2016年10月27日

安易に入学できる通信大学の落とし穴


サイト管理者「真田まさお」著書、卒業論文を元に制作、卒業論文作成は他者が書いた作品が一番の参考資料になります。


通信制大学の落とし穴から這い上がるには情報交換が乗り切るポイント


安易に入学できる通信大学の落とし穴

通信制大学の卒業率は10%程度。

その原因の1つに通信制大学は誰でも入学が可能であり、入学金も通学制に比べてかなり安い。

誰でも入学出来、学費が安いのなら、安易に入学する人が増えて当然である。

通信制大学では通常1年毎に学費が発生する。

簡単に誰でも入学できて、安い学費で大卒の資格が手に入ると、安易に入学してしまうと、後で大変な目にあう。

単位が取れずに、毎年学費だけを支払う、何をやっているか分からない状況に陥ってしまう可能性が大である。

単位を1単位も取れずに、学費が発生する更新の年を迎えると、そのまま、学費を払わず、更新を行わない通信制大学生がたくさんいる。

通信制大学で単位を取るには厳しい努力が必要である。

安易に入学する事に関してだが私自身。通信制大学には安易に入学を決めている。

その証拠に1年目はスクーリングで3単位を取得しただけであった。

スクーリングに参加し、通信生と情報交換した事がきっかけとなって、卒業に向けての具体的な感覚を持つ事が出来た。

通信制大学は孤独になりやすい。これが大学を中途退学する原因だと思っている。

辞めようと思う前に、スクーリングに参加するとか、通信生のイベントに参加してもらえたらと思います。

積極的に情報を収集し、同じ目標を持った同志の存在が卒業への道となる。


なりたい自分になるにはここから














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通信制大学で単位を修得する方法‐スクーリングとリポート

単位ってどうやって取るの?


通信制大学で単位を修得する方法‐スクーリングとリポート

通信制大学は、コツを掴むまでは、単位を取得するのは困難である。事実、通信制大学では、10人入学して、その中で卒業出来るのは1人である。


●通信制大学で単位を取得する方法は2つある。

・リポート提出と単位修得試験での単位修得。

・スクーリングにて単位修得。

簡単なのは、断然スクーリングにて、単位を取得する方法。


| スクーリング

法政大学のスクーリングは、午前か午後の授業を5日受けて、最終日に試験を受ける。午前、午後で2科目、最大2単位ずつ4単位を6日間で取得できる計算である。

スクーリングでの単位修得試験はある程度試験に出る問題を予測できる。

つまり、5日間の授業で履修した内容がテストに出る。

スクーリングで単位を落とす事はあまり無い。しかし、油断は禁物で、私自身2度ほどスクーリングで単位を落としている。

スクーリングで単位を落とす事はかなりショックな出来事である。



| リポート

通信制大学で単位を取得する大部分はリポートと単位修得試験による履修である。

最初にテキストが送られて来て、各科目で与えられた課題のリポートを提出する。そのリポートが大学教員に検査されて、不十分なら再提出となる。

リポートの提出によって、単位修得試験を受験する資格が与えられて、それに合格し、尚且つリポートで合格すると単位が貰える。

リポート制作だが、ダメなら何度でもやり直しを要求され、私自身、卒業まで、修得できなかった科目もある。

単位修得試験だが、これも合格するまで、何度でも受けないといけない。これも私自身、卒業まで、合格できなかった科目がある。

通信教育で単位を取る事が難しい点は、リポートや単位修得試験の合格基準が分からないままリポート提出や試験を受けなければならない。

また不合格だった場合、不合格の理由が分からないまま追試を受けないといけないのが辛い所である。

必須科目が、何度挑戦しても合格出来ずに、卒業出来ないと言う例も発生する。

リポートによる単位の取得は、時間が、かかるが、何度でも何時でも挑戦できる所にメリットがある。


大学への進学はここから
















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  • 2016年10月25日

    フランス絶対王政‐文学部史学科‐西洋史概説リポート







    フランス絶対王政‐文学部史学科‐西洋史概説リポート

     フランス絶対王政成立の原因を考えると、絶対王政以前のフランスは封建社会だった。

    封建社会では法王の権力が絶対である。

    しかし、法王の権力が衰退していき、それに代わり国王の権力が増長していった。

    古くは国王フリップ四世(1268〜1314)は三部会という身分制議会を開き広く国民の支持を得て法王の権力を削ぐことに成功した。

    三部会は封建国家と絶対主義国家の間の変革期に成立した身分制国家と言える。


     16世紀になると新教徒が勢力を伸ばし、旧教徒と対立し抗争を繰り広げた。そして、サン・バルテルミの大量虐殺事件が起こった。

    もはや、法王の権力は絶対ではなくなった。これに加え、この時代イタリア・ルネサンスの影響、長引く宗教戦争による経済の混乱、凶作やペストの流行などがあり、時代は大きく変わろうとしていた。

    そして、国内の混乱を沈めるために強い権力を持った国王の出現を国民は待望したと思われる。


     このような混乱の時代にアンリ四世(1553〜1610)が国王に即位する。アンリ四は国内の混乱を押さえるため旧教に改宗した。

    これはフランスでは、旧教徒の信者は新教徒より人数が多いためだと思われる。また、新教徒に対してはナントの勅令により、信仰の自由を許し不満を解消させた。そして、国内を平和に導き国家財政の再建に努め、農業振興政策を押し進めていった。

    こうして、アンリ四は国民の信頼を得て権力を強めていった。かれは絶対王政の基礎を作ったと言えるだろう。


     つぎにフランスの王位に就いたのがルイ13世1604〜1643)である。

    ルイ13世は宰相にリシュリュウーを任命して政治を行った。

    リシュリュウーは中央集権国家の建設を目指した。国内では帯剣貴族の決闘を禁止し、禁を犯したものを処刑するなどの厳しい態度で貴族と接した。

    また新教徒に対してはナントの勅令のもと信仰の自由は認めたが、政治的に分離独立する事は許さず、ユグノーの本拠地を武力により征服して勢力を縮小させた。地方では地方監察官を派遣して貴族の力を押さえ込んだ。

