自己責任とか国家の責任とか

今回は、責任について考えてみました。



人間の社会では、
なかなか一人ぽっちで生きて行くことは難しい、

否、不可能だと思います。



私は誰の世話にもなっていない?

私は人間と接することはない?

自問自答してみれば、おのずと・・・答えはNO。



人間の一生 (誕生から終焉を迎えるまで) は、

否応なしに現実社会の中で、周りに世話を掛けたり、掛けられたり、

毎日、人と係わりながら歩み続けています。




その中でどの様に生きて行くかは、

自分が自由に決める事が出来ますが、

なかなか思うとおりに行かないのが人生なのかもしれません。




思うとおりに行かないのはあなたの責任?

自問自答してみれば・・・、こんどの答えは、

幾通りにもわかれてしまうのではないかと想像します。



例えば、
自分の生き方を決めるのは自由なわけだから、

その結果である責任は自己責任になるのではないですか!?


それでは、
財産を持っている人と持ってない人が現実社会に混在している中では、

金持ちがひたすら勝ち続け、格差拡大していくのも自己責任になるのですか!?



どこまでが自己責任で、どこが社会(国)の責任なの?


今の私に言えるのは、
社会的に富の再配分がきちんと行われる社会になっていないのに、
自己責任だけを吹聴しているように感じます。



こういう事を考え始めると、
社会科学や経済学やら、哲学、思想、解釈など、

物凄く広く、専門分野の学習が必要なのかもしれません。



あらためて生活(経済)の面から言えば、


公平な社会を作り、

格差をなくす方向で富の再分配がきちんと機能する社会

を作る責任は社会(国)の責任じゃないか、

ちゃんと社会(国)がやっているかどうかを監視し、選挙に反映させるのが自己責任ではないか。


などと、参院選をまえにして考えています。




話は飛びますが、東京都知事の公私混同とか、甘利氏の汚職疑惑とか


責任の取り方も最近おかしくなってきているように感じています。


















転職 最終章

仕事 最終章


どこで働いても、状況は変わらない






三番目の会社は、東京都千代田区神田錦町、
職場は電子計算課、ビルの6階で眼下を走る高速道路の向こう側には気象庁。
(この気象庁は、昨年までエンジニアとして何度か出張した懐かしい場所)

勤務時間は朝9時から夕方4時まで、賞与年三回、夢のような条件と、
独身寮も鉄筋コンクリート3階建て、一人一部屋(憧れの個室)です。



転職を重ね、

「コンピューターを使用する、ユーザー側の人間になりたい」 と願った通り、
電子計算機を使用する仕事に就くことが出来ました、やる気は200%。

最初はオペレーター手順やプログラミングの研修などを受けながら、
朝9時から夕方4時、まだ明るいうちに退社できる、夢のような生活が始まりました。
(研修中も、職場のコンピューターは24時間フル稼働しています)

やがて職場の戦力として仕事に組み込まれ始め、
いつのまにか気が付けば、


一週間に三日働く、徹夜がらみの不規則勤務に、縛られた生活を送っていました。


どういう事かと言いますと、  月曜出勤徹夜、 火曜代休、 
              水曜出勤徹夜、 木曜代休、
                金曜出勤徹夜、 土曜代休、

給与は良くなりましたが、
勤務状況は昔と同じく、不規則勤務から抜け出せていませんでした。




「なんもせんでいい年寄り」を標榜した少年が、転職を通して目にし体験したことは、

最初の職場で遭遇した現実、
朝起きて働き、夕方には帰宅して、夜は眠るという、人間本来のサイクルが、
不規則三交替勤務という労働条件で壊されていく現実。

二番目の職場で感じた、
学歴社会の見本みたいな職場と生産ラインが、人間をそのように区分する、
生涯このレールからはみ出せない、飛び出せない雰囲気。

そして、三番目の会社、
給与はあがったが、一週間に三日働く、徹夜がらみの不規則勤務。




なぜこのように私には、徹夜作業や、不規則勤務がつきまとうのだろう?

