2016年12月14日

公民科授業実践・アメリカ軍によるイラク捕虜の虐待について‐法政大学通信教育部教職課程(公民科教育法リポート)

公民科授業実践・アメリカ軍によるイラク捕虜の虐待について‐法政大学通信教育部教職課程‐公民科教育法リポート(2005年作成)


 若者の平和に対する意識を考えると、まず、資料1では、イラク派遣で自衛隊入隊辞退者が続出しているとの事です。

自衛隊は国の仕事であり、国家公務員として、収入の安定した人気の職業です。

私自身も高校時代、航空自衛隊の試験を受けた事もあり、また、同級生も何人か自衛隊の採用試験を受けていました。

自衛隊の入隊辞退者が続出したと言う事は、イラク派遣によって、戦争の危険性が高まったと言う事が原因だと思われる。

自衛隊入隊を希望した若者は、安定職として自衛隊を選んだだけで、戦争はしたくないという事であろう。

資料1から若者は戦争には行きたくない、また、平和を望んでいると言う事が言える。

ちなみに、私の母校でもあり、教育実習に行った高校では、今のところ自衛隊入隊希望者はいないとの事です。


 次ぎに、資料2では、高校生の憲法意識調査を行っている。

この資料では、戦争を放棄した憲法第9条について取り扱っている。

資料2では若者は、約4割以上の人達が9条を変えない方がよいとなっている。

また、自衛隊のイラク派遣についても、半数近い人達が反対を唱えている。

若者の意識として、戦争を反対し、戦争には行きたくない、また、平和を望んでいると言う事が考えられる。

そして、日本の平和が現在保たれている理由に関しても、平和憲法の存在が1番となっている。

しかし、日米安全保障条約の存在が2番になっている事は、抑止的な武力は認めるという意味にも取れる。

これらの事をまとめると、若者は、日米安保や自衛隊の存在を認めているので、武力の保持に関しては認める。

しかし、保持した武力は使うべきではなく、戦争は絶対にしてはいけないものとして捉えている。

若者は戦争の無い平和な世の中を望んでいると言う事が言えるでしょう。


 今回の授業プランは、若者のもっと平和に対する意識を持ってもらいたくて作りました。

戦争というものはいかに残酷でぜったいにしてはいけない行為である。しかし、人間の歴史は戦争を繰り返してきました。

でも、戦争を繰り返してきた歴史から、人類は国際法という戦争の中にも人権的な秩序を考える思想を手に入れました。


 授業のポイントとなるのは、国際法の存在とイラク戦争で、明らかに国際法違反をしているアメリカの行為である。

国際法の中で捕虜に関する項目は主にジュネーブ諸条約の第三条の中にある。

内容は、捕虜は敵対行為をしないように自由を奪われることはあるが、しかし、捕虜はつねに人道的に待遇され、不法な加害行為から保護されなければならない。

そして、例えどんな罪を犯している捕虜であっても、捕虜としての権利を認めなければならない。

生徒にはジュネーブ諸条約の内容を提示することによって、授業の最初に配る捕虜虐待の写真から推測すると、あきらかに、アメリカ軍がジュネーブ諸条約違反をしていることを分かってもらえると思う。


 しかし、授業の本当の目的は、アメリカ軍によるイラク兵捕虜虐待問題ではない。国際法の存在にある。

国際法は国際間の法律である。

例えば、国家間の紛争時の取り決めや防衛、制裁、また商業的な取り決めなどあらゆる目的の国際法が存在している。

捕虜に関する事も国際法の一つに明記されている事柄である。

捕虜に関する国際法律の最初は、発行こそされなかったが1874年のブリュッセル宣言である。

以後、捕虜に関する法律は作られていき、そして、世界大戦の経験を通じて、1929年にジュネーブ諸条約ができた。

このようにジュネーブ諸条約は、人類の人権にたいする目覚めや戦争の悲劇などを通じて、施行作後を繰り返しながら作られたかけがえのないものであることを知ってもらう。

そして、身近な問題として過去の日本の国際法を無視した非人道的な捕虜の扱いも紹介して、戦争に対する問題点を知ってもらう。

 今回の授業の分野は現代社会の国際情勢の項目で行う。
 

今回の授業は高校生を対象に考えた授業プランである。
 
導入―― 学習内容@ アメリカ軍によるイラク人捕虜虐待問題 

 学習活動――用意した(資料3)イラク兵捕虜虐待現場の写真のコピーを生徒にくばる。

・生徒と自由な会話のやりとりをしながら説明していく。

 展開――学習内容@ 捕虜虐待について、生徒に意見を求める。
     学習内容A なぜ捕虜を虐待したらいけないのか?
     学習内容B 国際法の存在
     学習内容C 国際法の歴史

 学習活動――@ 生徒と一緒にアメリカ軍による捕虜の虐待について考え、生徒一人一人に自由で率直な意見を求める。

 学習活動――A人間は10人いたら10人の考えかたがあるので、なぜ捕虜を虐待したらいけないのかという意見もあると思われる。そして、この問いに対して、生徒にそれぞれに自由な意見を求める。

 学習活動――B学習活動Aの問に対する答えを私が考えたのが国際法の存在である。生徒に学習活動の答えの一例として、資料4を生徒に配り、資料4が捕虜の扱いに関する法についての資料である事を生徒に告げ、国際間には国際法という法が存在する事を生徒に分かってもらう。資料4は国際法の中の一つジュネーブ諸条約の捕虜に関する項目を整理して、また、捕虜に関する条約の一部を記載しているものである。資料4に記載されている記述を考えていくと、明らかにアメリカ軍は国際法違反を行っていることを生徒に分かってもらう。

学習活動――C捕虜に対する虐待は今回のアメリカ軍によるイラク兵捕虜虐待問題が初めてではなく、歴史をさかのぼっていけば過去幾度となく捕虜の虐待は行われてきた。捕虜虐待事例として身近な所から旧日本軍の第2次大戦中の行いを説明する。日本軍はジュネーブ諸条約を無視して、捕虜の虐待を行った。例えば、労務の酷使で、多くの捕虜を死なしてしまった。日本軍に捕まった捕虜の約4人に1人が死亡したと考えられている。この日本軍の捕虜に対する扱いを生徒に言葉と黒板への板書によって説明していく。