    しかし、地方監察官は治安、司法、財政にわたる大幅な権限を持つこととなり、逆に地方監察官が地元の利害と結びついた自分に都合のよい政治をするという弊害もでてきた。

    そして、権力を持っていた高等法院の権力を制限することにも成功した。

    対外的には対ハプスブルグ政策を打ち出し30年戦争や対スペイン戦などに参加した。

    長引く戦争で戦費不足に陥り、そのため国民の同意なしに課税を行い反対するものに対しては徹底的に弾圧した。

    結果として王権の絶対主義化は進んだ。


     その後、ルイ14世(1638〜1715)が幼くして即位し、マザラン(1602〜1661)が宰相となり政治を主に行った。

    この時代高等法院や旧貴族を中心としたフロイド乱が発生したが鎮圧に成功し、絶対王政がより進行した。

    そして、マザラン死後ルイ14世の親政が始まる。

    ルイ14世の政治は華やかで独裁制を極め「朕は国家なり」という言葉はよく当時の状況を表している。

    ルイ14世により、絶対王政は最高潮に達する。政治の内容は特に文化政策に力を入れた。

    また、低い身分の者でも才能があれば国王や諸公の保護を受けることができた。国の人事は大貴族などの自分の権力を阻害するような者たちは、外して、国王の恩恵によってのみ権力行使を許される新興貴族を重要して国の人事を大幅に変更した。

    その他、コルベール(1619〜1683)重用して、重商主義政策を推し進めていった。

    そして、ルイ14世は壮大なヴェルサイユ宮殿を本拠地とした。ヴェルサイユ宮殿はパリの中心から外れていて、いわば隔離された空間であった。

    そして、ヴェルサイユ宮殿のなかで貴族たちは監視され、国王からの恩恵と金によって飼い慣らされていった。

    対外的には自国の軍備を増強し、ネーデルラント戦争、オランダ戦争、ファルツ継承戦争、スペイン王位継承戦争などたくさんの戦争を行った。

    結果領土の拡張には成功したが長引く戦争は国力の疲弊につながった。

    そして、晩年になるとナントの勅令を破棄し新教徒を弾圧していった。

    新教徒の国外逃亡は禁止されたが、豊富な資金力を持つ者や、優秀な技術を持つ者などは外国へ逃れた。

    貴重な人材が流失し、産業の遅れにつながった。


     その後、国力自体は衰えたにもかかわらず王族、貴族、僧侶の贅沢な暮らしはかわらず、ついにはルイ16世(1754〜1793)の時代にフランス革命が勃発した。これにより絶対王政は崩壊した。

     そして、ブルジョワを中心としたフランス革命により、身分と貧富の差が激しく、君主の専横がまかりとおり、権力を持った人間が絶対という時代が壊され、近代国家の始まりとなった。


     絶対王政は封建国家から近代国家に成長する時代の変革期にあたるというのが定説である。

    しかし別の角度から歴史を見ると絶対王政は封建制末期の三部会に見られる身分制国家の市民国家成立の流れを断ち切り、そして、絶対王政崩壊後は混乱を沈めたナポレオンによる、より強力な中央集権国家ができあがる。このことを考えると絶対王政時代はまだ貴族たちは地方に広大な領土を持っている状態での独裁制でいわば中途半端な中央集権であった。

    だから、絶対王政は封建制の地方分立から、より強力な独裁制を持った中央集権国家に成長する変革期だったとも言えるだろう。


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    2016年10月24日

    叙任権闘争‐西洋史概説リポート

    5.jpg「教科書に載らない歴史」はここをクリック 高校で普段行っている授業の実践記録や日記集、研究など、教科書に載っている事だけを授業するなら教員なんていらない。誰も知らないことを授業で取り上げる事に意味がある。教科書では語れなことや取り扱って欲しい内容を取り揃える。教科書で語れない内容に真実や日本文化の素晴らしさが詰まっている。日本人としての心を取り戻す教育、その一部を紹介します。


    皇帝VS教皇

    ヨーロッパの覇権はどちらの手に


     叙任権闘争‐西洋史概説リポート

    簡単に述べると、叙任権闘争とは、11世紀〜12世紀にかけて、司祭の叙任権を媒体としヨーロッパの覇権をかけた皇帝と教皇の戦いである。


     キリスト教は、ヨーロッパ各地に教会が建設され、信者の数が増えた。

    ヨーロッパではキリスト教は人間の精神的な部分を支配する道徳、みえない法律にまで成長した。

    そして、西ヨーロッパではローマ司教が、だんだんと各地の教会の中で首位性を確立していった。


     西ローマ帝国が滅亡後、西ヨーロッパでは皇帝という地位は実質的には存在していなかった。

    しかし、キリスト教徒であるカール大帝(747〜814)は、800年教皇レオ3世(位759〜816)により西ローマ帝国皇帝として戴冠をうけ、ここに皇帝権が復活した。

    そして、800年のカール大帝の戴冠により、西ヨーロッパには教皇と皇帝という2つの権力が存在する世界となった。

    両者の対決は歴史の必然的な流れなのかも知れない。

     叙任権闘争は、教皇グレゴリウス7世(位1073〜1085)が教会改革に乗りだした所から始まった。

    聖職販売聖職者の罷免、妻がいる聖職者のミサ執行禁止、教皇の命令に違反した聖職者の行う典礼への信徒の参加禁止、違反者には免職、政務停止などの制裁を与えた。

    また、皇帝や貴族封建諸侯らによる叙任を禁止した。そして、これに関連して、教皇令書を制作した。内容は、教皇は全世界の頂点で皇帝よりも上、すべての聖職者は教皇によってにみ任命されるというものである。


     しかし、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世(1050〜1106)は教皇に従う気はなく、1075年教皇令書が出たといわれている直後に、ミラノの大主教をハインリヒ4世の同意により決定した。


