2017年11月15日
―皐月雨―・7(半分の月がのぼる空・しにがみのバラッド。・シゴフミ・クロスオーバー二次創作)
二次創作「皐月雨」、第7話掲載です。
―雨道―
雨が降っていた。
ずっと雨が降っていた。
もう、いつから降っていたのかも覚えていない。濡れた自転車のハンドルを握りながら、僕は傘の隙間から夜空を覗いた。空を、厚く覆う雲。降りしきる雨の合間にも、当然の様に月は見えない。溜息を一つついて、また自転車を押し始める。ふと後ろを振り返ると、遠くに見える灯りの群れ。若葉病院から漏れる光が、雨の帳の向こうでユラユラと揺れている。もう、何をしても、何を思っても、里香に気取られる心配はない。フウ、と息をついて、傘を下ろす。途端、落ちてくる水滴が身体を打つ。けれど、それが妙に心地いい。この上なく里香の事を案じている筈なのに、今はその里香から離れられた事を安堵している。その矛盾が滑稽で、僕は少しククッと笑った。
それにしても、さっきは危なかった。もう少しで、計画がばれてしまう所だった。いや、頭のいい里香の事だ。もう、勘付いてしまっているのかもしれない。計画を立てる前に、思った事を亜希子さんにこぼしたのもまずかった。意外とお喋りなんだな。亜希子さん。まあ、普通なら本気にする人はいないだろうけど、里香が周りの大人に相談する可能性はある。里香の事を良く知っている人間なら、彼女が妙な世迷言を言わない事を知っているだろう。そこから、話が広がる可能性もある。ひょっとしたら、計画の実行を急がなきゃいけないかもしれない。もっとも、その事自体はやぶさかじゃあない。里香の心臓は、いつどうなるか分からない。早ければ早いほど、里香をその苦しみから開放してやる事が出来る。計画実行後の事に関しては、あまり心配していない。周りの大人達がきっとしっかりやってくれる。そのためには、意思表示をしっかり遺しておかなけりゃいけない。馬鹿正直にドナー登録するのは駄目だ。手間がかかるし、事後に心臓がちゃんと里香に移植されるか分からない。見ず知らずの奴に回されちゃあ、意味がない。やっぱり、ここは遺書を遺して、それに里香に心臓を提供する旨を明記しておくのが賢明だろう。一番の問題は、僕を終わらせる方法だ。普通の自殺じゃいけない。心臓移植は、脳死者からの提供でないと、適応されないのだ。意図的に脳死になる方法。それが、分からない。少なくとも、件の本には書いてなかった。当たり前だけど。とりあえず、頭を打って脳を損傷するのが一番簡単そうだけど、それにしたって加減が難しい。控え過ぎたら痛いだけだし、やり過ぎたら完全に死んでしまう。さて、どうしたものか。それさえ分かれば、今すぐに実行してもいいのだけれど。
ピシャリ
考えながら歩いていたら、足が水溜りを踏み抜いた。冷たい感覚に下を見下ろす。ユラユラと揺れる水溜り。そう言えば、何かで言ってたな。脳は3分間酸素が供給されないと死ぬとか何とか。つまり、3分間息を止めればいい訳だ。何日か徹夜するなり、睡眠薬を飲むなりして、風呂で寝てみようか。上手くいけば、湯船で眠りこけて……ああ、でもなぁ。それでも、完全に溺死してしまう可能性はついてまわる。難しいな。本当に難しい。生命(いのち)のやり取りってのは、本当に難しい。
そんな事を考えていたら、だんだん頭が加熱してきた。落ちる雨が当たる度、ジュウジュウと音と湯気が立ちそうだ。もういっそあれだ。死神みたいなのが出てきて、僕の魂を適度に引っ張り出してくれたりしないだろうか。事が済んだら、用済みの魂は差し上げても構わないから。
「いらないよ。そんなもの」
だよなぁ。そんなうまい話、ある訳が……ん?
