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2018年01月31日

ゼマン大統領再選2(正月廿八日)



承前
 ドラホシュ氏が主張していた分断された国民を再び結びつけるような大統領が必要だというのは、完全に正しい。ハベル大統領といういい意味で政治家出身ではない大統領の存在が、ビロード革命直後のチェコの国民を結び付け、あの激動の時代の乗り越える原動力になっていたのは議論の余地もなかろう。ハベル大統領の時代に、大統領は政治的な存在にはならないという方向に位置付けできていたらよかったのだろうけれども、次の大統領には典型的なチェコの政治家であるクラウス氏が選出された。
 この2003年の大統領選挙の時点で、国民の直接投票での選挙になっていれば、このときのクラウス氏の選出も、後のゼマン大統領の選出もなかったのではないかと夢想してしまう。クラウス大統領が選出されたのは、国会での国会議員による選挙によってであるが、結果を決めたのはゼマン氏の支持母体だったはずの社会民主党の分裂だった。ゼマン氏のあのときの選挙戦略も意味不明なもので、負けるべくして負けたとは言えるけれども、クラウス氏が勝つべくして勝ったとは言いにくい。

 確か、あの頃は結構どちらの候補も支持できないという層が多かったはずだから、直接選挙で人気と実力を擁する非政治家の候補者が出ていれば、大統領に就任し大統領の非政治化を進められたかもしれない。現実には国会議員たちの推薦でしか候補者が出てこないから、政治家出身ではなくても、政治的な政党的な候補者になってしまい、ゼマン氏の出馬しなかった2008年の大統領選挙でも、最終的には政治的に、政治的な取引で当選者が決まってしまった。
 問題は、ハベル氏の跡を襲うにふさわしい人物の名前が挙がらなかったことである。だから、直接選挙になっていたからと言って、クラウス大統領は誕生しなかったはずだとは断言できないのだけど、少なくとも2008年以降の選挙はかなり違ったものになっていたのではないかと思う。現実には90年代の政治家たちが2023年まで大統領の座を独占することになってしまった。クラウス大統領も、ゼマン大統領も、首相時代にはそれぞれの党を率いて自らの主義主張の元に政治活動をしていたわけだから、大統領になった後も、大統領支持者と反大統領派で社会が分断される傾向があったのは、最初から予想されていたことだ。近年のゼマン大統領の言動でその分断が拡大しているのは確かだけどさ。

 ただ皮肉なことに、ほぼ50パーセントずつ票を分け合ったという選挙結果を見る限りドラホシュ氏の存在も、現在のチェコの社会がゼマン大統領支持と不支持で二分されている事実を象徴してしまっている。両派を結び付けうる存在を大統領にするなら、それこそゼマン大統領とドラホシュ氏の中間にいるような存在を、同時に知名度と好感度の高い存在を引っ張り出してくるしかなかったのだ。恐らく立候補表明直後のトポラーネク氏の評価が政治評論家の間で高かったのは、中間的な存在になる可能性があったからだろうと最近評価し直した。ただ、トポラーネク氏の場合は、知名度はあったけれども首相を務めていた時期のあれこれで国民の好感度はものすごく低かったのである。
 それに、実際にゼマン大統領とドラホシュ氏の間をとったような候補者が立候補していたとしても、現在の劇場型の有権者の理解よりも人気を求める選挙では、両者の間で埋没して支持を集められなかった可能性のほうが高い。そうなるとゼマン大統領の再選は必然だったということになるのか。それはちょっと嫌なので、もう少しあれこれ考えてみようと思う。

 今回の選挙の経過と結果を見て、思い出したのが1980年代の日本の選挙である。あの頃、マスコミは自民党に対する批判を繰り広げ、いわゆる知識人たちも反自民党というのが多かった。時に野党が選挙協力と称して互いに候補者を推薦し合い、今度こそ自民党政権が倒れるという夢を何度見せられたことか。ふたを開けてみれば結果はいつでも、議席の増減はあったにしても第一党の座は譲らなかったという意味で自民党の勝利だった。消費税導入でもめ、マドンナ旋風とかで社会党の議席が伸びても、本当の意味で自民党が選挙に負けることはなかったのである。
 当時のマスコミも自民党には厳しく、野党には優しかったから、自民党がかなり議席を減らすと自民党が第一党であっても、自民党大敗で野党大勝なんて見出しをしばしば見かけたものだけど、よく考えたら、野党が議席が増えただけて喜んでいたというのは、自民党にとってはありがたいことでしかなかったのではなかろうか。結局マスコミも含めて、誰一人本気で自民党に勝てる、勝とうと考えていなかったということを物語っているのだから。

 結局、あの頃の日本の政治、選挙も、今回のチェコの大統領選挙と同じで、自民対社会党などの野党なんかではなく、自民対反自民という構図でしかなかったのだ。チェコの大統領選挙で主役を演じたのがゼマン大統領一人で、他は健闘したドラホシュ氏を含めてただの脇役に過ぎなかったのと同様に、主役は自民党で、心情左翼の応援する左派の野党なんざ有象無象の存在でしかなかったのだ。それは自民党政権が倒れるのに、自民党の分裂を待つ必要があったことからも明らかである。
 ということは、今回の選挙で、反ゼマン派が勝つためには、ゼマン大統領の支持層を分裂させるような候補者を擁立する必要があったのだ。これも結構無理筋だけど、あえて想定するとすれば社会民主党のゼマン支持派の中からとか、バビシュ氏のANOからとかさ。ANOに関しては、本来バビシュ氏とゼマン大統領は互いに批判し合っていたのに、お互いの敵をマスコミと既存の政党(社会民主党の一部を除く)に見出した時点で強固に手を結んだからありえなかっただろうけど、ソボトカ内閣の成立直後の関係を維持させることができていたら、今回も首相になりたがっている本人はないにしても、誰か擁立していた可能性はなくはない。この辺も反ゼマン派の戦略ミスだよなあ。当時はそんなこと考えてもいられなかったのだろうけど。

 すでにことはなれり。言うもせんなきことなりってことかな。
2018年1月29日22時。
 







2018年01月30日

ゼマン大統領再選1(正月廿七日)



 所用でプラハに出かけることになり、最近の例によってレギオジェットで八時半ぐらいにオロモウツを発った。そのために、五時半という平日よりも早い時間に起きてしまう自分に疑問を感じなくもない。昔は七時前の電車に乗るのに五時半ぐらいに起きていたはずなのだけど。家を出る八時ぐらいまで何をしていたかと言うと、ただぼおっとしていたのである。最近だけでもないけど、目覚めてから頭がちゃんと動き始めるまでに時間がかかる。以前早起きしていたころは電車の中で寝ていたけど、レギオジェットを使うのは、ちょっと贅沢するのは、スペースを確保して、PCであれこれ文章を書くためなのである。
 それなのに、それなのに、今回は文章を書くよりも、ネットに接続してあれこれ読むのに時間を割いてしまった。これなら別にビジネスなんて贅沢をする必要はなかったのに……。それもこれも大統領選挙の第二回投票が行われていたせいである。経過や結果が気になってという意味ではなく、車内で配布された新聞のスポーツ欄を見ても、ハンドボールのチェコ代表の歴史的活躍が結果を知らせるだけの小さな記事で済まされていたのである。

