2016年11月28日

地方史学を学ぶ意味について‐単一民族国家説の否定‐通信教育課程(専門教養地方史学リポート) 

地方史学を学ぶ意味について‐通信教育課程(専門教養地方史学リポート) 


  私が中高生時代に学んだ歴史像は単一民族国家説を基本にした日本史像である。

それは、日本の歴史は、縄文、弥生、大和、奈良、平安、鎌倉、室町、安土、江戸、明治、大正、昭和とつづく、一本の太い流れにそって進んでいく統一的な歴史像であった。

しかし、けっして、日本の歴史は統一的な1つのものではない。


 例えば、沖縄が完全に日本の領土になるのは明治以降、東北が日本の支配を受けるのは奥州藤原氏以降で完全に日本の統治体制に入るのは豊臣政権、北海道が完全に日本領になるのは明治以降のことである。

地方に行けば、琉球王国があり、エミシ、アイヌの世界があり、日本とは全く違った文化や歴史を歩んできた地域もある。

そして、日本は近年アイヌ新法により、単一民族思想を捨てた。

このように、日本には複線的な日本史像存在しているので地方の歴史から日本史を見ていかないといけない。

それが地方史学である。

歴史と言うものは、見る角度が違えば全く違うものになっていく。

例えば、江戸時代日本は鎖国政策をして、長崎の出島という限られた空間でのみオランダと中国と交流を持っていた。

これが従来の私が学生時代に学んだ鎖国像である。

しかし、この鎖国像は地方の歴史をまったく無視している。

江戸時代当時は、北海道のアイヌと沖縄の琉球王国は外国である。

江戸時代を通じて外国であるアイヌと琉球は日本と交流を持った国である。

オランダ、中国以外の国と長崎の出島以外の空間でも日本は交流を持っていたと言うのが本当の鎖国像と言える。

このように、地方の歴史を見ることによって、中央の歴史像がまったく違ったものになることもある。

これは1つの地方史学を学ぶことによって得られる成果の1つではないであろうか。


 戦後主に近世農村史研究が活発化することになる。

近世江戸時代の人口を考えると、約80パーセントの人達が農業を営んでいたとされている。

日本は農耕民族の国といっても過言ではない。

従来の歴史像は支配者階級である武士の歴史である。しかし、人口の大部分を占める農民の歴史を考えなければ近世の歴史を把握したことにはならないと思う。

特に近世時代は職業によって住む場所も違えば、法や文化や風習も違う。

また、たくさんの藩が存在し現在のような統一的な国家ではない。

そして、移動手段が現在のように発達していなかったので移動は困難であったことが予想される。

特に近世時代は地方独特の文化や歴史が存在いていることになる。

地方独特な民衆の歴史を見ることによって、もう1つの日本の姿を見る事ができる。

これが地方史学を学ぶ1つの意義なのではないだろうか。

 
 地方史学とは、地方の歴史学のことであり、歴史学の1部門として学問的な位置付けを行うために、歴史研究の方法や目的、内容を整備し学問体系の中に位置付けられたものである。

学問として体系するためには、歴史に関する記述は真実の事を記述する必要がある。

そのためには、歴史記述の裏づけとなる証拠が必要となる。

証拠には資料が必要で、証拠となった資料が本当に事実を記述しているかどうかの資料批判も必要となってくる。

できるだけ、事実に基づいた学問的な歴史学として地方史学ができた。


 地方史学は郷土史が発展したものである。

郷土史とは地域独特の伝記や伝説の類を含めた学問である。

郷土史には、閉鎖的な地域自慢や英雄史観、物語史観などが折りこまれている。

簡単に言うなら、歴史的な事件があったとして、その歴史的事件を大げさに誇張して、また、英雄などの登場で、歴史的事件を面白く、お国自慢などを加え、物語風に作り上げた要素を含んでいる。


 戦前日本では天皇の神格性を維持するために、平気で伝説の類を国家に都合よく歴史として教えていた。

日本国民として、日本の神話や地域の神話を知る事は、とても大事なこと、だが、それと歴史事実を混合させると、それ以上の発展は望めない。

神話は何かしらの歴史事実に基づいて描かれた話、その何かしらの歴史事実を探求する事が大事になる。

戦後新しい時代を迎え、神や精霊などに縛られない、真実の歴史を知ろうとする時代の流れや、行政に都合のよい政府の歴史ではなく、地域で実際に住んでいる人々の生の歴史を知ろうとする時代の流れから地方史学が生まれたのではないであろうか。


 地方史学は中央政府によって作られた法などで、実際に地域で住む民衆がどのような影響を与え生きたかなどの、民衆生活史を知ることができる。

そのため、地方史学は、日本史を構成するとても重要な位置にある学問であるのではないだろうか。

郷土史が狭い地域を限定で研究するのに対して、地方史は、もちろん狭い地域を限定して研究するのだが、それだけではなくて、他の地域の研究をも行い比較対比も必要としている。

地方ごとに比較研究を行っていくと必ずたくさんの地域によって、いろんな差がでてくる。例えば言葉や習慣、苗字、農業、人格、など上げればきりがないほどの地域差がある。

地方史学の重要な目的の1つに限定された地域を研究して、そこに住む人々がどのような社会を形成して生活を営み、そして、文化を生み出して歴史を作っていったのかを解明する目的がある。

また、研究方法として、古文書や文書、遺跡、遺物、などの形として残って位いる研究材料だけでなく、民衆に語り継がれた話など、あらゆるものを使って材料にして研究を学問である。

これは、郷土史に近い存在で、地方史学とは、郷土史も含めて、総合的に対比や全体のつながりをも研究する総合的な学問と言えるだろう。


 最後に過去天皇制のよる単一国家説が日本史の主流を占めた時代の反省や欧米主観から見た日本史像への疑問、そして、総合学習に見られるような地域密着型の歴史教育が見直されている現在において、地方の歴史に対する関心は高まる時勢である。

地方史学の持つ意味は今後ますます重要性を占めてくるだろう。


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2016年11月27日

徳川政権時代、江戸周辺の農村に発生する税の数々‐通信教育課程専門教養(地方史学リポート)





徳川政権時代、江戸周辺の農村に発生する税の数々‐通信教育課程専門教養(地方史学リポート)


