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2020年12月24日

檍原の古傳説地 その12

小戸~社
又宮崎市上野町なる小戸~社は、もと大淀河口下別府にありしが、寛文二年九月十九日の地震に海岸陥没し、社地亦其の難に罹りしかば、ここに移轉せるものにて、傳へて伊弉諾尊を祭るといふ。
亦以て小戸の地名の古く存せし一傍證とすべきか。
之を要するに、諾尊禊祓の~蹟と稱する橘の小戸の檍原が、我が日向の域内にありきと信ぜられ、其の地が古く宮崎附近なりきと認められたりしことは疑を容れず。
或は思ふ、此の地大淀川西北より來りて海に朝す、流れ緩やかに、水淀むを以て大淀川の名を得たり。
而して後世其の河口に近く小戸の名あるは、蓋し大淀の轉訛より新に言ひ出だせしものにはあらざるかと。
されば現今傳ふる宮崎附近の遺蹟が、たとひ古書によりて後より設け作られたるものなりとするも、小戸の名の存する卽に戰國時代にありて、勿論近時の附會にあらず。
而して日向一國内他に之を傳ふる有力なる候補地なきに於ては、暫く之を以て諾尊禊祓、三貴~出現の古傳説地と定るを至當とせんか。
外所地震
posted by うさぎ at 06:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 檍原

2020年12月23日

檍原の古傳説地 その11

住吉~社
義祐が、「住吉の里近く見え渡り、八重の潮路の松の秋風、冷々として袖吹き送る」と云ひし筒男の三~を祭れりと稱せらるるなり。
人或は云ふ、此の~延喜式内に列せられず、國史に著はれず、何ぞさる由緒ある古社なりとせんやと。
然れども、卽に云へる如く、日向は僻遠の國なれば、古代に於て中央と交渉極て少く、~祖發祥の地として信ぜられたる古國にてありながら、なほ且式内の~社僅に四社を數ふるに過ぎざる程なれば、此の住吉社の所見なき、必ずしも怪しむを要せざるなり。

閑話休題
タグ:住吉神社
posted by うさぎ at 12:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 檍原

檍原の古傳説地 その10

一ノ宮巡詣記檍原
降りて延寶三年九月橘三喜の一ノ宮巡詣記にも、
十六日江田の御社へ參り、それよりあをきが原の住吉に詣でて、
  尋ね來て聞けば心も住吉の、松はあをきが原の松原。
 此の海邊に伊弉諾尊の身そぎし給ふ、上中下の三つの瀬ありと傳へし。
 十七日、鵜戸山法花嶽へ參りたる山伏を、花が島より案内に頼み、うどの岩屋へ赴き、上別府を通り、赤江川舟あり。此の處を小戸の渡りと云ふ。此にも三つの瀬あり。古歌に、
  日向なる小戸の渡りの鹽せみに、顯れ出でし~ぞまします。
 此の鹽せみとは、北山大明~立ち給ふ上の瀬を云ふと聞きて、
   あなたふと、詣でぬる身の心まで、あらふあかゐの北の~垣。
 此の三つの瀬より諸人は初まりけり。
   日向なる、小戸の瀬の浦こそは、人草の初めなりけれ。
  と賤しき渡守の古歌を語りければ、所がらやさしくぞ思ひける。
とも見ゆるなり。
此の地大淀川西北より來りて海に注ぐ。
之を一に赤江川と云ふ。
河口に近く宮崎あり。
橘橋を架して南の方大淀に通ず。
架橋以前は渡船場にして、是れ卽ち所謂小戸の渡なりといふ。
嘗ては河畔の上別府を小戸別府とも稱しき。
今、河口に近き吉村、新別府、江田、山崎の諸村を合して、檍村(あをきむら)と呼び、其の北方なる鹽路、芳士、新名爪、廣原、島之内の諸村を合して、住吉村といふ。
こは其の地が諾尊禊祓の舊蹟なりと稱することによりて、新に命じたるものなれば、之を以て直に其の古傳説地たるの證とすべきにはあらざれども、説の由來する所、必ずしも近時の事にあらざるは之を認めざるべからず。

閑話休題
タグ:大淀川
posted by うさぎ at 09:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 檍原

