2016年12月10日

日中戦争、中国対日本の全面戦争‐中国現代史リポート(文学部史学科専門課程)

 日中戦争、中国対日本の全面戦争‐中国現代史リポート(文学部史学科専門課程)






 初めに、1930年以降から第二次大戦終結の時代にかけて、中国と日本との軍事力や経済力を考えると圧倒的に中国は不利だった。

この劣勢下で中国の粘りある抵抗戦が繰り広げられることになる。

この日中の戦いは、第二次世界大戦の中のひとつの重要な戦いとなり、他国を巻き込んでの壮絶な戦いとなる。


 日中戦争当時両国の戦力を比較すると、日本は、現役兵38万人、予備兵160万人、海軍の艦艇は190万トン、飛行機2700機である。

中国は、現役兵170万人、訓練兵が150万人、海軍艦艇は6万トン、空軍は314機である。

兵力だけ見ると中国が圧倒しているが、当時はすでに戦争の重要なポイントが陸から空に変わっており、制空権を握るのが戦いの重要な要素になっている。

制空権を日本が圧倒的に握っていることが空軍の数から分かる。

また、中国の陸軍兵力は数では圧倒しているが、陸軍の指揮系統はばらばらで、装備や訓練も日本と比べて弱いと見る事ができる。

そして、中国国内はいまだに完全な統一体制ではなく、国民党と共産党の勢力争そいもまだ解決していない。

それに加えて、国内では列強による半植民地状態からも抜け出せていないのが現状である。

日本は、天皇を中心とした統一的な軍制であり、訓練も行き届き、装備も充実していた。
 

 日中両国の軍事面だけを見れば、中国は圧倒的に不利なのだが、もっと、広い視野で見れば中国は有利と言えるだろう。

近代以降の戦争は、弟1次世界大戦に見られるような国をあげての総力戦によって勝敗が決定する。

中国は日本に比べて遥かに広大な国土とはるかに多い人口を誇っている。

国内だけでも、資源は豊富に存在している。

そして、日本は中国に比べると国土は比べ物にならないぐらい狭く、また、人口も少ない、地下資源も少ない。

総合的な国力となると、圧倒的に中国が優勢と言えるだろう。

一時的な戦闘では日本が有利だが長期戦となると、中国の方が有利なのである。

その他、国際的な世論も重要となり、日本は物資の供給を外国から閉ざされたら戦争を継続することは困難である。

中国にとっては、長期的に粘り強く戦えば勝利は見えてくるのである。


 日中戦争当初、中国では統一的な抵抗運動ではなかった。

国民党の関心は日本よりむしろ、国内の共産党勢力に向けられていた。

国民党は日本との戦いはできるだけ避けて、兵力を温存する作戦である。

日本とは講和によって戦争を終結して終戦後は共産党勢力の打倒による中国統一構想であった。

しかし、日中戦争は、戦火を中国全土に拡大していくことになる。

こうした情勢で、国共はお互いに協力して日本と対決する方向へと向かっていく。

この国共の協力体制は日中戦争における1つの重要な転換期となる。

中国国民が一丸となって日本と戦う体制が整いつつあることを意味していた。

中国の主な抵抗運動はゲリラ戦による戦いである。

ゲリラ戦は兵力の差や装備の差があっても、十分戦える戦法である。

中国は粘り強く戦い、日中戦争は泥沼化していく。

この時点で日本の敗戦はほぼ決まっていたのだが、石油を断たれた日本は新たな戦争をはじめる。

その戦争が太平洋戦争である。

戦火は広がり世界大戦となっていく。


 日中戦争以前の世界情勢を考えると、第一時世界大戦をへて、壊滅的になった経済をアメリカの資本力でなんとか持ちこたえていたが、アメリカ国内投資の増大から世界恐慌が始まる。

アメリカやヨーロッパ列強諸国は植民地や広大な領土を使ってなんとか恐慌対策をしたが、日本やドイツなどは、恐慌対策がうまくいかなかった。

日本はその打開策として中国進出策を強化していく。

日本は中国進出の過程で、国際的な批判を受け、だんだんと、国際舞台から孤立していくことになる。

そんな中、日本はドイツやイタリアと親交を深めていった。

そして、枢軸国を結成する。

中国は抗日戦の過程で、アメリカやソ連、イギリス、フランスといった、対枢軸国の国々と協力して日本と戦う態勢を作り上げていった。

世界の国々は、大きく分けて、2つの陣営に分かれて戦うことになる。

日中戦争も日本対中国の2国間の争いから、世界大戦の一環としての連合国対枢軸国の戦いの1つとして捕らえられる、国際的な戦争へと変わっていった。


 国際的な戦いになると、他地域の戦争も重要となり、ヨーロッパ戦線でのドイツの敗北は東アジアでの日中戦争にも大きな影響を与えることになる。

ドイツの敗北によって日中戦争における中国の勝利は、確実になったと言えるだろう。


 8年にも及ぶ日中戦争は現在から見れば、遠い昔話と思えるが、しかし、実際はそれほど昔ではない。

今現在でも実際に、日中戦争時に戦った人が生きているのである。生きている人がいるからこそ、現代でも日中戦争の事は重大な問題である。

最後に、日本と中国との関係は同じ東アジアで、しかも、文化的にも非常に似ている国なので、両国の関係は非常に重要である。

歴史的に見ても、日本は中国の真似をして、文化を作ってきた。

これからの時代は日本と中国はお互いに仲良くしないといけないのである。

地理的に海を隔ててではあるが、隣接しているがゆえに、両国は過去何度となく戦争繰り返してきた歴史をもつ。

しかし、戦争は決してやってはいけない行為だと思う。過去の反省を乗り越えて、両国は友好を保つべきである。

(中国抗日戦争史 劉大年 白介夫 桜井書店 参照)
 

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2016年12月09日

中国の近代化とは?‐伝統的封建国家から近現代的な国家への移行と孫文‐通信教育課部専門課程、中国現代史リポート

 中国の近代化とは?‐伝統的封建国家から近現代的な国家への移行と孫文‐通信教育課部専門課程、中国現代史リポート


はじめに、清朝政府の軟弱な外交から辛亥革命が起きる。

革命の成果は摘み取られることになるが、しかし、辛亥革命の精神は国民の心にのこり、それが、学生運動となり、この運動が学生以外にも広がり、労働運動など市民運動に繋がっていく。

そして、またのちの国民革命へと繋がっていく。

また、辛亥革命の影響は、政治の分野にのみならず、中国の伝統的な社会を変えていった。

それは、服装の変化や辮髪の禁止や纏足の禁止など近代的な社会への変化に大きな影響を与えることになる。

また、対外的には2つの世界大戦や日本との戦争など国際情勢は波瀾に満ちていた。


 清朝はヨーロッパ列強や日本などの外国との外交で消極的な売国外交を行うことになる。

それは、日清戦争時の外交にみられるように、広大な中国からみれば、東北部の局地戦での敗北によって、あっさりと負けを認め、簡単に領地の割譲や賠償金の要求に応じるような外交であった。

