ヘアスプレー

 「鯉人」このページから買ってくれている人ありがとう。感想などを寄せてくれたらうれしいな。
 最近は「牛巻坂」を読み返ししました。すごくよかったなー。作品紹介のページを書き直ししようと思っています。
 この頃は、ネット閲覧・書き込みと紙媒体のいわゆる「読書」の精神状態のギャップを感じることが多く、正直言ってネットから離れたいというのが本音です。HPを作っていながら、ネットのない社会に戻ってくれたらな、思っています。
 たまに、HPに書き込みしてくれる人がいますが、先生の作品を読んでくれていないひとばかりで、調子抜けしてしまいます。
 
 この週末は時間が取れたので、久々に10本ほど映画(DVD)を観ました。ここ数ヶ月は、超多忙で、大体いままで月に30本くらい見ていた映画が、まったく映画を観れなかったので、飢餓状態で、レンタル屋へ。観たい作品がいっぱいあって、あっという間に選んだのですが、どれもこれもつまらなかったなー。ただ、「ヘアスプレー」という、ジョン・トラボルタがおばさん役に扮しているミュージカルが素晴らしかった。さっそく、DVDとサントラを購入しました。この作品は、80年代の映画のリメイク版だそうで、ミュージカルで大ヒットしたとか・・・。オリジナルも観てみたいけど、ここまでの完成度ではないかも。音楽がどれもこれも素晴らしいんです。こういう映画を作らせたら、やっぱりアメリカ映画の本領発揮というところでしょうか。

鯉人2

 「鯉人」の中で印象的な場面は、闕所、追放の申し渡しをうけた後、淀屋の屋敷前で捕縛され、河内・山城・摂津の国境玉造の三国橋まで馬に引きづられながら、途中着物ははだけ、草履は脱げて裸足になりながらも乾いた固い土の道を走って連行される場面である。物見たちは、罵倒するものあれば、同情の目を向けるものもある。新太やロク、吾妻が心配そうに後を追う。炎天下で、墓堀人が石を削る描写は、残酷な護送のおどろおどろしさを一層引き立てる。
 こういった場面は(もうお気づきの方もいると思うが、)十字架を背負ったキリストが、ゴルゴダの丘へ向かう場面を想起させる。
 皆さんは、ブリューゲルの「十字架を担うキリスト」という絵を見たことがあるだろうか。構図の奥にゴルゴダの丘があり、空は不気味に曇っており、数匹のカラス。その下に何百人もの群集が俯瞰的に描かれ、よく観ると、絵の中心に十字架を背負ったキリストが倒れこんでいる。追い討ちをかけるように十字架を踏みつけているものもあれば、助け起こそうとする人もいる。そんなことはお構いなしに喧嘩をしているものもあれば、楽しそうに遊んでいる人もある。マリアと思しき女が顔面蒼白で座り込み、マグダラのマリアらしき女性が泣き崩れる。イエスの様子を遠くの木の陰でじっと見ている男(それがブリューゲル自身だと言われている)もいる。この木の陰で(表現すること以外)何もできないブリューゲルの姿は、渦中の人ではないが、物語の顛末と辰五郎の心情を感受することしかできない私たち読者自身であるかのようだ。

「鯉人」という作品の核となる「闕所」という重要な場面を、政治的な大事件の迫力と、権力に対する一個人の無力さ、だけに留まることなく、群集の非情さ、愚かさ、主人公を慕い、愛する人間でさえも何もできない無力さ、不条理さ、といった抽象的な概念まで広げて表現されている。
 この場面は数ページに満たないが、そんな抽象的イメージが私の心に染みついた。この作品をたくさんの人に読んでほしい、心からそう願う。



 
 

「鯉人」すごい作品でした。

 先生の新作「鯉人」を2度読了した。素晴らしい、すごい作品でした。先生の作品を読むと、現代は、文学の衰耗が盛んに言われるが、そうじゃないな、と思います。今回の作品のように後世に残るような、大傑作というのは《時代》が作り出すものではなく、時代、時代の天才「個人」が突発的に産み落とすものなのだな、とつくづく思います。そしてそれは、社会ではなく、個人の「魂」に訴えかけるものです。
 読み手は、書き手の精神世界へ、信頼感を持って緊張を高めなければ、《文学》は決して読めない、というのが私の持論です。書き手が、現代の未知の読み手の精神世界まで低めていては、時代を超えた、古くならない作品は生まれない。金は儲かっても、すぐ古くなる。
 
