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2021年02月02日

高千穂ノ峯の傳説地 その22

嫗嶽と高千穂
祖母山豊後にありては之を嫗(うば)が嶽と稱す。
蓋し「祖母」の文字に泥みて、後に訛れるものなるべし。
山に嫗ケ嶽明~あり。
豊後緒方氏の祖先に關する巨蛇の傳説を有し、平家物語に之を高智尾明~なりとなす。
當時なほ此の山に高千穂の稱ありしことを知るべし。
由りて思ふに、彼の承和十年に於て高智保皇~授位の事あるや、續日本後紀之を記して豊後國となすもの、必ずしも捨て難きが如し。
從來學者の此の文を解する、皆之を以て日向國の誤りなりとなす。
固より當に然るべし。
然れども、高千穂の域既に豊後、日向に跨り、豊後の地亦其の祠あるに於ては、爲に或は此の混同を生ずるに至れる、其の故なきにあらず。
而も平家物語一本には、右の高智尾明~を以て、「件の大蛇は日向の國に崇られ給へる高智尾の明~是なり」とありて、之を本國に係けたり。
以て混同の久しきを知るべし。
之を要するに、天孫降臨のこと其の説幽玄にして、固より人事を以て忖度すべきにあらず、後人之を地理上に求めて、或は祖母山となし、或は久住山となし、或は之を霧島山なりとす。
今にして其の確證を得んことは到底之を望むべきにあらず。
ただ之を、幸にして今日に存する文献に徴するに、臼杵郡の高千穂を以て之に當てんとするの説は、すでに奈良朝に存し霧島山を以て之に當てんとするの説は、鎌倉時代以前に遡る能はざるを知るに満足せんのみ。

posted by うさぎ at 07:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 高千穂

2021年02月01日

高千穂ノ峯の傳説地 その21

二山峯の義
釋日本紀には、「二上の號未だ詳ならざるか」とあり。
鎌倉時代い於て、之に關する定説なかりしものにてもあるべし。
高千穂の名もと單一なる山岳の稱にあらず。
「ホ」は山の「秀(ほ)」にして、高峯の屹立せるものを意味す。
高千穂とは、蓋し數多の高峯の重疊せる地方の義なるべく、古く「襲」を解して、山岳襲重の貌となすもの其の字義信ずべからずとするも、地形の實際には相當るなり。
中にも祖母山は海抜五千八百尺に達し、實に九州第一の高峯の一なりと稱せらる。
其の山頂に上りて四方を望視すれば、九州各地は固より、四国、中國、亦之を下瞰すべく、西北遠く朝鮮をも一眸の中に收むるの感あり。
久住亦ほぼ之に相如く。
されば天孫の高千穂峯に降り給ひし時に、「此の地は韓國に向ひ、笠狭(かささ)の岬に眞來通(まきとほ)りて、朝日の直刺國(たださすくに)、夕日の日照(ひてる)國」と詔し給ひきと傳へらるるものを以て、これに當てんとする亦其の故なきにあらず。


タグ:二上山
posted by うさぎ at 07:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 高千穂

2021年01月31日

高千穂ノ峯の傳説地 その20

祖母山と久住山
今西臼杵郡高千穂の北に、祖母(そぼ)の高峯あり、豊後に跨る。
其の北方の廣野、亦所謂高千穂野の一部なるべく、北に久住(くじふ)山の高く聳ゆるあり。
高千穂峯の名、日本紀所引の一書に、高千穂の添(そほり)山とも叉、高千穂の槵觸(くしふる)ノ峯、又は槵日(くしひ)ノ峯ともあり。
「祖母」は蓋し「添(そほり)」の古名を傳へ、「久住(くじふ)」は「槵觸(くしふる)」、若くは「槵日(くしひ)」の舊稱を存するものにあらざるか。
天孫高千穂の地の降臨し給ひきとの古傳説に就きて、之を考ふるに、既に天降と稱する以上、後の之を解するもの、成るべく天に近き高山の頂を求めて、之に擬せんとし、爲に或は之を祖母山なりとし、或は之を久住山なりとし、遂には天孫降臨の高千穂山の傳説に存する添(そほり)山、或は槵觸峯、槵日峯の名を取りて、之に附するに至りしにはあらざるか。
祖母と久住と、巽乾相對し、其の間に當りて廣き高原あり。
寶龜の豊後国司文書と稱するものに見ゆる高千穂卽ち是ならんには、豊後にても、嘗てここに高千穂の名を傳へしものなるべし。
既に祖母と久住と兩説あり。
更に後の之を解するもの、其の兩説を並存し、ここに高千穂の二上峰に降臨し給へりとの説起れるか。