     これに対して、グレゴリウス7世は皇帝を激しく非難した。

    その結果、皇帝は教皇の廃位を声明したが、逆に教皇はハインリヒ4世を破門し、破門状を公開した。

    こうして叙任権闘争の火蓋は切られた。

    これは単に叙任権問題の争いだけではなく、まさしく教皇権と皇帝権の激突である。

    ドイツの多数の諸侯は皇帝権の拡大を恐れていたので教皇に味方しハインリヒを廃位させようと考えていた。

    そして、破門が解除されない場合は、教皇臨席の下で諸侯会議を開き皇帝に対する最終措置を決めることを申し合わせた。

    ハインリヒは会議の見通しが自分に不利なことを察知していたので、会議前になんとしても破門を解いてもらう必要性を感じていた。

    そこで冬のアルプスを越え教皇が滞在していた城門の前に佇んで皇帝は3日間許しを求めた。その結果ついには教皇は皇帝の破門を解いた。

    これが有名なカノッサの屈辱である。

    そして、反対勢力のドイツ諸侯は新しい皇帝を選んでハインリヒに対抗したが戦争に敗れハインリヒの立場は絶対的に有利になった。

    ハインリヒの権力拡張を恐れた教皇は再度破門したが時すでに遅く、逆に対立教皇を立てられた。

    そして、皇帝軍の攻撃を受けたグレゴリウス7世はローマを離れなければならなくなった。

    最終的にはハインリヒ4世の勝利に終わったが、まだ叙任権闘争が解決したわけではない。


     その後、1105年ハインリヒ5世(1086〜1125)が帝位についてから、再び叙任権問題は最熱した。

    しかし、教皇と結び自分の権力を拡張しようと企む諸侯達の反抗に皇帝は苦しみついには、1122年ウォルムス協約で皇帝は司教の叙任を放棄し、挙式は皇帝の前で行われ、選出された者には封土を与えるときめた。

    妥協案ではあるが、叙任権闘争は終結した。


     叙任権闘争が世界史に与えた影響ははかりしれない。

    皇帝自身が諸侯の一人で他の諸侯を押さえるために、司教の叙任権を利用して権力を確立していたが、叙任権闘争の結果、皇帝の神格性は失われ権力は衰退した。

    そのため、ドイツではますます皇帝は、各諸侯の勢力を押さえることができないようになり、封建化がよりいっそう進展していったのである。


     その他、叙任権闘争の最中、1095年教皇ウルバヌス2世(1035〜1099)は教皇権の優越を目指していた。

    そして、キリスト教による権力拡大を目指した第1回十字軍の成功で教皇は優勢に立った。

    十字軍は、ヨーロッパ各国の国王や諸侯などが協力して軍隊を作り聖地奪還を目標とした。

    十字軍の影響で、ヨーロッパでは教皇を頂点としたキリスト教と多くの国家という、連帯した共通の意識を持った、ヨーロッパ世界が形成された。


     最後に、聖職者たるものは信仰心に厚い人格者でなければならないということから教会改革運動が生まれた。

    以後、聖職者の人格や信仰が大きな影響力をもつようになり、宗派が多くできる原因ともなった。

    それは、現在でも続く宗教戦争の遠因となったと言っても過言ではない。

    そして、聖職者の人格を問題にする事は、当然、叙任には、俗権の利益を求めた都合のよい任命では問題となる。そのため教会当局、すなわち教皇にこそ聖職者の叙任の権限が必要となる。

    しかし、皇帝や国王からしてみれば、すでに教会は行政の一部であり、教会領からの収入もある。

    そうなると教会も俗権の利益の中にあり、その両者の衝突は教会の機能とは何か、国家との関係は何か、教会を法的権限と組織の中において良いものなのかなど様々な問題を考えさせる要因となった。


    (西洋教会史 小嶋潤 刀水書房)(西欧中世史(中) 江川温 服部良久 ミネルバ書房)(世界歴史10中世4 岩波書店)


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    2016年10月23日

    三度の自由教育路線‐通信教育部(教育過程論リポート)

    10.jpg「教科書に載らない歴史」はここをクリック 高校で普段行っている授業の実践記録や日記集、研究など、教科書に載っている事だけを授業するなら教員なんていらない。誰も知らないことを授業で取り上げる事に意味がある。教科書では語れなことや取り扱って欲しい内容を取り揃え、日本人としての心を取り戻す教育、その一部を紹介します。







    三度の自由教育路線‐法政大学通信教育部(教育過程論リポート)

     近年教育が大きく変わろうとしている。

    生徒に対する評価の方法や、総合学習の取り組みなどである。

    例えば、高槻市のある小学校では、総合学習の時間を利用して地域の担い手を育てるために地元のポンポン山と開発問題について学習している。

    総合学習の利点はそれぞれの学校がテーマを自由に設定できることである。そのため地域問題など生徒の関心度が高い課題から学習できる可能性を秘めている。


     現在の地域を主体に考えた自由な教育路線は過去に日本の歴史を紐解くと3度目の試みになる。

    最初は明治初期の学制制度に変わる教育令が出された初期段階、2回目は、終戦直後のやまびこ学校の時代、3度目が近年の教育改革路線である。

    最初と2度目の特徴は、両者とも自由教育路線が早い段階で打ちきられ、後の教育路線があまり評価できないことにある。

    最初の場合は、教育が戦争と結びついた国家統制に利用されたこと、2度目は教育が受験と結びついたことである。

    もし、今回、自由な個性を重視した教育路線が早い段階で打ちきられたとしたら、過去の例から考えると、後の教育路線が間違ったものになる可能性が非常に高くなると言えるだろう。

    近年の教育改革は3度目の試みであり、過去の失敗を乗り越えなければならないと思う。

    その為には、総合学習などの新しい試みに関しては、長い目でその教育成果を見る事が重要だと思う。教育成は直ぐに効果でるものでは無い。

    近年の教育改革は新しい試みであるので、最初は戸惑うかもしれないが長い目で見る事も重要である。

    そして、学力の低下問題や受験への対応不足などさまざまな問題点を含んではいるが、全てを否定するのではなく、施行作後を繰り返しながら、悪い部分を修正して、良い部分をのばしていく必要を感じる。

