2013年10月30日 | Posted by shogoΩ at 17:08 | この記事のURL |
かはづ説
島木健作の 『赤蛙』
これは、なかなかどうして大したものだ。
簡単に言うと、荒れる川を泳いで渡ろうとするも何度も失敗する蛙を、おっさんが見てる話(笑)
そして、蛙は力尽きて死んでいく。
これだけの事である。
だが何がすごいって、俺よりも先にかはづの真価を見出した奴がいたという事だ(笑)
かはづには、俺も思うところがある。
存在そのものがシュールで、何気に生命の進化の過程を凝縮したような一生を辿る。
かはづには何かある。これは俺の持論である(笑)
一見するとなんてことはないのだが…
この小さい体にして何か、生きる意味のヒント、鍵を握っているのはコイツなんじゃないか。
人間ではなく、魚ではなく、犬ではなく、鳥でもない。かはづなのである。
これを見てほしい。
この有無を言わさない感じ。この感じこそ、如何にも「かはづ」なのである。
喰われる側も、喰う側もだ。かはづは侮れない。
実際古くから、かはづは和歌や短歌、小説の題材にされている。
カンのさえる奴は、きっと気づいていたはず。
かはづは、他の生き物とは何かが違うという事に(笑)
そして安定の合体である。(笑)
どうですか、何か感じるでしょう。かはづは、宇宙の真理に限りなく近いのだと思う。
下手すると、悟りをひらいた人間よりも答えに近い。
案外、身近にとんでもない見落としというものが存在する。
まさか。
まさか、コイツだとは。きっと何世紀かしたら、俺の「実は、かはづ説」も有名になるだろう(笑)
かはづを見かけたら、是非とも手に取ってほしい(笑)
嫌いな人も多いだろうけど。
彼と見つめ合ったら、きっとわかる。
先生、あるいは師匠と呼ぶのもいいかもしれない(笑)
かはづの全てがわかった時には、きっと俺たちの存在理由もわかるに違いない。