檍原の古傳説地 その9

飫肥紀行の檍原
急ぎける程に、檍が原の波間より露はれ出でし住吉の里の近く見え渡り、八重の潮路の松の秋風、冷々として袖吹き送る。玉鉾の道の行衞に見渡せば、人王の始、宮崎の京、神武天皇の御前近き所にて、辱さに泪落ちけりと云ひし古事まで、思ひ合せられて通りけるに、其の里人に事問へば、平家の一門景清の御墓もありと聞くままに、六字一編手向して行けば、程なく小戸の渡に至りぬ。神道の秘密數々に思ひ出づるとて、
 神代より其の名は今もたちばなや、小戸の渡りの舟の行く末。
とよみ侍りぬ。
とあり。
此の書義祐の作として、果して信ずべくば、少なくも戰國時代の頃、此の地に此の説のありしことを認むべし。

閑話休題
タグ:飫肥紀行
posted by うさぎ at 05:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 檍原

2020年12月22日

檍原の古傳説地 その8

檍原は宮崎附近の地
之を宮崎地方の海岸にありとする説に就いても、亦本居翁が巳に指摘せるが如く、古書に其の徴證あるを見ず。
然れども、由來日向の地西陲(すい)に僻在して、中央との交渉甚だ少かりしが故に、ただに檍原の事のみならず、他の事件に就いても、其の古書に見ゆる極めて少なく、奈良朝の古風土記、亦僅に一二節を存するに過ぎざる程なれば、古書に見る所なきの故を以て、直に之を排斥すべきにあらず。
少なくも往時に於て宮崎郡の海岸地方に、小戸ノ渡、住吉神社などの存せしことは明かにして、當時之を以て檍原の地なりと解したりしものなるは、推測するに難からず。
之を近き代の文献に求むるに、伊東義祐が永禄五年の飫肥紀行と云ふものに、
閑話休題
タグ:伊東義祐
posted by うさぎ at 10:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 檍原

檍原の古傳説地 その7

橘小門檍原の義
之を要するに、神代悠久の際の傳説に就いて、之を解するに強ひて人事を以てし、其の遺址(いし)を現在の地理上に求めんには、自ら牽強附會(けんきょうふかい)に陥るの嫌なしとせずと雖、而も古人が伊弉諾尊の禊祓し給ひきといふ橘ノ小門の檍原を以て、我が日向國にありと信じ、かく語り傳へ、書き傳へたりし事は疑ふべからず。
小門とは小なる水門(みなと)の義なり。
又檍原とは古事記傳に、「松原、檜原、榊原、柞(ははそ)原等の類」といへる如く、檍の叢生(そうせい)したる原野の稱なり。
檍は和名抄に、「説文云、檍、梓の屬地也。
日本紀私紀云、阿波木、今按、又橿ノ木ノ一名也。見爾雅註」とあり。
又「唐韻云、橿(かし)、萬年木也、和名加之(かし)。
爾雅集註云、一名杻(もち)、一名檍」とあれば、橿のことを古へ「アハキ」と稱したりしものならん。
後世之を青木といふは訛れるなり。
橘の小門の檍原、或は小戸の橘の檍原ともあり。
共に同義にして、日向海岸なる橘と稱する小さき水門のほとりに、橿の叢生せし地なりしなるべし。
偖(さて)之を日向の域内なること明白なりとして、更に其の地點を考ふるに、古來亦異説なきにあらず。
然れども、之を宮崎地方の海岸なりとする説の外は、殆ど其の徴證を得るに難ければ略しつ。
タグ:伊弉諾尊
posted by うさぎ at 06:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 檍原

檍原の古傳説地 その6

芥屋大門説
更に一説には、同じ筑前の中にも、糸島郡なる芥屋(けや)の大門(おほと)を以て、橘の小門に擬せんとするものあり。
而も是れただ玄武岩より成れる自然の一大岩洞のみ。
大門(おほと)と小門(をと)と名の稍(やや)似寄りたりと云ふの外、深く據(よ)るべきものあるにあらず。
固(もと)より以て辨ずるまでもなかるべし。
タグ:芥屋大門
posted by うさぎ at 06:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 檍原