    そうすることで、必ず良い教育成果が上がると期待できる。


     明治初期、日本は近代国家の仲間入りをするべく、国民全てに教育を行う政策をはじめる。

    1871年には教育令が出されて、地域住民の声を聞き入れた自由教育路線が始まった。

    しかし、この自由教育路線は問題点を沢山含んでいた。

    まだ、この時代日本では教育に対する重要性があまり浸透しておらず、地域によって教育に対する考え方がばらばらであった。

    教育に対する価値観が低い地域では、学校の建設を中止、教員の数を減らす、教員の給料を減額するなど、自由教育路線のマイナス面がでていた。

    思うに、この時代江戸時代から明治時代になったばかりなのでしかたのないことなのかもしれない。

    もっと、国民の間に教育に対する価値観が高まるまで、この自由教育路線を続けるべきだったと私は感じている。

    そして、不幸なことに日本ではこの時代自由民権運動の過熱を問題点として、日本の支配者層の人達は、教育を自由から統制に変えて行くのである。

    ここから、日本の教育はおかしくなる。

    自由民権運動は人権思想や啓蒙思想などを主体として、国民の人権を守り、国民が政治に参加できるように、国会の開設などを要求した運動である。

    言うなれば、自由教育路線と重なる部分がある思想である。皮肉にもこの自由民権運動が統制教育の引きがねとなったのである。


     自由民権運動を抑えるために考えられたことは、教育システムを利用して、まだ、純粋な子供達に国家に対して忠実になるための思想を植え付けることであった。

    天皇を絶対的な存在として国に忠誠を尽くす臣民を作り出していく。

    そして、学問の自由もなくなり、統制されていく。

    それは、天皇を中心とした中央集権的な国民国家の建設のため、天皇の権威付けや正当性が学問の主流となる。

    例えば、ひとつの説にしかすぎない単一民族国家説を採用して日本はひとつの民族によって構成された国家であり、天皇が一貫して統治してきた国であるとした。

    また、南北朝問題などの天皇にとって都合の悪い歴史を排除して、天皇の国家支配に都合の良い歴史を系統的に学習するなど、教育が利用され、また、教師の自由も奪われていく。


     教育が国家に利用された結果、日本は空想的な軍国主義の日本へと変貌していく。

    国民の民意が戦争を後押し、出口の見えない戦いに国民はかりだされていく。たくさんの尊い命が失われて、日本国内や近隣諸国でも数多くの悲劇がうまれた。

    結局、教育が国家に利用された事が間違いである事が証明されたことになる。


     戦後日本は全てを失い、なにも無い所からの出発となった。

    空襲で焼けた学校では青空のもとで授業を行った学校もある。悲惨な戦争を体験した国民は平和を願い、平和な教育を求めていく。

    そして、平和憲法である日本国憲法が制定されて、これに基づき教育基本法が制定されて新たな教育が始まる。

    教育基本法前文で唱えている事は、主に平和、民主主義、個性ゆたか、個人の尊厳などである。

    これは、戦前教育の反省を考慮にしていると思われる。

    戦後復興の中、困難を乗り越えて、教育の現場では、地域それぞれに、独自の教育が試行錯誤されていく。

    やまびこ学校の時代と言われ、生徒が住む地域に密着した自由な教育路線が展開された。

    しかし、システム的には確立しておらず、問題点も多く含んでいた。

    日本は戦後復興を果し高度経済成長期を迎えると、教育の内容も変わっていった。

    社会システムの変化で、地域社会の繋がりが弱くなってきた事や受験戦争の始まりなどにより、また、新たな教育路線を始めることになる。


    (日本近代の出発 佐々木克 集英社 参照)(未来をひらく総合学習 梅原利夫 西本勝美 ふきのとう書房 参照)(新しい社会・地理・公民の教育 大森正 石渡述男 参照)













    2016年10月22日

    歴史学派と歴史主義‐文学部史学科(史学概論リポート)






    歴史学派と歴史主義‐法政大学文学部史学科(史学概論リポート)

     19世紀のドイツで展開された歴史学派経済学の手本となったのは、イギリスのスコットランドで展開された啓蒙思想である。

    スコットランドはイギリスのなかでは後進地域で、イギリスの中心で先進地域であるイングランドに対抗するために啓蒙思想を展開させていった。

    この思想は歴史とは進歩するものという進歩史観から唱えられたものである。

    歴史の進歩と経済の進歩の関係で、歴史と経済の発展は関連して進歩していくという説である。 


     このスコットランド啓蒙の代表はアダム・スミス(1723〜1790)である。アダム・スミスは経済において、規制主義的な重商主義を批判し、自由競争こそ必要とし、経済を自由放任にすれば自然と最善の状態に調整され経済がうまくいくと説いた。

    またアダム・スミスはグラスゴー大学の教授に就任し、その講義で社会の経済システムの発展段階が、狩猟社会、牧畜社会、農耕社会、商工業社会、というように発展していき、この発展と国家の成立、君主制、共和制という政治形態の発展が両者関連して進歩していくと論じた。


     しかし、当時のイギリスは世界一の経済大国であるので、過去の生産段階を振り返る意識は、ほとんど無いに等しかった。

     そして、この発展段階説は当時経済的に後れていたドイツで、世界一の経済力を誇るイギリスに追いつくためにドイツで発展していった。

    これをドイツ歴史派経済学と呼んだ。

     ドイツ歴史派経済学の中心となったのはフリードリヒ・リスト(1789〜1846)である。

    アダム・スミスは国家による経済統制批判を行ったがリストは、反対に国家による経済統制による市場の統一を目標とした。

    これは、リストによれば未開、牧畜、農業、農工業、農工商、というように五段階で経済が発展するという経済段解説の考えの中でイギリスはすでに5段階であるが、ドイツはいまだに4段階であり、5段階に発展するためには国家による産業保護政策が必要であるとした。

    5段階目に成長した後は自由貿易主義が良いと唱えた。

    実際に、当時のドイツは国内の諸邦国を品物が通過するだけで関税が発生し統一的な経済が成り立ちにくい状況であった。

    リストはこのようなドイツを変えるために関税の撤廃を国に求める運動をおこなった。


     ドイツ歴史派の人達の特徴的な考えとして、経済政策や経済理論は歴史の発展によって発達するもで、いわゆる文化的現象と把握し、時代を超えるような経済理論は存在しないという考えである。


