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2018年11月13日

日中戦争が私達に教えて呉れているものは何か?

 
  
 日中戦争が私達に教えて呉れているものは何か?

 =今後の日本と中国との付き合い方への参考に=






 
  「著作」 『日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ』

 著者 小林英夫氏 2015.08.11

 上記著作を基に、日中戦争の分析を行います・・・


 国際法上の都合から宣戦布告無しに始めたこの戦争を、当時の日本人は〔北支事変・支那事変〕と矮小化して呼んだ。戦後も〔日支事変・日華事変〕等と呼称される期間が長く続いた。それらは、8年間におよそ100万人もの兵員を中国に動員して20万人近い死者を出した近代日本最長の戦争を定義するには、不釣り合いに軽い言葉だったと言えるだろう・・・日本人が昭和の戦争を振り返る時、その関心の度合いは1941年から始まる太平洋戦争に比べれば遥かに低い。
 ではこの日中戦争とはどの様な戦争だったのでしょうか。通説では1937年7月7日を開戦日とされているこの戦争ですが、日本政府が中国に対し「支那軍の暴戻を膺懲(ちょうよう)する」と声明を発表した8月15日こそが開戦日と考えるべきではないでしょうか。

 そして日中戦争を通じた戦略を分析して二つの類型を抽出できます。その二つとは、
 短期的な決戦を目指す殲滅戦略による戦争と長期的な持久戦を目指す消耗戦略による戦争の二類型に分類される。
 そして日中戦争とは、日本の殲滅戦略と中国の消耗戦略との激突であった。

 




 中国のこの戦略はどの様な発想から生まれて来たのでしょうか?

 蒋介石は、かなり早い段階から、強力な軍事力と産業力を有する日本と戦う為には、中国は道徳的優位性で勝負する以外に方法が無いと考えていたのです。この「道徳的優位性」とは精神性のことではありません。むしろ敗色濃く為った日本でこそ精神性が叫ばれました「大和魂」と呼ばれて。
 では蒋介石の云う「道徳的優位性」とは何だったのでしょうか。それは「政治力や外交力、更には国家の文化的な魅力をも含むソフトパワー」と云うものなのでした。
 この日中戦争とは、日本が行使した軍事力や産業力などの、いわばハードパワーと中国のソフトパワーの争いだったのです。ハードパワー故に短期決戦型の殲滅戦を狙った日本、ソフトパワー故に長期戦型の消耗戦でそれに応戦したのが中国でした。そしてその結果は歴史が証明しています。

 「戦争とは国と国との取り引きの一つの手段に過ぎ無い。だから負け戦を五分か七分で食い止めるのも戦さ上手なのだが、日本の軍人は戦争と個人同士の果たし合いを混同して、どちらかの息の根が止まるまで戦おうとした」

 これは、ソ連軍の侵攻を前に崩壊寸前と為った満洲国にあって、当時、国務総理のポストにあった張景恵の言葉だそうです。この戦争の中に現れた戦略性の差、それは戦争観の差であり日本軍の特性でもありました。この差を蒋介石は的確に捉えていました。

  日本軍側の長所とは、
 小賢(こさか)しい事をしない
 研究心を絶やさ無い
 命令を徹底的に実施する
 連絡を密にした共同作業が得意である
 忍耐強い
 短所は、
 国際情勢に疎い
 持久戦で経済破綻を生ずる
 何故中国と戦わねばならないのか理解出来ていない
 

 ⊡
対して中国軍側と云うと、長所は、
 国土が広く人口が巨大である
 国際情勢に強い
 持久戦で戦う条件を持っている
 短所は、
 研究不足
 攻撃精神の欠如
 共同作戦の稚拙
 軍民の繋がりの欠如

 と実に的確に指摘しています。『孫子』にある様に「敵を知り己を知れば百戦危うからず。敵を知らずして己を知れば一勝一負す。敵を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず危うし」をそのまま地で行ったのが日中戦争だったように思えます。この蒋介石の日本分析について次のように評すことが出来る。

 




 【日本軍の長所は、兵士や下士官クラスに於いて発揮され易いものであり、彼等は好く訓練されて優秀だった。が、士官以上の将校レベルに為ると逆に視野の狭さや国際情勢の疎さと言った短所が目立って稚拙な作戦を立案し勝ちである。こうした日本軍の性質は、局面が単純な短期決戦向きと言えるだろう】