 そして、捕虜虐待の歴史に対する反省から、国際法の中で捕虜に関する条約が作られていく。そして、国際法は人類が過去の反省を踏まえて、人間の人権を尊重し守るために作られた大切な法律であることを分かってもらう。

まとめ――@ 学習活動@本日のまとめと人権問題への関心

 学習活動――A 今日のまとめを行う。そして、今日の授業からアメリカ軍によるイラク兵虐待問題は決して許されるものではないことを生徒に分かってもらい、例え戦争という特殊な空間であっても、また、どのような情況下の人間であっても、人には人権があり、その権利はだれであってもけっして、侵してはいけない大切なものであることを生徒に知ってもらう。
 
参考文献
(国際法第3版 有斐閣 1997年)
http://www4.ocn.ne.jp/^tishiki/junebujouyaku.html ホームページ)
(日本とイギリスの「苦い過去」 小管信子 歴史書懇話会)





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2016年12月12日

資本主義社会における労働の役割とは?‐消費によって貨幣が増えるなぞ(経済原論リポート)

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資本主義社会における労働の役割とは?‐消費によって貨幣が増えるなぞ(経済原論リポート)


 資本という概念が入ると、貨幣で商品を購入したとき、貨幣で商品を購入することによって、商品の価値と同じ貨幣を支払っているにもかかわらず、商品の価値よりも多くの貨幣を手に入れる事ができるのである。

このもとの商品の価値よりも多くなった部分の貨幣が余剰部分と見る事ができるであろう。

商品を消費する事によって、新たな価値が生まれ、また、消費された商品の価値よりも高くなるのが資本の流通形態と言えるであろう。

また、このように、商品の消費によって貨幣がたえず増大しているのが資本主義経済の特徴とも言えるだろう。

商品を消費する事によって貨幣が増えるという、夢のような話だが、この資本の謎を解くカギを握るのが労働力である。


 資本主義社会では、賃労働者は労働力を商品として資本家に売り、そこで得た賃金によって生活をしている。

すなわち、貨幣がなければ生きて行くのは困難で、人間が生活を行うためにはお金が必要であり、お金によって、食事をし、余暇を楽しむ事ができる。

このことは、労働力を再生産するためには、お金が必要という事を意味し、お金を消費する事によって、労働力を再生産する事が可能になるのである。


 すなわち、どのような社会であっても、生産と消費は必要で絶えず、生産と消費が繰り返されている。

生産物は労働力によって生まれ、また、労働力によって、生産物は消費されている。

生産物が消費を越えればそれは余剰となる。

そして、労働力を維持していくためには、必ず消費は必要で、この労働力が絶えず再生産されるのに必要不可欠な生産物の事を必須生活手段または必須生産物、労働ファンドと呼ぶ。

そして、必須生活手段を生産するのに必要な労働を必須労働と呼ぶ。

また、必須生活手段の社会的必要時間によって労働力の価値を規定する事ができる。

また、労働者が持っている労働価値は労働力を再生産する再生産費とも見る事ができ、これは、必須労働のことでもある。

労働者の労働力の価値は必須労働で決まる事も意味している。


 資本主義的経済の労働市場では、資本家は労働力が再生産されるのに必要な必須生活手段の社会的必要時間で規定された労働力の価値を商品として労働者に貨幣によって支払う。

また、資本家は商品市場では、他の資本家から生産手段を購入する。すなわち、資本主義的経済において、余剰価値を生むためには、商品である、労働力と生産手段を購入して資本を投下しなければならないのである。


 労働者は資本家に時間極めで労働力を商品として売る。

そして、資本家は労働者から買った時間はある程度支配して、資本家の指導のもとに、契約時間の間労働力を消費して、生産をおこなっていく。

また、労働力の消費の過程は、実際に労働を行っている、労働過程と労働力を消費して、労働力の消費によって新たな価値が生まれる価値増殖過程との2つに分ける事ができる。


 労働過程の労働の事を具体的労働と言い、また、価値増殖過程での労働を抽象的労働と言う。

労働には2つの種類があり、具体的労働は具体的に行う労働を表し、労働によって、特定の物質に対して形態変化を起こさせるなどである。

この具体的労働では、価値変化は発生しない。

抽象的労働は、労働を抽象的に考え、また、労働を量で捉えて、労働力の支出を抽象的に見ていく。

この抽象的労働の時に新しい商品価値が生まれるのである。


 具体的労働では新たな価値を生まない、この事を逆に考えると、元々存在した価値の事を指している。

すなわち、具体的労働では生産手段の中に価値が移転されて、前年と同じ価値が生産されている。

この事を資本で考えると、生産される価値は生産物の中に移転されているだけなので、投資される資本の価値は変化がなく、また、生産されるのに必要な資本の事でもある。

この変化がなく、不変に生産されるために必要となる資本は、毎回同じ価値の資本なので、不変資本と呼ばれている。


 抽象的労働によって、新たな余剰価値を生み出す事になる。

抽象的労働は労働を抽象的に広く捉えている。

抽象的労働は新たに余剰価値になる部分と再生産に必要な部分とに分ける事ができる。

すなわち、抽象的労働では、労働力の価値を再生産し、そして、その労働力を再生産するのに必要となる必須労働時間と、さらにそれを越えて新たに生まれた余剰価値を生産するのに必要な余剰時間とが組み合わさっている事になる。

必須労働時間を超え、余剰労働時間が新たに増え、変化しているので、そこに、投下される資本の価値量も変化して増えているという事が言える。

そして、投下資本の価値量が変化して、増えているので、この事を可変資本と言う。


 資本主義経済は貨幣の社会でもある。そのため、生産された商品は商品市場で売る事によって貨幣に変換される。

貨幣に変換される事によって、価値を表し、価値を得た事にもなってくる。

そして、同時に、余剰価値を貨幣に転換して得る事をも意味している。

そして、労働者は労働力を商品として売り、変わりに貨幣得て、その得た貨幣を使って資本家から必須生活手段を買い生活をしていく。

そして、また、労働力を再生産する。このようにして、資本主義経済では繰り返し生産物の再生産が行われて、余剰価値を生みながら、商品の生産が行われていくのである。

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2016年12月10日

日中戦争、中国対日本の全面戦争‐中国現代史リポート(文学部史学科専門課程)

