2016年10月23日

三度の自由教育路線‐通信教育部(教育過程論リポート)

10.jpg「教科書に載らない歴史」はここをクリック 高校で普段行っている授業の実践記録や日記集、研究など、教科書に載っている事だけを授業するなら教員なんていらない。誰も知らないことを授業で取り上げる事に意味がある。教科書では語れなことや取り扱って欲しい内容を取り揃え、日本人としての心を取り戻す教育、その一部を紹介します。







三度の自由教育路線‐法政大学通信教育部(教育過程論リポート)

 近年教育が大きく変わろうとしている。

生徒に対する評価の方法や、総合学習の取り組みなどである。

例えば、高槻市のある小学校では、総合学習の時間を利用して地域の担い手を育てるために地元のポンポン山と開発問題について学習している。

総合学習の利点はそれぞれの学校がテーマを自由に設定できることである。そのため地域問題など生徒の関心度が高い課題から学習できる可能性を秘めている。


 現在の地域を主体に考えた自由な教育路線は過去に日本の歴史を紐解くと3度目の試みになる。

最初は明治初期の学制制度に変わる教育令が出された初期段階、2回目は、終戦直後のやまびこ学校の時代、3度目が近年の教育改革路線である。

最初と2度目の特徴は、両者とも自由教育路線が早い段階で打ちきられ、後の教育路線があまり評価できないことにある。

最初の場合は、教育が戦争と結びついた国家統制に利用されたこと、2度目は教育が受験と結びついたことである。

もし、今回、自由な個性を重視した教育路線が早い段階で打ちきられたとしたら、過去の例から考えると、後の教育路線が間違ったものになる可能性が非常に高くなると言えるだろう。

近年の教育改革は3度目の試みであり、過去の失敗を乗り越えなければならないと思う。

その為には、総合学習などの新しい試みに関しては、長い目でその教育成果を見る事が重要だと思う。教育成は直ぐに効果でるものでは無い。

近年の教育改革は新しい試みであるので、最初は戸惑うかもしれないが長い目で見る事も重要である。

そして、学力の低下問題や受験への対応不足などさまざまな問題点を含んではいるが、全てを否定するのではなく、施行作後を繰り返しながら、悪い部分を修正して、良い部分をのばしていく必要を感じる。

そうすることで、必ず良い教育成果が上がると期待できる。


 明治初期、日本は近代国家の仲間入りをするべく、国民全てに教育を行う政策をはじめる。

1871年には教育令が出されて、地域住民の声を聞き入れた自由教育路線が始まった。

しかし、この自由教育路線は問題点を沢山含んでいた。

まだ、この時代日本では教育に対する重要性があまり浸透しておらず、地域によって教育に対する考え方がばらばらであった。

教育に対する価値観が低い地域では、学校の建設を中止、教員の数を減らす、教員の給料を減額するなど、自由教育路線のマイナス面がでていた。

思うに、この時代江戸時代から明治時代になったばかりなのでしかたのないことなのかもしれない。

もっと、国民の間に教育に対する価値観が高まるまで、この自由教育路線を続けるべきだったと私は感じている。

そして、不幸なことに日本ではこの時代自由民権運動の過熱を問題点として、日本の支配者層の人達は、教育を自由から統制に変えて行くのである。

ここから、日本の教育はおかしくなる。

自由民権運動は人権思想や啓蒙思想などを主体として、国民の人権を守り、国民が政治に参加できるように、国会の開設などを要求した運動である。

言うなれば、自由教育路線と重なる部分がある思想である。皮肉にもこの自由民権運動が統制教育の引きがねとなったのである。


 自由民権運動を抑えるために考えられたことは、教育システムを利用して、まだ、純粋な子供達に国家に対して忠実になるための思想を植え付けることであった。

天皇を絶対的な存在として国に忠誠を尽くす臣民を作り出していく。

そして、学問の自由もなくなり、統制されていく。

それは、天皇を中心とした中央集権的な国民国家の建設のため、天皇の権威付けや正当性が学問の主流となる。

例えば、ひとつの説にしかすぎない単一民族国家説を採用して日本はひとつの民族によって構成された国家であり、天皇が一貫して統治してきた国であるとした。

また、南北朝問題などの天皇にとって都合の悪い歴史を排除して、天皇の国家支配に都合の良い歴史を系統的に学習するなど、教育が利用され、また、教師の自由も奪われていく。


 教育が国家に利用された結果、日本は空想的な軍国主義の日本へと変貌していく。

国民の民意が戦争を後押し、出口の見えない戦いに国民はかりだされていく。たくさんの尊い命が失われて、日本国内や近隣諸国でも数多くの悲劇がうまれた。

結局、教育が国家に利用された事が間違いである事が証明されたことになる。


 戦後日本は全てを失い、なにも無い所からの出発となった。

空襲で焼けた学校では青空のもとで授業を行った学校もある。悲惨な戦争を体験した国民は平和を願い、平和な教育を求めていく。

そして、平和憲法である日本国憲法が制定されて、これに基づき教育基本法が制定されて新たな教育が始まる。

教育基本法前文で唱えている事は、主に平和、民主主義、個性ゆたか、個人の尊厳などである。

これは、戦前教育の反省を考慮にしていると思われる。

戦後復興の中、困難を乗り越えて、教育の現場では、地域それぞれに、独自の教育が試行錯誤されていく。

やまびこ学校の時代と言われ、生徒が住む地域に密着した自由な教育路線が展開された。

しかし、システム的には確立しておらず、問題点も多く含んでいた。

日本は戦後復興を果し高度経済成長期を迎えると、教育の内容も変わっていった。

社会システムの変化で、地域社会の繋がりが弱くなってきた事や受験戦争の始まりなどにより、また、新たな教育路線を始めることになる。


(日本近代の出発 佐々木克 集英社 参照)(未来をひらく総合学習 梅原利夫 西本勝美 ふきのとう書房 参照)(新しい社会・地理・公民の教育 大森正 石渡述男 参照)













2016年10月22日

歴史学派と歴史主義‐文学部史学科(史学概論リポート)






歴史学派と歴史主義‐法政大学文学部史学科(史学概論リポート)

 19世紀のドイツで展開された歴史学派経済学の手本となったのは、イギリスのスコットランドで展開された啓蒙思想である。

スコットランドはイギリスのなかでは後進地域で、イギリスの中心で先進地域であるイングランドに対抗するために啓蒙思想を展開させていった。

この思想は歴史とは進歩するものという進歩史観から唱えられたものである。

歴史の進歩と経済の進歩の関係で、歴史と経済の発展は関連して進歩していくという説である。 


 このスコットランド啓蒙の代表はアダム・スミス(1723〜1790)である。アダム・スミスは経済において、規制主義的な重商主義を批判し、自由競争こそ必要とし、経済を自由放任にすれば自然と最善の状態に調整され経済がうまくいくと説いた。

