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2020年01月31日

「奇跡の村」のその後 人口増から人口減へ 再起に挑む下條村



   「奇跡の村」のその後 人口増から人口減へ 再起に挑む下條村

      〜ライター・庄司里紗 Yahoo! ニュース特集編集部田川基成 1/31(金) 8:55 配信〜


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 2000年代半ば、山間地の小さな村が「奇跡の村」として注目された。長野県南部の下條村だ。切っ掛けは、僅か10年で総人口の1割近い人口増を達成した事だった。
 しかし、それから10年以上が経った今、村の状況は大きく変化して居た。人口が減少に転じて居たのだ。下條村に何が起こったのか。奇跡の村のその後を追った。


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 人口4227人が10年余で1割減

 JR飯田線・飯田駅から車で南にオヨソ20分。長野県の南郡の中央に位置する下條村は、急峻な南アルプスの山間(やまあい)にある。人口は3729人(2020年1月1日現在)面積オヨソ38平方kmの小さな村だ。
 産業は農業が中心だが、ベッドタウンとしての側面もある。隣接する飯田市には精密機械の工場などがあり、飯田市に通勤する村民も多い。

 村を南北に貫く国道151号を南下すると、古民家風の建物に辿り着く。2017年10月にオープンした村営の移住体験施設「お試し住宅」だ。築60年の空き家を村が改修した。眼下には農地が点在し、その向こうには山々の稜線が幾重にも広がる。


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 長く空き家に為って居た古い商店を役場の職員と村民達で改修した「お試し住宅」(撮影:田川基成)


 「お試し住宅は、村への移住を希望する方々が村での生活を体験できるよう、最長6泊7日まで無料で利用できます。これまで県外の方を中心に、延べ35組104人が利用して居ます」

 そう話すのは、下條村の「地域おこし協力隊」として活動する宮越絵美さんだ。地域おこし協力隊は、人口減少等の地域に外部からの人材を受け入れて地域活動に従事して貰う総務省の制度である。
 宮越さんは、下條村が2年前に協力隊の募集を始めた際、その第1号に選ばれた。長野市出身で高校卒業後に大阪で働いた後、協力隊に応募した。


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   「気候も人も穏やかなのが下條村の一番の魅力」と話す宮越絵美さん(撮影:田川基成)


 「下條村を選んだ決め手は、村が先進的な取り組みで人口を増やし、奇跡の村と呼ばれるに至った経緯に惹かれたからです。自分達の手で地域を変えて行こうと云う村の姿勢に、大きな魅力を感じました」

 実際、下條村は「奇跡」と呼ばれる人口増を実現させた。1990年代初頭に3800人余りだった人口を、徹底した財政改革と少子化対策によって、2005年には約1割増の4200人を超えるまでに回復させた。
 村の合計特殊出生率は、全国平均を大きく上回り、2001年から2010年迄の10年間の平均値が2.0を超えた。山間地の小村としては異例のことで、この「奇跡」はテレビ、新聞、雑誌、書籍等、様々なメディアで取り上げられた。

 そんな下條村が昨今、移住定住政策に力を入れるのには理由があった。実は、下條村の人口は2008年以降、減少に転じて居る。ピーク時には4227人を記録した人口は、2020年1月現在、3729人に。この10年余りで約500人、実に1割以上も人が減って居たのだ。

 村の奇跡に貢献した「若者定住促進住宅」

 ソモソモ1990年代から10年間で1割の人口が増えた理由は何だったのか。総務課長の吉村善郎さんは「若い世代を対象にした住宅政策が効果的だった」と語る。

 「若い世代の移住・定住を促進する為、他自治体に先駆け、若い世帯向けの集合住宅を建設しました。これが成功し、人口が増えて行ったのです」

 下條村の総人口は1955年に約6000人だったが、1990年に4000人を割り込む迄減少した。悩んだ村が取り組んだのが若者を呼び寄せる為の住宅政策だった。1997年、若者定住促進住宅、通称「メゾンコスモス」の建設を開始した。
 メゾンコスモスは1棟12室を基本とし、各室の広さは約65平方メートルの2LDK。2台分の駐車場付きで、家賃は3万円代半ばに設定されて居た。当時、隣接する中核市、飯田市内でホボ同条件の賃貸物件の家賃が7万円前後。比べると破格の安さだった。