  
 江戸時代の特徴は、身分制の社会編成である。農民が暮らす場所と武士が暮らす場所は隔離されていた。農民は農村で暮らし、武士や商人といった人達は城下町に暮らしていた。


 江戸時代の支配体制は治める領主により、かなりの違いを見せており、江戸周辺では江戸幕府が存在するために、幕府の直轄領(天領)となっていた。

江戸幕府から近いこともあり、幕府にとって、江戸周辺の農村は幕府財政を支える重要な場所であった。幕府権威を保つために、鷹狩が行われるなど、非常に重要な地域であった。そのため、江戸周辺の農村では特徴ある生活が営まれた。

江戸周辺農村は幕府領なので、統治には幕府から代官が任命されて、江戸周辺農村を治めた。代官は武士身分だが、武士の中でも比較的身分が低く、俸禄も少なかった。

しかし、代官が治める支配石高は多く、非常に大変な職であった。また、江戸周辺では特に、代官以外にもいろんな支配体制が組みこまれているために、実際に代官が行使できる権限は少なかった。

代官が支配した領土は5万石から10万石であるから、結構な大きさである。大名で考えると中クラスの規模であり、私の町である、丸亀藩は6万石である。

住んでいて思うことは、6万石でも結構な広さである。このように、代官は広い土地を支配していたのだが、そのわりには、俸禄も幕僚の数も30人ぐらいと少なく代官の力だけでは統治は難しかった。

少ない人数で広い領地を治めるので、どうしても、統治が手薄になってしまう。そのために、行われた政策が、有力な農民などを天領支配の統治機構に組みこむことである。

そして、有力な農民などを使った、大庄屋や郡中惣代などの中間支配機構が作られる。

中間支配機構の主な役割として、代官所から伝達された情報を農民達に伝える、年貢米の江戸への輸送の監督、また、村で争そい事が起きると、できるだけ、代官所の手をわずらわせる事を避けて、中間支配機構が争そい事の仲裁を行った。中間支配機構は代官支配体制の中でとても重要な役割を果たしていた。


 次ぎに農民達にはたくさんの現代風で言う税金がかけられた。

税金の圧迫で、農民としての身分を捨て、土地を逃げ出す人々も多数存在した。全国的に共通する税が米の生産量、石高によって割り当てられた税の年貢である。

そして、江戸周辺の農村では、この年貢の他に、鷹場に指定されている村が多く、その村では、鷹狩のために発生する、さまざまな負担が農民に課せられる。

また、絶えず洪水の危険をはらんでいる地域が多いので水に関して発生する、治水や用水維持などの水利負担が加えて課せられる。

鷹狩は将軍の権威を守るために行われる大変重要な行事である。

もし、将軍が鷹狩で鳥が取れないと言う事態になれば、将軍の権威はまる潰れとなる。

鷹場に指定された村ではさまざまな税が農民たちを苦しめたと予想される。

鷹場に課せられた負担は多種多様であった。

例えば、鳥の餌の確保やその外の用途のため、虫、蜘蛛、イナゴ、けら、蛍、松虫、葉、枝など、上ケ物と言われる物を収める負担がある。

また、鷹狩の時、鷹が捕まえる鳥の数が減ったら困るので、鳥の数の確保のために、鳥を殺すことは禁止されていた。これは、鳥と言う大事な食糧原が無くなる事を意味している。

 
 江戸は本来、洪水の多い地域である。

本来なら、耕地として適さないのだが、さまざまな努力、例えば、河川の治水、灌漑用水、水流の堰止め、耕地開発などの水利政策をおこなって、石高が増大した。

江戸の農村では、水利政策の時、発生するいろいろな負担を課せられた。

例えば、治水や灌漑用水を建設、維持、復旧に必要となる、人手、馬、船、お金、縄、油、薪、竹、木、いろんな道具などの負担。また、洪水対策のための人と俵などの負担。特徴として、水利負担は、その時代に必要とされる事柄や世の中の流れによって、変化していた。

例えば、初期の建設時期なら、多種多様に、お金や道具などの現物や人足を中心に負担、建設後なら、維持のために、人足と俵を中心に負担して、洪水対策などを行う。

幕末のような、災害の多い時期では、負担が軽くなる。このように、たくさんの負担が農民に課せられた。農民の負担は大きかったが、江戸周辺は飛躍的に石高が増加した。だが、水害や日照などの天災にたびたび襲われ苦しめられている。


 農民の生活で、特徴的なのが、5人組み制度である。5人が1組となり、例えば、5人の中の一人でも年貢なの税が治められなければ、連帯責任となって、5人とも罰がくだる。

また、村にはそれぞれ、村法があり、村法を破ると、村八分などの罰が降る。江戸時代の村は、連帯責任のために、犯罪が発生する確率が低い環境にある。

しかし、反面、領主が違えば、逮捕権がないため、犯罪者が逃げやすい世界でもある。

このような、5人組みのシステムによって、これまで、説明してきた厳しい税であっても、治めなければならない、環境に農民は負い込まれていたのではないだろうか。

(将軍の鷹狩 根崎光男 同成社 参照)
 