 これがサッカーやアイスホッケーだったら大統領選挙の期間中ではあっても、詳細な記事がいくつも出るのだろうけど、ハンドボールはやはりマイナースポーツなのである。それでも、大統領選挙の期間中でなければ、もう少し人をつぎ込んで、監督二人やキャプテンで得点王のズドラーハラあたりのインタビューが出たに違いない。そして車中でネットに接続しなくても、文章を書くネタに困らなかったはずである。それが、多少八つ当たり気味だけど大統領選挙のせいだという所以である。
 そして、バビシュ氏に関しては、アグロフェルト傘下のムラダー・フロンタとリドベー・ノビニのハンドボールに関する報道が改善されない限り、反対派に回ることにする。バビシュ内閣が成立して国会で信任を得るのは、今回の大統領選挙の結果からも避けられない流れだし、今さら大声でバビシュ批判をするつもりはないけれどもさ。

 さて、プラハでの所用を終えてオロモウツに戻るべく駅に戻ったのが五時すぎ、開票が始まってまだ三時間ほどだったので、結果は確定していないだろうと思って、うちのに問い合わせてみたら、僅差だけど、ゼマン大統領の当選が確定したという。プラハでの開票に時間がかかることを考えると、もう少し時間がかかると思っていたのだが、今回は決選投票で候補者が二人しかいなかったから、開票と集計の作業が一回目よりも早く進んだのかもしれない。

 ゼマン大統領が勝つだろうことは、選挙が始まったときから予想していたけれども、最終的な得票率の差、三パーセントというのをどう理解するかはなかなか微妙である。ドラホシュ氏が立候補を表明した時点から考えると、これ以上ないぐらいの大善戦であるのは確かである。しかし、第一回目の投票の後、落選した候補者のほとんどがドラホシュ氏支持に回り、既存の有力政党の多くも党全体で、あるいは党首個人でドラホシュ氏への支援を表明し、いわば反ゼマン連合が結成されたことを考えると、もう少し何とかならんかったのかなと、戦いようがあったのではないかという思いは否定できない。
 ただ、ドラホシュ氏に課されたのは、一回目の投票と決選投票の間の二週間弱の間に、敗退した候補者の支持者からの支持を固めると同時に、ゼマン支持者の取り崩しをすることだったのだ。同時に相反するようなことを実現しなければ、勝ち目はなかったわけだから、最初からかなりの無理難題だったとも言える。ゼマン支持者を取り込むようなことを主張すれば、元からの支持者はともかく、他候補の支持者は逃げていくだろうし、そう考えると大々健闘かな。

 結局、今回の選挙は、ゼマン対ドラホシュではなく、ゼマン対反ゼマンでしかなかったのだ。その構図を最後まで崩せなかったことが、ドラホシュ氏の限界で最大の敗因だった。現職の大統領に挑む新人候補者としては、反現職で変化を求める以外の戦略は取り難かったのだろうし、それが選挙で現職候補が有利な理由でもあるのだろう。
 ドラホシュ氏が選挙戦の終盤で、自分は国民をまとめるような大統領になりたいと語っていたのは、ゼマン支持者も反ゼマンもどちらもまとまれるような大統領という意味で使っていたのだろうけれども、枕として、ゼマン大統領は国民を分断しているという批判を入れてしまったから、ゼマン支持者には受け入れにくかっただろうし、どのようにゼマン大統領が分断してしまった国民をまとめるのかの部分に説得力が今一つ感じられなかった。
 ドラホシュ氏の支持者には圧倒的に知識人、もしくは自らを知識人とみなす層が多く、この事実も一部の中間派をゼマン支持に押しやったかもしれない。国民中の知識人、知的エリート階層がヨーロッパの民主主義の確立とその維持に大きく貢献したことには疑問をさしはさむ余地はないが、知識人たちが自らの力、いや、自らの正しさを過信するあまり一般の民衆にそっぽを向かれることがあるのもまた事実である。この前のアメリカの大統領選挙にもそんなところがあったけどさ。

 チェコでは知的エリート層に含まれ、伝統的に政治的発言をすることの多い俳優や歌手たちが、一部を除いて盛んにドラホシュ支持を打ち出し、チャリティーと称した応援コンサートなんかを開催していたのもあまり関心できたものではなかった。一回目の投票の後の世論調査で、ドラホシュ氏支持の回答がゼマン支持を上回る結果が出ていたせいもあるかもしれないが、ドラホシュ支持の芸能人たちが浮かれすぎているように見えてしまった。
 こんな浮かれすぎにも見える熱狂というのは、勢いが必要な、熱狂的な勢いなしには引き起こせない革命には欠かせないものだろう。ただ、ある程度成熟した社会の民主主義的な選挙においては、それほど大きな力を持ちえるとは思えない。反対派をも巻き込むような熱狂を巻き起こせれば話は違うのだろうけれども、今回の騒ぎは、外には広がらない仲間内でのお祭り騒ぎにしか見えなかった。
 そして反ゼマン連合の声が大きすぎたことも裏目に出た。政治にはあまり関心を持たない消極的ゼマン支持者の危機感をあおることになり、その結果、今回66パーセントと一回目の投票よりも投票率が高かったのもゼマン大統領の再選に寄与したはずである。逆に言えば、消極的反ゼマン派というのは想定しにくいし、ドラホシュ氏側は投票率が上がったところで上積みはできなかったということなのだろう。

 長くなったので以下次号。
2018年1月28日24時。









2018年01月29日

六位(正月廿六日)



 今日金曜日で、ハンドボールチェコ代表のヨーロッパ選手権が終わった。今日もリアルタイムで得点経過を追うことはできなかったのだが、地元クロアチアとの五位決定戦が行われ、チェコ代表は、一点差で惜しくも破れ、六位に終わった。これは1996年に一度だけ記録したことがある過去最高の成績と同じだという。
 大会前には、監督たちも含めて誰一人ここまでの好成績を残すことは、願望はしていても、予想はしてなかっただろうし、初戦のスペイン戦での惨敗のあとは、グループステージ全敗で終わるのが関の山だと思った人のほうが多かっただろう。あのときは、残り二試合せめて惜敗してくれればと思ったから人のことは言えないけどさ。

 六チームからなる二次グループから準決勝と五位決定戦に進出したチームを見ると、チェコのグループでは、スペイン、デンマーク、チェコと、グループDから二次グループに進出したチームとまったく同じである。やはりあのグループは文字通り死の組だったのだ。敗退したハンガリーも別の組に入っていたら二次グループまでは行けていたかもしれない。
 そんなグループで勝ち点は一位と同じで得失点差で三位に入ったのだけでもすばらしいのに、二次グループでも一敗しかせずに、五位決定戦までたどり着いたのだから、監督選手たちの頑張りには、もう賞賛の言葉しかない。本当に強豪と言われるチームになると、負けたドイツとの試合を引き分けに持ち込み、引き分けたスロベニアとの試合はきっちり勝ちきって準決勝に進出しているのだろうけど、今のチェコのチームはまだまだこれからのチームである。
 今度の韓国での冬のオリンピックをめぐる茶番で、オリンピックの価値と言うものはますます低下している中、ハンドボールのチェコ代表が東京オリンピック出場とかなったら、通訳の売り込みかけてみようかなあなんて妄想が実現してしまうかもしれない。どうせ出られないだろうからってんで気楽に語っていたけど、どうするか本気で考える必要が出てきそうである。こういうもの嬉しい悲鳴なんて言えるのか。

 クロアチア戦の試合展開も、これまでの試合に負けず劣らず劇的だったようだ。スペインとの初戦と同様に前半の入り方に失敗して、二次グループの会場からの移動の疲れもあったのかもしれないけれども、チェコは先制点をとった以外はほとんどいいところがなく、すぐに逆転された後は点差が徐々に広がって行って前半終了時点で、10−16と六点負けていた。スペインとの試合よりはましだった、と言っても一点しか変わらないけどさ。

