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2024年03月09日

何気なさに不思議さを感じます

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私の抽象芸術入門は、
毎度提言しておりますが、
「私の」ための「抽象芸術入門」であり、
それ以上でもそれ以下でもありません。
純粋に私の記憶の覚書として書いています。しかし、
たまたま通りかかって読む人がいて、
その人が何らかの刺激や発想を得られたのなら嬉しい限りです。


見るもの全て私にとっては教材です。
抽象芸術の対象はまさに見るもの聞くもの触るもの嗅ぐ味う等で、
制作行為は感覚の全てを導引して直感に従い感覚的に吐き出すことです。
何気ない動作や事物の現象は、
忙しい皆様には単なる背景に過ぎない事でしょうが
妙なところに触手が伸びる私にとって
何気なさに不思議さを感じます。
一度見据えると気になって、
凝視すると何か面白いものに見えてそれが発想の源になります。


今日は輪ゴムを取り上げます。
輪ゴムは、特に
絡まった輪ゴムは、
いつもイライラの元ですが、
じっくり見据えて見ると
この絡まり方が何とも言えずアート的で
飽きずに楽しむことができます。

身近であまりにも何気なく
気にも留めていない輪ゴムだからこそなせる面白さです。





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2024年02月03日

大したことないけど、作品は皆良いんだよなぁ。何か良い味出しています。大したことないけど、皆さんスゴイと感じます。

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夕日を観て「ああ綺麗だな」と思えるのは、私だけで無く皆も思うのであれば共通の感覚として受け入れられるし、それを絵にしたり写真にしたりすれば、それは皆も感動する作品になりうるわけです。自分がそれを自分の作品とするには自分なりの工夫が必要ではありますが、例えそれが自分が感動し皆も感動するからといって、それを自分が本当に描きたかったのか否かは別の話なのです。しかし、描きたい絵が、そして、撮りたい写真が、皆が好んで観る作品になりうるかと言われるとそうでは無い、と思うのです。綺麗な夕日も撮りますが、道端に捨ててある空き缶も撮ります。個人的に絵は、写実画は描きません。それは、写実的に描けないということもあります。私は、観たものを忠実に描くよりも感じたことを感じたままに描くことに誠実でありたいと思うからです。これは、他からみれば写実的に描けない言い訳と聞こえそうですが、その意見もまた事実でしょう。自分が心地良く描けるものを描くのが一番だと思うのです。

大したことないけど、作品は皆良いんだよなぁ。何か良い味出しています。大したことないけど、皆さんスゴイと感じます。インスタにAIに選択操作され似た感性の作品ばかりアップされてきて余計に刺激される私がいます。似た感性が世界にこんなにもいるんだと思うとウンザリしますが、孤立して無いなという感覚にもなりホッとする瞬間でもあります。




2024年01月01日

何処にいても何を観てもブレずに自分の感性を大切に維持して行こうと思っています。

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年は明けましたが、特に何かあるわけでも無くいつもと同じ朝を迎えました。

何処にいても何を観てもブレずに自分の感性を大切に維持して行こうと思っています。

SNS上では無数の写真が散在してます。有名無名問わず洪水のごとく溢れています。そんな中でも自分は写真を撮り続けているわけです。何ででしょうか?そんな事関係無く只々撮りたいから撮っているだけなのです。大義名分関係無く気がついたらシャッターボタンを押しているのです。純粋芸術行為はそうなのです。雑念無用なのです。

まだまだ抽象芸術の冒険は続きます。


2023年11月17日

結局のところ分かっている人は少ない。おそらく、理解できないか理解しようとしないか、そもそもそれ以前の問題か。



ひと月の間に思ったり感じたりした事をその都度メモの代わりに書き留めて記事に仕上げています。ここは、まさに私にとっての覚書をする場なのです。なぜなら、その時に湧き上がった言葉を書き留めて置かないとそれを考えていたことも忘れてしまうからです。後で読み返して再認識する事で正に自分自身の気付きにもなります。そこには他の読者はほぼ介在してません。読みたければ読めばいいし恐らくこんなに長たらしく無意味に思える記事を時間の無駄だとそもそも読まないと思っているからこそあえて私は書きたい事を書いているのです。しかし、それでも物好きな人もこの世にいる事も確かですから、この記事を読んでいる人もいるかも知れないし、読んで何か刺激を受けるかも知れないしバカな奴だと優越感に浸る人もいるかもしれないし、それでも何かを感じて頂けたらそれはそれで個人的には嬉しい気もします。

ここ数年、諸事情で週に一度、実家に帰る事になっているので母親と話す時間は多く取れるようになりました。そのおかげで今まで知らなかった母の幼少期や学生時代の事も断片的ではありますが聞く機会に恵まれています。生まれてきて半世紀以上経ちましたが、それまでほとんど母親とじっくりと話す機会はありませんでした。親の生きてきた記憶よりも他に魅力的な事があると勝手に思い込んで見向きもしていなかったのです。しかし、人生いろいろ経験していく中で思う事もいろいろ出てきました。私自身、家計は苦しいですが生活は案外楽しいです。ある意味で幸せな時でもある感じがします。お金は大切ですし出来れば欲しいです。しかし、幸せはそれとは別のところにもありそうです。

さて、芸術の話です。
どんなに大変な時でも、ハッとする場面に出くわすと感動したり、カメラを持っていたらシャッターを押してしまう、その感覚はアーティストなんだと思います。私は「孤高最高」のアーティストなのでしょう。

結局のところ、
もっとも、これはもし誤解がなければですが、
最近のアートは、多方、大したこと無いと私は感じているのです。
どうせ誰も読んでいないので個人の覚書として書いています。初期の人類と呼ばれる段階まで遡って、砂地や木の幹に落書きのような模様をらしきものを誰かが描いたところから模倣が始まり、それをなぜかそれを見て面白いと感じた変わり種がそれを模倣し改善を加え、そしてその連鎖が体系化してある時は宗教に利用されたり戦いに利用されたり金儲けに利用されたりして進化を遂げてきたのでしょう。その中で純粋なアートはとっくの昔に隅に追いやられてしまったのです。純粋なアートととは、自分だけのアートです。心の支えになり自ら対話できる大切な存在なわけです。純粋なアートを純粋なまま向き合えば自らが悩んだ時でも死なずに支えてくれる大切な存在となるはずなのです。多くがそれに失敗してます。多くが死に至り、多くが身を持ち崩してます。自己を見失うのです。巷にある評価されている作品を見てもやはり誰かの影響をもろ受けている作品に溢れています。それはそれで別に構わないです。勝手にやれば、という話です。私も当然、影響を受けています。でも、それは仕方のないことです。生まれて自我が目覚めるまでの間に何らかの情報が既に目に触れインプットされていますから。そこから独自の路線に行くのは結構厳しいものがあります。独自路線を行っているなと感じる指標は何だと思いますか。せっかくここまで読んだ方にはこっそり教えましょう。それは、誰からも見向きもされない作品のことです。誰も評価すらしない作品。そこに本来の独自性があるのです。大抵、誰かが共感します。そこからどう抜け出すか。今後の力量が問われるところです。そう思うと今後の制作がワクワクしてきます。
 私は、「孤高」という言葉が好きです。多くは、意固地とか独りよがりなどと別の見方をしてる人もいるようですが、自分の感覚を大切にしている人と私は捉えています。たまに、共通する感覚に出会す場面があります。共感にホッとすることも確かにあります。どこかに安心感を持ちたいからでしょうか。本音を言えば孤独で制作する時は寂しい時もあります。賑やかで華やいでいる向こうの居場所のが本当は良いかもと思う時があることも事実です。人間ですから気持ちは揺れ動きます。でも、誰からも評価されない見向きもされない事があってもそれでいいです。自分の感覚にウソをついてまでして迎合したくない気持ちがやはり強いですね。これは作品制作に限っての事です。日々の生活は助け合って仲良くみんなと過ごしたいです。これも自分にとって居心地の良いという事ですが。自分にとって居心地の良いところはきっと相手にとっても居心地の良いところだと思います。そのように考えると自分にとって心地よい作品も、その中には相手にとっても心地よい作品の要素はきっとあるんだなぁと思う時もあります。もしそうなら「いいねおやゆびサイン」も悪くないです。矛盾している様にみえますが人間とは本来そんな存在だと思っています。私の中のアーティストは孤高な変人ですが、本質は人が好きなんだと思うのです。相手の作品は確かに大したものでは無いにしてもその人の技量や熱意は評価に値するものばかりです。観てもハッとするものも確かにあります。しかし、所詮大したこと無いです。人や人が生み出したAIにしてもそこからの創造力はたかが知れてます。自分も結局そうです。ただ、皆、自分だけ特別と思っているだけです。一歩引いて見ると面白いです。この面白いという感覚が実は本質的でスゴイと感じるのです。裸の王様のごとく高評価に祭り上げられてバカ天狗になった作品は多いです。そんなものなど観るか、って感じです。評価するのは当人ではなく第三者でしょ。もちろんその人は純粋に共感したかも知れません。おそらく相手が好きなら恋愛の延長線上にその作品があるのでしょね。しかし、多方それだけではありません。作家を利用して一山当てたいと考えている人もいることでしょう。作家もそれで生きていくわけだし、お互い利益があるわけです。つまり、ある意味で職人が作った商品ということなのですね。私とは無縁と感じます。賛否はありますが別にほとんど読まれていない私のこの記事なら害はないでしょう。本来アートは、金にもならん事を熱心にやる時、面白さが見えてくるのでしょうね。私はそう感じているのです。
 私の抽象芸術入門はこの様な方向(私の独自路線)で私の求めるアートの本質に近付いていきます。作品を前にして技法を説明したりするより悩み考えている時間の方がはるかに長いのです。一般の教室では意外と素通りされ普段教えられていない事をここでは追及していきます。