5.4運動時に出されたビラには(中国の土地は征服されても、譲り渡したりはしない。中国の人民は殺戮されても、屈服はしない)(中国の歴史859ページ引用)という文章が書かれている。

外国に屈することなく戦い続けることを望んでいると見ることができるだろう。

中国の国民は清朝の軟弱な外交のために外国の侵略を許し、半植民地状態にあまんじていると考えている。


 清朝に対する不満から辛亥革命が勃発したと考えることができる。

辛亥革命の始まりは 1911年の武昌での蜂起である。

武昌蜂起をきっかけに次々に各省が独立を宣言することになった。

各省が個別に独立を宣言すると次ぎは、統一的な機関が必要になってくる。

そうした中、南京で各省の代表が集まり孫文を大総統に選出した。

1912年ここに中華民国が成立した。


 清朝政府は中華民国に対抗する手段として軍事的な影響力をもつ袁世凱を登用した。

袁世凱が清朝政府の実験を握ることになった。

そして、袁世凱と孫文との間で妥協案が結ばれることになった。

孫文は清朝政府の崩壊と皇帝の退位をもとめ、その代わりに袁世凱の中華民国大総統の就任であった。

袁世凱が中華民国の大総統に就任してからは、彼による独裁政治がはじまり、辛亥革命の成果が摘み取られることになってしまった。
 
しかし、1度根付いた民主共和国の概念は深く人々の心にしみついて、革命の心は消えてはいなかった。


 1919年初めての世界大戦が終了した激動の時代、戦勝国の1つとしてパリ講和条約に出席したが、しかし、何一つ情況は変わらずに半植民地状態から抜け出すことはできなかった。

こうした情勢の中、学生によって5.4運動が展開されていく。

これは、愛国心からくるもので、日本やヨーロッパを中心とした植民地主義国家に対する反発運動である。

学生たちの怒りは、軟弱な外交を行った3人の政治家に向けられた。

5.4運動の影響は国内では、学生達の愛国心ある行動に共感を覚えて、さまざまな、運動に影響を与えていく。


革命後の中国は対外的には、外国諸国に対して強い姿勢がでてくるのもたしかなことである。

日本やヨーロッパなどの植民地支配に対して徹底的に戦う姿勢がこのころからでてくるのではないだろうか。

例えば、日本と戦った(日中戦争)は8年近くも戦い続け決して屈することはなかった。

1894年の日清戦争と比べると国家外交の姿勢に大きな違いがあることが分かる。

東アジア最初の共和国として出発した中華民国だったが、国内は分裂状態でさまざまな問題を抱えて、半植民地状態から抜け出せずにいた。


 袁世凱の独裁政治後、孫文は中国国民党を率いて新たな道を模索した。

孫文は中国の模範にソ連の存在を考えた。

ソ連は民衆運動からロシア革命となり、反帝国主義を実現させて、市民革命からなる国家を作った成功例である。

そして、1921年に中国共産党が創立されて、国民党と共産党は国民革命の遂行のために共同闘争体制を作り上げた。

そして、最初の運動が国民会議運動であった。

孫文死後も国民革命の火は消えずに中国各地に国民革命は広がっていくことになる。

孫文がソ連に国家の模範を見たことは、のちに、中国がソ連のような共産国となるきっかけとなっただろう。

孫文の中国における影響力を考えれば自然な流れと言えるだろう。

第2次大戦後おこなわれる、共産主義と資本主義との戦いのなかで、朝鮮戦争において、共産国側として、北朝鮮を軍事的に支援することに繋がったと言えるだろう。


 最後に、ヨーロッパ列強の猛威がアジアにまで拡大され、皇帝が支配する伝統的な国家システムでは列強国に太刀打ちすることはでず、中国は半植民地化になった。

そんな中、新しい国家システムを作り真の独立を目指した。

辛亥革命から続く一連の市民革命は1つの時代の大きな転換期と言えるだろう。

伝統的な国家から近代国家への転換期である。

最終的には中国は、国家のモデルを列強国ソ連に求めることになった。


(中国の歴史 小島晋治 並木頼寿 明石書店 2001年 参照)
(中国史 尾形 勇 岸本美緒 山川出版社 1998年 参照)


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2016年12月07日

里甲制と明朝衰退とは‐通信教育課程文学部史学科‐中国近世史リポート

里甲制と明朝衰退とは‐通信教育課程文学部史学科‐中国近世史リポート

 まず、里甲制を簡単に説明すると、1381年に洪武帝が制定した郷村組織である。

地主や自作農などの土地所有者を地理的に隣接した集まりを110戸集めて編成を行って、そして、この110戸の集まりを1里と呼んで地方行政の単位とした。

110戸の中で裕福なもの10戸を里長戸とした。

また、のこった100戸を10甲に分けて編成を行った。

そして、1里の中で、1里長戸と10甲が10甲首となって、賦役黄冊づくりや賦役の徴収、里内の治安の維持、中央への物資調達、地方公費の負担など、非常に重い負担と責任を課せられた。

しかし、毎年1年ごとに交代を行うために、実際は10年に1度の役回りであった。

以上の1里が地方行政末端の組織となって、徴税や正役、雑役を課すための機関として機能した。

このように明の行政は里甲制を通じで、全国のいたるところまで、その支配権を及ぼすことができたのである。

里甲制はあくまで、土地所有者にかかる税、言い替えるなら、土地に掛かってくる税を対象としているために、小作農や奴隷的な人達、雇われ人を対象にしたシステムではないのである。


 明初期では、土地の所有権はほとんどが自作農や地主で占められていた。

そのため、明初期では、里甲制はうまく機能して、国家の財源や労働力の確保に役だっていた。

しかし、明中期に入ると少し事情が変わってくる。

明中期に入ると、国内生産量の増加から、商品流通が盛んになり商品貨幣経済が発達していく。

日本の江戸時代も明と同じなのだが、商品貨幣経済が発展してくると、土地(石高)を基礎にした税制度では時代の流についていけないのである。


 また、明中期は皇室の所有地が増え、それに伴って、貴族や宦官、官僚など明王朝で地位が高い層の人たちが土地所有を増やして、自領の拡大に努めていった。

説明を付け加えると、明王朝の中央や地方行政の中枢を握っているのは、科挙試験に合格した科挙官僚である。

科挙官僚達は非常に強い権限と特権を有していた。

科挙官僚の給料自体は少ないのだが、科挙官僚としての特権を活かして、財産を増やして大土地所有を形成していった。

地位の高い人の大土地所有が増えると言うことは、言い返ると、土地を持たない人が増え農村の階層化が生まれることを意味している。

では、地位の高い人達の大土地所有がなぜ、明王朝にとってマイナスになるのかと言うと、特権階級の地位の高い人達は、法の隙間を見つけて税負担を逃れた。

そうなると、里甲制は土地所有者を対象にいた税制度なので、自作農層が減少した事が税の収入が減った1つのマイナス点となった。

その他、明中期の自作農や中小地主は税収減少のしわ寄せがきて、重い重税を課せられた。

そうなるとますます、土地を手放す地主や自作農が増えてくるのである。

まさに、悪循環である。

貧富の差が激しい時代を迎え、里甲制そのものを維持していくのが困難になってきたのである。


 明末の16世紀という時代は、世界的に急変した激動の時代である。

ヨーロッパ人が多数アジアまで進出して、国際的になってきた。

国際商業には、新大陸からもたらされた銀が使われ明にも大量の銀が流入した。

このような時勢の中、税制度はこれまでの複雑な税制度から銀納による簡素な税制度の一条鞭法に変わった。

この一条鞭法により、税制度は簡素になったが、しかし、農民の負担自体は以前より多くなった。


 明末は、ますます商品流通経済が促進された時代である。

16世紀の商品流通経済の活性化が里甲制に与えた影響として、財を求めて農民が商人として出稼ぎを行う者が増えたことで、農業が軽んじられて、農民の数か減ったことである。