 『しかし、本は売れなければ、出版社はつぶれてしまうし、読み手がなけれれば本という存在価値はないじゃないか。純文学なんてお高い作品はいらない』
 
 そんな論述は耳にたこができるほど聞いたし、百も承知だ。しかし、その論述で行けば、多く売れる本がよい作品ということになってしまう。
 
 評論家や学者は、ある程度の芸術性の評価維持という、役割を担っていると思う。先生のような無名の天才を、利害関係なく正当に評価してほしい。そして時間のある学生は、たくさんの本に触れて、先生のような作品を書ける作家が現代にいないことを実感してほしい。
 無知な読者を、素直に筆者の精神世界までテンションを高めようとさせる一番簡単な方法は、その作者や作品に権威付けするということだ。残念ながら、読者と権威付けされた作品との結束は固い。
 今のような、おちゃらけた時代を通り抜けてれば、後世、真剣な芸術作品を賛美する時代が来るのだろうか。文章芸術というものにまともに向き合う人間が出てくるのだろうか。いや、時代じゃない、個人だ。作る人間と、読む個人の関係性の問題だけだ。
 先生の作品は、賞も獲っていない、権威もない。しかし、テンションを高めて、最後まで読了してほしい。敬虔さと信頼を持って、真剣に読めば読むほど、読み手の魂に食い込む、不思議な本だ。
 最後まで淀屋の再建を願っていた樹光院の静かな死。結核に冒された吾妻の壮絶な死。才能にあふれた楽天家、光琳の死。そして辰五郎の死。時代小説でありながら、遠い昔の江戸と現代の時代の齟齬が感じられない、人間が、生を受けて、人を愛し、愛され、どんなに幸せでも不幸でも、どんな人間でも日常の中に死を迎える悲しい人間の性、普遍が見事に、美しく文章化されている。
 そして、幾代にもわたる米相場の独占特許から、武士よりも富と財力を手にしていた町人・淀屋の闕所の様子を、ここまで克明に描いた最初で最後の作品になるだろうと確信を持って言えます。淀屋関連の資料は、ほとんど無く、今わかっている史実をもとに、考えられる可能性と、筆者のたくましい想像力を駆使して書かれたものです。歴史に詳しい人間が読めば、その新解釈に驚かれることでしょう。赤穂浪士討ち入りの経済的助けをしたという、新展開は非常に興味深い。そういった史実はないが、可能性はある。
 淀屋の闕所を随分前から予測し、再建の準備をしていた父・重当。政治には無頓着で、倦怠と諦念に満たされた辰五郎。
 (「鯉人」は今までの川田文学とはまったく異なると言われるが、こういった主人公の心の動き方は、川田作品独特なもので、実は、今までの作品と同じ流れを汲んいると思われる。倦怠と諦めというのは、川田作品特有の必須概念で、そこが非常に読み手にとって非常に難解なところでもある。つまりは軽く読み流せないところなのだ。普通なら主人公はこう考えるだろう、という予測がまったくつかない、重要なポイントなのだ。)
 辰五郎とは全く対照的な野心家・頼方との決別。どの登場人物をとっても生き生きとこの作品の中に生きている。  …つづく。
 
 ちょっと長くなりすぎたので、今回はここまでにします。次回は、私がとくに感銘をうけた場面の感想を書いてみたいと思います。では。

※「鯉人」は、応援ページほか、先生の「週言ページ」で、アマゾンで購入できます。送料無料でお得です。

文章とは何か!

 忙しい毎日に追われ、心はすさぶ一方。そんな頃、このHPを私が作っていることを知っている数少ない友人の一人が、裏週言の前身である「はじめに」を「面白いねー。よく書けてるよ。」と何気なく言ってくれた。もちろん、先生の「週言」には足元にも及ばないお粗末なものだが、そう言ってもらえて嬉しかった。私も早稲田二文出身者という、訳のわからないプライドがある。
 へー、私が、そんなもの書いてたかな、と久々に読んでみた。本当に自分が書いたのかな、と思わず思ってしまうほど、面白かった。
 心に余裕があった、生活に追われていない頃の、のびのびとした自分が愛しいくなって、なんだか、とっても嬉しくなってしまった。文章というのは不思議だ。余儀なく書くのではなく、わくわくして書くと書けてしまうものだし、それがどんな拙いものでも、自分の宝物に成る。
 しかし、それが、先生の作品のような芸術的極みまでいくか、というと、決してそうではない。悲しいことだが、本当のことなのだ。先生は、「あれあ」の中で、『処女』と『ごろた石』という言葉を使って次のように書いている。

『あれあ寂たえ』(16章 ―抜粋―)

