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2017年12月25日

終末期、在宅介護の理想と現実

 終末期の在宅介護の現場は、決して理想の医療体制ではない。
 病院と違い、不測の事態が起こっても、看護婦も医者も、すぐにはやって来てくれない。24時間体制の対応はしているが、電話してくるまでに、20分から1時間はかかる。「ナースコール」のない医療現場は、やってみると想像以上に不安が多い。
 もっとも不安になるのは、高齢者自身だろう。もし同居の家族がいればいいが、独居であれば、20分、痛みと死の恐怖と不安に押しつぶされそうになりながら、1人で待っているしかない。これは救急車を呼ぶのと同じ事だろう。わざわざ時間をかけて契約し、日頃から定期的な診療を受け、準備万端整えていたつもりが、いざという時には、意外と思い通りにならないという現実に直面するだろう。
 
 私の経験を言えば、末期癌の親の終末期に、喉に痰が絡み、苦しんでいる様子を見かねて訪問看護ステーションに電話したところ、とりあえず来てはくれたし、吸引などの措置は執ってくれたのだが、しばらく後に、訪問看護のチーフから、「ちょっと調子が悪かったくらいであたふたするなら、ホスピスに入った方がいいのではないか」と言われた。
 在宅介護にした理由は、親の希望で、自宅での看取りをするためだった。
 そして訪問看護の看護婦は、二言目には「いつでも電話してください。遠慮しなくていいですよ」「何かあったらまずうちに電話してください」と言っていたので、ではしてみようかと思ってしたわけだ。しかしその結果がこれだった。
 
 確かに訪問看護の事業所は、たいていはそれほど大きくない組織だ。
 人材不足も慢性的だろう。終末期医療になると、定期的な訪問が増える。我が家も日中の訪問は毎日のことで、食事の世話、薬の世話、定期的な点滴、尿に管を入れ、排出された尿の確認と始末、褥瘡の世話、体位変換と、やることは多い。このステーションはヘルパーも派遣しているから、一日中その事業所の人と顔を合わせる。会わないのは夜だけだ。
 その夜も対応可能なようにホットラインを教えてもらっている。
 だが、これは看護チームのチーフの携帯で、そこに連絡すると、私の家からもっとも近い場所に住んでいる看護婦が飛んでくるというもので、皆日中めいっぱい働いた上で、ようやく家族と過ごす時間を、このナースコールで奪い取る格好になる。
 
 もう一回、親が眠ったまま全く反応しなくなったときがある。正直、いよいよだと思った。
 ちょうどヘルパーが来ていて、看護婦に電話しようとしたら、朝早かったために「看護婦はまだ事務所に来ていませんから」と言われた。ホットラインがあるのだが、「私が自分の方の上司かけます」と言ってくれた。毎日のように家に来て、親だけでなく介護している家族のことまで気を配ってくれるヘルパーの言葉に、私は素直に従った。看護婦もこのヘルパーも、どうせ同じ事業所だからだ。
 すぐに上司が飛んできた。そして親の様子を見て、「看護婦に電話してください」と言った。
 まあこうなるだろうなと思いながら電話すると、「すぐにいきます」といわれて、程なく看護婦が到着した。
 このときは大事には至らなかった。使っていた医療麻薬が蓄積し、意識を失ってしまっただけで、しばらくしたら目を覚ました。
 しかしこの後、前述と同じ事を言われた「昏睡した様子を見ただけで、あたふたとするくらいなら、ホスピスに入れてはどうか」それから、「こういうときには直接看護婦に電話してください。ヘルパーを呼んでも仕方ありません」
 電話したのは私ではなくヘルパーだ。看護婦の事業所に人間だ。もしこの一連の事に落ち度があるとすれば、それは利用者ではなく、ヘルパーの方だろう。結果オーライと言うことで、私はそのヘルパーを責める気はなかったが、結局看護婦に怒られたのは私だった。
 しかし一時的とはいえ、昏睡した状態の親を見て、訪問看護婦を呼ばないとしたら、何のために訪問看護婦を雇っているのかわからない。24時間体制の事業所を選んだ意味がわからない。二言目には「あたふたするなら」というが、だいたい、あたふたするから看護婦と契約している。
 ではこの事業所は本当はうちの世話をしたくなかったのか。
 確かに終末期の医療は手間がかかる。在宅を担う事業所はその割に小規模だ。私が契約している事業所もそうで、慢性的な人員不足状態で、従って、我が家のためにめいっぱいの人材と時間を割いているのは、見ていればわかる。これ以上できないと言われれば、納得もするし、その上での提案なら、ホスピスもやむなしと思う。まだ親が元気な頃から、健康管理と生活支援をしてきてくれた事業所だ。少なくとも終末期の一歩手前までは完璧にしてくれていた。それを思えば、文句を言う気はなかった。
 「もううちでは無理です」と言われれば、頭を下げお礼を言い、ホスピスとの連絡を最期の仕事としただろう。(ちなみに、もしもの場合を想定して、ホスピスは紹介してもらっていた)
 ところが、この事業所のチーフはそうは言わない。
 今までにも何度か、ホスピスを検討したことがあった。我が家は子供が親と同居できない事情がある。親が1人でトイレに行けなくなったとき、これはもう無理かなと思った。ホスピスならナースコールがある。紹介されていたホスピスはいい施設だったし、家族の面会はいつでもOKで、泊まり込んで一緒に生活することもできる。正直、独居で在宅介護を続けるより、親本人も子供も負担が減る。
 しかし老人はどうしても家にいたいとこだわる。その希望を思うと、子供は「まだなんとかできるんじゃないか」と無理をしてしまう。だがそのしわ寄せは、契約している事業所への過剰な期待につながる。
 だがこの事業所は「お任せください」と胸を叩いた。終末期医療の経験豊富な事業所で、こちらがすがると、むしろそれを喜ぶように「心配はいりません」と言ったのだ。それを真に受けてしまった私達がバカだったのだろうか。「あたふたするなら。。。」と言う言葉の裏には「終末期医療を在宅でするって言うのはこういうこと。覚悟できないならやらなければいいのに」という台詞が透けて見える。確かにそうだろう。しかし終末期医療など、一生のうちにそう何度も経験できるものではない。我が家では全員が初めての経験だった。

 医者からもう1週間程度かもしれないと言われた頃。親の状況は日々変化し、最期の時へと階段を下っているのがわかる。予期せぬ事が起こることが多い。実際目が覚めていれば全身の痛みを訴え、眠っているときだけが痛みから解放されている状態だ。痛み止めを飲んで痛みを軽減して、身体を動かしたり、家族との時間を過ごしたりする時は既に過ぎている。痛み止めを飲んで痛みが止まるのではない。痛み止めを飲むと寝てしまうから痛みから逃れられるのだ。
 わずかな水を飲むことも苦しくなっている。食事は誤嚥の危険と裏腹になり、そもそも味覚障害があるので、何を食べてもまずく、本人も欲しがらなくなった。医師は食べている量が極端に少ないのを確認し、もはや無理をして食事をしなくて良いと言った。欲しいものを欲しいときに、欲しいだけ食べるように。食はあくまでも本人の楽しみとしてならよいが、治療のため、身体を維持するための食事なら、無理はしなくて良いと言う事だった。
 ようやく食べたくもないものを、「薬と思って」と言われて食べさせられる生活から、親は解放されることになった。看護婦やヘルパーが、さじを口元に運ぶたびに、眉をひそめ、いかにもまずそうに、我慢して食べ続けていた親の様子が浮かんだ。ようやく親は1つの苦役から解放されるのだと思った。
 しかし看護婦はそれをよしとせず、やはり食事は続いた。
 看護婦が勧めれば親は食べる。我慢して口を開ける。そもそも私の親はそういう人だ。それがまだ先があるなら、我慢して食べても良いが、もう先がないとわかっているなら、どうして無理をして食べさせるのかわからなかった。医師の許可が下りたのに、どうして食べさせるのか尋ねたが、明確な答えは返ってこない。
 
 親は、尿が出なくなり、点滴をしていた。
 痛みの酷い晩が幾晩か過ぎて、一晩中身体をさする生活が続いた後、私は医師に尋ねてみた。点滴のメリットとデメリットについてだ。
 医師は丁寧に答えてくれて、点滴による延命をやめる選択肢があることを教えてくれた。「もうご家族は十分になさったのだから、どんな選択であっても決して間違ってはいない」と言ってくれた。「いつでも電話してください。我々は終末期の患者をずっと診てきましたから、ご相談に乗れます」医師はそう言って帰って行った。
 翌日、別の医師が来て、ほぼ同じ事を話してくれた。痛みを抑えるにはどうしたらいいかと質問すると、医療麻薬を増やすと言う方法を教えてくれた。ただこれ以上増えると、意識を失うことになるかもしれない。眠ったまま最期を迎えるかもしれない。それでも痛みからは解放される。
 それは1つの、そしてかなり魅力的な提案だった。
 私は家族と相談することにした。他の者がどんな考えを持つか、すりあわせて今後の治療を考えたかった。

 家族会議のために、一番遠くに住んでいた兄弟が駆けつけてくれることになり、医師への答えはそれまで待ってもらう事にした。しかしその兄弟が家にたどり着く前に、看護婦のチーフが飛んできた。
 チーフが私達の前で、滔々と語った事を、私はあまり良く憶えていない。
 それは、本当にまとまりがなく、論理性もない話だったからだ。ただ、言葉の羅列の向こうに、看護婦のフラストレーションが見えた。だが、どうやらその怒りの原因は、医者のようだった。自分の思い通りにならない医者が、自分の信じる治療方針と逆行する提案をしたことが許せないようだった。ましてやそれを私達が受け容れようとしていることが許せないようだった。
 要するにそれは看護婦のプライドを傷つけたと言う事らしい。
 原因は、私が看護婦にではなく、医師に相談したことだったらしい。
 ナースコールをして呼びつけたことに「あたふたするならホスピス」という台詞を言われたのは、このときだ。「私達の治療方針に従えないなら、ホスピスに」「医療麻薬を入れて寝かせるだけなら、在宅の意味はない」と言われた。「他にも待っている患者はいるので、」ともいわれた。
 もっと早い時期なら、その提案に乗ることもできた。ホスピスへの入院は視野に入れることができた。しかし親の命は後1週間なのだ。もはや寝返りも打てずに褥瘡を作っている親を、今救急車に乗せてホスピスに入れる気にはなれなかった。
 この事業所に、私達は親を人質の取られているのだと思った。
 私達が「ホスピス」という選択肢がとれないことを見透かしているのだと思った。私達は、頭を下げ、「あなたの言うとおりにしますから、どうかこのまま最期まで看護をお願いします」というしかなかった。