                       
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2016年11月26日

古代日本と古代朝鮮の深い結びつきとは‐通信教育部専門課程‐考古学リポート

古代日本と古代朝鮮の深い結びつきとは‐通信教育部専門課程‐考古学リポート

 古代日本と古代朝鮮は特に結びつきが強いと言える。

なぜなら歴史的に見ても古代日本の統一王朝である大和朝廷は朝鮮から来た民族という説も存在している。

また、実際に古代日本は朝鮮半島の一部を所有していたという説もあり、朝鮮半島の内乱に介入していたという歴史的事実がある。

考古学的に古代日本と古代朝鮮の結びつきを見ると古くは旧石器時代の日本の遺跡で発掘されるハンドアックスなどは、朝鮮半島南部で発掘される細石器と非常に似ている。

この時代のある説では日本と朝鮮は陸続きであったと言われている。

この二つのことを考えるとこの時代は、日本と朝鮮は一つの文化圏として区別無く存在していた可能性が高い。

その後、陸続きで無くなると、日本と朝鮮は別々の文化を歩んだが、少しは交流はあった。

例えば朝鮮の櫛目文土器が九州対馬の縄文時代遺跡の出土品にごくわずかに含まれていたり、また、逆に朝鮮半島南部の遺跡に縄文土器が出土したりしている。

このことから日本と朝鮮は交流があったことがうかがえる。


 つぎに人間の生活にとても大きな影響を与えた稲作とそれに伴う金属その他の文化は朝鮮半島から伝えられた。

東アジアの稲作は最初中国の長江中流地域といわれ、それが朝鮮半島に伝わりそして日本には、縄文時代終末期に伝わったという説が今のところ強い。

弥生時代のころ中国ではすでに統一的な王朝ができ社会秩序もととのい、周辺の国家に大きな影響を与えた。

朝鮮半島は中国の属国的な立場になり、文化的影響を大きく受けた。

それが海を越え日本にも伝達した。

日本では大陸文化の影響で貧富の差、支配階級の誕生、統一的国家の誕生、など大規模な変化があった。

これは、稲作により、食料や耕作地を持つものと持たないものの差が貧富の差、それが支配階級へと成長していった。

また、金属文化は日本人の生活を大きく変え、より便利なものになった。

そして、金属文化と乗馬文化は戦争の規模、戦術、スピード、を変え巨大国家ができやすい環境になった。

朝鮮からの大陸文化の伝達は遺跡によりある程度、証明する事ができる。

有名なものに縄文時代時代末期の佐賀県唐津市の稲畑遺跡、弥生時代の遺跡である、静岡県静岡市の登呂遺跡がある。

これらの遺跡には水田跡が見られ、この時代稲作が始まっていたという証明になる。

また、木製農具の制作に使われた磨製石器や稲の収穫具の石包丁が出土された。

これはらは、朝鮮の遺跡から出土されたものと同じ形式を持っていた。

このことから稲作と共に石包丁、磨製石器の技法が朝鮮から日本に伝わったことが推測される。

日本で出土された、銅剣、銅鐸、銅鏡、などに関しても朝鮮半島で同じ形式のものが出土されている。

このことは、朝鮮製の物が、日本に流入、もしくはモデルとされた可能性を示し、両国の繋がりを表すものである。

また、朝鮮の青銅器は中国東北地方の遼寧式の青銅器が源流とされ、中国―朝鮮―日本という流れで文化が入ってくるという事を示すものである。

そして、形質人類学から考えるとこの時代、九州北部や本州西橋から出土された人骨の中に、高顔で高身長という特徴を持つ人骨が出土される。

これは大陸から来た渡来人の骨であると推測され、日本における新しい文化である稲作、金属文化の伝来に、大陸から来た渡来人が大きく関係していると言えるだろう。

古墳についても大陸の影響を受けた。

古くは弥生時代の遺跡で見られる支石墓や箱式石棺は大陸でも同じ形式が見られ、影響を受けたと考えられる。

そして、古墳時代の古墳の構造上における変化である。早くから大陸で見られ、その変化は横穴式石室で見られる。

この技法が日本に影響を及ぼし、古墳製造の技術上昇に貢献した。

横穴式石室の源流は4世紀中頃楽浪群にあり、それが、5世紀に百済に伝わり、百済と交流が盛んだった日本に伝わった。

古墳時代は工芸技術が著しく発達し、文字の使用も見られた。

これは大陸との交流はもちろんのこと大陸から日本に移り住んだ帰化人の影響も強く受けた。

文字はだいたい5世紀頃から一般的に使用された。

文字の使用により新しい知識が容易に得られるようになり、文化の伝達のスピードも早くなり、仏教などの新しい思想も容易に入り、日本人に大きな影響を与えるようになった。

文字の伝達は日本を大きく変え、文化のレベルは上がり、歴史を文字で書き留める事ができるようになった。

すごくすばらしいことである。日本語の文字の源流が中国にあることは中国語を見れば誰にでも想像がつくはずである。

そして、初期日本製の文字を含んだ作品を見ると、大陸の渡来人の名が見られる。このことは、渡来人から文字が伝わった可能性を示すものである。


 最後に、もし、大陸からの文化伝来がなければ縄文時代のような狩猟採集の生活が続いていたかもしれない。

大陸からの文化伝来は現在の文明社会の始まりだったのかもしれない。

そして、日本は海に囲まれ独自の文化を歩んで来たように見えるが実は古代は非常に大陸との関係が強く、盛んな交流があった。

日本文化の源流は大陸にあり、日本は大陸文化を基本として独自に文化を築き発達させ、現在の日本文化を創ったと言えるだろう。

例えば文字に関しては日本独自の文体やカナの発明などがそうであるように。


参考(古代朝鮮と日本 西谷正 名著出版)


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2016年11月25日

日本国大君号‐世界一の国と渡り合う武士の魂とは‐通信教育部専門課程海外交渉史リポート

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日本国大君号‐世界一の国と渡り合う武士の魂とは‐通信教育部専門課程海外交渉史リポート


 東アジアは、儒教的な文化なので伝統や格式を重んじる傾向にある。

国書の中の形式や署名など、僅かなことであっても、大変重要な問題となり、僅かな食い違いから、国際的な問題にまで発展する傾向にある。

差出人である日本の徳川将軍の署名に関しても、その書き方にはさまざまな問題点が含まれている。


 日本国大君号は対外的な徳川将軍の称号の1つである。最初は朝鮮との国書のやりとりのなかで、初めて使われることになる。

 大君の意味は、朝鮮では、国王の嫡男、すなわち王子を指していう言葉である。

また、中国では大君は、天子の意味、すなわち、皇帝を指す意味である。

このように、中国と朝鮮ではその意味がちがうのである。

これは非常に重要な問題で、もし、中国と国交が正式になったと仮定すれば、それは、対等な立場での国交の樹立を意味している。

しかし、日本が朝鮮と日本国大君号で国書を交換する場合は、朝鮮側から見れば日本は子にあたるのである。

子は親よりも格式が下なので、国家間の間に例えると、朝鮮が親ということになり、すなわち、朝鮮の方が格式の高い国と言うことになる。

これは、日本にとって大変重要な問題である。

この問題に対して、新井白石は朝鮮との通信に際して、日本国大君号から対等な号である日本国王へと改めさせた。

しかし、享保時代以降は、元の日本国大君号へと戻った。


 中国では、古くから抱いていた思想がある。

それは、中華思想で、これは中国を中心として考える思想で、地理的にも文化的にも中国を中心とする思想である。

中華思想は言語などにも影響が見られ、周辺国を差別用語で呼び名を付けている。

また、周辺国を軽視して差別する文化的に優越思想の華夷思想である。

そのため、中国は外交を行うとき、周辺国とは対等な立場での外交を行わずに、中国の属国的な立場での外交を行った。

儒教的に表現すると、中国が親で周辺国が子と言うことになる。


 日本でも、この中華思想を日本風にアレンジした日本的な華夷思想が作られてきた。

中華思想と同じように、日本を中心として、周辺国を見る考えの思想である。

この中では、日本の周辺国である、北のアイヌや南の琉球、そして、東の朝鮮、これらの国々が日本から見て、華夷の国になる。


 徳川政権時代の日本は、中国の中華思想の枠組みに入らない、対等な立場での外交政策が基本的な方針であった。

中華思想の枠組みに入らず、日本的な華夷思想の両方から見て、考えられたのが、日本国大君号である。

大君は、中国では天子の意味をさすので、大君を使うことによって、中国と対等な立場の国であることを周辺国にアピールができ、また、国王よりも立場が上である大君を使うことによって、日本的な華夷思想の実現にもなっているのである。