またアダム・スミスはグラスゴー大学の教授に就任し、その講義で社会の経済システムの発展段階が、狩猟社会、牧畜社会、農耕社会、商工業社会、というように発展していき、この発展と国家の成立、君主制、共和制という政治形態の発展が両者関連して進歩していくと論じた。


 しかし、当時のイギリスは世界一の経済大国であるので、過去の生産段階を振り返る意識は、ほとんど無いに等しかった。

 そして、この発展段階説は当時経済的に後れていたドイツで、世界一の経済力を誇るイギリスに追いつくためにドイツで発展していった。

これをドイツ歴史派経済学と呼んだ。

 ドイツ歴史派経済学の中心となったのはフリードリヒ・リスト(1789〜1846)である。

アダム・スミスは国家による経済統制批判を行ったがリストは、反対に国家による経済統制による市場の統一を目標とした。

これは、リストによれば未開、牧畜、農業、農工業、農工商、というように五段階で経済が発展するという経済段解説の考えの中でイギリスはすでに5段階であるが、ドイツはいまだに4段階であり、5段階に発展するためには国家による産業保護政策が必要であるとした。

5段階目に成長した後は自由貿易主義が良いと唱えた。

実際に、当時のドイツは国内の諸邦国を品物が通過するだけで関税が発生し統一的な経済が成り立ちにくい状況であった。

リストはこのようなドイツを変えるために関税の撤廃を国に求める運動をおこなった。


 ドイツ歴史派の人達の特徴的な考えとして、経済政策や経済理論は歴史の発展によって発達するもで、いわゆる文化的現象と把握し、時代を超えるような経済理論は存在しないという考えである。


 反対意見として歴史学派は歴史を国の政策目的に利用しているという批判もあった。

また、19世紀のドイツでは歴史主義という歴史観が存在していた。

特徴はロマン主義にまでさかのぼり、ロマン主義の人間の個性や感性を重んずる思想が民族の個性や強調となって現れる民族主義が特徴として存在する。


 歴史主義の中心となったのはレオナルド・ファン・ランケ(1795〜1886)である。ランケは歴史の進歩はありえないとした。

その理由として、人間は自由な意思を持って行動する生き物なので、もし、歴史がある目的に向かって進歩していくとしたら、人間の自由な意思を否定することになる。

だから、歴史の進歩はありえない。

事実、人類の大半は原始生活にとどまっており、歴史的な発展をとげた民族でも、時を重ねるごとに発展しているとはいえず、時には逆行もある。

また、美術の分野においても常に進歩しているとはいえず、時代によっては衰退することもある。

ランケによれば1つの時代を次ぎの時代の前段階と考えるのではなく、時代それぞれに良さがあり、独自性があるので1つの時代は独立された完成形あると考えた。


 歴史主義の歴史研究の特徴として、過去の出来事の固有性を尊重する考えから、厳密な史料批判にもとづく史実の確定作業を歴史研究の基本にした。

この史料批判は現代に与えた影響は大きく、現在の歴史研究の基本となる考えかたと同じである。


 しかし、問題点として、歴史主義は歴史の個性を重視しすぎたために、史実の相互の関連を問う認識能力にはうとかった。


 歴史学派と歴史主義との大きな違いは歴史の捉え方の違いである。

もし仮に現代という時代があるなら前の時代に現代に変わるための要素が含まれており、時代は常に進歩して発展していき、過去の出来事は現代に繋がるものと考えたのが歴史学派である。

歴史学派は1つ1つの歴史事実にはあまり注目せず時代の流れに注目したと言えるだろう。

逆に、歴史主義は1つの時代を別々に考え、過去の出来事はだだ1つの事実として捉え、歴史の進歩を否定し、歴史の流れには注目しなかった。両者にはこのような違いがある。


 また、歴史学派は歴史の進歩と政治が関連して発達すると考えたが、歴史主義は1つのことを重視する考えから別々であるとした。要約すると関連主義と個別主義である。


 最後に、両者の思想がミックスされ、両者の短所を補えるようになったのが現代の歴史の流れと史料批判を重視する特徴の歴史研究へとつながっていったと考える事ができる。


(ドイツ史2 山川出版 成瀬治 山田欣吾 木村靖冶 参照)


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2016年10月21日

体育講義‐生活習慣病と感染症予防について(通信教育部一般教養リポート)

健康が一番大事


体育講義‐生活習慣病と感染症予防について(法政大学通信教育部一般教養リポート)

人間の体は以外ともろく様々な要因で壊れてしまう例えば、外部からの進入(ウイルスや細菌)、全ての生き物に平等に訪れる加齢が大きな原因の生活習慣病、ストレス、社会によって左右される心や体の負担など、これらの問題に対して、どのような予防方法が適切か論じていきたい。


 生活習慣病とは、ガン、循環器系疾患、糖尿病、高血圧症、動脈硬化症、痛風、高尿酸血症などを指して言う。

日々の生活の中で徐々に進行していき、生活習慣病が死亡の原因となることも多く、完全な予防方法はない。

だが、予防をする事によって、その進行を遅らせて、健康で長生きをする事は可能である。

予防例を挙げると、多くの食品を摂取し、バランスのある食事をとる。

また、食べ過ぎを控える。とくに現代人は、糖分、塩分を取りすぎる傾向にあるので気をつける。

お酒の飲み過ぎには注意する。禁煙する。

適度な運動をする。

しかし、激しい運動は逆に体の負担となるため、あまりしない方がよい。

悪いストレスはためたい。

適度の日光は必要だが、当たりすぎはいけない。

体を清潔にする。

そして、一番大事なことは自分自身のことをよく知り、定期検診をおろそかにしない事が大切である。

 
 つぎに感染症について、感染症は病原菌が体内に進入して起こる病気である。

感染の原因として、病原体の種類にもよるが、伝染病にかかっている人との皮膚や粘膜からの直接の接触、その他、性行為による性病、せきやくしゃみなどにより、病原菌がまき散らされる事による空気感染がある。