農民の数が減ることは国家財政が減ることを意味している。

商人として能力がある者はたくさんの財を獲得してのし上がっていった。

しかし、大半の者は落ちぶれて、ますます、貧富の差が激しくなり、富を持ったのは貧民を押さえつけて、贅沢で優雅な暮らしをして、まさに、お金が全てという、少し混沌としたおかしな時代になった。


 明末は、周辺国が力をつけた時代でもあり、明は対外的に守勢に立たされることになる。

明北方では依然としてモンゴルの侵入が続き、また、和寇の勢力は活発化していた。

いわゆる、北虜南倭の活動がピークに達した時代である。

北虜南倭以外にも、明北方の女真族の勢力拡大や日本の朝鮮出兵などがある。

対外的に守勢に立たされると軍隊の維持費などがたくさんいる。

お金がたくさんかかるために、そのしわ寄せが国内に求められて、農民はますます、重税をかけられたのである。

農民は反乱や土地を放置して逃亡や移民する人が増えて、里甲制による、税収入は、ますます減少した。


 明代はちょうど時代の変革期で自然経済から商品貨幣経済に移行する時代であった。

明の対外的には朝貢貿易、内部には里甲制の2つの政策の柱はこの経済システムの移行についていけないために明は衰退の一途をたどる。

それに伴い権力者の腐敗が時間を刻むと同時に進んでいく。

これは中国歴代王朝でも見られる現象で宦官、外戚、官僚の腐敗により国力が低下する。

どんなに強力な王朝でも必ず滅びるのが歴史の宿命なのではないだろうか。

明が崩壊したのは歴史の必然なのかもしれない。

そして、最後に思うことは明末の農業が軽んじられて、お金の世の中っていうのは、今の日本を想像してしまった。

(中国史 尾形勇 岸本美緒 1998年 山川出版社 参照)


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2016年12月05日

明の対外政策について、歴代皇帝の対応‐文学部史学科通信教育部‐中国近世史リポート





明の対外政策について、歴代皇帝の対応‐文学部史学科通信教育部‐中国近世史リポート


 明代の対外政策は朝貢貿易なきには語ることはできない。朝貢貿易とは明が他国から貢ぎ物を受け取り、そして、明が他国に恩賞を賜ることである。


 明を建国した洪武帝(1328〜1398)の対外政策は、外交によって明の力を誇示しようと考えた。

アジアでは本来、日本も含めて中国を中心に置いて、中国を宗主国として崇める思想がある。

洪武帝はこの思想の完全なる確立を対外政策の柱にしていた。

そして、洪武帝は朝貢貿易を通じて他国を間接的、形的、形式的に周辺国を支配しようとした。

少し難しいが、支配と言うよりは、保護や親と子の関係のような、儒教的考えで、国の格式の位置付けと言ったほうがいいのかもしれない。

朝貢貿易を通じて周辺国は明を宗主国と崇めた。

明建国当時の情勢は、モンゴルを撃ち破って国を建国した明であったが、しかし、モンゴルの残存勢力は強大で強く、いつ明がやられても、おかしくない状況であった。

建国してすぐの時は、まだ、明国内も安定しているとは言えない。

そのため、明は周辺国との間は平和に友好関係を築く必要があった。

そして、モンゴルやモンゴルと結びつく勢力にだけ、武力を集中させてモンゴルに対抗する必要があった。

結果が平和的な朝貢貿易と北方にあるモンゴル国境の武力集中政策である。


洪武帝の政策で、朝貢貿易と表裏の関係にあるのが海禁政策である。

情勢として、海賊行為の倭寇の活発化や元末の残存勢力の盛り返しがあった。

洪武帝は新政権の秩序と安定を図るために海禁政策に踏み切った。

海禁政策とは朝貢貿易以外の貿易の禁止と朝貢貿易以外の外国船の来船の拒絶である。

国民に対しても下海の禁令を発して、いっさいの海外渡航を禁止した。

洪武帝の対外政策は基本的には明王朝の対外政策としてこれ以後長きに渡って継続されることになる。


 次ぎに、3代目皇帝の永楽帝(1360〜1424)は基本的には洪武帝の政策を受け継ぎ、そして、更に朝貢貿易を促進していった。

しかし、洪武帝と違う点は、洪武帝は朝貢貿易に制限を設け、外国に武力ではなく平和外交を進めていた。

これに対して、永楽帝は積極的に朝貢貿易を推し進めて、外国には、5度にわたるモンゴル親征や鄭和の南海経路、ベトナム征服などの積極的な対外政策を行った。

特に、皇帝自らが万里の長城を越えてモンゴルに攻めこむなんて、中国の歴史上でもあまり例がなく、永楽帝の対外政策の心構えがよく分かる出来事だと思う。

永楽帝は帝位を奪って皇帝になった。中国は儒教の国である。

中国は物事の道理やしきたり、順序を大切にする国民性である。

そのため、永楽帝は靖難の変の汚名があるため、大義名分がほしかったのではないだろうか。

だから、洪武帝の精神を受け継ぎ自らの正当性を示し、対外遠征をすることで国民の目を外にむけ、また、皇帝自らが遠征を行うことで国民の信頼や団結間を作っているのではないだろうかと思う。


 次に、明5代皇帝宣徳帝(1399〜1435)は基本的にはこれまで通りの朝貢貿易を行ったが、永楽帝との違いは、永楽帝は積極的に武力で他勢力を制圧したのに対し、宣徳帝は、ベトナム放棄や北方防衛線の後退、北方の長城線固守政策に代表される、消極的な外交政策を行った。

他民族を武力で制圧して統治するのは、非常に難しい。例えば、ベトナムでは断続的に民族抵抗運動が発生した。ベトナムを統治するために、戦費や人被害がたくさんでた。

これは中国北方でも同じと言える。宣徳帝は武力でなく朝貢貿易を通じて、平和的に外国と対外関係を築いて、間接的に支配することを考え、外国は明を宗主国として崇めることを目的としていた。