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2023年10月14日

私の創作行為は、誰も知りたくも無いでしょう。そもそも私の作品自体に関心すら無いでしょうね。今の私にはそんなことはどうでもよいと思っています。自分にとって気に入る存在、そこを大切にしています



変化が無い事に、その様な状況下で何かを感じ取るのは至難の業ですが、そこから何かを見出すことができた時は、自分の中で「スゲェ」と思ってしまうものです。しかし、変わらないといっても同じでは無いのです。変わっていないと錯覚しているだけなのです。
映画に非日常性を求めるのは現実の社会で何かを見出せなかったからでしょうか。

今回も自分の為に書いています。
このブログにたまたま辿り着いて来た方には、この長い文章を読む気力も興味も時間も無いのでおそらく最後まで読まないと思います。その事を想定して今自分が思っている本心を正直に書いていきます。興味ある方はそのままお読みください。

IQの高低は、確かに評価基準の一つですが、一側面に過ぎないことも確かでしょう。身体能力の高低もあるし、サバイバル本能の高低もあるし、一つの機能だけを殊更騒ぎ立てるのは仕方のない事かもしれませんね。写真のような精密な描写が出来る人だけが絵画的才能が高いと評価されるとしたら絵画の世界は狭い視野しか持たないつまらない世界になります。私はこの世界に生まれた人には何らかのそこに存在する理由があると思っている人です。どんな些細な事でもその人にしかできない何かを持って来ていると思うのです。自分を基準に相手を見ると高低差しか見えない人とそれぞれいるなぁと思える人とで人生の楽しみ方が変わってくるんだろうなと感じています。差しか見えない場合、同時にそこには損得勘定が働いているようにも感じます。人間ですから自分も含めそう感じると相手を非難したりするようになります。そういった感情に浸ると逆に相手も自分をそんなふうに思っているんだろうと思うようになってしまいます。そうなると生き辛くなります。そう感じていた時期がかなりありました。親戚の死や親の高齢や自分も還暦が近くなって「死」について考える機会が増え「一期一会」の意味を自分なりに自分の言葉として考えるようになりました。一期一会を感じると怒りも悲しみも大幅に軽減されとても気持ち良く生きられます。身近な人との別れ、それは関係が無くなり会わなくなることや旅立っていくことなどありますが、そういった事も含めて人生なのだと捉えると気持ちが楽になります。それを無理してそう思い込むのではなく自然と受け入れるようになって来たと最近感じるようになりました。一生懸命練習してもなかなか上手くいかない。それは今はそのタイミングでは無い、時期を待てという事なのかと捉えると諦めずに続けていこうと思えるようになります。ずるい事を先回りしても自分にその能力が備わっていなければ結果失敗します。今、上手くいってなくても続けていく事でその時期が来れば上昇の風に乗ることが出来るでしょう。それを信じています。

知識の積み重ねや論理的思考を鍛え上げた上で更に柔軟な発想力と創造力に長けた人、いわゆる天才的な人は確かにいます。学問や科学技術的な分野の人です。同じ様に芸術の世界にも並外れた能力や技を持つ人がいます。天才的といわれる人ですが、この人は前者とは趣きが異なっているように私には思えます。あくまでも個人的な意見です。前者と後者は明らかに路線が異なっていると私は感じます。学者でも評論家でも無い私には言葉足らずで上手く伝えられません。あくまでも今まで生きてきて感じてきた感想です。柔軟な発想で楽しくこの世を生きている人にとって目に映るこの世の景色は私とは異なる事でしょう。同じものを見ていてもきっと違って捉えているのでしょう。どちらが良いとか幸せとかそれは決めることはできないと私は思います。いろいろあってそれで良い、と私は思うのですが、必ずしも相手はそう思っていないことがほとんどです。自身にしても今日と明日では異なると感じます。私自身上手く伝えられないと言いながらこうして記事を書いているのはどういう事なのか、自分なりに思いますが、やはり、自分自身の為の記録なんだろうと再認識しました。自分が今想い考えたことを自分自身が忘れないように書き留めておこうと思ったのです。あと何日、この世の景色を見ていられるのでしょうか。大好きなパートナーもその時が訪れば旅立つことになるのです。今は自分に触れる全てのものが愛おしく感じています。ここで生きているその事自体に特別な想いがあります。

誰かに見せる、そして誰かが見た瞬間にその対象が作品として成り立つことになるのでしょう。
誰かに見せる、という行為は、それがアートを含めどんな行為であっても人に見せる行為の動機には承認欲求が必ず含まれているんでしょうね。そうでなければ人に見せたいとは思わないはずなんです。見せたいから見せる。見せたくないから隠す。アーティストでもその使い分けはしていることでしょう。見せたくないものは、そのアーティストにとっては大切な何かなんでしょう。大切なものかその人にとっての恥部か、どちらにしても人には見せたくないのです。その人にとってのそれは未だ作品と位置付けてはいない存在だと思うのです。だから作品とは人に見せるものなんです。作品は、そのアーティストが見せたいものですが、公開しても知られなければ、そこにあっても存在していないのと同じようです。社会ではアーティストの意向に関わらず社会にとってのニーズが無ければ一般的に一部の変わった人にしか目に留まりません。多くのアーティストの作品はそうです。私もその一部です。

分断がおきています。少なからずそう叫ぶ人がいるのでさほど驚く事でも無いでしょう。考えるべき事は、その事に翻弄されているか否かなのでしょう。影響力がある人がメディアで叫ぶとそちらに私達は視線が向いてしまいます。分断良く無い、何とかしないといけないですね。とか、分断は避けられない、少数側を擁護しなくてはいけないですね。とか、そちらに視線が向いてしまいます。優位に立っている人が分断についてことさら強調しています。分断を差別といったり格差といったり言葉を変えそこにあたかも境界線がある様な言い方をしています。「現実にあるんだからしょうがないだろう」と言ってしまえばそれまでですが、その事自体に洗脳や誘導があったりします。裸の王様みたいにそこにある、と言い張れば存在していなくてもあたかもそこにあるかのような思い込みをしてしまうのでしょう。格差にしても差は、力を持ったものがつくりあげているのでしょう。少数派や弱者にその差を植え付けます。多数派や強者に歯向かわないようにするためです。戦意を喪失させ無気力化させるのが狙いです。そうしておいて弱者支援って違和感があります。分断することで誰が得をしているのか、俯瞰して見る視線は必要かと私は思っています。人は個々に違います。それをどの様に意識することが大切です。違いを違いとして意識することです。無理に同調したり、平等感をもたせたり、皆んな仲良くとか、そう言った偽善的な上辺だけの取り繕いではなく、もっと本質な事、自分のことをしっかり考え、それと同じくらい相手のことも考える姿勢といったコアな本質に目を向ける行為が求められているのかなと感じるのです。とても言葉足らずです。想い感じていることを上手く伝えられません。
わざわざ分断させておいて、それをことさら問題視して差別や区別を助長して争わせたり偽善的に擁護したり、何処か本来性から外れた方向に社会が進んでいるように仕向けているように感じます。

今、ここで書いていること、これは、別に誰かに頼まれて書いているわけではありません。今この瞬間、書きたい書いておきたい。書いておかなくては忘れてしまうから書いているんだと思うのです。今、自分が考えたこと、少なくとも自分の気の済むまでの間は、これを書き残しておきたい。結局、それは自分が今ここに居て考え書き残した事を誰かに覚えていて欲しい承認欲求でもあるのでしょう。それでもいいんです。人はそれぞれ何かを残そうとします。母親は、編み物が好きです。得意でもあり彼女のライフワークでもあります。昔はいろいろなものを制作していましたが、高齢になり今は一日に巾着を一つつくるのが精一杯です。ハンドメイドはプレゼントとしては最高だと思っています。その人の存在を感じるからです。料理が好き人は知人に料理を振舞うでしょう。私なら絵と写真かな。歌が好きな人は歌を歌い相手に感動をあたえます。ハンドメイドのプレゼントが苦手な人もいます。重荷に感じるそうです。
高価なモノを購入してプレゼントする事に慣れきってしまうとハンドメイドは陳腐に感じるでしょう。人それぞれ想いは異なります。私は、
自分の時間を使ってこうして書いています。書きたいから書いておきたいから書かずにはおられないから書くのです。
その根底にはやはり自分が今この場所に存在している想いを残したいという承認欲求なのでしょう。そんなもの何れ無くなるわけですがそれでも書いている自分がいます。不思議です。