 在宅医療で看取りまでできる事業所は限られている。そして在宅医療の中心をなすのは、看護婦とヘルパーだ。私達は、その看護婦のチーフの言葉に従い、それまで使っていたヘルパーも、ケアマネも、その事業所所属に変更した過去があった。主治医も、親がずっと看てもらっていた近隣の医師から、そのチーフが懇意にしていた。現在の訪問医療の組織に変更した。
 だから、この状況で、チーフの要求を相談する相手がいなかった。ケアマネでさえ、彼女の部下なのだ。
 終末期医療で、医者はそれほど大きな役割を持っていない。行うのは緩和ケアだけだからだ。確かに医師の指示で看護婦は動くが、私の家の場合、常に看護婦のチーフが、自分の考えに沿って治療方針を提案し、医者はそれを受け容れ、必要な薬の処方などを行っていた。彼女が主治医を変えさせたのは、そのためだ。彼女の治療方針の実現のために、気持ちよく協力してくれる医師を紹介したのだ。
 
 今まではそれでうまくいっていると思っていた。
 確かにその事業所はよく働いてくれたし、これほどの看護をしてくれるところは多くないと私達も思っていた。この最期の1週間になるまで、私達はそのチーフと、その事業所に絶対の信頼を寄せていた。その結果がこれなのか、と思ったとき、頭がくらくらした。
 
 まだ親が癌に冒されているとわかる前、それでも高齢だったことで、看護婦のチーフと終末期の話をしたことがあった。家族がどのような看護を求めているのか、知っておくことが必要だからと言うことだった。かなり長い時間をかけて話し合ったが、私にはどうしても、救急車を呼ばずに、自然に逝かせると言う看護方針が納得できなかった。老人は生への執着が強いものだ。私の親は特にそういう人だった。それが救急車も呼ばずに死を迎えさせたら、後で化けて出られそうな気がした。
 そこで我が家は、フルサポートを希望した。通常の介護体制はこのままに、もしもの時には救急車を呼ぶと言う事だ。医師は、その提案を受け容れてくれた。もちろん訪問医療の根幹は家での看取りだから、本意ではなかっただろうと思う。しかし患者と家族の要望は絶対だった。
 看護婦のチーフはあからさまに不快感を顔に出したが、そのときは応じてくれた。
 その後親は末期癌とわかり、日々病状が悪化した。在宅医療には限界が有り、どうしても無理になる場合がある。そのときの受け皿としてホスピスを紹介された。その頃にはようやく私も看取りの問題について実感を持てるようになり、在宅で、自然な死を迎えさせる意味を受け容れるようになっていた。実際親は入院させても直ることなはい。しかし末期の患者は、一度入院したら家には戻れない。親の希望が在宅の死であったこともあり、救急車を呼ばず、在宅で、自然な死を迎えると言う方針は、そのときようやく、胸に落ちてきた。
 そして始まった終末期医療だった。
 途中、「あなたの事業所にすべてお願いしたいと思っているのだ」と言ったとき、看護婦チーフは本当に嬉しそうな顔をしていた。そしてどんと胸を叩いて受け容れた。
 
 過去に起こったことが走馬燈のように頭を巡っていた。
 私は何を信じていたのだろうか。
 かつて私が、チーフの方針に逆らったとき、既にチーフは私を切り捨てていたのだろう。
 確かにこのチーフはあまり私と話したがらなかった。家族がそれぞれ別々に連絡されると混乱するから窓口を決めてくれと言われた。なんとなくその窓口を、私は他の兄弟に頼んだ。それでも私は、看護婦の誠意を漠然と信じていた。人間は好き嫌いがある。しかし私は、彼女と彼女のチームの看護の実力は信じていた。信頼していた。そこに揺らぎはなかった。意見の相違は悪ではない。人としての好き嫌いと評価は別だ。私はそのチーフが好きではなかったが、だがそれを超えて信頼はしていた。
 そして私は、看護婦の職業的倫理を信じていた。それが幻想である可能性を、あまり考えていなかった。
 
 有り体に言えば、チーフにとって、目の上のたんこぶである私が、彼女を飛び越えて、医師に相談して、治療方針を決めようとしたことが、かんに障ったと言う事だったのだろう。
 もう一つ言えば、我が家の医師は2人いて、1人はチーフと懇意だったが、もう1人はそれほどでもなかった。と言うよりチーフはその医師を嫌っていた。私はその医師にも相談していた。なぜなら、私はその意志を信頼していたからだ。癌が発覚した頃から、一番長く親のことを見てくれた医師だ。心療内科医でもあるその医師は、いつも温厚で、こちらが少々興奮していても、平静と対応してくれる人で、いつも丁寧に診療してくれたし、家族が悩んでいた親への癌告知も、とても上手にしてくれた。それで私は、その医師のことは、結構気に入っていた。

 私が治療方針に疑問を持っても、チーフは私と話そうとせず、質問できる状況ではなかった。そもそも細やかな説明ができるタイプの人ではなかった。家族に対して看護の要点を指示するときも、細かい理由説明はなかった。そして親の症状が日々変わる中で、指示も日々めまぐるしく変わった。昨日とは全く逆の指示が来る事も良くあった。だがその理由は言われない。素人の私は混乱した。
 このチーフは、何か相談したくても、できる相手ではないと、私は無意識にかぎ分けていた。後で気づいたのは、このチーフは利用者家族に対して、人によって態度を変えていたことだ。連絡役だった兄弟にはもっと丁寧で丁重な扱いをし、私は悪者に仕立て上げた。私達は交代で親の家に泊まり込んで看病していたのだが、たまたま親の体調変化が私の担当日に多かった。そのたびにチーフは、それを私のせいだと、暗に、もしくは冗談めかして、時には医師の前ではっきりと言った。確かにそうだったかもしれない。意図的でなく、直接的でなくても、看病のやり方が悪かったかもしれない。だが、素人の家族なら、当然の失敗でもあった。
 
 そのことで、家族が私を責めることはなかった。怖い目に遭わせてかわいそうだったねえと慰めてくれた。私は自分が決定的な失敗をしたとは思っていなかった。だが看護婦のチーフは、常に私が、治療を台無しにしているかのごとく振る舞っていた。
 チーフは、遠方にいてなかなか看病にこれない兄弟のことを評して、「あの人は家族とは思っていません。プラスアルファーです。看護の主体はあなたたち(直接看護を交代でしていた私と、もう1人の兄弟)です。あなたたちが治療方針は決めて良いのです」
 私はそう言われたとき黙っていた。私は一度も遠方にいる兄弟をプラスアルファーと思った事は無かった。彼は看護に参加できなかった。しかし看護の資金をすべて出していてくれた。私達は、親の看護のために、それなりの資金を必要としていた。介護保険と後期高齢者医療制度のおかげで、在宅の介護は、かなり支出抑えられるが、それでもただではない。私費でのヘルパーも頼んでいたから、それなりの額はかかる。遠方にいた私の兄弟は、何も言わずそれを支えてくれていた。 
 そのチーフがしていたことは、家族の分断だったようだ。家族がスクラムを組むと扱いにくくなる。分断し五月蠅いことを言う家族は排除し、比較的従順な家族を代表とし、その1人に対応して、思うように事を進めた方が便利だと思っていたのかもしれない。
 
 たった一つの事業所に、すべての介護をゆだねることは、ヘルパーと看護婦、ケアマネの連携が密になり、スムーズに進む面があった。家族が、事業所と事業所の橋渡し役になる必要がなかった。
 今まではそうだった。うまいやり方だと思っていた。
 だがここへ来て、その体制は家族にとって、文句一つ言えないやり方だとわかった。

 病院での看取りに不満を持つ人はいるだろう。この病院は患者の希望を聞いてくれない。家族の気持ちに配慮してくれないと思った人はいるだろう。だからこそ、在宅介護、在宅医療が叫ばれている。もっと人間らしい、患者と家族が、自分達らしい生活を保ち、患者の最期を皆で看取る。その理想を実現するのが在宅のはずだった。
 その代償としてのナースコールのない介護だったはずだ。そのための家族と患者の負担を飲むことが条件だったはずだ。だがその結果我が家が手にしたのは、病院のように硬直的で、理不尽で、独善的な治療方針の推移を黙って受け容れるしかない窮屈な現実と、病院ならば普通に提供されるナースコールを失った、不安を抱え込む医療だった。
 そして看護婦特有のフラストレーションのはけ口にさせられ、彼女たちのプライドを支える役回りだった。

 世間では看護婦は患者に寄り添い、独善的なのは医師と言うことになっている。医師は看護婦を馬鹿にし、看護婦はその理不尽に耐えながら、患者のすぐそばで、もっとも患者に近い距離を保ちながら、血の通った看護をする。在宅ならば、看護婦の血の通った介護を、病院の縛りなく自由に享受できると言うのが、お題目だったはずだ。
 現実は、私が困ったとき、静かに寄り添い、相談に乗ってくれたのは医師だった。
 看護婦は、自分に従わない医師を、頭ごなしに馬鹿にし、陰口をたたき、無視していた。

 在宅医療の理想はお題目に過ぎない。
 考えてみれば、かつかつの人員で、必死で回しているような小規模な事業所の看護婦やヘルパーに、心の余裕がなくても仕方がない。それが現代の日本の介護の現実だ。
 ナースコールのない介護とは、ほぼすべての責任と判断を患者と家族が担う介護で有り、今までは病院と言う組織(システム)が担ってくれていた医療における様々な負担を、そっくり全部患者と家族が背負わされる介護だ。確かに入院しているより自由度のある日常が送れるが、それもまだ患者が動けて、自分で生活を支えられる時期だけだ。寝たきりになり、終末期に入れば、自由は負担に取って代わり、人間らしい生活は、孤独と不安に取って代わられる。
 現実的には、そうなる前に、病院に入るべきだった。我が家の場合はホスピスだ。そこで制限された生活、しかしその分安心と常識を手に入れて、人のどろどろした感情に振り回され、家族を分断されるような理不尽から離れ、世に言うちょっとよそよそしくてシステマチックな、ドライな病院組織にひっそりと収まって、ただ親の事だけ考えて、最期の看取りをすれば良かったのだ。
 在宅でも病院でも、与えられる結果と治療は同じだった。
 特に我が家の場合選択肢はホスピスで会ったから、どっちにしろ緩和ケアだ。やることにそれほどの差はない。