 明代13代皇帝隆慶帝(1537〜1572)の時代になると、ヨーロッパの主にスペインやポルトガルがアジアにまで進出して貿易を行った。

また、倭寇が活発化した時代でもある。

明国内では流通経済の発展に伴い利益を求めて国民は、海禁政策を無視してでも、密貿易を行う者がたくさん現れた。

明は形式上、朝貢貿易しか行わないので、ポルトガルを中心とするヨーロッパの国と貿易を行わなかった。

しかし、現実は、明との間に密貿易が盛んになる。

もはや時代の流れで、明はこれまでの朝貢貿易と海禁政策の2つの対外政策を維持していくのはむずかしくなった。

現状では朝貢貿易と海禁政策は形だけのものとなり、旧秩序は崩れた。
 

  明の前の王朝はモンゴル支配による元である。

長い間、他民族に支配された中国は、中華民族による国家を取り戻した。

アジアに流れていた中国を盟主と考える思想やモンゴルによって壊されていたこれまでの秩序を取り戻すための1つの形が朝貢貿易なのではないだろうか。

朝貢貿易によって、旧秩序を取り戻した明であったが、しかし、時代は急展開を迎えて、新しい秩序が生まれようとしていた。ヨーロッパを中心とて起こった新しい秩序は、旧体制を維持しようとしていた明をも巻きこみ時代は新しい時代を迎えようとしていた。


(中国史 尾形勇 岸本美緒 山川出版社 1998 参照)


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2016年11月23日

古代ギリシア、戦争による光と影とは‐文学部史学科通信教育部専門過程(西洋史リポート)





古代ギリシア、戦争による光と影とは‐文学部史学科通信教育部専門過程(西洋史リポート)


 古代ギリシアでポリスと呼ばれる小国家が多数建国された背景として、地形的に山脈が多様に枝分かれし起伏が多く居住空間が分断され統一的な国家ができにくい地理的要因が考えられる。

国家間の紛争は絶えずあり、戦争は頻繁におこなわれ戦争の影響を多くうけた。


戦争による影響を考えると、密集隊戦術が原因の社会変化、軍事優先のスパルタ、ペルシアとの戦いによるアテネの変化、ギリシアの覇権をかけたペロポネソス戦争、コリントス戦争などの慢性化された戦争による社会の変化がある。これらのことを説明していきたい。


 古代ギリシアの民主政治成立には、戦争の影響があった。

ポリス創世記では戦争をするのは支配階級である貴族がするものであった。

しかし、ギリシア人は積極的に海外に進出し、数多くの植民都市を築き上げ、交易によって経済力を高めていった。

一般農民の中にも貿易に挑戦し、成功を治める者も現れ、貴族以上の財を有する者も現れた。

そして、交易ルートの拡大によりいままで入手しにくかった武器が手に入るようになると、貿易により成功を治めた経済的に裕福な平民のなかには、高価な武器を入手し、戦争に参加する者も現れた。


 次に戦争を行う際の戦い方として、密集隊戦術が成立した。

これは体を密着させ、相互の命を盾で守りあうという戦術である。

これにより、兵士の間では貴族、平民関係なく強力な結束と連帯感が生まれた。

これら、平民の戦争参加、密集隊戦術などの要因が影響し、平民と貴族の力の差は縮まり、平民は政治に参加しようようとして貴族と同等の発言力を求めるようになった。

また、それが可能となる社会ができてきた。そして、最終的に民主政治につながっていく。


 つぎにスパルタの軍事優先の社会について説明すると、スパルタ人はポリス形成の過程で周辺のラコニア地方を征服し、そして、全8世紀末、二度の侵略戦争で隣接するメッセニア地方を征服した。

この長い戦争中市民の結束を強化するために、市民間の平等化を推進した。また、占領した地域を統治する方法として武力による統治を選んだ。

そのためスパルタ人は7歳から集団生活に入り優秀な戦士になるための訓練をうけ、厳しい規律のもとでの軍事優先の生活を続けた。

生活は簡素で、食生活や衣類は質素なものだった。

これにより最強の軍隊をスパルタは有し、ペロポネソス同盟を結成し、ギリシアで位1,2を争う強力なポリスとなった。


 スパルタとならんで強力なポリスへと成長したアテネに関しても戦争が大きな影響を与えた。

前490年と前480年にギリシア本土に進行してきたペルシアとの戦いである。この戦いに際し、アテネは諸ポリスの中心となり大国ペルシア撃退の勝利に大きく貢献する。

この戦いの勝利によりアテネの軍事力を諸ポリスにしらしめ、前478年アテネを盟主とするデロス同盟が結成された。

ドロス同盟結成以降エーゲ海の制海権を握ったアテネでは海上貿易が活発となり、市民に経済論理にも変化の兆しが現れ、未発達であるが市場が成立し、貨幣経済が限定的だが進展した。

また、アテネは同盟諸都市の支払う税を自国の繁栄に流用し、アテネは繁栄を極め国内では、政治改革がおこなわれ、民主政治が実現する。


 ギリシア世界はアテネとスパルタによる覇権争いが行われ、これがペロポネソス戦争で、スパルタの勝利に終わり、アテネの権威は地に落ちた。

その後コリントス戦争やテーバイとスパルタのレウクトラの戦いがあった。これらの慢性的な長期の戦争は諸ポリスの力を弱めさせ国力は疲弊していった。

また、コリントス戦争時に再復興をとげたアテネでも侵略的なやり方のため、諸ポリスの反抗にあい同盟市戦争が勃発し国力は疲弊した。

とくにレウクトラの戦いで負けたスパルタは国力の疲弊はひどかった。

ギリシア国内のポリス市民は、経済的没落のため、生計を立てるのもままならず傭兵となることで生計を立てていった。

アテネでさえ将軍が個人的な利益のため外国に渡る者もあらわれ、スパルタでは国家政策として傭兵による収入で国家財政を補った。

ギリシア傭兵は当時では最強の傭兵であり非常に強かった。そのため各国はギリシア傭兵を必要とした。

アレクサンダー大王の東方大遠征でも多数のギリシア人傭兵が雇われ、ペルシア側でも多数のギリシア人傭兵が雇われた。

アレクサンダー大王の入植政策もあり、ギリシア文化が東方に伝わるきっかけとなった。

疲弊したギリシアは前338年カイロネイアの戦いでマケドニアに完敗し、ギリシアはマケドニアの支配下に置かれ、その後もローマなどの支配を受け他国に支配される歴史がつづき、ここに古代ギリシアは終演をむかえた。


 最後に古代ギリシアは戦争の影響で、貴族と平民が平等となり、古代では世界的に見ても珍しい民主政治が実現する。

そして、市民が団結し最強の軍隊を作り上げ戦争によりギリシアは繁栄を極める。だがその後皮肉なことに戦争によりギリシアは衰退した。

このことを考えると、短期の戦争は国を繁栄させる時もあるが長期の戦争は勝利しても国を疲弊させる時もある。

戦争というものは歴史を学ぶ上で非常に重要なことといえるだろう。


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2016年11月18日

ロシア革命‐2つの革命から見えるものとは‐専門課程ロシア史リポート(通信教育部)

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ロシア革命‐2つの革命から見えるものとは‐専門課程ロシア史リポート