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 道の駅の直ぐ近くに立地する「第六メゾン」若者定住促進住宅の多くは生活に便利な場所にある(撮影:田川基成)


 但し、対象の入居者には「子育て中」や「結婚予定の若者」と条件を付けた。更に地域に積極的に関わって貰う為「消防団への加入」を義務付けた。吉村さんが言う。

 「良質なコミュニティーを築く為には、地域に溶け込む意思の有る人を優先的に受け入れる必要があったからです」

 目論みは当たり、真新しいメゾンコスモスは、周辺自治体の多くの若いファミリー世帯を惹き着けた。メゾンはオヨソ1年に1棟のペースで増え、2006年迄に10棟124戸が建設された。


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   メゾンの供給が始まった1997年から2008年迄人口は増加傾向にある(図版:ラチカ)


 建設と比例し、人口は増えて行った。メゾンへの入居で若い世代の転入数が増えた上、子供が次々と生まれた為だ。こうして下條村は「子供を産める奇跡の村」として注目されて行った。2003年に第六メゾンに入居し、2012年頃迄居住した村民の小田亜弥さん(40)は「メゾンは子育てに最高の環境だった」と振り返る。


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 「私も夫も村外の出身で、下條村に移る迄は飯田市で暮らして居たんです。第1子が生まれ新居を探して居た際、先にメゾンに入居した知人の話を聞いて移住を決めました。当時のメゾンは入居待ちが20組〜30組も出る程の人気物件でした。何よりも周りに同年代の子育て世代が沢山居たのが好かったですね」


 小田家は間も無く第2子・第3子に恵まれた。メゾンには同時期に生まれた子供が沢山居り、とても賑やかだったと云う。敷地内で誰かが遊び始めると自然と皆が集まる。夏は皆でプールや砂場を作り、日が落ちる迄子供達の声が響いた。親同士も親しく為り、家族グルミの付き合いも生まれた。小田さんは言う。

 「一人で子育てして居るのでは無く、メゾンの皆で子供達を育てて居る感覚。そう云う住民同士の関係性が、本当に素晴らしかった」

 評判が評判を呼び、メゾンへの入居者を中心に下條村の人口はジワジワと増えて行った。しかし、2006年を最後に、下條村はファミリー向けの新たなメゾンの建設を辞めた。すると、2008年の4224人をピークとして、人口は減少して行った。

 人口減はメゾンの新規着工見送りから始まった

 何故ファミリー向けのメゾンは建てられ無く為ったのか。その背景には「ライバルの出現」があった。前出の吉村さんが明かす。

 「当初は村にメゾンを建てれば直ぐ満室に為る状況でした。しかし2000年以降、周辺の自治体でも若者向け住宅が作られ、下條村以外の選択肢が増えた。すると、メゾンへの入居希望者も減って行った。格安の賃貸住宅を用意するだけでは、移住先候補としての優位性を保て無く為ったのです」
 第一メゾンが完成してから10年が経ち、築年数の古い物件には空室も目立つ様に為って居た。税金を投じて新たなメゾンを建設するのは難しく為って行った。

 メゾン建設を継続して居た10年間(1997〜2006年)とメゾン建設終了後の10年間(2007〜2016年)で比較すると、村の人口の変化が浮き彫りに為る。
 メゾン建設期には10年間で1536人の転入者がいたが、建設が終わった後の10年間の転入者は1122人と400人以上も減って居る。それに伴い出生数も低下する。2004年には59人、2005年には52人と好調だった出生数も、2016年には19人と年間20人を割り込む年も出て来た。

 人口構成も大きく変わった。メゾン建設期間の2005年と終了後の2015年を比べると「25〜29歳」「30歳〜34歳」の子育て世代が4割以上も減って居たのだ。村の総人口そのものが減って居るとは云え、子育て世代の年齢層だけが顕著に減ったのは何故なのか。原因は一戸建ての土地の不足だった。


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 メゾン建設終了の直前(2005年)に比べると、2015年は子育て世代と乳幼児が顕著に減っている(図版:ラチカ、出典:国勢調査


 家を建てる土地の少なさが若年人口の流出を招く

 前出の小田さんも住宅の購入には苦労したと話す。

 「私達も5人家族と為り、2LDKのメゾンでは手狭に鳴った為、村内に家を建てたいと考えました。処が、家を建てる為の土地が下條村の中にナカナカ見付から無かったのです」