 張景恵が指摘した通り、日本軍の戦争観は「果たし合い」そうで無ければ「関ヶ原」とでも言ったものでしよう。最も徳川家康は関ヶ原戦争を殲滅戦では無く水面下の外交戦や謀略を駆使してたから、或る種の消耗戦略による戦争とも考えていたように思えます。
 考えて見れば日本は、総力戦であった第一次世界大戦には欧州の死闘を体験した訳では無く、日本に取って日中戦争の直前の大戦は日露戦争でした。この日露戦争は、誤解を恐れずに言えば「総力戦体制」をもたらす前にアメリカの仲介によって講和されました。総力戦体制とは消耗戦略による戦争を支えるものです。日露戦争は総力戦体制の要素を持っていたにも関わらず、そのことに気づいた政治家や軍人は少なかったのではないでしょうか。

 日本が日露戦争から学んだものは、旅順攻略と日本海海戦と云う殲滅戦の記憶だけだったのです。奉天大会戦で国力の限界に達した事に気づいた時、そこに総力戦=消耗戦と云う大きな壁があったことに気がついた政治家・軍人の記憶が一般化されることは無かったのです。
 皮肉なことに満洲事変を起こした石原完爾はこの消耗戦略による戦争と云うことに気がついて居た様に思えます。だからこそ満洲事変の首謀者であったにも関わらず日中戦争の拡大には反対していたのではないでしょうか。

 




 この日本軍の殲滅戦を好む性質は何処へ行ったのでしょうか?・戦後の日本人にも実は現れているのです。

 外交などを駆使した長期的・大局的な国家戦略は英米など超大国に委ね、自らはその僕(しもべ)として短期的・局所的な勝利の追求を国策とする明治以来のこの様な日本の体質は、形を変えて戦後も立派に引き継がれている。
 ハードパワーの両翼のうちの軍事と云う翼はもぎ取られたものの、もう片方の産業と云う一翼を異様に突出させて、超大国アメリカの僕としてこれに依存しつつ、自国の経済発展を追求したのである。それは手段こと変わってはいるものの、殲滅戦略戦争の再現に他ならなかった。
 この構想を戦後の比較的早い時期から積極的に描き、推進した人物が岸信介であった。けれど現在、この日本の経済的殲滅侵略戦争は既に行き詰まりを見せて来ました。悠久の歴史に培われた独自の外交力、文化力を磨き続けて世界に冠たるソフトパワー大国と為っただけで無く、現在は軍事や産業などのハードパワーも急速に強化している中国の台頭です。近代アジア史上で初めて、ソフトとハードの両パワーを備えた超大国が出現したのです。

 この超大国である中国、更に現在の国際情勢の中で今後我々はどう生きるべきかを考える前提としても、70年前の日本が日中戦争を通じて経験した殲滅戦略戦争の破綻と消耗戦略戦争と化したこの戦争の本質を見て行く事の意義は大きいのです。
 更に付け加えれば、いかに日本国内や日本軍内の言論が封殺されて来たかも考えるべきでしよう。言論統制や間違った情報、時の権力に都合の好い恣意的な情報のみが公開されることが反って現実的な対応力を鈍らせ、又日本国内でしか通用しない可笑しな常識を生む一因にも為って居るのです。

 今日本が抱えている様々な問題は、一点集中は得意だが国際的に孤立し易いハードパワー体質から来る事が多い。これを改めソフトパワーを強化する為には、やはり情報の公開と発進が不可欠です。情報の規制は短期的な効率を高めはするが、その状態が続くほど国の外には不信を内には退廃を生み出して、結局はその国の力を減退させるのです。
 「特定機密保護法」と「安保法制」に突き進む安倍政権はこの同じ轍を踏んでいるようにしか思えません。一たびは捨てた軍事の翼を取り戻して・・・


 




 殲滅戦と消耗戦との考え方はこんなことを感じさせました。アメリカは太平洋戦争後は、その教訓を生かさずに殲滅戦をしているのではないかと。朝鮮戦争・ベトナム戦争・中東での全ての戦争や又対テロ戦争もです。これは旧ソ連のアフガン侵略も同様です。
 殲滅戦に疲弊したアメリカとその同盟国の肩代わりしようとして云うのが今の「特定機密保護法」と「安保法制」のように感じてなりません。極めてアクチュアルな問題提起をしているように思えました。

 以上


 





 素敵な「自転車と家庭水族館」https://fanblogs.jp/yorionet5000/ 管理人

 色々な内容を含んだ文章でした。日中戦争で私達の記憶に残るのは、満州事変から満州国建設に始まる日本の中国侵略の始まりです。そして、上海事変から始まった本格的な中国侵略の姿であり、その中に南京攻略・占領があります。日本軍は「中国を懲らしめる」と称し次々と中国本土の拠点を攻略します。が、広大な中国の国土の中の点を占領したに過ぎず「目的のハッキリしない」この戦いは「ズルズル」と続いて行きます。
 そして日本は、この泥沼の日中戦争を抱えながら太平洋戦争へと突き進んで行くのです。誰が考えても余りにも無謀な戦いだったか・・・その結末は・・・これも歴史が教えて呉れます。