 目が覚めれば痛みを訴える親の身体をさすりながら、静かな夜を過ごす日々が続いている。
 後一週間ぐらいだろうか。
 それとも点滴のおかげでもっと長くなるだろうか。
 点滴は延命に過ぎないそうだ。もう親は自然な形では尿が出ない。尿が出なくなると、2・3日程度で意識が混濁し、やがて眠ったようになくなるだろうと医師は言っていた。自然な死とはそのようなことが多いという。延命すればそれだけ身体の状態は悪くなる。浮腫が出た皮膚は、褥瘡ができやすくなったり、腹水がたまったり、様々な事が起こってくる可能性があるとも言われた。死を長引かせることは、さらにトラブルを誘い込むことになるのだろう。
 医師は、「もし私の家族なら点滴はしない」と言った。「けれど患者の場合は、ご家族が患者の死を受け容れる時間を作るために、点滴を入れることが多い」と言った。だから私が点滴をやめる可能性を尋ねたとき、その結果が自然な死であることを教えてくれた。
 在宅の緩和ケアは、この自然な死を目的にしているのではないだろうか。
 点滴を続けている親は、段々足先が紫色になってきている。足の先の方は固くなっており、逆に手や背中に浮腫が出てきている。それでも、時折痛みを訴えながらも、ひとさじ、ふたさじ、ジュースや食品を食べることもあり、それがおいしいときがあるとちょっと笑う。
 痛む足をさすりながら夜を過ごしているうちに、さすっている子供の方が寝落ちしてしまったとき、その子供の手をそっと触れてきた。兄弟は頭に触れられたらしい。とんとんと軽く叩いた様子は「あんた、眠いならもう休みなさい」と言っているようだった。その瞬間は親の顔を見せたのだ。
 痴呆がまったくなく、ほとんど聞こえない声でつぶやくときも、良く聞けば、たいてい意味のあることを言っている。とんちんかんな発言はほとんどなく、たいした物だと感心する。
 このような状態だと、延命を止める事を躊躇する気持ちもある。
 時々、痛み以外のこともしゃべったりすると、眠らせてしまうことも躊躇する。
 遠方の兄弟は、正月休みに帰ってくる。電話で話すと、はっきりとは言わないが、もう一度会って、時間を過ごしたいと願う気持ちがにじみ出ていた。

 家族のこうした事情で、延命し、痛みを我慢させるならまだ納得がいく。
 つらいという親に、「○○が帰ってくるから頑張って」と言う事ができる。

システムが構築され、どこかよそよそしく感じる病院という場において、患者の中には、孤独を感じ、不安を感じる人がいるのはわかる。患者とその家族は、そこでもっと違う医療を求める。その一つの理想が、医療従事者があたかも家族のように身近な存在であることかもしれない。おそらく私が経験した在宅医療の体制では、看護婦やヘルパーは、あたかも私の親を自分の親のように接し、世話してくれたと思う。ただその姿勢は、親の死の時期が近づくにつれ、テンションが上がり、その結果ここで宣べたような齟齬が生じたようだ。さらに医療従事者のテンションの高さは、実は患者の家族にとっては疎外感を感じさせる場合もある。医療従事者が家族になってしまうと、普通の家族はそれ以上に家族らしいことが出来なくなる。
 そこにおける家族の孤独。そしてその中にある親自身が、別に看護婦のことを家族だと思っていたわけではなく、結果として、親と家族は一時的に分断されることになっている。
 夜になって、親と子供達だけの時間になると、ほとんど話さない、寝ているだけの親だが、それでも時間と一緒に親の生命の何かが子供達と共有され、医学や看護学で説明されることのない情報が共有され、子供は親の命に短さを感じるようになる。親が何を思っているかはわからないが、痛み止めの医療麻薬のせいでハイになった親は、幻影を見て言葉を発したりすると、それが結構おかしかったりして、たぶんそのことは一生忘れないだろう。
 
 ただ、こうした親子のつながりなら、別に在宅でなくても得られる方法はある。
 選択肢は無数にあるわけではないが、少しはある。
 病院より在宅が人間的とか、家族の手で看取ることが本当の幸せとか、あまり画一的な考え方はしない方がいいと思う。
 

2017年10月02日

夫婦修復カウンセラー オフィスベル 平成になっても自虐を求められる日本の妻

 先日別件でネットサーフィンしていたら、「夫婦修復カウンセラー  オフィスベル」の鈴木あけみ と言う人の記事を見た。夫婦修復カウンセラーとして、ネット上で相談者への回答を読んでとても驚いた。
 平成も20年近く過ぎようという現代で、夫婦関係の修復を、ただただ妻の自虐的な我慢によって成立させようとしていたからだ。

 夫婦の離婚カウンセラーは古くから多くあった。
 少々行き過ぎ(ともかく離婚させようとする)面は感じられるときもあったが、実際に離婚しようと思う人には現実的なアドバイスはあったと思う。
 あえて「夫婦修復カウンセラー」と銘打つのだから、「夫婦関係を修復したい」人の駆け込み寺と言う事なのだろう。でもそういう人たちは何を求めているんだろうか。少なくとも、このカウンセラーの発言を見る限り、ここに来る人たちは「怒られたい」願望があるんだろうと思った。「厳しく叱って」くれると嬉しいという奴だ。叱ってくれることが愛情と勘違いしてしまうタイプだ。
 このカウンセラーが良く例に出す妻の例は「プチモンスター妻」「モンスター妻」だが、それはしょっちゅう実家に帰り、家事を放棄、夫を無視する、典型的なわがまま妻だ。もしこんな人が本当にいるなら、おそらく今まで(育った環境で)そのわがままを誰からも指摘されず、甘やかされてきたことになる。だから初めて叱られて、そこに愛情を感じてしまうのかもしれない。
 でもこういう人(が本当にいるのなら)に必要なのは、夫婦修復カウンセラーではなく、単なるカウンセラーだ。親から誤ったメッセージを受け取り続けてしまった人の、間違った理解を是正しなければならない。
 

 カウンセリングを受ける女性は、「夫の浮気」「性格の不一致」「夫が夫側の実家を重視するあまり、妻の不満に無頓着である」「育児を手伝わない」「会話がない」などの問題を抱えている。中には夫から離婚を切り出され、致し方なく別居し、悶々とした日々を送っている人もいる。

 しかしカウンセリングの内容はおしなべて、妻の問題を指摘し、妻から許す事を強要している。しかも話し合いはせず、一方的な謝罪と、我慢、ひたすら行動で謝意を示す、というもの。
 確かに、気持ちが高ぶっているときに話し合いをしても意味はないかもしれない。だからこそ一定の冷却期間は必要だろう。だが、自分の怒りを隠してする謝罪には、気持ちの冷却以外の効果は無い。冷却したら、ちゃんと正直に気持ちを出し合わないと、何も発展しない。

 夫婦関係は対等であると同時に、大人の関係でもある。
 他人の気持ちは完全にはわからない。夫は自分の行動が社会的に間違っていると言う事はわかっていても、妻が怒っていることはわかっていても、妻がどれだけ苦しんでいるかは、わかっていない時が意外と多い。
 そして妻がどれだけ苦しんできたかを知ることで、自分の犯した過ちの大きさを理解することも多い。

 それから、このカウンセリングでは勘違いしているようだが、「一方的に許す」「黙って許す」という行為は、あくまでも、上から目線の行為だ。決して対等な相手に対してする行為ではない。
 そして、このカウンセラーの言う「プチモンスター妻」「モンスター妻」は、おそらく多くの許しを親から受けてきたはずだ。そして、許しと言う事に対する間違ったメッセージを受け取り続けた結果、モンスターになってしまったと思える。このカウンセラーは、その相手にまた「許し」を強要するのか?

 このカウンセリングの例にもあったのだが、夫の間違いに対して、子供が過ちを犯したときのように許すべきだというアドバイスがあったのだ、それは根本的に間違っている。
 子供は親が保護する対象で有り、一定の年齢までは指導し、育てる対象である。だからこそ許しと言う形が成立するのであって、それは上から目線の感情が働いている。一人の人間の行動を許せるのは、その人間より高い位置に立っている存在である。(例えば神とか)
 夫婦の場合立場は対等。ならば一方的な許しなどあり得ない。夫が妻を神様のような存在にし、一方的な許しを得ることで悦に入って喜んでいる。そして妻も、そういう許しを与えることで悦に入っている。と言う夫婦関係が成立しているなら、それはそれでいいんだろうが、それほど多いケースではないだろう。
 夫が妻にとって不愉快な行為を働いたら、完全な許しなどあり得ない。これは浮気など決定的な問題なら当然だが、もっと細かいことでもある。言動、行動、配慮のなさ。夫婦関係では互いに腹を立てることはたくさんある。夫婦に対立はつきものだ。
 しかしちょっと引いて考えたとき、夫婦は運命共同体で有り、生きていくための重要な補完関係にある。と思えば、では互いの他にその重要な役割を果たしてくれる人が他にいるのかという事を考えてみる。多くの夫婦にとって、この重要な役割はお互いしかいない。となれば、この重要性を鑑みて、後は細かいところはどこまで目をつぶるかである。お互い様と思って。ま、これくらいはいいだろうと鷹揚に考えるわけである。
 これは一定の信頼関係と、一定のあきらめの感情だ。
 人間関係では良くある選択だろう。親子関係でも、友人関係でもそうだ。
 ほとんどの人がベストな選択は出来ないが、ベターな選択をする。多少の我慢によって、より良い人間関係が出来るなら、そちらを選ぶ。
 善悪は、本当は関係ない。自分にとって何がもっとも得になるかをよく考えて選択しているだけだ。
 多くの場合、他人との信頼関係、特に身近な見方との信頼関係をきちんと構築した方が、人生は生きやすい。そのために我慢すべき事があると思ったら我慢する。しかしその我慢が、信頼関係を引き替えにしても容認できないなら、信頼関係をリセットして、我慢しない。
 それだけのことである。