このほかにも、感染者の衣服や日用品、排泄物などからの感染、汚染された食物、水を食す事による感染、小動物からの感染などがある。

予防法は、病原菌との接触を断つことが一番の予防法である。

これは、うがいや手洗い、清潔な生活、マスクの着用、食品の加熱処理や保存の仕方などである程度の病原菌との接触を防ぐ事ができる。

しかし、普通に生活をしていく上で完全に病原菌との接触を断つ生活などあり得ないことである。

でも、人間には抵抗力というすばらしい機能があるので、たとえ病原菌が体内に進入しても問題がないこともある。

抵抗力をつけるには健康的な生活を心がけることである。

後、予防接種による人口免疫を付けるという方法もある。性病など免疫がない感染症についてはコンドームの着用や不特定多数との性行為をやめるなどの処置で病気の予防に努める方法しかない。

そして、病原菌の広がりをくい止めるには国の協力、感染者の協力も不可欠である。


 病気には非常に分かりづらく、一見だだの甘えとも見えるやっかいで、最悪死もあり得る、現代人には増えつつある心の病気というものがある。

これは様々な種類があり、痴呆、てんかん、アルコールや薬物依存症、精神分裂病、神経症、性の異常などがある。

原因は強いストレスからくるものや主に幼児期、胎児期の過ごし方が大きく影響を及ばす場合もある。

その他、体の病気や加歳が原因で発生するケースもある。完全な予防はななく、例えば体の悪いところは完全に治療する。

適度にストレスは発散する。親は妊娠中や子育てをするときは特に気を付け愛情たっぷりで子供を育てる。

周りの人は、偏見を持たず理解し、接する。

また、あまり人を追い込むようなことはせず、多少の逃げ道は作ってやる。社会は精神病をもっと理解し、また、治療に協力し、偏見をなくす社会を作ることに心がける。

だが、一番大事なのは自分自身の気持ちの持ち方で、自分自身の哲学を持ったり、何事にも前向きで、プラス思考を心がける。

趣味や生き甲斐をつくる。また、宗教などを信仰するのも一つの手段なのかもしれない。

このような方法で有る程度の予防は可能だろう。


 人間の生活は近年めまぐるしく急速に進歩した。

しかしその弊害も現れた。まず、工業施設、家庭などの排水による河川や海が汚染され、生物が死滅し悪臭が発生する。

生活のスタイルが変わった事による屎尿処理問題、ゴミの増加、工場、家庭、自動車、航空機、船舶、火力発電、冷暖房など様々な原因がある大気汚染。工場、建設、鉄道、自動車、航空機、生活など多種多様な騒音。

交通機関、建設作業、工場により起こる振動。

地下水、天然ガス摂取が原因の地盤沈下。工場、屎尿処理、下水処理、養豚、養鶏などが原因の悪臭、これらは人間の体に害を成すことはもちろんだが、自然や地球そのものの破壊につながる危険がある。人間が原始生活にもどれば全て解決するかもしれないが、今となっては難しい問題である。解決法として国が法律を定め管理、監視をする。

全ての人間、国、企業が地球環境に気を付ける。エネルギーの転換をはかる。地球に優しい新技術を発明するなどが考えられる。


 人間が健康に短い人生を暮らすには実に様々な事が必要でありそれらは複雑に絡み合っていると言えるだろう。

病気の予防は常に2面性がある。

例えば、酒、たばこは健康には悪いがストレスの解消には役立つときもある。無菌状態を目指した清潔すぎる生活は抵抗力の低下につながる。病気の予防ばかり考えた生活は精神的に疑心暗鬼になることがある。

現代の快適で便利な生活と数々の弊害、火力エネルギーから原子力エネルギーの転換時の危険性。

けきょく、健康な生活を送るには、人間は、心と体をバランスよく予防させる必要がある。


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2016年10月20日

不確定性原理とトンネル効果‐常識を覆す幽霊の様な存在‐通信教育課程一般教養課程(物理リポート)


ミクロの世界へ


不確定性原理とトンネル効果‐常識を覆す幽霊の様な存在‐法政大学通信教育部一般教養課程(物理リポート)

 不確定性原理とトンネル効果を説明する前にミクロの世界の説明をすると、この世界を構成している最小の構成要素、例えば電子は小さな粒でもあるが、池に入れた小石から広がる波紋のようなもので、広く雲のようなにつかみ所がなく、ありとあらゆる所に広がった存在ともいえ、実態が分からないものである。

我々人間が常識的に物には大きさがあり、重さがあり、形があり、存在している時間があり、どこにあるかもはっきりと確定できる、このような人間が勝手に決めた常識など、まったく通用しない世界である。

まさしく、幽霊のような存在なのかも知れない。


  不確定性原理を簡単にいうと、ミクロの世界では観測という行為が不可能、観測と言う行為が自然の法則に影響を与える。

例えば電子一個を人間が観測しようと試みたら、当然見るという行為が必要である。暗闇の中では人間は物を見ることができないので、電子に光を当てる必要がある。光は粒子でもあるので当然光を当てられた電子ははじきとばされる。

このことは位置を測定した電子は同時にその後の移動方向(運動量)が分からなくなる。

位置と運動量は同時に測定できないというのがハイゼンベルクの不確定性原理である。もう少し詳しく説明するなら、もし、電子が一定の波で運動していると考える。

そして、運動エネルギーをE、質量をm、運動量はpとすれば、E=__の公式で運動量をある程度、見出すことができる。


 そして、どこまでも続く波の為に電子の位置をこの時に測定することはむずかしい。

位置を測定しようとしたら、粒子検出器なる小型の箱が存在すると仮定しなければならない。

粒子検出器により電子一個は検出器内のきわめて小さな空間に存在することになる。では、この時、運動量はどうであろうか、波動でもある電子を箱の中に押しこめた結果、いろんな運動量の波が箱の中に存在する事になった。

このために運動量を測定することは難しくなった。


 不確定性原理は片方を決めると片方が不確定になると言うことで、互いに相補的な関係であると言える。

あらゆる物理量にはこの相補的な関係が存在すると考えられ、エネルギーと時間もその関係といえるだろう。

もし電子のエネルギーを正確に確定しようとしたら時間の固定ができず、電子がいつ存在するのかわからなくなってしまう。

少し難しいが、私が思うにこの宇宙はなぞだらけで、そもそも、時間の観念や位置などは人間が勝手に決めた価値観で宇宙の仕組みは今の人間では良く分からないというのが現状だろう。