 後半に入ってからは、スペインとの試合とは違って差を広げられることなく、かと言って差を詰められたわけでもなく、点差は五点前後で推移していたようだ。そして試合終盤に急激に追い上げたものの同点すすることはできず、一点差に詰め寄るのが精一杯だったようだ。大会が始まって七試合目、クロアチアの選手もそうだっただろうけど体力的には限界に近かったんじゃなかろうか。二日に一試合のペースでやってきてるわけだしさ。
 それでも、前半の六点差を後半で一点差にまで詰め寄るなんてことは、最近のチェコ代表ではちょっと考えられなかったことだ。デンマークやマケドニアのような強豪相手に、終始リードを許す展開でありながら終盤に逆転してそのまま勝つなんて思わずほっぺたをつねってしまいそうになる。一点差巻け、二点差負けの大接戦までは想定できたんだけどね。イーハの言うように、一点差巻けと一点差勝ちの間には、単なる二点差以上の大きな壁が立ちはだかっている。今大会のチェコ代表は打ち破ったのだ。

 それはともかく、決勝と三位決定戦を残した状態で、チェコのズドラーハラが55ゴールで得点王である。二位との差が14点とかなりあることを考えるとこのままいきそうである。大きな大会での個人賞をチェコの選手がとるのはイーハ以来ということになるだろうか。最優秀選手も狙えるかもしれない。まあ優勝チームから出るだろうけど。このズドラーハラももうベテランだけど、動きを見ているとまだしばらくは中心戦力として計算できそうである。
 もう一人特筆すべきは、若手のカシュパーレクも七試合で33得点を挙げていることだ。待望の若手の大型センターの台頭で、ズドラーハラやババークなどの体格よりもスピードと横への動きで勝負するタイプの選手の活躍の余地も広がるだろうし、今後のチェコ代表は楽しみである。これにもう一人の期待の大型選手カサルも覚醒してくれたら言うことないんだけどなあ。
 ベテランのホラークも20点以上取る活躍を見せたが、これはもう計算外の出来事で、ホラークには今後も選手生活晩年のクベシュのようにディフェンスの要を担ってもらい、調子のいいときだけ攻撃でも大活躍するというのを期待したいところである。いや、でもこの選手が点を取るとチームが盛り上がるような気がするのは気のせいかな。

 気がかりなのは、ポストのペトロフスキーと左利きのステフリークの得点が少ないこと。ステフリークはもともと一試合に一本か二本だけ目の覚めるようなシュートを決めるというイメージの選手だけど、攻撃の組み立てでは重要な役割を果たしている。ただ、最初からシュートを打たないのが見え見えのプレーになってしまうと、組み立ても何も亡くなってしまうからなあ。
 ペトロフスキーのほうは、予選での大活躍で警戒されてあまりボールがもらえなかったというのならいいのだけど。センターのカシュパーレク、ポストのペトロフスキーという二人の大型選手がそろって活躍できれば、もう一つ上を狙えるようになるのかもしれない。実際に試合を見ていない人間が、何を言っても説得力がないのは重々承知で、そんなことを予言しておく。
2018年1月27日24時。




 次の目標はロシアとのプレーオフに勝って世界選手権に進出だ。1月28日追記。



2018年01月28日

寛和元年五月の実資〈上〉(正月廿七日)



 先月末に改元が合ったので、今月からは寛和元年である。この時期さまざまな理由で改元が行われるのだが、これは代替わりにより改元かな。来年には花山天皇が退位し一条天皇が即位する結果、寛和も永観と同じで三年で終わってしまうのである。残念なのは寛和二年の花山天皇譲位のころの『小右記』が残っていないことである。
 花山天皇が配下の義懐たちを使って行った政治を高く評価するむきもあるけれども、『小右記』の記述を読む限り、それには賛成できない。兼家の子供たちの陰謀がなくても、父の冷泉天皇、弟の三条天皇と同様に退位することになったのではないかと想像する。馬やら遊びやらがそんなに好きなら上皇になってからやってくれというのが、貴族たちの本音ではなかったろうか。

 一日は、また子供誕生後の儀式で、子供に白い産着を着せている。この産着の材料となったのは、産婦がお腹にまいていた絹だという。これについては女性たちからこうするんだと言われている。

 二日は、訃報から。冷泉天皇の皇女で、賀茂の斎院を務めた後、円融天皇の女御になっていた尊子内親王が高じている。享年二十歳。この頃の女性って、早くして亡くなる人が多いのである。
 讃岐介の藤原永頼から出産祝いの銭が届いている。詳しくは書かれていないが、五日目の夜ということで、お祝いが行なわれたようである。「所々」とあるので、実資と関係のあるあちこちの所で行なわれたのかもしれない。

 三日は、夕方室町に出かけている。左近衛府の荒手結が行なわれているが、実資は出仕したのだろうか。先月末に申請した休暇中ではあるが、五月の荒手結は騎射で馬場で行なわれるだろうから、内裏内でなければ参入してもよかったのではなかろうか。

 四日は、誕生七日目のお祝いである。今月は、実資の養父である実頼の忌月なので饗膳を設けることはできないといいながら、お祝いに訪れた人々に対して、詳細は不明だが、「半机の儲け」というのをしている。酒飲んで和歌作って、サイコロ転がしているから、祝宴ではあったのだろう。

 五日は、左近衛府の真手結であるが、欠席。子供が生まれてから始めて、頼忠、円融上皇、中宮遵子を訪問する。中宮からは、女官が準備した薬玉とありがたい言葉を頂いてる。

 六日は久しぶりに参内。右馬頭の藤原正光とともに右近衛府の真手結を見ている。自分の所属する左近衛府の真手結はサボったのだけどね。小雨と雷鳴について記されているが、この時期雨が多いような気がする。

 七日は、雨の中小野宮第に戻り、陰陽師の縣奉平に反閉という邪気を払うための歩法を行わせている。実資たちもその後ろを同じように歩いたものか。これは実資の引越しに向けて邸宅の清めを行なったと考えてよかろう。その前には、米や金銭などをまいて神仏に供えることもしているし。これまでルスを預っていた人々に褒美を出している。

 八日は参内してそのまま翌朝まで候宿する。大納言の藤原為光が諸国から上がってきた書類に天皇の勅裁を受ける官奏を執り行っているが、花山天皇の同母の姉である尊子内親王が亡くなったことを天皇に奏上する薨奏が行なわれていないのに、官奏を行なうのはどうなのだろうと疑問を呈している。天皇寵愛の女御である娘を通じてか、天皇と為光の関係が近づいている様子がうかがえる。

 九日は、早朝退出して、室町、頼忠、上皇を訪問して、中宮の許に出仕して深夜帰宅。左大臣源雅信が諸国の郡司の任命について式部省が作成した書類を天皇に奏上する儀式を執り行っている。

 十日は、まず参内して左大臣源雅信の所に出向く。夜になって生まれた子供の乳母を務めてくれる女性がやってきた。中宮職の部下である藤原経理の妻である。小野宮第の敷地にないにあると思われる東御堂に守り本尊の仏像を納め香花の儀式を行なっている。担当したのは講円師が不在だったので、平実。