日本国大君号は、江戸時代を通じて、中華思想の枠組みから外れた日本独自の思想として、広く使われ、アジアの国々にも受け入れられてくるのである。

日本国大君号以外でも、さまざまな将軍の名称が存在した。

例えば、征夷将軍、日本御主大御所様、日本国王、日本皇帝、日本将軍様、などで、返書としては、日本国源家康、日本国などである。

これらの名称に関して、これといった厳密な形式や国によっての使い分けなどは存在していなかったようである。

 
 ヨーロッパ諸国との国書のやり取りの中ではそれほど、形式や号に関する問題が出てくることはなかったが、しかし、お隣の朝鮮との国交を正常化するために行われた国書のやり取りの中では問題が出てきた。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵いらい朝鮮との国交は断絶していたのだが、徳川政権になって、朝鮮との国交正常化を果たすことになる。

日本と朝鮮との国書のやり取りの中で問題となったのは、将軍の呼び名で、朝鮮側は、日本に対して将軍の呼称を日本国王と書くように願った。

この日本国王号は元々、足利義満の時に、明から日本国王として任ぜられて、贈られた称号である。足利義満は明との貿易のために、この日本国王で朝貢貿易を行うことになる。

この時は、足利義満は日本人としての面子よりも貿易での利潤を優先したと言う事になる。

これに対して、賛成する人もいたが、反対に国内では批判する人もいた。明から貰った日本国王を使うことは、明の属国であることを意味し、また、中華思想である華夷思想の枠組みの中に日本が入ることを意味している。

そのために、徳川政権では日本的な華夷思想や武士としての面子のために、この日本国王を使うことを拒絶していた。

しかし、朝鮮は明の華夷思想の枠組みに入り明を宗主国と認めていた。

日本に対しても同じ、明の属国として日本国王号での国書のやり取りを希望していた。

朝鮮との国書のやり取りの中で、日本と朝鮮の窓口となっていた宗氏は将軍の呼称を日本国から日本国王へと変え、朝鮮との国交正常を行った。

そして、満州族が明に侵略を始めると、日本と朝鮮との間での国交の関係は中国を抜きにしたものへと変わっていくことになった。


 日本国大君号からは、当時世界1の大国である中国と対等に渡り合う国としての強い意思と、大国にも屈することのない武士的な思想が感じとられる。


(天下泰平 横田冬彦 講談社 2002年 参照)


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2016年11月19日

朱印船貿易について‐専門課程‐海外交渉史リポート

朱印船貿易について‐専門課程‐海外交渉史リポート

 朱印船貿易が始められたのは豊臣政権の時と考えられている。

日本は戦国時代をへて外国との貿易が活発になった。

戦国期、戦国大名や織田政権は外国との貿易を通じて、外国の技術や文化、軍事兵器をとり入れ、また、その貿易利潤が重要な軍資金となっていく。

豊臣政権時に日本の国は平定されるが、外国との貿易は盛んになっていく。


 当時は密貿易や海賊船も多くいたので、その区別のやり方として朱印状の交付が考えられた。

朱印状を持っている船が国から許可を与えられた正式な貿易船ということである。

外国との貿易が活発になる中、これまでの、無秩序であった外国との貿易に対して、ある程度の秩序を与えたと思われる。


 東アジアや東南アジアで、国家によって貿易許可書を配布して、貿易を行うスタイルは、ポルトガルが始めた。

ポルトガルは大航海時代をへて、マカオを中心としてアジア貿易で利潤を上げていた。

ポルトガルは外国との貿易船にカルタスを発行して、カルタスの所持を貿易船に義務付けた。

もし、カルタスを所持しないで、貿易を行うことは犯罪行為とみなされて、積荷の没収や船員には罰が与えられた。

これは、貿易の統制とともに、カルタスの発行に対しての税金をアジア貿易での利潤の1つと考えた。

 
 中国も海外渡航を行う時は、文引と呼ばれる国家から発行される、渡航許可書が必要とされる。

これらの許可書は現代風に言うとパスポートのようなものと考えられる。

アジアでは、貿易の際に、国から発行された証明書を元に貿易が行われる伝統や風習が存在していたことが、これまで説明したことで分かる。


 朱印船貿易で日本の輸出品の大部分は銀であった。

現在の日本でも銀座という地名が残っているほど、当時の日本では大量の銀貨が作られていた。

貿易船一隻約500貫目の銀が積み出されていた。

あまり、実感の沸かない数字だが、輸出銀だけで、当時の世界産銀の3分の1を占めていた。

世界経済にとって、日本の重要性が分かる。


 日本の外国からの輸入品で重要となるのは、生糸や絹織物である。

これらは、中国で主に生産されるものである。

本来なら中国と貿易をすることができれば手に入れることのできる製品である。

しかし、中国は日本を嫌っていた。

なぜなら、戦国期の大内氏、細川氏は中国貿易を巡って争いを続けていた。

その争そいの火種を中国本土まで持ちこんでしまって、中国から強烈な批判を受けた過去を持つ。

後、豊臣政権時の朝鮮出兵での国交の断絶。

などの理由から、中国は日本とは正式な貿易を行わなかった。


 中国の明代には海禁政策が行われて、国民の海外渡航が禁止されていた。

しかし、密貿易は盛んで、東南アジアまで、密貿易が盛んに行われていた。

 中国本土に上陸できない日本は、中国制の輸入品を求めて東南アジアに航海したと思われる。

東南アジアでは中国の密貿易者が集まるので、そこでの、出会い貿易を行ったと思われる。


 朱印状を貰った人の記録から朱印船貿易を考えてみると、徳川家康時代には積極的な朱印船貿易が行われていたのに対して、徳川秀忠時代になると朱印船貿易は下火になり急激にその数を減らしていることが分かる。