 工業化と労働者の増加、それに伴う様々な労働問題、中途半端な農奴解放による問題、ロシアでは国民が国家に不満を持っていた。

これに加えて、1904年に始まる日露戦争が1905年革命に繋がったと思われる。

また、1917年革命の時も国内に不満を抱え、第1次世界大戦が革命の引き金となっている。


 1905年革命では、労働者はストライキなどを起こし、また、農民は反乱を行った。しかし、最終的には1905年革命は失敗に終わる。

 革命が失敗に終わる原因として、それは、一部の兵士の反乱でしかなかった。

兵士による反乱の数が少なかったというのが、革命の失敗の大きな原因の1つに挙げられるであろう。

1917年革命との違いは労働者のストライキなどの活動は同じだが、その活動に兵士が同調したかしていないかが、大きな違いである。

1905年革命を終結させるべく、ロシア内の自由主義者を懐柔するため、ウィッテは市民の自由権、人格の不可侵、信仰、集会、結社の自由を認めて、予定されていた国会の選挙をすべての階級が選挙に参加できる権利を持つ、立法機関としての国会開設を国民に約束し、十月宣言が行なわれた。十月宣言後、政府は労働組合や政党などの団体結成の合法化やストライキにたいする刑事罰の廃止などを行なった。

そして、1906年に国会の選挙が実施された。

しかし、国会制度は十月宣言で約束された自由主義にもとづく国会ではなかった。

あたらしい選挙法では、選挙民を財産や職業などで4つの階級で分けて選挙を行なう、制限された選挙であった。

また、1906年に憲法が公布された。

憲法の制定には憲法制定会議によって、つくられた民意による憲法制定が求められたのだが、しかし、政府は大臣会議で皇帝臨席のもとで憲法を審議して、皇帝の定める欽定憲法として発布した。

憲法の内容は例えば、『全ロシア皇帝に最高専制権力が属す。』と非常に皇帝の権力を認めた専制的な内容の憲法である。

また、『皇帝陛下は国家評議会と国家ドゥーマと協力して立法権を行使する』『いかなる新しい法律も国家評議会と国家ドゥーマの是認なくして生まれず、皇帝陛下の承認なくして発効しえない』などと、若干専制体制が否定された内容もある。

しかし、国会閉会中の立法権は皇帝にあるとの規定がある。

すなわち、国会の解散などの強引な手段を使えば、皇帝は強引に法律を作り、公布する事が可能なのである。

また、憲法によって、皇帝の最高権力を認め、また、立法の権利も皇帝が絶対的な権利を握っているという、皇帝権の再確認がなされている。


 1905年革命後の諸改革の国会や憲法の制定では、必ずしも自由主義者を満足させる内容ではなかった。

1905年以前の皇帝の専制体制となんらかわっていないと思われる。

1905年革命後に専制体制が復活してしまったので、国民は不満に感じただろう。

この国民の不満は1917年革命につながると思われる。

しかし、法的に政党や各団体の活動が認められていなかったロシアで、十月宣言によって、思想の自由が法的に認められたと言う事は、1905年革命期に活動した各政党などの活動が認められた事であり、これによって、これまで、ツァーリ専制で思想が1本化されていたロシア社会の中に、様々な思想が生まれ、容認された事を意味している。

すなわち、兵士達は様々な政党の思想に触れたことによって、ツァーリに忠誠を誓うだけでなく、ツァーリ以外のものにも忠誠を誓うようになってしまったのだと思われる。

第1回目の国会では、ウィッテは辞任して、かわりに保守派のゴレムイキンが首相に就任した。

第1国会の中心的な課題は土地問題であった。

当時のロシア社会では農村の土地問題が重要な課題である事を示している。

しかし、反政府的な国会だったので解散となった。


 そして、ストルイピンが首相となって、土地に関する改革に着手する。

ストルイピンの改革はロシア社会に残る農村の共同体を解体する事であった。

農村の共同体を解体するということは、すなわち、自営農民を創る事であった。

ストルイピンの改革は国会の解散などを使い、強引に推し進められる。

ストルイピンの目的は農村の近代化をはかり、富農を作り出して、専制政治を支持する層を作り出すことであった。

しかし、実際に1917年以前の社会で、共同体から出て、自営農になった農民は全体の数から考えれば僅かであった。

ストルイピンの改革はロシアの社会に新たな争いを持ち込む事になる。

改革によって、多くの農民の困窮をまねき、専制政治への反抗は激しくなる。

また、自営農の数が増えた事によって、農村の階級分化が促進されて、富農と貧農の対立が表面化された。

すなわち、共同体から脱して、自営農となった農民と共同体に残る農民との間で争いが起き、この事が新たなロシア社会の不安要素となるのである。

国民に不満が溜まれば、それは、暴動や革命などの反政府運動につながる。このストルイピンの改革が1917年革命勃発の原因の1つになっていると思われる。


 1905年革命後、ウィッテの罷免、欽定憲法制定など、一時的にツァーリの専制体制は復活してしまった。

そして、ロシアでは革命は終息に向かい、社会も安定を取り戻してきた。

社会の安定と共にストライキなども影を潜めていった。

しかし、1905年革命で生まれた各政党や様々な考え方はロシア社会で残り、失う事はなかった。  


(ロシア革命と東方辺境地域 西山克典 2002年 北海道大学図書刊行会 参照)
(地図で詠む世界の歴史ロシア ジョン・チャノン・ロバートハドソン 1999年 河出書房新社 参照)
(ロシア史を詠む マルク・ラエフ 2001年 名古屋大学出版会 参照)
(新版世界各国史ロシア史 和田春樹 2002年 山川出版社 参照) 


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2016年10月25日

フランス絶対王政‐文学部史学科‐西洋史概説リポート







フランス絶対王政‐文学部史学科‐西洋史概説リポート

 フランス絶対王政成立の原因を考えると、絶対王政以前のフランスは封建社会だった。

封建社会では法王の権力が絶対である。

しかし、法王の権力が衰退していき、それに代わり国王の権力が増長していった。

古くは国王フリップ四世(1268〜1314)は三部会という身分制議会を開き広く国民の支持を得て法王の権力を削ぐことに成功した。

三部会は封建国家と絶対主義国家の間の変革期に成立した身分制国家と言える。


 16世紀になると新教徒が勢力を伸ばし、旧教徒と対立し抗争を繰り広げた。そして、サン・バルテルミの大量虐殺事件が起こった。

もはや、法王の権力は絶対ではなくなった。これに加え、この時代イタリア・ルネサンスの影響、長引く宗教戦争による経済の混乱、凶作やペストの流行などがあり、時代は大きく変わろうとしていた。

そして、国内の混乱を沈めるために強い権力を持った国王の出現を国民は待望したと思われる。


 このような混乱の時代にアンリ四世(1553〜1610)が国王に即位する。アンリ四は国内の混乱を押さえるため旧教に改宗した。

これはフランスでは、旧教徒の信者は新教徒より人数が多いためだと思われる。また、新教徒に対してはナントの勅令により、信仰の自由を許し不満を解消させた。そして、国内を平和に導き国家財政の再建に努め、農業振興政策を押し進めていった。