 後は賢い選択が出来るように、日頃からよく考えることだ。

 女性が一方的に我慢しても何も正解は得られない。それは相手の男性に間違ったメッセージを送るだけである。
 女性は、自分がどこまで我慢し、どこは譲らないか、それをきちんと自覚すべきである。その判断に則って、夫に対して意志を冷静に伝えるべきだ。何もしょっちゅう言葉にして伝えなくてもいい。一緒に暮らしているとこうした意志はにじみ出る。夫はその範囲で悪さもするかもしれないが、ここを外すと妻の逆鱗に触れるとわかっていれば、たいていはやらない。(そこをやる奴はバカ)
 もし夫が我慢できない悪さをしたら、それは夫が妻のことを「どうせ許してくれる」と高をくくっているからである。それはいいかえれば、妻を対等の女性、パートナーとして認めていないからである。(もしくは他人との間のきちんとした人間関係を作る能力が無いか)
 
 妻はここで冷静に考えるべきだ。

 自分はどこまでを我慢し、どこまでを譲らないと言う事を、今まできちんと考えてきたか。
 それを適切に夫に伝えて来たか。
 そして現状は、これからの将来を鑑みて、我慢する価値があるか。

 自分本位で良いと思う。多くの場合、そこには子供の将来も含まれるだろう。そして、我慢の必要を感じないなら、離婚すればいい。。
 但し、経済的、社会的に離婚はリスクが大きいので、するならきちんと準備すべきだろう。

 最近、ある集まりで出会った若い女性に、結婚について質問された。
 彼女は一度結婚したが、主に夫の実家との関係がうまくいかず、離婚した。夫の実家は家族で企業を経営をしており、夫は長男、従って彼女は、結婚直後から全くやったことのない業種の会社で働くことになった。理不尽な扱いを受けたと言うほどではないようだが、それでも困ったこと、戸惑ったこと、おかしいと思うことはたくさんあったようだ。当然親とも同居である。
 こうした中で、夫は常に親のいいなりで、妻である彼女をかばうことはなかった。夫としては特に不満は無いが、味方になってくれない夫と、夫の家族との生活は数年で我慢出来なくなったそうだ。

 離婚を経験し、これからもう一度結婚しようと思うが、しかし相手の選定には迷うという。いっそ家族のいない人の方がいいかもとも思ったそうだ。

 私が答えたのは、「まず仕事をしっかり得て、自立すること。自分と将来生まれる子供が、自分の収入だけで自立できる程度の仕事を得ること。そして結婚後もその仕事を続けること。そうすれば嫌になったらいつでも離婚できる。そう腹をくくったら、後はよさげと思う人がいたら結婚すればいい。血縁がないとかそういう条件はつけなくていい」
 ということだ。
 家族がいなければ面倒がなくてうまくいく、と考えるのは間違いだと思う。高齢者であれば家族がいなくても不思議はないが、若い人で家族がいないというのはそれなりに稀なケースだから、そこにはそれなりの問題もあり、その部分を理解できないと結婚は難しい。
 ○○であればうまくいくはず、というのは、結婚に関しては「そんなに甘いもんじゃない」と思う。

 むしろ、いつでも離婚できるという保険をかけることで、返って楽な気持ちで結婚できるだろう。
 後は、夫が好きだから、将来を一緒に過ごしたいから、という人間的な気持ちだけを優先できる。子供のためでも生活のためでもない、互いの気持ちだけでつながろうとする気持ちが生まれる。となれば、当然だが努力しなければ関係は崩れてしまう。互いの信頼を失うようなことをしたら、結婚は維持できない。(子供も経済問題も鎹にならないのだから)
 人間関係に重要なのは、互いの努力。一方的な努力ではない。

 この時代に、妻だけが一方的に我慢しても、夫婦関係の修復にはならない。我慢は見返りがなければ継続できない(誰でもそう思うだろうけど)
 夫が妻に我慢させている自覚があって、ちゃんとその分お返しできる人なら、妻は自然と我慢してくれる。どんなことを我慢できるか、妻はちゃんと夫に伝えておくといい。夫の側も、我慢したくないことを妻に伝えておくといい。そうすれば互いに「これは我慢しない」「ではこれは我慢しよう」という譲り合いで、うまく生活がかみ合ってくる。
 互いに対等と思えば、責任感も生まれる。
 許すというのは、ともかく上から目線であると言うことは忘れない方がいい。許された嬉しいのは、実は子供だけである。もしくは無責任な人間である。
 許されて嬉しい時には、その分の報いを期待されているのである。そう思ったら「許してもらって嬉しい」では済まされない。「こんなに良くしてくれるんだから、私も良くしてあげなければ」と思えれば夫婦関係はうまくいく。「こんなにしてあげたのに何も返さない」と思えばうまくいかなくなる。何も返せないと思うことで許されたら、返って怖くなる。その期待に応えられないからだ。結果として相手の気持ちが重くなる。それはやがて夫婦関係に溝を作る。
 許すという行為が存在する限り、許す側は報酬を期待するし、「お互い様」でかみ合っているときはいいが、一度食い違うと、苦渋以外の何物でも無くなってしまう。
 許しが全く必要ないと言う気はないが、すべての免罪符のように語るのは、あやまりだ。
 それに、「モンスター妻」達の根本は、「許し」というものが、「無償の許し」であり、「自分は無償の許しを無条件で得られる存在」と勘違いしたところにある。「許し」にはそれに見合った「返礼」が必要で有り、それを返さなければもうもらえないことを知っていれば、自分が返せないような「許し」は欲しがらなくなる。一人前の大人になったら、基本的に「許されること」はない。自分が行った行為に対して、その返礼として「許し」が来るだけだ。
 悪い事をしたら怒られる。足りないことは文句を言われる。だけどともかく頑張ってるなら、おおらかな気持ちでちょっと「あきらめてもらえる」良いことをすれば「お礼」がくる。これが人間関係の基本だ。
 それから親子関係の無償の許しだが、本当はこれも無償ではない。
 親は子供が可愛いから許す。それは行為が可愛いのではなく、存在が可愛いからだ。だから親はまた、「許し」に対する返礼は受けている。子供という存在そのものが常に「返礼」である。だから無償の許しなど、この夜には存在しない。
 もしまともな男性なら、「モンスター妻」も嫌いだろうが、意味なく無償の許しを連発する女性など、もっと気持ち悪いと思うだろう。


 許し よりは、あきらめ の方が現実的だろう。
 あきらめによって追求がそがれたと感じれば、夫はそのあきらめが怒りに変貌しないように、自粛する。
 (それができない夫は、我慢してまで一緒にいる価値があるだろうか)
 あきらめという名の優しさが伝わると、きわめて人間くさい形で、夫婦関係は一歩進む。
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2017年09月10日

咳喘息と気管支喘息 医者の誤診

 咳喘息という言葉が一般的になって、ようやく医者の誤診にスポットが当たるようになったと思います。
 咳喘息と気管支喘息は、発作が起こっている時点ではほとんど同じ症状を呈しています。一般にわかりやすく言えば、咳喘息が、主に風邪を引いたときなどに、それを引き金に発作を起こす代わりに、風邪さえ引かなければ、空調の変調や季節の変わり目などに、空咳が続く程度(それも、水を飲んだり、のど飴をなめたりすれば収まる程度)の症状であることが割と多い事に対して、気管支喘息はもう少し日常的に軽度から重度の様々な発作が起こってきて、日常的な生活に支障が起こりやすいというもの。(これはあくまでも素人目から見たものですが)
 医者に言わせると、気管支喘息と咳喘息の違いは、聴診したときに喘鳴があり、酸素飽和度が以上であるのが気管支喘息。その2つが両方とも正常であるのが咳喘息 なのだそうです。
 
 ただ医者の診断がどうであれ、この2つの喘息の治療法は同じです。
 咳喘息であっても発作が起これば死ぬかと思うほど呼吸が苦しくなりますし、気管拡張剤はこのとき非常に効果があります。さらに、気管支の炎症は両方ともアレルギーによって引き起こされていますから、日常的にステロイドの吸引を行う事で、このアレルギーを治療することは効果があります。(必須と言っても良い)

 咳喘息が空咳程度で、酷い発作など伴わないような状況であるなら、アレルギーを抑える薬(多くはオノンやシンクレア)などを処方されることが多いでしょう。しかしこの2つには割と「下痢」という副作用が出るようで、(私も私の周りにいる幾人かも、皆下痢の副作用がででいます)そこで、アレルギーを抑えるために、この2つ以外の薬を処方される場合もあります。私の場合はアルジオンをの処方されています。この薬は花粉症の治療薬としての方が有名かもしれません。抗ヒスタミン剤の一種ですが、私はこれが効果があり、副作用も無かったので使っています。

 ただ、私の咳喘息は色々な理由から最近悪化の一途をたどっており、アルジオンだけでは収まらなくなり、シムビコートというステロイドと気管拡張剤の混合薬を使うようになりました。シムビコートは吸引によって、喉に直接吸い込むため、少量で効果があり、副作用の少ない薬です。確かに薬に副作用の出やすい体質である私でも、シムビコートは副作用が無く、しかし効果がありましたので、ある時期からは常用していました。

 一時期はそれで非常に良くコントールされていたのですが、私生活で色々と問題が起き、心身共に疲労が重なったある日、風邪を引いてしまいました。そして恐ろしい発作が起きたわけです。

 以前から咳風邪などを引きますと、発作状態になることがありましたが、年齢と共に、この発作の症状が酷くなっており、特に困るのは、発作に偏頭痛が伴うことが増えたことで、この偏頭痛が頭が割れるのではないかと思うほど酷いもので、また偏頭痛が起こるようなときには、その痛みが全身に響いてくることも増えてきて、それはもう死ぬ思いをしました。
 しかしそれでも咳が止まれば偏頭痛も止まり、身体の痛みも止まっていたのですが、それがあるときから、咳が止まっても偏頭痛が残るようになり、それが何時間も続くようになりました。
 この偏頭痛に見舞われると、頭が割れるような痛みがずきずきと続き、さらに光を見ると痛みが増すため、暗い部屋にこもることになります。さらに咳喘息の発作は、身体を横にすると誘発されるため、横になることが出来ず、さらに眠ると気管支の機能が落ちるため、それがまた咳を誘発するため、夜眠れず、横にも慣れず、うとうとした途端に咳で目が覚め、そして偏頭痛に襲われるという、まあ死ぬと言うより、自殺したくなるような苦しみを味わいました。