 日中戦争、中国対日本の全面戦争‐中国現代史リポート(文学部史学科専門課程)






 初めに、1930年以降から第二次大戦終結の時代にかけて、中国と日本との軍事力や経済力を考えると圧倒的に中国は不利だった。

この劣勢下で中国の粘りある抵抗戦が繰り広げられることになる。

この日中の戦いは、第二次世界大戦の中のひとつの重要な戦いとなり、他国を巻き込んでの壮絶な戦いとなる。


 日中戦争当時両国の戦力を比較すると、日本は、現役兵38万人、予備兵160万人、海軍の艦艇は190万トン、飛行機2700機である。

中国は、現役兵170万人、訓練兵が150万人、海軍艦艇は6万トン、空軍は314機である。

兵力だけ見ると中国が圧倒しているが、当時はすでに戦争の重要なポイントが陸から空に変わっており、制空権を握るのが戦いの重要な要素になっている。

制空権を日本が圧倒的に握っていることが空軍の数から分かる。

また、中国の陸軍兵力は数では圧倒しているが、陸軍の指揮系統はばらばらで、装備や訓練も日本と比べて弱いと見る事ができる。

そして、中国国内はいまだに完全な統一体制ではなく、国民党と共産党の勢力争そいもまだ解決していない。

それに加えて、国内では列強による半植民地状態からも抜け出せていないのが現状である。

日本は、天皇を中心とした統一的な軍制であり、訓練も行き届き、装備も充実していた。
 

 日中両国の軍事面だけを見れば、中国は圧倒的に不利なのだが、もっと、広い視野で見れば中国は有利と言えるだろう。

近代以降の戦争は、弟1次世界大戦に見られるような国をあげての総力戦によって勝敗が決定する。

中国は日本に比べて遥かに広大な国土とはるかに多い人口を誇っている。

国内だけでも、資源は豊富に存在している。

そして、日本は中国に比べると国土は比べ物にならないぐらい狭く、また、人口も少ない、地下資源も少ない。

総合的な国力となると、圧倒的に中国が優勢と言えるだろう。

一時的な戦闘では日本が有利だが長期戦となると、中国の方が有利なのである。

その他、国際的な世論も重要となり、日本は物資の供給を外国から閉ざされたら戦争を継続することは困難である。

中国にとっては、長期的に粘り強く戦えば勝利は見えてくるのである。


 日中戦争当初、中国では統一的な抵抗運動ではなかった。

国民党の関心は日本よりむしろ、国内の共産党勢力に向けられていた。

国民党は日本との戦いはできるだけ避けて、兵力を温存する作戦である。

日本とは講和によって戦争を終結して終戦後は共産党勢力の打倒による中国統一構想であった。

しかし、日中戦争は、戦火を中国全土に拡大していくことになる。

こうした情勢で、国共はお互いに協力して日本と対決する方向へと向かっていく。

この国共の協力体制は日中戦争における1つの重要な転換期となる。

中国国民が一丸となって日本と戦う体制が整いつつあることを意味していた。

中国の主な抵抗運動はゲリラ戦による戦いである。

ゲリラ戦は兵力の差や装備の差があっても、十分戦える戦法である。

中国は粘り強く戦い、日中戦争は泥沼化していく。

この時点で日本の敗戦はほぼ決まっていたのだが、石油を断たれた日本は新たな戦争をはじめる。

その戦争が太平洋戦争である。

戦火は広がり世界大戦となっていく。


 日中戦争以前の世界情勢を考えると、第一時世界大戦をへて、壊滅的になった経済をアメリカの資本力でなんとか持ちこたえていたが、アメリカ国内投資の増大から世界恐慌が始まる。

アメリカやヨーロッパ列強諸国は植民地や広大な領土を使ってなんとか恐慌対策をしたが、日本やドイツなどは、恐慌対策がうまくいかなかった。

日本はその打開策として中国進出策を強化していく。

日本は中国進出の過程で、国際的な批判を受け、だんだんと、国際舞台から孤立していくことになる。

そんな中、日本はドイツやイタリアと親交を深めていった。

そして、枢軸国を結成する。

中国は抗日戦の過程で、アメリカやソ連、イギリス、フランスといった、対枢軸国の国々と協力して日本と戦う態勢を作り上げていった。

世界の国々は、大きく分けて、2つの陣営に分かれて戦うことになる。

日中戦争も日本対中国の2国間の争いから、世界大戦の一環としての連合国対枢軸国の戦いの1つとして捕らえられる、国際的な戦争へと変わっていった。


 国際的な戦いになると、他地域の戦争も重要となり、ヨーロッパ戦線でのドイツの敗北は東アジアでの日中戦争にも大きな影響を与えることになる。

ドイツの敗北によって日中戦争における中国の勝利は、確実になったと言えるだろう。


 8年にも及ぶ日中戦争は現在から見れば、遠い昔話と思えるが、しかし、実際はそれほど昔ではない。

今現在でも実際に、日中戦争時に戦った人が生きているのである。生きている人がいるからこそ、現代でも日中戦争の事は重大な問題である。

最後に、日本と中国との関係は同じ東アジアで、しかも、文化的にも非常に似ている国なので、両国の関係は非常に重要である。

歴史的に見ても、日本は中国の真似をして、文化を作ってきた。

これからの時代は日本と中国はお互いに仲良くしないといけないのである。

地理的に海を隔ててではあるが、隣接しているがゆえに、両国は過去何度となく戦争繰り返してきた歴史をもつ。

しかし、戦争は決してやってはいけない行為だと思う。過去の反省を乗り越えて、両国は友好を保つべきである。

(中国抗日戦争史 劉大年 白介夫 桜井書店 参照)
 