結局、目の前の事しか関心無いでしょう。一歩先の事とか脇道に咲く花を見る余裕が無いのでしょう。自分もそうです。必要があったり、行動を促す関心のある事でしか、そもそも見ない。

雨上がりの夜空を見上げる。そのまま星空に溶け込んでしまいたい。


映画「あん」で、徳江と言う名の女性が言った言葉が記憶に残っています。

「私達はこの世を見る為に、聞くために、生まれてきた。この世は、ただそれだけを望んでいた。
…だとすれば、何かになれなくても、私たちには生きる意味があるのよ。」

自分が自分の存在っていったい何だと分からなくなった時、疲れ果てて夜空を眺めます。雨上がりの澄み切った星空に自身が吸い込まれそうになります。自分は一部でもあり全体でもある。溶け込んでいて分けることはできない何かなのだろうなと感じるのです。
そんな時にこの映画に出会いました。徳江さんの言葉に頷きました。自分で解釈して何かを発するとどうしても綺麗事の様に聞こえたり、何か上か目線的に語っている様に見えたり、言葉の表現に乏しい私には誤解を招いてしまうので、言及はしません。興味あれば一度ご覧下さい。

あん

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自分の為に書いているブログですが、誰かが見ているという前提で書いています。

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私は、
「関係」というテーマで絵を描いています。

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私は、研究者でも評論家でもありません。純粋に自作を探求しているだけです。あえて言葉にして他者に伝えるなら「関係」が思い浮かびました。
私の創作行為は、誰も知りたくも無いでしょう。そもそも私の作品自体に関心すら無いでしょうね。今の私にはそんなことはどうでもよいと思っています。自分にとって気に入る存在、そこを大切にしています。

2023年09月19日

いろいろあって、それでいい。いろんな中の一つとして自分がある、そんな感じです。



絵を描いたりオブジェを制作したりし続ける人の多くは、環境が影響していると私個人は思います。周りの人が理解を示し褒めたり応援してくれたり支援してくれるから続けていけると思います。幼児の話しです。大人の真似事の様なアートをやるには子供でも金がかかります。それを快く出資出来る環境が必要ですがそうなるとその段階で格差が見えるのは当然ですね。金があってもそれをさせてくれない環境もあり、これはもう運以外には考えられないですね。私は100人いたら100人のアーティストがいると考える人です。しかし、現実的には100人のアーティストはいないわけです。アーティストになる最大の要件は「続ける」ことです。その人に続ける気力が必要になります。有名無名に関わらず続けなければアーティストでは無い。有名無名の要件は「運」だと思っています。運はどうしようもないところがあります。でも、続けないと運に巡り合う可能性は減ります。この明確な要件が出せる根拠は、アートに絶対的な基準が存在しないからです。教科書で基準が明記されているんじゃないか。誰もが認める作品があるじゃないか。でもそれは、マジョリティが勝手に押し付けた考えであってそれは絶対的ではないのです。金と権力がありカリスマ性のある極少数の集団が広めた規格にすぎません。歴史を見れば明らかですよね。価値観が多様化してもそれらをコントロールしている勢力は依然として引き継がれているので根本は変わってはいないのです。それを無くす事は彼らの食い扶持を無くす事でもあるわけで絶対に無くすはずがありません。ですので今でも狭い美観の範囲内で騒いでいるわけです。需要と供給の中でアーティストは上手に利用されているのです。
あくまでも個人の思っていることです。

アーティストの中には野心的で社会をこの世界を変えてやろうと思って活動している人がいます。何かになる事が重要だと思っているわけです。歴史に名を残す。富や権力もアートの世界であっても力強い存在です。それを目指して皆努力しているのです。しかし、多くはこの路線すら乗れずに周辺を彷徨っています。私は、そのどちらでも無く、全く別の路線に乗っている感じがします。最近、そう感じることが強くなっています。

私は、自分が良くて他が良く無いと言っているわけでは無いのです。同じ立ち位置で全てを見ています。いろいろあって、それでいい。いろんな中の一つとして自分がある、そんな感じです。冒頭の100人アーティストです。皆、アーティストなんです。だからまず、心を解放して手を動かしてみましょう。自分の世界が広がるはずです。私のしているアートはそこにあります。

『私の抽象芸術入門』では、淡々と私の探求をしています。

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2023年09月02日

「理解出来ない」は、理解できない。

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アートメーター

アートは理解するものでしょうか。
分かる、理解することはあるのでしょうか。
多くはそう思い込んで自己満足しているだけに過ぎないと私には思えるのです。

 それなりに何らかの組織、協会、団体に関わったり、受賞等を経て認められ、それを後ろ盾にする事で世に知られる存在になりえているわけです。成功しているアーティストの話です。後ろ盾があるからこそ多くの人に知られてようやくその人の作品を観てみようと思うわけです。マスコミや専門家、評論家が褒め称える事で観る前から高い評価を受けている人だ、価値ある作品だ、だから下手な発言をすると自分が無知だと思われるから気を付けよう、と言ったバイアスがかかり、正常に作品に向き合えない事も確かにあります。私は、評論家のコメントは強制力だと思っています。純粋にその人の作品に向き合えないです。ただ、私は、評論家は必要無いと言っているわけではありません。彼等はアーティストを歴史の文脈で研究分析する上で研究者同様必要とされているからです。
 例えば、出版されている写真集は評価された写真家が撮ったものです。しかし、この写真集が出来上がるまでに何人かのプロの専門家が何らかのカタチで写真集に関わっているはずです。写真はボタンを押せば誰にでも撮れる時代です。何を撮るか、構図や色合いなど、大して差は無いのです。だからこそ安心出来る後ろ盾が必要なのです。写真家は後ろ盾のおかげで何が社会的に評価されるのかを身につけていきます。後ろ盾に気に入られるとその様な撮り方で撮影するように自然と無意識的になっていきます。後ろ盾の意図を素直に受け入れ従順に振舞えば更に評価は上がります。そうでなければ社会的に消されます。この様にして後ろ盾の好んだカタチになっていきます。大物のお墨付きが付けば世間の目に触れる機会も増え、名の知れた存在になります。中には酔倒するようなファンもできるでしょう。アーティストは、後ろ盾自身にとっても生き延びるために必要な存在かもしれません。
 社会の在り方を方向付けるのにアーティストは上手に利用されています。じゃあまともなアーティストは社会に無関心なのか、と問われそうですが、そうでは無く、作家自身に真摯に向き合っているのか、と言う問いかけなのです。アーティストは今を生きているわけです。社会の関わりを無視できないでしょう。関わりの中で自身の生きる意味を探す、その行為としての制作活動があると思っています。しかし、社会的に何の評価も受けていないアーティストは多いです。彼等は多方評価も受ける事なく消えていく存在です。彼等は関わりを持ちたいと思っていても社会側はあまり関心無い様です。私も社会的に何の評価も受けていないアーティストに過ぎません。それでも続けているのは、誰のためでも無く自分自身の為なのです。個人的には本当のアートはそこが原点だとおもっています。アートとかアーティストという言葉はそこには存在しないかもしれません。

アートは理解するものでしょうか。
分かる、理解することはあるのでしょうか。
多くはそう思い込んで自己満足しているだけに過ぎないと私には思えるのです。
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私は、自分と向き合う為に描いています。作品を大切に思えるのは生み出した自分しかいないからです。少なくとも私だけはこの作品の擁護者であるべきだと思っています。作品は私に何かを伝えている様に最近感じ始めています。それが何なのか知りたい、ってことが今の関心のある事です。
 ブログの記事では、その時その時で感じ方が微妙になったり脱線したりします。それは試行錯誤の現れで、それを感じる事が出来るのは正にこうして過程の記録をしてきた成果です。読み返して当時の心理状態、思考が分かります。自身にとっての良い探求資料です。自作の絵や写真の存在が何を意味するのか、何を私に伝えたいのか自分自身の探求なのです。その時その時の内からでる言葉、手が描く曲線、配色、それに、自分が切り取る風景の欠片の中に私は何を見つけるのか、ワクワクすることでもあります。 

私は心に引っかかる何かを吐いて出したものがまさに私のアートなのかな、と思うのです。しかし、それは排泄物ではなく、私を私として確認できる何かとても大切な何か。何か自分に対するメッセージでもあると感じます。生まれてくる作品は私に何かを伝えているのです。大切な何かを伝えてくれているのですね。不思議さがあり、それを楽しんで制作しています。

「今まで、それを誰かに観て欲しい願望はあったのでしょう。今は、無いですね。何故なら、自分にとってのメッセージだとわかったからです。ブログに載せているのは、自分にとっての記録に過ぎません。時折読み返す事で、自身の成長過程が自身で確認できるからです。それ以上の目的は今はもうありません。たまたまこのブログに辿り着き何か興味を持って観ているのなら嬉しいですね。」。。。話を戻します。