これは、徳川秀忠時代になると朱印船貿易に規制をかけていき、だんだんと数を減らし、将来的に朱印船貿易を廃止して海禁政策へと繋げるものだと考えることができる。

幕府は朱印船貿易の利益よりも、キリスト教の脅威を幕府の最重要課題としたと思われる。

日本人が外国に行くことによって、幕府の勢力が及ばない外国の地で、外国の思想(キリスト教)の思想が日本人に広まることを危険視したと思われる。

その他、日本の最重要輸入品である、中国制の生糸や絹織物を幕府が購入できるルートが朱印船貿易以外で開拓されたことも考えられる。

それは、アジア貿易の主流だったポルトガルが衰退し、変わりに、オランダへと移っていることも原因として考えられる。

日本ではキリスト教の布教を行わないオランダによる、中国制の製品の輸入のルートがあったからこそ、朱印船貿易を廃しできたのである。

江戸時代を通じてオランダは、朱印船貿易の地盤を継ぎ、日本貿易の独占化をはたすことになる。


 朱印船貿易を主に行っていたのは、豪商や大名などの資産家である。

それは、朱印状を取得する手続きの難しさや例え大名であっても、幕府の重臣のコネクションを必要としたことにある。

また、遠く離れた海外に貿易船を出すことは、それなりに大きな船を必要としたことや朱印船貿易で利益を得るためには、それなりの積荷などが必要で、それらを調達できる莫大な資金を必要としたことにある。

朱印船貿易が盛んになる中、航海の技術が未熟だった日本だが、世界の海航に進出して高度な航海術を有していた西洋式の航海術を取り入れていった。

また、それに伴い船を作る技術も西洋式の技術を取り入れて、中には、800トンの船も存在していた。日本は朱印船貿易を通じて海の技術が発展を遂げることになる。


 朱印船貿易時は日本が西洋の国と深い交流を持ち発展した時代である。

しかし、マイナス要素であるキリスト教のために西洋との交流が途絶えた。

もし、江戸幕府が朱印船貿易を活発に続け、諸外国と積極的に交流を行っていたら違う歴史がそこにはあったであろう。

(鎖国 岩生 成一 昭和63年 中央公論社 参照)


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2016年10月12日

律令国家の税制度‐全国組織の国家体制とは‐(日本史概説リポート)


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律令制度の真実に迫る


律令国家の税制度‐全国組織の国家体制とは‐(日本史概説リポート)

 律令国家の農民の負担について考えると、一番の負担は、祖庸調を中心とした税が考えられる。

その他、蝦夷や唐、新羅との戦い、防衛、それに伴う徴兵制の実施などが農民の負担と考えられる。


 初めに、農民の負担となった、律令国家成立の前提を説明すると、当時の日本は、豪族の力が強く、中央集権ではなった。

このような状況だったので、新羅と唐に対抗するために天皇を中心とした、中央集権国家成立が必要とされた。

これらや遣隋使、遣唐使の影響などが律令国家成立の前提と考えられる。


 では、祖庸調を中心とした税について説明すると、税を課すためには、まず、人々のことを把握しなければならないので、その手段として、全国の耕地を国家の所有とし、大部分の国民に与えた。

各人に与えられた田を口分田と言う。

政府は6年ごとに戸籍を作り6歳以上の男子には田を2反、女子にはその3分の2の口分田を与えた。

これを班田収受法と言う。これを対象に租庸調及び雑徭の税をかけた。


 まず、租は収穫の百分の三を納める。

庸とは一年に十日使役されるか、布を納めるかである。調とは織物等の物産を納めるものである。

雑徭とは国司が最長六十日まで青年男子を使役する。


 これらのことから農民の負担を考えていく。

祖は田に直接かかる税で、低率である。

当時は、収穫率が非常に悪く、最低限の生活を確保するためには、これ以上の祖の徴収はむずかしかった。

この祖は、収穫の一部を神に捧げる初穂を起源とするものと考えられている。

徴収された祖は利稲の一部や、備荒用として倉に収められ、飢饉などの時には困った人々に支給された。

しかし、この祖はあらぬ方向に流用されはじめ、蝦夷討伐の軍糧などの軍事費に充てられ、一部の貴族や官僚たちの給与として祖を直接支給する制度が確立されていった。

農民からみれば、飢饉のために先祖代々からためてきた祖を、おろかな戦争や何をやっているかも分からないような貴族官人のために使われるのだから、相当な負担だったと言えるだろう。


 つぎに、調は、貢ぎ物の意味を持っている。

律令制以前の社会では、人々は物を貢ぎ物として、国造などの有力者に捧げ、そして、国造から大王に貢物が捧げられた。

これが調の起源とされる。律令体制では、直接一般の人々から都に調として納められた。

調の使い道としては、官僚の人件費などの中央政府のあらゆる支出にあてられ、また、一部は神々への幣料にもてられた。

そして、地方での調庸の納期は八、九月であるが、ちょうどそのころは端境期にあたり、人々にとっては最も苦しい時期であるため納入はすごく農民に負担となった。

そのため、経済的に余裕のあるものが、そういった苦しい人々の代わりに調庸を納期に間にあうように代納し、秋の収穫のあとに高額の代価を要求するというシステムもできた。

また、仏教の流行などにより、昔からの地域の神々の影響力が弱まったことにより、神への貢ぎ物という観念も薄れていった。

そうなると、ただ調庸を取られるだけという意識に農民達は変わり、精神的にも負担は増えたと言うことになる。

庸に関しては、律令体制以前の服属儀礼の流れを汲む宮仕えのための仕送りのシステムを拡大して成立し、同じようなことは雑徭に関しても言える。

庸に関しての事柄も調の場合と同じような事がいえるだろう。


 そして、徴兵制があり青年男子三人に一人の割合で指定された。

兵士は各地の軍団に属し六十歳までのあいだに一年間は上京して衛士となった。

また一部は三年間九州に下って西海防衛の防人をつとめることもあった。

兵士は庸、雑徭などを免除されたが、勤務地に行くための費用や食料、武器や防具などの装備品の一部は自己負担であった。

またこの時代、無謀とも言える唐、新羅の連合軍と戦った白村江の戦いや、東北の蝦夷との戦い、それに壬申の乱などの内乱があり、戦死者も多数発生した。

このように農民達の負担はかなり大きかった。


 以上のように律令税制下では、様々な税があり、その結果、農民の負担は増え、中には、口分田を貰えなくても、租庸調を出すよりはましと考え、口分田を捨て浮浪、逃亡する農民達が多数でてきた。