不意に入れられた相の手。驚いて上げた視線の先で、白いワンピースが揺れた。
――リン――
澄んだ鈴の音が、降りしきる雨音に混じって聞こえる。
呆然と立ち尽くす僕の前に、いつの間に現れたのだろう。女の子が一人、佇んでいた。酷く、風変わりな女の子だ。見た感じ、歳は僕よりも数歳下。だけど、その顔は幼いくせに妙に大人びている。長い髪も、肌も、着ているワンピースも真っ白で、ただ一つ真っ赤なシューズが強く目に焼き付いた。でも、一番奇異だったのはその右手にあったもの。鎌だった。女の子の身長の倍はある、長くて大きな首刈り鎌。それはまるで……。
「モモ……あいつ、やっぱり見えてるよ」
急に、もう一つの声が聞こえた。驚いて下を見ると、女の子の足元にチョコンと座る黒猫が一匹。赤い首輪をして、大きな鈴をぶら下げている。少し動くと、その鈴がリリンと鳴る。さっきの鈴の音はこれらしい。それにしても、今聞こえた声の主がいない。男の子の声らしかったけど、何処にいるのだろう。まさか、この猫が喋ったなんて馬鹿な事は……。
途端、その猫が金色の目でこっちを見た。そして――
「おい!何ジロジロ見てるんだよ!?」
喋った。
「う、うわぁあああ!?」
思わず、腰を抜かしてしまった。手から離れた自転車が、ガシャンッと大きな音を立てて倒れる。それに吃驚したのか、黒猫が尻尾をブワワッと広げて飛び上がる。その拍子に、
バサリッ
背中から、蝙蝠のそれの様な翼が伸びた。飛び上がった黒猫は、そのまま空中で静止。パタパタと羽ばたいて宙に浮かぶ。
「おい、急に大きな音立てるなよ!!吃驚するだろ!!」
浮かびながら喚く黒猫。もう、訳が分からない。
「な、何だよ!?それ!!猫じゃないのか!?」
驚きと恐怖でろくに呂律も回らない。そんな僕を冷ややかな目で見ていた女の子が、ハァ、と溜息をつく。
「そんなに喚かないで。話も出来ない」
そう言いながら、僕に向かって歩いてくる。長い雨降りで水の溜まった道。その中を歩いてくるのに、水音がしない。泥が跳ねる様子もない。赤いシューズは、綺麗なままだ。そう言えば、この雨の中に傘もなしでいるのに濡れている様子もない。その事に気づいて、冷えた身体にますます怖気が走る。脳裏に浮かぶ言葉は、ただ一つ。
「ゆ……幽霊……?」
「お――ま――え――も――か――!!」
思わず呟いた言葉に、空飛ぶ黒猫が噛み付いてきた。
「全く、この間からモモの事、幽霊だのお化けだのって!!モモは”死神”だってーの!!」
「!!」
その言葉に、心臓が飛び跳ねた。
”死神”?今、”死神”って言ったか?