事あるごとに頭の片隅にある引っかかりを思い出しジワっと染み込む不思議さを楽しんでいます。

私は、自分の作品が好きです。自分で観て自分でジーンと感じています。「これ、いいなぁ」と、自分で観てニヤニヤしています。そこには、自分自身に語りかける何かがあるのです。他人から何らかの評価を受ける対象ではありません。純粋に自分自身の感動用としての位置付けが高いです。だから、自分自身で鑑賞してお腹いっぱいになります。だから私は、他人の作品を観て感動することは減りました。ただ、自分が気付かない切り口を持っている人の作品は興味があります。それは、刺激になります。巧みさにはスゴイと感じます。しかし、多くは感動しません。ただ、全ての人の生み出した作品は敬意を持って観ています。それぞれ皆、大切な想いで生み出されたものだからです。それぞれはそれぞれの道を進んで欲しいと思います。何処かで接点があればそれは奇跡で嬉しい事です。だから、接点と言う言葉は好きです。

アートは理解するものでしょうか。
私にとっては、そこにあって感じるもの。





2023年08月02日

制作は孤独です。しかし、自己との対話でもあり、そこから新たな創作の糸口も見えたりします。およそ理解はされないことは分かっています。他人から見たら無駄な落書きでしか無い様に見えるものであっても、私にとって生きる上で必要な行為なのです。まさに自分自身の為に行なっていることなのです。その行為の結果として目に見えるものとして何か存在しているとしたらそれが作品と私が言っているものだと思うのです。

才能って、聞かれた時、何を思うでしょうか。
辞書的な意味をここで話しているわけではありません。
自分の成長過程で個人の内にある捉え方も想いも異なることでしょう。
人は皆同じではありません。それぞれ違うわけです。
その具体的な違いが別の言葉で才能と言うのだと私は思うのです。
社会がその時その人を必要とした時、その差異が一般的に言う才能になるのでしょう。

「あっ、作品なんですね。これは失礼しました。」
(てっきり落書きかお遊びのお絵描きかと思いました)と言った意味合いあを込めた、はっきりと言わないだけ見下した含みのある一言。私に向けられる「あるある」の発言。
私がどんな想いで描いたのか言った人は知ろうともしないし、考えもしないはず。
そんな空気の中で生きている私がいます。
制作は孤独です。
しかし、自己との対話でもあり、そこから新たな創作の糸口も見えたりします。
およそ理解はされないことは分かっています。
しかし、ブログで公開する理由は、それでも誰かがこれを観て何かを感じてくれたら嬉しい。
ただ、それだけ。

他人から見たら無駄な落書きでしか無い様に見えるものであっても、私にとって生きる上で必要な行為なのです。まさに自分自身の為に行なっていることなのです。その行為の結果として目に見えるものとして何か存在しているとしたらそれが作品と私が言っているものだと思うのです。

有名になる人は他人が放っておかないそうです。
周りが何としてでも多くの人に知ってもらいたいと行動するそうです。
もちろん彼らの利益目的も含まれますが共通して言えるのは有名になる人は他人が動くということです。

私には、それが全くありません。それに社会は私の作品を望んでいるわけでは無いでしょう。それはもっともな話で、興味が無ければそもそも観ないのです。なので有名になる心配は無いわけです。その分、余計な事に煩わされるストレスも無いわけです。自由奔放に思いを巡らせ自己語りを続けられます。これだけ関心が無いと逆に批判にさらされる事もなく気持ちが楽ですね。完全に自分の中に世界がある感じです。

『私の抽象芸術入門』は自分で語り、それを自分で鑑賞し、自分がその時何を考え何を思い何を自分に伝えたかったか思い出させる効果がある行為なのです。対話によりしてきた行為を整理し記憶を定着させてくれる効果があります。
対話、それは通常相手がいますが、ここでは私独りでしています。自己との対話ですね。自分にしか分からない表現もあるので他人が読んでもつまらないものでしか見えないと思います。でも、構いません。これは自分の記録でもあるわけです。過去の自分に会い再認識する事が出来ます。そんな自分のためのブログ記事です。それでも偶然、ここに訪れて記事をご覧になり、そして、何か貴方の中で変化が起きたならスゴイ事です。繋がりを感じる瞬間です。
別に期待はしてませんが、そうなったら嬉しく思います。

さて、前置きが長くなりました。今日も始めます(自分に向けて)。


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何だろう、この模様は。就寝時、明かりを消した後に浮かび上がるそれは、何だろう。カーテンの隙間から見える街灯の灯り。それが壁に映って模様を成す。それがどの様に目に映り何を感じるか人それぞれだけど。それぞれ、と言ってしまえば簡単ですが、気になる模様や現象が何か気になる時があるのです。そのツボは私とあなたで同じである時もあるし違う場合もあります。

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 洗濯物を干す際にベランダに置いてある室外機に視線を向ける。室外機にできた錆の模様は、じっくり見ると何か気になります。

殆どの場合、私は、じっと見るとそこに違和感を感じます。

場面であったり、視覚で切り取った現象をマジマジとみてしまいます。
その事で普通なら気にならなかった些細な事が特別なものに感じてくるのです。そして、そこを切り取ることで私が私の作品として取り込んだことになるのです。
私だけが気付いた私だけのもの。だから、それを作品として決めつけても良いと私は感じます。
 偶然にも私の作品が他人に知られる事があって、その中で気になると感じた方が現れたら奇跡ですね。何かの繋がりを感じます。




2023年07月02日

自分にしか分からない世界でも知ってもらえることが私にとって嬉しいことかもしれない。

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権力に縛られている。
支援者、それを取り巻く一般人。当事者の家族、そして当の本人である当事者自身までも権力に縛られている。

目に見えない分断。そんな事を思いました。
仲間意識がある反面、排除も曖昧な中で線引きされているようにも思えます。この線引きは他人がする場合もあれば自分でする場合もあり、良いも悪いも接点を持たずに生きている人が多いと思います。いろいろな集まりに顔を出すと多くはその集まりの中で話題は完結して他の話題についてはまるで存在しないかのような感じを受けます。良かれと思って相手に伝えようとしても善意の押し売りと捉える人もいます。

多様ではあるが、個々はかたい殻で外から中が見えない。だから相互に不信感が生じるのでしょう。

自身はそうならないようにしたいと思っています。
誰からも相手にされないとそれは逆に自分固有の行為なのです。自分にしか分からない世界。それをあえて公開することはそれでも誰かとつながりたいからだと最近思うようになりました。好きか嫌いか関心があるか無いかと言うよりも知ってもらいたい気持ちはあります。観てそこで何かを感じる心の化学反応。観た瞬間は何も感じないかもしれない。しかし、観た画像の記憶はあなたの片隅に残れば私のミッションは成功した事になります。何かのキッカケで思い出していただければそれが私の心の報酬になるでしょう。私もその様にして他の人から知らず知らず影響を受け生きてきたのだと思います。その循環の一部になれたらと思います。

居心地の良い社会を願います。




2023年06月02日

結局のところ、あなたの絵は何というか、あれだ、 ほら、ええっと、塗り絵だ、そうそう塗絵。 ぐちゃぐちゃと落書きしたところに色鉛筆で擦り付けただけでしょ。 そんなものは絵でも何でも無いよ。単なる落書きですよ。

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私は、誰かを気にしているのだろうか?
誰だろう。
何か明確な対象がいるわけでも無いだろうし。
多分、居ない。そんなもん。

承認欲求は大なり小なり個々に存在するはずで、そんなモノ無いと言い張る人ほどその欲求は強いと思います。せっかくこの世に生まれた以上、せめて何か自分がここにいた証が欲しいと思うでしょう。
しかし、それが全てでない、と思いました。最後は何も残さず消え去るのです。

私にとっての絵や写真は自分自身を見つめ直す素材の一つですね。
自身もいろいろ考えをブログにまとめたりする事で記憶の整理をしているんだと思うのです。なので、この行為に他人があれこれ言ったとしても何も気になりません。

この行為は私の一部なのです。

ところで
あなたは、何の為に描いているのですか?
別に知りたいわけではありませんが、自身で一度考えて下さい。

その時その時、自分が想い考えていることを残しておくことは自分にとって大切なことです。自分が変わったと思えるのは過去の自分を見返す時ですが、何も無いとそれが具体的に見えないですよね。ブログはそんな時、見つめ直すきっかけを与えてくれます。

他の人の作品が気になる事はあります。しかし、よくよく考えてみると、気になるモノは結局自分のに似ているから気になっているんだという事なんですね。だから、私の作品が気になる人は何処かで私と似たところがあるんでしょうね。考え方とか、世界の見方とか。

たまに、全く違うものに出会うことがあります。違和感が有る反面、新鮮に感じ事もあります。そこで発見があります。生きるって、正にこの連続なんですね。似ているものに共感して異なるものに新たな発見を見る。