子供の頃から「なんもせんでいい年寄り」を望んだりしたのが、
いけなかったのかも知れません。
きっと神さまやら、仏さまが、甘い考えを戒めているのかも・・・


朝日が昇れば仕事をし、
夕方にはその日の疲れを一杯のビールで癒し、
日が沈めば睡眠で明日の活力を蓄える。


私の希望は 「人間らしい普通の生活をしたい」 たったそれだけの事なのに、
現実社会は、それを叶える事の出来ない仕事ばかりが、私には巡って来る。




またまた、「幸せの青い鳥」を探そうと、転職に起ちあがる時、
相談した会社の先輩から一言、

「今の世の中、どこへ行っても似たり寄ったりだょ、転職すれば給料などはむしろ悪くなる」
「今の職場を自分の希望に沿って変えて行けばいいじゃないか」



この一言が私の転職人生にピリオドを打ってくれました。




「今の職場を自分の希望に沿って変えて行けばいいじゃない」
と、一言で言われても、それは容易なことではありません。


1人の人間の要望希望を2人、3人、4人・・・と広げ、
電子計算課職場全員の共通の要望希望として練り上げながら、

一方では会社全体の、多くの職場の人へ向かって、
電子計算課の徹夜の実態を知ってもらい、要望希望に共感し応援してもらう事から始まります。




百里の道も一足から、
1年とちょっと掛かりましたが、遂に電子計算課の社員の徹夜勤務が無くなりました。


それがやれたのも、職場や会社に本物の労働組合が有り、

職場の要求を吸い上げ、会社と団体交渉しながら要求を実現し解決する、
そんな力を持った労働組合を、職場のみんなが守り育てていたからだと思います。




その後私は転職しないまま、この会社で働き続け、

私は56歳で仕事を辞めました。



おわり



仕事〜その2、その3、最終章と、
最後まで読んでいただきありがとうございました。


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新聞の求人欄

仕事 その3



求人




「私のやりたかった仕事ではありません」と言い残して
会社を辞めると宣言してからは、
新聞の求人欄をチェックしては入社試験に臨みました。



二番目の仕事は、コンピュータ製造部門の検査員の仕事です。
臨時雇員と言う身分でしたが真面目に勤めれば1年後には正社員、
しかも時代の最先端、技術系(電気)の仕事です。

波形やパルスを検知するマイクロスコープ、計算速度をテストするプログラム、
色々覚えるのが楽しくて、仕事が薔薇色に輝いていました。


その反面、納期に合わせた稼働検査は徹夜作業が続き、体力勝負の側面もあります、

中でも耐熱耐湿テストは、密閉された蒸し暑いテスト室に装置と一緒にはいり、
読み取りエラーの頻度を連続12時間記録する、
今で言うところの、熱中症に倒れそうな環境の中での交替作業でした。

それでも、自分が検査し無事に納入先に据え付けをするときは、
コンピューターに向かって「がんばれょ」と声掛けしたくなる位嬉しいものです。




ここの製造ラインは、仕事がぴっちり分かれています、中学卒業は「調整作業」、
高校卒業は「検査作業」、大学卒業は「管理部門と設計部門」。

私は、調整作業が遅れている時など、調整を手伝ったりして、
ボールベアリングの回転音からボールの傷を聞き分ける方法など、
知らない事をたくさん教えてもらい、検査に役立つ事もたくさん有りました。

上司からは、ラインを越えて手を出すのはいけないらしく、
検査は検査して不具合は調整に直させる、調整作業に手を出すな、
と、禁止されてしまいました。



学歴社会の見本みたいな職場で、生涯このラインから飛び出せない、
人間をそのように区別する職場と、レールからはみ出せない雰囲気に、
少しづつ違和感を感じ始めていました。



その頃は仕事も出来るようになり、納入先のSE(サービスエンジニア)が直せない時は、
私が出張し、解決してくるまでに成長していました。



有る時、大阪の繊維ビルへ出張した折の事ですが、
コンピューター納入先のオペレーターから、
「明日の朝には動くようにしとけやぁ」と言ってさっさと帰って行くのを見て、
心の中で呟きました。