こうして、アンリ四は国民の信頼を得て権力を強めていった。かれは絶対王政の基礎を作ったと言えるだろう。


 つぎにフランスの王位に就いたのがルイ13世1604〜1643)である。

ルイ13世は宰相にリシュリュウーを任命して政治を行った。

リシュリュウーは中央集権国家の建設を目指した。国内では帯剣貴族の決闘を禁止し、禁を犯したものを処刑するなどの厳しい態度で貴族と接した。

また新教徒に対してはナントの勅令のもと信仰の自由は認めたが、政治的に分離独立する事は許さず、ユグノーの本拠地を武力により征服して勢力を縮小させた。地方では地方監察官を派遣して貴族の力を押さえ込んだ。

しかし、地方監察官は治安、司法、財政にわたる大幅な権限を持つこととなり、逆に地方監察官が地元の利害と結びついた自分に都合のよい政治をするという弊害もでてきた。

そして、権力を持っていた高等法院の権力を制限することにも成功した。

対外的には対ハプスブルグ政策を打ち出し30年戦争や対スペイン戦などに参加した。

長引く戦争で戦費不足に陥り、そのため国民の同意なしに課税を行い反対するものに対しては徹底的に弾圧した。

結果として王権の絶対主義化は進んだ。


 その後、ルイ14世(1638〜1715)が幼くして即位し、マザラン(1602〜1661)が宰相となり政治を主に行った。

この時代高等法院や旧貴族を中心としたフロイド乱が発生したが鎮圧に成功し、絶対王政がより進行した。

そして、マザラン死後ルイ14世の親政が始まる。

ルイ14世の政治は華やかで独裁制を極め「朕は国家なり」という言葉はよく当時の状況を表している。

ルイ14世により、絶対王政は最高潮に達する。政治の内容は特に文化政策に力を入れた。

また、低い身分の者でも才能があれば国王や諸公の保護を受けることができた。国の人事は大貴族などの自分の権力を阻害するような者たちは、外して、国王の恩恵によってのみ権力行使を許される新興貴族を重要して国の人事を大幅に変更した。

その他、コルベール(1619〜1683)重用して、重商主義政策を推し進めていった。

そして、ルイ14世は壮大なヴェルサイユ宮殿を本拠地とした。ヴェルサイユ宮殿はパリの中心から外れていて、いわば隔離された空間であった。

そして、ヴェルサイユ宮殿のなかで貴族たちは監視され、国王からの恩恵と金によって飼い慣らされていった。

対外的には自国の軍備を増強し、ネーデルラント戦争、オランダ戦争、ファルツ継承戦争、スペイン王位継承戦争などたくさんの戦争を行った。

結果領土の拡張には成功したが長引く戦争は国力の疲弊につながった。

そして、晩年になるとナントの勅令を破棄し新教徒を弾圧していった。

新教徒の国外逃亡は禁止されたが、豊富な資金力を持つ者や、優秀な技術を持つ者などは外国へ逃れた。

貴重な人材が流失し、産業の遅れにつながった。


 その後、国力自体は衰えたにもかかわらず王族、貴族、僧侶の贅沢な暮らしはかわらず、ついにはルイ16世(1754〜1793)の時代にフランス革命が勃発した。これにより絶対王政は崩壊した。

 そして、ブルジョワを中心としたフランス革命により、身分と貧富の差が激しく、君主の専横がまかりとおり、権力を持った人間が絶対という時代が壊され、近代国家の始まりとなった。


 絶対王政は封建国家から近代国家に成長する時代の変革期にあたるというのが定説である。

しかし別の角度から歴史を見ると絶対王政は封建制末期の三部会に見られる身分制国家の市民国家成立の流れを断ち切り、そして、絶対王政崩壊後は混乱を沈めたナポレオンによる、より強力な中央集権国家ができあがる。このことを考えると絶対王政時代はまだ貴族たちは地方に広大な領土を持っている状態での独裁制でいわば中途半端な中央集権であった。

だから、絶対王政は封建制の地方分立から、より強力な独裁制を持った中央集権国家に成長する変革期だったとも言えるだろう。


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    2016年10月24日

    叙任権闘争‐西洋史概説リポート

    5.jpg「教科書に載らない歴史」はここをクリック 高校で普段行っている授業の実践記録や日記集、研究など、教科書に載っている事だけを授業するなら教員なんていらない。誰も知らないことを授業で取り上げる事に意味がある。教科書では語れなことや取り扱って欲しい内容を取り揃える。教科書で語れない内容に真実や日本文化の素晴らしさが詰まっている。日本人としての心を取り戻す教育、その一部を紹介します。


    皇帝VS教皇

    ヨーロッパの覇権はどちらの手に


     叙任権闘争‐西洋史概説リポート

    簡単に述べると、叙任権闘争とは、11世紀〜12世紀にかけて、司祭の叙任権を媒体としヨーロッパの覇権をかけた皇帝と教皇の戦いである。


     キリスト教は、ヨーロッパ各地に教会が建設され、信者の数が増えた。

    ヨーロッパではキリスト教は人間の精神的な部分を支配する道徳、みえない法律にまで成長した。

    そして、西ヨーロッパではローマ司教が、だんだんと各地の教会の中で首位性を確立していった。


     西ローマ帝国が滅亡後、西ヨーロッパでは皇帝という地位は実質的には存在していなかった。

    しかし、キリスト教徒であるカール大帝(747〜814)は、800年教皇レオ3世(位759〜816)により西ローマ帝国皇帝として戴冠をうけ、ここに皇帝権が復活した。

    そして、800年のカール大帝の戴冠により、西ヨーロッパには教皇と皇帝という2つの権力が存在する世界となった。

    両者の対決は歴史の必然的な流れなのかも知れない。

     叙任権闘争は、教皇グレゴリウス7世(位1073〜1085)が教会改革に乗りだした所から始まった。

    聖職販売聖職者の罷免、妻がいる聖職者のミサ執行禁止、教皇の命令に違反した聖職者の行う典礼への信徒の参加禁止、違反者には免職、政務停止などの制裁を与えた。

    また、皇帝や貴族封建諸侯らによる叙任を禁止した。そして、これに関連して、教皇令書を制作した。内容は、教皇は全世界の頂点で皇帝よりも上、すべての聖職者は教皇によってにみ任命されるというものである。


     しかし、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世(1050〜1106)は教皇に従う気はなく、1075年教皇令書が出たといわれている直後に、ミラノの大主教をハインリヒ4世の同意により決定した。