     反対意見として歴史学派は歴史を国の政策目的に利用しているという批判もあった。

    また、19世紀のドイツでは歴史主義という歴史観が存在していた。

    特徴はロマン主義にまでさかのぼり、ロマン主義の人間の個性や感性を重んずる思想が民族の個性や強調となって現れる民族主義が特徴として存在する。


     歴史主義の中心となったのはレオナルド・ファン・ランケ(1795〜1886)である。ランケは歴史の進歩はありえないとした。

    その理由として、人間は自由な意思を持って行動する生き物なので、もし、歴史がある目的に向かって進歩していくとしたら、人間の自由な意思を否定することになる。

    だから、歴史の進歩はありえない。

    事実、人類の大半は原始生活にとどまっており、歴史的な発展をとげた民族でも、時を重ねるごとに発展しているとはいえず、時には逆行もある。

    また、美術の分野においても常に進歩しているとはいえず、時代によっては衰退することもある。

    ランケによれば1つの時代を次ぎの時代の前段階と考えるのではなく、時代それぞれに良さがあり、独自性があるので1つの時代は独立された完成形あると考えた。


     歴史主義の歴史研究の特徴として、過去の出来事の固有性を尊重する考えから、厳密な史料批判にもとづく史実の確定作業を歴史研究の基本にした。

    この史料批判は現代に与えた影響は大きく、現在の歴史研究の基本となる考えかたと同じである。


     しかし、問題点として、歴史主義は歴史の個性を重視しすぎたために、史実の相互の関連を問う認識能力にはうとかった。


     歴史学派と歴史主義との大きな違いは歴史の捉え方の違いである。

    もし仮に現代という時代があるなら前の時代に現代に変わるための要素が含まれており、時代は常に進歩して発展していき、過去の出来事は現代に繋がるものと考えたのが歴史学派である。

    歴史学派は1つ1つの歴史事実にはあまり注目せず時代の流れに注目したと言えるだろう。

    逆に、歴史主義は1つの時代を別々に考え、過去の出来事はだだ1つの事実として捉え、歴史の進歩を否定し、歴史の流れには注目しなかった。両者にはこのような違いがある。


     また、歴史学派は歴史の進歩と政治が関連して発達すると考えたが、歴史主義は1つのことを重視する考えから別々であるとした。要約すると関連主義と個別主義である。


     最後に、両者の思想がミックスされ、両者の短所を補えるようになったのが現代の歴史の流れと史料批判を重視する特徴の歴史研究へとつながっていったと考える事ができる。


    (ドイツ史2 山川出版 成瀬治 山田欣吾 木村靖冶 参照)


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    2016年10月21日

    体育講義‐生活習慣病と感染症予防について(通信教育部一般教養リポート)

    健康が一番大事


    体育講義‐生活習慣病と感染症予防について(法政大学通信教育部一般教養リポート)

    人間の体は以外ともろく様々な要因で壊れてしまう例えば、外部からの進入(ウイルスや細菌)、全ての生き物に平等に訪れる加齢が大きな原因の生活習慣病、ストレス、社会によって左右される心や体の負担など、これらの問題に対して、どのような予防方法が適切か論じていきたい。


     生活習慣病とは、ガン、循環器系疾患、糖尿病、高血圧症、動脈硬化症、痛風、高尿酸血症などを指して言う。

    日々の生活の中で徐々に進行していき、生活習慣病が死亡の原因となることも多く、完全な予防方法はない。

    だが、予防をする事によって、その進行を遅らせて、健康で長生きをする事は可能である。

    予防例を挙げると、多くの食品を摂取し、バランスのある食事をとる。

    また、食べ過ぎを控える。とくに現代人は、糖分、塩分を取りすぎる傾向にあるので気をつける。

    お酒の飲み過ぎには注意する。禁煙する。

    適度な運動をする。

    しかし、激しい運動は逆に体の負担となるため、あまりしない方がよい。

    悪いストレスはためたい。

    適度の日光は必要だが、当たりすぎはいけない。

    体を清潔にする。

    そして、一番大事なことは自分自身のことをよく知り、定期検診をおろそかにしない事が大切である。

     
     つぎに感染症について、感染症は病原菌が体内に進入して起こる病気である。

    感染の原因として、病原体の種類にもよるが、伝染病にかかっている人との皮膚や粘膜からの直接の接触、その他、性行為による性病、せきやくしゃみなどにより、病原菌がまき散らされる事による空気感染がある。

    このほかにも、感染者の衣服や日用品、排泄物などからの感染、汚染された食物、水を食す事による感染、小動物からの感染などがある。

    予防法は、病原菌との接触を断つことが一番の予防法である。

    これは、うがいや手洗い、清潔な生活、マスクの着用、食品の加熱処理や保存の仕方などである程度の病原菌との接触を防ぐ事ができる。

    しかし、普通に生活をしていく上で完全に病原菌との接触を断つ生活などあり得ないことである。

    でも、人間には抵抗力というすばらしい機能があるので、たとえ病原菌が体内に進入しても問題がないこともある。

    抵抗力をつけるには健康的な生活を心がけることである。

    後、予防接種による人口免疫を付けるという方法もある。性病など免疫がない感染症についてはコンドームの着用や不特定多数との性行為をやめるなどの処置で病気の予防に努める方法しかない。

    そして、病原菌の広がりをくい止めるには国の協力、感染者の協力も不可欠である。


     病気には非常に分かりづらく、一見だだの甘えとも見えるやっかいで、最悪死もあり得る、現代人には増えつつある心の病気というものがある。

    これは様々な種類があり、痴呆、てんかん、アルコールや薬物依存症、精神分裂病、神経症、性の異常などがある。

    原因は強いストレスからくるものや主に幼児期、胎児期の過ごし方が大きく影響を及ばす場合もある。

    その他、体の病気や加歳が原因で発生するケースもある。完全な予防はななく、例えば体の悪いところは完全に治療する。

    適度にストレスは発散する。親は妊娠中や子育てをするときは特に気を付け愛情たっぷりで子供を育てる。

    周りの人は、偏見を持たず理解し、接する。

    また、あまり人を追い込むようなことはせず、多少の逃げ道は作ってやる。社会は精神病をもっと理解し、また、治療に協力し、偏見をなくす社会を作ることに心がける。

    だが、一番大事なのは自分自身の気持ちの持ち方で、自分自身の哲学を持ったり、何事にも前向きで、プラス思考を心がける。

    趣味や生き甲斐をつくる。また、宗教などを信仰するのも一つの手段なのかもしれない。

    このような方法で有る程度の予防は可能だろう。


     人間の生活は近年めまぐるしく急速に進歩した。

    しかしその弊害も現れた。まず、工業施設、家庭などの排水による河川や海が汚染され、生物が死滅し悪臭が発生する。

    生活のスタイルが変わった事による屎尿処理問題、ゴミの増加、工場、家庭、自動車、航空機、船舶、火力発電、冷暖房など様々な原因がある大気汚染。工場、建設、鉄道、自動車、航空機、生活など多種多様な騒音。