お前さんの部下じゃないんだ…
「徹夜で大変だろうけどよろしくね」 だろう…




やがて1年、臨時雇員から正社員への上司の推薦が実り、 

はれて正社員になるという矢先に、退職願を提出した為に、
推薦した上司からは恨み言を言われながら、この会社を去ることになりました。


動機は、大阪出張の折に感じた「ユーザーが殿様」と言う現実が胸に刺さっていた事と、
学歴別の製造ラインの中で、人間が区別、差別されているように感じた事でした。



転職を心に決めてからは、再び新聞の求人広告でリクルート活動開始。
今度は、「コンピューターを使用する、ユーザー側の人間になりたい」
と言う、会社選択の目標が絞り込んであるので、
その方面の求人が出るまで根気よく待ちました。




夢がかなって三番目の会社は電子計算課のオペレーター兼プログラマー、
時代は企業にコンピュータが導入され始めた時期でした。




この続きは、次回(最終章)へ
・・・いよいよ三度目の正直、夢追い人よ頑張れ!・・・

 

 

 

 

 

仕事を辞めたい

仕事 その2


仕事を辞めたい




今、振り返れば仕事を通して人間と社会の仕組みを、
私なりの方法で色々学んで来た様に思います。



「なんもせんでいい年寄り」 を標榜した少年が、
就職列車にのって社会に放り出された時代に話は戻ります。

工業高校を卒業し、世間知らずのひよっ子として社会に踏み出したのは、1965年4月。



二本の線路が、住み慣れた九州を後へ後へと押しやりながら、
機関車は黙々と関東へ向かい走り続けました。


この時から、私の転職人生が始まります。


最初の仕事は不規則三交替の製造工場で、
6,7m程の大きな機械の動きに合わせて製品を取り出し、
検品しながら箱詰めする作業でした。


先輩の右手の指が2本足りないのは、この機械から製品を取り出す際に、
金型に挟まれてしまったそうです。


「現場は命懸けなんだ」と、自分に言い聞かせ、緊張しながら深夜の作業もやりました、

時にはうつらうつらして製品を取り出せず、金型に傷をつけ、怒鳴られたりもします。
(まるで指を挟んでもいいから金型だけには傷をつけるなと言わんばかりの剣幕)


朝の5時、一番方交替の社員に、その日の機械の調子を申し送りしたあとは、
畑の中にポツンと建てられた「深夜作業明け専用宿舎」まで、
夜明けの道を歩いていきます。

お天道様の光が差し込まない様に雨戸は締め切ったまま午後まで眠りにつきます。



想い描いた仕事の理想や夢から、かけ離れてしまった自分が悔しくて、
人知れず涙のしずくを畳に落とす日も有りました。


4人部屋の独身寮と工場、そして「深夜作業明け専用宿舎」を往復する日々は、
鎖につながれた囚人にでもなったように思える時もあります。


今思えば、朝起きて働き、夕方には帰宅して、夜は眠るという、
人間本来のサイクルが、不規則三交替勤務で壊されていくのが怖かった。





およそ1年が過ぎようとする日、私は人事課長の前で「私のやりたかった仕事ではありません」
と告げ、ひと月後に転職してこの会社を出て行きました。



(つづく)

まだまだ・・・私の転職人生は続いていくのです!