     これに対して、グレゴリウス7世は皇帝を激しく非難した。

    その結果、皇帝は教皇の廃位を声明したが、逆に教皇はハインリヒ4世を破門し、破門状を公開した。

    こうして叙任権闘争の火蓋は切られた。

    これは単に叙任権問題の争いだけではなく、まさしく教皇権と皇帝権の激突である。

    ドイツの多数の諸侯は皇帝権の拡大を恐れていたので教皇に味方しハインリヒを廃位させようと考えていた。

    そして、破門が解除されない場合は、教皇臨席の下で諸侯会議を開き皇帝に対する最終措置を決めることを申し合わせた。

    ハインリヒは会議の見通しが自分に不利なことを察知していたので、会議前になんとしても破門を解いてもらう必要性を感じていた。

    そこで冬のアルプスを越え教皇が滞在していた城門の前に佇んで皇帝は3日間許しを求めた。その結果ついには教皇は皇帝の破門を解いた。

    これが有名なカノッサの屈辱である。

    そして、反対勢力のドイツ諸侯は新しい皇帝を選んでハインリヒに対抗したが戦争に敗れハインリヒの立場は絶対的に有利になった。

    ハインリヒの権力拡張を恐れた教皇は再度破門したが時すでに遅く、逆に対立教皇を立てられた。

    そして、皇帝軍の攻撃を受けたグレゴリウス7世はローマを離れなければならなくなった。

    最終的にはハインリヒ4世の勝利に終わったが、まだ叙任権闘争が解決したわけではない。


     その後、1105年ハインリヒ5世(1086〜1125)が帝位についてから、再び叙任権問題は最熱した。

    しかし、教皇と結び自分の権力を拡張しようと企む諸侯達の反抗に皇帝は苦しみついには、1122年ウォルムス協約で皇帝は司教の叙任を放棄し、挙式は皇帝の前で行われ、選出された者には封土を与えるときめた。

    妥協案ではあるが、叙任権闘争は終結した。


     叙任権闘争が世界史に与えた影響ははかりしれない。

    皇帝自身が諸侯の一人で他の諸侯を押さえるために、司教の叙任権を利用して権力を確立していたが、叙任権闘争の結果、皇帝の神格性は失われ権力は衰退した。

    そのため、ドイツではますます皇帝は、各諸侯の勢力を押さえることができないようになり、封建化がよりいっそう進展していったのである。


     その他、叙任権闘争の最中、1095年教皇ウルバヌス2世(1035〜1099)は教皇権の優越を目指していた。

    そして、キリスト教による権力拡大を目指した第1回十字軍の成功で教皇は優勢に立った。

    十字軍は、ヨーロッパ各国の国王や諸侯などが協力して軍隊を作り聖地奪還を目標とした。

    十字軍の影響で、ヨーロッパでは教皇を頂点としたキリスト教と多くの国家という、連帯した共通の意識を持った、ヨーロッパ世界が形成された。


     最後に、聖職者たるものは信仰心に厚い人格者でなければならないということから教会改革運動が生まれた。

    以後、聖職者の人格や信仰が大きな影響力をもつようになり、宗派が多くできる原因ともなった。

    それは、現在でも続く宗教戦争の遠因となったと言っても過言ではない。

    そして、聖職者の人格を問題にする事は、当然、叙任には、俗権の利益を求めた都合のよい任命では問題となる。そのため教会当局、すなわち教皇にこそ聖職者の叙任の権限が必要となる。

    しかし、皇帝や国王からしてみれば、すでに教会は行政の一部であり、教会領からの収入もある。

    そうなると教会も俗権の利益の中にあり、その両者の衝突は教会の機能とは何か、国家との関係は何か、教会を法的権限と組織の中において良いものなのかなど様々な問題を考えさせる要因となった。


    (西洋教会史 小嶋潤 刀水書房)(西欧中世史(中) 江川温 服部良久 ミネルバ書房)(世界歴史10中世4 岩波書店)


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    2016年10月22日

    歴史学派と歴史主義‐文学部史学科(史学概論リポート)






    歴史学派と歴史主義‐法政大学文学部史学科(史学概論リポート)

     19世紀のドイツで展開された歴史学派経済学の手本となったのは、イギリスのスコットランドで展開された啓蒙思想である。

    スコットランドはイギリスのなかでは後進地域で、イギリスの中心で先進地域であるイングランドに対抗するために啓蒙思想を展開させていった。

    この思想は歴史とは進歩するものという進歩史観から唱えられたものである。

    歴史の進歩と経済の進歩の関係で、歴史と経済の発展は関連して進歩していくという説である。 


     このスコットランド啓蒙の代表はアダム・スミス(1723〜1790)である。アダム・スミスは経済において、規制主義的な重商主義を批判し、自由競争こそ必要とし、経済を自由放任にすれば自然と最善の状態に調整され経済がうまくいくと説いた。

    またアダム・スミスはグラスゴー大学の教授に就任し、その講義で社会の経済システムの発展段階が、狩猟社会、牧畜社会、農耕社会、商工業社会、というように発展していき、この発展と国家の成立、君主制、共和制という政治形態の発展が両者関連して進歩していくと論じた。


     しかし、当時のイギリスは世界一の経済大国であるので、過去の生産段階を振り返る意識は、ほとんど無いに等しかった。

     そして、この発展段階説は当時経済的に後れていたドイツで、世界一の経済力を誇るイギリスに追いつくためにドイツで発展していった。

    これをドイツ歴史派経済学と呼んだ。

     ドイツ歴史派経済学の中心となったのはフリードリヒ・リスト(1789〜1846)である。

    アダム・スミスは国家による経済統制批判を行ったがリストは、反対に国家による経済統制による市場の統一を目標とした。

    これは、リストによれば未開、牧畜、農業、農工業、農工商、というように五段階で経済が発展するという経済段解説の考えの中でイギリスはすでに5段階であるが、ドイツはいまだに4段階であり、5段階に発展するためには国家による産業保護政策が必要であるとした。

    5段階目に成長した後は自由貿易主義が良いと唱えた。

    実際に、当時のドイツは国内の諸邦国を品物が通過するだけで関税が発生し統一的な経済が成り立ちにくい状況であった。

    リストはこのようなドイツを変えるために関税の撤廃を国に求める運動をおこなった。


     ドイツ歴史派の人達の特徴的な考えとして、経済政策や経済理論は歴史の発展によって発達するもで、いわゆる文化的現象と把握し、時代を超えるような経済理論は存在しないという考えである。


     反対意見として歴史学派は歴史を国の政策目的に利用しているという批判もあった。

    また、19世紀のドイツでは歴史主義という歴史観が存在していた。

    特徴はロマン主義にまでさかのぼり、ロマン主義の人間の個性や感性を重んずる思想が民族の個性や強調となって現れる民族主義が特徴として存在する。


     歴史主義の中心となったのはレオナルド・ファン・ランケ(1795〜1886)である。ランケは歴史の進歩はありえないとした。

    その理由として、人間は自由な意思を持って行動する生き物なので、もし、歴史がある目的に向かって進歩していくとしたら、人間の自由な意思を否定することになる。

    だから、歴史の進歩はありえない。

    事実、人類の大半は原始生活にとどまっており、歴史的な発展をとげた民族でも、時を重ねるごとに発展しているとはいえず、時には逆行もある。

    また、美術の分野においても常に進歩しているとはいえず、時代によっては衰退することもある。

    ランケによれば1つの時代を次ぎの時代の前段階と考えるのではなく、時代それぞれに良さがあり、独自性があるので1つの時代は独立された完成形あると考えた。


     歴史主義の歴史研究の特徴として、過去の出来事の固有性を尊重する考えから、厳密な史料批判にもとづく史実の確定作業を歴史研究の基本にした。

    この史料批判は現代に与えた影響は大きく、現在の歴史研究の基本となる考えかたと同じである。


     しかし、問題点として、歴史主義は歴史の個性を重視しすぎたために、史実の相互の関連を問う認識能力にはうとかった。


     歴史学派と歴史主義との大きな違いは歴史の捉え方の違いである。

    もし仮に現代という時代があるなら前の時代に現代に変わるための要素が含まれており、時代は常に進歩して発展していき、過去の出来事は現代に繋がるものと考えたのが歴史学派である。

