2017年10月23日
―皐月雨―・2(半分の月がのぼる空・しにがみのバラッド。・シゴフミ・クロスオーバー二次創作)
作成絵師:ぐみホタル様(https://skeb.jp/@Gumi_Hotaru)
こんばんは。土斑猫です。
クロスオーバー二次創作・―皐月雨―、二話更新です。
――雨夜――
病院に向かう車の中で、事のあらましを鬼大仏から聞いた。
今日の4時間目、里香達のクラスは美術の授業だったらしい。教室から、美術室へ移動する途中で、里香は倒れた。驚いたクラスメートが声をかけたけど、もう意識はなかった。すぐに保険の先生が駆けつけて、救急車が呼ばれた。救急車が来るまでの間、出来る限りの緊急処置が行われた。女子生徒達が円陣を組んで男子の視界を遮り、AEDの使用も繰り返し行われた。だけど、それでも里香の意識が戻る事はなかった。
話を聞いているうちに、また身体が震えてきた。二人で病院にいた時、屋上で里香が倒れた時の恐怖がよみがえる。冷たい汗が背中を濡らして、呼吸が乱れてくる。最悪の事態が頭いっぱいに充満して、思考も回らなくなってきた。歯が、ガチガチと鳴り始める。それを止めようとして、親指を口に突っ込んだ。上下に震える歯が指に何度も食い込んだけれど、その痛みも気にならなかった。
たまらずに、頭を抱え込もうとしたその時――
バシンッ
背中に物凄い衝撃が走って、僕は飛び上がった。
隣で車を運転していた鬼大仏が、平手で僕の背中をひっぱたいたのだ。
「な、何するんですか!?」
思わず涙目で抗議すると、
「しっかりせんか!!馬鹿者が!!」
と、車が揺れんばかりの声で怒鳴り返された。
「秋庭は今、必死で戦っておるのだぞ!!それを支えなければならん貴様が、そんな有様でどうする!?」
「……!!」
「さっきほざいたあの大口はどうした!?あれは嘘か!?」
鬼大仏の大声が、ドスンドスンと腹に溜まっていく。まるで、僕の怯えを押し潰す様に。だから、僕は返した。負けないくらいの、大声で。
「嘘じゃありません!!」
「ならば背筋を伸ばせ!!丹田に力を込めろ!!日本男児としての覚悟を、しかと見せてみろ!!」
「うす!!」
怒鳴り合う、僕と鬼大仏。半ばヤケクソで、声を張り上げた。
……いつの間にか、震えは消えていた。
里香が搬送された先は、私立若葉病院だった。当然だろう。この辺りでは一番大きな病院だし、何より、里香の事を一番よく知っている病院だ。
病院に着くと同時に車を飛び出した僕は、真っ先に救急外来の受付窓口に飛んでいった。訊くと、里香は救急処置室で処置を受けているらしい。そのまま、鬼大仏といっしょに処置室の方へうながされた。
処置室の前につくと、待合室にはもうおばさん――里香のお母さんの姿があった。椅子に座って俯いていたおばさんは、僕と鬼大仏に気付くと、腰を上げてお辞儀をした。鬼大仏は直立不動でお辞儀を返したけど、僕にそんな余裕はなかった。おばさんに飛びつく様にして、問いただす。
「おばさん!!里香は!?里香はどうなってるんですか!?」
「……落ち着いて。裕一君」
浮き足立つ僕をなだめる様に、おばさんが言う。
「まだ説明がなくて、分からないの……。もう少し……待ちましょう……」
そう言って僕をなだめるおばさんの顔は青ざめていて、目には何日も徹夜したかの様な隈が深く浮き出ていた。そう。一番辛いのは誰でもない。この女(ひと)なのだ。何年も前に、大事な旦那(ひと)を失って、遺された里香(娘)まで同じ病気で失いかけた。そして、ようやく繋ぎ留めた里香の生命も、またこうやって……。胸が、キュウと苦しくなった。
「裕一君。そんな顔をしないで……」
そんな言葉と共に、おばさんが僕の頬を撫でた。ヒヤリと冷たい、心地良い感覚が頬を包む。
「里香は、まだ頑張っているわ……。貴方は、きっと一番の力になる……。だから、辛いでしょうけど、戦って……。里香と一緒に……」
一番の、力になる。その言葉が、僕に大事な事を思い出させた。そう。この女(ひと)から里香を奪ったのは、病気じゃない。僕だ。あの日、あの明りの落ちた病室で、僕は全てを代価にして、この女(ひと)から里香を奪ったんだ。文字通り、全てをかけて。その僕が、里香の一番の力になれなくてどうするんだ!!