 十一日は、小雨の中を競馬の行われた馬場に出向いて競馬が終わってから参内。今夜は特に雷雨が激しかったようである。弘徽殿の女御と呼ばれる藤原為光の娘が、昨日から桂芳坊で僧を招いて修法を行わせているという。女御が内裏内で修法を修めるというのは、これまで聞いたことがないから、調べなければならないというけれども、批判なのだろう。こういうのは里邸に下がってからやるべきだということなのだろうか。

 十二日は、早朝退出して帰宅。今日明日は内裏の物忌である。実資は参入していない。

 十三日は、頼忠のところと、上皇のところに出向いたあと、中宮遵子のところで中宮大夫の藤原済時とともに中宮が実資の二条第に移る際のこまごまとしたことを決めている。

 十四日、十五日は、何もなし。ともに参内しただけ。

 十六日は、前日候宿した内裏から退出して、堀河の「頬」に詣でている。「頬」って何だろう? 退出した後夕方になって上皇の許に出向く。この日、信濃国から白い雉が献上されている。代替わりしたことを寿ぐ吉兆と言えるのか。半村良の嘘部シリーズであれば、こんなのは嘘部の仕込みということになるのだろうけど。あの話で嘘部は平安時代まで存続したんだったかな。
2018年1月26日24時。







2018年01月27日

ゼマン対ドラホシュ(正月廿四日)



 本来なら昨日書くべきだったのだろうが、内容があまりにひどくて何のための討論なのかわからないようなものだったので、ハンドボールのチェコ代表が宿敵マケドニアに劇的な勝利を収めたのを優先してしまった。今日は本当ならチェコとスロベニアの試合の得点経過を追いながら、リアルタイムに文章を書いてみようかと思っていたのだが、試合開始時間を6時からだと勘違いしていて、帰ってきたときには、4開始の試合はすでに終了していた。
 勝っていれば、準決勝進出の望みもつながっていたので、嬉々としてまた誰が読むとも知れないハンドボールの記事を書いたに違いないのだけど、前半は一点リードで終了していながら、後半に同点に追いつかれて引き分けに終わっていた。試合展開を確認してみたら、前半は一時は5点差もつけていた。それがポストのペトロフスキーが20分ぐらいに、センターのステフリークが前半終了間際に、ひどい反則で一発レッドカードを食らって試合から追放されて、チェコが苦しくなったらしい。
 試合終盤に逆転されて残り1分ぐらいで同点に追いついた後、終了直前にカシュパーレクが放った逆転のシュートは、惜しくもゴールの上のバーを叩いて決まらず引き分けに終わった。うーん。この試合展開を知ると、見ることができなかったのがさらに残念に感じられる。チェコテレビが、どうせ不毛な水掛け論に終わるのが目に見えている大統領選挙の討論番組の放送を止めて、ハンドボールの試合を録画でいいから放送してくれないものかと、本気で願ってしまいそうである。

 さて、ここから本題。先々週末の大統領選挙の第一回投票で、決選投票への進出が決まった後、ゼマン大統領は、それまでの、選挙運動はしないから候補者達の討論番組にも出演しないという方針を変更した。同じく決選投票に進出したドラホシュ氏が、ゼマン大統領に対して直接議論をしたいと呼びかけたのも一因なのだろうが、世論調査の結果、予想以上の接戦になっていたのも、その決断を後押ししたのかもしれない。
 大統領側は、ドラホシュ氏に、4つのテレビ局(チェコテレビ、ノバ、プリマ、バランドフ)で討論をやろうと呼びかけたらしいが、ドラホシュ氏はそれは多すぎるので、大統領が一つ選び、ドラホシュ氏が一つ選ぶ形で、二つの局でやるのはどうだと返したらしい。その結果、プリマとチェコテレビで、一回ずつ討論番組が放送されることになった。その一回目のとして、昨日プリマで放送されたのである。ちなみにバランドフとノバにはゼマン大統領が一人で出演して、何とも言いがたい独演会が放送されたらしい。

 そのプリマでの討論会がひどかった。有権者ではないので念入りに見ていたわけではなく、ネットでハンドボールの試合の経過を追いながらうちのが見ているテレビから聞こえてくる話を聞いていたのだけど、テレビで放映する討論番組の会場が劇場で、観客を入れるというのがまず理解できない。これはもう今の欧米型の民主主義というものが、完全に日本で小泉時代に批判的に使われていた劇場型の政治になってしまっているということを物語るのだろう。
 そしてその劇場型の政治というものは、本人たちがいかに否定しようとポピュリズムの典型でしかない。それを見事に証明していたのが、観客達の存在で、ゼマン親派、ドラホシュ親派が、それぞれ応援団を送り込んでいたせいで、喚声やら拍手やらブーイングやらが多すぎて、肝心の議論が聞き取れなかったり、候補者が話し始められなかったりした。候補者の側も候補者の側で、話している途中で、ここで拍手がほしいといわんばかりに話を中断してみたり、それに観客が反応できていなかったりで、どちらの候補も熱狂的な支持者以外には失望しか与えなかったのではなかろうか。観客の反応がほしいのならサクラの一人ぐらい仕込んどけよという話である。

 それに輪をかけてひどかったのが司会者で、うちのは討論のテーマが大統領選挙にふさわしくないとお冠だったけれども、問題はそれよりも両候補者の話がかみ合わないのを放置した上で、議論に奈良らないままに時間がないと称して次のテーマに移っていくという司会者の姿勢だった。その結果として何のための討論番組だったのかわからないままに、気が付いたら番組が終わっていて、消化不良感がこの上なかった。
 テレビ局にとっては確実に視聴率が稼げたから万々歳なのだろうが、ゼマン大統領とドラホシュ氏にとっては利よりも害の方が大きかったのではなかろうか。どちらにも利になっていないという点では公平だったと言えるのだろうか。時間と労力の無駄だったという徒労感は、支持者の間にも広がっていたような気がする。

 個人的には、すでに一昨年になってしまったアメリカの大統領選挙ほどではないにしても、どちらの候補者も選びにくい選挙になったと言わざるをえない。ドラホシュ氏は、盛んにゼマン大統領は国民を分断していると批判し、自分は国民をまとめるために大統領になるのだと主張しているが、前回の大統領選挙でもある程度明らかになっていた国民の分断、簡略化すれば高学歴のエリート層とそれ以外という構図がさらに明確になったのは、ドラホシュ氏の立候補によってである。

 それはともかく、投票前日の木曜日に行われるというチェコテレビでの討論がこれよりはましであることを祈っておく。このままでは棄権者の割合が増えそうである。そうなるとどちらが有利なのだろう。よくわからん。
2018年1月25日23時。







2018年01月26日

チェコ―マケドニア(正月廿三日)



 試合を見ていないのに書くのもどうかと思わなくもないけれども、チェコが勝ったらやはり書かずにはいられない。特に今回はあまり期待してなかったのに、チェコのハンドボールを見始めて以来最高と言ってもいいぐらいの結果を出しそうなので、書く気も盛り上がってしまう。

 金曜日のドイツとの試合も悪くはなかったのだ。前半は一進一退の攻防を続けて、10−9でリードして終わったのだから。両チームのゴールキーパーをはじめディフェンスが頑張った結果が、このロースコアなのだろうが、ちょっとだけ嫌な予感がしたのも確かである。攻撃力ではおそらくドイツに劣るチェコが、ここまで攻撃を押さえ込まれると、後半ドイツの攻撃を押さえ込めなくなった場合に、逆転されるのではないと危惧したのだ。
 結果は恐れていた通り、チェコの攻撃は9点に押さえ込まれ、試合終盤にチェコの守備がドイツの攻撃を押さえ込めなくなり連続で6失点してしまい逆転負けを喫した。ニュースによると、後半に入って審判がチェコの積極的な守備に対して退場処分を科す場面が増えたのが、チェコチームが終盤に力尽きた原因だったようだ。