 次にトンネル効果について説明しよう。

これまで述べたようにミクロの世界では何が起きても不思議ではなく、ミクロの世界の物質が壁を通り抜ける現象なんて、全然不思議ではない。


 電子は波動でもあるので、広い存在である。

例えば壁があった場合、人間界では音を想像してもらいたい。

音は波動である。もし壁の向こうで音が発生したとしたら、音は壁にさえぎられて、かなり小さくはなるが、人間の耳には、壁の向こうの音を感じ取ることができる。

電子は波動でもあるので、壁のような障害物があった場合、壁の内側に電子が存在する確立は非常に高いといえるが壁の外に電子が存在する確立も少なからずある。

つまり、壁を越えて電子が存在した時のことをトンネル効果という。


 この世界を構成しているすべての物質は原子とその周りを回っている電子である。

ミクロの世界から見ればこの原子と電子の間はとても広い。

そのため、物質は密度という観点から言うと、かなり、すかすかの状態と言える。

と言うことは、原子や電子などが壁を構成している原子と電子の間を通りぬけることは簡単に起こりうる事と言える。

実際はお互いに反発し合うので簡単には通りぬけることはできない。


 もう1つ、先ほどの不確定性原理からトンネル効果を説明すると、ミクロの世界では時間の長さを正確に測ろうとしたらエネルギーの大きさが不確定になる。

つまり、原子や電子などが持っているエネルギーは、時間により不確定である。

すなわち、元のエネルギーよりも大きくなることもある。そして、確立により、壁をすり抜けるほどのエネルギーを得ることも可能と言うわけである。


 トンネル効果の例として、ウランなどの重い原子はアルファ崩壊によって軽くなる現象がある。

これは原子核のなかで強く結びついている陽子と中性子が、本来は外に飛び出すことはないが、トンネル効果により、アルファ線として、飛び出し原子が徐々に軽くなっていくという現象である。


 トンネル効果を考えると我々でも壁を通り抜ける事が可能である。

なぜなら人間であっても最小の構成物資は電子と原子なのだから、しかし、たくさんの電子や原子の集まりで安定しているため、かなり低い可能性であろう。


 余談ではあるが、物理学を学習して衝撃を受けた。

まさにこの世の中は不思議なことでいっぱい、人間のものさしで測れるものではない事がわかり、また、宇宙の心理を紐解く物理学の奥の深さを痛感した。


(量子力学が見る見るわかる 橋本淳一郎 サンマーク出版 参考)

 


















★一年中本ばかり読んでいる真田マサオの本屋さん。
 本を読み、そして、本を書くのが趣味。良き本に巡り合う為には、本をたくさん読んだ人から感想を聞くのが一番良い方法。好きな本のジャンルは歴史書、時事問題、自己啓発本、パソコン、旅行書、マンガなどなど。本との出会いが人生を大きく変える事もある。
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2016年10月19日

ウォーラーステインの世界システム論‐通信教育部(史学概論リポート)


サイト管理者「真田まさお」著書、大東亜戦争(太平洋戦争)を市民の立場から歴史を研究、本土空襲体験者の生の声から、真実の戦場の姿を語ります。


世界規模で歴史を研究


ウォーラーステインの世界システム論‐法政大学通信教育部(史学概論リポート)

 かつて、ヨーロッパ列強は世界各地に植民地をつくり世界の主導を握っていた。

アメリカのウッドロー・ウイルソン大統領 (1856〜1924)による14カ条の平和原則の中で植民地の民族自決を認めた。

民族自決の精神はその後、第2次世界大戦を経て戦後身を結び第3世界は独立を勝ち取っていった。

特に1960年代はアフリカで17の独立国が誕生し、1970年代にはほとんどの国が独立を勝ち取った。

しかし、独立を勝ち取った国々のほとんどは貧困に悩み経済的独立は非常に難しいというのが現在の状況である。


 これは、現在の世界システムがヨーロッパ列強によって作られた先進資本主義国中心の世界システムのためであると新従属学派の人々は考えた。

新従属学派の人々は先進資本主義国主義の批判をするようになった。

そして、新従属学派の中心となったのはウォーラーステイン(1930〜 )である。

かれは世界システム論を展開していく。


 ウォーラーステインの世界システム論は過去を分析し、未来を考えるという特徴を持っている。

そして、始めは、資本主義世界経済の分析として登場し、さらに、国家間システムに注目することで世界政治の分析まで考えていった。



  ウォーラーステインによれば、長い16世紀をへて、ヨーロッパは世界に進出して植民地を作りそれを元に資本主義経済を展開させ、世界システムを作り上げていった。

これは、植民地のもつ力、消費力、安い労働力、資源を使い、高利潤の独占的な生産を行い、それによって生まれた資本を列強国家に集中的に独占させるシステムの事である。

このことは、ヨーロッパ列強は儲けて得をし、国家組織を強化して、逆に植民地諸国は損をするシステムでもある。

この状況は脱植民地時代をむかえたにもかかわらず、現在でも継続して、脱殖民地国家は貧困にあえいでいる。


 ウォーラーステインの世界システム論は中核、半周辺、周辺という3つの部分に国を分け、この3つにより世界システムが構成されているとした。


 大航海時代のスペイン時代に変わり北西ヨーロッパが中核に上がった。

これによりスペインと北イタリアが半周辺に落ちた。

1650年以後はイギリスが世界進出に成功し覇権をにぎり、唯一の中核へと成長する。

1730年〜1917年はイギリスが中核をキープし、半周辺にはフランス、ドイツ、ベルギー、そして、次の時代を予感させるべくアメリカ、ロシア、日本が半周辺へ、また、アジア、アフリカは周辺である。

1870年代ぐらいからイギリスの衰退が始まった。

次の覇権をめぐってドイツとアメリカが長期の抗争を始める。第一次世界大戦〜第二次世界大戦の枢軸列強の敗北により、長い戦いはアメリカの圧倒的な勝利に終わる。

2つの世界大戦の戦火を免れたアメリカは世界システムにおいてもっとも実力を兼ね備えた中核になった。

1960年代にはアメリカの衰退がはじまる。

1970年代にはアメリカが中核をキープ、戦争から完全に立ち直った、ヨーロッパ共同体、日本が中核に、独立後のアフリカは相変わらず周辺、一方ロシアは、ロシア革命後、立ち直り、社会主義の文化圏を作り上げ中核になった。

ここに世界システムはアメリカの資本主義とロシアの社会主義の戦いとなった。

1968年学生反乱の形をとった世界革命、その継続で1989年共産主義は崩壊し、資本主義の勝利に終わった。

しかし、資本主義の近代世界システムの永久的な勝利ではなく、むしろ共産主義崩壊が近代世界システムの崩壊へと向かう始まりになった。


 世界システム論が歴史学に与えた影響として、例えば日本の歴史学の主流の一国史観や近代化論は、一国で歴史を考え、細かく細部まで研究することができる。

しかし、他国との繋がりや影響を研究するには難しいものがある。

また、一国史観や近代化論は、時代はかならず進歩する単線的な発展段階説になりやすく、そのため、うまく、説明できない歴史現象が存在する。

例を挙げると、16世紀の東欧で、時代はすでに近代になりつつあり、荘園制は解体しつつあったが、賦役労働を強化した結果、再び農奴制が発生した。(再版農奴制)この様に、実際に歴史は必ず進歩をくりかえしているとは言えず、後退することだってある。