 さて、咳喘息が始まったのは、実は十年以上前のことです。風邪の時の咳が酷い、風邪が治っても咳がなかなか治らないというのが最初の症状でした。
 しかしどの医者に言ってもこの咳を治すことは出来ませんでした。
 咳止めが効かないからです。また、副作用が出やすい体質であるため、幾つかの咳止めは使う事もできません。漢方も試しましたが全く効果が無く、そのうち風邪が治ってしまいますと、咳も空咳だけとなり、それは水を飲んだり飴をなめれば治るので、結局自分でも面倒になり、医者に行かなくなります。
 こうして風邪を引くと悲惨な発作に襲われるでの、そのたびに医者に行きますが、「風邪ですから」と言う事で解決せず、そして風邪が治ると言うことを繰り返します。そして10数年の時間が過ぎていきます。
 あるとき、親戚の女性がうちの近所の漢方の医者に通うようになります。後に尋ねてみますと、その人は喘息だったようで、(咳喘息だったのかもしれません)私が通っていた漢方医(内科医ですが)に通って、咳の治療をしていたようなのです。彼女が訴えた症状は私とほとんど同じで、その漢方医は、彼女にシンクレアを処方し、せきを鎮める漢方(これは私も処方してもらったことがありました)を処方したようです。
 なぜこの女性にシンクレアを処方し、私にはしなかったのか不思議でした。まあ、シンクレアが副作用が出やすいと考えたのかもしれませんが、いずれにしても私の事を咳喘息と診断はしていませんでした。

 後になって、この医師がどうして私を咳喘息と診断しなかったのか、少なくとも喘息の治療をしなかったのか予想がつくことになります。

 数年後、私の咳喘息は段々悪化しておりました。私は他の病気で定期的に別の内科医にかかることになり、その医師に咳のことを話すと、すぐに咳喘息であろうという事になり、その診断をかねてシンクレアを処方されました。シンクレアは非常に良く効いて、とても良かったのですが、同時に下痢という副作用も起こります。長期にわたって服用する薬なので、少々困りまして、それ以外でも同じ効果のある薬を探すことにしました。
 私の場合は前述のように抗ヒスタミン剤のアルジオンに落ち着きました。
 その後、1年ほどは安定しましたが、私生活の変化からか、また悪化することになったのも前述の通りです。
 そして風邪をきっかけに今まで益軒したことのないような発作に襲われます。
 このときいつもかかっている内科医が土曜日で休みでした。なんとか看護師には連絡がつき、すぐに気管拡張の点滴か、吸引剤をもらうように支持されました。私が持っていたシムビコートも気管拡張効果はあるのですが、ごく弱いものであり、ステロイドが入っている事もあって、何度も吸引するには向いていないのです。
(1日4回までが通常の吸引回数です)もっと強い気管拡張剤を使う事が必要だと言うことでした。。
 そこでその時間にやっている、やや大きめの病院の内科医にかかりました。
 症状も使っている薬もすべて説明したところ、その医師は胸の音を聞き、酸素飽和度を見て、どちらも正常だと言いました。「気管拡張剤は必要ない」と言ったのです。私はもう一度症状を説明したところ「それは風邪だから」とクラリスという抗生剤を処方され、後は咳止めと痰切りを処方されました。「主治医からは気管拡張剤を出してもらうように言われている」とも言いましたが、「今見ているのは僕だから」と聞く耳を持ちません。「この症状では気管拡張剤はいらない。シムビコートも本当は必要ない」それがその医師の結論でした。
 そのとき私にもう少し喘息の知識があれば、即そこから立ち退き、救急へ駆け込むべきでした。
 しかしそれをせず、内科医を信じてしまったのです。

 土曜と日曜の夜。私は酷い発作で一睡も出来ず、酷い偏頭痛に悩まされ、家人は私の苦しみぶりになすすべもなくおろおろするばかり。くたくたに疲労したあげくに月曜日の朝に主治医の医院に行きました。
 喘息の経験のある方はわかると思いますが、喘息の発作はほとんど夜起こります。日中は収まることが多く、身体を動かすことが出来る場合も多いです。ですから医者には日中に行って治療してもらうのが良いわけですが、逆に言うと日中医者に診てもらうときには症状が治まっているわけです。そういう患者を診て、正しい判断の出来ない内科医は、意外に多いのでしょう。

 主治医は、症状を理解し、同情してくれました。
 すぐに胸の音を聴診して「ちゃんと喘鳴がでているじゃないの」といい、まずは気管拡張剤の点滴と、緊急時に使える気管拡張剤(吸引)さらには、気管拡張剤(経口)咳止め、痰切り、そしてシムビコート、さらにはアルジオンと薬を出してくれました。

 この治療でようやく私は喘息の発作は治めることが出来ました。偏頭痛はその後も続きましたので、またその薬ももらいました。当時軽い咳でも偏頭痛が起こっていたのですが、この薬を一度使ってからは、偏頭痛自体が抑えられてきました。

 しかし、一度大きな発作を起こしてしまうと、そこから元の体調に戻るのは大変で、1週間たって、既に風邪も治っているのに、胸の圧迫感が取れません。咳もずいぶん楽になりましたが止まってはいません。
 咳喘息はともかく咳をしないこと。咳を止めずにいたらいずれ気管支喘息に移行すると言いますが、そのことを実感してました。ともかく咳をしない、咳を止める。そのことが何よりも重要だとわかります。逆に言えば咳を止めなければこの病気はどんどん悪化します。

 それなのに、多くの内科医は、咳喘息という病気を見違え、正しい治療をしません。
 風邪薬を飲ませても、抗生剤を与えても、咳喘息の咳は止まりません。気管支の内部のアレルギー反応が元ですから、それを抑えなければ止まらないのです。さらに狭くなった気管支は発作を起こしやすく、その発作がさらに色々な症状を誘発します。ですから気管支を拡張して、息の通り道を確保し、咳を抑えるしかないのです。
 喘鳴を聞き漏らすなどもってのほかでしょうが、喘鳴があろうとなかろうと、酸素飽和度が多かろうと、発作が起こっているなら、まずそれを止めなければ、確実に悪化します。発作が起こっているなら、気管拡張剤を使うしかないのです。ともかく症状を止めるのが必須なのです。
 だいたい風邪が治って発作が止まるなら、どうして咳喘息の人は風邪が治っても咳が止まらないのでしょうか。それは咳喘息の発作は、風邪によって誘発されますが、それが原因ではないからです。

 咳喘息であるとわかったら、治療は気管支喘息と同じです。だとしたら、ステロイドの吸引と気管拡張は必須です。そのことを患者側が強く訴えなければならない、そういう不幸な状態が、多く見られる事を、私も今回知りましたし、非常に驚愕しています。

 今後も喘息はいつ発作が起こるかわかりません。
 主治医からも、近隣で救急対応できる病院を見つけておくことが必要だからと、探してくれています。
 特に咳喘息は、普段あまり症状が目立たない事がありますが、もしもの時の発作は相当につらく、また一度発作が起きればぐんと悪化します。軽く考えずにすぐに専門医に診てもらう方が良いのです。
 

2017年01月10日

次亜塩素酸水ってなあに?

次亜塩素酸水と次亜塩素酸ナトリウム

 ノロウイルスが流行する時期となり、我が家でも家族のひとりが感染しました。
 大人であれば、3日もあれば病気は治りますが、その後1週間から1ヶ月は、排便などにノロウイルスが生息しているといわれ、ここから他人への感染の危険が生まれます。
 感染を防ぐ最大の方法は手洗いですが、これに加えて、こまめな除菌も必要です。ノロウイルスはアルコール除菌が効かず、効果があるのは次亜塩素酸だけです。

<除菌の基本>
 
 排便の際、便器のふたを開けたまま流すと、実は目に見えない細かい便が広範囲に飛び散ってしまいます。そこで排便を流す際には、必ず蓋を閉める必要があります。それと一緒に、除菌をすると効果があると言われます。
また、排泄の際、汚れをトイレットペーパーでぬぐったとき、その手で触ったところも除菌の必要があります。水を流すタンクのコックや、トイレのドアのノブなどは代表的な場所です。家族も共用して使っているトイレであれば、こうした場所に触れることで、家族に感染してしまうからです。
 病院でのレクチャー及び、老人介護の看護婦から教えてもらった除菌の方法は以下の通りです。あとで説明する除菌液を、噴霧器などに入れて噴霧するか、もしくは紙や布にしみこませて拭きます。
 
@排便の際、流す前に便の上に噴霧器で振りかけ、蓋を閉めて流します。

Aトイレに流す水のタンクのコック、ウォシュレットのリモコン、トイレットペーパーホルダーなどに噴霧器で噴霧するか、紙か布にしみこませて拭きます。

B流し終わったことを確認したら、ふたを開けて、便座と蓋の裏側に漂白剤を噴霧、もしくはしみこませた紙か布で拭きます。

Cトイレを出るときには、ドアの開け閉めの時に触ったドアノブも、漂白剤で拭きます。

D次亜塩素酸の水溶液は、長く付着した場合、例えば金属であれば錆びてしまいますし、変色したり、独特の塩素臭を発したりします。それを防ぐために、必ず噴霧のあとは、紙か布で拭き取ります。


E消毒のために漂白剤をしみこませたり、噴霧した漂白剤を拭き取ったりした紙や布は、必ず使い捨てにします。このとき、紙や布はビニール袋に入れて、口をきっちり縛り、捨てるようにします。

Fこうした除菌作業をしたあとに、速やかに手をよく洗います。また、排便の際着ていた服は、空気中に待っているノロウイルスが付着している可能性があります。もし、食事の調理などをするときには、念のため着替えた方が良いでしょ う。