僕は、近づいてくる女の子を凝視する。
真っ白い姿は、僕の思い描く死神のイメージとは程遠い。けれど、言われてみれば、肩に担がれた大鎌はまさに死神のそれで……。
ゴクリ
カラカラの喉が鳴る。頬伝う雫が、雨なのか汗なのか分からない。呆然と見つめる僕を、女の子の黒真珠の様な瞳が見下ろしてくる。
「お前……死神って、本当(マジ)か……」
「……この形(なり)だけど、幽霊やお化けじゃないのは、確かかな」
そう言って、女の子は宙を舞っていた黒猫を招いた。
「やるの?」
「やなんだけどね」
溜息つきつき、頷く女の子。それに応じる様に、黒猫がクルリと身を丸める。尻尾の先を器用に掴んで形作るのは、黒い輪っか。その穴の中に、女の子がズボリと手を突っ込んだ。黒猫が「ひぁあ!!」とか何か卑猥な声を上げたけど、気にしてる余裕はない。穴に突っ込まれた女の子の腕が反対側から出てこない。猫の輪っかを境目に、虚空に消えている。目の前で繰り広げられる異端事。思わず後ずさる僕を一瞥すると、女の子は悶える猫の輪っかから腕を引き抜いた。
引き抜いたその手に握られていたのは、一つのカードケース。それを開けると、中のカードを一枚、僕に差し出す。
「どうぞ」
恐る恐る受け取ると、それは身分証明書の様だった。
『死神「A」の100100号』
そこに書き込まれていたのは、紛う事なく死神の二文字。
ゴクリ。また喉が動くけど、飲み込む唾はもう出なかった。
「100100号。呼びにくいなら、モモって呼んで。100と100だから」
表情のない顔で、白い死神がそう言った。
しばらくの間、沈黙が降りた。僕も、モモと名乗った死神も、そして得体の知れない黒猫も、誰も何も言わない。
シトシトと雨の降る音だけが、辺りに満ちる。
「………」
「………」
「………」
最初に耐え切れなくなったのは、僕だった。搾り出す様に、声を出す。
「……死神……。本当に、死神なのか……?」
「何度も言わせないで。身分証明書(そこ)に書いてある通りよ」
そう肯定の言葉を繰り返すモモ。少し不機嫌そうな顔の彼女と、手の中の身分証明書を代わる代わるに見る。雨は降り続けている。僕はもうびしょ濡れだ。だけど、彼女は濡れない。サラサラと流れる雪色の髪の横で、蝙蝠の翼を生やした黒猫が舞っている。その身体が揺れる度、首輪の鈴がリンリンと鳴る。その音を聞いている内に、何かが身体の内からこみ上げてきた。それは見る見る喉まで登ってくると、口から外へと漏れ始めた。
「く……くく……はは、あはははは……」
溢れ出る、乾いた笑い。モモは何も言わない。黙って、笑う僕を見ている。
「あはは……死神だって?本気(マジ)かよ……とんでもねぇ……あはははは……」
笑いながら、地面を叩く。泥が跳ねて、顔を汚したけれど、気にする余裕なんてなかった。怖い。酷く、怖かった。だけど、笑いは止まらない。まるで、何かのたがが外れてしまった様に感じた。
座り込んだまま笑い続ける僕を見下ろして、飛んでいた黒猫が心配そうに言う。
「ねえ、モモ。大丈夫?壊れちゃったんじゃない?」
「大丈夫だよ。ダニエル。今は少し、混乱してるだけ」
そう言って、モモは僕を見つめ続ける。その視線の中で、僕は笑い続けた。声が枯れ尽きるまで、笑い続けた。
数分後、ようやく笑いが尽きた僕は、はぁ、と大きく息を吐いた。
「落ち着いた?」
黙って見守っていたモモが、そう声をかけてくる。
「……覚めないトコ見ると、夢じゃないんだな……」
枯れた声でそう答えると、モモは黙って頷く。
「お前、死神なの?」
「しつこいね。やっぱり、壊れたかな」
呆れた様な声音。でも、しかたないじゃないか。こんな状況でまともでいられる奴がいたら、そいつこそ異常者ってものじゃなかろうか。
と、そんな僕を見ながらモモが言った。
「”あの娘”は、すぐに受け入れてくれたんだけど」
ん?