例えば、再版農奴制を世界システム論で考えるとうまく説明することができる。

世界システム論の観点に立てば、西ヨーロッパが工業化したことで、農産物の供給地となった東欧が生産物の増大にともない採用したシステムが再版農奴制である。

再版農奴制の場合は、西欧と東欧を一つの経済圏と考えた時、西欧での不足農産物を東欧が補うといった、きわめて近代的な制度と言うことができるであろう。


 歴史学を研究する上で、他の地域との関連性は重要で、世界システム論は歴史を世界全体のレベルで見ることができ、世界を一つとして捉えることに成功したので、歴史の関連性をうまく説明できた。

世界システム論は、世界を一つの経済圏と捉える歴史学である。


 問題点として、一国の細部にわたって、研究するには不向きである。

しかし、一国史観は一国の細部にわたって研究するのには適しているので、世界システム論と一国史観をうまく使い分ければ非常によい歴史研究ができるのではないかと思われる。

 (アフター・リベラリズム ウォーラーステイン 訳松岡利通 藤原書店)





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2016年10月17日

戦後教育について‐通信教育部教職課程(教育過程論リポート)

戦後教育の変遷


戦後教育について‐法政大学通信教育部教職課程(教育過程論リポート)

 戦後の教育は戦前の反省から始まった。

日本は敗戦によりたくさんのものを失い、これまでの教育が間違いであったと気づいた。

戦前の教育は国家による統制である。戦後は統制から自由へと教育路線が変わった。


 そして、法的にも、戦後に作られた教育基本法の前文によって、個人の尊厳を重んじ、また、個性豊かな文化の創造を目的とした教育が基本的な形となっている。

個人を重んじ個性豊かな文化を創造すると言う事は、教育は国家が一方的に押しつけて統制するのではなくて、生徒1人1人の個性を大事にして、生徒の個性を伸ばす自由教育と見ることができる。

戦後に行われた教育は、教育基本法の理念に近い教育が行われた。

それは、コアカリキュラムと呼ばれる、自由な教育実践である。生徒の状態や、地域性、学校性を踏まえた、独自の教育実践は非常に価値あるものだと思われる。

しかし、問題点として、教育システムの弱さや科学的な教育ができなかったことが問題として考えられる。

日本は、敗戦直後なので、教育システムの充実に力を注ぐことが困難な状態であった。

逆に言うと、敗戦直後で、たくさんのものを失っているから、国民は自分が住む地域や日本を復興したいという強い気持ちがあり、教育は地域と学校が一体となって、将来の地域の担い手を育てる、実践的な教育が行われたと考えられる。

子供達は地域と関わりを持つことによって、自分達が住む地域の問題を見つけ、自らの関心から、それぞれに問題を見つけ考えていく、そんな生徒主体の自由な教育であった。


 しかし、1950年代に入ると日本は復興を果たし、教育に対する考え方も変わってくる。

すなわち、経済が復興して高度経済成長になってくると、日本の社会は、地域から都会に変わってくる。

若者は職や学校を目指して、地域を離れ都会へとやってくる時代がくるのである。

すなわち、地域に根ざした教育は土台を失っていく時代になったのである。地域に根ざした実践的な教育から良い学校に入るための教育、または、全国統制的な教育に変わってくるのである。

この国家による教育の統制路線を物語るものは、1958年の、文部省告指でだされた学習指導要領でみる事ができる。


 1960年代になると、学歴社会となり、受験のための教育になってくる。

そして、高度経済成長によって、日本の社会は大きく変わってくる。家では、おじいさんやおばあさんがいない核家族が増えてくる。

また、転勤族も増加してきた。

こうなってくると、地域との繋がりが非常に薄い社会ができる。地域に根ざした教育が難しくなったと言えるだろう。

極端な言い方にはなるが、学校の存在意義は、良い点数をとるための受験のテクニックを教える事であり、受験戦争に打ち勝つ事ができる生徒を育てるのが大事な使命となってくる。

問題点として、勉強をする事に関して、悪い事だとは否定する事はできないが、しかし、受験のための勉強、すなわち、ただ暗記するだけのあまり意味のない勉強になりがちなところが問題点と言えるだろ。

意味を持たない暗記はすぐ忘れるし、実生活にもあまり役に立たない。


 1970年代後半以降ぐらいからの教育問題として、受験学力競争の歪が徐々にでてきた事である。この時代になると、ますます、受験学力競争が激化していき、第2次ベビーブーム世代の受験がそのピークとなった。

受験競争の歪として、生徒の校内暴力や家庭内暴力、落ちこぼれの増加、いじめの増加、不登校、学級崩壊など、生徒のストレスが原因と見られるさまざまな病理的現象が社会問題となった事である。


 教育の問題点を背景として、中曽根総理時代に臨時教育審議会(1984〜1987)が発足して教育の問題点を考えていった。臨時教育審議会はゆとり教育の先駆のような存在となった。


 ゆとり教育は、受験目的の一方的な詰め込み教育の反省から考えられたものである。

ゆとり教育は教育の自由化を考え、生徒の個性を重んじ、生徒がゆとりをもって教育する所に特徴がある。

週五日制や総合教育、絶対評価などさまざまな改革が上げられる。週五日制による授業日数や授業時間の減少など、また、総合の時間などによって教科学習の時間が減る事から学力の低下問題が浮上してくる。

また、生徒を評価する時、教科テストの点数だけで評価するのではなく、人格的な部分を踏まえて生徒を評価する事は良い事でと思う。

しかし、危険性も含んでいる。なぜなら、生徒の人格的な部分にまで介入してしまうことは、本当の自由にはならないこともあるからである。

生徒に国が求める人格を強制的に求めてしまう事は国家による教育の統制とも受けとめる事ができる。

また、もし、受験とリンクしてしまったら、大変な事が起きてしまう。なぜなら、推薦入試に有利になるためや指定校推薦を勝ち取るために、本人の意思とは無関係に学校に忠誠を尽くす事を強要してしまう危険性がある。