さっき、鬼大仏に叩かれた背中が熱を持つ。唇を、血の味が滲むくらいに噛み締める。そして、
「……はい!!」
僕は、おばさんに向かって力いっぱい頷いた。
おばさんが、その顔に笑みを浮かべたその時、
ガチャン
処置室の扉が開いて、中から一人の医者が出てきた。僕も、おばさんも、鬼大仏さえもが息を飲む。
「秋庭里香さんのご家族の方はいらっしゃいますか?」
口のマスクを外しながら、医者は静かな声でそう言った。
「『心室細動(しんしつさいどう)』……ですか……?」
おばさんが、医者に告げられた病名を繰り返す。
医者は「はい」と言って、説明を始めた。
「心臓は、電気刺激が順番に伝わる事によって規則的に収縮を繰り返しています。心室細動とは、この電気刺激が上手く伝わらなくなり、心筋……心臓の筋肉が無秩序な収縮を繰り返す……つまり痙攣状態になってしまっている事を言います。これが起こると、心臓は正常なポンプとしての役割を果たせなくなり、全身に血液を送る事が出来なくなります」
手にしたメモ帳に簡単な心臓の図を描きながら、医者は淡々と説明する。その態度があまりにも冷静なので、僕は軽い苛立ちすら覚えた。僕は、直ぐにでも里香に会いたかった。近くに寄って、その手を握り締めたかった。正直、何度目の前の扉を蹴破って中に飛び込もうと思ったか知れない。けど、そんな事をしても何の役にも立たない事もまた、確かな事だった。病気と言う災厄を前にした時、僕達はあまりに無力だ。その事を、僕は痛い程に分かっていた。結局、目の前の医者の意向に従うしか術はない。自分の苛立ちを理不尽なものと飲み込んで、僕は医者の説明に意識を集中させた。
「……この疾病の症状としてあげられるのは、脈拍の喪失や痙攣、意識の消失です。里香さんの現在の状態は、これにあたります。痙攣が4〜5秒続くと、3〜5分程度で脳に不可逆的な障害が残り、心臓停止後は約3分で50%が死亡する非常に危険な病態です」
ゴクリ……
小さく、喉が鳴る音がした。それが自分なのか、それとも他の誰かなのかは分からなかったけど。
「里香さんは、先天性の心臓弁膜症をお持ちになっています。おそらくは、これが原因で副次的に起こったものと言うのが、私の見解です。問題は、これが心不全等の重篤な発作によって生じたものである可能性ですが……」
……おばさんの顔が、目に見えて強ばった。きっと、僕も同じ顔をしていたと思う。医者の次の言葉を待つ時間が、途方もなく長く感じられた。そして、永遠とも思える様な感覚の果てに、医者はこう二の句を継いだ。
「幸い、そう言った致命的な病変の兆候は見られませんでした。一連の処置の結果、現在は心拍も正常値に戻っています。まだ、予断は許せませんが、とりあえず、直近の危機は脱したと見て良いでしょう」
「「「――――!!」」」
皆の顔が、一気に綻んだ。鬼大仏が大きく息を吐き、おばさんが両手で顔を覆う。僕ときたら、一気に全身の力が抜けてヘナヘナと椅子に座り込んだ。そんな僕達の様子を見て、医者は初めて笑みを見せた。
「発症の直後に、迅速な心肺蘇生とAEDを使用して除細動を行ったのが功を奏した様です。先にも言いました通り、心室細動は発症後2〜3分で処置を行わければ、救命率が極端に下がりますから。優秀な保険医が在籍なさっている様で、喜ばしい限りです」
僕の脳裏に、苦しい息の下で優しく声をかけてくる保険の先生の顔が浮かんだ。次に会った時には、大きな声でお礼を言おう。そう僕は心に決めた。
「――それで、今後の事ですが……」
緩んだ僕達の気持ちを引き締める様に、医者が真顔に戻る。