妙に気になる言葉が、耳に触った。
”あの娘”?”あの娘”って誰だ。
麻痺しかけていた思考が、ある可能性に気が付いた。気が付いた途端、急激に胸の中が冷えていく。そして、に湧いてくるのは、黒い、黒い、ドス黒い感情。
「……おい……」
声に険がこもるのが、自分でも分かった。
「……誰だよ……?」
モモはすぐには答えない。ただ、妙に覚めた眼差しで僕をを見下ろしている。そんな彼女を、威圧する様に睨む。
「誰だよ?”あの娘”って……」
口から吐き出される、暗い声。けれど、モモは動じない。
「誰だよ……?」
もう一度、言う。答えは半分、分かっていたけれど。
と、モモが動いた。ゆっくりと手を上げて、僕の後ろを指差す。その先にあるもの。振り向かなくても分かる。分かっていたけど、心がざわめいた。
「知ってるでしょ?」
モモは言う。
「”あの娘”だよ」
「――!!――」
次の瞬間、僕は飛び起きてモモの胸倉を掴んでいた。
ずっと前から、決めていた事があった。
あんまり馬鹿らしくて、ありえない決め事。だから、いつしか心の奥底にひっそりとしまっていた。でも、忘れた事は片時もない。そんな決め事。
入院して。里香に出会って。彼女の病気を知った時から。ずっと。ずっと。ずっと、決めていた事。
出来るなら。
そんな事があるのなら。
”死神”なんてものが、この世にいるのなら。
ぶん殴ってやる。
ボコボコになるまで。命乞いをしたくなるまで。二度と里香に手が出せなくなるまで。
殴りまくってやる。
そう決めていた。
そして、今。その”死神”が、僕の手の中にいた。”そいつ”は、思っていたよりもずっと小さくて。思っていたよりも、ずっと華奢で。思っていたよりも、ずっと壊れやすそうだったけど。そんなの、全然関係なかった。
左手で掴んだそいつの胸倉を、絞り上げる。握った右手を、振りかざす。そいつは、抵抗も何もしなかった。そいつは、とても小さい。立ち上がった僕の、胸くらいまでの背丈しかない。だから、僕と視線を合わせると、自然と見下ろす形になる。そいつの顔に、怯えはなかった。ただ、透明な眼差しで真っ直ぐに僕を見ていた。突然、足に激痛が走った。見ると、そいつが連れていた黒猫が、僕の足に噛み付いていた。足を振ったけど、離れなかった。だから、無視する事にした。握った拳を、振り下ろす。猫が、ギリギリと噛む力を強めた。関係ない。僕の拳が落ちていく。目をつぶる事もなく見上げる、そいつの顔目がけて。そして――
「コードD221084。マヤマ、承認して」
『了解。コードD221084、承認』
そんな声が、耳の端に聞こえた。
途端――
バウンッ
突然、凄い衝撃が身体を襲った。気が付いた時、そいつはもう僕の手の中にはいなかった。代わりに視界がキリキリと回った。吹っ飛ばされたんだと気づくと同時に、僕の身体は無様に地面に叩きつけられた。
「ゲホッ、ゲホッ」
もんどりうって転がった身体が、水溜りにはまる。
身体を走る痛みに、肺の空気がしゃくり上がる。喘いだ拍子に、地面に溜まっていた泥水が口に入って、僕はさらに咳き込んだ。
地べたに這いずりながら目を凝らすと、そいつは変わらずそこに立っていた。仮面みたいに、無表情な顔で。ただ、変わっていた事が一つ。いつの間に来たのだろう。そいつの後ろに、もう一つの人影が立っていた。
「……余計な事しないで」
表情を変えずに、モモが言った。その声音は、少し怒っている様に聞こえた。
「そういう訳にも、いかないわ。放っておいたら、寝覚めが悪そうだもの」
モモの後ろの人影が、そう言った。若い、女の声だった。
「……これは、あたしの管轄だよ。介入するのは、越権行為」
「”今”のがあなたの仕事だとは、とても思えないけど?」
そんな言葉と共に雨幕の向こうから進み出てきたのは、僕と同じくらいの年頃の少女だった。昔の郵便配達みたいな格好をして、手には長い杖を持っている。見かけからして、普通じゃない。あいつが、僕を吹っ飛ばしたのか?