 果たしてこの様な戦いの決定は誰がどの様に下したのか?・・・これが今でも色々取り上げられますが、「戦い・戦争」とはこの様に訳の分からない空気の中で醸成され、やがて国民の歓喜の声で沢山の将兵が次々と戦地へと送り出されました。
 これは全て政府や軍部の宣伝で国民が洗脳された・・・と解釈するのは余りにも短絡的です。国内の不景気や不安に将来への恐怖等、色々なものが相混ざってこの様な「好戦的」な国民感情が芽生え育っていたのです。「ヤッター!」多くの国民が真珠湾攻撃の成功に躍り上がって喝采を送ったのです。何れにしても、当時の多くの国民に「戦争」への期待が存在したのは間違いない事実でした。詰まり、国民も望んだ戦争への序曲だったのです。その始まりが日中戦争であり将来の太平洋戦争を避けて通れない大きな原因を作って居たのです。

 近隣諸国や東南アジア諸国へ大変な迷惑を掛けたこの戦争の後始末が、果たして完全に解決されたのでしょうか?そして、日本は、嫌、人間は果たして「戦争の結果」を完全に解決できる程の力を持っているものでしょうか・・・
 これは、永遠に解決出来ない人類の連続する負の歴史であり、戦争の内容や結果に関わらず「戦争=不幸」以外の何物でも無い・・・これも全て歴史が証明しています。戦争は、自身と他者を傷つけ憎しみを生み出し、その果てにあらゆる不幸の目が芽生え育てるだけなのです。今言える正確なことはこれだけなのです・・・これを理解できる人は沢山いますが、それを実行するのは限りなく少数の人に限られるのが現実です。

 文章の中に次のようなものがあり、少し取り上げてみましょう・・・

 【日本軍の長所は、兵士や下士官クラスに於いて発揮され易いものであり、彼等は好く訓練されて優秀だった。が、士官以上の将校レベルに為ると逆に視野の狭さや国際情勢の疎さと言った短所が目立って稚拙な作戦を立案し勝ちである。こうした日本軍の性質は、局面が単純な短期決戦向きと言えるだろう

 これを言い換えると「一般の兵士は優秀だったが、士官以上の幹部クラスは短所が多かった」と為ろうかと思います。一般の世の中で20歳まで生活してから徴兵検査を受けて兵隊と為る者と、幼年学校や士官学校から将校として軍隊に入る者の違いなのでしょう。
 一般の兵士は、義務教育を修了し次の学校や職場へと入ります。そして、更に上級の学校へ進んだり実社会での数少ない経験を積んでから軍隊に入るのですが、軍学校と軍隊の中の生活しか経験のない者が指揮者・指導者としてと軍隊の中枢に就くのです。詰まり、限られた狭い経験と見分と知識で指揮者と為るわけですから、一般の社会知識に疎く限定された見識で育った訳でもあります。だから、下士官や兵士達は柔らかな頭脳で物事に対処できる素地があったのでしよう。

 確かに、軍学校は各地域の最優秀の青年達からこぞって選抜された、当時の最優秀な頭脳を持った青年達ですから、頭脳明晰・品行方正・身体強権の強者(つわもの)の集まりです。彼等が軍隊の指導者になることは尤もなことであり、何処の国でもその様な制度で軍隊の幹部を養成します。そして、中でも優秀な者が軍隊内の00大学へと進み将官への道を辿り部隊の軍隊の幹部へと進みます。
 軍隊の生活しか知識が無いとは言え、軍隊は或る意味人間の生活の縮図でもあり雑多な出来事が起こり、幹部はその対策に奔走し次第に色々な経験を積んで行き、占領地の軍政や政治にも関与しますから、行政官としても活躍する人材も育つのです。その中には優秀なスタッフを揃え、立派に行政を担った人材も散見されますので、全ての高級幹部がダメだった訳でもありません。

 強いて言えば・・・日本は、勝った負けたの子供の喧嘩には強いが、熟慮した大人の喧嘩には疎く価値も認め避けて通り、結果的には最後の喧嘩には負けたのでしょう。短慮に結果を求めず、長期的な戦略で辛抱強く戦略を練り、最終的な勝利を目指すのには適さない国民(軍隊)だったのです。



 



 



 




 
 

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