塗り絵と思われようが自分にとっては自己探求の一つです。淡々と続けていきます。

言っておきますが、これは塗り絵ではありません。

私の一部であり、私の作品です。




2023年05月02日

結局、自身で自身を掘り下げていくしかないようです

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好きだから学ぶのか、学んだから好きになったのか。その違いは何だと思いますか。最初の段階で興味の有無が関係してますが。前者は、見様見真似で始めています。私の場合、何かを作ったり描いたりするのが楽しいことでしかもそれは1人でも出来る事なのでしたのだと思います。テレビでアーティストの作品を観たり身近にいる大人たちが褒めてくれたりすると嬉しくて学びたい衝動はそこから生じたのだと思いました。小学校では美術の授業では無く図画工作という名の授業でした。中学校では美術の授業はありましたが高校はありませんでした。その後10数年経って大学で少し学びました。考え方や技術的なことは教えて頂きました。そこで学んだ成果は結局のところ自分で何をしたいかを絞り込む事にあったと最近感じるようになりました。ブレずにすすんで行くこと。それを意識できる場であったと今は感じています。巷では様々な技能を持つ方が多様な活動をしています。目移りしそうです。しかし、アートが自分にとって何なのか何をしていくのか自身で受け入れていれば迷うことはありません。今は淡々とその行為をしているだけです。

自分で想いを巡らし自作について考えている時、それは自己との対話でもあります。それと同時にこうしてブログに書き込んでいく事も自己との対話であると思っています。
今の作風にこだわっている理由を思い返してみますが今となっては定かで無いこととなってしまいました。描いている行為、それを眺めている行為そのものに心地良さを感じていることもたしかです。無意識で曲線を描く行為は何かの啓示を受けているような感覚になりそれも心地良さになっているのでしょうね。

抽象を語る場合、点と線といった要素の話題は必ず登場します。始点、点、その点の連続である線、そして面。それぞれの項目に関しては、実は作家個々で考え方、捉え方は、異なります。最初はそれが分からず、必死で書籍を読みましたが、無理に自己視点を合わせようと試みましたがやめました。

先人のモノを参考にしようとも思いましたがやめました。考えや作風が似ていてもそれは決して同じモノでは無く結果的に何も参考にはならないと感じたからです。確かに読んだり作品を観たりする事で気付きはあります。でも、その程度です。結局、自身で自身を掘り下げていくしかないようです。

一本の線が多様な曲線を描き接点をつくります。最終的にそれを見て「何を想い感じるか」そこに大切な目的が含まれています。その目的の一つが「癒し」です。

癒しを求める要因は多様です。ですが、作品を観たからといって何か問題が解決できるわけではありません。ただ、そこで観ている間は、感覚や思考はそちらにシフトするので、そこで気持ちの整理ができるってこともあります。できない場合ももちろんあります。そこで何も感じ無い事もあるでしょう。その時に感じていなくても改めて観た時に何か感じることもあったりします。その時の心の状態でみえ方が違います。





2023年04月30日

書く事、描く事、自分の気持ちの整理でもあるし、自己対話でもあり、じっくりと考える一時でもあります。

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じっくりと私の作品を考えていきたいとおもいます。

私の作品制作の目的は、それこそ前々からこのブログでも語っている事ですが自己の癒しなのです。
ですから、他人にどのように見られているか、そんな事は微塵も考慮してません。

かつてはとても意識していた時期がありました。先人の作家の著作や評論家の文章を読みあさりました。どの様に彼らは社会に受け入れられたのか、評論家はどの様に彼らを受け入れたのか、自分もその波に乗りたいと真剣に考えた事もありました。しかし、目的がそちらに向くとたとえ世に知られたとしても逆に自分を見失っていく恐怖もありました。

前世の自分は多分それで失敗をして死んでいったのだと最近確信めいた感じがしてなりません。だから、今世は無名のまま愛する人と平穏な人生をおくる選択をしたんだとおもうようになりました。そして、今の創作は前世でやり残した本当の意味での自己探究なのだと思っています。感覚の赴くままに描いています。不思議な感じがして面白いです。ここでこうして書いているブログ、添付している作品画像は制作記録を整理する意味合いが大きです。思考過程を自分なりに整理して再度読み返して自己の作品解釈に想いを馳せたいからです。

しかし、この行為は、ブログに記載する事で不特定多数に読まれるわけで、それはある意味で誰かにも読んでもらいたいと思われても否定出来ない行為でもあるわけです。そしてそれはつまり承認欲求とかにも思われている事でしょう。しかし、自身では意識して居なくても無意識下で確かに承認欲求はあったかもしれません。きっと多分あったのでしょう。誰かに「いいですね」と言って欲しいと内心思っている自分がいることも確かです。その気持ちは何処から来るのでしょう。

自分の行為が誰かと共有できることは、それは安心感に繋がるのでしょうか。自分の作品が理解できなくても、行為の純粋さに共感する人はいると思います。その為の解釈文はそれなりに意味のある事だと思ったりします。と、言ってもそれは勝手な思い込みに過ぎず、記事など誰も関心無いでしょう。それも自覚しています。こうした矛盾は常に自身の内で駆け巡ります。

創作は自分の中のあるものを抽出する事でできるもので、ある意味で自身でもあるわけです。だから、認めて欲しい評価して欲しいと願うのは当然といえば当然のことです。スゴいねとか、大変だったねとか、何らかの自分を構って欲しい欲求はそこには存在します。だから、作品というのは厄介です。出してしまったらしまったで、どうしたものかと途方にくれる場合も多々あります。真剣に思えば思うほどそうなります。

このブログを読んでいるという事は少なからず私の作品や文章が気になっているからでしょうか。それは嬉しいことです。そうであればなおのことアートに対する想いや考え方に再度目を向ける必要があると思います。

私は全ての人が創作する力が存在しているとおもっています。多くの人がそれに気が付いていません。その力は社会を良くする力になるのです。こんな簡単で大切な事であっても一部の特権階級が境界線を引き分断させて気付かなくさせてしまっています。

小さな抵抗ですが、このブログを書いている理由でもあります。
作品を通して「感じる」事を体感して欲しいと思いました。





2022年12月25日

なぜ、あなたは描くのか? 生活のためとか、褒めてもらいたいからとか、そんな陳腐な事を聞いているんじゃ無く、もっと本質的な事



「絵も人間と同じ。肩書きで判断してはいけない」
                  赤瀬川原平

確かに、ハッと驚く様な作品に出くわす時があります。
それは、おそらく、人としての生理的反応の様に感じます。
綺麗な夕焼け、気持ちの良い朝日、可愛い猫、など、
およそ人間の歴史としてDNAに刻み込まれた情報の様に
普通に感じる感情や感動などの心理的な効果を狙った作品は
あります。その共通項の多さが一般的評価につながり
そして、一般的価値判断となり、つぎの評価へとつながるのです。
そこに利得を目当てに色々な人が集まり権威を持たせて
それぞれ肩書きを付けて差別化をする。アート業界の
「界」など。

昨日から某大手百貨店で開催された芸人画家の展示会を観に行きました。
いとこからチケットをもらったので行ったわけです。
画家である彼の姿勢は、嫌いではないです。
ただ、彼を利用して金儲けしている周りの人達が気持ち悪く見えました。
百貨店で開催すること自体がそれを感じさせます。
彼に罪はありません。彼にしたって生活がありますから、
それは仕方がないことです。業界そのものがそうであるので
何も言えません。良いも悪いも上手に取り込んで美化させてます。

アートに癒やし治す力が有るのなら、何れ浄化されると思いますが。

対極にいる作家は、自らの救いを求めて今日も手を動かしている事でしょう。
私もその1人です。


2022年11月14日

見慣れた景色がなんか不思議に見えて来るのです。ジッと見る非日常的行為。無防備に飛び込んで来る風景は私の心の深いところに触れ、ハッとします。そしてウン?何だろこの感じは?そんなことをしながら散歩をしています。何気なく普通に生きている中でスーッと気持ちが落ち着く時があります。心を癒すのはふとした事のちょっとした瞬間にあります。

ご覧いただきましてありがとうございます。しかし、これは自分自身の為に書いている記録です。

何らかのキッカケでここに辿り着いた事でしょう。
ひょっとして何か調べ物でたどり着いたのでしょうか?それとも純粋に私の作品に興味があって立ち寄ったのでしょうか。後者であれば嬉しいですね。
調べ物でたどり着いた方には申し訳ありませんが、あまり役には立たないでしょう。ここは私自身の為に開いたサイトです。今現在想い考え悩み等を書き残して自分自身記憶の整理の為に書き残しているサイトなのです。そんな私の思考行為を足跡に興味がございましたらお気軽読み進んで下さい。もしかしたら、何かに共感するかも知れませんね。

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自分にとっての創作活動って何だろう、と考えることがあります。結局、
私にとって、芸術🟰癒し行為、なのです。これが私の芸術の定義ですね。

自分の思考も何らかの形で残しておかないと自身ですら忘れてしまいます。こうして書き留めておくと振り返って読み返すと思考の経過が確認できます。とても便利です。

「日常の場面でも、ちょっと立ち止まって一歩引いて見ると、ちょっとした違和感を感じませんか?それは、貴方が今までそんな様な事をした事がなかったからです。貴方はきっとそう感じるはずです。その違和感はどこから来るのか。しかし、全ての場面でそれが起こるわけではありません。」
前回は、ここまで話して終わってました。今回は、この続きです。