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2016年12月09日

中国の近代化とは?‐伝統的封建国家から近現代的な国家への移行と孫文‐通信教育課部専門課程、中国現代史リポート

 中国の近代化とは?‐伝統的封建国家から近現代的な国家への移行と孫文‐通信教育課部専門課程、中国現代史リポート


はじめに、清朝政府の軟弱な外交から辛亥革命が起きる。

革命の成果は摘み取られることになるが、しかし、辛亥革命の精神は国民の心にのこり、それが、学生運動となり、この運動が学生以外にも広がり、労働運動など市民運動に繋がっていく。

そして、またのちの国民革命へと繋がっていく。

また、辛亥革命の影響は、政治の分野にのみならず、中国の伝統的な社会を変えていった。

それは、服装の変化や辮髪の禁止や纏足の禁止など近代的な社会への変化に大きな影響を与えることになる。

また、対外的には2つの世界大戦や日本との戦争など国際情勢は波瀾に満ちていた。


 清朝はヨーロッパ列強や日本などの外国との外交で消極的な売国外交を行うことになる。

それは、日清戦争時の外交にみられるように、広大な中国からみれば、東北部の局地戦での敗北によって、あっさりと負けを認め、簡単に領地の割譲や賠償金の要求に応じるような外交であった。

5.4運動時に出されたビラには(中国の土地は征服されても、譲り渡したりはしない。中国の人民は殺戮されても、屈服はしない)(中国の歴史859ページ引用)という文章が書かれている。

外国に屈することなく戦い続けることを望んでいると見ることができるだろう。

中国の国民は清朝の軟弱な外交のために外国の侵略を許し、半植民地状態にあまんじていると考えている。


 清朝に対する不満から辛亥革命が勃発したと考えることができる。

辛亥革命の始まりは 1911年の武昌での蜂起である。

武昌蜂起をきっかけに次々に各省が独立を宣言することになった。

各省が個別に独立を宣言すると次ぎは、統一的な機関が必要になってくる。

そうした中、南京で各省の代表が集まり孫文を大総統に選出した。

1912年ここに中華民国が成立した。


 清朝政府は中華民国に対抗する手段として軍事的な影響力をもつ袁世凱を登用した。

袁世凱が清朝政府の実験を握ることになった。

そして、袁世凱と孫文との間で妥協案が結ばれることになった。

孫文は清朝政府の崩壊と皇帝の退位をもとめ、その代わりに袁世凱の中華民国大総統の就任であった。

袁世凱が中華民国の大総統に就任してからは、彼による独裁政治がはじまり、辛亥革命の成果が摘み取られることになってしまった。
 
しかし、1度根付いた民主共和国の概念は深く人々の心にしみついて、革命の心は消えてはいなかった。


 1919年初めての世界大戦が終了した激動の時代、戦勝国の1つとしてパリ講和条約に出席したが、しかし、何一つ情況は変わらずに半植民地状態から抜け出すことはできなかった。

こうした情勢の中、学生によって5.4運動が展開されていく。

これは、愛国心からくるもので、日本やヨーロッパを中心とした植民地主義国家に対する反発運動である。

学生たちの怒りは、軟弱な外交を行った3人の政治家に向けられた。

5.4運動の影響は国内では、学生達の愛国心ある行動に共感を覚えて、さまざまな、運動に影響を与えていく。


革命後の中国は対外的には、外国諸国に対して強い姿勢がでてくるのもたしかなことである。

日本やヨーロッパなどの植民地支配に対して徹底的に戦う姿勢がこのころからでてくるのではないだろうか。

例えば、日本と戦った(日中戦争)は8年近くも戦い続け決して屈することはなかった。

1894年の日清戦争と比べると国家外交の姿勢に大きな違いがあることが分かる。

東アジア最初の共和国として出発した中華民国だったが、国内は分裂状態でさまざまな問題を抱えて、半植民地状態から抜け出せずにいた。


 袁世凱の独裁政治後、孫文は中国国民党を率いて新たな道を模索した。

孫文は中国の模範にソ連の存在を考えた。

ソ連は民衆運動からロシア革命となり、反帝国主義を実現させて、市民革命からなる国家を作った成功例である。

そして、1921年に中国共産党が創立されて、国民党と共産党は国民革命の遂行のために共同闘争体制を作り上げた。

そして、最初の運動が国民会議運動であった。

孫文死後も国民革命の火は消えずに中国各地に国民革命は広がっていくことになる。

孫文がソ連に国家の模範を見たことは、のちに、中国がソ連のような共産国となるきっかけとなっただろう。

孫文の中国における影響力を考えれば自然な流れと言えるだろう。

第2次大戦後おこなわれる、共産主義と資本主義との戦いのなかで、朝鮮戦争において、共産国側として、北朝鮮を軍事的に支援することに繋がったと言えるだろう。


 最後に、ヨーロッパ列強の猛威がアジアにまで拡大され、皇帝が支配する伝統的な国家システムでは列強国に太刀打ちすることはでず、中国は半植民地化になった。

そんな中、新しい国家システムを作り真の独立を目指した。

辛亥革命から続く一連の市民革命は1つの時代の大きな転換期と言えるだろう。

伝統的な国家から近代国家への転換期である。

最終的には中国は、国家のモデルを列強国ソ連に求めることになった。


(中国の歴史 小島晋治 並木頼寿 明石書店 2001年 参照)
(中国史 尾形 勇 岸本美緒 山川出版社 1998年 参照)


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2016年12月07日

里甲制と明朝衰退とは‐通信教育課程文学部史学科‐中国近世史リポート

里甲制と明朝衰退とは‐通信教育課程文学部史学科‐中国近世史リポート

 まず、里甲制を簡単に説明すると、1381年に洪武帝が制定した郷村組織である。

地主や自作農などの土地所有者を地理的に隣接した集まりを110戸集めて編成を行って、そして、この110戸の集まりを1里と呼んで地方行政の単位とした。

110戸の中で裕福なもの10戸を里長戸とした。

また、のこった100戸を10甲に分けて編成を行った。

そして、1里の中で、1里長戸と10甲が10甲首となって、賦役黄冊づくりや賦役の徴収、里内の治安の維持、中央への物資調達、地方公費の負担など、非常に重い負担と責任を課せられた。