本人の意思とは無関係にボランティア活動などに参加して、ボランティア活動が受験の一部となってしまうことも考えられる。

本来自由であるはずの総合学習などの時間が実は受験勉強とリンクしてしまう可能性も出てくる。


 現代の教育改革はさまざまな問題点は含んでいるものの生徒の個性を重んじる理念は良いと私は思う。

また、今現在でも教育改革は早い流れで変わっているので、今後も慎重な分析が必要だと思う。

















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    2016年10月16日

    リポートを読む上での注意点


    サイト管理者「真田まさお」著書、卒業論文を元に制作、卒業論文作成は他者が書いた作品が一番の参考資料になります。


    昔と今の自分


    リポートを読む上での注意点

    法政大学の文学史学科で、書いたリポートは2002年〜2006年の間に製作されたリポートです。ですので、現在の世の中から考えると様々な問題点があるでしょう。


    問題点

    ・現在の世と比べて記述の内容にずれがある。

    ・最新の研究により、学説に大きな変化があった。

    ・時代設定に問題がでる。

    ・私自身が現在執筆している作品と大きく歴史的、教育的視点がことなる場合がる。


    今現在(2016年)私自身、リポートを読み返してみると、現在の世では内容にずれが生じる場合が多々あることを発見しました。

    しかし、ここはあえて、大学在学中の2002年から2006年の4年間に書いたリポートをそのままの形で掲示する事にしまます。

    読まれる場合や参考にする時はそのあたりの事情を踏まえてもらう必要があります。


    大学を卒業して約10年が経過しました。

    その間に私自身独自に歴史や教育について勉強を重ねてきました。

    その結果、10年前の自分とは大きく異なった歴史観や教育観を持つ人間になりました。

    それは、執筆する作品に大きく表れています。

    現在私が執筆する作品と10年前では歴史や教育に対する捉え方が大きく違っています。


    いつもクリックありがとうございます。












    タグ:テクニック

    2016年10月12日

    律令国家の税制度‐全国組織の国家体制とは‐(日本史概説リポート)


    サイト管理者「真田まさお」の著書、高校教師として奮闘したクラス経営の日々を本にしました。高校教師の魅力が詰まった一冊。新任教育、教員志望者必見。


    律令制度の真実に迫る


    律令国家の税制度‐全国組織の国家体制とは‐(日本史概説リポート)

     律令国家の農民の負担について考えると、一番の負担は、祖庸調を中心とした税が考えられる。

    その他、蝦夷や唐、新羅との戦い、防衛、それに伴う徴兵制の実施などが農民の負担と考えられる。


     初めに、農民の負担となった、律令国家成立の前提を説明すると、当時の日本は、豪族の力が強く、中央集権ではなった。

    このような状況だったので、新羅と唐に対抗するために天皇を中心とした、中央集権国家成立が必要とされた。

    これらや遣隋使、遣唐使の影響などが律令国家成立の前提と考えられる。


     では、祖庸調を中心とした税について説明すると、税を課すためには、まず、人々のことを把握しなければならないので、その手段として、全国の耕地を国家の所有とし、大部分の国民に与えた。

    各人に与えられた田を口分田と言う。

    政府は6年ごとに戸籍を作り6歳以上の男子には田を2反、女子にはその3分の2の口分田を与えた。

    これを班田収受法と言う。これを対象に租庸調及び雑徭の税をかけた。


     まず、租は収穫の百分の三を納める。

    庸とは一年に十日使役されるか、布を納めるかである。調とは織物等の物産を納めるものである。

    雑徭とは国司が最長六十日まで青年男子を使役する。


     これらのことから農民の負担を考えていく。

    祖は田に直接かかる税で、低率である。

    当時は、収穫率が非常に悪く、最低限の生活を確保するためには、これ以上の祖の徴収はむずかしかった。

    この祖は、収穫の一部を神に捧げる初穂を起源とするものと考えられている。

    徴収された祖は利稲の一部や、備荒用として倉に収められ、飢饉などの時には困った人々に支給された。

    しかし、この祖はあらぬ方向に流用されはじめ、蝦夷討伐の軍糧などの軍事費に充てられ、一部の貴族や官僚たちの給与として祖を直接支給する制度が確立されていった。

    農民からみれば、飢饉のために先祖代々からためてきた祖を、おろかな戦争や何をやっているかも分からないような貴族官人のために使われるのだから、相当な負担だったと言えるだろう。


     つぎに、調は、貢ぎ物の意味を持っている。

    律令制以前の社会では、人々は物を貢ぎ物として、国造などの有力者に捧げ、そして、国造から大王に貢物が捧げられた。

    これが調の起源とされる。律令体制では、直接一般の人々から都に調として納められた。

    調の使い道としては、官僚の人件費などの中央政府のあらゆる支出にあてられ、また、一部は神々への幣料にもてられた。

    そして、地方での調庸の納期は八、九月であるが、ちょうどそのころは端境期にあたり、人々にとっては最も苦しい時期であるため納入はすごく農民に負担となった。

    そのため、経済的に余裕のあるものが、そういった苦しい人々の代わりに調庸を納期に間にあうように代納し、秋の収穫のあとに高額の代価を要求するというシステムもできた。

    また、仏教の流行などにより、昔からの地域の神々の影響力が弱まったことにより、神への貢ぎ物という観念も薄れていった。

    そうなると、ただ調庸を取られるだけという意識に農民達は変わり、精神的にも負担は増えたと言うことになる。

    庸に関しては、律令体制以前の服属儀礼の流れを汲む宮仕えのための仕送りのシステムを拡大して成立し、同じようなことは雑徭に関しても言える。

    庸に関しての事柄も調の場合と同じような事がいえるだろう。


     そして、徴兵制があり青年男子三人に一人の割合で指定された。

    兵士は各地の軍団に属し六十歳までのあいだに一年間は上京して衛士となった。

    また一部は三年間九州に下って西海防衛の防人をつとめることもあった。

    兵士は庸、雑徭などを免除されたが、勤務地に行くための費用や食料、武器や防具などの装備品の一部は自己負担であった。

    またこの時代、無謀とも言える唐、新羅の連合軍と戦った白村江の戦いや、東北の蝦夷との戦い、それに壬申の乱などの内乱があり、戦死者も多数発生した。

    このように農民達の負担はかなり大きかった。


     以上のように律令税制下では、様々な税があり、その結果、農民の負担は増え、中には、口分田を貰えなくても、租庸調を出すよりはましと考え、口分田を捨て浮浪、逃亡する農民達が多数でてきた。