 この大会、どうもドイツに多少有利な判定が見られるようである。スロベニアはドイツと引き分けたのだが、ドイツが引き分けに持ち込んだ最後のペナルティースローが物議を醸している。一つはペナルティをとるほどの反則だったのかどうかという点。フリースローになるべき反則だという話も読んだ。もうひとつ問題にされているのが、審判がペナルティの判定を下したのが、試合終了のホイッスルがなった後、ビデオで確認してからだったという点である。この辺、ルールでどうなっているのかは知らないが、スロベニア側は不服だとして提訴しているようである。
 審判も、例の中東の笛や、バルカンの笛ほどに極端なことは希でも、上位チームに多少有利な笛を吹いてしまいがちなところはある。グループステージのスペインとデンマークの試合は、ネット中継で見たのだが、少なくとも前半は、判定に対してえっと思うようなシーンは全てスペイン有利の判定がなされた場面だった。デンマークとチェコの試合では審判がデンマークびいきだなんてコメントをしている人もいたなあ。だからこそ、今回、アウトサイダーとみなされていたチェコ代表の活躍には価値があるのである。

 さて、今日の相手はマケドニアである。因縁の相手と言ってもいい。チェコでの試合であればチェコ代表が大差で勝つこともある。その代わりマケドニアでの試合になると、チェコでの差以上の差をつけられて負けることになる。これがバルカンのハンドボールの現実である。今回は中立地とはいえ、マケドニアに近いクロアチア、正直チェコ代表がどんなにいい試合をして、リードを保ち続けても、最後の最後に審判の手でマケドニアに勝利がもたらされるというイメージしかもてなかった。反則を求めて大げさに倒れるマケドニアのハンドボールとはチェコは相性があまりよくなく、集中力を切らして自滅することもあったなあ。

 実際の試合は、前半は終始マケドニアにリードを許す展開が続き、最大で4点差つけられていた。それを終了間際の得点で、2点差まで縮めて、11−13で前半が終わった。チェコにとっては悪くない展開ではある。ちょっとだけデンマークに勝った試合を思い出して、期待を持ってしまった。
 後半もマケドニアの優勢は変わらず、何度か5点差まで開かれながらも、点差を詰めて、最後の最後に逆転してしまうのである。スコアは25−24、時間は60分の表示がなかなか変わらず、どうしたのかと思っていのだが、後で確認したら、試合終了後にマケドニアにペナルティスローが与えられていた。スロベニアとの試合のドイツと同じパターンだったのだろう。
 その最後の最後のペナルティスローを、ドイツ戦でも得点を決めるなど活躍したキーパーのムルクバが止めたのである。これで本当に本当の試合終了。それにしても試合終了後にビデオで確認してペナルティ、しかも同点に追いつかれるかもしれないペナルティスローをとられるってのは、監督としては胃に穴が開きそうなシチュエーションである。

 大活躍だったのが、最近守備に重点を置いて、得点は毎試合1点か2点ということの多い、巨漢のホラークで7点も決めている。それに続くのが若手のカシュパーレクで6得点。ベテランと若手がうまくかみ合った結果である。キーパーもデンマーク戦でベテランのガリアが大活躍したかと思ったら今回は若手のムルクバが凄かったし。

 次の相手は、予想に反してスペインを下したスロベニアである。勝てば準決勝進出の可能性があるのだが、現在勝ち点4でチェコと並んでいるスペイン対ドイツの試合結果次第ということになる。どちらかのチームと勝ち点6で並んだ場合には、両チームに負けているので、チェコは残念ながらグループ3位で5位決定戦にまわることになる。
 現在勝ち点6のデンマークがマケドニアに負けた場合には、勝ち点6で三つ巴になるのだが、スペインが勝ってもドイツが勝っても、当該チームの対戦の得失点差でチェコが3位になる点では変わらないようである。だから、スペイン対ドイツの試合は引き分けというのがチェコには一番いい結果なのである。その前にまず明日の第一試合でチェコが勝たなければならないのだけどね。

 明日も早めに仕事を切り上げて帰ってくるかな。チェコテレビ放送してくれないかなあ。
2018年1月23日24時。







2018年01月25日

二格の使い方5(正月廿二日)



 予定の倍を越えてしまった二格の使い方だけれども、今日でお仕舞いである。前回も書いたけれども、二格をとる動詞がいくつかあるのである。そのうちの重要な、いやぱっとその場で思い出せるものを紹介する。日本語の「の」には全く対応しないので慣れるまでは大変である。

 日本語だと、形容詞で表現するけれども、チェコ語では動詞を使うというものがいくつかあるが、そのうち
のひとつが「怖い」である。三人称では、動詞の「怖がる」を使うこともあるけれども、チェコ語では、「bát se」である。その一人称単数は「bojím se」で、過去のL分詞は「bál se」となる。この動詞が、なぜか怖がる対象を示すのに二格をとるのである。
  Bojím se psa. (犬が怖い)
  Bojí se psa.(あの人は犬を怖がっている)

 二つ目は、「聞く」である。「音楽を聞く」の「聞く」ではなく、「質問する」という意味の「zeptat se」が、質問する相手を二格で表現する。男性名詞場合は、聞く相手は必ず活動体になるので、二格と四格は同じになるが、日本語で「誰々に質問する」と助詞「に」を使うところから、三格を使ってしまいがちなので注意しなければならない。
  Zeptal jsem se učitele/učitelky, odkud je.
  先生にどこの出身か聞いた。

 三つ目は「参加する」という意味の「zúčastnit se」である。これも日本語だと助詞「に」を取るので三格だと思いがちだけれども、二格をとるのである。念のために例文を上げておこうか。
  Nemohl jsem se zúčastnit olomouckého maratonu.
  オロモウツのマラソンに参加できなかった。(理由は省略)

 以上三つとも「se」を取るのだが、二格が必要な動詞に共通の特徴であるというには例が少なすぎる。ただチェコ語を勉強するうえで大切なのは、動詞が何格をとるかを全部覚えるのではなく、日本語の感覚とずれがある部分をしっかり覚えることである。
 日本語では「誰々を助ける」という「助ける/手伝う」に当たる動詞「pomoct」は、チェコ語では四格ではなく、三格を取るなんてのは、覚えなければどうしようもない。反対に「誰々にあげる」という場合の「dát」は、チェコ語でも三格なので頑張って覚えなくても自然に使えるようになる。だから、日本語の感覚で、一格=が、二格=の(ただし後ろから)、三格=に、四格=を、五格=よ、六格=×、七格=で、と考えて使えばそれほど間違いは多くならないはずである。間違いだと言われたらそれを重点的に覚えていけばいい。


 話は変わるけれども、ふどばさんのコメントの「ドイツ語やっていると格を数字で表すのが便利ですが後々日本語でない教材を使うことを考えると 7や造でなく最初からInstrumental、NGDAVLIで覚えればよかったと後悔しています」というのは、どうなんだろう。こっちに来てから頑張って覚えたけどあんまり役に立った記憶はない。
 日本語の教科書で、ある程度格変化や、前置詞や動詞の取る格を覚えておけば、最初に見たときには「ダティフって何だっけ」と思うかもしれないけれども、周辺の変化の形や前置詞を見ていけば、「何だ三格なのか」と理解できるはずだし、「ダティフ」だのなんだのは、普通のチェコ人、言語学を専攻しているわけでもないチェコ人に質問をするときに使えないのである。チェコの人は、チェコ語で「ブルブニー・パート」なんて言うか、「co」「kdo」の変化形を使うことが多いので、上の「zeptat se」だと、「zeptat se koho」と口の中で言ったあとしばらく、二格だっけ四格だっけと悩んだりすることもある。