仕事と私と老人

仕事




私は56歳で仕事を辞めました。



今でも、働くことは人間と生活を支えてくれる大切な要素だと思っています。

でも、私は、
小さい頃から、早く年寄りになりたいなぁ〜と、思っていました。

勉強しにガッコ行かなくていいし…昼間からゴロゴロして道端でお喋りしてるし…
うらやましいなぁ…「なんもせんでいい年寄り」はいいなぁ〜と、思っていたのです。



今、それが実現しています、
希望退職56歳−働き始めは18歳=38年間働いたご褒美なのかもしれません。


世間が、定年延長や雇用延長などと言う言葉を当たり前のように囁き出した時、
私はおびえました 「これ以上働いて、仕事に自分の時間が奪われるのは嫌だ」


目標は55歳定年退職!
何としてでも雇用延長などに捕まらないうちに退職して、
自由な時間を手に入れたい!辞めるチャンスを狙い続けました。


結果はまずまず、目標より1歳オーバーして仕舞いましたが、
56歳で目出度く希望退職のチャンスに恵まれました。

もしかしたら世間では希望退職=リストラと言うかもしれませんが、
私にとってはどちらでも良く、
小さい頃の憧れだった 「なんもせんでいい年寄り」 になれたのです。



自由な時間はたっぷり手に入れましたが、
全てがパーフェクトとはいかないものですね…

これからの老後の生活に目をやると、経済的には不安定(不自由)そのものです。

貯蓄は確実に0円に向かって進み続けるのと、
私の寿命も確実に終焉に向かい歩み続けるのですが、
どちらが早いか、それがこれからの重要なテーマになります。


社会福祉予算も減る一方で最悪の状況になった時の手助けは有るのか、
病気などに罹って入院したらどうなるんだ、など、
色々マイナス面を考えると、なんとも寂しい未来が待っていそうな気もします。



それでも気を持ち直し、「金は天下のまわりもの」 心配してもきりがない、


私は 「質素な、働かない蟻さん」 「なんもせんでいい年寄り」 になれたんです。

これからは、自由な時間を、どう活用して行こうか、
じっくり考えてみたいと思います。





次のブログでは、
 「なんもせんでいい年寄り」を標榜していた少年が、
  実社会に踏み出す時の事を、続けて書いていこうと思います。





今日は、ここまで!最後まで読んでいただきありがとうございました。















スマホの便利さと危険性



スマホにくぎ付け



久しぶりに東京の空の下で生活をしてきた。



二日間ほど、

熊本地震の余震で怖い思いをした後に、

午後からの飛行機で羽田に向かった。



高速道路を走るリムジンバスから、

空に向かって乱立するビルの群が見える。

 


そこは人影もなく、建物の輪郭に沿って光に包まれた「未来都市」、

まるでアニメの映像さながらキラキラ輝いていた。

 



墨田区森下に宿を決め、

近くの餃子屋さんで焼き餃子をつまみ、壜ビールで喉をうるおした。



翌日は都営新宿線に乗り江戸川区瑞江まで移動する、

この時間の車内は、朝の出勤タイムから外れていて、

乗客はシートに腰を落とし、ほどよく空いていた。

 



車内風景としてぼんやりと眺めていて、ふと気が付けば、

こちらのシートも向かいのシートもその先も・・・、

皆が一様にスマホに向き合ってせっせと指を動かしている。

 



この風景は、ずっと以前携帯電話が普及した頃と同じだ、

その頃は若者学生が主流だったが今回は違う、

30代?40代?いやいや爺様婆様まで全年齢に広がっている。

 



電車は地上に出て眼下に荒川、中川の川面が青く光っていた、

ここ江戸川区は懐かしい地域、私が20代後半の頃、

新小岩をベースに営業活動を展開した所。



江戸川区にも「おいてけ堀ってあったナァ・・・」とつぶやくと、

すかさず「おいてけ堀は墨田区の話よ」と妻から訂正の一言。



私の脳裏には、

当時の江戸川区の風景の中に「おいてけ堀」の看板がリアルに再現されていた。



駅を降りると、大きな近郊地図が目にはいった、

瑞江、一之江、篠崎・・・懐かしい地名が並んでいた。

 

 

 

 

 






 

 

 

 

今回の東京行きは、元気なうちに義母に会っておこう、と言うのが目的で、

 


友人親戚などとのコンタクトは全て外し、ここ瑞江の小さなホームを連日訪ねた。



筆談を交えたアイ・コンタクトで、

義母97歳の意識の確かさと、心の穏やかさを確認しながら、3泊4日の最終日を迎える。

 