これが律令制崩壊の一つの原因になったと言えるだろう。


 最後に強力な国家、国土の拡張、新しい文化の発展、仏教の浸透。

これらはこの時代の表の顔であり、この陰には農民の負担が有ることを忘れてはならない。

そして、この時代から古きよき神話の時代は終わりをつげ、新しい秩序の世の中が生まれる、数ある時代の一つの変換期で有ったとも言える。

多数の農民達はついていけず苦しい生活から逃げ出す者も数多く現れた。

それは、中央集権の強い日本を作る為の犠牲で、この後数々の弊害が出て結局は、律令体制は崩壊する。

やはり農民達の犠牲の上のシステムは長くはつづかないようである。

でも、この時代にこれだけの新しい考え方や中央集権的な強力なシステムが実行されていたということは歴史的にみてすごいことである。

 
 (参考文献・律令国家の転換と日本 坂上康俊 講談社)


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2016年10月11日

承久の乱‐貴族から武士へ(日本史概説リポート)


サイト管理者「真田まさお」著書、大東亜戦争(太平洋戦争)を市民の立場から歴史を研究、本土空襲体験者の生の声から、真実の戦場の姿を語ります。


後鳥羽上皇VS北条家

その戦いの結果



承久の乱‐貴族から武士へ(日本史概説リポート)

 承久の乱について、まず、簡単に説明すると1221年(承久3年)後鳥羽上皇の鎌倉幕府打倒の兵乱。

北条政子は御家人の結束を説き、執権北条義時は泰時・時房に軍を授けて京都を攻撃し上皇方を破った。

その結果、後鳥羽上皇ら3上皇の配流、後堀河天皇の擁立、所領の没収など、朝廷の勢力が失墜し、幕府が朝廷よりも優位になる体制が確立した。

また今まで地頭の置かれなかった西国の公領、荘園にも新しく御家人が地頭に任命されるなど幕府の西国支配が強化された。

これが承久の乱の簡単な説明である。


 この時代の時代背景を説明すると、以前は貴族が日本の中心となり国を治めていた。

だが武士が台頭し、日本の国は武士と貴族の二つの勢力ができた。両者の対決は歴史の流れといえるだろう。


 武士勢力である鎌倉幕府が力を付けた理由を考えると、守護と地頭の設置であげられる。

頼朝は平家滅亡後、頼朝に反抗した義経らを捕らえるという口実で、朝廷の許しを得て、諸国に守護を、公領と荘園に地頭をおいた。

守護には、御家人を指揮して大番役の催促と警備、謀反、殺害人の取りし締まりを任じた。

大番役というのは、費用自弁で上京し、6ヶ月又は3ヶ月の間皇居の警備にあたる諸国の武士の役目をいう。

地頭は租税の徴収や土地の管理、治安の維持に当たり、一反あたり五弁の兵糧米を取る権利、その他の得分を与えられた。

この守護、地頭の設置によって、幕府は広い地域にわたり、軍事、警察の権限を握ることになった。

この権力増大は乱発生の一つの原因と考えられる。

 
 つぎにもう一つ乱の原因となった、鎌倉幕府のシステムは将軍が武士の上にあり、武士達は将軍の御家人(鎌倉時代に将軍と主従関係を結んだ武士)となり、将軍は御家人の領地を安堵し、その恩恵に対し御家人は将軍に奉公をするという相互関係である。

そして、この領地の安堵は多少の過ちがあってもこれを没収されない。

大きな過ちがあって、没収されるときは、その領地は近親の者に与えられることになっていた。

その代わり戦がある時は、御家人は将軍のために忠誠を尽くすというものである。

これを御家人制度と言い鎌倉幕府の基本となる制度だった。

そして幕府は常に、断固として、御家人の権益を守らねばならない立場にあったので、朝廷の不興を呼ぶこともさけられない事もあった。

また、鎌倉幕府の力の増大もあり、すべてを意のままにしている後鳥羽上皇としては、思い通りにならない鎌倉幕府の存在が邪魔になり、不満が溜まり、承久の乱へと発達していった。


 ではここで、どのように乱が実行されたか説明していく。

後鳥羽上皇は、後白川上皇の死後院政を掌握し、莫大な皇室領を掌中にいれ、権力を増大させ朝廷側の第一権力者となっていた。

後鳥羽上皇は鎌倉幕府に対して戦の準備をする。

北面、西面の武士は後鳥羽上皇の手兵だが、数がすくなかった。そこで在京の鎌倉御家人を手なずけ、つぎに北条氏に反感を持っている人たちを手なずけて、兵力を整えていった。

そして、源氏の正統が断絶したのを機に政権の回復をはかり、全国に北条義時追討がくだされ、承久の乱が始まる。


 これに対し、幕府の北条義時は、御家人を集め北条政子が御家人を結束させ、京に向けて進軍を開始した。


 戦いは幕府軍の進軍に対して、朝廷軍は尾張の木曽川の線で防衛ラインを張ったがあっさりと破られることとなった。

幕府軍は京都まで進軍し京都攻防戦が繰り広げられる。

幕府軍は最初少し苦戦したが、最後は京都に乱入し、圧倒的勝利をおさめた。

 
 幕府圧勝の原因は、動員兵力の差である。

これは、幕府側は源氏の正統が途絶えたにもかかわらず、朝廷側が考えている以上に御家人の結束が固かったことが要因である。

また、最初に乱をしかけた朝廷だったがその後の対応は遅れ、いたずらに時を過ごした。

これに対して幕府は対応が早く、朝廷よりも先に進軍を開始する事ができ、その進軍を見て、まだどちらにつくか考えていた御家人達はこぞって幕府軍の進軍に参加した。

このことも原因の一つと考えられる。


 戦後、後鳥羽上皇は隠岐に、そして、順徳上皇は佐渡にながされた。

承久の乱の後、武家の政権は安定し、幕府は京都に六波羅探題をおき、常に北条の一族をこれに任命して朝廷の監視と西国の司法、行政事務にあたらせた。

また討幕の企てに参加した公郷や武士の所領300余ヶ所を没収して戦功のあった御家人に分配し、多くの御家人が新たに地頭として送り込まれた。

この乱にあたり、恩賞として地頭に任命されたものは、荘園の全面積の11分の1を給田としてあたえられ、一反ごとに五升の加徴米を徴収する権利をもち、以前より、はるかに強力な権利を荘園のなかに行使し得た。

