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2020年12月17日

黄泉國の辨 その5

根國と黄泉國
而も其の祖國たる根ノ國が、死後の黄泉國の思想と合體するに及びて、或は暗黒の國なるが如く、或は地下の國なるが如く、或は墳墓の壙内なるが如くにも傳へられ、伊弉諾尊の千引の岩を置き給ふことによりて、現國(うつしくに)との交通の絶えたることを言ふに至れるものならん。
されば日本紀の一書には、伊弉冉尊の入り給ひし黄泉國を以て、「殯歛(ひんかん)の處」なりとし、他の一書には、「所謂黄泉比良坂は復別に處あるにあらず、ただ臨死氣絶の際を謂ふか」とも解せるなり。
こは自ら別問題なれども、ともかくも伊弉諾尊は、黄泉國にて其の穢に觸れ給ひ、之を清め給はんとて、粟門、速吸名門を過ぎ、遠く我が日向の檍原に來り給へりとは、古く語り傳へられたりしところなりとす。
タグ:黄泉國
posted by うさぎ at 13:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 黄泉國

黄泉國の辨 その4

出雲系統の諸神と紀伊
尊の御子神達は多く紀伊に鎭まり給ひ、又日本紀の一書には、其の妣神(ははがみ)とます伊弉冉尊を、紀伊の熊野の有馬村に葬り奉るともあるなり。
紀伊の熊野の名も、亦此の熊成及び熊野の大神に縁あるを否定すべからず。
更に其の御子五十猛神(いたけるのかみ)の事を、延喜式には、韓國伊太氏神(からくにのいだてのかみ)ともあり。
出雲各地に鎭まり給ふ。
而して此の神亦日本紀に、大屋津姫、抓津姫(つまつひめ)など、素戔鳴尊の他の御子神達と共に、韓國より渡りて樹種を傳へ給ひきと傳へられ、共に紀伊國に祭られ給へるなり。
今是等の諸説を合せ考ふれば、根ノ國とは、或は朝鮮地方の國なりとして信ぜられたりしものなりとも解せられざるにあらず。
而して素戔鳴尊の御子神として、八十神達を従へて、もと我が國を領し給ひし大國主神は、後に出雲の大社に鎭まり給ひしも、其の魂は大物主神として、大和の三輪山に鎭まり給ひ、其の三柱の御子神達も、亦大和各所に鎭まり給ひて、皇孫尊(すめみまのみこと)の近き護り神となり給ひきと傳へらるるなり。
蓋し出雲の神の系統に属する民族は、もと朝鮮方面と特殊の關係を有し、大和平野を中心として、紀伊其の他、廣く大八洲國に繁延せしが、後漸次大和民族に同化融合して、其の民族的獨立を失ひし後までも、出雲及び紀伊の地方には、久しく其の系統の民族が維持せられ、ここに其の祖神を祭り、祖神の陵(みささぎ)を傳へ、祖神の傳説を保存せしものなるべし。
殊に大國主神は、國を天孫に譲り奉りて後、出雲なる杵築大社に鎭まり給ふと傳へられて、此の系統の諸神の御事蹟に關しては、出雲地方に於て最も濃厚に保存せらるるものか。
posted by うさぎ at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 黄泉國

黄泉國の辨 その3

熊成と熊野
熊成は日本紀雄略天皇條引日本舊記に見ゆる久麻那利の地にして、任那國下哆呼利(あるしたこり)縣の別邑なりとあり。
須戔鳴尊はここに鎭まりましきと傳へられたるなり。
出雲に國幣大社熊野神社あり。
此の神を祭り奉る。
熊野は蓋し熊成と同語の轉訛なり。
紀伊の熊野亦此の系統の神々に縁あり。
posted by うさぎ at 07:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 黄泉國

2020年12月16日

黄泉國の辨 その2

根國と朝鮮地方 
而も其の根ノ國に就き給へる須戔鳴尊は、其の子五十猛神(いたけるのかみ)を帥(ひき)ゐて、新羅國に降り到り、曾尸茂梨(そしもり)の處に居ますと、日本紀にあり。或は韓ク(からくに)の島より、其の御子神たちを紀伊國に渡し給ひて後、熊成峯(くまなりのたけ)にましますとも云へり。
posted by うさぎ at 16:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 黄泉國