長年の本懐を遂げ損なった僕がえづきながら睨むと、郵便配達は冷ややかな目でこっちを一瞥した。そのまま、モモに話しかける。
「あのまま、殴られるつもりだったの?そんな事に、何の意味もないわ」
「………」
「あなたが殴られた所で、あの娘の運命が変わる訳じゃない。あの子が思い止まる訳でもない。ただ、傷つく者が増えるだけ」
「………」
「言ったでしょ?深すぎる情は、辛くなるだけよ」
「………」
郵便配達の言葉が正しいと分かっているのか、モモは何も言わない。そして、その代わりの様に別の声が響いた。
『ほら、お前も。しっかりしろよ。使い魔が主人を守れなくてどうするのさ』
何だ?今の声。郵便配達が持ってる杖からした様な気がしたけど。頭を打って、いよいよおかしくなったのだろうか。
「……うぅ……」
リィン
傍らに転がっていた黒猫が、鈴の音を鳴らしながら身を起こす。俯いていた顔を上げると、金色の目に涙がいっぱいに溜まっていた。
「モモォ〜〜!!」
潤んだ声で叫ぶと、モモに向かって飛びつく。
「ごめんよ、モモ……!!ボク、守れなくて……!!怪我はしていない?どこか、痛くしていない?」
「……大丈夫だよ。あたしは、大丈夫……」
抱き止めたモモの腕の中で泣きじゃくる黒猫。それをなだめるモモの目にも、光るものが浮かぶ。
『ほら、そんなに泣くなよ。全く、世話が焼けるなぁ……』
また聞こえた。間違いない。杖が、喋ってる。何だよ?何なんだよ、これ?
『……文伽……』
フラフラと立ち上がる僕を見て、杖が言った。その言葉に、郵便配の顔が再び僕の方を向く。
「ちくしょう……。ちくしょう……」
綺麗だけど、表情の薄い顔。それに向かって、僕は敵意も隠さずに喚く。
「何だよ!!何だってんだよ!!お前達も、化け物の仲間なのか!?」
『……化け物だって』
「新鮮味のない言い方ね」
僕の罵声に動揺する事もなく、平然とした態度でこっちに向き直る。
「まだ害意はある?あるならもう少し、頭を冷やしてもらうけど」
そう言いながら、カチャリと杖を僕に向ける。
「うっせぇよ……この……」
頭は相変わらず、フラフラする。でも、引く気は微塵も浮かばなかった。ふらつきながら、そいつらに向かって進む。郵便配達が、溜息を付いた。向けられた杖が、やれやれと呟くのが聞こえた。そして、杖の先端の宝石が輝き始めて……
パシッ
『うわ!?』
杖が驚く声が聞こえた。
横から伸びてきた手が、杖を掴んで引き下ろしたのだ。
「モモ……」
郵便配達が、杖を掴むモモを見やる。
「いいよ。文伽さん。後は、あたしがやるから」
その言葉に、郵便配達が目を細める。
「さっきと同じ事になるなら、遠慮はしないわよ?」
「分かってる」
杖を引く郵便配達。そして、モモは僕に向かって歩み寄ってくる。
「モモぉ……」
後ろに控えていた黒猫が、心配そうに声を上げる。それに、大丈夫とでも言う様に片手を上げて答えると、モモは僕の前に立った。
「お前……」
「さあ、話をしよう」
濡れた目をグイと拭うと、凛とした顔でモモはそう言った。その様に、少しだけ怯む。けれど、引く事が出来ないのは僕も同じだった。
「……うるせぇよ……」
精一杯、凄みをきかせて睨む。
「お前……死神なんだろ……?」
確認する様に問う。
「そうだよ」
肯定。ハッキリとした、肯定。
「里香を、殺すんだろ……?」
また、問う。
「そうなるかもね」
答える。淡々と。
「……かもって、何だよ?」
「まだ分からないから。少なくとも、今はその時じゃない」
「!!」