 日本人でも、日本語について質問されたときに、中学高校で勉強した国語文法の終止形だの五段動詞だのは覚えていて何とか使えても、外国人向けの日本語の教科書で使われている日本語の文法用語なんか知らないなんてことは多いはずである。それと同じで、チェコ人が高校までのチェコ語の勉強で使うのはラテン語起源の格の名前ではなく、「co」「kdo」の格変化、もしくは順番を表す数詞を使った表現なのだろう。
 以前も、確かサマースクールのことを書いたときに、触れたと思うけれども、日本の教科書だとあんまり重視されていない感のある「co」「kdo」の格変化は絶対に覚えておいた方がいい。そして、チェコ人に「zeptat se koho na co」でいいんだっけ? なんて質問できると素晴らしい。「co」「kdo」の代わりに、「ně」を付けて「něco」「někdo」にしてもいいと思うけど。

 とりあえず念のために格変化を示しておく。

1格 co   kdo
2格 čeho  koho
3格 čemu  komu
4格 co    koho
5格 co   kdo
6格 čem  kom
7格 čím  kým

 「co」は不活動体で一格と四格が同じ、「kdo」は活動体で二格と四格が同じなのである。五格は入れたけど使う機会はあるのかな。大声で「ツォ」なんて叫ぶのが呼格ってことになるのかね。


 ふどばさんが「7格は便利なものでジョーカー扱いにしている」という七格については、また機会を改めることにする。二格が予想外に長引いて、ちょっと疲れてしまった。二格を取る前置詞で、「podle(によって/よれば/したがって)」「místo(の代わりに)」なんかを取り上げるのを忘れたのもそのせいである。
2018年1月23日10時。







2018年01月24日

二格の使い方4(正月廿一日)



 今日はチェコ語の二格の続きである。前回は方向を表す前置詞を説明したが、今回は場所を表す前置詞から始めよう。側、隣などの場所を表す前置詞も、二格を取る。「u(ところに/そばに)」「vedle(となりに)」「blízko(近くに)」などがあって、後に来る動詞によっては、助詞は「で」にしたほうがいい場合もあるだろう。

 すでに「誰々のうちで/に」というのを現すためには、「うちで/に」を表す「doma」に、「u+人の二格」を組み合わせて使うという話は、チェコ語の場所の表しかたの厄介さを嘆いた記事で紹介したとはずだが、「doma」なしで、「u+人の二格」だけで使えば、「誰それのところで/に」という意味になる。「u nás」は、「私たちのところでは」という意味だが、「我が国では」と訳したくなるような使い方もする。その場合は、「u nás v České republice」とか国名と一緒に使うことも多いか。
 それから、同じ名前の町や村が複数ある時に、識別のために近くにある大きな町の名前を後に「u+二格」でつけることがあるのだ。オロモウツの近くだと、プシェロフの近くと、プロスチェヨフの近くにそれぞれブロデクという小さな町があるので、「Brodek u Přerova」「Brodek u Prostějova」と区別するのだ。

 この手の区別のために後ろにつけるものとしては、ほかにも、地方名を使った「na Moravě」「na Hané」「v Čechách」などがあるし、近くの川の名前を使って、「nad Vltavou」「nad Moravou」なんてやりかたもある。チェコの地名ではないけれども、ドイツのケルンは、チェコ語では「Kolín」で、プラハ近郊のトヨタの工場ができたことで日本でも多少知られるようになった「Kolín」と区別するために「nad Rýnem」をつけるのである。チェコのコリーンには何もつける必要はないが、あえてつけるとすれば、「u Prahy」か「nad Labem」かな。
 「vedle」と「blízko」はもともとは副詞なので、後に名詞を二格でつけることなく単独で使うこともできる。特に「vedle」は、単独で使われていると、「ずれている/はずれている」と訳したくなることも多い。「となりにいる」とか、「隣で仕事している」なんてことも言えるんだけどね。


 以前ことわざを紹介したときの「bez práce, nejsou koláče」に出てくる「bez」も二格をとる前置詞である。「〜なしで」とか「〜抜きに」という意味だが、個人的に一番よく使うのは、喫茶店でコーヒーを注文して、「s mlékem?」と聞かれ、「bez mléka」と答えるときである。もちろん、「bez cukru」でもあるんだけど、チェコ風トルココーヒー以外は、ブラックで飲むからさ。
 前置詞扱いになるのか自身はないけれども、「bez mála」で「ほとんど」という意味で使うこともある。「bez mála 20」というと、あとちょっとで二十、二十にちょっと足りないという意味になるはずである。ただし「bezmála」で一語化しているかもしれない。

 もう一つ気を付けたほうがいいのは、名詞の「bez」も存在していることで、これはニワトコの木を指す。ヨーロッパのものなのでセイヨウニワトコになるのかな。白い小さな花がいくつも固まって咲くのが特徴で、実の色によって、「černý bez」「červený bez」と呼び分けられている。小さな粒粒の実は食べられるはず。レモネードとかお茶も、この「bez」から作られているはずなので、目にする機会は少なくない。


 「〜以外は」を表すのもチェコ語では前置詞を使う。その「kromě」は本来「クロムニェ」と読むはずなのだけど、チェコ人の中には発音をはしょって、「クロミェ」とか「クロム」とかで済ませてしまう人がいる。「mě」の正しい発音がわかっていない人が結構いるのには、こちらに来て何度か驚かされたことがある。
 この「kromě」の後に、数を表す言葉と名詞をともに二格で使うという例を挙げておこう。「kromě několika výjimek(いくつかの例外を除いて)」の「několik」は二格、三格、六格、七格では「několika」になる数詞のような副詞のような言葉である。「いくつ」を表す「kolik」に「ně」をつけて「いくつか」にしたものだと説明したほうがわかりやすいかな。チェコ語と日本語が対応するもののひとつに、疑問詞にチェコ語で語頭に「ně」をつけると、日本語では語末に「か」をつけるというのがあるのである。「něco」「někdo」とかいくつも例を上げることができる。

 それから「kromě」が便利なのは、「ten」の二格の「toho」をつけて「それ以外は」という意味で使えるのと、さらに「že」使って、それの内容を表現することができることだ。
  Já umím česky. Kromě toho jsem normální Japonec.
  チェコ語ができます。それ以外は、普通の日本人です。
  Kromě toho, že umím česky, jsem normální Japonec.
  チェコ語ができる以外は、普通の日本人です。

 なんか微妙に変な文のような気もするけれども、それが文法的な問題なのか、内容的な問題なのかがよくわからない。


 もう一つ覚えておいたほうがいい二格をとる前置詞は「během」であろうか。普通は後に名詞を二格でつけて、時間的に「〜の間」という意味で使われるのだが、こちらもちょっと複雑な文を作るのに使いやすい前置詞である。「〜している間に」ってのは、日本語ではよく使うしね。
  Během toho, co jsem pracoval doma, začalo sněžit.
  うちで仕事をしている間に雪が降りだした。

 基本は、「kromě」のときと同じで、後に「ten」の二格の「toho」をつけること。これだけで前の文を受けて単独で「その間」という意味でも使えるし、後ろに説明の文をつけることもできる。ただし、「během」の場合には、「co」もしくは「kdy」を使って何をしている間なのかを示すことになる。

