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2020年04月21日

【満蒙開拓の記憶】「日本に来て幸せなのか」日本と中国・二つの祖国の間で 帰国者2世の苦悩と旅立ち




 【満蒙開拓の記憶】「日本に来て幸せなのか」
 
 日本と中国・二つの祖国の間で 帰国者2世の苦悩と旅立ち


             〜SBC信越放送 4/21(火) 18:00配信〜


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                  大橋春美さん

 戦争が終われば、苦しみや悲しみが消える訳では無い。中国残留日本人の父と中国人の母をもつ中国帰国者2世に取って苦難は戦後に始まった。
 長野県豊丘村に住む大橋春美さんは、中国で生まれ、8歳の時父親の祖国・日本に永住帰国。虐めやアイデンティティに悩みながら、長野県では帰国者として初めて教師と為った。自分の原点を見詰める事は、満蒙開拓の歴史と向き合う事だった。

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                 中国での春美さん

 戦争が無ければ生まれ無かった命

 2012年の夏、長野県の豊丘村に住む大橋春美さん(当時42歳)を訪ねた。教師として母親として、慌ただしい毎日を送って居た。一人息子の遼太郎くんは中学1年生。10年前に離婚して母子2人の暮らしだった。春美さんは中国で生まれた。中国残留日本人の父と中国人の母を持つ帰国者2世。8歳迄は中国人、家族で日本に帰国してからは日本人として生きて来た。

 「中国に居た時は日本人だと言われて、日本に来たら今度は中国人だと言われて。人から受ける言葉だけでは無くて、自分自身は何者なのかと云うのを思ったり悩んだり」

 春美さんのルーツは満州に在る。1937年、祖父母は満蒙開拓団として満州国へ入植する。しかし、祖父は病に倒れ24歳の若さで亡く為った。敗戦後の満州で、祖母は父親を連れて逃避行と収容所生活を送り、生き延びる為に中国人の男性と家庭を持つ。ヤガテ父親は中国人の女性と結婚し春美さんが生まれた。

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                   父・英夫さん

 「戦争が無ければ父は中国に残る事も無かったと思うんですね。ソコで母と出会って今の私が有る。戦争が無ければ私は生まれて来なかった命。正直、苦しいです。戦争に付いて深く考えれば考える程、自分が引き裂かれそうに為る事があります」 

 自分のルーツを辿る事は、二つの祖国の戦争と向き合う事でもあった。「立派な日本人として生きて行く」 春美さんが、日本に永住帰国したのは1978年、8歳の時。両親と3人の兄が一緒だった。しかし、言葉の問題や生活習慣の違い等、ナカナカ日本に馴染めずに居た。

  「『中国人なら中国へ帰れ』と言われた事のショックが大きかった。独りで布団の中で泣いたけど、両親には言え無かったですね」

 父親の英夫さんは、工場の仕事や清掃のアルバイトで生計を立てて居た。敗戦当時5歳。戦後30年余り中国で暮らし、日本語の記憶は無く言葉の壁に苦しんで居た。母親の玉江さんに取っては、故郷・中国を離れ異国での暮らし。村のスーパーで働き家計を支えた。

 「帰りたい気持ちは何回か出たけれど、皆一生懸命頑張って居るのに、親達が帰ると言え無い。自分達が来ると言ったので、本当に我慢しか無い、頑張るしか無いって」

 日本に来て幸せなのか、家族一人一人が自問して居た。しかし、日本への帰国の理由は、望郷だけでは無かった。中国で、1960年代から始まった文化大革命で、侵略者で在った日本人は弾圧を受けた。英夫さんも嫌がらせを受け、仕事を失くし生きる術が絶たれた。

 「私が日本人だから、子供の将来に限界が有ると感じて居た。好い仕事に就こうと思っても日本人と云う理由で限界が有ったから。日本人への憎しみを込めた日本鬼子と云う言葉を聞くと心苦しい思いをした。
 日本に帰れば政治的な抑圧も無く、子供達は自分が選んだ道に進む事が出来る。だから、家族全員を連れて日本に帰る事に決めた」


 春美さんは、両親が日本で必死に頑張る姿を見て来た。自分達に期待して居る事も痛い程感じて居た。だから、その期待に応えよう、日本人として日本の社会で立派に生きて行こう、そう自分に誓って居た。

 中国人の自分を封印して

 春美さんは、高校に入学すると帰国者で在る事を隠す様に為った。中国から来た事を負い目に感じて居たからだ。帰国者で在る事を明かす様に為ったのは、大学を卒業後、英語の教師と為り中学校に赴任してから。同僚等周りに理解者を得た事が大きな理由だった。
 帰国者の教員採用は長野県では初めてで、その事も自信に繋がった。日本人として、社会に認められたい。只それだけを目標に生きて居た。2002年、初めて取材した時、当時32歳の春美さんは悩みの中に居た。