前回で載せた写真は、昨年の作品からの掲載です。写真はいつも歩く散歩コースで撮影しました。何処かは言いません。特にそれは重要では無いからです。この場面は、おそらくほとんどの人が知らずに通り過ぎてしまうところです。私は歩く時よくみます。構図や光の当たり具合とか個人的に気になるものがあると見てしまいます。じっと見る行為は風景との対話のようです。風を肌で感じ、風の音を聴き、日の光、空の色、地面の感触を感じます。立ち止まってジッと見ます。また歩き立ち止まってジッと見るのです。ところどころでその繰り返しをしています。見慣れた景色がなんか不思議に見えて来るのです。ジッと見る非日常的行為。無防備に飛び込んで来る風景は私の心の深いところに触れ、ハッとします。そしてウン?何だろこの感じは?そんなことをしながら散歩をしています。何気なく普通に生きている中でスーッと気持ちが落ち着く時があります。心を癒すのはふとした事のちょっとした瞬間にあります。ホッとした瞬間と言ったらよいでしょうか。

写真を撮る、パソコン内で写真を整理する、その中から何枚かを選び写真集を作成する。この一連の行為が私の癒しの行為となります。
「あっそうですか」つぶやきが聞こえてきます。何も特別な事などしていません。淡々と作業している様にも見えるでしょう。何も特別な道具は有りませんし、使ってもいません。気軽にできる事を楽しんでいるただそれだけです。

さて、

皆さんは、何を考え写真を撮るのでしょうか。頭でめまぐるしく情報処理をするでしょ。でも、そこからポッと光るものが浮かび上がる感覚を味わったことは有りますか。

初めてカメラを手にして撮影する多くの場合、数年位、闇雲に我武者羅に写真を撮ってそれこそ発表できるところはどこでも出す様な活動をしている間、貪る様に専門書や評論、エッセイ等思考の参考になるものを片っ端から読み漁る時期を通り過ぎますが、通常これが始めてから10年くらいの間にする活動でしょうか。私も通過しました。それはそれなりに楽しかったし出会いもありました。しかし、それを過ぎるとそれぞれの道を歩み始めます。多くは王道ですね。安全パイです。賞を取れば活躍はできるでしょうが、多くの場合は埋没します。しかし私は脇道に外れました。道路脇の道は凸凹ですが、面白くもあり、いろいろな発見もあります。

ここまで読み進んでいる方はおそらくわかっている事と思います。

日常の場面が、日常の風景に、私の言葉で言うと、気になる風景、になる瞬間って一体自分自身の中で何が起こっているのか考えたことはありますか。まず、そうなる自分に気持ちがなるには、メンタルの変化が大きいです。心の余裕が無ければ思考が働きません。たとえ忙しくても夕日の光は全ての人に当たります。つまり、見て感動するチャンスは平等に与えられているのです。しかし、忙しさのあまり気持ちが動かないのです。しかし、どんなに忙しくても、見た瞬間にスーッと心に入りサーっと浄化する感覚を味わうと気持ちがホッとして疲れた自分を癒してくれます。癒しの作用が無いと場面としての構図が気になる風景として浮かび上がってこないはずです。

今日も生きています。
私のやり方で。




2022年11月06日

私は評価対象境界外の写真家として自分を位置付けています。だから誰からも評価されないし、そもそも彼らも私をどう評価したらいいか分からないわけです。

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『写真集: むこうのたいよう』の中の一枚

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今日も生きています。

この言い方は、ネガティブに捉える人とそうでない人と分かれますが、私はいたって肯定的に発言してます。
この世にいる限り、生きていることがまず前提としてあります。
健康というか元気と言うか、生きていく覚悟というのは大袈裟かもしれませんが、生きていこうとする気持ちにさせるのは身体が正常に機能していて感じる気持ちだから、そう言った状態を健康というなら、健康は大切です。
健康だから何だと言う人は、まだ、その人が健康だから言えている事だと思います。死にそうだから死にたいは、楽になりたいからでしょ。辛い時、分かります。そこから逃れたいですから。でも、逃げるよりも乗り越えたいと思う時があります。人生でそう言った事が見つかる事もまた幸運だと思います。逃げるにも体力が要ります。心が弱って元気が出ない時はあります。しかし、逃げるには体力が要ります。だから、気持ちが凹んだ時も、パートナーと一緒に散歩します。身体を動かせる事、その事に感謝します。歩くと気分が変わります。だから、今日も生きていけるのです。

評価対象境界内で同じ様にそこでのルールに則って活動しない限り、そもそも評価の対象にもならない。日本での写真家の業界内の文脈に沿って自身を位置付けないと評価の対象にもならない。皆、この流れに乗る為に大枚をはたいて、或いは媚を売って、地道な営業活動の末勝ち取った立ち位置を死守しようと懸命に活躍し続けている事でしょう。馴染まない多くは脱落します。

 私は評価対象境界外の写真家として自分を位置付けています。だから誰からも評価されないし、そもそも彼らも私をどう評価したらいいか分からないわけです。下手な評価をして後でそれがアダになりかねないからです。どんな作品も誰かの心に響くものです。私はそれだけで充分なのです。既にその評価は受けています。それだけで充分に写真家を名乗って良いと自負してます。自分で言うのもなんですが、「孤高の写真家」と思ってます。

さて、写真についてです。つまり、私の写真についてです。
接点写真をyahooで検索してもヒットしないって事は、これはある意味私の単語なんでしょうね。
ある意味嬉しいです。「接点写真コピーライトマーク️」ですね。
一眼レフを手にしたのは高校生の時でした。でも、それはただ闇雲に撮っていただけであまりそれは経歴としてでは無いですね。実際には25歳位でしょうか。働いて少しお金があってので、現像引伸機材を一式揃えて、市販の現像の仕方の書籍を見ながら独学で始めました。そこが出発点ですね。専門の学校にも行ってないし、写真クラブなどで先人から仕方を伝授してもらった訳でもなく、見よう見まねの独学です。だから、コネも人脈も無い、一匹狼の自称写真家ですね。今は、デジカメに移行してしまいましたが、写真は30年以上続けている訳です。最近の私の作品を見てもわかる様に一貫して作風は変わっていません。つまり考え方、捉え方、感じ方、想い、全てにブレずに来たわけです。99.9%評価無しの孤高の写真家ですね。正に自分自身のために撮っている。なぜか、それは、上記の生きている、と言うことに関係してます。生きていこうとする気持ちには何かが、少なくとも私には、何かが必要なのです。それがこの写真行為です。この世界と私をつなぐ接点。私を癒すもの。原点は今も変わらずここにあります。

私の写真行為は、もちろん今職業として活躍されているカメラマンや写真家とは違います。プロの多くは、まず大学や専門学校で写真技術の指導を受け指導教官の勧めでコンテストに応募して運が良いと賞をもらったりします。あるいは卒業後弟子を取る様な写真家を紹介してもらい修行しながら写真家の道を歩んでいくでしょう。でも彼らは先生が目をかけた極一部の人達です。多くは先生の視野に入らずあまり望まない現場におくられるか、学んだ事とは全く別の仕事に就くことになります。しかし、彼ら中でも夢を諦めない人達はコンテストに応募し続けるか、学生時代に培った人脈を頼りにグループ展をしたり個展を開くなりして何処かでチャンスを狙っています。
 そうかといって、私はアマチュアのカメラマンや写真家ともちょっと違います。つまり、アマチュアの趣味的要素は微塵も無いわけです。何かの協会やサークルやクラブ等に属しているわけでもありません。
 純粋に自分のやりかたで来たわけです。唯一こうしてブログに載せているだけです。
だから、ここにたどり着いた読者の貴方は奇特な方ですね。



日常の場面でも、ちょっと立ち止まって一歩引いて見ると、ちょっとした違和感を感じませんか?それは、貴方が今までそんな様な事をした事がなかったからです。貴方はきっとそう感じるはずです。その違和感はどこから来るのか。しかし、全ての場面でそれが起こるわけではありません。

次回は、その辺のところを話してみます。

今日も生きています。
私のやり方で。




2022年10月23日

私の「接点写真」 入門

今日も生きています。

今回より、ようやく私の接点写真入門をはじめます。
自称「接点写真家」です。

さて、私の言う「接点写真」ってそもそも何でしょうか?
そこのところを話してみたいと思います。
しかし、あくまで自分向けに書いていますのでご承知おきください。
私の写真に興味がある、良いなと感じる方には良い機会かと思います。