思いがけない答えだった。それが、僕の心にあえかな希望を灯す。
「……里香、死なないのか……?」
「死ぬよ」
すがる様に、発した問い。けれどそれは、あっさりと否定された。
「言ったでしょ。”今”がその時じゃないというだけ。あの娘は、死ぬ。いつか。必ず」
「………」
あまりにもハッキリとした宣告。言葉を、失う。そんな僕を、モモは黙って見つめる。
「……何だよ……それ……」
ボソリと呟く。
ギリ……
知らずの内に、手を握り締めていた。
それに気づいているのかいないのか。モモは、ただ黙って僕を見つめ続ける。その透明な眼差しが、再び僕に決意させた。
「……駄目……だろ……」
「………」
「それじゃ、駄目なんだよ!!」
そう。駄目なのだ。このままにしていたら、死神(こいつ)はいつか里香を殺す。連れて行く。そんなのは、駄目だ。今だけじゃない。これからも。これからもずっと、里香は生きていなきゃ駄目なのだ。
もう一度、拳を振り上げる。遠くで、黒猫が叫ぶのが聞こえた。視界の端で、郵便配達が身構えるのが見えた。でも、関係ない。ここで。ここで死神(こいつ)を何とかしなきゃ。渾身の力を込めて、拳を振り下ろした。だけど――
ガンッ
鈍い音が響いて、左肩に重い衝撃が走った。肩の骨が、ミシリと軋む音がする。
カハッ
食いしばっていた歯の間から、息が漏れる。そのまま、僕は尻餅を突く様に崩れ落ちた。
「ホント、少し頭を冷やしてくれないかな?」
僕の肩を打った大鎌を構え直しながら、モモが言った。
「ちく……しょう……」
小さく呻いて、大の字にひっくり返る。背中の下で、泥水がバチャリと耳障りな音を立てて散った。
情けなかった。本当に、情けなかった。これじゃ、夏目の時と何も変わっちゃいない。守らなきゃいけないのに。里香を、守らなきゃいけないのに。それも、相手は病気なんて手の出しようのない相手じゃない。手を伸ばせば、すぐそこにいる相手なのに。それを、どうする事も出来ない。ただ、いい様に転がされて、打ちのめされて。ああ、情けねぇ。情けねぇよ。戎崎裕一。お前、何で生きてんだよ。一体、何のために生きてんだよ。
「……忘れたの?」
静かな声が響いた。
仰向けに倒れた僕を、モモが見下ろしていた。表情は苦しげで、何だか打った自分が、打たれた僕よりも痛そうな、そんな顔をしていた。
……やめろよ。余計に惨めになるだろ。その優しげな視線に耐えられず、僕は顔を逸らした。けれど、そんな僕に構う事なく、モモは続ける。
「君があの娘を守ると決めたのは、そんなやり方でではないでしょう?」
……うるせぇよ。
「あの娘の心の糧になって、あの娘を支える事。それが、君達の在り方だった筈」
……分かったふうな事言うなよ。
「そんな事も、分からなくなったの?」
……ああ、うるせぇ。うるせぇよ。
そうさ。分かっていたさ。そんな事。分かりきってたよ。だけど、それじゃ駄目だった。駄目だったんだ。そんな綺麗事じゃ、里香は守れない。そんな空話じゃ、里香を生かす事は出来ない。もっと。もっと血肉のある方法じゃないと、里香と一緒にい続ける事は出来ないんだ。だから、僕は決めたんだ。どんな方法をとっても、あの”計画”を……
そう考えて、ふと思い当たった。
あの計画の一番の問題。生きながら、死ぬ方法。それが、どうしても分からなかった。糸の解れた生命(いのち)の行方は、人間(僕)じゃどうにもならない。でも、今ここに”そうじゃない存在”がいる。そいつは、人の魂を刈り取る存在。きっと、魂を自由にする術を持っている。そいつなら、僕の望む様な状況を作り出せるんじゃないか?