    これが律令制崩壊の一つの原因になったと言えるだろう。


     最後に強力な国家、国土の拡張、新しい文化の発展、仏教の浸透。

    これらはこの時代の表の顔であり、この陰には農民の負担が有ることを忘れてはならない。

    そして、この時代から古きよき神話の時代は終わりをつげ、新しい秩序の世の中が生まれる、数ある時代の一つの変換期で有ったとも言える。

    多数の農民達はついていけず苦しい生活から逃げ出す者も数多く現れた。

    それは、中央集権の強い日本を作る為の犠牲で、この後数々の弊害が出て結局は、律令体制は崩壊する。

    やはり農民達の犠牲の上のシステムは長くはつづかないようである。

    でも、この時代にこれだけの新しい考え方や中央集権的な強力なシステムが実行されていたということは歴史的にみてすごいことである。

     
     (参考文献・律令国家の転換と日本 坂上康俊 講談社)


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    タグ:リポート

    2016年10月11日

    承久の乱‐貴族から武士へ(日本史概説リポート)


    サイト管理者「真田まさお」著書、大東亜戦争(太平洋戦争)を市民の立場から歴史を研究、本土空襲体験者の生の声から、真実の戦場の姿を語ります。


    後鳥羽上皇VS北条家

    その戦いの結果



    承久の乱‐貴族から武士へ(日本史概説リポート)

     承久の乱について、まず、簡単に説明すると1221年(承久3年)後鳥羽上皇の鎌倉幕府打倒の兵乱。

    北条政子は御家人の結束を説き、執権北条義時は泰時・時房に軍を授けて京都を攻撃し上皇方を破った。

    その結果、後鳥羽上皇ら3上皇の配流、後堀河天皇の擁立、所領の没収など、朝廷の勢力が失墜し、幕府が朝廷よりも優位になる体制が確立した。

    また今まで地頭の置かれなかった西国の公領、荘園にも新しく御家人が地頭に任命されるなど幕府の西国支配が強化された。

    これが承久の乱の簡単な説明である。


     この時代の時代背景を説明すると、以前は貴族が日本の中心となり国を治めていた。

    だが武士が台頭し、日本の国は武士と貴族の二つの勢力ができた。両者の対決は歴史の流れといえるだろう。


     武士勢力である鎌倉幕府が力を付けた理由を考えると、守護と地頭の設置であげられる。

    頼朝は平家滅亡後、頼朝に反抗した義経らを捕らえるという口実で、朝廷の許しを得て、諸国に守護を、公領と荘園に地頭をおいた。

    守護には、御家人を指揮して大番役の催促と警備、謀反、殺害人の取りし締まりを任じた。

    大番役というのは、費用自弁で上京し、6ヶ月又は3ヶ月の間皇居の警備にあたる諸国の武士の役目をいう。

    地頭は租税の徴収や土地の管理、治安の維持に当たり、一反あたり五弁の兵糧米を取る権利、その他の得分を与えられた。

    この守護、地頭の設置によって、幕府は広い地域にわたり、軍事、警察の権限を握ることになった。

    この権力増大は乱発生の一つの原因と考えられる。

     
     つぎにもう一つ乱の原因となった、鎌倉幕府のシステムは将軍が武士の上にあり、武士達は将軍の御家人(鎌倉時代に将軍と主従関係を結んだ武士)となり、将軍は御家人の領地を安堵し、その恩恵に対し御家人は将軍に奉公をするという相互関係である。

    そして、この領地の安堵は多少の過ちがあってもこれを没収されない。

    大きな過ちがあって、没収されるときは、その領地は近親の者に与えられることになっていた。

    その代わり戦がある時は、御家人は将軍のために忠誠を尽くすというものである。

    これを御家人制度と言い鎌倉幕府の基本となる制度だった。

    そして幕府は常に、断固として、御家人の権益を守らねばならない立場にあったので、朝廷の不興を呼ぶこともさけられない事もあった。

    また、鎌倉幕府の力の増大もあり、すべてを意のままにしている後鳥羽上皇としては、思い通りにならない鎌倉幕府の存在が邪魔になり、不満が溜まり、承久の乱へと発達していった。


     ではここで、どのように乱が実行されたか説明していく。

    後鳥羽上皇は、後白川上皇の死後院政を掌握し、莫大な皇室領を掌中にいれ、権力を増大させ朝廷側の第一権力者となっていた。

    後鳥羽上皇は鎌倉幕府に対して戦の準備をする。

    北面、西面の武士は後鳥羽上皇の手兵だが、数がすくなかった。そこで在京の鎌倉御家人を手なずけ、つぎに北条氏に反感を持っている人たちを手なずけて、兵力を整えていった。

    そして、源氏の正統が断絶したのを機に政権の回復をはかり、全国に北条義時追討がくだされ、承久の乱が始まる。


     これに対し、幕府の北条義時は、御家人を集め北条政子が御家人を結束させ、京に向けて進軍を開始した。


     戦いは幕府軍の進軍に対して、朝廷軍は尾張の木曽川の線で防衛ラインを張ったがあっさりと破られることとなった。

    幕府軍は京都まで進軍し京都攻防戦が繰り広げられる。

    幕府軍は最初少し苦戦したが、最後は京都に乱入し、圧倒的勝利をおさめた。

     
     幕府圧勝の原因は、動員兵力の差である。

    これは、幕府側は源氏の正統が途絶えたにもかかわらず、朝廷側が考えている以上に御家人の結束が固かったことが要因である。

    また、最初に乱をしかけた朝廷だったがその後の対応は遅れ、いたずらに時を過ごした。

    これに対して幕府は対応が早く、朝廷よりも先に進軍を開始する事ができ、その進軍を見て、まだどちらにつくか考えていた御家人達はこぞって幕府軍の進軍に参加した。

    このことも原因の一つと考えられる。


     戦後、後鳥羽上皇は隠岐に、そして、順徳上皇は佐渡にながされた。

    承久の乱の後、武家の政権は安定し、幕府は京都に六波羅探題をおき、常に北条の一族をこれに任命して朝廷の監視と西国の司法、行政事務にあたらせた。

    また討幕の企てに参加した公郷や武士の所領300余ヶ所を没収して戦功のあった御家人に分配し、多くの御家人が新たに地頭として送り込まれた。

    この乱にあたり、恩賞として地頭に任命されたものは、荘園の全面積の11分の1を給田としてあたえられ、一反ごとに五升の加徴米を徴収する権利をもち、以前より、はるかに強力な権利を荘園のなかに行使し得た。