「今回は、あくまで運が良かっただけです。処置が迅速かつ外部的処置で対応出来るものであったため、辛うじて最悪のパターンは避けられました。しかし、ご理解しておられるとは思いますが、里香さんの病気は完治するものではありません。それが起因とされる以上、今後も、この様な事態が起こる事は十二分に考えられます。その時、今回の様に万事が上手くいく可能性は低いと言わざるを得ません」
――その事だけは、肝に銘じておいてください――
そう言って、医者は説明を終えた。
一番の危機は脱したものの、まだ油断は出来ない。里香はしばらく、入院する事になった。当たり前と言えば当たり前だろう。
救急処置室から個室に移された時、里香はまだ眠っていた。身体中に色んな機械のケーブルや点滴の管がつながれたその姿は、まるであの頃の様に……いや、あの頃よりももっと痛々しく見えた。
「それでは、何か異常がありましたらすぐに呼んでください」
機械や点滴の調整を終えた看護師さんは、そう言って出て行った。
鬼大仏はもういない。里香の状態が安定したのを見届けると、学校に戻っていった。
「担任にはわしから言っておく。お前は秋庭についていてやれ。明日も、休んで構わん」
去り際に、そんな粋な言葉を残して。
おばさんもいない。入院に必要なものを取りに、家へと戻っていた。僕に「里香をお願いね」と託して。
病室には、僕と里香の二人だけだった。
ピッピッピッ……
静かな部屋の中に、心電図の機械がリズムを刻む音だけが淡々と響く。気が付くと、窓の外はもう夜闇に満ちていた。雨は、まだ降っているらしい。細い水の筋が、病室から漏れる光に当たって、時折キラリキラリと閃いた。時が経つにつれて、外の闇はどんどん濃くなっていく。それはまるで、里香を呑み込もうと迫る魔物の様に見えた。
「……!!」
馬鹿げた妄想を振り払う様に、立ち上がる。そのまま窓に近づくと、外の闇を遮る様に力いっぱいカーテンを引いた。
シャッ
小気味よい音といっしょに、カーテンが閉まる。照明の光が部屋にこもって、ほんの少し明るさが増した様に思えた。そう言えば、家に連絡をしてなかったな。どこかぼんやりとした頭で、そんな事を考えた時――
「……ん……」
微かな声が聞こえた。
「!!」
思わず振り返ると、それまでピクリとも動かなかった里香の身体が身動(みじろ)ぎするのが見えた。そして……
「……ゆう……いち……」
聞こえた。確かに、聞こえた。名前を。僕の名前を、呼ぶ声が。
急いでベッドに駆け寄ると、里香に向かって声がけた。
「里香!?気づいたのか!?里香!?里香!!」
僕の声に反応する様に、閉じていた里香の眼差しが微かに開く。
「ゆうい……ち……?」
「ああ!!分かるか!?オレだよ!!ここにいるぞ!!ここにいるからな!!」
おばさんよりも誰よりも、僕の名前を真っ先に呼んだ。その事に、胸の中がカーッと熱くなる。里香が、求める様に手を伸ばしてきた。掴んだその手が、温かい。里香の命を確かに感じる。いつの間にか、僕は泣いていた。みっともないと思ったけど、止める事は出来なかった。ボロボロと涙をこぼし、鼻をズルズルとすすりながら、僕は里香の手を握り続けた。滲む視界の中で、里香が微かに微笑んだ様に見えた。
少しして我に返った僕は、急いでナースコールを押した。すぐに医者と数人の看護師が駆けつけてきて、里香を診始めた。病室の中が騒がしくなる中、おばさんが戻ってきた。里香の意識が戻った事を知ったおばさんは、「ありがとう」と言って僕を抱き締めた。
里香が診察を受けている間に、僕は家に連絡をした。薄々、何かを感じ取っていたのかもしれない。母親は、「今夜は帰ってこなくてもいいよ」と言うと、最後に「気張んなさい」と言って電話を切った。