 下條村は山間の立地で平地が少ない上、農地以外の利用が厳しく制限される「農業振興地域」が多い。住宅用の土地は極僅かに限られて居り、購入しようにも販売されて居なかったのだ。幸運にも、小田さんは2012年に売りに出された民間分譲地の1区画を購入する事が出来た。だが、こうした人は少数だった。家を求めるメゾンの家族は、結果的に周辺自治体に移ってしまった人が多かったと云う。


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 民間企業による宅地開発によって住宅が増えつつある上野原地区。下條村では元農地に若い子育て世帯が移り住み、新たな住宅街が形成されるケースも増えて居る(撮影:田川基成)



 「メゾンは賃貸住宅ですし、飽く迄も仮住まい。入居者の多くはそう考えて居て、実際に当時の仲間達は皆、一戸建てを求めてメゾンを出て行きました。共に子育てをした家族の様なコミュニティーがバラバラに為ってしまったのはトテモ残念です」

 「メゾンの後」詰まり、子供が増えた世帯が長く住み続ける為には、宅地や一戸建てが必要だった。それを用意出来無かった事が、子育て世代が流出する大きな要因と為った。
 事実、2009年から2015年迄の6年間にメゾンを退去した145世帯の内、オヨソ7割に当たる101世帯が村外に転居して居た事が分かって居る。

 こうした子育て世代の減少が出生数の減少に繋がり、更に、高齢化による死亡数増加が人口減少に追い打ちを掛けた。こうして下條村は、10年間余りでピーク時の1割以上の約500人減と云う急激な人口減に見舞われた。現在、村の人口は3729人。メゾン建設等の人口増計画の頃より少ない人口と為った。

 人口増が村にもたらした20年の猶予期間

 「奇跡の村」の移住・定住政策は失敗だったのだろうか。当時、下條村の総務課長として前村長と共に若者誘致に尽力した串原良彦さん(現・下條村教育委員会教育長)は、そうは考えて居ないと言う。

 「10年で総人口の1割近く村民を増やし、10年掛けて元の状態に戻った。と云う事は、20年間、過疎化と人口減の時計を止めたと云う事ですよ」

 村はその20年間に財政を健全化し、子育て支援を充実させ、図書館やホール等様々な公共施設を整備した。それは人口減少が続いて居たら出来なかった事だ。

 「アノ時に住宅政策で手を打た無ければ、下條村が多くの若者や子供達で溢れる事は無かったし『奇跡の村』と呼ばれる事も無かった。それは失敗では無く、大きな成果だったと言えるでしょう」

 2016年に村長に就任した金田憲治氏は、メゾン後の定住対策に付いてこう話した。

 「村も、若年世代の転出に歯止めを掛ける事が急務と判って居ました。(村長就任以降は)メゾンを出た家族が購入出来る宅地の造成を村の最優先課題として位置付け、候補地の絞り込みや調査を進めて居ます」

 村は1999年と2007年の2度、計54戸の宅地分譲を行った事がある。しかし、その数では定住ニーズに応え切れ無かった。元より村内の土地は、平坦で日当たりが好く、通学や買い物にも便利な場所と為ると限られる。そう為ると農地の宅地転用が課題と為る。
 金田村長は、耕作放棄地の宅地転用も含め「アラユル角度から土地の利活用に付いて検討して居る」とする。その一方で、それだけでは十分では無いと語る。

 「これ迄の経緯から、格安の住宅を作って人を呼び込むだけでは人を定住させる事が出来ないのも判って来た。今後は住み続けて呉れる人を増やす為に、先ず下條村の事を知り、ファンに為って貰わ無いといけ無い」

 「人を増やす」から「今の村の姿を未来に残す」へ

 そんな考えから、近年の下條村が力を入れて居るのが、冒頭の地域おこし協力隊の導入やお試し住宅の開設等の移住促進施策だ。


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 養鶏家の絹田皓士さん(34)は移住者の一人だ。京都府出身で、養鶏業を営む為2011年に下條村に隣接する阿智村に移住。2013年、下條村に移住した。現在は、南アルプスを見渡す広大な農地付き戸建てに家族5人で暮らす。

 新規就農で養鶏業を営む絹田皓士さん。狭いケージ内では無く鶏舎内で地面に放して飼う「平飼い」と呼ばれる飼育法で鶏を育てて居る(撮影:田川基成)村の好さは自分と同世代の若い農家が多い事だと絹田さんは言う。