しかし、毎年1年ごとに交代を行うために、実際は10年に1度の役回りであった。

以上の1里が地方行政末端の組織となって、徴税や正役、雑役を課すための機関として機能した。

このように明の行政は里甲制を通じで、全国のいたるところまで、その支配権を及ぼすことができたのである。

里甲制はあくまで、土地所有者にかかる税、言い替えるなら、土地に掛かってくる税を対象としているために、小作農や奴隷的な人達、雇われ人を対象にしたシステムではないのである。


 明初期では、土地の所有権はほとんどが自作農や地主で占められていた。

そのため、明初期では、里甲制はうまく機能して、国家の財源や労働力の確保に役だっていた。

しかし、明中期に入ると少し事情が変わってくる。

明中期に入ると、国内生産量の増加から、商品流通が盛んになり商品貨幣経済が発達していく。

日本の江戸時代も明と同じなのだが、商品貨幣経済が発展してくると、土地(石高)を基礎にした税制度では時代の流についていけないのである。


 また、明中期は皇室の所有地が増え、それに伴って、貴族や宦官、官僚など明王朝で地位が高い層の人たちが土地所有を増やして、自領の拡大に努めていった。

説明を付け加えると、明王朝の中央や地方行政の中枢を握っているのは、科挙試験に合格した科挙官僚である。

科挙官僚達は非常に強い権限と特権を有していた。

科挙官僚の給料自体は少ないのだが、科挙官僚としての特権を活かして、財産を増やして大土地所有を形成していった。

地位の高い人の大土地所有が増えると言うことは、言い返ると、土地を持たない人が増え農村の階層化が生まれることを意味している。

では、地位の高い人達の大土地所有がなぜ、明王朝にとってマイナスになるのかと言うと、特権階級の地位の高い人達は、法の隙間を見つけて税負担を逃れた。

そうなると、里甲制は土地所有者を対象にいた税制度なので、自作農層が減少した事が税の収入が減った1つのマイナス点となった。

その他、明中期の自作農や中小地主は税収減少のしわ寄せがきて、重い重税を課せられた。

そうなるとますます、土地を手放す地主や自作農が増えてくるのである。

まさに、悪循環である。

貧富の差が激しい時代を迎え、里甲制そのものを維持していくのが困難になってきたのである。


 明末の16世紀という時代は、世界的に急変した激動の時代である。

ヨーロッパ人が多数アジアまで進出して、国際的になってきた。

国際商業には、新大陸からもたらされた銀が使われ明にも大量の銀が流入した。

このような時勢の中、税制度はこれまでの複雑な税制度から銀納による簡素な税制度の一条鞭法に変わった。

この一条鞭法により、税制度は簡素になったが、しかし、農民の負担自体は以前より多くなった。


 明末は、ますます商品流通経済が促進された時代である。

16世紀の商品流通経済の活性化が里甲制に与えた影響として、財を求めて農民が商人として出稼ぎを行う者が増えたことで、農業が軽んじられて、農民の数か減ったことである。

農民の数が減ることは国家財政が減ることを意味している。

商人として能力がある者はたくさんの財を獲得してのし上がっていった。

しかし、大半の者は落ちぶれて、ますます、貧富の差が激しくなり、富を持ったのは貧民を押さえつけて、贅沢で優雅な暮らしをして、まさに、お金が全てという、少し混沌としたおかしな時代になった。


 明末は、周辺国が力をつけた時代でもあり、明は対外的に守勢に立たされることになる。

明北方では依然としてモンゴルの侵入が続き、また、和寇の勢力は活発化していた。

いわゆる、北虜南倭の活動がピークに達した時代である。

北虜南倭以外にも、明北方の女真族の勢力拡大や日本の朝鮮出兵などがある。

対外的に守勢に立たされると軍隊の維持費などがたくさんいる。

お金がたくさんかかるために、そのしわ寄せが国内に求められて、農民はますます、重税をかけられたのである。

農民は反乱や土地を放置して逃亡や移民する人が増えて、里甲制による、税収入は、ますます減少した。


 明代はちょうど時代の変革期で自然経済から商品貨幣経済に移行する時代であった。

明の対外的には朝貢貿易、内部には里甲制の2つの政策の柱はこの経済システムの移行についていけないために明は衰退の一途をたどる。

それに伴い権力者の腐敗が時間を刻むと同時に進んでいく。

これは中国歴代王朝でも見られる現象で宦官、外戚、官僚の腐敗により国力が低下する。

どんなに強力な王朝でも必ず滅びるのが歴史の宿命なのではないだろうか。

明が崩壊したのは歴史の必然なのかもしれない。

そして、最後に思うことは明末の農業が軽んじられて、お金の世の中っていうのは、今の日本を想像してしまった。

(中国史 尾形勇 岸本美緒 1998年 山川出版社 参照)