<病院で紹介される、次亜塩素酸ナトリウムとは>

 病院では、ノロウイルスの除菌として、次亜塩素酸ナトリウムを主成分とした漂白剤での除菌を言われるでしょう。ノロウイルスを除菌できるのは、次亜塩素酸だけです。アルコールやその他の消毒液は効果がないとされています。
 次亜塩素酸ナトリウムを配合した漂白剤とは、俗に塩素系漂白剤と言われているもので、「ハイター」「キッチンハイター」「ブリーチ」などの商品名で売られています。
 この漂白剤2mlを500mlの水に溶かして薄めたものを除菌に使います。
 実は、ハイターなどのパッケージには、原液の濃度は書いてありません。○○ppmという表示がないのです。仕方がないのでうちでは衣料用のハイターでやっています。ハイターの場合、病院でレクチャーされる濃度は、衣服用のハイターで生地を漂白する際の濃度と一緒です。

 次亜塩素酸ナトリウムを使った漂白剤は安価で、簡単に購入できるので使いやすい商品ですが、その一方で、次亜塩素酸ナトリウム事態が人体には有害な物質です。次亜塩素酸ナトリウム2mlを500mlの水で薄めた水溶液は、ハイターなどで洗濯物の漂白する際に指定されている薄め方と同じですが、500mlもの水溶液を作ったら、必ず換気することが必要になります。
 実際に使って見るとわかりますが、このように薄めた水溶液でも、独特の塩素臭がして、閉め切った部屋の中で使うと、気分が悪くなる人もいます。次亜塩素酸ナトリウムは、原液に触れれば、皮膚の表面を溶かしてしまうような液体ですし、濃度の濃い気化物質を吸い込めば、気管を傷める事になります。使用には必ず換気し、手についたときにはよく洗わなければなりませんし、目などに入ったときには速やかに流水で十分に洗わなければなりません。
 さらに酸性の洗剤やクエン酸などを混ぜると、塩素ガスが発生します。これによって死亡事故が起こったことから、ハイターなど次亜塩素酸ナトリウムを使った漂白剤のボトルには「まぜるな危険」の表示がなされています。
 さらに、次亜塩素酸ナトリウムは、金属に触れれば錆びさせてしまいますし、色のある生地に触れれば脱色します。(原液が一滴はねただけで、ジーンズが白抜きします)また白い生地につけば、黄ばませてしまうこともあります。基本的に次亜塩素酸ナトリウムは、ついたらすぐ洗い流してしまわなければ色々と不具合が起きます。
 除菌のためにドアノブや便座を吹いたり、噴霧したりしたときも、その後きれいにから拭きするか、水で絞った布か紙でよく拭き取るかして、後に残さないようにしないといけません。除菌の扱いとしては気を遣う物質です。

<もう一つの除菌方法 次亜塩素酸水>
 
 そこで、ノロウイルスの除菌として、最近注目されているのが次亜塩素酸水です。次亜塩素酸水がどう言うものか、少しまとめてみます。

@代表的な製造法

@ 食塩の電気分解 
 食塩水を有隔膜槽(イオン交換膜)で電気分解し、陽極側に陽極反応で発生する塩素ガスが水に溶けることで、強酸性の次亜塩素酸水が生成されます。

A 希塩酸の電気分解
 希塩酸を電気分解、陽極反応で発生した塩素ガスが水に溶け、次亜塩素酸水が生成されます。無隔膜で電解を調節します。

B 次亜塩素酸名アトリウムをpH調整
 希釈した次亜塩素酸ナトリウムを、希塩酸、酢酸、炭酸ガスなどでpH調整します。最もよく使われる方法です。市販の次亜塩素酸水でもこの方法で製造されているものが多いようです。ただ、使用する液体の希釈が不十分で、原液で混合したりして、pH3以下になった場合は、塩素ガスが発生する危険があり、非常に危険です。
 自己責任とは言え、自分で作ろうとするのはお勧めできません。買った方がいいです。

A除菌効果 

 次亜塩素酸水の除菌効果については、厚生省が発表しているPDFの資料がネット上にありますが、様々な菌やウイルスに対して、高い除菌効果を持ち、ノロウイルスに対しても有効とされています。効力は次亜塩素酸水の種類によって違いますが、総じて、次亜塩素酸ナトリウムと同等かそれ以上の結果が出ています。(一般に市販されている次亜塩素酸水は、「弱酸性次亜塩素酸水」の表示が多いですが、次亜塩素酸ナトリウムと同等かそれ以上の除菌効果が言われております)
 次亜塩素酸水は、直接、菌やウイルスに触れることで除菌し、直ちに、人体に危険のない範囲の微量の塩素ガスを発生しながら分解し、あとには水が残ります。

B安全性

 次亜塩素酸水は、次亜塩素酸ナトリウムよりもpHの値が中性に近く、そのため手についても手荒れが起こることは希です。匂いも無臭、もしくはかすかな塩素系絵の匂いがするだけで、匂いのきつい漂白剤よりも使いやすい商品です。しかし次亜塩素酸ナトリウムと同様の注意点もありますので、まとめてみます。

@ 次亜塩素酸水は、少量飲み込んでも問題はありませんが、飲料水ではありません。
 次亜塩素酸水は食品添加物である所から、希釈してうがいに使うという話もありますが、次亜塩素酸水を食品の除菌に用いる場合、人の口に入る時点ではすべて除去されているのが条件です。決してそのものを口に入れることを前提にはしていません。また分解されやすい次亜塩素酸水は、分解されてしまえば残るのは水なので無害ですが、この状態では除菌効果はありません。私はうがいに使うのは適切ではないと思っています。

A 次亜塩素酸水でもある程度の毒性はあります。
 次亜塩素酸水200ppm以上の濃度で、3分以上有機物と接触するとクロロホルムの発生が確認されています。そこでつけ置き除菌には、50ppm以下で行う事が推奨されます。また、念のため、使用するする際には換気を心がけてください。一方次亜塩素酸ナトリウムで発生する発がん物質(トリハロメタン)は、次亜塩素酸水では発生しません。

B 手に触れた場合も影響は水と変わりませんが、長時間の使用にはゴム手袋の着用を推奨します。
 
C 飛沫程度であれば、目に入っても害はありませんが、すぐに洗い流してください 

D 次亜塩素酸水は除菌後に分解し、残留性はほとんど認められませんが、製造過程によっては塩分が微量に残る場合もあります。

E 100ppm以上では金属にさびを起こさせる可能性があり、除菌後は拭き取る必要があります。また、わずかですが漂白作用もあり、濃度が濃い物や、狭い範囲にたくさん噴霧したりすると、衣服の色が抜けてしまう可能性もあります。除菌後には洗い流す、拭き取るなどの作業を欠かさない方が安全です。

F 塩酸と混合することで塩素ガスを発生しますので危険です。家庭内でいえば、トイレ用洗浄剤(サンポール)などは主成分9.5%が塩酸です。なお、酢酸、穀物酢と混ざった場合はガスの発生は微量で危険はないとされています。

G 通常の家庭使用では、そのまま排水できますが、高濃度、大量に排水する場合、合併浄化槽への排水は避けるべきです。(下水への排水は可能です)
 
C使用上の注意

 次亜塩素酸水の特徴のひとつは、分解しやすいことです。この性質によって、高い安全性を保つと同時に、効力を維持することが難しいという問題もあります。

@ 次亜塩素酸水は、光、温度、空気 などに触れることでも分解します。
 従って、容器は光を通さない物が好ましく、冷暗所に保管します。パッケージは、開封したら早めに使い切ってしまう必要があります。未開封で賞味期限は半年ほどを目安にしています。従って、家庭での使用では、大量購入は避けて少しずつ購入した方がいいでしょう。

A 次亜塩素酸水は、ウイルスや菌に直接触れることで除菌をします。このため、まず汚れを洗い流さなければなりません(汚れによってウイルスや菌に接触できなければ除菌できません)汚れた場所に噴霧しても効果が薄いという事です。特に油を含んだ汚れは、油が菌と触れることを妨げると言われています。

B 次亜塩素酸水を紙や布に含ませて拭く場合、その紙や布が汚れていると、汚れと次亜塩素酸水が反応し、次亜塩素酸水は分解されてしまい、除菌効力を失います。そこで紙や布は、清潔な物を使ってください。また使い捨てにしてください。(ノロがついたものは、放置すればそこから感染の危険があるから)
 
D問題点

 次亜塩素酸水にまつわる問題点をまとめます。

@ 次亜塩素酸ナトリウムの漂白剤より高価です。ハイターは原液1500mlが270円程度で、これは前述の濃度で500mlの除菌用の水溶液を作った場合、750杯分に相当します。一方次亜塩素酸水は、市販のボトル(400〜500ml)で、知る限り、最も安いのは388円程度、最も高いのは約1000円します。(近隣の店で最も多く見かけたのが、この約
1000円の品です)
 また扱っている店がまだ少なく、店頭に置いてないか、選択できる種類も少ないのが現状です。通販の方が色々探せます。

A 次亜塩素酸水の効力を確かめることができません。
 除菌に使うと言っても、本当に除菌できたかどうかは、消費者には確かめようがありません。さらに次亜塩素酸水は、無臭(もしくはわずかに塩素臭がする)で、匂いなどから効果がありそうかどうか確かめることもできません。買った商品が適正な管理をされていたのかどうか、消費者側では確かめようがありません。管理が悪く、もしくは製造から日数がたちすぎて、既に成分が分解して効力を失っているかどうか、消費者には確かめようがありません。
 うがった見方をすれば、水を詰めて売っても、わからないのです。

B 品質を見た目で判断できない物を、どうやって選んだらいいのでしょうか。
 次亜塩素酸ナトリウムの漂白剤は、既に定番商品が存在し、品質にも一定の基準があります。(漂白をしてみるという確認方法もあります)しかし次亜塩素酸水は、まだ商品に対する評価も定まっておらず、玉石混合が現実です。安いから良い、高いから安全とも言い切れません。品質管理の信頼度を求めて、ブランドで選ぶ方法も、次亜塩素酸水を作っているメーカーのほとんどが無名なので、判断がつきづらい状況にあります。