……一筋の光明が、見えた様な気がした。
「……なぁ……」
大の字に倒れたまま、僕は”そいつ”に声がけた。
「……何?」
僕を見下ろしながら、死神(そいつ)――モモはそう訊いてきた。
「お前、死神なんだろ……?」
黙って頷く、モモ。
「じゃあさ、魂とか好きに出来る訳?」
澄んだ瞳が、スゥと細まる。まるで、僕の心を見透かす様に。
「……”うん”と言ったら?」
曖昧だけど、概ね期待通りの答えが返ってきた。いけるかもしれない。
「それなら……」
雨が降っている。雨音に紛れない様にしないといけない。大きく口を開けて。出来るだけ、ハッキリと言葉にしよう。
「――オレの事、半分だけ殺してくれない?」
「………」
少しの沈黙の後、モモが口を開いた。
「それって、”脳死”にしてくれって事?」
「分かんのか?話早いな」
ニッと笑ってそう言うと、モモは少し悲しそうな顔をした。何だろな。こいつ。しょっちゅう泣きそうな顔をする。死神のくせに。
「お前も、知ってんだろ?里香がさ、オレの大事な娘が、死にそうなんだ」
「……今死ぬ訳じゃないって、言ったよね」
「でも、いつか死ぬんだろ?」
僕の言葉に、口を噤むモモ。泣きそうな顔が、ますます泣きそうなるけど、構わず続ける。
「駄目なんだよな。それじゃ、駄目なんだよ。里香はさ、もっと生きなきゃ駄目なんだ。5年とか10年とか、そんな短い時間で終わっちゃ駄目なんだよ。あいつさ、小さい頃から心臓の病気で、ろくな思いしてないんだよ。色んなもの、なくしてるんだ。だからさ、見せてやりたいんだ。凄いものとか、綺麗なものとか、もっと、もっと」
僕の脳裏に浮かぶ、ある日の光景。僕と一緒に自転車に乗りながら、里香は空を見ていた。青い空のずっと遠くを見て言っていた。「綺麗」だと。「世界って、綺麗」だと。その時の里香の瞳を僕は忘れない。
「駄目だよな。生きなきゃ、駄目なんだよ。里香は」
何度も噛み締める様にそう言って、僕はモモを見る。モモは、いつしか泣いていた。黒真珠の様な瞳が潤んで、ポロポロと涙が溢れていた。あはは。何だ、こいつ。本当に、変な奴だな。
「心臓なんだよ」
自分の左胸を掴んで、言う。
「心臓さえ……まともな心臓さえあれば、里香は生きれるんだ。」
それは、僕の中で動いている。力強く、鼓動を打っている。
「だからさ、やりたいんだよ。オレの心臓、里香にやりたいんだ」
「………」
モモは、何も言わない。黙ったまま、僕を見つめている。
「オレの心臓を里香にやるにはさ、オレが死ななきゃいけないんだよ。それも、完全に死んじゃ、駄目なんだ。頭だけ、頭の中だけ、死ななきゃならないんだ」
……雨が、強くなってきた。強くなる雨音に負けない様に、声に力を入れる。
「だからさ、殺してくれよ。半分だけ、頭の中だけ、オレを殺してくれ。全部済んだら、魂はお前にやるからさ」
シトシト
シトシト
雨が降る。雨幕と夜闇で霞む視界。ずっと黙っていたモモが、ゆっくりと口を開く。
「言ったでしょ。そんな魂なんて、いらない」
涙に潤んだ、だけど強い、そんな声だった。
「……足りないのかよ?」
僕は訊く。
「人間(ひと)の命の重さは皆同じって、聞いたんだけどなぁ……」
「君は、何も分かってない」
モモが、言った。強く、冷ややかに。
「人間(ひと)の命の重さが同じなら、あの娘と君の命も同じ重さ。そんな事も、分からない?」
「そんなお決まりの言葉、聞きたくねぇよ」
僕はそう言って、目を逸らす。何だか、僕を見下ろすモモの瞳を、凄く怖く感じたから。でも、構う事なく彼女は続ける。
「続く事が叶わなくなった自分の命を、他人のために使う人は確かにいる。そして、それはとても気高くて尊い事。でも……」
見下ろすモモの眼差しが、強くなる。それは、とても綺麗で、僕は思わず息を呑んだ。
「自分の命が絶える事を、その人達が望んでいたと思う!?」
「!!」