    交通機関、建設作業、工場により起こる振動。

    地下水、天然ガス摂取が原因の地盤沈下。工場、屎尿処理、下水処理、養豚、養鶏などが原因の悪臭、これらは人間の体に害を成すことはもちろんだが、自然や地球そのものの破壊につながる危険がある。人間が原始生活にもどれば全て解決するかもしれないが、今となっては難しい問題である。解決法として国が法律を定め管理、監視をする。

    全ての人間、国、企業が地球環境に気を付ける。エネルギーの転換をはかる。地球に優しい新技術を発明するなどが考えられる。


     人間が健康に短い人生を暮らすには実に様々な事が必要でありそれらは複雑に絡み合っていると言えるだろう。

    病気の予防は常に2面性がある。

    例えば、酒、たばこは健康には悪いがストレスの解消には役立つときもある。無菌状態を目指した清潔すぎる生活は抵抗力の低下につながる。病気の予防ばかり考えた生活は精神的に疑心暗鬼になることがある。

    現代の快適で便利な生活と数々の弊害、火力エネルギーから原子力エネルギーの転換時の危険性。

    けきょく、健康な生活を送るには、人間は、心と体をバランスよく予防させる必要がある。


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    2016年10月20日

    不確定性原理とトンネル効果‐常識を覆す幽霊の様な存在‐通信教育課程一般教養課程(物理リポート)


    ミクロの世界へ


    不確定性原理とトンネル効果‐常識を覆す幽霊の様な存在‐法政大学通信教育部一般教養課程(物理リポート)

     不確定性原理とトンネル効果を説明する前にミクロの世界の説明をすると、この世界を構成している最小の構成要素、例えば電子は小さな粒でもあるが、池に入れた小石から広がる波紋のようなもので、広く雲のようなにつかみ所がなく、ありとあらゆる所に広がった存在ともいえ、実態が分からないものである。

    我々人間が常識的に物には大きさがあり、重さがあり、形があり、存在している時間があり、どこにあるかもはっきりと確定できる、このような人間が勝手に決めた常識など、まったく通用しない世界である。

    まさしく、幽霊のような存在なのかも知れない。


      不確定性原理を簡単にいうと、ミクロの世界では観測という行為が不可能、観測と言う行為が自然の法則に影響を与える。

    例えば電子一個を人間が観測しようと試みたら、当然見るという行為が必要である。暗闇の中では人間は物を見ることができないので、電子に光を当てる必要がある。光は粒子でもあるので当然光を当てられた電子ははじきとばされる。

    このことは位置を測定した電子は同時にその後の移動方向(運動量)が分からなくなる。

    位置と運動量は同時に測定できないというのがハイゼンベルクの不確定性原理である。もう少し詳しく説明するなら、もし、電子が一定の波で運動していると考える。

    そして、運動エネルギーをE、質量をm、運動量はpとすれば、E=__の公式で運動量をある程度、見出すことができる。


     そして、どこまでも続く波の為に電子の位置をこの時に測定することはむずかしい。

    位置を測定しようとしたら、粒子検出器なる小型の箱が存在すると仮定しなければならない。

    粒子検出器により電子一個は検出器内のきわめて小さな空間に存在することになる。では、この時、運動量はどうであろうか、波動でもある電子を箱の中に押しこめた結果、いろんな運動量の波が箱の中に存在する事になった。

    このために運動量を測定することは難しくなった。


     不確定性原理は片方を決めると片方が不確定になると言うことで、互いに相補的な関係であると言える。

    あらゆる物理量にはこの相補的な関係が存在すると考えられ、エネルギーと時間もその関係といえるだろう。

    もし電子のエネルギーを正確に確定しようとしたら時間の固定ができず、電子がいつ存在するのかわからなくなってしまう。

    少し難しいが、私が思うにこの宇宙はなぞだらけで、そもそも、時間の観念や位置などは人間が勝手に決めた価値観で宇宙の仕組みは今の人間では良く分からないというのが現状だろう。


     次にトンネル効果について説明しよう。

    これまで述べたようにミクロの世界では何が起きても不思議ではなく、ミクロの世界の物質が壁を通り抜ける現象なんて、全然不思議ではない。


     電子は波動でもあるので、広い存在である。

    例えば壁があった場合、人間界では音を想像してもらいたい。

    音は波動である。もし壁の向こうで音が発生したとしたら、音は壁にさえぎられて、かなり小さくはなるが、人間の耳には、壁の向こうの音を感じ取ることができる。

    電子は波動でもあるので、壁のような障害物があった場合、壁の内側に電子が存在する確立は非常に高いといえるが壁の外に電子が存在する確立も少なからずある。

    つまり、壁を越えて電子が存在した時のことをトンネル効果という。


     この世界を構成しているすべての物質は原子とその周りを回っている電子である。

    ミクロの世界から見ればこの原子と電子の間はとても広い。

    そのため、物質は密度という観点から言うと、かなり、すかすかの状態と言える。

    と言うことは、原子や電子などが壁を構成している原子と電子の間を通りぬけることは簡単に起こりうる事と言える。

    実際はお互いに反発し合うので簡単には通りぬけることはできない。


     もう1つ、先ほどの不確定性原理からトンネル効果を説明すると、ミクロの世界では時間の長さを正確に測ろうとしたらエネルギーの大きさが不確定になる。

    つまり、原子や電子などが持っているエネルギーは、時間により不確定である。

    すなわち、元のエネルギーよりも大きくなることもある。そして、確立により、壁をすり抜けるほどのエネルギーを得ることも可能と言うわけである。


     トンネル効果の例として、ウランなどの重い原子はアルファ崩壊によって軽くなる現象がある。

    これは原子核のなかで強く結びついている陽子と中性子が、本来は外に飛び出すことはないが、トンネル効果により、アルファ線として、飛び出し原子が徐々に軽くなっていくという現象である。