この間幾度となく「スマホにくぎ付け」の車内風景を目にした、

皆が横並びに同じことをしている事に対しての違和感とでも言うか、

「異常」「没個性」を感じるとともに、気味悪くさえ思えてきた。

 




もし私がこの風景の中で「スマホはやめろ!」と、大声出したら、

全員が一斉に顔をあげ私を確認目視するだろう、

「何だこの爺さん」と言う目つきを残して、再び一斉に顔を落とし、

一瞬前と同じように「スマホにくぎ付け」に戻ってしまうんではないかと想像してしまう。

 




私が思うに、この状態は生産ラインに並ぶロボットと同じように、

決まったことを決まった通りに繰り返すように、

人間が変わって来ているのではないだろうかと心配になって来る。

 



与えられた映像と情報をもとにしか物が考えられなくなる、


TVのバラエティー番組で笑わせられながら、

物事を自分の頭で考える事が出来ない人間を、

大量に生産されているような怖さも感じる、

 

茶の間のTVが24時間持ち運び自由のスマホに代わっただけである。




1人でもいいから、横並びは嫌だ!意地ででも私は本を読む、

と言うような人間が居てほしい。

 



何もしないで、ぼんやりと空想し想いを巡らす人でもいい、

 

目を閉じて瞑想する、或いは頭の中で、

あーでも無い、こーでも無いと理論や理屈をこね回す人でもいい、

 


まちなかでスマホをいじらない
    そんな人間が一人でも居てほしい。

 

 

 

世界文化遺産

世界文化遺産「三池炭鉱」



福岡県の明治日本の産業革命遺産である、
三井鉱山の「三池炭鉱」関連施設 「万田坑跡」 そのほかが 世界文化遺産として登録されました。

同じ炭坑では長崎県の 端島炭鉱 元三菱鉱業が所有する 通称「軍艦島」も世界文化遺産です。

ほかにも筑豊炭田では「伊藤伝衛門」や「白蓮」そして炭坑労働の写生で有名な「山本作兵衛」などが有名です。



共通して言えるのは、世界文化遺産としての関連施設や資料の保存とともに、
炭坑とそこで働いた人々の歴史をどう語り継いでいくのだろうか・・・



今回は「三池炭鉱」について私の見聞も織り交ぜながら記載したいと思います。



福岡県の西南端に位置する大牟田市と、隣接する熊本県荒尾市を含む、
広大な地域で石炭が発見されたのが明治の頃、

遠浅で有名な有明海の波打ち際に、
海底から剥がれた真っ黒な石炭が打ち寄せられ、ゴロゴロ転がっている状態のところで、
漁を終えた漁師仲間達が焚火しながら、スルメをかじり焼酎でも飲んでいる時、
「おーこの黒い軽石が燃えとるバイ」とかなんとか言いながら
石炭を発見したのかもしれません。

その報告を受けた明治政府が掘削を始めたのがきっかけで、
石炭の鉱脈は陸地だけではなく有明海の海底にまで広がっていました。

その後、三井財閥が明治政府から譲り受け石炭部門として設立した三井鉱山は、
長い間日本の工業生産を支え続け、エネルギー(石炭)産業として発展していきます。

この大牟田市と荒尾市は、 
♬〜月が出た出た 月が出た 三池炭坑の上に出た〜♬ と唄われる、 
民謡(炭坑節)でも有名な炭鉱の街として栄えたところです。

山口県宇部市でも明治時代から昭和にかけて、海底炭田群を宇部興産が買収合併し、
石炭とセメントで 宇部の化学コンビナート へと発展してゆく。

炭鉱で富を得た複数の炭鉱主たちが、
宇部市の繁華街で昼夜を問わず大賑わいを見せていたと言う、
料亭では靴ベラ代わりに札束を使ったと、昔風の食堂のお婆さんが話してくれました。



時間にゆとりがある方は
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第一章(闇から光明の世界へ)