この病棟の一般電話は、ディルームの中にある。昼間は見舞い客や気分転換に出てきた患者なんかでそれなりに賑わっているけれど、日も暮れた今となっては人影もまばらだった。テーブルに座ってテレビを見ていた幾人かに形ばかりのお辞儀をして、ディルームの出口に向かう。もう二、三歩で廊下に出ようとした時、ふと僕の目を捉えるものがあった。それは、ディルームの片隅に設置された本棚。面会や手術の終わりを待つ人達が、暇潰しをするための本が何冊か収められている。週刊誌や漫画なんかの軽い読み物に混じって、その本は置かれていた。背表紙の”心臓”と言う文字が妙に気になる。本棚に近づくと、件の本を手に取る。……返した表紙には、仰々しい文字で「心臓移植を考える」と言うタイトルが大きく印字されていた。
病室に戻ると、まだ診察は終わっていなかった。どうやら何かの処置もやっているらしい。早く里香の元に戻りたかったけど、仕方がない。廊下に出て、診察が終わるのを待つ。ふと窓の外を見ると、暗く曇った夜空が見えた。何となく窓を開けると、ヒヤリと冷たい外気が流れ込んできた。シトシトと降る雨音が耳に入ってくる。目を凝らして空を見たけれど、見えるのは厚く重なる雨雲だけ。月は、見えなかった。
しばしぼんやりと空を見ていると、突然窓がバチンと閉められた。危ないな。もう少しで鼻を挟む所だったぞ。誰だ、こんな面白くもない冗談かますのは。かなりムッとしながら横を見ると、一人の看護師が立っていた。
「こんな日のこんな時間に、窓開けてんじゃないよ。寒気(かんき)が入ってくるだろ」
懐かしくて、聞き慣れた声。ああ、そうか。来てくれたのか。
「お久しぶりです。亜希子さん」
そう言って、僕はその女(ひと)に頭を下げた。
「何とか、踏み止まってくれたみたいだね。良かったじゃないか」
「ええ……。本当に……」
亜希子さんから渡された缶コーヒーをすすりながら、僕はそう言って頷いた。考えてみたら、今日の昼から何も腹に入れてなかった。熱いコーヒーが胃袋に染みて、僕はハァ、と大きく息をついた。
「その割には、シケた面(つら)してるね。何か、思う所でもあったかい?」
「………」
「まさか、ここに来て怖気付いてんじゃないだろうね?全部、覚悟の上だった筈だろ?里香の事は」
「……当たり前じゃないですか……。分かってますよ。全部……」
答えた声は、自分でも驚く程弱々しかった。
そう。全部は分かっていた事なんだ。おばさんからも、夏目からも、散々に言われていた事だった。僕自身、覚悟はしてた。してる、つもりだったんだ。だけど、今回の事は想像していたよりも強く痛く、僕を打ち据えていた。理由は分かってる。僕は、いつの間にか緩んでいた。里香が退院してからずっと、僕達は光の中にいた。もちろん、里香の病気の事を忘れていた訳じゃない。里香の様子にはいつも気をつけていたし、もしもの時の事を考えずにいた訳じゃない。だけど、楽しく穏やかに過ぎていく毎日の中で、僕の中で”もしも”は本当の意味で”もしも”になってしまっていた。いつの間にか、思っていたんだ。僕達はこのまま、歩いていけるんじゃないかって。踏み外す事も、落ちる事もなく。目の前の細い道を歩いていけるんじゃないかって。そう思い始めていたんだ。だけど、そんな思いは今回の事で完全に打ち砕かれた。里香に絡みついていた闇は、まだしっかりと里香を捕らえていた。隙があれば里香を引き込もうと手ぐすねを引いている事を、改めて思い知らされたんだ。
「亜希子さん……」
「うん?」
知らずのうちに、僕は亜希子さんの事を呼んでいた。
「里香はやっぱり、こうなんですよね……。こんな思いを、一生抱えて行かなきゃならないんですよね……」
「今更だね。何だい?泣き言なら、聞かないよ」
亜希子さんは、相変わらず手厳しかった。でも。それでも。今、僕はこの女(ひと)に聞いてもらいたかった。
