新たな観点を想像させるレポートだったと管理人は高く評価する。

















 





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