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2016年12月05日

明の対外政策について、歴代皇帝の対応‐文学部史学科通信教育部‐中国近世史リポート





明の対外政策について、歴代皇帝の対応‐文学部史学科通信教育部‐中国近世史リポート


 明代の対外政策は朝貢貿易なきには語ることはできない。朝貢貿易とは明が他国から貢ぎ物を受け取り、そして、明が他国に恩賞を賜ることである。


 明を建国した洪武帝(1328〜1398)の対外政策は、外交によって明の力を誇示しようと考えた。

アジアでは本来、日本も含めて中国を中心に置いて、中国を宗主国として崇める思想がある。

洪武帝はこの思想の完全なる確立を対外政策の柱にしていた。

そして、洪武帝は朝貢貿易を通じて他国を間接的、形的、形式的に周辺国を支配しようとした。

少し難しいが、支配と言うよりは、保護や親と子の関係のような、儒教的考えで、国の格式の位置付けと言ったほうがいいのかもしれない。

朝貢貿易を通じて周辺国は明を宗主国と崇めた。

明建国当時の情勢は、モンゴルを撃ち破って国を建国した明であったが、しかし、モンゴルの残存勢力は強大で強く、いつ明がやられても、おかしくない状況であった。

建国してすぐの時は、まだ、明国内も安定しているとは言えない。

そのため、明は周辺国との間は平和に友好関係を築く必要があった。

そして、モンゴルやモンゴルと結びつく勢力にだけ、武力を集中させてモンゴルに対抗する必要があった。

結果が平和的な朝貢貿易と北方にあるモンゴル国境の武力集中政策である。


洪武帝の政策で、朝貢貿易と表裏の関係にあるのが海禁政策である。

情勢として、海賊行為の倭寇の活発化や元末の残存勢力の盛り返しがあった。

洪武帝は新政権の秩序と安定を図るために海禁政策に踏み切った。

海禁政策とは朝貢貿易以外の貿易の禁止と朝貢貿易以外の外国船の来船の拒絶である。

国民に対しても下海の禁令を発して、いっさいの海外渡航を禁止した。

洪武帝の対外政策は基本的には明王朝の対外政策としてこれ以後長きに渡って継続されることになる。


 次ぎに、3代目皇帝の永楽帝(1360〜1424)は基本的には洪武帝の政策を受け継ぎ、そして、更に朝貢貿易を促進していった。

しかし、洪武帝と違う点は、洪武帝は朝貢貿易に制限を設け、外国に武力ではなく平和外交を進めていた。

これに対して、永楽帝は積極的に朝貢貿易を推し進めて、外国には、5度にわたるモンゴル親征や鄭和の南海経路、ベトナム征服などの積極的な対外政策を行った。

特に、皇帝自らが万里の長城を越えてモンゴルに攻めこむなんて、中国の歴史上でもあまり例がなく、永楽帝の対外政策の心構えがよく分かる出来事だと思う。

永楽帝は帝位を奪って皇帝になった。中国は儒教の国である。

中国は物事の道理やしきたり、順序を大切にする国民性である。

そのため、永楽帝は靖難の変の汚名があるため、大義名分がほしかったのではないだろうか。

だから、洪武帝の精神を受け継ぎ自らの正当性を示し、対外遠征をすることで国民の目を外にむけ、また、皇帝自らが遠征を行うことで国民の信頼や団結間を作っているのではないだろうかと思う。


 次に、明5代皇帝宣徳帝(1399〜1435)は基本的にはこれまで通りの朝貢貿易を行ったが、永楽帝との違いは、永楽帝は積極的に武力で他勢力を制圧したのに対し、宣徳帝は、ベトナム放棄や北方防衛線の後退、北方の長城線固守政策に代表される、消極的な外交政策を行った。

他民族を武力で制圧して統治するのは、非常に難しい。例えば、ベトナムでは断続的に民族抵抗運動が発生した。ベトナムを統治するために、戦費や人被害がたくさんでた。

これは中国北方でも同じと言える。宣徳帝は武力でなく朝貢貿易を通じて、平和的に外国と対外関係を築いて、間接的に支配することを考え、外国は明を宗主国として崇めることを目的としていた。


 明代13代皇帝隆慶帝(1537〜1572)の時代になると、ヨーロッパの主にスペインやポルトガルがアジアにまで進出して貿易を行った。

また、倭寇が活発化した時代でもある。

明国内では流通経済の発展に伴い利益を求めて国民は、海禁政策を無視してでも、密貿易を行う者がたくさん現れた。

明は形式上、朝貢貿易しか行わないので、ポルトガルを中心とするヨーロッパの国と貿易を行わなかった。

しかし、現実は、明との間に密貿易が盛んになる。

もはや時代の流れで、明はこれまでの朝貢貿易と海禁政策の2つの対外政策を維持していくのはむずかしくなった。

現状では朝貢貿易と海禁政策は形だけのものとなり、旧秩序は崩れた。
 

  明の前の王朝はモンゴル支配による元である。

長い間、他民族に支配された中国は、中華民族による国家を取り戻した。

アジアに流れていた中国を盟主と考える思想やモンゴルによって壊されていたこれまでの秩序を取り戻すための1つの形が朝貢貿易なのではないだろうか。

朝貢貿易によって、旧秩序を取り戻した明であったが、しかし、時代は急展開を迎えて、新しい秩序が生まれようとしていた。ヨーロッパを中心とて起こった新しい秩序は、旧体制を維持しようとしていた明をも巻きこみ時代は新しい時代を迎えようとしていた。


(中国史 尾形勇 岸本美緒 山川出版社 1998 参照)


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2016年11月30日

通信制大学の卒業の仕方‐リポートを書く


書く

通信制大学の卒業の仕方‐リポートを書く

書いて、書いて、書きまくって、ただ書き続ける。

通信制大学の卒業の仕方は、リポートを書き続ける。

それしかありません。

深く考えていても仕方がありません。

考えるよりも書くことが大事です。

これはリポートだけの事ではなく、科目履修試験についても同じことが言えます。

リポートを書けと言っても、知識がなければ書けません。

リポートを書くときは必ず

参考資料を集めよう。

図書館やインターネットを活用して、できるだけ、多くのリポートを書くためのネタを集める事が大切です。



(例)「廃藩置県について書け」このような設題だったら

図書館に行き、廃藩置県、幕末、明治維新に関連する図書を何冊も借り、また、インターネットでも廃藩置県について検索をかける。

これら集めた全ての情報を把握するのは難しいので、設題に関係する部分だけを抜き出しておく。

各資料の抜き出した項目をまとめて整理する。

関連する部分をまとめた資料を参考にリポートを作成する。

ネタが多いほどリポートをスムーズに書くことが出来ます。


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「教科書に載らない歴史」はここをクリック 
高校で普段行っている授業の実践記録や日記集、研究など、教科書に載っている事だけを授業するなら教員なんていらない。誰も知らないことを授業で取り上げる事に意味がある。教科書では語れないことや取り扱って欲しい内容を取り揃える。教科書で語れない内容に真実や日本文化の素晴らしさが詰まっている。日本人としての心を取り戻す教育、その一部を紹介します。
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2016年11月29日

リポートの書き方‐合格リポートを参考に

必見合格済みリポート


リポートの書き方‐合格リポートを参考に

リポートをいきなり書けと言われても、慣れるまでは大変です。

一番手っ取り早くリポートを作成する方法とは?