タグ:祖母山
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2021年01月30日

高千穂ノ峯の傳説地 その19

高千穂は日向豊後肥後に跨る
高千穂の域實に肥後、豊後に跨る。
肥後阿蘇郡に亦知保クあり。
蓋し日向臼杵郡の智舗クと相連續して、もと一域をなせしものなるべく、後に國界を定むるに當りて、兩分せられしものならんか。
今も肥後阿蘇郡草部(くさかべ)村に千穂野あり。
智保クの古名を存するものなるべし。
ここに草部~社あり、~八井耳命を祭る。
社記に之を高千穂大明~とありといふ。
其の名蓋し地名によれるものか。
同郡南ク谷の南、上u城郡渉りて亦高千穂の名あり。
蓋し阿蘇の地嘗て高千穂の古傳説を傳へ、今なほ其の古名を存するなり。
而して其の阿蘇の名、亦實に「襲」の舊號を傳ふるものの如し。
「阿」は發語の添辭にして、其の本名蓋し「蘇」なるべきか。
釋日本紀に「襲」字を解して「山襲重の義なり」となす。
蓋し漢字の字義に拘泥せるものにして、信ずべからず。
「ソ」は「背」の義なるべく、人の背をソビラ(背平))と云ひ、山陰をソトモ(背面)といふ。
「ソ」は蓋し山の背に當れるが如き高地の稱なるべし。
されば古語に襲の高千穂といふもの、之を阿蘇の高千穂の義と解して、意亦通ずべきなり。

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2021年01月29日

高千穂ノ峯の傳説地 その18

臼杵郡高千穂説 その2
此の文仙覺の萬葉抄にも引きて、明かに鎌倉時代に存せし風土記の古文なり。
論者或は言はん、風土記録する所の天孫投稻の故事、嘗て記、紀等の言はざる所、蓋し類似の地名に基づき、史實を之に附會せるもにて、信ずるに足らざるべしと。
或は然らん。
其の千穂の語の起源を解する如きは、固より必ずしも信ずべきにあらず。
然れども、天孫降臨の際天地暗く、土蜘蛛の奏に基づき稻千穂を散じ給ひし故事が、史實として信じ難しとするも、少くも此の記事ある風土記の編纂奏上せられし時代に於ては、日向の民衆が古傳説上の天孫降臨の故地を以て、此の臼杵郡なる智鋪クなりとなすの説を有せしものにして、國郡の當局者が之を採用せし事實、亦最も明白なりと謂はざるべからず。
叉平安朝に於て、霧島~と高千穂~と別個に存在して、位階を授けられ、更に鎌倉時代に於て、日本紀天孫降臨の條を説明すべく、釋日本紀及び萬葉抄の著者が、風土記の此の文を引用せしことなどを合せ考ふれば、少くも當時京師の當局者、又は學者間に於て、臼杵高千穂説が認められたりしことは疑を容れざるなり。
之を智鋪といふは、高千穂を略せるなり。
和同の制、國郡ク里の名必ず漢字二字たるべしと定めらる。
ここに於て近淡海(ちかつあふみ)國を縮めて近江國とし、都ク(とのがう)を延ばして都於ク(とおのがう)となす。
高千穂の智舗と成る亦此の例なり。
さればク名には之を智保と稱するも、其の他の場合には依然として「高」字を添ふるを例とせり。
前記高智保皇~の如きは更なり、中世に此の地方一の莊園となり、なほ高智尾の號を稱せしこと、鎌倉時代以後の記録、文書に往々散見して、周ねく世の知る所なり。
高智尾莊は西臼杵郡高千穂の地方より、廣く肥後、豊後の境上に及ぶ。
石清水社所藏寶龜四年豊前國司文書に、八幡大~の託宣を記したる中にも、
豊後、日向、肥後三箇國乃中、廣太野在リ。
其野ヲ~吾レ點定云云。
件地等、號野ク、北野、高千穂。
の語あり。
此の書固より寶龜の公文書として疑問なきにあらねど、亦以て古く此等の地方に、高千穂の稱ありしことを知るに足るべし。