ここに幕府は全国政権としの道を踏み出したのである。


 最後にまとめると、世の中が貴族から武士へと変わる時代の流れを変えるために、後鳥羽上皇は承久の乱を起こした。

しかし、後鳥羽上皇の力を持ってしても変える事ができず、結果的にはこの乱が武士の世の中になる事を決定的にしてしまった。

少し皮肉なものである。

承久の乱はこれから江戸時代まで長くつづく武士の世の事実上の始まりとなった。

この乱は日本史の中でとても重要な事件だったと言えるだろう。


(尼将軍政子 青木重繁 新人物往来社 参照)

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2016年10月10日

寛政の改革について‐(日本史概説リポート)

7 皇居の桜田門に到着。 #皇居 #東京 #桜田門 #井伊直弼 #Tokyo  #桜田門外の変 #日本  #japan「教科書に載らない歴史」はここをクリック 高校で普段行っている授業の実践記録や日記集、研究など、教科書に載っている事だけを授業するなら教員なんていらない。誰も知らないことを授業で取り上げる事に意味がある。教科書では語れなことや取り扱って欲しい内容を取り揃え、日本人としての心を取り戻す教育、その一部を紹介します。




松平定信の挑戦とは?

寛政の改革について‐日本史概説(リポート)

 寛政の改革についてまず当時の時代背景などを調べ、そして、実際にどのような政策があったかを考え、それによってどのように時代が変わって行ったかを調べていきたい。

また、松平定信という人物像にも迫って行きたいと思う。


 この時代、幕府や大部分の藩の財政はかなり苦しくなっていた。

そして、天明の飢饉と江戸をはじまとする全国的な打ち壊しや、関東農村からの流入民が江戸に大量に滞留し、かつ農村では人口減少という問題があった。


 そして、田沼政権崩壊後、松平定信の登場となる。

人物像はまず、1758年に田安家初代徳川宗武の7男として生まれた。8代将軍吉宗の孫にあたり、1774年に、幕命のため余儀なく奥州白河藩主松平定邦の養子となっている。

松平定信は英明な才能の持ち主であったといわれ、学問、文芸にも通じた。


 つぎに、寛政の改革の基本的な政策は享保の改革にならった。享保の改革を簡単に説明すると、8代将軍徳川吉宗による1716〜1745年の幕政改革。

将軍専制体制を確立し、倹約、新田開発、増税などによる財政の再建、都市商業資本の支配統制に努め、法制の整備などにも意を用いた。


 つぎに寛政の改革の政策について説明しよう。

 享保の改革のときに設置され、その後事実上廃止されていた目安箱を復活させた。

目安とは訴訟のことで、これにより、庶民や下級武士、町人からの意見を汲み上げようとした。

その他、株仲間(株仲間とは、商業を統制するため、問屋商人に株仲間の結成を願い出させ、独占的な営業を認めるもの)の解散に踏み切った。 

松平定信はまた、倹約令の強化に努めた。倹約令とは、江戸幕府や大名が出した倹約を強制する法令のことである。


 そして、松平定信が老中に就任した当初は米価高騰の渦中にあり、米価と諸物価を引き下げるための対策を打ち出す必要に迫られた。

 幕府は江戸への米の廻送を促すとともに、1787年五月には大阪で米の他国売りを禁止して、江戸に廻米するために米を買い付けた。

そして7月には酒造高を三分の一に減らす旨の触れが全国で出された。江戸では米穀の販売を促すために、問屋以外の素人による米と雑穀の売買を自由とした。

1787年は米の作柄もよく、8月には新米も出回るようになって、次第に米価も安定していった。

ところが米価が下落したにもかかわらず、ほかの諸色物価はさがらなかった。

それは流通過程に問題がある為で、商人が自分の利益のために高値のままにしているからである。


 その他棄捐令などがある。

棄捐令とは1789年、旗本、御家人救済のため、札差の借金を破棄させた法令。

6年以前の借金を破棄させ、以後のものは低利年賦返済とした。
  
これにより、借金が帳消しになったことは嬉しいが御家人、旗本には締め貸しとして、つけが跳ね返ってきた。

札差から借り入れで成り立っていた旗本、御家人にとっては、今後の不安は募るばかりであった。


 その他、無宿人の取締まりがある。詳しく説明すると、江戸の町では18世紀の半ばから関東地方の農村から出てきた浮浪人が目立つようになり、天明の飢饉以降にも大量に流れ込んだ。

関東農村の下層農民が出稼ぎに江戸に出て武家や町家の奉公人となったが、中には無職の浮浪人や博徒となって市内を横行する者もあらわれた。

江戸の打ち壊しでは浮浪人は騒動の主体ではなかったが、騒ぎに乗じて盗みを働くなど、混乱と社会不安をいっそう大きくする働きをした。

出稼ぎ奉公人に関しては、農業人口の確保を目的として、1788年12月に出稼ぎ奉公制限令を出して、陸奥、常陸、下野の国からの出稼ぎ人に限って厳しく制限し、1790年11月に旧里帰農奨令を出して路用金や食料代、農具代を給付して帰農を勧めた。

そして、無宿人にたいしては、江戸の治安を維持するうえからも厳しく取り締まった。

人足寄場を設置し、それは社会復帰を目的としたもので大工、建具師などの職業を身につけさせるほか、仕事を与え、人夫としても使役させた。 


 その他、七分金積立がある。詳しく説明すると、江戸の町人用(町費)の節減による積立て制度。節減額の7割を江戸町会所に積立て、低利融資で増殖をはかり、利子は貧民救済に充てた。


 つぎに、囲米(囲籾)というのがある。詳しく説明すると、備荒貯蓄、米価調節などのために籾米を貯蔵すること。


 その他、柴野栗山等の学者を登用し、昌平坂学問所を官学とし、朱子学を正学とし、それ以外の儒学を異学として、昌平坂学問所で教えることを禁じた。

これを、寛政異学の禁という。


 その他、風俗を乱す洒落本、好色本や政治批判、時事風刺を行った出版物を禁じた。

これを出版統制令という。

だいたいこんなものが寛政の改革である。

 
 その後、松平定信は、商人の根強い反抗や大奥勢力との対立などがあり、けっきょくは、在籍7年で老中職を辞することとなった。


 退職後、大御所様時代という文化の発達した時代を迎えた。

 結局、松平定信という英雄の力を持ってしても幕府の立て直しはできず、時代の流れは幕府崩壊へと少しずつ進んでいる。

そんな時代だったと言えるだろう。

 
参考文献(日本の歴史、佐々木克、集英社)


