2016年09月21日
かなりアバウトなのに……江戸時代の「時報」は有料だったってほんと?
現代人の生活に欠かせない「時計」。電波時計のようにタダで正確な時刻を知ることができるようになりましたが、江戸時代の「時報」は有料だったのはご存じでしょうか?
ときの鐘(かね)で知られるように、当時は鐘の音で時刻を知らせる仕組みで、最初は江戸城でおこなっていましたがやがて民営化。「鐘つき人」という職業が生まれ、付近の住民から「受信料」を徴収する事業へと変わったのです。江戸時代の時刻は昼/夜を6分割した不定時法(ふていじほう)のため、季節によって長さが異なるアバウトさ……お金を払ってまで知る必要ある? なフシギな時代だったのです。
■「ときの鐘」は、おいしい商売?
現在は1日を24時間とし、日常的な最小単位が1秒なのはご存じでしょう。時計の精度も向上し誤差は多くても1日1秒程度、電波時計やNTPのおかげでだれもが無料で正確な時刻を知ることができます。ところが江戸時代の時計である「ときの鐘」は有料… その地域に住むひとは「時報」料金を支払っていたのです。
当時の「時報」は、最初は江戸城内でおこなわれていましたが、2代・徳川秀忠のときにいまの中央区日本橋に移転、辻源七という人物が引き継いだとされています。広い範囲に知らせるためには「大音量」で当たり前、あまりのやかましさに秀忠がブチきれて移転を命じたなんて、まことしやかな話も。いずれにせよ幕府の負担が減ったのはたしかです。
ところが、この移転はいわば「民営化」で、辻源七は給料をもらってわけではありません。そこで幕府は「鐘つき人」という職業を認め、付近に住むひとから「鐘つき料」をもらって生計を立てていたのです。
資料によってことなるものの、鐘つき料は家の大きさによって変わり、武家は別ワクの料金体系だったようで、一般的な家なら年間3〜4文ぐらいとされています。二束三文(にそくさんもん)=価値が低いの意味で使われるように、現代の価値なら100〜200円ぐらいでしょうか、1軒あたりの料金は決して高くありません。しかし、その地域のすべての家から徴収でき、しかも幕府公認なので、必ず受信料がもらえる「おいしい」商売。そんな背景もあって、やがては10の地域で鳴らされるようになったのです。
■昼と夜では「時間の長さ」が違う?
「時間の長さ」も、いまとはまったく異なるものでした。季節、昼夜によって変化する不定時法(ふていじほう)で管理されていたのです。
現在の1日は24時間、1時間は3,600秒、と決められていますが、江戸時代の時刻は、
・日の出と日没が基準
・昼/夜を、それぞれ6等分
の12分割し、およそ2時間を「一刻(とき)」と呼んでいました。これをさらに4分割して最小単位とし、深夜を意味する「草木も眠る丑(うし)三つ時」は、
・丑 … 深夜1〜3時の2時間
・三つ … その時間帯の3/4が経過した
なので、午前2時30分を意味します。午後1〜3時は「昼の八つ」と表現され、これが「おやつ」の語源になったと言われています。
また、一刻は昼/夜の6分の1と決められていたため、夏の昼は長く、冬は短くと、一刻って何時間かはっきりしないシステムでした。夏は働く時間が増えるだけでなく、睡眠時間も短くなるので、カラダをこわしそうですね……。いつも時間に追われているひとは、たまには江戸の「時間」で過ごし、季節感を味わってみるのも良いでしょう。
・江戸時代の時報「ときの鐘」は、その地域の住人から「受信料」をもらっていた
・当時の時刻は、昼/夜それぞれを6等分する「不定時法」
・夏の昼、冬の夜は「一刻」が長くなる、季節感あふれる生活だった