2020年12月21日

檍原の古傳説地 その5

橘小門は日向の地名
尚更に言はんに、同じ日本紀神代巻の一書に、火折尊(ほをりのみこと)卽ち彦火火出見尊を海神宮に導き奉りし八尋鰐(やひろわに)の事を記して、
海神の乗る所の駿馬は、八尋の鰐なり。
是れ其の鰭(ひれ)背をたてて、橘の小戸にあり。
とあり。
古傳説によるに、彦火火出見尊の御事蹟は、常に我が日向地方に於て演ぜられたるものとして信ぜられたり。
然るに如何ぞ遠く筑前に八尋鰐を尋ねて、是に海神宮の嚮導(きょうどう)を求めたりと語り傳へんや。
古へに所謂橘の小門が、古代人士によりて、我が日向の域なりと信ぜられたりしこと疑あるべからず。

タグ:海神宮
posted by うさぎ at 12:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 檍原

檍原の古傳説地 その4

「日向」は國名
其の國名として用ひられたりしものなることは、古事記傳にもすでに引けるが如く、日本紀神功皇后條に、住吉三神の託宣を記して、
日向國の橘の小戸の水底(みなそこ)に居て、水葉(みなは)も稚(わか)やかに出で居る神、名は表筒男、中筒男、底筒男の~あり。
とあるによりても知るを得べし。
諾尊禊祓の筑紫ノ日向ノ橘ノ小門の地名に見ゆる日向は、是れ直に我が日向の國にして、所謂橘の小門が其の域内の地なりと信ぜられたりしことは、毫末(ごうまつ)の疑を容れざるなり。

閑話休題
タグ:神功皇后
posted by うさぎ at 11:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 檍原

檍原の古傳説地 その3

筑前説の批評
とて、頗る筑前説に傾けり。此の説今なほ有力にして、學者往々之を唱道するものなきにあらず。
如何にも其の地が筑紫の國の中にありて、地名を橘と稱し、附近に青木、又小戸の名もありて、諾尊禊祓の際に出現し給へる、住吉、斯我の二神の鎭座せることなどの事實を綜合すれば、數多の材料殆どここに具備して、古傳説と符節を合すが如き觀あり。
其の説の有力なる故なきにあらず。
然れども、更に飜(ひるがえ)りて考ふるに、筑紫とはただに兩筑地方にのみ限らざるなり。
之を廣く九州全島の意義に用ふる事、四面を合せて筑紫の島と云へる古事記の傳説は更に言はず、後世までもなほ其の例多し。
令集解引古民部省式の如き、明かに西海道諸國を總括して筑紫國となし、又古くは之を管する大宰駐剳(ちゅうさつ)の府を、筑紫ノ大宰府としも言へるなり。
又タチバナの地名の如きも、必ずしも此の筑前の地にのみ限るべからず。
續日本紀寶龜九年條には、肥前國松浦郡橘浦あり、阿波國那賀郡にも亦現に橘浦の名を存し、其の他武藏國に橘樹(たちばな)郡橘樹(たちばな)郷あり、山城、大和、河内、伊勢、遠江、駿河、上總、下總、常陸、美濃、上野、陸中、加賀、越後等の諸國にも、皆それぞれにタチバナの地名を存するなり。
されば其の名義の由來は如何にもあれ、或る共通せる地形に就いて、若しくは何等かの關係に依りて、各地に同一なる此の名は起りたるものなりと見るべく、ひとり筑前にのみ之を求むべしとするを要せざるなり。
又彼の青木、小戸等の名の其の、附近に存するに至りては、所謂「古書によりて設け作られたる舊蹟」としても解し得べきものか。
殊に其の筑前なる住吉大神の鎭座の事の如きに至りては、古事記、日本紀に於て、明かに神功皇后の征韓の際、皇軍を護り給ふべく此の地に顯れ給ひしを記したることによりて解すべく、必ずしも以て此の神發生の地たるの證とはなし難かるべし。
若し夫れ綿津見ノ神なる斯我ノ神の鎭座の事は、此の神を奉祀する阿曇連が、海人(あま)の長として此の地方に勢力を有したりしが爲ならんのみ。
又其の「日向」の二字を以て、國名にあらずして日の向へる地の形容に用ひたりとなすが如きは、是れ古傳の眞意にあらず。
閑話休題
タグ:續日本紀
posted by うさぎ at 07:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 檍原
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