 チェコ語のこの手の一見ややこしい表現というのは、日本語風に工夫して使ってみると意外と問題なく使えることがあるし、だめもとであれこれ試してみることをお勧めする。うまく行くと楽しいものである。もう一つ二格を使うものとして、特殊な動詞を上げるつもりだったのだけど、また次回である。
2018年1月21日23時。








2018年01月23日

永観三年四月の実資〈下〉(正月廿日)



 今月は前半の記事が薄いので二分割にした。途中から寛和元年である。

 廿日はまず、呼び出されて頼忠のもとへ。昨日の夕方、蔵人所の出納が使者としてやってきて、賀茂の斎院が使用する牛を貸すようにという要請を伝えたらしい。現在牛は二頭しかおらず、一頭は治療中で、もう一頭は小さくて使えそうないないという。頼忠としては、もし本当に必要なのであれば、事前に連絡があるはずだから、前もって牛を確保して飼っておいたのにと、要請の突然さに納得できないようである。
 そういうことを、返事として奏上したのに何も言われないので、おまえちょっと確認して来いと言われた実資が、内裏に出向いて蔵人藤原挙直を通じて事情を奏上したところ、藤原元命が、昨日、第一の人の牛を斎院の牛車に使うのが例で、それができない場合には、次に高い地位の公卿の牛を使うと言っていたから、そちらに連絡したんだという返事が返ってきている。なんかいい加減な答えに聞こえてしまうのは、天皇とその近臣たちに対する偏見だろうか。

 廿一日は、参内すると、天皇が清涼殿で馬を見る儀式を行っている。今回は馬に乗る女官に与える褒美としての馬である。左右の馬寮から三頭ずつ出されたようだが、右馬寮の馬が選ばれている。実際に走らせたのかどうかはわからない。行間の補注に「女の騎馬を覧ずるの後、左右の馬寮の十列及び二坊の御馬等を覧ず、臨時の仰事なり」とあるから、女官が馬を走らせるのを見た後に、左右馬寮に競馬をさせるなどしたようだ。これも臨時に思い付きで行われたことのようである。
 賀茂祭の前々日であるからか、天皇の身辺の警備などを厳重にする警固が始まっている。一般には前日から行われることが多かったようである。実資が特に批判していないということは、間違いではないということであろう。

 廿二日は、誰から聞いたとも書かれない伝聞で、摂津国に逃げていたはずの正月の傷害犯左兵衛尉藤原斉明が反対方向の近江国で惟文王によって弓で射殺され首を取られたことが記される。素直につかまっておけば、死刑の判決が出ても流刑になっていた平安時代中期だけれども、激しく抵抗すると殺されることになるのである。

 廿三日は、賀茂祭である。実資も頼忠のところに寄った後、出かけているが、憚るところがあるとして境内には入っていない。妻のの出産のことであろうか。未の時というから午後早い時期に帰還しているのは、激しい雨が降ったせいだろうか。
 実資自身は参内していないので伝聞だが、祭使に選ばれた左大臣源雅信の息子の時中が突然霍乱を起こして祭使を務められなくなったというので、平親信が代役となっている。他にも内蔵寮からの祭使も代理が務めているし、以前実資が代理ばかりでどうしちまったんだと嘆いた状況はあまり変わっていない。ただし内蔵寮祭使の右少将藤原信輔の件は事前にわかっていたようである。理由は忌日なので、最初から引き受けるなよという話である。実資は祭使のところに摺袴を送っているが、送り先が誰なのかはよくわからない。

 廿四日は、陸奥守の藤原為長から馬が献上されている、ただしそのことを記した文書には、四頭献上すると書かれていた。陸奥国から都に上る途中の上野国で強盗に遭い二頭は射殺され、一頭は奪われたのだという。
 馬好きの花山天皇は、今日すぐにその馬を見ると言い出したけれども、実資が、警固を行っている間に天皇が馬をみるなんてことは前例がないので、今日見るなら警固の体制を解いてからにしたらどうだと助言をしている。それに対して天皇は、それでも見ると言って強行している。他にも左右の馬寮の馬も見たようである。献上された馬は、天皇の目にいれた後左馬寮のものになっている。
 内裏を退出して、上皇の許に出向くと、平季明が献上してきた銭のうち五十貫を亡くなった典侍頼子の家に持っていくよう命じられている。

 廿五日はまた二日分の休暇願いを出している。休みとは言っても参内しないだけで、頼忠や円融上皇にはあれこれ使われているのだけど。軽い穢れのための物忌で休むときには、参内はしない方がいいようだが、外出して頼忠のところに行くするのは問題ないようである。軽い重いの区別とか境目とかが、当時の人ならぬ我々にはわからないのだ。当時の人でもわかっていなかったり、無視したりしていた人もいそうではある。
 とまれ、頼忠のところであれこれ話すついでに、昨日の陸奥国から献上された馬の話になって、頼忠は、延喜・天暦、つまり醍醐天皇や村上天皇の時代には、陸奥の国司の献上してきた馬は留めることはなかったと語っている。同席していたらしい式部丞の藤原為時が、天皇の意向を読んでそういうことになったと説明し。頼忠は天皇の意向なら仕方がないとなんだか諦め気味である。
 その後、上皇の許に出向いて候宿するのだが、内裏に準じる場所だからか、穢れが丙になったから参入したんだといいわけめいたことを記す。甲の穢れが一番重く、丙が一番軽いと考えていいのかな。

 廿六日は、早朝退出して「堀河に詣づ」とあるのが問題である。『小右記』のこの辺りで「詣づ」が使われているのは圧倒的に「室町に詣づ」が多く、「参る」ではないところに意図があるはずなのだが、よくわからない。五月の記事に堀河に行って小児を見るとかいうのがあったことを考えると、堀河の辺りにも室町と同じで実資の家族、親類にあたるような人が住んでいたのかもしれない。

 廿七日は、参内すると内裏で怪異が起こっている。宜秋門に置かれていた右衛門府の官人の詰所である陣の前の桜の木に水鳥が群がっていたというのである。陰陽師に占わせたところ、「盗・兵・火事・疫病」というろくでもない結果が出ている。そのせいではないだろうけれども本日改元である。永観という年号も短命で、わずか二年ほどで終わり、寛和が始まったのである。代替わりの改元と考えていいのかな。いずれにしても、占いの結果は不吉だけどね。
 伝聞で、大納言の藤原為光と、三位中将の藤原義懐が右近の馬場で競馬を行ったという話が記される。為光はともかく。義懐が改元の日なのにそんなことでいいのかと思わなくもないが、実資の書きぶりもあっさりしたもので、改元の手続き自体はそれほど重要ではなかったのかもしれない。

 廿八日は、早朝内裏を退出しているが、女児が生まれたのは寅の時で、お産には間に合わなかった。急いで向かったけれどももう終わっていたという。生まれそうだという知らせが内裏に届いたのだろうか。お産が行なわれたのは右近少将信輔の家、自邸では出産しないのである。この頃の実資は妻の父の源惟正から伝領したとされる二条第だから、実家であるはずなんだけどね。源遠資の妻とか、左衛門尉の藤原為長の妻とかが手伝いに登場しているが、出産というのは女性が活躍する場なのである。生まれた赤ちゃんの産湯に使われたのは鴨川の水だという。
 この日左大臣が堂を供養したという話も書かれるのだが、これは大日本古記録の頭注によれば仁和寺の西の堂だと言う。それから中宮の遵子から連絡が来ている。お産のことが重要で、この二件に関しては細かいことは記されていない。