「生きたかったに決まってるじゃない!!生きていたかったに、決まっているじゃない!!君は言ったよね!?あの娘に、もっと綺麗なものを見せたいって!!でもね、そんなのは皆同じ!!命を渡した人!!その家族!!友達!!想う人達、皆、皆そう思ってる!!思って、願って、それでも叶わなくて、だから、せめてもの願いを込めて命の欠片を託すの!!生かすために死ぬんじゃない!!生きるために、生き続けるために、生かすの!!」
強い言葉だった。頭が、ガンガンと殴られる様だった。だけど、僕も引く事は出来なかった。倒れていた身を起こし、しぼみかけていた肺に力を込める。
「何が、悪いんだよ!!」
喉が裂けんばかりに、喚く。
「オレは里香を助けたいんだ!!生きていて欲しいんだ!!だから、オレの命をやるんだ!!オレは死ぬ訳じゃないぞ!!生きるんだ!!里香の中で、ずっと一緒に生きるんだ!!里香を守って、ずっと守って生きるんだ!!それの、何が悪いってんだよ!?」
全てを吐き出した。胸に溜まっていた思いの全部を吐き出した。ぶつけて、なぎ倒すつもりだった。だけど、
「そんなのは、ただの自己満足!!」
全ては、その一言で粉砕された。
「君がそんな事になって、誰が喜ぶの!?誰が褒めてくれると思うの!?君の母親!?友達!?学校の先生達!?違うね!!皆、皆泣くだけ!!そう!!君の言った通りだよ!!命の重さは、同じなんだから!!」
「……っ!!」
「そして、誰よりも――」
言葉に詰まる僕の耳で、モモの声が彼女の声と重なった。
「――君の勝手な思いで、たった一人生かされる、あの娘はどうなるの?」
「う……」
返す言葉は、もうなかった。力なく、うなだれる。そんな僕に、モモは最後の言葉を投げかけた。
「……君の考えは、望んだ命が叶わなかった人達と、それを譲り受けた人達に対する冒涜。そんな軽い魂なんて、あたしはいらない。天上になんか、導かない。勝手に、彷徨えばいい」
そして、モモは濡れていた眼差しをグイッと拭う。散った涙が、雨に混じって僕に降った。
「あたしの言いたかった事は、それだけ。後は、勝手にして」
クルリと踵を返すモモ。その背中を呆然と見つめる僕に、近寄ってきた黒猫が言う。
「……お前、モモはな、殺し屋じゃないんだ!!勝手に人を殺したりしないし、魂を奪ったりもしない。いつも、泣きながら魂を送ってる。優しいからな。そこんとこ、よく覚えとけ!!」
そう言い捨てて、去っていくモモの後ろを追っていく。やがて、彼女達の姿は雨幕の向こうに消えていった。
「……私達も、行きましょうか」
『そうだね。文伽』
聞こえた声に視線を向けると、杖を持った郵便配達が去ろうとしている所だった。去り際に、彼女がチラリとこっちを見て言った。
「……やっぱり、あなたにはまだ渡せないわね」
意味の分からない言葉に混じって、杖が『やれやれ』とぼやくのが聞こえた。
そして、彼女の姿も夜闇の中に消えていった。後に残されたのは、僕一人だけ。
「……何だよ……」
行き所のない憤りを、虚空に漏らす。答えをくれる相手は、もういない。
「何だってんだよ!!」
そう怒鳴って、地面を殴る。濁った雨水だけが、虚しく宙に散った。
その晩、遅くに泥まみれになって帰った僕は、母親にこっぴどく叱られた。
雨は結局、その日も止む事はなかった。
続く
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忘れてないですよ。覚えてますよ。ここの空気を・・・ここの土を!
とはいえ・・・久方足を運んで見たら、だいぶまたSSが増えておりますなぁ。
素晴らしいことです。私もこれくらい執筆できればと思うのじゃが・・・。
あ、そうそう!
エマステで十三月の翼、第5話を掲載しましたよ。
ちんたらペースで申し訳ない・・・。また更新のペース上げていきますので、どうぞお見捨てなきよう・・・。
ではでは、またー!