C メーカーの品質表示が曖昧で、誤解されやすい糖衣状況があります。例えば、

「次亜塩素酸ナトリウム、希塩酸、イオン交換水」

 これは、前述の製造法Bで、次亜塩素酸ナトリウムを希釈した物と、希塩酸(希釈した塩酸)で次亜塩素酸水を作り、それを水で希釈して一定濃度にしてあるという意味でしょう。品質表示は含有量の多い物質から順に記載するようです。

「次亜塩素酸ナトリウム(食品添加物)、水」

 この商品のメーカーのHPには、pH緩衡体(食品添加物)に次亜塩素酸ナトリウムを通すことで、次亜塩素酸水を作ったという説明がありました。次亜塩素酸緩衝樹脂と呼ばれる膜に次亜塩素酸ナトリウムを通すことで、次亜塩素酸水を作る製造方法があるようで、そのことを示しているのかと推察しています。塩酸などを使用しない事から、製造工程で塩素ガスが発生しないという利点があるようです。HPを見る限り、「次亜塩素酸水は、次亜塩素酸ナトリウムとは別の成分である」旨が書かれていますので、決して、次亜塩素酸ナトリウムを水で薄めた液体という事を表しているわけではないと思いますが、わかりにくいなと思います。

「次亜塩素酸水」

 そのものずばりで、間違ってはいませんが、成分表としては不親切かもしれません。次亜塩素酸水を製造してそのまま入れず、希釈していると思うので、水はないのでしょうか。さらに、この商品以外もそうでしたが、ppmが書いてありません。次亜塩素酸水は用途に合わせて希釈して使える物ですが、そもそもどのくらいの濃度かわからないので、希釈しようもありません。
   
 このような表記なので、よくレビューで誤解したコメントが書かれています。見ていくと、みんな混乱しているのだなと思います。

 この結果、こういう選び方がいいのかどうかわかりませんが、結局ブランドに頼ってしまいます。定評のある企業が製造しますと、そのブランドを信用して買うと言うことになります。私も結局そこに落ち着きました。
 

<現在我が家で使っている商品>

 マツモトキヨシのオリジナル商品で、「次亜塩素酸水」というのがあります。
 マツモトキヨシの店舗でも扱っており、またマツモトキヨシの通販や、その他通販でも販売しており、購入しやすい商品です。400mlボトル488円。詰替用ボトルなら388円(通販でも価格は同じ)です。
 でも、購入の決め手は、製造元が、カネヨ石鹸(ある程度の年齢の方ならおなじみの「カネヨクレンザー」を作っている会社。「カネヨン」「クエン酸くん」「重曹ちゃん」「洗たく槽クリーナー」「エリそで」等々、おなじみの商品をたくさん作っている老舗です)であることでした。
 ボトルは光を通さない不透明で、詰替用も蓋を外して噴霧器を入れ替えるだけの構造。いちいち入れ替えをしないところは、水溶液を空気や光に水溶液をさらさない構造で、良いと思います。
 他社の商品には、噴霧器の部分があまり良く働かない商品もありましたが、マツモトキヨシの「次亜塩素酸水」は、そういうこともなく、噴霧しやすい物でした。
 調べた中で最も安かったこと、しかも1ボトルごとのばら売りでこの値段ですから、求めやすい商品だと思います。

参考にしたHP
次亜塩素酸水 - 厚生労働省
次亜塩素酸水の成分規格改正に関する部会報告書(案) - 厚生労働省
次亜塩素酸水 - Wikipedia   
平成 21 年度ノロウイルスの不活化条件に関する調査報告書(国立医薬品食品衛生研究所)
平成 27 年度ノロウイルスの不活化条件に関する調査報告書(国立医薬品食品衛生研究所)

その他、次亜塩素酸水の作り方や、製造過程などネット上の情報をかなり漁って、その結果をまとめてみました。ネットなどで売られている次亜塩素酸水のメーカーのHPを順番に当たると、製造の仕方などが出ています。いくつかのサイトを見比べ、複数のサイトで同じ事が書かれている内容を選んでまとめています。

全般的に次亜塩素酸水のノロウイルスに対する除菌効果はありと認められているようです。ただ、使い方なども含めて、適正に使わないと充分な除菌効果は得られないという点もあるようです。
一番重要なのは
@手洗い、
Aノロウイルスをつけないこと。
Bついたと疑われる物は速やかに洗って、ウイルスを洗い流すこと。
C手や衣服についたノロウイルスを、さらに別の場所に運ばないようにすること。
Gノロウイルスは経口感染です(空気感染ではない。ただ、飛沫や、空気中に待っているウイルスが口に入ることから
 感染はあります)食事をするときには、必ず手洗いを心がけ、ウイルスが体内に入らないようにします。

 除菌剤を過大評価しないようにすることも重要です。

2017年01月09日

ダイロンで気楽に染めるジーパン

 ノロウイルスに感染した家族が、病院に履いて行ったブラックジーンズを除菌しようと塩素系漂白剤につけたところ、分量を間違えたのか見事に脱色してしまい、茶色いホルスタインのようになってしまったので、とても履けないと言うことで、なんとか茶色と黒のまだらを、はける程度には復活させたいと思って、染め直すことにした。

<染色のための準備>

@染める場所
 
 染色は
 T 染色するときには周りが相当汚れるので、あとで掃除しやすい場所(できれば水で流せる場所)が必要。
 U 高温で染めるタイプの染料だと、染めるときに加熱する必要がある。
 V 染色後の洗浄に大量の水が必要である。またそれを流す場所がいる。
 
 TとVに関しては、一般家庭では風呂場が適切である。
 Uに関しては、台所が適切である。但し、被染物の分量が多いと、染液が多くなる。例えば250gの被染物に対して、6リットル以上の水が必要になる。今回はジーンズを染める事になるが、ジーンズの重量は800gほどあり、18リットル以上の水が必要になる。これだけの水が入る大鍋を家庭のコンロに乗せるのは、重量から言っても不安がある。また大鍋の水を流しに流したりする場合、取り扱いも難しくなる。
 さらに、食事を作る場所で、染料を扱うことにも抵抗がある。
以上の問題点から、染色する場所は風呂場とする方が良い。

A風呂場で染める問題点

 風呂場で染めるときの問題点は
 T 染色は周りを汚すため、風呂場を汚すことになる。
 U 加熱する場合はコンロを用意しなければならない。
 
B染料の選択

 Aの問題点を解決するために、染料には「ダイロン」の「プレミアムダイ」を選択する。
 その理由は、プレミアムダイが
 T 40℃で染色が可能。従って急騰のお湯で染められるため、加熱の必要がない。
 U 綿、麻、絹、毛糸、レーヨンなど、決まった繊維以外は染まらないため、風呂場の壁やタイルを汚しても、水を流すだけで簡単に掃除できる。(もしタイルのメジなど染まった場合はメジではなく、メジについた汚れが染まっているだけなので、汚れを落とせばきれいになる)
 
Cその他準備するもの

 染料(プレミアムダイ)の用法に従い、必要なものをそろえる。
 T 18リットルの洗液を入れ、さらに作業できる余裕のある入れ物(バケツなどでOK) U 染液の元を作るための小さいバケツもしくはボール(500t以上必要)
 V 染液を攪拌する泡立て器
 W 計量カップ
 X 染料1袋につき250gの塩
 Y ダイロンのカラーストップ(色止め液)
 Z 染める際服を汚さないための割烹着や白衣
 [ ゴム手袋

注意:ダイロンプレミアムは、1袋で被染物250gまで染めることができる。
 今回染めるジーパンは、約750g〜800gなので、本来は3袋以上必要である。
染料1袋に対して必要なお湯は6ℓであるから、今回染液は18ℓとなる。この場合染液を入れるバケツは、染液より5ℓ以上余裕が欲しい(染液にジーパンを入れると少なくとも2ℓは増えるし、作業中は水がはねたり溢れたりしやすいので余裕が欲しい)従って、25ℓ以上入るバケツが必要になる。
 しかしこれほど大容量の入れ物がない場合は、一度に3袋ではなく、2回か3回に分けて染めることもできる。
 そこで今回は、まず2袋染め、その後染め上がり具合を確かめてから、さらに1袋染めることとした。
 
<染色工程>

@手や衣服を染めないために

 プレミアムダイは、繊維と皮膚は染まるので、それを避けるために、長袖の白衣、もしくは割烹着、雨具用のオーバーズボンなどを用意。いずれもポリエステル製であれば、染液が飛んでも染まらないので便利。
 また必ずゴム手袋をつける。素手で触ると、あとで取れなくなるほど染まる。

A染液のお湯は40℃以上

 T 被染物(ジーパン)が汚れている場合は、洗濯し、軽く脱水して、水を含んだ状態にしておく。汚れていない場合
は、十分に水を含ませておく。
 U 塩を計る。今回は染料2袋分なので、500g
 V 染料は40℃のお湯で作る。作業中にお湯の温度が下がるため、給湯器のお湯は
45℃程度にセットする。
 W お湯の量は、染料1袋に対して250t。今回は2袋なので500tを計り、小ぶりのバケツ(もしくはボール)に入
れ、染料を入れて、泡立て器で十分に攪拌する。 
 X その一方で、給湯器の45℃のお湯12ℓをバケツに入れ、塩500gを入れ、攪拌して混ぜておく。
 Y 塩を混ぜたバケツの湯に、Vで作った染液を入れ、さらに攪拌する。
 Z 染液の中に、Tで水を含ませておいた被染物(ジーパン)を静かに入れる。
  最初の15分は、被染物の全体をまんべんなく静かに揉むようにして、生地に染液が隅々まで十分に浸透するよう
にする。ここで手を抜くと染まったあとムラができやすい。
   15分を過ぎたら、あと45分染液につけ置きしながら、時々染液を攪拌する(10分おき程度。この工程でもよく攪
拌することでムラを軽減できる。
 [ 全体で1時間が過ぎたら染色は完了。所定の時間より長く染めてもムラになるだけなので、時間通りここで終了
する。

Bすすぎは流水で行う。

 T 染め上がった被染物を水ですすぐ。すすいだ水が透明になれば完了。
  ただ、ためすすぎを行ってもなかなか水は透明ならない。水を取り替えながら約1時間すすいでみたが、すすぎ水
の色はあまり薄くならなかった。
  たらいに水を張り、そこに注水を続けながらすすぎを続けると、30分ほどでかなり水がきれいになる。
 U 最後は洗濯機ですすぐ。洗濯機を利用する利点は脱水を使えるところ。本来脱水をしながらすすいだ方が効 率
的にすすぐことができる。注水すすぎで3回から4回ほど行う。水が透明なったら完了。