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                中学校にて(2002年)

  「教師とかそう云うものを捕ってしまったら、未だ自分に自信が持て無い」

 この頃、息子の遼太郎くんは2歳だったが夫とは別居して居た。日本人の夫は、春美さんを理解して支えようとして呉れた。しかし春美さんは、物事が上手く行かず失敗した時に、自分は帰国者だからと思ってしまう・・・そんな自分が嫌だったと振返る。
 何時の間にか気持ちがスレ違う様に為り、狂い始めた歯車が戻る事は無かった。遼太郎くんが父親と過ごす時間は大切にして居るが、自分が成長を支え見守ろうと心に決めた。

 「息子の前ではメソメソして居られないし、何時も元気でニコヤカな母親で居たいし、もうこれ以上悲しい思いはさせたく無いし」

 離婚の後、思い切って中国の北京師範大学に留学。7歳の遼太郎くんを連れて2007年から3年間、北京で暮した。

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                遼太郎くんと中国の故郷にて

 「改めてリセットして、もう一度中国へ行って、自分自身はドンな存在なんだろうと、もう一度確かめる事で、もっと前向きに色々考えられるのかと思って」
 
 大学では、異文化の理解と交流をテーマに学んだ。日本で生きる為に封印して来た中国人の自分。原点を見詰め直す時間だった。

 ルーツを辿る故郷への旅

 2012年、春美さんは、遼太郎くんを連れて中国の故郷を訪ねた。遼寧省の瀋陽から車で1時間余り、生まれ育った村の近くに在った小学校は、この時既に取り壊されマンションが建てられる事に為って居た。自分が日本人で有る事を初めて突き付けられた場所だった。

 「小学校の同級生と喧嘩した事が切っ掛けで、お前は日本鬼子だと言われて、その言い方がとても憎しみを持って言われた感じがしたから、一寸悔しかった。何でお父さんが日本人ナンだろうって思ったりしましたね」

 その頃から、父親が日本人で有る事を知る様に為った。侵略者の子孫で有る自分達。しかし、生まれ育った村の人達は、日本人の血を引く自分達に分け隔て無く接して呉れた。その村は、昔の佇まいを残して居たが、住民の気配は疎らだった。
 開発が進み、150人程居た村人は立ち退きを迫られて居た。最後迄離れたく無いと残って居たのは、馴染の顔だった。一人又一人、集まって来ては家族の消息を尋ね合い、笑い声が静かな村に響き渡る。生まれ育った家を訪ねた。建物は建て替えられて居たが、見覚えの有るナツメの木が一本だけ残って居た。

 貧しい暮らしの中、何時もお腹を空かせて居た子供時代。春美さんを夢中にしたのがナツメの実だった。ここで生まれ育った確かな証、記憶の奥底に有る懐かしさに包まれて居た。村人との話は尽き無い。笑顔にも、時折涙が浮かぶ。両親に宜しく、必ず又戻って来て呉れ・・・別れを惜しむ人々が、何時までも手を振って見送る。日本人として生きる為に、ズッと心の奥に仕舞い込んで来た、もうひとつの祖国。その温もりが、心を満たして居た。

 ふたつの祖国に生きる

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 2019年の秋、長野県阿智村に在る満蒙開拓平和記念館に春美さんの姿があった。開館以来続く語り部講座で初めて講師を務める。これ迄は戦争体験者が話して来たが、高齢化が進む中、直接、戦争を経験して居ない春美さんも、その舞台に立つ事に決めた。これ迄の体験を通して、満蒙開拓と自分の人生に付いて語った。

 「人って何の為に生まれて来たんだろうって、ズッと自分の生まれて来た意味とかを考えながら生きて行くと思うんですけれど、自分がこう云う運命を背負って生まれて来たからには、今度は、負の遺産をプラスの方向へ変えて行くのも、自分が生きる意義かなと思います」

 戦争が無ければ生まれ無かった命。だからコソ伝えたい。この苦しみが終わる様に。そして、二度と起き無い様に。国境を越えて手を取り合う事の尊さを伝えたい。涙が込み上げて言葉に詰まる場面もあったが、力強く語り掛ける姿は、日本人で有り中国人で有る自分の存在を受け止めて生きて行く、そんな覚悟と決意に満ちて居る様だった。


 連載 満蒙開拓の記憶 この記事は信越放送とYahoo!ニュースによる連携企画記事です。1931年に満洲事変が起きると、翌年、現在の中国東北部に「満洲国」が建国。日本全国から農民を中心とした移民「満蒙開拓団」が送り出され、長野県からは最も多い3万人余りが満州に渡りました。戦後75年、戦争体験者が減って行く中、一人一人の記憶から満蒙開拓の歴史を問い直します。

                SBC信越放送    以上
















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