     トンネル効果を考えると我々でも壁を通り抜ける事が可能である。

    なぜなら人間であっても最小の構成物資は電子と原子なのだから、しかし、たくさんの電子や原子の集まりで安定しているため、かなり低い可能性であろう。


     余談ではあるが、物理学を学習して衝撃を受けた。

    まさにこの世の中は不思議なことでいっぱい、人間のものさしで測れるものではない事がわかり、また、宇宙の心理を紐解く物理学の奥の深さを痛感した。


    (量子力学が見る見るわかる 橋本淳一郎 サンマーク出版 参考)

     


















    ★一年中本ばかり読んでいる真田マサオの本屋さん。
     本を読み、そして、本を書くのが趣味。良き本に巡り合う為には、本をたくさん読んだ人から感想を聞くのが一番良い方法。好きな本のジャンルは歴史書、時事問題、自己啓発本、パソコン、旅行書、マンガなどなど。本との出会いが人生を大きく変える事もある。
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    タグ:リポート

    2016年10月19日

    ウォーラーステインの世界システム論‐通信教育部(史学概論リポート)


    サイト管理者「真田まさお」著書、大東亜戦争(太平洋戦争)を市民の立場から歴史を研究、本土空襲体験者の生の声から、真実の戦場の姿を語ります。


    世界規模で歴史を研究


    ウォーラーステインの世界システム論‐法政大学通信教育部(史学概論リポート)

     かつて、ヨーロッパ列強は世界各地に植民地をつくり世界の主導を握っていた。

    アメリカのウッドロー・ウイルソン大統領 (1856〜1924)による14カ条の平和原則の中で植民地の民族自決を認めた。

    民族自決の精神はその後、第2次世界大戦を経て戦後身を結び第3世界は独立を勝ち取っていった。

    特に1960年代はアフリカで17の独立国が誕生し、1970年代にはほとんどの国が独立を勝ち取った。

    しかし、独立を勝ち取った国々のほとんどは貧困に悩み経済的独立は非常に難しいというのが現在の状況である。


     これは、現在の世界システムがヨーロッパ列強によって作られた先進資本主義国中心の世界システムのためであると新従属学派の人々は考えた。

    新従属学派の人々は先進資本主義国主義の批判をするようになった。

    そして、新従属学派の中心となったのはウォーラーステイン(1930〜 )である。

    かれは世界システム論を展開していく。


     ウォーラーステインの世界システム論は過去を分析し、未来を考えるという特徴を持っている。

    そして、始めは、資本主義世界経済の分析として登場し、さらに、国家間システムに注目することで世界政治の分析まで考えていった。



      ウォーラーステインによれば、長い16世紀をへて、ヨーロッパは世界に進出して植民地を作りそれを元に資本主義経済を展開させ、世界システムを作り上げていった。

    これは、植民地のもつ力、消費力、安い労働力、資源を使い、高利潤の独占的な生産を行い、それによって生まれた資本を列強国家に集中的に独占させるシステムの事である。

    このことは、ヨーロッパ列強は儲けて得をし、国家組織を強化して、逆に植民地諸国は損をするシステムでもある。

    この状況は脱植民地時代をむかえたにもかかわらず、現在でも継続して、脱殖民地国家は貧困にあえいでいる。


     ウォーラーステインの世界システム論は中核、半周辺、周辺という3つの部分に国を分け、この3つにより世界システムが構成されているとした。


     大航海時代のスペイン時代に変わり北西ヨーロッパが中核に上がった。

    これによりスペインと北イタリアが半周辺に落ちた。

    1650年以後はイギリスが世界進出に成功し覇権をにぎり、唯一の中核へと成長する。

    1730年〜1917年はイギリスが中核をキープし、半周辺にはフランス、ドイツ、ベルギー、そして、次の時代を予感させるべくアメリカ、ロシア、日本が半周辺へ、また、アジア、アフリカは周辺である。

    1870年代ぐらいからイギリスの衰退が始まった。

    次の覇権をめぐってドイツとアメリカが長期の抗争を始める。第一次世界大戦〜第二次世界大戦の枢軸列強の敗北により、長い戦いはアメリカの圧倒的な勝利に終わる。

    2つの世界大戦の戦火を免れたアメリカは世界システムにおいてもっとも実力を兼ね備えた中核になった。

    1960年代にはアメリカの衰退がはじまる。

    1970年代にはアメリカが中核をキープ、戦争から完全に立ち直った、ヨーロッパ共同体、日本が中核に、独立後のアフリカは相変わらず周辺、一方ロシアは、ロシア革命後、立ち直り、社会主義の文化圏を作り上げ中核になった。

    ここに世界システムはアメリカの資本主義とロシアの社会主義の戦いとなった。

    1968年学生反乱の形をとった世界革命、その継続で1989年共産主義は崩壊し、資本主義の勝利に終わった。

    しかし、資本主義の近代世界システムの永久的な勝利ではなく、むしろ共産主義崩壊が近代世界システムの崩壊へと向かう始まりになった。


     世界システム論が歴史学に与えた影響として、例えば日本の歴史学の主流の一国史観や近代化論は、一国で歴史を考え、細かく細部まで研究することができる。

    しかし、他国との繋がりや影響を研究するには難しいものがある。

    また、一国史観や近代化論は、時代はかならず進歩する単線的な発展段階説になりやすく、そのため、うまく、説明できない歴史現象が存在する。

    例を挙げると、16世紀の東欧で、時代はすでに近代になりつつあり、荘園制は解体しつつあったが、賦役労働を強化した結果、再び農奴制が発生した。(再版農奴制)この様に、実際に歴史は必ず進歩をくりかえしているとは言えず、後退することだってある。

    例えば、再版農奴制を世界システム論で考えるとうまく説明することができる。

    世界システム論の観点に立てば、西ヨーロッパが工業化したことで、農産物の供給地となった東欧が生産物の増大にともない採用したシステムが再版農奴制である。

    再版農奴制の場合は、西欧と東欧を一つの経済圏と考えた時、西欧での不足農産物を東欧が補うといった、きわめて近代的な制度と言うことができるであろう。


     歴史学を研究する上で、他の地域との関連性は重要で、世界システム論は歴史を世界全体のレベルで見ることができ、世界を一つとして捉えることに成功したので、歴史の関連性をうまく説明できた。