合格済みリポートを実際に見て参考にする事です。

そこで、私がこれまで書いた合格リポートを全て紹介します。

あくまでも参考にしてください。


「注意点」
・写してそのまま提出してはいけない。写すだけでは力になりません。そんな事では科目履修試験や卒業論文が書けなくなります。

・著作権があるので、転売は違法です。

・私自身が学生の時に書いたリポートである。

・このリポートよりはレベルの高いリポートをめざして書いてください。









2016年11月28日

地方史学を学ぶ意味について‐単一民族国家説の否定‐通信教育課程(専門教養地方史学リポート) 

地方史学を学ぶ意味について‐通信教育課程(専門教養地方史学リポート) 


  私が中高生時代に学んだ歴史像は単一民族国家説を基本にした日本史像である。

それは、日本の歴史は、縄文、弥生、大和、奈良、平安、鎌倉、室町、安土、江戸、明治、大正、昭和とつづく、一本の太い流れにそって進んでいく統一的な歴史像であった。

しかし、けっして、日本の歴史は統一的な1つのものではない。


 例えば、沖縄が完全に日本の領土になるのは明治以降、東北が日本の支配を受けるのは奥州藤原氏以降で完全に日本の統治体制に入るのは豊臣政権、北海道が完全に日本領になるのは明治以降のことである。

地方に行けば、琉球王国があり、エミシ、アイヌの世界があり、日本とは全く違った文化や歴史を歩んできた地域もある。

そして、日本は近年アイヌ新法により、単一民族思想を捨てた。

このように、日本には複線的な日本史像存在しているので地方の歴史から日本史を見ていかないといけない。

それが地方史学である。

歴史と言うものは、見る角度が違えば全く違うものになっていく。

例えば、江戸時代日本は鎖国政策をして、長崎の出島という限られた空間でのみオランダと中国と交流を持っていた。

これが従来の私が学生時代に学んだ鎖国像である。

しかし、この鎖国像は地方の歴史をまったく無視している。

江戸時代当時は、北海道のアイヌと沖縄の琉球王国は外国である。

江戸時代を通じて外国であるアイヌと琉球は日本と交流を持った国である。

オランダ、中国以外の国と長崎の出島以外の空間でも日本は交流を持っていたと言うのが本当の鎖国像と言える。

このように、地方の歴史を見ることによって、中央の歴史像がまったく違ったものになることもある。

これは1つの地方史学を学ぶことによって得られる成果の1つではないであろうか。


 戦後主に近世農村史研究が活発化することになる。

近世江戸時代の人口を考えると、約80パーセントの人達が農業を営んでいたとされている。

日本は農耕民族の国といっても過言ではない。

従来の歴史像は支配者階級である武士の歴史である。しかし、人口の大部分を占める農民の歴史を考えなければ近世の歴史を把握したことにはならないと思う。

特に近世時代は職業によって住む場所も違えば、法や文化や風習も違う。

また、たくさんの藩が存在し現在のような統一的な国家ではない。

そして、移動手段が現在のように発達していなかったので移動は困難であったことが予想される。

特に近世時代は地方独特の文化や歴史が存在いていることになる。

地方独特な民衆の歴史を見ることによって、もう1つの日本の姿を見る事ができる。

これが地方史学を学ぶ1つの意義なのではないだろうか。

 
 地方史学とは、地方の歴史学のことであり、歴史学の1部門として学問的な位置付けを行うために、歴史研究の方法や目的、内容を整備し学問体系の中に位置付けられたものである。

学問として体系するためには、歴史に関する記述は真実の事を記述する必要がある。

そのためには、歴史記述の裏づけとなる証拠が必要となる。

証拠には資料が必要で、証拠となった資料が本当に事実を記述しているかどうかの資料批判も必要となってくる。

できるだけ、事実に基づいた学問的な歴史学として地方史学ができた。


 地方史学は郷土史が発展したものである。

郷土史とは地域独特の伝記や伝説の類を含めた学問である。

郷土史には、閉鎖的な地域自慢や英雄史観、物語史観などが折りこまれている。

簡単に言うなら、歴史的な事件があったとして、その歴史的事件を大げさに誇張して、また、英雄などの登場で、歴史的事件を面白く、お国自慢などを加え、物語風に作り上げた要素を含んでいる。


 戦前日本では天皇の神格性を維持するために、平気で伝説の類を国家に都合よく歴史として教えていた。

日本国民として、日本の神話や地域の神話を知る事は、とても大事なこと、だが、それと歴史事実を混合させると、それ以上の発展は望めない。

神話は何かしらの歴史事実に基づいて描かれた話、その何かしらの歴史事実を探求する事が大事になる。

戦後新しい時代を迎え、神や精霊などに縛られない、真実の歴史を知ろうとする時代の流れや、行政に都合のよい政府の歴史ではなく、地域で実際に住んでいる人々の生の歴史を知ろうとする時代の流れから地方史学が生まれたのではないであろうか。


 地方史学は中央政府によって作られた法などで、実際に地域で住む民衆がどのような影響を与え生きたかなどの、民衆生活史を知ることができる。

そのため、地方史学は、日本史を構成するとても重要な位置にある学問であるのではないだろうか。

郷土史が狭い地域を限定で研究するのに対して、地方史は、もちろん狭い地域を限定して研究するのだが、それだけではなくて、他の地域の研究をも行い比較対比も必要としている。

地方ごとに比較研究を行っていくと必ずたくさんの地域によって、いろんな差がでてくる。例えば言葉や習慣、苗字、農業、人格、など上げればきりがないほどの地域差がある。

地方史学の重要な目的の1つに限定された地域を研究して、そこに住む人々がどのような社会を形成して生活を営み、そして、文化を生み出して歴史を作っていったのかを解明する目的がある。