 「《創る者》と《創らない者》との差は、非処女と処女のそれに似ている。ほんの膜一枚の差にすぎない懸隔である。だれにも膜一枚を隔てて、創造力を孕んだ未知の空洞が控えている。だた薄い膜を取り払ったのち、その空洞がダイヤを膣生するか否かが問題となる。ごろた石しか産み出さない粗悪な膣を用いて何を創造しても、その産物は、処女の不毛な子宮の残滓と毛筋ほどの差異もない。すなわち、《創る者》と《創らない者》とのわずかの差は、《傑作を作る者》と《たいしたものを創らない者》との差に等しい。換言すれば、《創る者》とは《傑作を創る者》の謂いである。」

 ばっさりと、切られたという感じ。ちなみに《膣生》とは、先生の造語ですので、辞書を引いてもありません。意味は、取れると思います。最近は、ごろた石で大儲けする作家や、芸能人が多いので、文章を甘く見てる人が多く、こういった先生の文章を読まずに、先生に直接「作家になりたい」だの、「映画を作る」だの、言ってくる学生を見て、冷や冷やしてしまうことがあります。夢を持つことはいいと思いますが、《ごろた石》による成功は、夢を果たしたとは決していえないのではないか、と私は思います。文章を書くためには、書くことで、救済されたいと思うまでの、苦悩や悲しみや喜びを経験しなければ、そういった心境にならないのではないか、と思います。そして、古今の作品を読んで読んで読みまくってから、そういうことを言ってほしい。
 「文は人なり」とはよく言ったもので、魅力のある人間にしか、《ごろた石》以外ものは書けないと私は自負しています。《創造力を孕んだ未知の空洞》を、万人にではなく、若く可能性のある自分しか与えられていないと錯覚してはならない。錯覚しないためには、他人の作品を読むしかないのだ。そして、先生の作品を読んでから、先生に話しかけてほしい。文章以外の先生は『水』なのだから。
 

「鯉人」よろしくお願いします。

 新作「鯉人」、応援ページから買ってくれた方、ありがとうございました。感想は「感想寸感」にて随時募集中です。激励メッセージお待ちしております。いやー、「鯉人」すごいですね。2回目の通読ですが、何度読んでも新しい発見があります。ストーリー展開の豊富さに加えて、町の描写、自然描写、部屋の描写、人物描写の緻密さに加えて、登場人物の複雑な心理描写とそれに相対する人間の観察による人物分析。濃いなー。んんー深い。
 本を手にしてくれたみんなは、たぶん先生の生徒が多いと思うので、バリバリの大学生とか、勉強真っ最中の予備校生がほとんどだと思う。私なんかより、キレキレに読みこなしてくれているんじゃないかな。是非感想をよせてください。
 このHPは、先生の週言とあれあが目玉になっているので、こういった先生の言葉を読んでしまうと、緊張して書けないとか、なにか立派な文章をよせないといけないとか、思う人が多いようだけど、そんなことはありません。文章は、気持ちが伝わればいいのであって、難しい漢字とか、言葉を使う必要はないし、お話しするみたいに文章にしてくれればいいんです。ということでよろしくお願いします。

鯉人売れ行き好調!

「鯉人」売れ行き好調です。
 amazonや楽天では、品切れ状態になっていますが、ネットで買われる方は、しばらくお待ちください。入荷され次第買ってくださいね。(amazonでは、カートには入れられるようです。)

鯉人 本日発売

 待望の「鯉人」本日発売です。明日には店頭に並ぶと思います。
版元からの情報によれば、多くの予約が入っている、とのことです。そのほとんどがHP訪問者だと思います。ありがとうございます。
 「予約するの忘れてたよ」って言う方は、是非とも書店で購入してください。高田馬場の芳林堂には常備されていますが、多くの書店では、近代文芸社の本を扱っている本屋は少ないので、頑張って注文してください。大学生の方は、生協で注文・購入すると1割引きで買えると思いますので、是非注文カードに記入して買ってください。そういうのは、恥ずかしいという内気な方は、ネットで買ってください。送料は無料です。(ただ、ネットで買えるようになるまでは、もう少し時間がかかりそうです。)

 江戸時代の伝説の商人・淀屋辰五郎とは、何ものか。闕所処分になってから、その文献は焚書されたといわれ、実際に実在したのか、と疑問視する学者もいるようです。
 華美禁止令でが布かれる中、豪奢な生活を尽くし7代続いたといわれる淀屋を潰した辰五郎の自殺行為とも思われる心情に迫った力作。構想20年、ここ数年、あらゆる文献を駆使して書き上げた大作を時間をかけて読んでください。歴史に詳しい大学の先生なんかにも是非読んで欲しいです。
大学の先生がこのブログ読んでないか(笑)。