はじめに

私の一生を、誕生から終焉を迎えるまでの心の有りようを軸に据え、生命と身体、心と脳の働き、それに宇宙とは・・・等を絡ませながら随筆として構成しました。

「宇宙」、「心」、そして「脳」、何れも未解明の分野でありますが、著者の推察と読者のイマジネーションとで、「限られた命」と、「永遠の宇宙」のなかを歩んでいる自分自身を、今一度見直せたら幸いだと思います。


第一章(闇から光明の世界へ)

カオスの闇は、長い時空の中でひっそりとした揺らぎに包まれていた、
そこで何故ビッグバンが起きるのか、そしてその後、瞬時に広大な、無限ともいえる宇宙の広がりを造り上げてしまうのか…
いつも宇宙の事「宇宙の設計図」を考えると理解できない嬉しさでワクワクしてしまう。

命も又、神秘の闇の中で育まれ揺らぎ漂うもの、「誰かの仕業?」あるいはDNAの螺旋に組み込まれた、父親や母親の胎内に潜んで居るのだろうか。
宇宙にしても胎内にしても、私達の理解を超えた仕組みによって、「命」のベルトコンベアは動き始める、未来から過去へ、あるいは反転し過去から未来へと無限に動き続けているように思う。

命のベルトコンベアの揺らぎの上に、今又一つの「生命」が出現しようとしている。
幾千幾万の精子が、ここでは弱者を排斥こそしないが全力疾走で卵子に向かい突進し、飛び込んでいく、
精子を受容した卵子は、核分裂に似た火の玉の様な輝きと共に、一瞬の内に殻を閉ざし、中で細胞の融合を始める。

このようにして、命のベルトコンベアの上に「生命」が誕生するさまは、あの世の世界(虚数の時間)からこの世の世界(実数の時間)が始まると言う意味で、宇宙の始まり(ビッグバン)にとてもよく似ている。

「命」はあの世からこの世に、DNAの螺旋設計図を組み合わせながら、
40億年前の生物の誕生から現在までの進化の過程を、僅か10ヶ月と10日で駆け抜けながら、母親の胎内(羊水の中)で育成され、地球上に新たな生命(嬰児)として出現してくる。

母の胎内を宇宙船にたとえれば、宇宙で育てられ地球にやってきた「人間」と思ってみてはどうでしょう、アフリカも日本も中東諸国もアメリカもアジアも、世界中の子供達は宇宙創成140億年の彼方から送り込まれた「命」そのものかも知れません、
男も、女も、肌の色が違っても、同じ生命ととらえられれば、見た目は違っても、それぞれを個性として認め、認識されるならば、「力の暴力」や戦争による殺戮、その根源に潜む「差別」と言う概念をなくす事が出来るかもしれません。

「命」のベルトコンベアは宇宙と同じように永遠のときを刻み流れている、私達の「命」はねじ時計の様にチクタク秒を刻みながら、「命」のベルトコンベアの上を誕生から終焉に向かって歩いています。

例えばベルトコンベアの上に私の誕生した「生命のねじ時計」が在ると想像してください、私の周囲には働き者の父や頑張り屋の母、そして口やかましい近所のおばさん、そして色々な全ての人達が同じように「生命のねじ時計」でチクタク秒を刻みながらベルトコンベアの上で生活し、歩き続けています。

ある時、永遠のときを刻み流れている「命」のベルトコンベアに、「誰の仕業」かワカラナイ(私達の理解を超えた自然の真理)によって突然遮断機が降りてきて、
私をベルトコンベアからはじき落としてしまいます、或いは口やかましい?近所のおばさんは、生命のねじ時計が突然止まってこれ以上歩けなくなり、ベルトコンベアの後ろの端からカオスの闇へ落ち込んでいきます。
これが「死」、なのかもしれません。