道を歩いている時、ある物体を見ます。
これは、意識的に見ているのか無意識のうちに目に入っていくのか分からないです。分けられないですね。見ながら歩かないと危ないからです。だから、通常は、撮るために見ている訳ではなく、安全に歩く目的で見ているのです。
しかし、そうして見ている中に、ふと何かに反応するのです。
過去の記憶であったり、不思議な雰囲気だったり、多分、その反応は私固有のものだと思っています。
多分、そこが他の人との作風の根本的な違いだからです。
とにかく、そこで物体を見ます。
その時、私の記憶のイメージ、表象っていってもいいですが、そこと反応する時私はデジカメのシャッターを押します。これが私の「一連の行為」です。
後日、取り込んだ写真を改めて見ます。取り込んだ多くの写真の中の何枚かに一連の行為の記憶が接します。取り込んだ全ての写真が接するわけではありません。行為の記憶と実際に撮れた写真にズレがあると両者は接することが無いからです。取り込んだ「写真」と一連の行為の記憶とが接するところ、そこが接点です。接点写真は、こんな感じです。
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何か難しく説明しましたが、おおよそ人は無意識のうちにこんな感じで撮っていると思います。
ポイントは、何に反応して撮るか?ということです。



この入門は、私だけの入門でして、皆様向けに出来ていません。
ですから読者の配慮無くいっさい独自の考え方や見方で写真と言うものを語っています。研究者や職人さんの学説、流派、伝統等全く考慮しておりません。常識と言われている写真の撮り方、評価基準は考慮しておりません。
しかし、私も誰かの影響を受けていることは間違いありません。ですから、みているひとの誰かには、共感していただける事と思います。
これが私の写真です。これを貫き通します。
そうする事で私は私の存在を実感できるのです。

今日も生きています。


2022年10月15日

結局のところ、私は、評論家でも無い、研究者でも無い、プロデューサーでも無い、キュレーターでも無い。私は、アーティストなんだな、と思ったんです。

私の抽象芸術 入門 へようこそ。
これは、私だけに向けられた、私の為の入門です。
残念ながら、他の人向けではございませんので悪しからずです。

今更ながら、私は、アーティスト、つまりは、芸術家なんだなと
自覚したわけです。

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【私のFacebook の投稿から】

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まぁ、いろんなことに想いを馳せたり
いろいろ想像したり
時には何かを思い出したり
あることを考えたり
場合によっては考えが飛躍したり
何かを発見したり、してみて下さい。
素通りしても構いませんが、
思考停止にはくれぐれもご注意を。

私の作品は、まさに
観る人に「見えてはいるが見えていない」何かを
共有していただくことで
その人の可能性を引き出す効果を狙っています。

しかし、この試みもするかしないかは
あなた次第で、
まぁ、興味もなければそもそもこの記事自体読んでいないわけで。。。

私はむしろ自分の作品に救われていることが多いです。

「本質的には芸術の目的は癒しなおすこと」
           グレン・グールド


【写真の解答】
ティッシュペーパーを丸めてゴミ箱に捨てた後、何を思ったか、ふと拾い上げて見た時に、「おっ」と思ってテーブルに乗せて写真を撮ったものです。

さて、上記の解答を見た上で、再度、この写真を鑑賞して下さい。
あなたには、何が見えますか? 何を感じますか? どんな感情がわきおこりますか。
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有名、無名、金の有無には関係無く、
本質です。アートの。
金のためでも無く、ただ、好きで面白いからしている。
絵画にしても写真にしても。
これだけ続いているのは、やっぱり好きなんですね。
仕事では無く、有償無償に関わらず、好きなんですね。
こうして考えたりつくったりすることが。

別に、共感や評価など関係無く、ただ、したいからしている。
それだけです。

自己満足でしょう、そう言う人もいるでしょう。
どうぞ、言いたいだけ言えばいい。
(そう言うヤツに限って、何もして無いし、出来んヤツだから)

私にとって、作品をつくることが生きていける支えになっているのです。
まさに、癒し治すこと。




誰もみていないから、思うままに書いているが、別に、みせつけるわけでもないが、ブログで書く以上実質的に見せつけていることになってしまっているわけだが、溜まっているモヤモヤを吐き出しているわけだから読んでいる人にはよく分からない内容になっているかもしれないけど、自分の気持ちを落ち着かせる為に書いているから別段気にもしていない。

「私の抽象芸術 入門」は、私による 私の為の入門です。
ただ、気になる人だけ読んでいることと思います。

絵って、どんな時に描くんでしょうか。ふと思いました。
忙しい時ほど、時間をあえて絞り出して深夜悶々と描くわけです。
ストレスを極度に感じている時、特に描きたいという衝動が起きます。

何だろう?

しかし、別にそんな状態でもない時でも、ふっと描きたいと思う時があるのです。
何かが頭の中にフッと降りてくるそんな感じを受ける時もあるのです。
しかし、描いたからといってどうする事もなく、本当に溜まっているものを吐き出す感じです。
かと言って、不要なものを出しているわけでもなく、
描いたものは、私は作品と呼びたいですね。
私独りだけが私の作品を擁護しているのです。
唯一私だけに守られている貴重な作品なのです。
だから愛おしさはあるのです。
誰からも評価もされない、だから何の肩書きも無い無名の存在に、私は心惹かれるわけです。

そんな私が、誰かに何かを言ったところで相手は当然ながら聞くわけも無いのです。
だから、既にここまで読んでいる貴方はスゴイと感心してしまいます。それだけでも感謝です。

私の周りには、一期一会に溢れています。
なぜなら、同じに見えても瞬間瞬間異なるわけですから一つとして同じモノは無いはずだからです。
今日見ているモノが明日もあるとは限りません。
人の関係もそうです。
「また明日ね」と言った人と二度と会うことがなくなる、って事もあります。
同じ場所で見た風景も明日同じに見えるけどやはり違うのです。
朽ちていき、やがて無くなるのです。

さて、前置きが長くなりました。
芸術の本当のところを自分自身、どう感じているのでしょうか。
これに踏み込む前に、一つお話しをしたいです。
皆さんはお肉好きですか?焼肉とか唐揚げとか。私も好きでした。今は出来るだけ肉は食べない様にしています。理由はここでは差し控えますが、ここ数年で明らかに減少しています。
そもそも、私達は、本当に肉が好きなんでしょうか?高い肉って言ってますが、その違いが本当に分かっているのでしょうか?私は、分かっていないと思います。私は、肉そのものが好きと言うのでは無く、それを味付けした物体に美味を感じているに過ぎないと分かったのです。同じ様な肉の感触であればそれがコンニャクであっても良いわけです。焼肉の様なタレでそれが再現出来れば肉の代用として十分では無いでしょうか。唐揚げもしかり。肉の代用品が有れば食材を替えるだけで食生活は変えないで生活習慣病を改善出来るかもしれません。しかし、そこに気が付いてくれる人は少ないなぁ。

芸術も、今の芸術は上例の様に焼肉と言う一つの形が出来上がってその中身が誰であっても構わない、そんな匿名性なものに成り下がってしまったように見えます。

まずは問題提起です。
学校で知識としての芸術は、私は、学んだ方が良いと思います。
まとまった体系的な情報は必要です。
それは、外の世界と内の世界を知る為です。

その先の事を、今、ここで見ています。

まずは、私の作品を見て下さい。
(未完なので作品の一部のみお見せします)
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「見て、何を感じるのか」

全ては、ここからスタートします。




☆ 最後まで読んで頂きましてありがとうございます。




2022年09月09日

承認欲求を越えたところにあるもの

なかなか更新ができていません。記事を楽しみにされている方には申し訳ないです。

しかし、多くの読者は一期一会的な存在であることも承知しています。
それに、私の書く記事は、最近はほとんど自己満足的な捉え方をしています。
(そもそも自己満足で始めているのですが(笑))

作品が分かりやすく強く影響するものは、何かを知って、そこから何らかの活動を促す起爆剤的な存在でもあります。多くの場合、刺激を受け何らかの活動をしています。
私の作品はどうなんでしょう?観て欲しいと言う承認欲求が強かったところもありますが、今は、承認欲求を超えたところに意識があるようです。自分のツボにハマった事だけを表現の対象としている、そんな感じがしています。これが無いと多分自分を見失ってしまう、そんな想いでつくっていると思いますね。他人はただ観て通り過ぎる、何も反応無し、ある意味 関心無し、コメント無し、この状態は、正に「自分だけの世界」だと思います。他の人が入ることが出来ない領域、それを貴方が観ても何も反応出来ない世界、おそらく共感も出来ないでしょう。「日常のふとした瞬間、何気ない場面が何故か気になってしまう、私の周りの世界は私にとって面白い風景に囲まれている」凝視する瞬間にそれが見えて来ます。

写真を自分の活動として意識してから30年以上経ちます。
直接のアクションを起こすか起こさないかは別として、以前は誰かの承認を得たいと無意識的にでも感じていたんだろうと最近ふと思うのです。フランクの写真は多くの若い写真家を惹きつけました。私も同様です。マニアックな写真家の名前を口にして、さも写真に詳しい事を見せつけてイキがっていた頃もありました。自分は評論家でも研究者でも無い、だから知識で頭デッカチになってはいけないと感じ、感覚を研ぎ澄ます事に力を注ぎました。「普通に見過ごされそうな、極々普通のありきたりな風景ではあるが、しかし、じっと見つめると何かそこに不思議な構図が見えて来る」私の頭の中の何処かの回路が異常な動作をして私にこの意味不明な行動をさせるのか、それは知りません。