 「阿智村に居た頃は、周りに同世代の農家が居ませんでした。でも、此処には私と同世代の30代・40代の若い農家が多いので、仕事の相談から子育ての悩みの共有まで出来る。又、下條村にはお組合と云う自治組織があって、行事や各世代の活動を通して密に繋がり、互いに助け合う文化があるんです。そう云う地域との繋がりや豊かなコミュニティーに価値を感じて居ます」

 昨年2月、村外からメゾンコスモスに入居した伊藤香理さん(31)も、下條村に住み続けたいと考える一人だ。それ迄は夫と長男と共に愛知県新城市に住んで居たが、飯田市に住む実母の介護の為、実家と夫の職場との中間地点で新居を探した。


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 メゾンコスモスに入居する伊藤香理さん。夫の諒さん、長男の颯太くんと暮らしている(撮影:田川基成)

 「決め手は、子育て支援が充実して居る事、そして地域に溶け込む事が入居条件に為って居た事です。新城市のアパートでは、殆ど近所付き合いが無く、孤独を感じながら子育てして居ました。でも、此処なら子育て中の同世代の入居者も多いし、助け合いながら育児が出来そうだと思ったのです」

 実際、下條村の生活にも直ぐに馴染み「地域密着の暮らしに満足して居る」と語る。現在は、村内に家を建てるべく土地探しを始めて居る。

 「長く住み続けるなら、矢張りマイホームは必要です。下條村での土地探しは簡単ではありませんが、今のメゾンの近くで見付かれば好いなと思って居ます。折角好い関係が築けたコミュニティーから、離れたく無いんです」


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 下條村唯一の保育所では園児111人の元気な声が響く。現在、園児は減少傾向だが、人口増加が顕著だった頃には教室が不足し、園舎を増築したと云う(撮影:田川基成)


 昨今は、自治体の枠を超え、近隣の愛知県東部の東三河、静岡県西部の遠州、長野県南部の南信州の3地域が連携する動きも活発化して居る。「人口問題には周辺地域全体で取り組んで行く」と金田村長は意気込む。


 「今の対策では、メゾンの時の様に即時的な効果は望め無いかも知れない。重要なのは、20年後・30年後にも村が今と変わらぬ姿である事。そんな未来を見据えて、粛々と目の前の課題に取り組んで行きたい」


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 下條村のアチコチには村花のコスモスが植えられて居る。旺盛に茎を伸ばす姿は、未来に向けて再起を目指す村の姿に重なる(撮影:田川基成)

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 庄司里紗(しょうじ・りさ)1974年神奈川県生まれ 大学卒業後ライターとしてインタビューを中心に雑誌、Web、書籍等で執筆 2012〜2015年の3年間フィリピン・セブ島に滞在し親子留学事業を立ち上げる。明治大学サービス創新研究所・客員研究員 公式サイト
    
 写真撮影 田川基成  図版 ラチカ

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【管理人のひとこと】

 一つの物語・或る地域の短い歴史をなぞる様な素晴らしいレポートでした。一つの自治体で為せる最大の努力をし、或る種の軌跡は成し遂げられた・・・けど、それが恒久的施策とは為らず一時だけの成功に終わった。しかし、何もせずそのママ指を咥えて見過ごして居たら、その後の反省や新たな次へのステップも思いも着かず、増してやその様な意思・遣る気持ちも生まれては来なかったでしょう。
 何かを遣る事でプラスもマイナスも生まれ、マイナスを補いプラスを伸ばす・・・それしか方法は無いのですから、下条村の為した実績は、その後の村の生き方を考える上でも、成功の実績は村民全員の記憶の中に強く残るでしょう。それは、村の大きなレガシー・遺産・財産と為って子々孫々に伝えられます。
 今後は、小さな単位での孤軍奮闘に終わる事の無い、もう少し広域的・国政を交えた時間的・全地域的な大きな視点からの政策が必要なのでしょう。国からの上から落ちて来る政策は、大きな山や森や林を見ている感覚で、一本一本の木々や枝々に葉っぱを見詰めて育てる現場との連携によって立派なものへと為って育つのです。各自治体が諦めずに中央政府に働き掛け無ければ、この問題は一歩も先へとは進まないのですから。








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