 廿九日はまず六日分の休暇申請である。これはお産のことによるのだろうか。頼忠からは、昨日は仏事の初めだったのでお祝いの使者は送らなかったという使者が来ている。「穢気を避けんが為に」という辺り、お産は穢れをもたらすものと考えられていたのだろう。
 この日は村上天皇の中宮で冷泉天皇と円融天皇の生母である藤原安子の忌日なのだが、藤原義懐が官人たちを引き連れて賀茂社に参拝したという。国忌で、つまり仏事が行なわれていて、廃務になっている日に、神社に出かけるというのはどんなものかねというのが実資の感想である。国忌の儀式自体は寺で行われてることが多く必ずしも公卿が参列するというものではないのだけど。

 卅日には、暇を見つけて実頼から伝領した御子小野宮の邸宅に出向いている。中宮遵子の退出先として二条第を明け渡すのでその準備を始めたということであろう。
 藤原義懐からも出産のお祝いの使者が来ている。その後、三日目の夜ということで「産婦の前」の産養いの祝いが行なわれている。奇数日に行なうようで、このあと、五日目、七日目にも繰り返される。この祝いは、男方と女方に分かれて宴の食事などを準備するようである。
2018年1月20日23時。







2018年01月22日

永観三年四月の実資〈上〉(正月十九日)



 処理したものがたまってきたので、チェコ語はちょっとお休み。

 一日は雨の中参内するが、公卿が一人も出てこない。そのことを外記が天皇に奏上して、改めて出てくるように使者を送ったところ、中納言の源保光だけが出てきた。それで天皇も紫宸殿に出御しないことになった。四月一日なので、この日は、旬政大事な政務のはずなのである。天皇の出御がない場合の平座という形式で儀式が行われている。

 二日は雨の中内裏を出て帰宅、夕方に室町に出向いている。この室町も、大日本古記録の頭注にも誰という指摘がないし、ちょっと謎なのだけど、室町尼君と呼ばれるおそらくは実資の親戚筋に当たる人が住んでいたのだろう。実資の子供が預けられていたような節もある。

 三日は、花山天皇の生母藤原懐子の忌日で国忌となっている。懐子は、摂政伊尹の娘で冷泉天皇の女御となっているが、父伊尹に続いて花山天皇の即位前に没している。中納言の藤原顕光以下数人の公卿が参内しているが、大臣、大納言は欠席。このとき女御たちが御膳を提供するという先例を天皇の仰せで止めている。
 円融天皇の代に伊勢の斎宮を務めた規子内親王が、天皇の代替わりによる斎宮の交代で平安京に戻ってきたのである。代わりに伊勢に下向する予定だったのは永観二年十一月に選定された済子女王である。済子女王は、花山天皇の退位とともに伊勢に下向することなく任を解かれている。

 四日は、実の兄である修理大夫の藤原懐遠がやってきて言うには、斎宮を迎えるために使わされた勅使の菅原資忠が、山科から黒牛一頭を送ってきたという。伝聞で斎宮が「河陽の館」に入ったというのだが、これは普通は平安京の西山崎の地に営まれた離宮をさすので、伊勢から山科を通る経路で京に入ったと考えると地理的にそぐわない。「河陽」を「かや」と読んで平安京内の高陽院と考えておく。

 五日は、頼忠と円融上皇のところを経て、中宮遵子のところに候じた以外は特に何もなし。

 六日も、参内しただけである。珍しく平穏な日が二日続いている。

 七日は、恐らく穢れのために三日分の休暇願いを出した上で、円融上皇に呼ばれて出向く。穢れは穢れでも、軽い丙の穢れだから問題ないらしい。

 八日は。お釈迦様の誕生日を祝う潅仏会が行なわれるはずなのだが、杜本神社に祭使を遣わすために中止。仏事と神事を同日に行わないということなのだろう。中宮の遵子のところでも同様に中止。花山天皇ではなく、前代の円融天皇の中宮なのだが、中宮という立場にある以上は天皇と同じようにするということのようだ。ただし、実資が延長四年の日記で確認すると、天皇の仰せで祭使の発遣を一日遅らせて、潅仏会を行なったようである。退位してしがらみの取れた円融上皇のところではもちろん潅仏会は実施されている。実資は物忌で参入していないが、布施として銭を送っている。

 九日は、中宮職の少進正信である藤原正信が来て、円融上皇が穢れに触れたのではないかという情報を寄せている。この穢れは先月十六日に亡くなったことが記される典侍頼子が原因となったものだという。そのため十日に予定されていた平野神社への上皇の祭使の派遣は中止された。占いで中止とでたらしい。それで中宮の使いはどうしましょうということなのだが、実資はとりあえず頼忠の意向を伺うべきだと答えている。頼忠からは明日参入して決めるという返事が帰ってきている。

 十日はまず上皇のところに出向いて、穢れについて詳しい話を聞いている。穢れが院に入ったというのは根拠がないようなのだが、占いでは不浄とでたので、使いを立てなかったという。それを実資は上皇に命じられて天応に奏上している。亡くなった典侍頼子の家族が穢れは院に入っていないと言っているから、実資も穢れていないものとして参内したのである。中宮は結局上皇と同じように祭使を立てていないが、これは頼忠が決めたところだという。
 内裏からの祭使を務めたのは蔵人の藤原惟成。花山天皇の乳母子で重用されたというのだけど、儀式などの際には実資に言わせると結構頓珍漢なことをやらかしているようである。ここは祭使として出かけるだけだか特に問題は起こしていないけどさ。

 十一日は参内して候宿。夕立なのか雷がなり強風が吹いている。検非違使として摂津国に出向いていた源忠良以下の衛門府の官人が、帰郷しその成果を報告している。この時点では追捕された藤原斉明をとらえることはできていないが、その配下の海賊を捕らえ怪我をしたものもいるということで、褒美として絹をもらっている。

 十二日は早朝内裏を出て、夕方室町へ。十三日は参内して候宿。四月は穏やかな月である。

 十四日は早朝内裏を退出して、上皇の元へ。午前中から上皇の体調が悪化し、占いや禊などが行われている。夜になって治まったのかな。実資以外にも左大臣以下の公卿が、お見舞いにか参入している。

 十五日は、二日の休みを願う文書を提出し、ちょっとだけ上皇の許に立ち寄って、頼忠のもとへ。夕方再度上皇の許を訪れてすぐに退出している。上皇の病気は治まっていると見ておこう。

 十六日は、休みなので何もなし。雨が降ったことだけが記される。

 十七日は、時折ぱらつく雨の中参内。天皇が清涼殿で馬を見ている。馬寮の馬はいいのだが、「二坊」の馬というのがよくわからない。夕方退出した実資は、円融上皇の許に出向いて、中宮のところに候じている。ただこの時点で中宮が、上皇と邸宅を同じくしていたかどうかは不明。中宮のところには父の頼忠も参入している。

 十八日は、またまた物忌のために三日の休暇願を出す。今年は賀茂祭がまだ行われていないので、毎月恒例の清水寺参拝は中止である。神事の準備期間中に仏寺に出かけるのはよくないということだろうか。
 それとは別に清水寺で、七日間の読経の儀式を行わせているが、これは陰陽師の賀茂光栄に祓をさせたのと同様、実資の夫人のお産が遅れているからであろう。

 十九日には、また陰陽師に祓をさせているが、今度は安倍晴明である。そろそろ産み月のはずなのにその気配もないということで心配している。
2018年1月19日24時。







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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]