 注意点:
 今回はダイロンプレミアムなので、染料があっても洗濯槽が染まることはない。それでも万一を考えて、濃い染料はあらかじめ手すすぎで落として、普通の洗濯物から色が出た程度の濃さになってから仕上げに使った。
 しかしこれがダイロンマルチのような、繊維以外のものも染めることのできるタイプの染料だと、洗濯槽が染まってしまうため、他の洗濯物に色移りする可能性があるから、洗濯機の使用は避けた方が良い。
 もし、恒常的に染色するのであれば、専用の小型の脱水機、もしくは小型二層式洗濯機を用意した方が良いかもしれない。二層式洗濯機があれば、プレミアムダイを使って、以上すべての行程を(攪拌も含めて)洗濯機に任せることができるため、非常に楽であろうと思う。小型二槽洗濯機は1万円前後でも購入できるし、脱水機だけならもっと安く手に入る。
 
C染色後の工程

 T 乾いてみて、もし染め上がりが足りないと思った場合の選択肢。
   今回脱色によるまだらを解消するために染め直したのだが、脱色した箇所は脱色しなかった箇所より薄くなりが
ちで、かなり改善されていたが、それでも多少ムラが残っていた。ベルベットブラックは、緑青色の黒色なので、色
が薄くなったところは、濃い緑黒のような色をしていた。

@  そもそも被染物の重量からみて染料は3袋分であるから、残りの1袋でもう1回染める。全体にさらに濃くなるが、
薄いところが濃くなることによってムラは目立たなくなるかもしれない(他の色の場合は、薄いところが濃くなっても、
他の部分がさらに濃くなるため、ムラの解消ができない場合が多い。しかし黒の場合は、濃く染めることでムラの解
消に近づけることができる)
A  緑がかった黒になっていることを考え、緑の補色である赤を黒に混ぜて染める(プレミアムダイの場合、一袋に定
着剤と染料が入っているため、袋の一部だけ使う事はできず、必ず全量使い切る必要がある。従って、赤色を混ぜ
る時は、赤色1袋、黒色1袋の割で加える)

 学生時代染色していた頃は、黒色を染めるときには必ず赤色を加えていた。その方が濃く深みのある黒が染まるからだ。しかし今回調べてみると、この方法は全く違う見解もあるのらしいことがわかった。そこで今回はとりあえず、単に残った黒色のみを染めることにした。できあがりがうまくなければ、そのとき赤色を加えることにする。

 U 満足いく染め上がりであった場合の選択肢
   洗濯したり、湿気や水、汗などがついたときに色落ちを防ぐ(軽減する)ために色止めを行う。基本的に色止めの
方法の一番は、よくすすぎ、余計な染料を洗い流してしまうことである。すすぎが甘いと必ず色落ちする。
   そのほかに、色止め剤を使う方法もある。
 ダイロンでは「カラーストップ」という色止め剤を販売しているので、今回はそれを使う。
 
 注意点
 カラーストップを使うときには換気を必ず行う。換気扇だけでなく、窓も開けられたら開けた方がいい。
 また皮膚につくと刺激があるため、皮膚につかないようにし、ついたらすぐに洗い流す。
 吸い込むと気分が悪くなる可能性もあるので、あまり吸い込まないように。

@ 被染物に十分に水を含ませておく。
A バケツに被染物が十分につかるだけの湯を入れる。湯の温度は被染物をつける事が可能な最高の温度。今回の
被染物は綿製のジーパンであるため、100℃でもOKだが、運用上給湯器の45℃のお湯にする。
B 10ℓほどのお湯を入れ、そこにカラーストップを入れて混ぜる。
C ぬらした被染物を入れて、時々攪拌しながら15分つける。
D 軽く手すすぎしてから、洗濯機でさらにすすぎ、脱水する。
E 陰干しして乾いたら完了。


<まとめ>
@ 脱色したものは染まりにくい。

 脱色したものは生地が荒れているため染まりにくい。今回は脱色による退色なので、完全にムラなくする事は期待できない。使える程度にムラが軽減されればよしとした。

Aムラなく染めるには脱色が必要

 脱色であれ、染色であれ、既にムラができてしまった生地を染め直すときに、ムラなく仕上げたいのであれば、まず全体を脱色して、真っ白にしてから染め直した方が良い。専門の染め直し業者は必ず脱色してから染め直すらしい。
 このとき使用する漂白剤は、生地を傷めづらく、漂白力の強い漂白剤として、「ハイドロサルファイト」を使う。一般には「ハイドロサルファイト」または、「ハイドロハイター」などの商品名で売られている。(300円前後)
 今回は大変なので脱色せずに染めてしまったが、案の定多少のムラは残っている。

B半端なく汚れる。半端なく染まる。

 実際に染色してみて、ともかく周りが汚れる。染色中にゴム手袋して被染物を揉んだりすると、染料がはねやすく、周りに飛び散る。そのため着ている服や周りにある物が染まらないようにする対処は絶対に必要。
 風呂場で染色していたので、裸足で染めていたが、ちらっと薄まったしぶきが飛んだだけで、(そのときすぐに洗ったのに)あとで足の裏が薄く青く染まっていた。

Cカラーストップしても色落ちはする。

 カラーストップの説明書にもあるが、色止めしても色落ちはする。従って、色落ちしなくなるまで、他の物と一緒に洗濯しない方がいい。究極のことを言えば、さんざん洗えば染料が落ちきって色落ちしなくなるが、それだけ色も薄くなる。

Dカラーストップを使うと日に当てて干すと退色しやすくなる。

 日光に干すと、どのような物でも退色しやすくなる。しかし、カラーストップの説明書には、カラーストップを使った場合、日に当てると退色しやすくなるという説明がある。

E染料の説明書通りに染めた方がいい。

 染料は染め終わってもかなり色が残っている。そこで所定の分量以上でも染まるかと思い、残りでシャツを染めてみた。このシャツもジーンズと一緒に脱色してしまったものだが、仕上がりは非常に薄くしか染まらなかった。本当に説明書通りだった。

F結局思ったより簡単だった。

 T プレミアムダイの特性を使うと、思ったより楽に染められたと思う。一番困ったのはすすぎのところで、これも流水
という方法にたどり着いて、ようやく順調に進むようになった。慣れれば、結構楽に染められると思う。
 U 染めていて思ったこと。
   今回ジーパンだったので、40℃以上の染液の中で揉んでも全く問題なかったが、もしウールだったらフェルト化し
てしまいかねない。ダイロンブログには様々な染め方が詳しく出ているが、ウールについてはさらっとしか書いて
ない。仕上がりは「少し縮んだが使っている内に良くなるだろう」などというアバウトなコメントだった。
    ウールは、熱と圧力と湿気がそろうとフェルト化する。染色は、熱と湿気(水気)は既にあるので、圧力を掛けな
いようにしないといけない。学生時代染色をしていたときには、80℃以上の染液で染めたので、棒などで攪拌しな
がら染めたが、被染物をつついたりするとフェルト化してしまうため、触れないようにしながら、そうっと染液を攪拌
し、まんべんなく染液が行き渡るようにした。が、このときは糸の状態で染めていたので比較的楽だった。既にセ
ーターになったものを染め直すのはとても大変ではないだろうか。
   この場合バケツよりもたらいのように、被染物を十分に広げられる容器で、そうっと染液を動かすようにした方が
いいかもしれないと思った。
 

2016年10月09日

油を使わないホワイトソース(ベシャメルソース)

細かい粉が良い。薄力粉でもいいが、強力粉の方がきめが細かい。米粉はさらに細かい。

鍋に適量の粉に同量の水を入れてねる。
緩いのり状にしたら、牛乳を少量入れ、しゃもじで均一に混ぜつつ、弱火に。
さらに牛乳を入れ、泡立て器を使って細かく混ぜていく。
鍋隅の塊はしゃもじでかき取る。
だまができないように、少しずつ牛乳を加えつつ、鍋隅の塊を削りつつ、泡立て器でどんどん混ぜる。
全体にどろっとしてきたらできあがり。
油がないので、基本的に緩いし、堅さを保てない。クリームシチューなどに入れて、とろみが足りなければ水溶き片栗粉を適量入れて、とろみを出す。
小麦粉を入れてもとろみが出るが、量が多くなる。多すぎると粉っぽい。水溶き片栗粉の方が少量で良い。但し、全体的に透明度が増してしまう。

春巻き

春巻きの作り方
椎茸、豚肉、タケノコ、タマネギ、ピーマンを細切りに。タマネギの代わりに、もやしも良い。もやしなら芽と根を取る。

肉は
しょうゆ 酒 各小さじ 1 を混ぜ込んでおく

オイスターソース、砂糖 各小さじ 1
鶏ガラスープの素 小さじ1/2
こしょう 少々
湯 1/2カップ

を作っておく。

ピーマンの火の通りをよくするため、事前に水を中華鍋に入れ、熱したところにピーマン細切りを入れ、数分煮る。
色がちょっと変わったところで、湯を捨て、油をごく少量(キッチンペーパーに少量油を吸わせ、それを鍋全体に塗りつける程度)炒め始め。
肉ともやし(もしくはたまねぎ)を入れて炒める。

炒め上がったら、作っておいたタレを入れて、一煮立ち。
水溶き片栗粉を入れてどろっとさせる。

以上具材は冷蔵庫、もしくは入れた容器ごと氷水に入れて冷やしておく。
熱いままだと、春巻きの皮が溶ける。

冷えた具材を春巻きの皮で巻く。
巻き方は細めに、きゅっと固く巻く。

巻いたらさっさと上げる.放置すると水気が戻って、ぐにゃりとなる。

油は190程度。高い温度で短時間、からっと揚げる。
ぬるい温度で時間をかけると、中身からのり状の黒い焦げが出てきてゴミのように春巻きに付着してしまって、見栄えが悪い。のり状の焦げが出る前に、さっさと上げるため、高温で短時間で。表面の色味が薄いきつね色になったらあげる。
おいておくと少し色が濃くなる。

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