    世界システム論は、世界を一つの経済圏と捉える歴史学である。


     問題点として、一国の細部にわたって、研究するには不向きである。

    しかし、一国史観は一国の細部にわたって研究するのには適しているので、世界システム論と一国史観をうまく使い分ければ非常によい歴史研究ができるのではないかと思われる。

     (アフター・リベラリズム ウォーラーステイン 訳松岡利通 藤原書店)





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    2016年10月17日

    戦後教育について‐通信教育部教職課程(教育過程論リポート)

    戦後教育の変遷


    戦後教育について‐法政大学通信教育部教職課程(教育過程論リポート)

     戦後の教育は戦前の反省から始まった。

    日本は敗戦によりたくさんのものを失い、これまでの教育が間違いであったと気づいた。

    戦前の教育は国家による統制である。戦後は統制から自由へと教育路線が変わった。


     そして、法的にも、戦後に作られた教育基本法の前文によって、個人の尊厳を重んじ、また、個性豊かな文化の創造を目的とした教育が基本的な形となっている。

    個人を重んじ個性豊かな文化を創造すると言う事は、教育は国家が一方的に押しつけて統制するのではなくて、生徒1人1人の個性を大事にして、生徒の個性を伸ばす自由教育と見ることができる。

    戦後に行われた教育は、教育基本法の理念に近い教育が行われた。

    それは、コアカリキュラムと呼ばれる、自由な教育実践である。生徒の状態や、地域性、学校性を踏まえた、独自の教育実践は非常に価値あるものだと思われる。

    しかし、問題点として、教育システムの弱さや科学的な教育ができなかったことが問題として考えられる。

    日本は、敗戦直後なので、教育システムの充実に力を注ぐことが困難な状態であった。

    逆に言うと、敗戦直後で、たくさんのものを失っているから、国民は自分が住む地域や日本を復興したいという強い気持ちがあり、教育は地域と学校が一体となって、将来の地域の担い手を育てる、実践的な教育が行われたと考えられる。

    子供達は地域と関わりを持つことによって、自分達が住む地域の問題を見つけ、自らの関心から、それぞれに問題を見つけ考えていく、そんな生徒主体の自由な教育であった。


     しかし、1950年代に入ると日本は復興を果たし、教育に対する考え方も変わってくる。

    すなわち、経済が復興して高度経済成長になってくると、日本の社会は、地域から都会に変わってくる。

    若者は職や学校を目指して、地域を離れ都会へとやってくる時代がくるのである。

    すなわち、地域に根ざした教育は土台を失っていく時代になったのである。地域に根ざした実践的な教育から良い学校に入るための教育、または、全国統制的な教育に変わってくるのである。

    この国家による教育の統制路線を物語るものは、1958年の、文部省告指でだされた学習指導要領でみる事ができる。


     1960年代になると、学歴社会となり、受験のための教育になってくる。

    そして、高度経済成長によって、日本の社会は大きく変わってくる。家では、おじいさんやおばあさんがいない核家族が増えてくる。

    また、転勤族も増加してきた。

    こうなってくると、地域との繋がりが非常に薄い社会ができる。地域に根ざした教育が難しくなったと言えるだろう。

    極端な言い方にはなるが、学校の存在意義は、良い点数をとるための受験のテクニックを教える事であり、受験戦争に打ち勝つ事ができる生徒を育てるのが大事な使命となってくる。

    問題点として、勉強をする事に関して、悪い事だとは否定する事はできないが、しかし、受験のための勉強、すなわち、ただ暗記するだけのあまり意味のない勉強になりがちなところが問題点と言えるだろ。

    意味を持たない暗記はすぐ忘れるし、実生活にもあまり役に立たない。


     1970年代後半以降ぐらいからの教育問題として、受験学力競争の歪が徐々にでてきた事である。この時代になると、ますます、受験学力競争が激化していき、第2次ベビーブーム世代の受験がそのピークとなった。

    受験競争の歪として、生徒の校内暴力や家庭内暴力、落ちこぼれの増加、いじめの増加、不登校、学級崩壊など、生徒のストレスが原因と見られるさまざまな病理的現象が社会問題となった事である。


     教育の問題点を背景として、中曽根総理時代に臨時教育審議会(1984〜1987)が発足して教育の問題点を考えていった。臨時教育審議会はゆとり教育の先駆のような存在となった。


     ゆとり教育は、受験目的の一方的な詰め込み教育の反省から考えられたものである。

    ゆとり教育は教育の自由化を考え、生徒の個性を重んじ、生徒がゆとりをもって教育する所に特徴がある。

    週五日制や総合教育、絶対評価などさまざまな改革が上げられる。週五日制による授業日数や授業時間の減少など、また、総合の時間などによって教科学習の時間が減る事から学力の低下問題が浮上してくる。

    また、生徒を評価する時、教科テストの点数だけで評価するのではなく、人格的な部分を踏まえて生徒を評価する事は良い事でと思う。

    しかし、危険性も含んでいる。なぜなら、生徒の人格的な部分にまで介入してしまうことは、本当の自由にはならないこともあるからである。

    生徒に国が求める人格を強制的に求めてしまう事は国家による教育の統制とも受けとめる事ができる。

    また、もし、受験とリンクしてしまったら、大変な事が起きてしまう。なぜなら、推薦入試に有利になるためや指定校推薦を勝ち取るために、本人の意思とは無関係に学校に忠誠を尽くす事を強要してしまう危険性がある。

    本人の意思とは無関係にボランティア活動などに参加して、ボランティア活動が受験の一部となってしまうことも考えられる。

    本来自由であるはずの総合学習などの時間が実は受験勉強とリンクしてしまう可能性も出てくる。


     現代の教育改革はさまざまな問題点は含んでいるものの生徒の個性を重んじる理念は良いと私は思う。

    また、今現在でも教育改革は早い流れで変わっているので、今後も慎重な分析が必要だと思う。

















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