私が写真を始めた頃はフィルム写真が主でデジタルの存在すら感じられない時代でした。
その時の写真は一期一会、現像するまで分かりません。削除もできず無駄に残っているカットも多く、その無駄から良いものを選ぶ感覚でした。今とはおよそ感覚的に想像付かない選択でしょう。フィルム写真は確かにデジタルでは出せない何か趣きがあり私好きですが、今となってはデジタルの方がむしろ自分にあっているのかと感じています。まず、フィルムや現像にお金が掛からない、無駄なカットでフィルムを無駄にする事も無い、その分、資源を無駄に使わず現像などの薬品を使わないので環境にも優しい。それも私がデジタルを選ぶ大きな理由の一つです。また、撮影した写真をその場で確認できる事もデジタルの大きな利点です。見た風景と撮った風景は違います。思わぬ効果が出て驚く事も多々あります。デジタルの一期一会の瞬間です。

フィルムが当たり前の時代からデジタルが当たり前の時代の両方を経験出来たことは幸運でもあったな。この変化は、コロナによって社会のシステムが大きく変わったことの様に大きな変革であったと私は思います。今の20代だとフィルムは全く新鮮なツールに見えるでしょう。あえて面倒くさくてお金のかかる方法で写真を楽しむ逆行した行動は、今の私には合わないなぁ。それこそ金持ちの道楽で、本来的ではないと思います。まあ、これも好き好きですがね。

写真を鑑賞する時、何を読み取るのでしょうか。
写っている対象物は個々に具体的なモノです。それが何かと論じたりするのでは無く、構図や、雰囲気、醸し出される味の様な視覚感覚で感じ取られる不思議な力を感じて欲しいです。読み取ると言うより感じ取るのです。私が先生なら、まず、グダグダ考えるのでは無くとにかく撮る事をすすめるかな。感覚が麻痺するほど撮り続ける、日々意識することで何が撮りたいのか感覚が教えてくれる、写真を撮る事で自分が何と向き合っているのかわかって来ます。まぁ、私は先生では無いのでほどほどに聞いておいてください。

何らかの評価があって、需要があり、商品として価値を見出すことのみに視点を置くと、現代としてのアートがみえてきます。一つの市場に乗る事で社会的なブランドにもなりえます。いつの間にか周りの評価によってそのアートが定義され人格の形成まで世間によって作られてしまいます。評価のために作り続ける自分に気が付かないまま、社会から造り上げられてしまった自分に押し潰されながら「自分もどき」を演じてそして本当に自分がしたかったことがこれで良かったのかも解らぬまま社会に求められるまま結局歯車として社会に組み込まれます。本人はおそらく知らないまま死んでいくんでしょうね。社会の大きな力は、適材適所で彼らを使っています。私は無意識にそれを拒絶している。

写真集「きづかないふうけい」は、
誰一人、気にもしない風景に一人寄り添ったそんな作品に仕上がっています。
誰も気付かない風景に誰が評価するんだ、とあきれますが、私が気になっているから仕方の無いことです。これは私が切り取った「私だけの風景」なのです。このブログで少しだけ鑑賞頂けます。
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整理してその時の想いを綴っておくことは私にとって必要なことなのです。
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こうした一連の行為の過程を貴方が見ているわけです。貴方はラッキーですよ。ここまで読んで頂けたのは嬉しいです。それだけでもこの文章を書いた意味がありました。自己満足だと言っても、同じ様にわきおこる何かを何らかの形にできないものかモンモンとしている人がこの記事を読んでいるかもしれません。

評価があり価値があるのは、共通するある一定の基準が基になっています。ある一定数の同意がある事です。業界共通のコードなどがあり評価の一定基準を満たす事を求められます。それを植え付けられたり習得する事で市場にのるわけです。自分の味方になってくれる評論家がいると幸運ですね。評論家によって分かりやすいコードに置き換わることでより良く作者を理解してくれる訳です。多くの人からの支持で成長する作家もいます。

お金を払うにはそれなりの期待があるわけでそれを満たす何かがあるわけです。共通コードの価値を買うわけです。

私は絵も描いています。主に抽象画を描いています。
趣味なのか、と言えば、それで終わってしまいます。自己満足って言われれば、そう言うふうに思われても仕方ないなとは思います。しかし、自己満足というよりそうせざるを得ない欲求みたいなものが何処かにあるから、心の想いのはけ口でもあるのです。ただ、思うまま描いているので理屈で鑑賞するのでは無くそれを観て何かを感じて欲しいと言う表現の方が合っている。具体的なものはありません。感覚的に感じて欲しいと思います。

写真は具体的な現実の切り抜きですが、そこを通り越して抽象的に捉えてみます。
多分、ここのところがよく理解されていないため私の作品は、展覧会やコンテストを主催したりそこに応募しようとする写真マニアには受け入れられないと思っています。彼らのテーマ性や視点が明らかに異なるため、そもそも私の作品には見向きもしないからだと私は捉えています。だから、クラブや集まりに行っても浮いてしまいます。いたたまれなくて結局やめてしまう。草木や動物、絶景、家族風景、美女ヌード、物撮り、などなど。見た目は華やかであるし注目するし、共感もされやすい。誰もが写真というといわゆる「ばえる」写真に目がいってしまうのは一般的であるしおおよその写真を撮る目的や撮りたい写真とはこう言った対象であることは皆の共通認識にもなってしまっているわけで、そこからあえて外れてまで写真を撮ろうとも思わないし撮る意味を見出してもみない。その中での私の作品はおそらくかなり異質に見えるかもしれない。写真家の中には「ああ、そういう写真を撮る人もいますね。よくわからんけど」と発言する方もいます。そうです。私のようなタイプの写真を撮る写真家はいます。私はその彼らの影響を受けたことはおそらく間違いないと思います。しかし、これらの写真家はメジャー路線には上がってこないマイナーな部類です。淡々と自分の視点の赴くまま行動しているはずです。一般受けする写真では無いのでほぼほぼ注目される事もありません。逆にそれこそ「自分だけの風景」に没頭出来るとも言えます。写真とは、私にとっての写真とは本来そうあるべきだと思っています。
 しかし、だからと言って一般受けする写真を拒絶しているわけではありません。綺麗な風景、可愛い猫ちゃんの写真も私は大好きです。写真はいろいろあっていいと思います。その中の一つとして私の写真もあるわけです。ただ、ばえる写真の中では埋没してしまう写真であることは確かです。だからこそ、あえて個別で語りかける必要があるのです。クラスでも声の大きい人とか人気者は目立つが大人しめの地味な人は注目もされないでしょう。ただ、一人ひとり話すと興味深いことは見えると思いますよね。それと同じです。

断片的に、想うままに書いてみました。
ここまで読んで頂き、本当にありがとうございます。それだけでも感謝です。
興味を持って頂けましたら、他の記事も併せて読んで頂けると嬉しいです。




2021年10月19日

【私の抽象芸術入門】は、前から言っていますが、私のための抽象芸術入門なので、あなたのためにしているわけではありません。生きていくために必要な事を自分でしているだけです。この記事を書くのもその一つです。

写真と絵画(特に抽象画)、特に写真は、
私のライフワークになりました。

別に、プロではありません。
(拒否しているわけではありません。
依頼があれば、お引き受け致します)

どこかの協会や活動団体に属していません。
誰かの弟子でもありません。

全く、孤立無縁の活動です。

展覧会は、していません。唯一、作品を見せているのは
ここだけです。無断で私の作品画像を使っている人が
いるかもしれません。多分、いるでしょう。
個人で楽しむ分には、特に、何も言いませんが、
営利目的で使用の場合は、法的な対応をさせて頂きます。

展覧会は、あえて開かないのではなく、
費用面で開けないだけで、みんなに観てもらいたい気持ちは
あります。
適当な場所をご存知の方は、お知らせください。

さて、
質問です。
皆さんは、何で、写真を撮るのですか?


幾つかの回答がありますね。
しかし、本当の意味で
何で撮るの? と、問われたら
そのl回答から幾つか本当の回答が抽出されます。

結局、自分の為、なんですね。
他は、全部言い訳ですね。

承認欲求であったり、自己満足であったり
存在証明であったり、
解釈は何だっていいんです。
プロでも無名でも
やっていることは大して変わらない。

その写真、作品を、残すか残さないかは、
残された人達が決めます。私ではありません。

虚しさもあるのに
何で、撮るの?

それは、自分の中で
揺れ動く、不安定な気持ちを
何とか、落ち着かせるために
自分自身が自己防衛として
動いている活動なのでしょう。

こうして書くのも
書く事で
気持ちを整理しているのだと
思います。

全て、自分のためです。

ただ、
私の作品を観て
何か、その人に
何かしたのなら

それは、それで
面白いと
思います。

そうした楽しみも
写真を撮る目的でもあるからです。

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