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2021年01月28日

高千穂ノ峯の傳説地 その17

臼杵郡高千穂説 その1
然らば高千穂ノ峯を以て、臼杵郡に在りと爲す説の由來は如何。
釋日本紀引日向風土記逸文に曰く、
臼杵郡内知舗ク。
天津彦火瓊瓊杵尊、天の磐座離(いはくらはな)ち、天の八重雲を排(おしわ)けて、稜威(いづ)の道別(ちわ)きに道別(ちわ)きて、日向の高千穂の二上峰に天降りましき。
時に天暗冥にして、晝夜を別たず。
人物道を失ひ、物色別ち難し。
ここに土蜘蛛あり、名を大鉗、小鉗を曰ふ。
二人皇孫尊に奏して言はく、尊の御手を以て稻千穂を抜き、籾となして四方に投げ散らし給はば、必ず開晴を得んと。
時に大鉗等が奏する所の如く、千穂の稻を搓みて、籾となして投げ散らし給ひしかば、卽ち天開け晴れ、日月照り光(かがや)きき。
因りて高千穂の二上峯と曰ふ。
後人改めて智舗と號ふ。
と。
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2021年01月27日

高千穂ノ峯の傳説地 その16

霧島~と高千穂~
霧島山を以て高千穂峯なりとするの説は既に明かに鎌倉時代に存す。
然れども平安朝にありては、むしろ兩者を別視せしものに似たり。
延喜式内日向國諸縣郡霧島~社一座あり。
承和四年官社に列さられ、天安二年從四位下を授けらる。
而して此の~とは別に高智保皇~あり。
承和十年從五位下を授けられ、次で天安二年には、霧島~が從四位下を授けらるると同時に、從四位上を授けられたり。
勿論是によりて、霧島山が所謂高千穂峯にあらじとの反證となすには足らざらんも、此の山のみを以て直ちに天孫降臨の古傳説地なりとなさんは、更に攻究の餘地ありと謂はざるべからず。
posted by うさぎ at 08:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 高千穂

2021年01月22日

高千穂ノ峯の傳説地 その11

槵觸の解
論者或はクシフルを奇火(くしび)と解して、火山なるべしといひ、天ノ逆矛なるものを以て、~代の遺物となし、是によりて天孫降臨の地の證とせんとす。
共に一往の理なきにあらず。
火山活動の現象は、直ちに古代人士をして其の山を崇敬するの念を起さしむ。
然れどもクシフルの名實は未だ其の義を明かにかせず。
或は日向の別名なる豊久士比泥別に縁あるにあらざるかとのことは、さきに既に之を言へり。
タグ:クシフル
posted by うさぎ at 07:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 高千穂

2021年01月21日

高千穂ノ峯の傳説地 その10

霧島山を日本最初の峯といふ事
霧島山を以て日本最初の峯なりとする説は、すでに平家物語にあり。
~武天皇天より還幸し給へりとの説は、宇佐託宣集にあり。
共に古く此の山の尊嚴を示す説の存在を示すものなり。
然れども是等は、其の實高千穂降臨傳説と交渉する所なく、自から別途のものなりと謂はざるべからず。
ただ此の山が古くより特殊の神蹟として傳稱せられたりしが故に、遂には其の頂の東西相對して二上峰云ふに相當し、殊に其の地がたまたま囎唹郡なることなどに合せ考へて、そこに天孫降臨地の傳説も生じたるものなるべし。
而も其の説はすでに明かに鎌倉時代に於て、塵袋の著者其の所傳を該書中に引用せし程なれば、むげに後世の誤解なりとして輕々しく排斥すべきにあらざるなり。
すべからく先づ其の説の由って來りし所を尋ね、更に之を他の説に比較考究して、後に始めて斷を爲すべきものなりとすべし。
タグ:霧島山
posted by うさぎ at 07:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 高千穂

2021年01月20日

高千穂ノ峯の傳説地 その9

塵袋引風土記は偽書 その3
平安朝京師學者の手になれる日本紀私記に、襲國を解して、「今日向國に囎唹郡あり」などとある。
以て例とすべし。
然れども風土記は、各其の國の國司が命を奉じて、現代の地理に就きて撰録せる書なり。
如何ぞさる粗忽なる誤謬ありとせんや。
されど假りに事~代に屬するが故に、當時大隅の域内なる囎唹郡の地に冠するにも、なほ舊稱によりて日向の名を以てしたりきとせんか。
宜しく古語のままに「日向の襲の高千穂」といふべく、「日向國囎唹郡」とは書くべからざるにあらざるや。
況んや他方には當時の行政區劃によりて、明かに薩摩國閼馳郡の名を標出するに於てをや。
思ふに本書は地理の實際に暗き中央人士が、私記に囎唹郡を今も日向の中なりと思へるが如き漠然たる思想よりして、輕卒に記述せしものならんなり。
タグ:祖唹
posted by うさぎ at 07:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 高千穂
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