また、研究方法として、古文書や文書、遺跡、遺物、などの形として残って位いる研究材料だけでなく、民衆に語り継がれた話など、あらゆるものを使って材料にして研究を学問である。

これは、郷土史に近い存在で、地方史学とは、郷土史も含めて、総合的に対比や全体のつながりをも研究する総合的な学問と言えるだろう。


 最後に過去天皇制のよる単一国家説が日本史の主流を占めた時代の反省や欧米主観から見た日本史像への疑問、そして、総合学習に見られるような地域密着型の歴史教育が見直されている現在において、地方の歴史に対する関心は高まる時勢である。

地方史学の持つ意味は今後ますます重要性を占めてくるだろう。


いつもクリックありがとうございます。












2016年11月27日

徳川政権時代、江戸周辺の農村に発生する税の数々‐通信教育課程専門教養(地方史学リポート)





徳川政権時代、江戸周辺の農村に発生する税の数々‐通信教育課程専門教養(地方史学リポート)


  
 江戸時代の特徴は、身分制の社会編成である。農民が暮らす場所と武士が暮らす場所は隔離されていた。農民は農村で暮らし、武士や商人といった人達は城下町に暮らしていた。


 江戸時代の支配体制は治める領主により、かなりの違いを見せており、江戸周辺では江戸幕府が存在するために、幕府の直轄領(天領)となっていた。

江戸幕府から近いこともあり、幕府にとって、江戸周辺の農村は幕府財政を支える重要な場所であった。幕府権威を保つために、鷹狩が行われるなど、非常に重要な地域であった。そのため、江戸周辺の農村では特徴ある生活が営まれた。

江戸周辺農村は幕府領なので、統治には幕府から代官が任命されて、江戸周辺農村を治めた。代官は武士身分だが、武士の中でも比較的身分が低く、俸禄も少なかった。

しかし、代官が治める支配石高は多く、非常に大変な職であった。また、江戸周辺では特に、代官以外にもいろんな支配体制が組みこまれているために、実際に代官が行使できる権限は少なかった。

代官が支配した領土は5万石から10万石であるから、結構な大きさである。大名で考えると中クラスの規模であり、私の町である、丸亀藩は6万石である。

住んでいて思うことは、6万石でも結構な広さである。このように、代官は広い土地を支配していたのだが、そのわりには、俸禄も幕僚の数も30人ぐらいと少なく代官の力だけでは統治は難しかった。

少ない人数で広い領地を治めるので、どうしても、統治が手薄になってしまう。そのために、行われた政策が、有力な農民などを天領支配の統治機構に組みこむことである。

そして、有力な農民などを使った、大庄屋や郡中惣代などの中間支配機構が作られる。

中間支配機構の主な役割として、代官所から伝達された情報を農民達に伝える、年貢米の江戸への輸送の監督、また、村で争そい事が起きると、できるだけ、代官所の手をわずらわせる事を避けて、中間支配機構が争そい事の仲裁を行った。中間支配機構は代官支配体制の中でとても重要な役割を果たしていた。


 次ぎに農民達にはたくさんの現代風で言う税金がかけられた。

税金の圧迫で、農民としての身分を捨て、土地を逃げ出す人々も多数存在した。全国的に共通する税が米の生産量、石高によって割り当てられた税の年貢である。

そして、江戸周辺の農村では、この年貢の他に、鷹場に指定されている村が多く、その村では、鷹狩のために発生する、さまざまな負担が農民に課せられる。

また、絶えず洪水の危険をはらんでいる地域が多いので水に関して発生する、治水や用水維持などの水利負担が加えて課せられる。

鷹狩は将軍の権威を守るために行われる大変重要な行事である。

もし、将軍が鷹狩で鳥が取れないと言う事態になれば、将軍の権威はまる潰れとなる。

鷹場に指定された村ではさまざまな税が農民たちを苦しめたと予想される。

鷹場に課せられた負担は多種多様であった。

例えば、鳥の餌の確保やその外の用途のため、虫、蜘蛛、イナゴ、けら、蛍、松虫、葉、枝など、上ケ物と言われる物を収める負担がある。

また、鷹狩の時、鷹が捕まえる鳥の数が減ったら困るので、鳥の数の確保のために、鳥を殺すことは禁止されていた。これは、鳥と言う大事な食糧原が無くなる事を意味している。

 
 江戸は本来、洪水の多い地域である。

本来なら、耕地として適さないのだが、さまざまな努力、例えば、河川の治水、灌漑用水、水流の堰止め、耕地開発などの水利政策をおこなって、石高が増大した。

江戸の農村では、水利政策の時、発生するいろいろな負担を課せられた。

例えば、治水や灌漑用水を建設、維持、復旧に必要となる、人手、馬、船、お金、縄、油、薪、竹、木、いろんな道具などの負担。また、洪水対策のための人と俵などの負担。特徴として、水利負担は、その時代に必要とされる事柄や世の中の流れによって、変化していた。

例えば、初期の建設時期なら、多種多様に、お金や道具などの現物や人足を中心に負担、建設後なら、維持のために、人足と俵を中心に負担して、洪水対策などを行う。

幕末のような、災害の多い時期では、負担が軽くなる。このように、たくさんの負担が農民に課せられた。農民の負担は大きかったが、江戸周辺は飛躍的に石高が増加した。だが、水害や日照などの天災にたびたび襲われ苦しめられている。


 農民の生活で、特徴的なのが、5人組み制度である。5人が1組となり、例えば、5人の中の一人でも年貢なの税が治められなければ、連帯責任となって、5人とも罰がくだる。

また、村にはそれぞれ、村法があり、村法を破ると、村八分などの罰が降る。江戸時代の村は、連帯責任のために、犯罪が発生する確率が低い環境にある。

しかし、反面、領主が違えば、逮捕権がないため、犯罪者が逃げやすい世界でもある。

このような、5人組みのシステムによって、これまで、説明してきた厳しい税であっても、治めなければならない、環境に農民は負い込まれていたのではないだろうか。

(将軍の鷹狩 根崎光男 同成社 参照)
 
                       
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