「死」をこの世(実数)からあの世(虚数の世界)へ転進する事ではないかと考えると、宇宙創成の時と同じように、「死」も誰の手によるものかワカラナイ設計図(私達の理解を超えた自然の真理)のなせる業なのかも知れません。
自らの頭上に「命」の遮断機が降り注いで来る日や、「生命のねじ時計」が突然止まる日は、今日かも知れず、明日かもしれない。と、言う覚悟を、「心」に置いて今を生きる事がとても大切なのではないだろうか。

過去を振り返って悔やんでばかりいたり、この先如何なるこうなる悩んでばかりいて足踏みするより、今の自分が心に決めた大切な事に向かって一歩一歩「命」のベルトコンベアを踏みしめ歩み続ける事が重要で、
「命」のベルトコンベアから落ちてからあれこれ言っても始まりません。

昔から言われている「生きている内が華よ」の例えを心に刻んで、
「今」を歩いて行きましょう。

ただ一つ気になることは、
今も人間は、戦争の中に居る、世界のどこかで「武器による殺戮」が行われ、一見平和そうな世界のどこかでも、強いものが弱いものを排斥したり死に追い込んだり、「力の暴力」が平然と行使されている、
もしかしたら、これも「宇宙の設計図」に描かれている事であろうか、殺戮の設計図を書き直せる「人間」は居ないのだろうか。

つづく

「生命」の誕生

満天の星空の中を命の流れ星が1つ地上に…
私の小さな命は、福岡県の西南端に位置する炭鉱の町(大牟田市、荒尾市)を見下ろす山村の、古びた民家の中に居た。

産婆は、取り上げても声を出さない私を両手で掴み、天地に向かって「グルン」と一回転させた、泣き声とともにこの世に誕生した私の生命と身体である。
おぼろげな闇の中で「カチッ」という幽かな音と光を合図に、命のねじ時計は動き始めた、同時に「心」と乳白色の「脳」も記憶のヒダを刻み始める。

これより先は、一見消え去ったと思われている遠い過去の「記憶のヒダ」を、トレースしながら話を進めて行こうと思う。

昭和22年2月11日 日本中が貧しく食べる物も少ない時代でした。

朽ち果てた裏木戸を押し開くと薄暗い雑木林に囲まれた石造りの井戸が在る、側で祖母が洗い物をして居る、天からは粉雪がちらほら舞い降りていた。

生まれたばかりなのに、私の「命のねじ時計」は、今にもコトッと止まりそうな一夜を迎えていた。
母は乳を含ませ飲ませようとするが、ことごとく吐き出してしまう私は、泣く力も失せ布団の上で目を閉じたまま、小さな身体でかすかな息づかいを続けている、
蝋燭の赤黄色い小さい炎に照らされながら、私の顔を覗き込む祖母の顔や、差し伸べる手の深い皴が、不安な気分を滲ませていた、
祖母はいつ途絶えるか判らない私の吐息を見つめながら
「明日まで持つかのぉ…」と、呟いた。

翌朝母は私を抱いて、4kmほどの山道を駆けるように大牟田市立病院へと下りて行った。
母の母乳は医療検査器の中で、乳と水分が溶け合わずサラサラと分離している、
気丈な母は、栄養不良で自分が脚気に罹っていることすら知らなかった、
医師は告げた、「脚気の乳を赤子は飲まんよ、今後は粉ミルクを飲ませなさい」さらに告げた「この子の心臓は弁の締りが悪く血液が一部逆流している、
今は小さくて治療は出来ないが様子を見ておかしかったら又、つれてきなさい」
母は「脚気」子は「心臓弁膜症」
まさか母子共々そのような症病名をもらうとは思いもしなかったであろう。
母は小さな私を抱いて山道を足取り重く戻っていった。

昭和22年と言えば、皆が貧しく物資もなかなか入手できない時代に「粉ミルク」など有ろうはずがなかった、家に戻り祖母にも告げた。

祖母は産後の手伝いに佐賀県東与賀村(母の里)から米穀や野菜などを持ってバスとディーゼル列車、機関車と乗り継ぎながら大牟田まで来ていた。

つづく