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2016年10月06日

廃藩置県‐(日本史概説リポート)


サイト管理者「真田まさお」著書、卒業論文を元に制作、卒業論文作成は他者が書いた作品が一番の参考資料になります。



古き良き時代の終わりと新時代の幕開け

廃藩置県‐(日本史概説リポート)

廃藩置県概要


 1871年、現在の日本の様な中央集権国家をめざして、江戸時代の幕藩体制を解体して、藩を廃して、全国を政府の直轄地にするために県を配置した。

これにより、武士の時代は終わりを向かえ、中央集権化が現実のものとなり、近代国家日本が歩み出した。

 
 江戸時代の日本は、徳川幕府が日本を治めていたが、国内には数多くの藩があり、中央集権国家ではなかった。


 そんな中、長州藩の下級武士を中心として尊王攘夷論が盛んになる。

しかし、長州藩では四国艦隊下関砲撃事件などにより攘夷論はなくなり逆に開国を主張する勢力が台頭してくるようになる。

そして、尊王攘夷論が後に討幕論へと変化していく。


 そんな中、幕府による第二次長州征討が行われたが長州藩は、連戦連勝し停戦した。

それに加え、薩摩藩と長州藩が同盟し、討幕の主力を形成する事となり、討幕が現実のものとなっていった。


 このような状況で将軍徳川慶喜は、朝廷を統治主体としたうえでの公議政体論構想を掲げ、体制を朝廷に奉還し、朝廷のもとでの諸侯による議会体制のなかで、徳川家の新たな形での実質的な支配権を維持しようと試みた。

これを大政奉還という。

 
 これに対し討幕派は、天皇自身の決断を直接に奉じて実現することで「天皇親政」を担う政治勢力であるという正当性を付与しようとし、王政復古の大号令が発せられることになった。


 そして、倒幕派は新政府としての基本方針を五箇条のご誓文として発布した。

これにより、王政復古以来の天皇親政の方針を誓文として確定させることができた。

同時に開国和親の方針が明らかになった。

新政府は誓文にもとづき、官制改革をおこなった。中央では古代律令体制日本の太政官制が復活し、太政官に権力が集められた。

そして、司法、行政、立法の三権の分離主義が行われた。

地方では、新政府直轄地うち東京、大阪、京都などの重要な地域を府、その他を県とし、藩は従来通り藩主が治めた。

府藩県三治制という。


 だが、新政府と言われたものは、朝廷と公家と薩摩、長州を中心とした諸藩の集合体にすぎず、各藩の意向をどのように統合するかと言うことが依然として課題となり、藩そのものがじゃまになってきた。

こうした状況で全国をすべて直接朝廷の支配下に置くことを実現しようとする動きがでてくる。

このことを一番積極的に試みたのは、新政府の指導者である長州藩の木戸孝允であった。

木戸孝允は前藩主毛利敬親に版籍奉還を説き、毛利敬親に版籍奉還を決意させた。

そして、薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩が版籍奉還を出願した。

こうしたこともあり、群県成立の課程である版籍奉還が全国レベルで実現していく。だが、版籍奉還は諸藩主が土地と人民を返上したにすぎず、依然として集権化という課題は残されたままであった。


 そして、版籍奉還以後、政府では政治改革が議論され、薩摩藩と長州藩を中心とする勢力と、高知藩、米沢藩、福井藩、彦根藩、熊本藩、徳島藩、を中心とする非薩長勢力の政治路線が存在していた。


 このような情勢の中、廃藩クーデターが断行される。

これは孤立化の危険を感じた長州系の若手が最初に考え、それに木戸孝允、大久保利通、山形有朋、西郷隆盛ら、薩長両藩の実力者が同意し1871年2月に兵一万を親兵として東京に召集し、七月一四日、一気に廃藩置県を強引に断行した。

このクーデターが成功した理由として、実力者達の同意と協力、秘密にした入念な計画、そして、一番の理由は、薩長の巨大な武力を背景とした強引さで、たとえ藩の反乱があっても武力により潰される可能性が高かった。

また、財政難で藩経営に行き詰まり、廃藩を期待している藩が多数あったという事実があった。

廃藩反対の中心だった薩摩藩の島津久光でさえ、うっぷんの花火を打ち上げただけで、たいした混乱もなかった。

その他、長州、米沢、福井藩のように知藩事自ら反乱を防止するため、廃藩置県に不平をもらす士族に対して反乱をしないように説き伏せた藩もあった。

そして、新政府は、知藩事と士族に対して優遇制策をとり不満をそらした。これらの理由で反乱は発生しなかった。

 
 しかし、西日本を中心とした農民達は廃藩置県に対して反乱を起こした。

だが農民達の反乱は部分的で組織化もされず、すぐに鎮圧された。反乱の理由として、急速的な変化に対するとまどいや開化政策による西洋人恐怖、税に対する不安などが原因として考えられる。


 中央政府では、大規模な機構改革で太政官制の強化や神祇官の消滅が行われ、地方では、藩は廃止され新しく県が作られ、旧藩主である知藩事は解任されて東京在住を命じられた。

全国3府302県になり、すぐに3府72県1使に、旧大藩、とくに有力藩は大体において藩がそのまま県として認められた。県の規模は、だいたい、石高30万石〜40万石程度とした。

県名は、ほとんどが旧藩名を使わず、群名を使用することが多かった。

しかし、有力大藩では旧藩名がそのまま県名とされる事が多く、旧藩勢力との妥協がはかられている。

その後、1873年に3府58県1使、76年に3府34県1使になって、89年に現在の形となった。

府県の府知事、県令には、原則として他府県出身者を任命した。


 廃藩置県の断行は、日本が近代国家になるうえで画期的な意義を持っていた。

だが、軍事クーデターという強引なやり方での断行は、これからの政府のあり方に大きく作用する要因となった。

いずれにしても、廃藩置県により、中央集権化した日本が急速に力を付けこの後の世界史にも大きく影響を与え、列強の仲間入りを果たし、近代国家を作っていく。 

参考文献(中央公論社、日本の近代、明治国家の建設、坂本多加雄著)(集英社、明治維新、中村哲著)(廃藩置県 勝田政治 講談社)
など参照。



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