黄泉國の辨 その1

 私按二、黄泉國の辨
根國と出雲地方
黄泉國は、伊弉冉尊が崩じて後入り給ひし暗黒の國にして、尊の御形骸はそこに腐爛の状を呈し、恰も墳墓の壙内なるかの如く、極めて忌はしき穢れたる處として傳へられたり。
而も現國(うつしくに)より此の國に通ずる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、古事記に之を出雲國の伊賦夜坂(いふやざか)なりといへり。
蓋し古へ黄泉國即ち根ノ國を以て、出雲地方、若しくは其の方角にありとし、此所よりして其の國へ交通せしものなりと信ぜられたりし事を示せり。
出雲風土記に闇見(くらみ)ノ國あり。
夜見ノ島あり。
闇見(くらみ)ノ國は今は八束郡の内なる、もとの島根郡の地にして、延喜式には同郡久良彌(くらみ)神社といふもあり。
出雲風土記には椋見(くらみ)社に作る。
又夜見島は、今は砂嘴(さし)之を連ねて、伯耆の夜見ガ濱となれり。
黄泉國は一に夜見ノ國とも、又根ノ國ともいふ。
暗黒の國として信ぜられたれば、其の夜見と云ひ、闇見と云ふも、名義に於て互に縁由ありげに見ゆるなり。
されば是等の地も、嘗ては夜見ノ國に關する傳説を有し、若しくは其の一部として信ぜられたりしものか。
出雲風土記には、別に出雲郡宇賀郷の條下に、
磯より西の方に窟戸あり。
高さ廣さ各六尺許(ばかり)。
窟の内に穴あり、人入るを得ず。
深浅を知らず。
夢に此の磯の窟の邊に至る者は、必ず死す。
故に俗人、古より今に至るまで、號して黄泉(よみ)ノ坂、黄泉(よみ)ノ穴と云ふなり。

とありて、黄泉國を出雲の海岸より通ずる地下の國として信ぜし狀(かたち)を示せり。
尚言はば、黄泉國に入り坐せる伊弉冉尊を、古事記には黄泉津(よもつ)大神と云ひ、出雲國と伯伎國との境なる比婆ノ山に葬るともあれば、此の地方亦黄泉國の中として信ぜられたりしものか。
ともかくもこの國が、出雲地方若しくはその方角にありとして信ぜられたりしことは明なりとす。
かく黄泉國の位置に就きては、種々の古傳説ありといへども、ともかくも其の國はもと出雲系統の諸神の祖國として信ぜられたりしなり。
而してそこには、伊弉冉尊の長(とこ)しへに鎭(しずま)りませるなり。
されば古事記には、素戔鳴尊の御語(ことば)を録して、「妣國(ははのくに)の根之堅洲國(ねのかたすくに)に罷(まか)らんと欲す」と云ひ、日本紀には、「母に根ノ國に従はんと欲す」とも見ゆるなり。
posted by うさぎ at 10:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 黄泉國

禊祓(みそぎはらひ)の意義 その3

伊弉諾尊の黄泉國訪問
左の御髻(みみづら)に刺せる湯津爪櫛(ゆづつまぐし)の男柱一個を取り闕きて、一つ火點(とも)して入り見ます時に蛆集(うじたか)れ盪(とろろ)ぎて、頭には大雷(おほいかづち)居り、胸には火雷(ほのいかづち)居り、腹には黒雷(くろいかづち)居り、陰には拆雷(さくいかづち)居り、左手には若(わか)雷(いかづち)居り、右手には土雷(つちいかづち)居り、左足には鳴雷(なるいかづち)居り、右足には伏(ふし)雷(いかづち)居り、併せて八雷神成り居りき。
ここに伊弉諾尊、見畏みて逃げ還ります時に、其の妹(いも)伊弉冉尊、吾に辱(はぢ)見せ給ひつと申し給ひて、即ち黄泉醜女(よもつしこめ)を遣はして追はしめ給ひき。
爾(かれ)伊弉諾尊黒御鬘(くろみかづら)を取りて、投棄(なげう)て給ひしかば、乃ち蒲子生(えびかづらのみな)りき。
これを〇食(ひりは)む間に逃げ出でますを、猶追ひしかば、又その右の御髻(みみづら)に刺せる湯津瓜櫛を引き闕きて、投棄(なげう)て給ひしかば、乃ち笋生(たかむらな)りき。
こを抜食(ぬきは)む間に、逃げ出でましき。
且(また)後には、かの八雷神に千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副へて追はしめき。
爾御佩(かれみは)かせる十拳劔(とつかのつるぎ)を抜きて、後手(しりへで)にふきつつ逃げ來ませるを、猶追ひて、黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到るときに、其の坂本なる桃子(もものみ)を三箇取りて、待ち撃ちたまひしかば悉く逃げ返りき云云。
とあるによりて知らる。
蓋し古俗觸穢を以て罪悪の一となしたりなり。
されば伊弉諾尊は、千引の磐石を以て黄泉比良坂を塞ぎ、黄泉國との交通を絶ちて、我が日向の檍原に來り、茲に禊祓し給ひきと傳へらるるなり。
posted by うさぎ at 06:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 黄泉國
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