    歴史学派は1つ1つの歴史事実にはあまり注目せず時代の流れに注目したと言えるだろう。

    逆に、歴史主義は1つの時代を別々に考え、過去の出来事はだだ1つの事実として捉え、歴史の進歩を否定し、歴史の流れには注目しなかった。両者にはこのような違いがある。


     また、歴史学派は歴史の進歩と政治が関連して発達すると考えたが、歴史主義は1つのことを重視する考えから別々であるとした。要約すると関連主義と個別主義である。


     最後に、両者の思想がミックスされ、両者の短所を補えるようになったのが現代の歴史の流れと史料批判を重視する特徴の歴史研究へとつながっていったと考える事ができる。


    (ドイツ史2 山川出版 成瀬治 山田欣吾 木村靖冶 参照)


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    2016年10月19日

    ウォーラーステインの世界システム論‐通信教育部(史学概論リポート)


    サイト管理者「真田まさお」著書、大東亜戦争(太平洋戦争)を市民の立場から歴史を研究、本土空襲体験者の生の声から、真実の戦場の姿を語ります。


    世界規模で歴史を研究


    ウォーラーステインの世界システム論‐法政大学通信教育部(史学概論リポート)

     かつて、ヨーロッパ列強は世界各地に植民地をつくり世界の主導を握っていた。

    アメリカのウッドロー・ウイルソン大統領 (1856〜1924)による14カ条の平和原則の中で植民地の民族自決を認めた。

    民族自決の精神はその後、第2次世界大戦を経て戦後身を結び第3世界は独立を勝ち取っていった。

    特に1960年代はアフリカで17の独立国が誕生し、1970年代にはほとんどの国が独立を勝ち取った。

    しかし、独立を勝ち取った国々のほとんどは貧困に悩み経済的独立は非常に難しいというのが現在の状況である。


     これは、現在の世界システムがヨーロッパ列強によって作られた先進資本主義国中心の世界システムのためであると新従属学派の人々は考えた。

    新従属学派の人々は先進資本主義国主義の批判をするようになった。

    そして、新従属学派の中心となったのはウォーラーステイン(1930〜 )である。

    かれは世界システム論を展開していく。


     ウォーラーステインの世界システム論は過去を分析し、未来を考えるという特徴を持っている。

    そして、始めは、資本主義世界経済の分析として登場し、さらに、国家間システムに注目することで世界政治の分析まで考えていった。



      ウォーラーステインによれば、長い16世紀をへて、ヨーロッパは世界に進出して植民地を作りそれを元に資本主義経済を展開させ、世界システムを作り上げていった。

    これは、植民地のもつ力、消費力、安い労働力、資源を使い、高利潤の独占的な生産を行い、それによって生まれた資本を列強国家に集中的に独占させるシステムの事である。

    このことは、ヨーロッパ列強は儲けて得をし、国家組織を強化して、逆に植民地諸国は損をするシステムでもある。

    この状況は脱植民地時代をむかえたにもかかわらず、現在でも継続して、脱殖民地国家は貧困にあえいでいる。


     ウォーラーステインの世界システム論は中核、半周辺、周辺という3つの部分に国を分け、この3つにより世界システムが構成されているとした。


     大航海時代のスペイン時代に変わり北西ヨーロッパが中核に上がった。

    これによりスペインと北イタリアが半周辺に落ちた。

    1650年以後はイギリスが世界進出に成功し覇権をにぎり、唯一の中核へと成長する。

    1730年〜1917年はイギリスが中核をキープし、半周辺にはフランス、ドイツ、ベルギー、そして、次の時代を予感させるべくアメリカ、ロシア、日本が半周辺へ、また、アジア、アフリカは周辺である。

    1870年代ぐらいからイギリスの衰退が始まった。

    次の覇権をめぐってドイツとアメリカが長期の抗争を始める。第一次世界大戦〜第二次世界大戦の枢軸列強の敗北により、長い戦いはアメリカの圧倒的な勝利に終わる。

    2つの世界大戦の戦火を免れたアメリカは世界システムにおいてもっとも実力を兼ね備えた中核になった。

    1960年代にはアメリカの衰退がはじまる。

    1970年代にはアメリカが中核をキープ、戦争から完全に立ち直った、ヨーロッパ共同体、日本が中核に、独立後のアフリカは相変わらず周辺、一方ロシアは、ロシア革命後、立ち直り、社会主義の文化圏を作り上げ中核になった。

    ここに世界システムはアメリカの資本主義とロシアの社会主義の戦いとなった。

    1968年学生反乱の形をとった世界革命、その継続で1989年共産主義は崩壊し、資本主義の勝利に終わった。

    しかし、資本主義の近代世界システムの永久的な勝利ではなく、むしろ共産主義崩壊が近代世界システムの崩壊へと向かう始まりになった。


     世界システム論が歴史学に与えた影響として、例えば日本の歴史学の主流の一国史観や近代化論は、一国で歴史を考え、細かく細部まで研究することができる。

    しかし、他国との繋がりや影響を研究するには難しいものがある。

    また、一国史観や近代化論は、時代はかならず進歩する単線的な発展段階説になりやすく、そのため、うまく、説明できない歴史現象が存在する。

    例を挙げると、16世紀の東欧で、時代はすでに近代になりつつあり、荘園制は解体しつつあったが、賦役労働を強化した結果、再び農奴制が発生した。(再版農奴制)この様に、実際に歴史は必ず進歩をくりかえしているとは言えず、後退することだってある。

    例えば、再版農奴制を世界システム論で考えるとうまく説明することができる。

    世界システム論の観点に立てば、西ヨーロッパが工業化したことで、農産物の供給地となった東欧が生産物の増大にともない採用したシステムが再版農奴制である。

    再版農奴制の場合は、西欧と東欧を一つの経済圏と考えた時、西欧での不足農産物を東欧が補うといった、きわめて近代的な制度と言うことができるであろう。


     歴史学を研究する上で、他の地域との関連性は重要で、世界システム論は歴史を世界全体のレベルで見ることができ、世界を一つとして捉えることに成功したので、歴史の関連性をうまく説明できた。

    世界システム論は、世界を一つの経済圏と捉える歴史学である。


     問題点として、一国の細部にわたって、研究するには不向きである。

    しかし、一国史観は一国の細部にわたって研究するのには適しているので、世界システム論と一国史観をうまく使い分ければ非常によい歴史研究ができるのではないかと思われる。

     (アフター・リベラリズム ウォーラーステイン 訳松岡利通 藤原書店)





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    法政大学文学部史学科通信教育部を4年で卒業して、同時に教員免許も取得した。現在は高校教師教師として、働いています。
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