    ここに幕府は全国政権としの道を踏み出したのである。


     最後にまとめると、世の中が貴族から武士へと変わる時代の流れを変えるために、後鳥羽上皇は承久の乱を起こした。

    しかし、後鳥羽上皇の力を持ってしても変える事ができず、結果的にはこの乱が武士の世の中になる事を決定的にしてしまった。

    少し皮肉なものである。

    承久の乱はこれから江戸時代まで長くつづく武士の世の事実上の始まりとなった。

    この乱は日本史の中でとても重要な事件だったと言えるだろう。


    (尼将軍政子 青木重繁 新人物往来社 参照)

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    タグ:リポート

    2016年10月10日

    寛政の改革について‐(日本史概説リポート)

    7 皇居の桜田門に到着。 #皇居 #東京 #桜田門 #井伊直弼 #Tokyo  #桜田門外の変 #日本  #japan「教科書に載らない歴史」はここをクリック 高校で普段行っている授業の実践記録や日記集、研究など、教科書に載っている事だけを授業するなら教員なんていらない。誰も知らないことを授業で取り上げる事に意味がある。教科書では語れなことや取り扱って欲しい内容を取り揃え、日本人としての心を取り戻す教育、その一部を紹介します。




    松平定信の挑戦とは?

    寛政の改革について‐日本史概説(リポート)

     寛政の改革についてまず当時の時代背景などを調べ、そして、実際にどのような政策があったかを考え、それによってどのように時代が変わって行ったかを調べていきたい。

    また、松平定信という人物像にも迫って行きたいと思う。


     この時代、幕府や大部分の藩の財政はかなり苦しくなっていた。

    そして、天明の飢饉と江戸をはじまとする全国的な打ち壊しや、関東農村からの流入民が江戸に大量に滞留し、かつ農村では人口減少という問題があった。


     そして、田沼政権崩壊後、松平定信の登場となる。

    人物像はまず、1758年に田安家初代徳川宗武の7男として生まれた。8代将軍吉宗の孫にあたり、1774年に、幕命のため余儀なく奥州白河藩主松平定邦の養子となっている。

    松平定信は英明な才能の持ち主であったといわれ、学問、文芸にも通じた。


     つぎに、寛政の改革の基本的な政策は享保の改革にならった。享保の改革を簡単に説明すると、8代将軍徳川吉宗による1716〜1745年の幕政改革。

    将軍専制体制を確立し、倹約、新田開発、増税などによる財政の再建、都市商業資本の支配統制に努め、法制の整備などにも意を用いた。


     つぎに寛政の改革の政策について説明しよう。

     享保の改革のときに設置され、その後事実上廃止されていた目安箱を復活させた。

    目安とは訴訟のことで、これにより、庶民や下級武士、町人からの意見を汲み上げようとした。

    その他、株仲間(株仲間とは、商業を統制するため、問屋商人に株仲間の結成を願い出させ、独占的な営業を認めるもの)の解散に踏み切った。 

    松平定信はまた、倹約令の強化に努めた。倹約令とは、江戸幕府や大名が出した倹約を強制する法令のことである。


     そして、松平定信が老中に就任した当初は米価高騰の渦中にあり、米価と諸物価を引き下げるための対策を打ち出す必要に迫られた。

     幕府は江戸への米の廻送を促すとともに、1787年五月には大阪で米の他国売りを禁止して、江戸に廻米するために米を買い付けた。

    そして7月には酒造高を三分の一に減らす旨の触れが全国で出された。江戸では米穀の販売を促すために、問屋以外の素人による米と雑穀の売買を自由とした。

    1787年は米の作柄もよく、8月には新米も出回るようになって、次第に米価も安定していった。

    ところが米価が下落したにもかかわらず、ほかの諸色物価はさがらなかった。

    それは流通過程に問題がある為で、商人が自分の利益のために高値のままにしているからである。


     その他棄捐令などがある。

    棄捐令とは1789年、旗本、御家人救済のため、札差の借金を破棄させた法令。

    6年以前の借金を破棄させ、以後のものは低利年賦返済とした。
      
    これにより、借金が帳消しになったことは嬉しいが御家人、旗本には締め貸しとして、つけが跳ね返ってきた。

    札差から借り入れで成り立っていた旗本、御家人にとっては、今後の不安は募るばかりであった。


     その他、無宿人の取締まりがある。詳しく説明すると、江戸の町では18世紀の半ばから関東地方の農村から出てきた浮浪人が目立つようになり、天明の飢饉以降にも大量に流れ込んだ。

    関東農村の下層農民が出稼ぎに江戸に出て武家や町家の奉公人となったが、中には無職の浮浪人や博徒となって市内を横行する者もあらわれた。

    江戸の打ち壊しでは浮浪人は騒動の主体ではなかったが、騒ぎに乗じて盗みを働くなど、混乱と社会不安をいっそう大きくする働きをした。

    出稼ぎ奉公人に関しては、農業人口の確保を目的として、1788年12月に出稼ぎ奉公制限令を出して、陸奥、常陸、下野の国からの出稼ぎ人に限って厳しく制限し、1790年11月に旧里帰農奨令を出して路用金や食料代、農具代を給付して帰農を勧めた。

    そして、無宿人にたいしては、江戸の治安を維持するうえからも厳しく取り締まった。

    人足寄場を設置し、それは社会復帰を目的としたもので大工、建具師などの職業を身につけさせるほか、仕事を与え、人夫としても使役させた。 


     その他、七分金積立がある。詳しく説明すると、江戸の町人用(町費)の節減による積立て制度。節減額の7割を江戸町会所に積立て、低利融資で増殖をはかり、利子は貧民救済に充てた。


     つぎに、囲米(囲籾)というのがある。詳しく説明すると、備荒貯蓄、米価調節などのために籾米を貯蔵すること。


     その他、柴野栗山等の学者を登用し、昌平坂学問所を官学とし、朱子学を正学とし、それ以外の儒学を異学として、昌平坂学問所で教えることを禁じた。

    これを、寛政異学の禁という。


     その他、風俗を乱す洒落本、好色本や政治批判、時事風刺を行った出版物を禁じた。

    これを出版統制令という。

    だいたいこんなものが寛政の改革である。

     
     その後、松平定信は、商人の根強い反抗や大奥勢力との対立などがあり、けっきょくは、在籍7年で老中職を辞することとなった。


     退職後、大御所様時代という文化の発達した時代を迎えた。

     結局、松平定信という英雄の力を持ってしても幕府の立て直しはできず、時代の流れは幕府崩壊へと少しずつ進んでいる。

    そんな時代だったと言えるだろう。

     
    参考文献(日本の歴史、佐々木克、集英社)


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