「オレ……何も出来なかったんですよ……。里香があんなになっている間も、泣いたり喚いたりするだけで、本当に、何も出来なかったんですよ……」
そう。僕は何も出来なかった。保険医の先生。鬼大仏達。病院の医者や看護師の人達。里香を助けたのは、そんな大人達の力。僕自身は、その周りで右往左往するだけ。それどころか、僕自身が助けられなきゃならない有様だった。
「……決めたんですけどね……。決めてた筈だったんですけどね……。オレが里香を守るって……。守って生きていくんだって……」
僕には分からなくなっていた。僕が、里香のそばにいる意味が。僕が、里香に何を出来るのか。全然、分からなくなっていた。
「……何か、ないんですかね……。オレが、里香にやってやれる事……。里香のために、出来る事……」
「……泣き言は聞かないって言ったろ」
そう言って、亜希子さんは抱えていた何かを投げつけてきた。
「うわっぷ!?」
頭に被さったそれを取って見ると、フカフカの毛布だった。
「仮眠室からくすねてきた。どうせ、今夜は泊まるつもりなんだろ?宿泊室が空いてるから、そこで寝な」
少しドスを潜めた声で、亜希子さんが言う。
「あんた、疲れてんだよ。ゆっくり寝て、正気に戻りな。里香なら心配しなくていいよ。院内(ここ)なら、何かあればすぐに対処出来る」
「………」
僕は答えず、ただ毛布を抱え込む。
「じゃあね。あたしはそろそろ戻るよ。仕事があるからね」
そう言って、亜希子さんが踵を返した。
その背に、僕は声をかける。もう一つだけ、訊きたい事があったから。
「……亜希子さん」
「何だい?」
「里香の病気って、心臓弁膜症ですよね」
「そうだよ」
「心臓が脆いから、手術が難しいんですよね」
「らしいね」
「……じゃあ、心臓そのものを取り替えたら、どうなんですか?」
「………」
少しの、間があった。
「……何、言ってるんだい?」
「脆い心臓そのものを健康なのに取り替えたら、治るんじゃないですか……?」
亜希子さんが振り返った。とても、怖い顔をしていた。
「素人考えで話すんじゃないよ。大体、代わりの心臓を何処から持ってくるのさ?」
思った通りの言葉だった。だから、僕は”それ”を指差して、用意していた言葉を言った。
「ここに、あるじゃないですか」
「!!」
亜希子さんが、息を呑むのが分かった。僕の指は、僕の左胸を指していた。
「オレの心臓、里香の心臓の代わりになりませんか?歳も同じだし、合うんじゃないですか?」
亜希子さんの顔から、表情が消えた。
「………」
「………」
また、少しの間。その後、亜希子さんがツカツカと近づいてきた。そして、
ゴキンッ
「いって!!」
思いっきり、グーで頭を殴られた。
「おかしな妄想話してるんじゃないよ!!」
囁く様な、けれど明確な怒りのこもった声だった。
「心臓移植ってのはね、そんな軽いもんじゃないんだ!!何血迷ってんのか知らないけどね、ガキの戯言でも言って良い事と悪い事があるんだよ!!」
「………」
「いつまでも馬鹿面晒してないで、さっさと飯食って寝な!!」
俯いたまま頭をさする僕に向かってそう言い捨てると、亜希子さんは肩を怒らせながら歩き去って行ってしまった。
「………」
亜希子さんの姿が廊下の向こうに消えるのを見届けると、僕は服の下に隠していた本を引っ張り出した。厚いハードカバーのその表紙には、「心臓移植を考える」の文字が、仰々しく印字されていた。
ペラ……ペラ……
無言でページをめくる。内容は難しかったけれど、そこは一般書。僕でも、何とか理解出来るレベルだ。それを少しずつ咀嚼しながら、頭に刻み込んでいく。しばらく読んだ所で、里香の病室の扉がカチャリと音を立てた。どうやら、診察が終わったらしい。僕は本を閉じると、急いで腰を上げた。