 私が大学に入ったばかりのころ、般教の歴史学の教授に、淀屋の資料について質問したことがあります。先生は、次の週に授業の終わりに私を呼び出し、「淀屋の資料はないんだよねー」と言って、歴史系の雑誌に載った数ページの文献情報と絶版になった、数冊の書名を調べてきてくれました。(いい先生だったな)私は、その授業をそれから数回しか出席しなかったし、テストの点数も悪かったのに、その質問をしたという理由だけで、そうとうの歴史通と思ったらしく、「優」の成績をもらいました。その先生にも是非読んで欲しいんだけど、その教授の名前忘れたな。(二文の歴史学の先生なんだけど・・・)それから10数年を経て、川田先生が作品を仕上げるとは・・・。

 赤穂浪士事件、尾形光琳、乾山、柳沢吉保、のちの徳川吉宗、歴史上の有名な事件や人物が、淀屋辰五郎を中心に、生きいきと動き出します。遊郭の様子は華やかで美しく、江戸時代の大阪の町に、まるで自分がタイムスリップして抜け出たような、臨場感が楽しめます。300年前の世界と思えないほどです。
 小説の本当の醍醐味とは、矮小な自分に似た人物を探して安堵することではなく、時代の時空を超えて、《人間》と出会い、その《人間》に感銘したり、涙したりできることです。
 娯楽の種類や量が飽和状態にある現代、苦労して活字を読まなくても面白いものは一杯あります。でも、どんな人間も、高度なカタルシスを求めているのではないか、と私は思います。そして、それは、本でしか味わうことができなないのです。どんなにすごい映像、映画も、活字には勝てない。享受者が費やす時間の絶対量が本の方が圧倒的に多いし、活字を読み解いて、独自の概念に消化するのは、その本を読んだ本人にしかできないからじゃないかな、と思います。
 

鯉人4月15日発売

 「鯉人」を勤務先の近くの本屋さんで予約してきました。発売日が4月15日に伸びたようです。
少し伸びましたが、もう少しお待ちください。大学生のみなさんは、大学生協で購入すると、お得ですよ。是非予約して購入してください。よろしくお願いします。

4月10日「鯉人」発売

おまたせしました。とうとう4月10日「鯉人」発売されます。
ぜひ、書店で予約注文して買ってください。
私は、明日、予約してきます。
みんなよろしく。

早稲田『名画座』

 私が学生だったころ東西線早稲田の駅の近くに、『名画座』という、ビデオ屋があった。つい先日、学生時代の友人と何年かぶりに会うことになって、久しぶりに早稲田で集まり、2次会は、『ガトー』という喫茶店になった。懐かしい顔とたわいもない話で盛り上がって、帰ろうと階段を降りかけた瞬間、気がついた。『ガトー』の真向かいの2階にあったはずの、我愛しき『名画座』がない!寂しかった。
 川田先生は、知る人ぞ知る名画収集家だが、先生が薦めてくれる映画は、巷のビデオ屋では、借りられないものが多かった。そんな中で『名画座』は、貴重なビデオをひっそりと揃えていた。「ニュルンベルグ裁判」という2本組の長い映画もそこで借りて観た。「ソルジャーブルー」というカルト的な映画も置いてあった。「私が棄てた女」もあった。古い清張映画は、ほとんどここで借りた。「散りゆく花」というトーキー映画にも挑戦した。
 いま、私の自宅のそばには、ツタヤをはじめ、数件のビデオ屋があるが、今上げたような映画は貸し出されていない。もちろん、借りられなければ買うこともできるのだが、そういう映画の存在を知らなければ、入手できないのだ。
 先日、「ゆきゆて進軍」を久々にみて、感激した私は、奥崎をおったドキュメンタリーがもう一本あることを知り、ツタヤに行った。もちろん無かった。「ゆきゆきて・・・」も当たり前のようになかった。(この「ゆきゆきて…」も、学生時代に『名画座』で借りたんだったな。)
 ツタヤの店員と少し話してわかったのだが、ビデオ屋の店員のくせに、映画ファンじゃない。ドキュメンタリー映画という意味さえ知らなかった。残念だ。
 ほんの十数年前は、ビデオ屋の店員は、映画お宅的要素が少なからずあった。
 DVDの普及でVHSを観なくなっている影響もあるのだろうが、『名画座』のようなビデオ屋が潰れてしまうのだから、このツタヤのアルバイト店員と同じで、最近の早稲田生も大したことないな、と思わざるをえない。
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