夜中に、ふと目が覚めた。ぼんやりとした視界に、白い天井が映る。ほんの少し前まで、いつも見ていた光景。耳に聞こえるのは、ピッピッと言う電子音。機械が心電図を刻む音。これも、昔から聞き慣れた音。身体が重い。動かない。全身の筋肉が、動く事を拒否している。この感覚も、懐かしいと言うにはまだ日が浅い。ああ……戻って来ちゃったんだな……。おぼろげな思考で、思う。分かってはいた。いつかは、戻ってこなければいけないのだと。けれど。だけど。いたかった。もう少し。ほんの少し。あの青空の下に。降り注ぐ、光の下に。
「……ゆう、いち……」
かすれる声で、彼の名を呼ぶ。あたしを、あの光の下へと連れ出してくれた男(ひと)。何もなかったあたしに、沢山のものをくれた男(ひと)。まるで、あの世界との繋がりを求める様に、彼の名を呼ぶ。
だけど、返事はない。いないのだろうか。あたしの声が小さくて、聞こえないのだろうか。それとも、全ては夢でしかなかったのだろうか。
分からない。
分からない。
分からない。
胡乱だった思考が、かすみ始める。ゆっくりと襲ってくる、睡魔。この眠りの後、また目覚める事は出来るのだろうか。あの世界を見る事は、出来るのだろうか。そして、彼に会う事は、出来るのだろうか。
辛うじて動く視線を、横に流す。彼の姿が、ないだろうかと。けど、望む姿は見つからない。代わりに視界に入ったのは、クリーム色のカーテンと、その隙間から覗く外の色。雨が、降っているのだろうか。外は、深い闇に満ちていた。月も、見えない程に。闇が迫る。あたしを、連れに来る。意識が途切れる寸前、頬を温かいものが流れる。こぼれたそれが枕に染みる様に、あたしの意識は滲んで消えた。
シトシトと、雨が降っていた。深々と、寒い夜だった。その冷たい闇の中で、”彼女達”は見つめていた。
『文伽、今が機会(チャンス)だよ?手紙、渡さないのかい?』
右手に持った相方の問いに、郵便配達の少女――文伽はゆっくりと首を振る。
『どうしてだい?』
「今渡しても、送り主の思いはあの子に届かない。それじゃ、意味がないわ」
その言葉に、右手の相方は溜息をつく。
『やれやれ。スケジュールが詰まってるんだけどなぁ』
「上手く調整しておいてちょうだい」
そう言うと、文伽はクルリと踵を返す。
フワリ
闇の中でひるがえる、紺色の外套(マント)。
「おやすみなさい。せめて、良い夢を……」
そんな言葉を残し、少女の姿は闇の向こうに溶けて消えた。
その頃、戎崎裕一は宿泊室の一角にいた。
本当は秋庭里香の側にいたかったのだが、病院のルールに逆らう事は出来なかった。と言うか、本来部外者である彼が泊まり込む事自体、本来はルール違反である。秋庭里香の母親の申請があって、特別に許可を貰っているのだ。これ以上、我侭を言う事は出来ない。とりあえず、秋庭里香の病室には、彼女の母親が詰めている。看護師が短い間隔で見回りに来るし、何かあれば、夜勤の医者が飛んでくる。大丈夫。心配する事は何もない。自分で自分に言い聞かせ、彼は今ここにいる。
自分が秋庭里香に出来る事は何もない。だから、戎崎裕一は今出来る事をしていた。
彼は、本を読んでいた。
灯りの落ちた宿泊室の片隅で毛布にくるまり、携帯のライトで手元を照らし。
彼は、本を読んでいた。
いつまでも。いつまでも。飽くる事なく。まるで、それが自分に与えられた役目であると言わんばかりに。
彼は、その本を読み続けた。
シトシトと雨の降る、深々と寒い夜だった。
続く
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